「待ってくれ。本気で言って……」
リセの提案に戸惑いながら問い返そうとした時、リセを含めた周りの空間が突如ゆがんだ。
「なっ?」
「どうしたの、テオ?」
ぐにゃりと歪んだリセの顔が僕を覗き込む。彼女は異変を関知していない。僕だけに起きてる現象? そう思った次の瞬間に世界は七色にスパークし、直後漆黒の闇が世界のすべてを包んだ。そして視線の先に白い文字列が浮かび上がる。
『ERROR-332 緊急ログアウトします』
332番のエラーコードは、ReMageのシステムに何らかの異常が発生し、ユーザーを現実世界に退避させるときに表示されるものだ。頭を包み込む薄い膜が、パチンと音を立てて弾けるような感覚。LDRからログアウトするときの特有のこの感じが、僕は好きじゃなかった。現実に戻されるという不愉快な状況に、必ずセットで着いてくる感覚だ。好きになれるはずない。
「ったく何だよ……」
僕は毒づくと、ヘッドギアを外してベッドから上半身を起こした。携帯端末の画面を確認する。ReMageの運営から、緊急メンテのお知らせが配信されている。しばらくは再アクセスは無理そうだ。そしてもう1件メッセージ。仮想空間から転送されてきたリセの伝言だ。
『通信トラブル? 復旧したらさっきの話の続きね!』
可愛らしい絵文字でデコレーションされまくった文字列。どうやらリセは、仮想の世界から追放されずに済んだらしい。
「それにしても大変なことになったぞ……」
もちろん緊急メンテの話じゃない。雨夜星リセが、辞める……? 本気なら、仮想世界ReMageをゆるがす大事件だ。途方も無い数の人々が悲しむし、途方も無い額のお金が失われる。今や雨夜星リセは、中の人本人であっても勝手に終わらせる事ができるような存在ではない。
「ま、アイツの気まぐれだろ、きっと。うん……そうに、決まってる」
自分に言い聞かせるために、口に出す。もう長いこと、こっちの世界では喋っていない。だから少し舌が重たく、もつれるような感覚がある。僕はそれだけ長く仮想世界Remageに居て、その時間のほとんど全てを雨夜星リセのサポートに捧げてきた。
ReMageは、いわゆる第7世代メタバースの代表的アプリだ。2020年代から普及し始めた、インターネット上のもう一つの世界・メタバースは、LDRの普及によって一つの完成を見た。
それは人の思考と感覚をそのまま仮想世界に反映させる技術だ。ゴーグル型ディスプレイや体感スーツと言ったデバイスを使って、人の五感に擬似的な体験をさせる、それまでのVRとは異なり、LDRは脳に直接刺激を与える。脳の視覚情報を司る部位に信号を流して、架空の世界の景色や匂い、風や気温を再現するのだ。そしてその世界を歩きたいと考えれば、脳が発信する電気信号を読み取って仮想世界のアバターの足を動かすことができる。さながら脳が半覚醒状態のときに見る、自分の意志で体を動かせる夢、明晰夢に似た体験であることから、この名が付けられた。
脳機能の解析が進むことによって登場した、夢のデバイスに全世界の人々が夢中になった。今や地球人口の40%がReMageのユーザーだと言われる。そんな全く新しい仮想世界でも、シンガーやアーティストと呼ばれる存在は不動の人気を誇るコンテンツだ。いつの時代も、人は美少女やイケメンが表情豊かに話したり歌ったり踊ったりするのを見るのが、大好きなのだ。
そして現在、そのトップに立っているのが、雨夜星リセだった。
そのリセが、辞めると言い出した。いつもの気まぐれだ、すぐに撤回する。あるいは僕をからかってるだけだろう。何度も自分に言い聞かせる。けど繰り返せば繰り返すほど、それが気まぐれでも冗談でもないと気がしてくる。いくら気まぐれ屋でも、雨夜星リセはなんの理由もなしに辞めるなんていうヤツじゃなかった。
さて、システム復旧までどうするか?
僕は現実世界のリセとは面識がない。彼女と話すには、ReMageのメンテが終わるのを待たなくてはならない。
「腹、減ったな」
僕は腹を擦りながらつぶやいた。そういえば20時間近くLDRと繋がりっぱなしで、何も食べていない。LDR最大の欠点は、栄養補給機能がないことだ。脳の味覚中枢と満腹中枢を刺激して、たたみ一畳分のシャトーブリアンステーキを食べたり、はちみつと生クリームのプールに溺れることはできるけど、胃袋の中にそれらが入るわけじゃない。生きるためには定期的に現実世界へと戻り食事をとる必要がある。そしてこういうときに限って、買い置きのカップ麺や冷凍食品を切らしていた。デリバリーを頼もうとも考えたけど、ふとある事を思い出した。
「そうだ、コンビニ……」
平成の終わり頃に建てられたという6畳ワンルームの安アパートから歩いて五分のところにエヴリストアというコンビニがある。アパートとその店を結ぶ道が、僕の現実世界の全てだ。
超人気アーティストとその専属プロデューサーである僕たちは、ReMageの中で一生豪遊しても使い切れないだけの資産を持っている。スタジオがある場所はReMageでもっとも地価が高いと言われる地区だし。その他にもMV撮影用の森や海、惑星などを持っている。まさしくリセと僕の王国だ。
けどその資産を現実世界の為に使おうとは考えていなかった。僕にとってこちら側の世界とは、栄養摂取をするためだけの場所でしかない。本当は1秒だっていたくない。過去の事は蒸し返したくないけど、こっちの世界には碌な記憶がない。高校までは家も学校も生き地獄だったし、卒業してからはずっとあの部屋に閉じこもって生活している。いわゆるLDR廃人、社会不適合者ってやつだ。
噂では、LDRギアに水分と栄養剤の点滴がつき、仮想世界での食事に合わせてそれらを適量投与してくれる機材が存在するらしい。それは、電気信号による筋肉の衰えを防止する機能も付いており、仮想世界への完全な移住を可能にするものだという。もしそれが商品化されたら、どれだけ高額でも購入しようと僕はかなり前から決意していた。
『いらっしゃいませ! エヴリストア特別広報部長の雨夜星リセです!』
コンビニの自動ドアをくぐった時、快活な、そして僕がよく知っている声が出迎えてくれた。店内にはそこかしこに、このコンビニの制服を着たリセのPOPが置かれている。お菓子コーナーや惣菜コーナーに目を向ければ、雨夜星リセとの限定コラボ商品が並べられている。
大手コンビニチェーンのエヴリストアは一昨日から、雨夜星リセとのコラボキャンペーンを開催しているのだ。せっかくなので期間中に一回は覗いておこうとは前々から考えていた。
『雨夜星リセ、エヴリストア占領作戦開催中! これから今しか食べられない限定メニューの紹介をしまーす♪』
僕のように人生の全てを仮想世界で暮らしたいと思っている人はまだまだ少数派だ。多くの人々は仮想と現実に均等に、あるいは現実に比重を大きくしたバランスで、2つの世界を生きている。そんな現実を生きる人達にリセの魅力を知ってもらうためのコラボ企画だった。
こういうのが得意な広告代理店からの誘いで、僕は乗り気じゃなかったけども、リセは大はしゃぎだった。
「リアル世界のコンビニなんて行くことないから、ちょっと憧れだったんだよね。そこがアタシの顔で埋めつくされるなんて最高!」
変なこと言うヤツだと思った。コンビニなんて、僕にとってはほぼ唯一の外出先だし、平均的な日本人でも一日一回は行くような所だろうに。お互いに現実世界のことを詮索しない、というのが僕とリセの間の暗黙のルールとなっていたけど、この時は少しだけ彼女の境遇に興味が湧いた。彼女の話を聞いて、大昔のラブコメ漫画に出てくる、ハンバーガーを食べたことのない箱入りお嬢様を連想した。実際、この歌姫の正体は、かなり特殊な育ちの人物なのかもしれない。
そんなわけで、リセはこのコラボに並々ならぬ情熱をかけていた。コラボ商品は全て彼女が発案し、ReMage内のレストランを借り切って、味を再現したものを何度も試食していた。POPのデザインや店内モニターで流す映像のアイデアも彼女が出し、店内での配置も彼女の指示で行われた。その働きぶりは、正真正銘「エヴリストア特別広報部長」だった。名前だけ貸して、細かいことは相手企業に丸投げするようなアーティストやアイドルも多いけど、リセはこの時期エヴリストア社員顔負けの仕事をこなしていたのだ。
『あ、そのサンドイッチ美味しいよ! 頑張って作ったからね!』
『ほほう。それを選ぶとはお目が高いねー。あとで感想聞かせてね♪』
『ええー! 一度取ったのに戻しちゃうの? ……もう、まぁいいか。すでに色々買ってくれてるみたいだし、また今度、ね?』
コラボ商品を手に取ったり、棚に戻したりするたびに、携帯端末からリセの言葉が再生される。今回のコラボの目玉で、商品のパッケージに仕込まれたチップと客の持っている携帯端末をリンクさせているのだ。これが「リセと一緒に買い物してる気分になれる」とファンの間では好評だった。
「あの、すみません」
背後から声をかけられたのは、僕が会計を済ませ、商品の入った袋を手に店を出ようとした時だった。最初、それは僕に向かってかけられた言葉だとは思わなかった。この街に顔見知りなんかいない。このコンビニでバイトしている店員なら顔に見覚えがあるかもしれないけど、会計後にわざわざ声をかけるようなことはしないだろう。けど……
「テオさん、ですよね? 雨夜星リセのプロデューサーの」
瞬間的に身体がこわばり、固まった。ReMage内で遊べるアクションゲームで敵ロボットの冷凍光線や巨大クラゲの麻痺触手を食らった時のような思いだった。なんで? 何でこっち側の世界にその名前で呼ぶ奴がいるんだ?
僕は恐る恐る、振り返った。長身の男が僕を見下ろしている。歳は僕より少し上くらいか? 素人目にもオーダーメイドの高級品とわかるスーツをかっちりと着こなした、ビジネスマン風の男だった。
「いや、失礼。こちらでは寺島興人さんとお呼びすべきでしたか?」
男がそう言った瞬間、僕は店を飛び出した。レジ袋からリセの顔がプリントされた菓子パンがこぼれ落ちた。けど構ってる場合じゃない。気力を振り絞って手足を動かす。何だあいつは? 仮想世界での名前「テオ」だけでなく、僕の本名を知っていた。一体どうやって知ったのか? 何で声をかけてきたのか? 疑問符が頭の中を乱舞する。
「はあっはあっ……げふっ!」
数年ぶりの全力疾走は僕の身体全体をきしませた。心肺機能は即座に限界に達し、肺は酸素供給を拒否する。胃の奥からせり上がる酸味を帯びた不快感。重力の反動が靴底にぶつかり、痛みとなって脚を襲う。
アパートまでは数百メートル程度だけど、まっすぐ帰るわけにはいかない。あのスーツ男が跡を追ってきたら、部屋の場所を知られてしまう。わざと角を曲がり、路地を抜ける。近所ではあるけど、あのコンビニとの往復以外で外を歩かないから、ここが何処かもわからない。それでも、とうに限界を超えた手足を動かす。小さな児童公園があった。誰も遊んでいない、滑り台とアスレチックが一体となったような遊具が目に飛び込む。僕はその影に突っ伏した。
「これだから、はぁっはぁっ……現実、は……嫌なんだ」
息を整えながら毒づく。LDRならばこんな目には遭わない。思考が具現化するあの世界なら、AIが求める情報をしっかりとイメージできればそれが現実となる。100メートル5秒台の俊足で逃げることも、空へと飛翔して撹乱することも……いや魔法や剣、あるいはレーザーライフルや大型ロボットを操ってあのスーツ男を撃退することだって可能だ。なのに現実ではどうだ? 身体が悲鳴をあげるまで逃げ続け、こうして無様に物陰に隠れるしかできない。早くあの世界に帰りたい。
数分間、深呼吸を続けた後に僕は恐る恐る遊具から顔を出した。人影は無い。携帯端末の地図アプリを起動させ、現在地を確認する。どこをどう走ったのか全く覚えてないけど、現在地はアパートから歩いて10分くらいの場所だった。僕は警戒は解かず、あえて遠回りをしつつアパートを目指した。
「え、なにそれ? 超怖いんだけど」
帰宅すると緊急メンテは終了していた。僕はコンビニ袋のからこぼれ落ちずに残っていたおにぎりを胃袋の中にねじ込むと、再びReMageにログインする。僕たちのスタジオにはさっきと同じようにリセが座っていた。トラブルの影響を受けず、ずっとこの部屋にいたらしい。疲れ切った僕の顔を不審がる彼女に、現実世界で起きたことを説明した。
「まさか向こうで、テオって呼ばれるなんて思わなかったから、めちゃくちゃ焦った……」
「いやいや、そういう事じゃなくて」
「は?」
首を横に振るリセに、僕は短い疑問符で応える。
「キミにストーカーが付いたって事実が怖いの。付くとしたらアタシでしょ、普通に考えて」
「えぇ……」
「だって『歌姫』と『プロデューサー』だよ? どっちが被害に合うべき?」
なんだかメチャクチャなことを言い出す。
「あーあ、どうせアタシんところにも来ないかな。リアルのアタシ、超隙だらけだよ?」
「はぁ、そうですか」
「会いに来てくれたらお茶くらい出すよ? アタシじゃなくて兄さんが、だけど」
「君は何もしないんかい」
さっきまで辞めるとか言ってたのに、今はストーカーに付きまとわれたいと来た。やっぱりさっきのアレは、ただの気まぐれなのか?
「僕なら、君のリアルの姿なんて興味ないけどね」
「ええ、嘘でしょ? 雨夜星リセのプライベートだよ?」
「でも僕にとっては、この世界の君が全てだし」
言った直後にしまったと思った。もっと言い方あるだろ。今のセリフじゃあまるで……
「うわっ恥っずー! よくそんなこと真顔で言えるね?」
「ちがうちがう! そういう事じゃなくて!」
「ていうかテオ、アタシのこと好きすぎだよね?」
リセはケラケラと笑う。僕をからかう笑いなのは気に食わないけど、それはそれとして可愛い笑い方だ。僕は半ばヤケになって言った。
「ああ、好きだよ」
「え?」
僕の反応が予想外だったのか、リセは笑うのを止める。
「雨夜星リセは、僕がこの世界でやってきたことの全てだ。嫌いなわけがないだろ」
「な、なんだよ。本当に恥ずかしいこと言ってんじゃねーよ……」
顔を赤くして、僕から目をそらす。こういう戸惑いの仕草も、僕は好きだ。
「で、なんで辞めるとか言い出したんだ?」
「それは……」
ReMageの活動を辞める理由は大きく分けて三つある。一つは、コミュニティ内での人間関係。これはありえないと思う。誰とでも仲良くやっていけるのは彼女の良いところで、スタッフやスポンサーとの関係は良好だ。ありえるとしたら、二つ目の理由の方だろうか。
「リアルの事情?」
受験や就職、結婚や出産など、人生の一大イベントで生活環境が大きく変わる。それを機会にReMageから足を洗う人は多い。僕のような世捨て人には理解不能な話だけど、多くのユーザーにとって、現実世界はLDRと同じかそれ以上に大切なのだ。
「んーん、そうじゃないよ。……単純に、飽きただけ」
それは三つ目の理由だ。案外、そういう人は一番多いかもしれない。やりたい事をはやり尽くした。やってる事がマンネリ化してきた。そんな風に感じた人がふらっと仮想世界から姿を消すのは、珍しいことではなかった。
「嘘つくなよ」
でも、リセに限ってそれは無い。僕はそう確信している。
「嘘じゃないって。MVは世界一の再生数を叩き出したし、10代のカリスマってやつにもなれた。お金だって、仮に百歳まで生きたとしても、一生遊んで暮らせるだけの額を持ってる。だから、もう十分かなーって」
「嘘も嘘、大嘘じゃねーか」
雨夜星リセは、世界で一番シンガーという存在に真摯な奴だ。気まぐれや冗談で辞めるなんて言うはずないし、ましてその理由が飽きたからなんて絶対ない。
「絶対って何さ。何でキミに、アタシの絶対がわかるの?」
「わかるに決まってるだろ。僕はな……」
ずーっと君の活動を横で見てきたんだぞ。あの日のオリオン街から、ずっとだ。
「アタシのこと手伝ってよ」
雨夜星リセにそう声をかけられたのはもう5年前、高校2年生のころだ。当時の彼女は、駆け出しの地下アイドルといった感じで、マネージャーやプロデューサーもおらず、小さなライブステージの上で踊っていた。誰かが公開し著作権を放棄したフリー素材のステージだった。似たようなステージを街中で展開してゲリラライブをやっている人はたくさんいる。そんな多くのシンガー志望のうちの一人でしかなかった。
一方僕はというと、大勢のうちの一人にすらなれないあぶれ者だった。その頃、家庭環境も学園生活も最悪の状況で、救いを求めてすがりついたのがLDRだった。ネットで見つけた身分証の偽造方法をマネて成人だと偽り、深夜のネットカフェに入り浸った。店内にあったLDRギアをほとんど専有して、仮想世界へと逃避した。アルコールの臭気も、頭に振り下ろされる酒瓶も、そんな家庭環境をあざ笑ったり、非常階段の隅で僕を全裸にしようとする同級生もいない。そんな理想郷がそこに広がっている。そう思っていた。
けど現実世界で色々なものに叩きのめされ、すっかり曲がってしまった僕の根性は、その理想郷にすら受け入れてもらえずにいた。巨大都市のビル郡を縫うように飛び回っても、雄大な大草原を馬にまたがって疾駆しても、見知らぬ人間といっしょに体感型ゲームを遊んでいても、鬱屈した気持ちが晴れることはない。
それで、少しでも快適な仮想空間ライフを目指し、僕が手に染めたのがAIの違法改造だった。イメージを何でも具現化できる夢の世界といっても、脳波がそのまま物体になるわけではない。早く走りたいと想像したときの具体的なスピードを算出したり、美味しいケーキを食べたいと願ったときに、生クリームの具体的な糖度を決めたりするサポートAIが必要となる。大抵のユーザーは運営が提供しているものを使用していたけど、そのAIに少し手を加えれば、自分の想像力の限界を超えたスピードや美味を味わうことができる。
僕は自分が満足できる世界を目指し、AIをいじりまくった。そしてそれをスリルを求めるほかのユーザーに売りさばいたりもした。無茶なカスタムをしたAIは、それ自体がご法度だ。そんなものを皆が制限なく使えば、仮想世界の秩序は崩壊し、めちゃくちゃになってしまう。だからAIのチューニングは免許制になっているのだ。
今思うと、僕は誰かに見つけてもらうためにそんなことを繰り返してたのかも知れない。でも、闇AIを売りさばく僕を最初に見つけたのは、運営のセキュリティチームだった。その日僕は、警察の制服をイメージした青と白のユニフォームをつけた彼らに、追いかけ回されていた。
「直ちに止まりなさい。警告です。違法AIの使用を直ちに止めなければ、アクセス禁止処分とします」
そう言われて止まるはずがない。中世ヨーロッパの街並みをもした、オリオン街と呼ばれるエリア。それ建物群のオレンジ色の屋根の上を僕は全力疾走する。アクションゲーム用のAIのリミッターを外したもので、ゲームエリア以外でも時速100km以上の高速で走ることが可能だ。
足元の安定しない屋根の上を、権力に追われながら超スピードで走っている。アクション映画さながらのシチュエーションに僕は思わず酔いしれていた。楽しいと一瞬だけ思う。そしてその一瞬の気の緩みが、僕の運命を変えた。
違法AIを扱う時は、普段以上の集中力を必要とする。少しの油断でも大事故に繋がりかねない。僕はそのタブーを破った。次の瞬間には足を踏み外し、屋根の上から下の広場へと真っ逆さまに落下していった。
「きゃっ!」
女の子の短い悲鳴が聞こえた。しまった、と思ったときには視界の端に青と白のユニフォームが見える。まずい、囲まれる。
僕は逃げ場を探していると。
「こっち!」
悲鳴を上げた女の子が僕の手を掴んだ。えっ? 思わず彼女の顔を見ようとしたとき、周囲の景色が一変し。ヨーロッパ風の街並みは星空が投影された半球状の天井へと変わった。
「大丈夫?」
「えっと、ここは? ていうか君は?」
「あーあ、せっかくのファストトラベルチケット、2枚も無駄にしちゃったよ」
女の子はため息交じりに言う。ファストトラベルチケットとは、ReMage内の好きな所に瞬間移動できる特殊アイテムだ。この世界における最強の交通手段のため、高値で取引されている。
「ここはアタシの家、というかスタジオって感じかな?」
「助けてくれたのか?」
「うん、なんか面白そうなことしてたから、捕まっちゃうのはもったいないなーって思って」
「面白い?」
「街のみんな釘付けだったよ。キミのたちの大捕り物に」
女の子は目を輝かせて言った。奇麗なプラチナブロンドを肩まで伸ばしたデザインのアバター。その白金の髪に光が当たるとその加減でプリズムの反射がきらめく。瞳もその反射と同じく七色の光を放っている。その大きな瞳と視線を重ねていると、思わず吸い込まれそうにな感覚を覚えた。
自らのイメージがすべてを決めるReMageの世界では、アバターの姿もユーザーの思い思いに設定できる。だからこの世界には美男美女も多いのだけど、この子の美しさはひときわ印象的だった。
「あれって、闇AI……だよね?」
彼女は恐る恐る訪ねてきた。
「まぁね。僕がちょっとだけカスタムを加えたやつ」
「やっぱり! ねえねえ、そういう改造AIってどういうことができるの?」
なんだこいつ? 初対面の相手に馴れ馴れしく訪ねてくる彼女に対して、僕の心に芽生えた感情は、必ずしも明るいものじゃなかった。それで、少し意地の悪い答えを用意した。
「やっぱ人気なのは、アッチ系かな」
「アッチ系?」
「わかるだろ、性的感度が数千倍まで高めてくれるやつとか。リアルには戻れないって話だよ。セックス専門のAIボットとかも人気だよね。君も試してみる?」
今思うと本当に最低のセクハラ。自分で自分を殺したい。その手の改造AIが人気なのは事実だ。けどそれを初対面の女の子に語るなんてどうかしていた。ところが……
「なーんだ」
心底からがっかりしたような声音だった。
「そんなくだらない事して、追っかけられてたわけ?」
プラチナブロンドの女の子は、怒るわけでも恥ずかしがるわけでもなく、ただ呆れていた。その態度に思わず、僕の感情がざわつく。
「なんだと?」
「はい、これ」
反論する前に、彼女は僕に一枚の紙きれを突き出してきた。そこには数字と半角アルファベットの羅列が二つ並んでいる。
「私の持ってる別アカのIDとパスワード」
「は?」
「セキュリティチームにあれだけマークされてんだから、もうそのアカウントは使わない方がいいよ。それでバカみたいなAIいじりも、もうやめな」
「ば、バカみたいって!」
「エッチなAI作ってニヤニヤなんかしてないで、もっと建設的なことにそのスキル使えって言ってるの。きちんとAI制作の免許取ってさ!」
「……」
あまりにまっとうな正論。そんなもの常にせせら笑って生きてきた。けど、七色の瞳に見つめながら真っすぐ投げかけられた言葉に、思わず息が詰まる。
「明日の同じ時間、さっきのオリオン街の広場に来てよ、そのアカウントでさ」
そう言うと、少女は白い歯を見せて笑った。
「君が夢中して見せるから!」
それが僕とリセの関係の始まりだった。
リセから引退したい、という衝撃の告白をされてから一か月が経った。新曲は無事リリースされ、初日のPVは6000万回を突破。ReMageのありとあらゆる所で流れている。現実世界も同じ状況だそうだ。
つくづく、とんでもない才能と一緒に仕事をしているのだと思い知らされる。彼女は僕の作るAIあってこそと言ってくれるけど、僕の感覚では逆だ。仮想世界最高の歌姫に見出してもらわなければ、僕は今も闇AIを作ってセキュリティに追い回される毎日だったろう。
歌姫は、相変わらず辞める気満々でいた。80日あった猶予は、すでに50日弱まで目減りしている。僕は彼女の注文通り、引退後に雨夜星リセの名を受け継ぐであろうAIボットの作成しつつ、彼女の決意を覆すことが出来ないか模索していた。
「ツアーをやろう」
「は?」
星空をちりばめた半球状のスタジオで僕が提案すると、新しいステージ衣装を試作していたリセが、いぶかしげな顔をしてきた。
「キミの引退ライブツアーだよ。ReMage内の各所を巡りながら、ライブをやっていくんだ。残りの50日で」
「何いってんの、そんな暇ないでしょ?」
「AIボットに読み込ませるライブデータが必要なんだよ」
いくらイメージが具現化する世界だといっても、影武者一人を丸ごと作るとなると、僕の想像力には限界がある。そもそもAIボットは、多人数参加型ゲームの受付や、アイテム販売店の店員といった、限定されたシチュエーションで働くことを想定しているもので、人気絶頂アーティストの仕事すべてを再現するなんて運用は普通しない。ライブや動画配信などに限ったとしても、膨大な教師データが必要となる。
教師データとは、AIが判断材料とするデータのことで、今回の場合は生身の人間が操作している「雨夜星リセ」の行動記録すべてだ。ごく原始的なAIに、写真に写っている物を判定したり、その被写体を自動的に加工したりする、画像解析AIがある。あれも何千万枚という写真を教師データとして読み込み、そこに写っているものを「教師」として、被写体の形状を判定をしているのだ。
「だから、少しでも生身のリセに近づくよう、あらゆる記録をこのボットには搭載したいんだ。特にライブに関してはね」
僕は、AIの存在を視覚的に示すCGの球体を見つめていた。その表面には過去にリセが行ったライブの映像や、彼女の発言のテキストなどが投影されている。もちろんAIとは実態がある存在じゃないから、この球体はAIそのものではない。僕が、AIを育てていくためのイメージとして用意した仮の姿だった。この球体は完成に近づけば近づくほど雨夜星リセの姿に近づいていくだろう。
「ふぅん。そういうもんなのね」
「これは僕の、AIメイカーとしての集大成だ」
一人のアーティストが活動するためは様々なAIが必要になる。衣装モデル構築AIにダンス制御AI、歌唱力補正AI……五年前にリセからもらった新しいアカウントで、僕はAIメイカーの資格を正式に取得した。僕はライブステージに必要なAIをひとつずつ、リセの思考の癖に合わせてチューニングし、彼女のパフォーマンスを最大限に活かす専用AIをいくつも作ってきた。それが僕のプロデューサーとしての仕事のほとんどすべてといってよかった。この球体は、そんな僕の全てを盛り込むことになるだろう。
「それでさ、データ最終のために必要なライブがこれだけあるんだけど」
僕は空中で右手をひらひらと動かす。その動きに呼応して、ReMage世界の全体マップが表示される。その各所に赤い光点が輝いていた。
「この光ってるところ全部で、ライブやれって?」
彼女の呆れるような声音で言った。
「うん。あらゆる環境でのデータを取りたいからね」
光点の数は両手両足の指を使っても数えきれない。50日後に引退するなら、2~3日に1回以上はライブをしないと、すべての場所を周れない計算になる。
「過去イチの酷使だねこれ……」
「その後は長い長い休みが待ってるんだ。最後のひと月半くらい我慢してよ」
「キミ、時々メチャクチャ言うよね。まぁ、アタシが言えた義理じゃないけど……」
「だからこそ、あの時僕を誘ってくれたんでしょ?」
僕はワールマップに輝く光点のひとつを指差した。オリオン街。リセが初めて僕と出会い、その翌日に初めて僕に曲を披露した場所だ。僕はこの街をツアーのスタート会場にするつもりだ。
「わかったよ。テオが必要だっていうなら、何でもやる」
「ありがとう!」
僕はほっと息をついた。AIボットを作るために必要なデータ取り、それは間違いじゃない。けどその裏に、もう一つの目的がある。雨夜星リセは、ライブを愛している。人前で歌うことを、きらびやかな衣装で美麗な演出を施したステージに立つことを、神業的なダンスを披露することを。そして何より、自分のステージを見て喜ぶファンたちを見ることを。今回はそんな歌姫としての喜びをリセに再確認してもらうためのツアーでもあるのだ。何度も何度もステージに立って歌う楽しさを噛み締めてほしい。そして願わくば……思い留まって欲しい。
「あ、そうだテオ。ここにもう1箇所、会場追加してもいい?」
「え? 別にいいけど、どこかやりたい場所があるの?」
「んーとね、マチュピチュ」
「は?」
僕の脳裏に1枚の写真が思い浮かぶ。雲の上の高山に残る、今は滅び去った文明の遺跡。
「でなければ、ヴェルサイユ宮殿でもいいよ? ピラミッドでも。ああ、グランドキャニオンでも可。あとは……世界遺産ではないらしいけどウユニ塩湖も外せないよね!」
どれも行ったことはないけど名前も景色もよく知っている、世界各地の景勝地だ。確かに、Remageのサブコンテンツの中には、家にいながら海外旅行を楽しめるサービスもあるけども……。
「なんでそんな所でやるんだ? 今用意している会場にも似たようなところはいくつでもあるだろ?」
ReMage世界の雄大な景色や幻想的な街並みは、現実の景観をモチーフにしたものも多い。マチュピチュやグランドキャニオンをモデルにした断崖絶壁に建つ空中都市や、ヴェルサイユを百倍豪華にしたような大宮殿、無数のピラミッドや神殿が鎮座する古代神話都市。そう言ったものは各所に存在する。わざわざ現実を再現しただけの、ReMage世界の基準で考えるなら地味としか言いようのない場所でライブを開くというのは、イマイチ理解できなかった。
「わかってないなぁ。もしアタシが現実世界のシンガーだったとしても、あんな所でライブなんて出来ないでしょ?」
「そうかもしれないけど……」
でも、それよりも絵になるステージをいくらでも作れる。それがReMageの良い所じゃないか。
「ホントわかってない! リアルな場所だからこそやりたいんだって! マチュピチュに立ってるって実感が欲しいの」
「実感、ねぇ……それなら、引退した後旅行でもしてくればいい。お金には困ってないだろ?」
「はぁ……もういいわ」
リセは深くため息を付いた後、拗ねたような感じでそっぽを向いてしまった。この時は突然の提案に戸惑い、思った事をべらべらと喋ってしまったけど……僕は少し後に、このときの無神経さを心の底から後悔することとなった。
世界遺産バーチャルトラベルでのライブについては一旦保留しつつ、リセ引退ツアーは始まった。もちろん「引退」の二文字は公開されない、僕と彼女だけが知っている事実だ。
突然のツアー開催に、ReMage全土が沸き立った。発表とほぼ同時に数百万枚のチケットが完売し、その数十倍ものユーザーが配信ライブの視聴予約をした。仮想空間であるReMageでのライブは、現実世界のそれとは異なり会場の物理的制約がない。サーバーに集中アクセス対策さえされていれば、会場に何万人でも何十万人でも収容できる。とは言え、僕は全ての会場で大規模コンサートをやるつもりもなかった。
このツアーの目的は、リセのデータを取ることと、リセにステージに立つ楽しさを再実感してもらう事にある。それは、数十万人がファンが見守る巨大ステージのみで達成できる目的ではない。小規模ライブでは小規模ライブなりのデータが取れる。リセに駆け出しの頃の気分を思い出させるのも大事だ。だからツアー初日の、このオリオン街でのライブは観客を数十人に絞りごくごく簡素なステージで行うことにしていた。そう、あの時のように……
「何これ、あの時の再現ってこと?」
リセも、僕の意図を察したみたいだった。
「僕らの始まりのステージだからね、開始場所はここしかないと思った」
「ふふっ、キミが好きそうな趣向だね。アタシも嫌いじゃないけど」
そう言ってリセは、ステージに出ていく。映像は仮想世界全域に放送されるけど、この場所への参加が許されたのは、ファンクラブ会員2桁台までの超古参ファンたちだけだ。
近世ヨーロッパの街並みを模したオリオン街の中央広場には「おかえりなさい」と書かれたオーロラ色に煌めく横断幕がはためく。この広場はリセと僕の始まりの場所であり、ファンの間でも聖地となっている所だ。つまりこれは、凱旋公演ということになる。
フリー素材を組み合わせて作られた簡素なステージに立つリセを見て、僕はあの時のことを思い返す。
「来てくれたんだ!」
5年前の記憶。前日に、言いたいことだけ言って僕に真っ新なアカウントを押し付けてきたプラチナブロンドの女の子は、僕を見つけて駆け寄ってきた。
「夢中にさせるなんて、大見得きったからにはそれなりのもの見せてよ?」
僕はぶっきらぼうに答えた。
「もちろん! アタシの単独ライブ楽しんでって!」
「ライブ、君はアーティストなのか?」
「駆け出しの、ね。一曲目はキミの歌を歌うから」
「は、どういう意味?」
「それは聴いてのお楽しみ!」
彼女はそう言うと、広場の中央に据えられたステージへと上っていった。そのときの記憶が今、目の前にある景色とシンクロする。
昔ながらのファンに囲まれる中、リセはすうっと、深く息を吸う。一拍、間をおいた後。リセの口と喉は、透き通った音を出す優美な楽器へと変わった。
心配ないよ
私が連れて行く
ああ、この曲だ。思い出の一曲。まだ現実世界に未練を持っていた僕を救ってくれた、大切な一曲。今の雨夜星リセは、ある意味ではこの曲がきっかけで誕生したんだ。
キミの不安をすべて分かち合おうよ
キミの恐怖の半分を引き受けるよ
ボクがキミを連れていく
キミのいるべき場所へ
安らげる場所へ
だからボクと一緒にいて
初めてこの曲を聞いたときに、直感的に思った。「ああ、これは僕の歌だ」って。
まるでオーダーメイドの洋服のように、余分なところも足りないところもなく僕の心に寄り添ってくれる、そんな感じがした。彼女の歌に耳を傾ける観客の中に、僕以上にこの歌が刺さっている人はいない。何故かそんな確信まであった。そのくらいこの歌に魅了された。現実世界で溜めてきた鬱屈した思い、仮想世界にも居場所を見いだせない焦り、そんな心の闇が浄化されていくような思いを、あの時の僕は味わっていた。
「お疲れ様。最初に歌った曲、すごく良かった。誰の歌?」
5年前のあの時、ステージから降りてきた彼女に僕は尋ねた。すると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「アタシのオリジナル。キミのことを考えながら即興で作った歌だよ?」
「即興!? 今、アドリブで歌ったってこと? 歌詞も、メロディも?」
「言ったでしょ、キミの歌を歌うって」
ありえない。いくら想像がそのまま創造となるLDRの世界とはいえ、あれだけ完成度の高い曲を思い浮かべるだけで作り出せるものなのか?
「まぁ、メロディについてはストックがあって、それをAIに呼び出してもらった感じだけどね。歌詞についてはさ、昨日あの後調べたから、キミのこと」
「どういう事?」
「ちょっとした推理だよ。キミが公開しているアクセス時間とか行動履歴を調べさせてもらった。何時から何時までReMageにいるとか、どんなところを回ってどんなサービスを受けているとか」
僕は、電子の身体に流れているはずのない血が、かあっと熱くなるのを感じた。そういうのを調べるサービスがあるのは聴いた事がある。けど何の対策もしていなかった。闇AIを作るような規約違反をしておきながら、あまりに迂闊すぎだった。
「すぐわかったよ。リアルではどこにも居場所のない、くらーい青年なんだろうなーって」
「なっ!」
ちょっと意地の悪い感じで彼女は言う。悔しいけど、当たっている。
「で、そこからキミの心情を想像した。想像して想像して……そしたら自然と言葉が溢れてきた。それをAIが詞にしてくれたの」
「嘘だろ……?」
僕は絶句した。その話が本当なら、AIによる補完を完全に味方にしている。稀有な創造力の持ち主だ。
一般的に、AIは創造的な仕事が苦手だと言われている。昔は、クリエイターの仕事が機会に奪われるんじゃないか、なんて話もあったらしいけど、現実にAIがゼロから絵画や小説を生み出すことはなかった。AIはものを考えているわけではなく、条件に合致する「それっぽい情報」を膨大な教師データの中から拾ってきて、考えているように見せかけているだけだからだ。
AIはクリエイターにとって憎き商売敵とはならず、大切な商売道具として彼らに味方することとなった。特にLDR世界では、クリエイターの脳波を目に見え耳に聞こえる形へと変える、必須の商売道具だ。
それにしても、ここまで高い次元でAIを使いこなす人間もそうはいない。頭に思い浮かべた感情を、歌詞とメロディに変えて僕の心へと的確に届ける、それができるシンガーなんてほんの一握りだ。
「でも、まだまだよ。もっと精度の高いAIがあれば、アタシのイメージをもっと的確に形にしてくれるアタシ専用のAIがあれば、アタシはさらに高く飛べる!」
そして彼女は手を差し出した。
「だからさ、アタシに協力してよ」
気がつけば僕はその手を握っていた。彼女なら、僕のどこかいるべき場所へ連れて行ってくれる。そんな気がした。
ファンクラブ2桁台の古参ファンたちは、リセの曲に聴き入っていた。涙を流している人も多い。今回のセットリストは、あの日のオリオン街と全く同じ5曲で構成している。その5曲のどれかに心を貫かれた人も多いのだろう。僕と同じように。リセの歌は人の心に寄り添ってくれる、だから僕は本気で惚れた
「みんな、今日は来てくれてありがとう」
5曲歌いを得た後、リセは静かに語る。
「皆もうわかってると思うけど、今日のライブはあの日の再現。懐かしかった人もいるんじゃないかな?」
拍手と歓声と口笛が、リセの問いかけに対する回答として乱舞した。コール&レスポンスの形は仮想世界の中でもあまり変わらない。
「でも、私たちはもうあの頃の私たちじゃない! これだけじゃ物足りないよね! もう1曲、いきます!」
そう言うと歓声はさらに大きくなった。新曲のイントロが鳴り出す。同時に、リセの衣装が光の粒につつまれ姿を変えていく。ステージがせり上がり、同じく光の粒子が巻き上がって場の空気を加速度的に高揚させていく。リセお得意のイメージによるアドリブでの衣装チェンジ、そしてそれに合わせたステージ演出の変化。衣装は誰がデザイン画を起こしたわけでもない。ステージも同様だ。リセが頭の中だけで生み出し、それを僕のAIが正確に具現化させる。僕たち二人だけがなせる技だ。
今日のライブは参加者こそ少ないけど、テンションは最高に高まっている。さあいけリセ! 今のキミのすべてを初期ファンたちに伝えて……
「え?」
突然、音が消えた。一拍遅れて、観客たちの歓声もどよめきに変わる。派手な演出とともに再構築されつつあったステージは動きを止め、リセの衣装も輝きを失う。
何が起きた?
そして、リセ本人はばたりと、ステージの上に突っ伏す。
「リセ!」
僕は慌ててステージに向かって跳躍した。リセの倒れている地点まで15メートル。この世界なら軽くひと跳びでたどり着ける距離。……のはずだが、着地前に僕はなにかに弾かれるようにして、地面へと落とされてしまった。
「緊急トラブル発生のため、一時的に皆さんの行動力を制限させていただきます」
リセの周囲の数人の人影が、突如現れた。現実世界の警察の制服をもしたような、青と白のユニフォーム。ReMageのセキュリティチームだ。
「どういうことですかこれは!」
仮想世界の警察官に向かって、僕は問いかける。
「詳細はお応えできません。ただ、雨夜星リセさんの身柄は一時的に確保させていただきます」
「ふざけるな、ライブ中だぞ!」
僕は再び跳躍した。が、さっきと同じ衝撃を受ける。セキュリティチームの一人が、僕に向かって銃のようなものを向けていた。暴れるユーザーの行動を一時的の阻害するスタン銃だ。
「抵抗するのなら仕方ありません。テオさん、あなたに24時間のアクセス禁止措置を取らせていただきます」
次の瞬間、墨の周囲の世界がすべて暗黒へと変わり、現実世界に戻るときのあの感覚が背筋を上ってきた。待て、待ってくれ! そう叫ぼうとしたけど言葉が出ない。何が起きてるんだ? ライブはどうなる? リセは……アイツは無事なのか!?
「うわあああああ!」
気がつくと大声で叫んでいた。脳波がReMage住人のテオにそうさせているのじゃない。寺島興人が、喉の筋肉を絞り、声帯を震わせて叫んでいた。強制ログオフ。ヘッドギアを外すと、側面に付いているランプが赤く点滅していた。この状態の時は、仮想空間にアクセスすることが出来ない。24時間のアクセス禁止。こんなときに随分と重い実刑だった。
何でそこまでされないといけない? 何が起きているんだ。突然のリセの不調、それと同時に現れたセキュリティチーム。僕たちは見張られていた? そんなバカな。何で……?
一人で考えて、解答に到達できるとは思えない問いを頭の中で回転させていると、不意にドアチャイムの電子音が鳴り響いた。
「今度は何だよ……」
食事の配達でも通販のお届けでもない。そしてそれ以外の用事でこの部屋を訪れる人なんているはずがない。僕は恐る恐る玄関へ行き、ドアの覗き窓に片目をくっつけた。
「あいつは……」
僕は息を飲み込んだ。直径1センチ程度の円形のガラスから見える外の世界には一人の男が立っている。あの男だ。この前コンビニで僕に声をかけてきたスーツ男。何でアイツがここに? あの時、後をつけられていたのか?
男はなおもドアチャイムを鳴らしている。どうするか? このまま居留守を決め込んでいても帰ってくれるとは思えない。古いアパートだし、部屋の中で僕が出した物音も気づかれてるかもしれない。
そして、何よりもこのタイミングだ。リセが突如倒れ、ReMageのセキュリティチームによって強制的にログアウトさせられたのとほぼ同時に、訪問してきた男。無関係とは思えない。
「イチかバチかだ……」
二つの世界で起きている不可解な状況。それを打破するために、僕は意を決してドアを開いた。
「テオさん。いえ寺島興人さん、ですね?」
「……」
僕は無言でうなずいた。
「先日は不躾に声をおかけし、大変失礼しました」
スーツの男は意外にも申し訳なさそうな顔をして、僕に頭を下げた。そして、信じがたいことを言った。
「私は、姫堂明一朗。姫堂美沙の……雨夜星リセの兄です」
リセの兄を名乗る男は、僕を車に乗せて海岸沿いの道路を走っていた。後部座席の窓から外の景色を眺める。現実世界ではしとしとと雨が降り続けている。そういえば少し前に梅雨入り宣言したみたいな話を聞いた気がする。
「姫堂ホールディングス?」
その社名だけではピンと来なかったけど、渡された名刺にプリントされているいくつかの企業ロゴは知っていた。LDR世界内にも支店を出している小売店舗チェーンや、オンラインコンテンツ配信サービス。姫堂家は、それらを統括する企業グループの経営者一族らしい。
「我々はLDRデバイスの開発にも出資しています」
彼が口にしたブランド名の中には、僕が使用しているLDRギアのものも含まれていた。
「LDRの開発は、医療目的の研究から始まりました」
聞いたことがある。十数年前、脳医学の発展と、脳機能の解析が進んだことにより、会話や身振り手振りを伴わないコミュニケーション手段が模索が始まった。その答えの一つが、今日LDRと言われている仮想現実システムの原型なのだ。
「何らかの原因で脳機能の一部が損なわれ、身体が不自由となった人たちを補佐するために。例えば私の妹のような……」
「つまりリセは……」
言葉が続かない。重病人の身内にどんな言葉遣いをすればいいのかも僕は知らない。自ら望んで拒み続けてきたとは言え、こちらの世界で積むべき経験を積んで来なかった自分が嫌になる。
「はい……。見えてきました、あの病院に妹はいます」
雨でけぶる視界の奥、海岸を臨む丘の上にうっすらと建物の影が見えてきた。
姫堂氏の運転する車は、病院の名前が掲げられた門扉を潜ると、スロープを下って地下駐車場へと吸い込まれていった。自動運転システムで滑り込むようにエレベータ横の駐車スペースに車を停めると、リセの兄は僕を病院内へと案内した。
「美沙の部屋です」
そう言いながら姫堂氏は自分の携帯端末を、扉の横についているリーダーにかざした。音も立てずに扉が滑るようにスライドし、僕たちは病室に入る。面積はあるけど、広々というより空虚な印象の方が強い個室だった。その窓際に一台のベッドがあり、その上に人影が横たわっていた。
「これは、LDRギア?」
ただの病院のベッドではなかった。いくつかの液晶パネルが側面に付いており、何本ものケーブルが壁の配線盤へと繋がっている。枕元からは太いアームが伸びていてその先には半球状のヘッドギアが付いていて、ベッドに怠和る人物の頭を覆っている。そのヘッドギアは僕が家で使用しているものによく似ている。これは、ベッドそのものがLDRのデバイスなのだ。
「妹は十数年間、目を覚ましていません。幼い頃の病で、大脳の働きは停止こそしていませんが、昏睡状態から回復することもない。いわゆるグレイ・ゾーンと呼ばれる状態です」
ヘッドギアに覆われた顔が女性のものだということはわかった。年齢は見かけだけではわからない。18歳という設定のリセと同じくらいか、或いは少し幼いようにも見える。布団がかけられていない上半身は、健康的でスタイルの良い雨夜星リセのシルエットとは違い、あまりにもか弱々しかった。やせ細った腕からは数本の管が伸び、点滴パックへと繋がっていた。それを見て僕はあの噂を思い出す。
LDRギアに水分と栄養剤の点滴がつき、仮想世界での食事に合わせてそれらを適量投与してくれる機材が存在しているらしい。それは、電気信号による筋肉の衰えを防止する機能も付いており、仮想世界への完全な移住を可能にするものだという。
多分これの事だ。僕がどれだけ高額でも買おうと決めていた、現実世界と訣別するための機械。雨夜星リセは、もう何年も前からその機械と繋がっていたのだ。
「しばらく二人にさせてもらえますか?」
「……わかりました。外でお待ちしてます」
姫堂氏は廊下へと出ていき、だだっ広い個室に僕とその少女だけが取り残された。
「ゴメンな。君のリアルの姿なんて見るつもり無かったんだ。本当にゴメン」
その言葉はリセの耳には届いていない。そもそも僕がここにいることすら彼女は理解できていないと思う。それでも、言わずにはいられなかった。
「こっちの世界の僕はこんな感じだ。冴えない引きこもりのオタク野郎、多分君の想像通りだよ」
わざとおどけた感じに言いながら、彼女の枕元へと近づいた。LDRギアと一体化したベッドには、小物や時計を置くための小さな棚が付いている。そこに雨夜星リセの顔がプリントされた小さなパッケージが置かれているのに気づいた。
「お兄さんが飼ってくれたのかな、君のために」
パッケージには「ラヴェンダーのアロマケーキ」と書かれている。この前のコンビニとのコラボ企画のときに販売していたお菓子だ。「ラヴェンダー」はリセのディスコグラフィーの中でも特に人気の一曲で、ライブでもよく歌われる。その曲にちなんだお菓子として、リセが提案した商品だった。
「でもお兄さんもダメだな。コレは飾ってるだけじゃ意味ない。そうだろ? 香りが重要なんだから」
アロマケーキの開発についてリセがこだわり、製造元に何度も念を押していたのが、その香りだった。パッケージを開けた瞬間に、一面のラベンダー畑にいるくらいのはっきりと香り、それでいて食べるときにケーキの味を邪魔しないようにしたい。リセはそんな無茶振りをしていたのだ。提携先となったお菓子メーカーに、リセの大ファンがいたおかげでそのリクエストは達成された。特許出願中の独自製法を駆使し、まさしく開封した途端に豊かな芳香が漂うケーキが誕生したのだ。これはコラボ商品の中でも一番人気となり、メーカーもただのコラボで終わらせるのではなく自社製品として継続的にラインナップに入れたいとまで言っていた。
「ほら、どうだ?」
僕はそんな傑作商品を開封した。病室がにわかにラヴェンダーの香りに包まれた。それは、LDR内での打ち合わせのときに、僕とリセが一緒に体験したシミュレーションサンプルと同じ匂いだった。
「 安心しなよ。キミのこだわりはリアル世界のお客さんにしっかり届いたから!」
当然、少女は何の反応もない。彼女の脳にきっとこの香りは届いていない。
「あ……」
ふと窓の外を見て、僕は息を呑んだ。いつの間にか雨は上がり、太陽光が世界を照らしていた。もう夕暮れの時刻だ。その光は海の上の雲を山吹色に照らしていた。そして雲のさらに上には……。
「リセ、すごいよ。虹が出てる……!」
プリズムのアーチが、夕日に染められた東の空を貫き、輝きを放っていた。綺麗だな。リアル世界で初めてそう思ったかも知れない。これより美しい光景は、ReMage世界にはいくらでもあるけど、今ほどの高揚感は得られない気がした。それが何故かはわからない。LDRは脳内のイメージを鮮やかに具現化してくれる。それは視覚だけでなく、五感のすべてが対象だ。だから現実世界と全く同じ感動を体験できるはずなんだ。それなのにこれに勝る体験を、僕は仮想世界の中では絶対に得られないんじゃないか、そんな気がした。
「見せてあげたい。君のことだから、この景色にインスパイアされたらすごいことになるのに……」
きっと彼女の豊かな感性は、素敵な詞やライブ演出を生み出すだろう。リセは僕の隣にいるのに、この景色を共有できない。それが無性に悔しかった。
しばらく彼女の横で窓の外を眺めていた。七色の橋はしばらくすると消え、山吹色の雲は深い朱色へと変わっていった。それもやがて色彩を失い、海の景色は闇へと包まれていく。
「妹は、長くないんです」
病室を出たあと、僕ら二人以外は誰もいない談話室で、姫堂氏は言った。
「もともと、医師からは治る見込みはないと宣告されていました。昏睡状態のまま、二度と目をさますことはなく、人生の幕引きまでベッドから起き上がることはないだろうと……5歳のときです」
「5歳……」
「その時、私達の両親は賭けに出ました。妹を、当時研究段階だったLDRギアの被験者に選んだのです」
どうしても自分の境遇と比べてしまう。リセの場合、なんとしても娘を救いたいという、両親の愛情の形としてLDRと巡り合ったのだといえる。僕の場合、荒みきった家に居場所がなかった。怒声や叫び声の渦巻き、下手したら身の危険すらある家に帰るわけにはいかなかった。そして年齢を偽ってネットカフェに入ったのが、LDRギアと出会ったきっかけだった。
別に、羨んでいるわけではない。いろいろな家があるというだけだ。そして色々の家があったから、僕とリセは出会えた。
「想像以上の結果でした。二度と歩くことも笑うことも出来ないはずの妹は、仮想空間でそれらを全て実現させました」
その時から、彼女の第二の人生が始まったという。勉強も遊びも全て仮想空間で行いながら成長していった。やがて雨夜星リセというもう一つの名前を自らに名付け、歌とダンスを学び、シンガーとして自分の声を世界に届けることを望んだ。彼女の兄は、とつとつと妹の半生を語り続ける。
「そしてあなたと出会い、大きな夢を持った。あなたと共にその道を登り続け、誰もが知るトップアーティストに……。あなたにはいくらお礼をしてもし足りません」
姫堂氏は、僕に向かって深々と頭を下げた。その様子に僕は戸惑う、自分に頭を下げる人に対して掛ける言葉を僕は知らない。そもそもお礼を言いたいのは僕の方なのに……どうにもならないような行き止まりしかない人生に、光を当ててくれたのは間違いなくリセだ。リセと出会わなければ、僕の方こそどうなっていたかわからない。
「病気は少しずつ、けど確実に進行しています。今はまだ向こうの世界で元気に活動できるくらい、大脳は機能している。けど、限界を超えてしまう時は近いでしょう。そしてその時には彼女の命も……」
「具体的には……あと、どのくらい時間があるのですか?」
やや長めの沈黙の後、抑揚のない平坦な口調が返ってくる。
「長くて、ひと月半。主治医からはそう聞いています」
そうか。そういう事だったのか。僕は目を伏せた。彼女が突然引退を表明した理由がはっきり分かった。なんだよリセ、飽きたなんてやっぱり嘘じゃないか……。
「お察しはついているかと思いますが、妹ももう知っています。彼女は残り少ない時間を有意義に使おうとしている」
「はい」
僕はうなずく。そうだ、その通りだ。彼女は、自分の後継者たるAIを遺そうとし、そのためのデータを僕に取らせるために、人生最後のツアーを行おうとしている。
「私たち家族は、理沙のReMageでの活動を密かに見守り続けてきました。願わくば、最後まで好きにさせてあげたい。けど……」
また沈黙。今度はさっきよりも長い。姫堂氏はその先の言葉を口にすることを明らかに戸惑っている。
「姫堂さん、どうしました?」
「けど……私たちは、その時が来る前に、彼女をLDRから切り離さなくてはなりません」
「え?」
思ってもいない言葉が出てきた。切り離す?
「どういう事ですか?」
「そのままの意味です。あの部屋のLDRデバイスを停止させ、彼女をReMageから追放する。彼女の脳が役目を終える前に、です」
「ちよ、ちょっと待ってください!」
僕は思わず立ち上がった。椅子が大きく傾き、音を立てて倒れる。訳がわからない。何でだ? 病室にいたあの少女が、わずかな命の炎を燃やし尽くそうとするなら、せめてその最後の光を大切にすべきだ。最後の最後まで雨夜星リセであることを貫かせる。そしてそれを見守り、見届ける。それが周りの人たちのなすべき事じゃないのか?
「寺島さん、あなたが言いたいことはよくわかります。私たちもそうさせてあげたい。……けど駄目なんです」
「どうして!?」
現実世界の僕の喉は、まだこんな大きな音を出せたのか。何故だか、冷静にそんなことに気付ける僕がいた。
「エゴバーフローという仮想世界の災害をご存知ですか?」
「エゴバー……フロー……?」
聞いたことはあった。Ego Overflow、を略した造語だ。確か、LDRデバイスが装着者の脳が発するイメージ信号を処理しきれず、仮想世界そのものに干渉を起こしてしまう事故……だったか。けどそれは、理論上ありうるけども、発生条件が揃う可能性は極めてい低いトラブルだったはずだ。
「ここ半年ほど、エゴバーフローによる事故が世界各地で頻発しています。あなたもつい最近、味わったはずです。原因不明のトラブルで強制ログオフがかかったでしょう?」
あれか。はっきり覚えている。ひと月前、リセに初めて引退話を打ち明けられた日、謎の現象が発生したかと思うとReMageから切断されたことがあった。
「最近になって発覚したんです。初期型のギアと接続している、グレイ・ゾーン患者が死の間際にこの災害を引き起こすことが」
「そんな……」
悪い冗談にも程があるだろう。天文学的な確率でしか起きないと言われていた現象に、再現性が見つかった。このやせ細った少女の境遇が、そっくりそのまま発生条件だというのか?
「エゴバーフローの規模は、発生要因となったユーザーの、LDR世界内への影響度に相関することも判明しました。これまで発生したエゴバーフローは、皆ごく狭い交友範囲で仮想世界を生きてきた人たちが引き起こしたものでした。けど妹は……」
どう低めに見積もっても「ごく狭い」などという形容は出来ない。ReMageのユーザーの大多数は彼女の名前と顔を知っている。あの世界への影響度が最も大きい人物の一人だ。
「妹がエゴバーフローを起こしたときに、どれだけの被害が発生するか想像も付きません。だから、脳が活動を停止する兆しを見せたら、即座にReMageから切り離すしかないのです」
そういう事か。それでセキュリティチームは僕らのステージを見張っていたのか。いや、今日のステージだけじゃない、きっともっと前から、僕たちは監視されていたのだろう。起こるかもしれない未曾有の大災害に備えて。
「テオさん」
姫同氏は、僕を向こうの世界の名で呼んだ。
「すぐには受け入れられないかも知れません。ですが、あなたにだけは真実を伝えねばと思い、ここに来ていただきました。その時が来たら、私は妹をあの世界から引き離します。その行為を軽蔑しても構いません。ですが……どうかご理解いただきたく……」
その、懇願にも似た兄の説明に対して、僕は返す言葉を見つけられなかった。彼も、僕の言葉を期待していたわけではなく、沈黙が談話室を支配した。