交通事故から退院してから、早一週間経った。わたしはお母さんと一緒に病院に検査に行ったけれど、特に悪いところは見つからなかった。
 打撲でできた青あざも、一週間経ってからは薄くなってきて、あとちょっとで完全に消えてくれると思う。それにほっとした。
 もうそろそろ夏服になるからだ。足だったらロングソックスで誤魔化せるけれど、腕はなかなか誤魔化しが効かない。ガーゼで留めるのにも限度がある。
 でも、相変わらず事故の前後のことは思い出せなかった。学校の授業で忘れたら困ることがあるかなと思ったけれど、特に抜けや漏れもないし、わたしが入院して授業を受けていないこと以外は、特に授業の内容で飛んでいる部分もなかった。
 先生に触診されたり質問を受けたりしたけれど、やっぱりなにもなかったことに、わたしはほっとする。

「ええ、泉ちゃんはもう大丈夫ですね」
「そうですか」

 お母さんは心底ほっとした顔をしたあと、お金のことを話するからと、わたしは診察室を出された。
 待合席の硬めのソファーに座ってみると、アルコールや独特の薬の匂いがするので、思わず顔をしかめる。三日ほどこの匂いの中で入院していたはずだけれど、相変わらずこの匂いに慣れることはなかった。

「大丈夫だったか?」

 ふいに声をかけられて、わたしはビクッと肩を跳ねさせる。
 思わずキョロキョロすると、診察待ちらしいおばあちゃんと目が合い、にっこりと笑われる……変な子がはしゃいでいると思われた……と会釈しながら思い、わたしは小さな声で隣に声をかける。

「レンくん……だよね? どうしてここにいるの?」
「え? お前が病院に行くって聞いたから」

 ちょっと待って。わたしが病院に行くことなんて、沙羅ちゃんや絵美ちゃんくらいにしか言ってない。どうしてわたしが診察受けること知ってたんだろう……。
 わたしは怪訝な顔でビクビクと隣を見る。相変わらず誰もいない中で、ソファーにひとり分の空白がある。

「そんなに怖がるなって。色々あるんだよ、色々と」
「ん……でも」
「そんなことより、お前のほうは大丈夫だったのか? ほら、体。どこも後遺症とかはなかったんだよな?」

 話を強引にすり替えられたような気がするけれど、レンくんの声はいつも明るく人懐っこい色をしているのに、今のは真剣そうだった。だから多分心配してくれているんだと思う。ちゃんと答えないと。そう切り替えて、わたしは素直に結果を報告する。

「本当に、なんにもなかったよ。心配してくれてありがとう」
「そっか……あー、よかった」

 そう言ってレンくんは声に明るさを滲ませるので、わたしはほっとする。
 見えない彼は、どうにもわたしのことを心配してくれていたみたいだから。そう思ったとき、ふいに向かいに座っていたおばあちゃんと目が合った。さっききょろきょろしたときに目が合ったおばあちゃんとは別の人だ。やっぱりにっこりと笑われてしまった。
 思わず周りをぐるっと見回していて、気が付く。こちらのほうをときどきちらちらと見ている人がいるということに。
 腕を組んで新聞を読んでいるけれど、ときどき新聞越しにこちらを見ているおじさん。小さい子はあからさまにこっちを見てくるのに、お母さんは「お姉ちゃんのほうをじっと見ないのよ」と注意されている。
 ……もしかしなくっても、こちらを見て変な子扱いされているんじゃ。途端にわたしは顔を赤くして、立ち上がろうとするのに、レンくんは怪訝な声を上げる。

「おばさん待ってるんだろ? 大丈夫か?」
「こ、ここにずっと座ってたら、わたし変人扱いされるから……」
「ふーん?」

 レンくんは少しだけ間延びした声を上げたものの、あっさりと言う。

「他の奴らにどう思われようと、別によくないか?」
「レ、レンくんはともかく、わたしは気にするの」
「別に他人がどうこう言ってもおんなじだろ」
「違うよ」

 見えないレンくんだったらいざ知らず、見えるわたしがひとりでぶつぶつしゃべっていたら、やっぱり変な子に思われる。無視してしまえばいいのに、ついつい返事をしてしまう自分が憎らしい。
 恥ずかしい子扱いされて、いいわけなんか全然ないのに。
 レンくんは一瞬黙ったものの、やっぱり口を開く。また単純なことを言われちゃうんだろうかと思って身構えていたら、意外なことを言われてしまった。

「ん、ごめんな。間宮が嫌がってるのにしゃべりかけてさ」
「え……」

 明るい声がしゅんとした声に変わってしまい、途端にうろたえる。

「ごめん。俺の自己満足だっていうのはわかってるけどさ、どうしても」
「ちょっと待って、どうしてレンくんが謝るの?」

 そんな声で謝られてしまったら、まるでこっちが悪者になってしまったみたいだから厄介だ。
 たしかに、見えない相手に色々話しかけられて、ついつい答えてしまうわたしが悪い。でも見えないレンくんに八つ当たってしまってもどうしようもない話だ。
 レンくんは「中途半端に立ってるんだったら、もう一度座り直せば?」と言うけれど、わたしは首を振った。

「ううん、わたしトイレ行く……は、入ってこないでね」
「ばっ……入る訳ないだろ!?」

 わたしはレンくんが悲鳴みたいな声を上げるのを耳にしながら、本当にトイレに向かった。
 特に催しているわけでもないので、ただ洗面所に入って手を洗うだけで留めた。

「はあ……」

 この一週間、レンくんにあれこれと声をかけられてしまった。
 図書委員の当番のときには、ときどき本の話をされ、学校でも人がいないときにぱっと声をかけられる。
 最初は人の目を気にして、できるだけ声をかけないように、そう努めていたはずなのに、気付いたらレンくんの言葉に返事してしまっている迂闊な自分がいる。
 でも……不思議なことに、わたしのプライベート空間では話しかけられたことが一度もなかったんだ。わたしの家とか、お風呂とか、寝るときとか。
 だから、病院で待合室にいるときに話しかけられるなんて思ってもいなかったから、テンパって変なことを言ってしまったような気がする。
 レンくんはちっとも悪くないと思うんだけれど……。いや、そもそも彼が幽霊なのか透明人間なのかなんなのか、ちっともわからないことのほうが問題なんだ。
 そもそも。彼はどうしてわたしのことを知っているんだろう。最初からわたしのことを「間宮」と呼んでいるし、わたしが交通事故で病院に運ばれたことを知っているみたいだった。
 知り合いで事故に遭った人なんていないし、病気で亡くなった人なんていないはずなんだけれど……。
 そこまで考えて、わたしは「ん?」と気付いた。
 わたしは、何故か交通事故に遭ったときの前後の記憶が抜け落ちているのだ。おまけに一日眠っていた。
 ……その間に、亡くなった人がいたんだとしたら?
 そう考えて、小刻みに震えが出てくる。わたしと一緒に事故に巻き込まれた人が、レンくんだとしたら?
 わたしは濡れた手をハンドタオルで吹きながら、意を決して待合席に戻る。
 もし、レンくんがわたしにくっついてきている理由が、交通事故のせいだとしたら。あまりにも申し訳がない。

「あの、レンくん?」

 きょろきょろと辺りを見回す。やっぱり見えない。
 周りの生温かい視線が恥ずかしい。でも、わたしだとレンくんがどこにいるのかわからないんだ。テレパシーでなんでもわかるわけでもないから、彼としゃべらない限り意思疎通なんてできない。

「ん、トイレ終わったか?」
「そう、いうのは、いいから……!」

 レンくんはわたしがさっきまで座っていたソファーにいるらしかった。わたしは恐る恐る彼の隣のソファーに腰をかけると、頭を下げる。

「なに?」

 レンくんがきょとんとした声を上げる。

「ご、ごめんなさい」
「なにが?」
「えっと、わたし。交通事故に遭ったときの記憶が、全然なくって……今でも思い出せてないから……」

 上手く言葉にできないし、どう考えてもわたしを励ましてくれているひとを悪霊呼ばわりもしたくなかった。
 でも、どうにかたくさん読んだ本の語彙を駆使して、言葉を絞り出す。

「レンくんがどうして死んだのか、全然わからなくって……本当にごめんなさい……わたしが生き残っちゃって……」
「間宮」

 途端に「ブフッ」とくぐもった声が聞こえた。え、なに……? もしかしなくっても、噴き出されたの?
 レンくんはこらえきれなかったように、声を上げて笑い出してしまった。きっと見えていたらお腹を抱えて足だってバタバタさせて笑っていただろう。
 それに、わたしは思わずポカンとする。
 ええっと……違ったの?

「あの、違ったの……かな。レンくんの正体」
「ぜんっぜん違う! 間宮ー、お前本っ当に想像力豊かだなあ、本読んでるとそうなるのかなあ……ああ、腹痛い……!」

 レンくんが声を出してなおも笑うのに、今度はわたしのほうが戸惑ってしまう。
 これは、交通事故で死んだ幽霊じゃないってことで、いいんだよね? そのことにほっとしたと言うべきか、じゃあレンくんの正体ってなにと言うべきか。
 ようやく笑い声は治まり、声のトーンを落として、レンくんは「まあ」と声を上げる。

「そこまで気にすんなって。むしろ俺、間宮にうっとうしがられてもしょうがないと思ってたから、謝られるとは全然思わなかったんだけどなあ」

 あ、変にお節介だなあという自覚はあったんだ。
 わたしが目をパチパチとさせていたら、レンくんは「だから」と続ける。

「間宮が俺のこと、思ってるより嫌わないでくれたことのほうが嬉しい」

 そのしみじみとした口調で、わたしは思わず固まってしまった。
 よくわからないけれど。レンくんが優しいとは思っている。でも、むしろわたしはどうしてレンくんに優しくされているのかのほうが、わからないのに。
 わたしはただの本好きで、特に取り柄がなくって、地味で目立たず生きている。見えない男の子がわざわざ気にかけてくれる理由が、全く思いつかない。
 見えないけれど、それが厄介だと思っているだけで、嫌ってなんかいないのに。