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「うう……」

 それからわたしは、「誰も見えないのに、声が聞こえる」と素直に言ってしまったために、再び病院内を車いすでたらい回しされることになってしまった。
 またCTスキャンを受けて、レントゲンを撮って、今度は視力検査や聴力検査まで行う羽目になってしまったし、家に戻っていたお母さんだって呼び戻されてしまった。
 そんな大げさな……と思っていたけれど、ナースのお姉さんにきつくきつく言われてしまった。

「トラックに跳ねられて、打撲だけっていうのは本当に奇跡に等しいんですよ! でも、トラックに跳ねられた直後はなにもないからって放っておいて、あとで大変なことになることだってあるんですからね! 面倒くさがらずに全部の検査を受けないと駄目ですよ!」
「はい……」

 思わずしゅん、としたし、途中でお母さんだけ先生に呼び出されたものの、結果としてわたしは悪いところはなにも見つからなかったらしい。
 それでも、一日の検査入院だったはずが、三日間入院って、入院日が伸びてしまったのに、わたしは不安になる。わたし、知らないうちにどこか悪くなってたのかな。
 ようやくベッドに戻ったあと、先生に呼び出されていたお母さんがやってくるので、わたしはおずおずと口を開いた。

「あの……お母さん。わたし、なにか悪いところがあったの?」
「ううん。ちっとも。あなた交通事故に遭ったとは思えない位健康そのものだって、先生も驚いてらっしゃったわよ!」

 そうお母さんは明るく言うので、わたしは思わず肩を落とす。それにお母さんはカラカラと笑う。

「トラックに跳ねられたせいで、ナイーブになっているだけよ。大丈夫。本当にどこにもなにもないんだからね?」
「うん……」

 お母さんはそう言ってから「それじゃ、お母さん帰るわね。明日また着替えを持って来るから」と帰っていくのを見送った。
 先生やお母さんが「どこも悪いところはなかった」と言うのに、どうして入院日が伸びたのかの理由は、結局は教えてもらえなかった。わたしはごろんと寝返りを打つ。寝てしまおう。不安で押しつぶされそうなら、押しつぶされてしまう前に眠っちゃおう。そう思ったとき。
 敷居のカーテンの向こうに誰かがいるような気がした。もう一度目を凝らすけれど、お母さん以外には誰もいないし、もう男の子の声は聞こえない。
 本当に、気のせいだったんだよね。
 その日はそう思うことにして、わたしは夕食の時間まで今度こそもう一度寝ることにした。寝る以外になにもやることがないって、本当に退屈だな。そう思いながら、目を閉じた。

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 今日は土曜日で、半日授業だったせいか、学校の友達も学校帰りに病院までお見舞いに来てくれた。

「泉ちゃん、本当に大丈夫!? 入院日が伸びたって聞いたから、本当に心配して……っ!」

 普段は滅多に大声を出さないのに、友達の沙羅(さら)ちゃんは感極まった声を上げると、わたしにギューッと抱き着いてきた。
 嬉しい。嬉しいけれど、痛い。わたしはギューギューと抱き着く沙羅ちゃんに目を白黒とさせていたら、絵美(えみ)ちゃんが声を上げる。

「沙羅、沙羅。泉の首が絞まっちゃうよ。それにほら、トラックに跳ねられたところなのに、打撲した場所に当たったら痛いでしょ」
「ああ、ごめんね!」

 大きな瞳に涙を滲ませながら、ようやく沙羅ちゃんは離してくれた。落ち着いている絵美ちゃんまで、目尻に涙が浮いている。わたし、ふたりにそこまで心配かけちゃったんだなあと、事故のことを全然覚えてないなりに反省する。

「う、うん……本当に大丈夫だからね、でもほら、ここは個室じゃないから、あんまり騒ぐと迷惑だよ……」

 わたしはできるだけ声を小さくすぼめてそう訴えると、慌てて沙羅ちゃんは両手で口を抑えた。

「ご、ごめんね……」
「ううん、いいの。ほら、車いす使ったら食堂まで行けるし、そこでしゃべろう」

 わたしがそう提案したことで、食堂に移動することになった。
 この一日で、わたしも車いすにすっかり慣れてしまった。わたしは沙羅ちゃんにおっかなびっくり車いすを押してもらいながら、一緒に食堂まで向かう。
 ここは病院内でも数少ないスマホを使っても大丈夫な場所だし、日当たりもいいから、食事時間以外は入院患者さんとお見舞い客の憩いの場として使われているし、ここでだったら食事制限さえかかっていなければお見舞いのお菓子を食べても大丈夫だ。
 入院食は、はっきり言って味が薄すぎておいしくないから、沙羅ちゃんと絵美ちゃんが持ってきてくれた駅前のパティスリーのプリンの卵の味がひどく懐かしくて、わたしはガツガツと夢中で食べてしまっていた。

「おいしい……うわあん、おいしいよう」
「泉ちゃん大げさ。入院食そんなにまずかったの?」

 沙羅ちゃんは笑いながら、絵美ちゃんは呆れて半笑いで、自分たちのプリンには手を付けずにわたしががっついているのを覗き見てくる。
 そう気付いて、わたしは食べるペースを少しだけ落とすけれど、もうカラメルソースの部分がスプーンに付いてくるだけで、プリンの部分がすくえない。

「まずいっていうよりも、味がないの。多分風邪ひいてずっとお粥しか食べてないって口には合うと思うけれど、わたし事故で入院しただけで、別に病気じゃないから」
「それってまずいって言うんじゃないかな」
「ダイエットにはいいと思うよ」
「それってやっぱりまずいんだよ」

 適当なことをしゃべりながら、学校の様子を聞く。
 授業のこともだけれど、わたしが入院していると図書委員の当番には既に連絡が入っていること、クラスの噂話。担任がまた子煩悩で新しい子供の写真をスマホに入れて自慢しているとか。
 わたしがいてもいなくっても、学校生活に変わりはないんだなあ。そうしみじみしながら、プリンのカップのカラメルソースをあらかたすくい終えたとき。
 沙羅ちゃんがちらっと食堂の外を見るのが目に留まる。今は入院患者のおじいちゃんがお孫さんとしゃべっているのが目に入るくらいで、誰もいない。

「沙羅ちゃん?」
「ううん、なんでもない。入院日が伸びたけれど、月曜日には戻ってこられるんだよね?」
「うん、そのはず。先生が大げさだったんだよ。わたしが頭の打ちどころ悪かったんじゃないかって、再検査するから」
「え……なにかあったの?」

 絵美ちゃんが険しい顔をしながらわたしを見てくるのに、わたしは言葉を詰まらせる。
 お母さんは学校にはどこまで話したんだろうなあ。多分沙羅ちゃんもうちに電話して、入院日が伸びたことまでは話しただろうけれど、再検査の原因までは話さないと思う。
 わたしは一瞬だけ目を泳がせたあと、どうにかでたらめを口にする。

「わかんない」
「えー……なあに、それ」
「先生たちが騒ぎ過ぎたんだよお」
「えー」

 絵美ちゃんは笑いながら、空っぽになったプリンのカップを集めると、ビニール袋に全部入れた。
 そして沙羅ちゃんは「はい、入院中、暇なら読んで」とわたしに紙袋をくれる。中には文庫の小説がいっぱい入っているのに、さすが沙羅ちゃん、わたしの趣味がわかっていると、ありがたくそれを膝の上に乗せる。

「とりあえず、入院して暇だろうけれど、明日もまた様子見に来るからね!」
「えー……いいよ、明日は日曜でしょう?」

 日曜だったら休みだし、わざわざわたしのために休みを潰さなくても……と肩を竦めるけれど、絵美ちゃんが「なに言ってるの!」と笑う。

「金曜の分のノート、全然取れてないでしょ? これだけ元気だったらノートくらいは写せるだろうから、ちゃんとノートを写しちゃいなさい!」
「授業も一日抜けてたらわからない場所あるかもしれないから、教えるから。ね?」

 そう言うふたりのスパルタに、わたしは「はあい……」と肩を落とした。
 現国以外の成績は、お世辞にもよろしくはない。多分一日だけしか授業休まなくて済んだとはいっても、わからないところがいっぱいだろうなと思うと、気が重い。
 ふたりが帰っていくのを見送ってから、わたしも車いすを動かして病室に戻る。おいしょとベッドに座ってから、もらった紙袋の中身を眺める。図書館でずっと借りる順番を待っていた追いかけている小説家さんの最新刊に、ミステリー小説の短編集。あとエッセイが数冊。土日でちょうど読み切れる量なのに、さすが沙羅ちゃん本当にわかってると口元が緩む。
 どれから読もうかなとわくわくしていたところで「うげえ」と耳元で声が聞こえたのに、わたしは気付いた。
 思わず顔を上げると、わたしが文庫本の物色をしている間に敷居のカーテンが開いていた。
 今は、誰もいないはずなのに。

「あ、あの……?」
「すげえなあ。文字がむっちゃ小さい」

 わたしがパラパラめくっている文庫のほうに声がかけられたのに、わたしはダラダラと冷や汗を流す。

「ゆ、幽霊……さん?」
「なにそれ」

 ずっと錯覚かと思っていた。気のせいだったんだと思い込もうとしていた。でも、たしかに。
 ここに男の子がいる……!
 わたしは思わず悲鳴を上げそうになったのに、先に「しぃー」と声がかけられる。

「大声で叫んだら困るんだろう? 隣のおばちゃんとか飛び起きちゃうだろ?」
「そ、そうなんだけれど……!」

 わたしは思わず声を萎めながらも、ちらちらと見る。
 やっぱり声だけ聞こえるのに、男の子の姿は見えない。

「あの、あなた……誰? どうして見えないの?」
「んー、わかんねえ。どうして見えないんだろ」
「や、やっぱり幽霊……」
「あーん、もう。その幽霊さんってやめろよ。なんかそういうのさあ、こそばゆいというか、変だろ、それ」

 幽霊のはずなのに、全然おどろおどろしくない人懐っこい声に、わたしは毒気が抜かれてしまった。
 昨日はびっくりして叫んだ挙句に酸素が足りなくなって気絶しちゃったのに、しゃべってみたら、不思議と落ち着く。
 見えない男の子はしばらく黙ったあと、こう言った。

「じゃあさ、俺のことはレンって呼べよ。お前はどう呼べばいい?」

 そう提案してきたのに、わたしは目をぱちくりとさせてしまった。
 見えない男の子に、名前を聞かれてしまったら、いったいどう答えるのが正しいんだろう。

「なあ、どう呼べばいいんだ? 間宮? 泉? さん付けとかちゃん付けのほうがいい?」

 じれたのか、見えない男の子にせかされ、わたしはどうしようと、膝に視線を落とす。そもそも、男の子に名前を呼ばれたことなんて、幼稚園以来一度もない。

「わ、たしは……間宮で、いいです……あの、あなたも苗字を教えてくれたら、それで……」
「えー、別にいいだろ? レンで。呼ばれ慣れてるし」

 ……見えない人が呼ばれ慣れているって、いったいどういうことなんだろう。
 そう思ったけれど、ツッコミを入れる度胸もないわたしは、おずおずと口を開いた。

「じゃ、じゃあ……レンくんで」
「別にくんはいらないんだけどなあ」
「わ、たし……恥ずかしいけれど……男の子を名前で呼んだこと……幼稚園の時以降、一度もなくって……」
「え、マジか」

 レンくんが驚いたように声を上げるのに、わたしは縮こまってしまった。
 なんだか見えない人に馬鹿にされたような気がするけれど、残念ながら見えない彼が、いったいどんな顔をしているのかはわからなかった。
 ただレンくんは感心したように「はあ……」「はあ……」「そっかあ……」としきりに言っているのがいたたまれない。
 ……派手なグループだったらともかく、地味で目立たない普通のグループにいるわたしは、男の子とまともにしゃべったことがないから、遠巻きで見るので精一杯で、声をかけたことも、まともにおしゃべりしたこともないよ。
 わたしが縮こまっていると、レンくんは「そっか」と言いながら、言葉を続ける。

「じゃあ、間宮がそれでいいんだったらそれで。じゃあな、明日もまた、来るから」
「えっ……来るって、ここに住んでいるんじゃないの?」

 幽霊って、一定の場所に留まっているものじゃなかったの? それとも、それはわたしが本で読んでそう思っているだけで、実際は違うの?
 わたしの素っ頓狂な言葉に、レンくんは「ぷっ」と噴き出したかと思ったら、笑い出してしまった。きっと見えていたら、お腹を抱えて笑っているような感じだ。

「あー……ごめんごめん、別に馬鹿にしたんじゃないんだ」

 ひとしきり笑い声を上げてから、まだ笑って声が突っ張っているのをそのままに、レンくんは言う。

「ただ、間宮は面白いなと思っただけで」
「えっと……世間知らずで、ごめんなさい……?」
「いや、そういうのじゃなくってさ。うん。まあいいや。それじゃあ、またな」

 それだけ言って、今度こそ彼の声は聞こえなくなってしまう。見えない彼は、本当になんの痕跡もなく「いなくなってしまった」んだ。
 わたしは読もうと思っていた文庫本を紙袋に戻し、ベッドの脇のカウンターの上に置き直すと、ベッドにぽすんと沈んだ。本を読む気が削がれてしまったんだ。
 思わずしゃべってしまったけれど。結局あの男の子は誰だったんだろう。
 幽霊じゃないとしたら、透明人間? それともわたしはずっと夢を見ているの?
 思わずふにっと頬をつねってみた。痛くない。続けて爪を立ててみる……痛い。夢じゃない。
 さっきまでの出来事は、やっぱり夢ではなかったんだよねと思いながら、レンくんが言ったことを思い返していた。
 明日になったら、また来るって言っていたけれど。また声をかけてくるのかな。本当に今いないのかな。見えないんだからわからないよ、そんなこと。
 わたしはベッドにごろんと寝転がった。やっぱりまだギブスが痛い。きっと彼は、見えたら格好いい人なんだろうな。こんな地味なわたしに明るく声をかけられる人なんだもの、きっといい人だ。
 そう思いながら目を閉じた。
 見えない男の子と、明日も会える保障なんてないけれど。