ずっとずっと息苦しくて、深い海に沈んでいるような感覚だった。
この世界は真っ白で色がない。
まるで設定を間違えてしまった写真のように、白くぼんやりと写っていた。
俺はあの日から何もやる気が起きなくて、半身を削がれた気分のままだ。
偉琉が死んでから、明日で三年になる。
◆
写真家のき碓井さんは俺の師匠で、雇い主で、そしてよき理解者であった。
碓井さんは、『お前の写真には心がなくなった』と言った。
俺が碓井さんの元でアシスタントをやるようになったのは、高校二年の夏にフォトコンテストで賞を取ってからだ。審査員をしていた碓井さんに声を掛けてもらった。
『総一郎はこれからもっと伸びる。新しい世界を見て、視野がどんどん広がっていく度に、もっと良い感動を伝えられるようになるよ』
だから、撮り続けろと言ってくれた。才能を買ってくれ、プロの世界に触れる機会を与え続けてくれていた。
しかし俺は、あの日からずっと写真を撮っていない。
スランプ?いや、違う。
原因なんて分かりきってる。偉琉だ。偉琉が居なくなったからだ。
偉琉に会えなくなってから、あんなにも煌めいていた世界が、急に霞んで見えるようになってしまったんだ。
『総一郎の技術は素晴らしいと思うよ。魂抜けたままでそんだけ撮れれば大したもんだ。露出も構図も完璧だよ。その才能があれば、この先もなんとなくやっていけるんだろうよ』
撮れなくなってからも、碓井さんは叱るでもなく慰めるのでもなく、ただ近くで見守っていてくれた。
だがこれはつい先日言われたことだった。情けなくも胸に突き刺さっていた。
とうとう呆れられてしまったか。
カメラを持つと寂しくて堪らなくなるんだ。楽しかった筈の思い出なのに、思い出すと泣けてくる。カメラを持つ腕は鉛のようで、フィルターを覗くと脳に電気が走るように痛みが走った。
だから写真はもういいかなって諦めていた筈なのに、突き放されたような気持ちになった。
期待に応えられない歯がゆさがちゃんとあるのに、撮るのが辛い。
『今の総一郎には何も感じない。ただ上手いだけで、ストーリーも感情も訴えるものが何もない』
碓井さんが俺に批評をくれたのは、賞をとって以来だった。
「最後通告かな」
自嘲する。
どうしても、シャッターを切るときの、あの高揚した気持ちを思い出せない。偉琉と一緒に、意欲まで失ってしまったのか。
偉琉の"最後の日"から仕舞いっぱなしだった。
お揃いだったカメラが入った段ボールは、埃だらけになっていた。
◆
偉琉との思い出の海を眺めてため息をついた。
俺達は毎日一緒にいて、同じ景色を見て、感動して笑いあった。特にここに来ることが一番多かったかもしれない。
あれ以来避けていた、三年ぶりの景色は泣きたくなるほど懐かしくて、潮風もやけにしょっぱく感じた。
なんとなく覚えてしまった煙草を口に咥える。美味しいわけでも格好つけたかったわけでもない。
ーーーーただただ寂しくて。
偉琉を失った穴を何かで埋めなくてはと思った。
理由もなく手を伸ばしたら、いつの間にか癖になってしまっていた。
ライターを取り出そうとポケットに手を突っ込んだらカサと音がした。偉琉の母親からの届いた手紙を、小さく折り畳み突っ込んだままだった。
『偉琉に会いにいらしてくれませんか。 お渡ししたいものがあります』
手紙が届いたのは二週間も前だ。
俺はずっと迷っていた。渡したい物とは何だろう。とても気になった。しかし葬式以来、墓参りも線香の一本さえあげにいっていない。薄情な友達だと思われていないだろうか。
さらに俺は、あいつとの約束を守れていない。今さらどんな顔して会えって言うんだ。
◆
初めて偉琉と出会ったのは高校二年の10月の終わり頃。中途半端な時期にあいつは転校してきた。
偉琉の第一印象は大人しそうなやつだな、だった。こんな時期に転校だなんて、いじめかと思うほど。
色白で、細くひょろっとしていた。
愛想が悪いわけではなかったが、特に誰とつるむこともなく、一人で携帯を弄っていることが多かった。
クラスでも接点がなかった俺達が仲良くなったきっかけは、カメラだ。
俺にはお気に入りの場所がある。
海沿い。大型遊覧船のデッキだ。
ここからの撮影は空も海も海鳥も、海浜公園で遊ぶ子供に散歩をする老夫婦も、高層ビル群に夜景、その日の気分で被写体を選べる。
ゆったりと移動しながら、その一瞬一瞬で目にとまった被写体をとる。
季節や天気によって表情が変わるものだから、それが面白くて、一時期は毎週末ここに来ていた事もあった。
たまたま応募したフォトコンテストで、賞をとった思い入れのある場所でもあるから尚更だ。
偉琉と偶然出会ったあの日も、俺はいつものようにデッキから撮影をしていた。
◆
きっかけはなんだったっけ。
そうだ。シャッター音が重なったんだ。
まったく同じタイミングでシャッターを切るなんて、なんたる偶然なんだと思った。
ライバル心と興味。
一体どんな奴が撮影をしているのだと、横を向いて、ハッと目を丸くした。
数メートル先に立って、同じ方向にカメラを構えていたのは、転入生だったからだ。
「あー……転入生の、白井……偉琉《タケル》だよ、な?」
名前間違ってないよな、とぼそぼそと喋った。
白井はなぜか顔を赤くした。
人見知りか?
「そうです」
「同級生なのに、なんで敬語なんだよ」
「緊張しちゃって」
思わず笑うと、白井はそうだねと頬をかいた。
「あー、クラス馴染みにくい?」
転入してまだ間もないしな。
「黒木君にだよ」
「は、俺? もしかして怖い?」
「違うよ。
黒木総一郎君。
君、フォトコンテストで賞を取ったでしょう。展示会で君の写真を観たんだ」
「え! マジ?!」
「僕ね、黒木君に憧れて写真を始めたんだ。
同じ景色を見てみたくて一緒の学校まで通い始めたんだけど、いざ本人を目の前にすると緊張しちゃって」
白井はえへへと頭を掻く。
ただファンだと言うには、聞き捨てならない発言があった。
自分がきっかけとなり、カメラを始めたまでは嬉しいとして。
よくよく見ると、白井のカメラ持っているカメラは俺と同じ色違いのもの。
「……ええと、そのカメラは」
「ああ、黒木君の使ってるカメラ調べて、僕も同じもの買ったんだ。いざ始めて見ようって思っても、何使っていいかわかんなかったから。
どうせなら憧れの人と同じ機種がいいでしょ」
顔を赤らめる白井に、俺は内心ちょっと引いた。
ストーカーかよ。
「あの、俺がいるから同じ高校に転校してきたって言った?」
「そうだよ。あんなにすごい写真を撮った人が同い年だって知った時、興奮しちゃってさ、すぐに親に頼んだんだ」
ファンとストーカーとは紙一重のようだ。
どう反応して良いかわからず視線をずらして「ああ、そうなの?」と曖昧な返事をした。
「写真の中が生きてた」
「え?」
「黒木君の写真からは、風と波の音が聞こえたよ」
不意にもらった感想に、ぐっと息がつまる。
「凄く好きだなって思ったんだ。
それで他の写真も見せてもらったんだけど、どれも息づいていて、一枚見るたびに感想が溢れでてさ。
たった一枚の絵で、見た人の色んな想いを引き出せるその力に感動したんだ。
感情を掻き回されて、僕、人生で初めて感嘆のため息っていうのでたんだよ。
それでさ、この景色を見れたら、僕の人生も何かが変わるかなって思ったんだ」
大人しい奴かと思っていたら、はっきり喋るし多弁な奴だった。
微笑む白井に、俺は照れて「んぐぐ」と唸った。
賞をとって、おめでとうと言うお祝いの言葉は沢山貰ったけれど、こんな風に感想をくれたのは碓井さん以来だ。
批評家ではない、ただのクラスメイトの感想にやたらと照れた。