仕事を終えた美奈は、同僚の坂下の住むアパートへと向かっていた。
右手にスーパーのビニール袋をさげて。
昨日、美奈の勤めているスーパーで、ちょっとした事故があった。
在庫置き場に無造作に立てかけてあった鉄製の脚立が、偶然通りかかった従業員の足の上に倒れ、その従業員は怪我をした。
その従業員というのが坂下だった。
そして、脚立を立てかけたのは・・・


美奈は、坂下の部屋の前で立ち止まった。
そして、もう一度、社員名簿から書き写したメモと部屋番号を照らし合わせてから、ドアをノックした。
まもなく足音だけがして、無言でドアが開けられた。
「どうしたんだ?」
坂下は、美奈の突然の訪問に驚いた様子で言った。
「ごめんなさい」
すかさず頭を下げた美奈の目に飛び込んできたのは、痛々しく包帯の巻かれた坂下の右足だった。
坂下は、この怪我のために、今日から仕事を休んでいる。
「あの脚立立てかけたの、私なの」
「そう」
坂下は怒った様子もなく、あっさりとうなづいた。
「上がってもいい?」
「え?」
「お詫びに晩御飯でも作ろうかと思って」
美奈は、手にしていたスーパーの袋を少し上げて見せた。
「ああ・・・どうぞ」
「おじゃまします」


「大丈夫なの?足の怪我」
美奈は、キッチンで料理を作りながら、リビングでくつろぐ坂下に声をかけた。
「たいしたことないよ。無理すりゃ出来ないこともないけど、立ち仕事だからな」
坂下は、精肉部で働いていた。
「労災も降りるっていうし、せっかくだからな。休んでて金がもらえるんだからありがたいくらいだよ」
「それならいいけど」
「お前の方はどうなんだ?」
「何が?」
「男の部屋に一人で来たりして、大丈夫なのか?彼氏いるんだろ」
美奈は、半年前まで同じ店にいた上田と付き合っている。
そして、上田と入れ替わりに入ってきたのが坂下だった。
「どうして知ってるの?」
「どうしてって、有名だぞ。似合いのカップルだって。パートのおばちゃんがよく話してるからな」
「関係ないじゃない、そんなこと。私が怪我させた人のお見舞いに来てるだけなんだから、当然でしょ」
「そりゃまあ、一応筋は通ってるけどな」


「いい嫁さんになるな」
料理を食べ終えた坂下が言った。
「え?」
「うまかったよ、料理」
「そう。ありがとう」
坂下がいい話をふってくれたので、美奈もつい、いきなり核心をついてみる気になった。
「坂下君は」
「ん?」
「結婚とかしないの?」
「結婚なあ・・・」
坂下は、タバコを一本取り出し火をつけた。
そして、近くにあった灰皿をテーブルの上に乗せ、話を続けた。
「めんどくさいだろ」
「何が?」
「親への挨拶とか、結婚式とか。盆や正月には、嫁さんの実家に帰ったりしなきゃいけないだろ。子供が生まれたら、またいろいろあるし」
「・・・」
「それに」
「それに?」
「拘束されたくないしな」
「ふーん、意外ね」
「何が?」
「坂下君て、遊び人なんだ」
「そういう意味じゃなくて。例えば、他に何かやりたい事が出来て仕事辞めようと思っても、制限されるだろ、結婚してたら」
「じゃあ、一人でも生きていけるような、自立した人見つければ?それだったら、気使わなくて済むでしょ」
「そんな女は好きになれないんだよ」
「そう・・・小説?やりたいことって」
「何で知ってるんだ?」
「何でって、有名よ。坂下君は小説家になりたいらしいって・・・」
「パートのおばちゃんか?」
「うん・・・その為に、こっちに出て来たんでしょ?」
「まあな」
坂下は三年前、小説家を目指し東京に出てきた。
別に、田舎にいたらプロになれないというわけではないが、東京に出てきたほうが、何かとチャンスが多いように感じたからだ。
それに、流れを変えたかった。
人生の流れを。
賞に出しても落ちまくり、恋愛もうまくいかなかった人生の流れを。
もしかしたら、それが一番の理由だったかもしれない。
このままじゃいけない。
何とかしないと。
そう思っていたとき、不意に〈上京〉という言葉が頭に浮かんだ。
それが、流れを変えるのに一番手っ取り早い方法だった。
「じゃあ、坂下君の夢に理解がある人見つければいいんじゃない?」
美奈は、話を元に戻した。
「でもな、相手がいいって言っても俺の気持ちがな」
「坂下君の気持ち?」
「ああ、好きな女に苦労はかけたくないからな」
「だったら、充分稼げるようになってから仕事辞めれば?」
「それにしたって同じだろ」
「何で?」
「小説家なんて不安定な職業だからな。他のプロと比べても」
「例えば?」
「プロ野球選手とかだったら、高い契約金もらえて、最低一年間は保障されるけど、小説家はそういうのないからな。俺が知ってる限り」
「それなら、一生生活していけるくらいお金貯まってから・・・」
美奈は、そこで言葉を切った。
坂下の、不思議そうな視線に気付いたからだ。
「何?」
「お前、やけにこだわるな。俺の結婚に対して」
坂下は、〈不思議そうな視線〉の作成理由を開示した。
「そんなことないわよ。ただ、同じ28歳として気になったから、つい・・・」
美奈は、洗い物をするために、食器を手に立ち上がった。
しかし、それは、あくまでも二次的な要素で、主目的は、坂下の視線から逃れるためだった。


「そろそろ帰るね」
洗い物を終えた美奈は、服の袖を直しながら坂下に声をかけた。
「駅まで送っていくよ」
そう言って、坂下は立ち上がりかけた。
「大丈夫。まだそんなに遅くないから。座ってて、怪我してるんだから」
と、美奈は制したが、
「じゃあ、玄関まで」
結局、坂下は立ち上がって、不安定な足取りで玄関までついてきた。
美奈には、その坂下の歩き方が、今日初めて見た時よりも少しましになっているように見えた。
私に心配かけたくなくて、無理してるんだろうか。
そして、それを見せたい為に、わざわざ見送りに来たんだろうか。
そんな事を考えながら、美奈は靴を履き向き直った。
「じゃあ、お大事にね」
「ああ、ありがとう。気をつけてな」
「うん」


美奈は、信号待ちをする車の運転席で思い出していた。
アパートのドアが開いたときの、坂下の驚きの表情を。
あれは、何に対する驚きだったんだろう。
〈私が〉来たことか、〈突然〉来たことか。
それとも、そのどちらともか。
そうだとしたら、どっちの比重がより高いんだろう。
まもなく信号が青になり、美奈は車を発進させた。


次の日も、美奈は坂下のアパートを訪れていた。
そして、昨日同様、キッチンで料理を作ろうとしたが、あることに気付き坂下に声をかけた。
「ねえ、他に鍋ないの?煮物作りたいんだけど」
「え?」
ソファーでテレビを見ていた坂下が振り返ると、そこには、取っ手の取れた鍋を手に困り顔の美奈がいた。
「ああ、それしかないんだよ」
「いつも、どうやって使ってるの?」
「そこに鍋つかみがあるだろ」
「新しい鍋買えばいいじゃない。安いのあるでしょ」
「そう思って買いに行ったんだけどな。鍋つかみの方が更に安かったから。世の中、上には上がいるもんだな」
「何よ、それ・・・」
美奈は仕方なく、その心細い戦力で料理を始めた。


美奈が料理を始めてから数十分が過ぎ、いよいよ佳境に入ろうとしていたとき、背後から坂下に声をかけられた。
「何で昨日、うちの店で買い物しなかったんだ?社員割引ききくのに」
振り返ると、坂下は、昨日、美奈が置いて帰ったスーパーのビニール袋を手にしていた。
それは、二人が働いているスーパーとは別の店の物だった。
「別に・・・遠いから。うちの店」
「そんなに変わらないだろ、ここと」
「そうかなあ・・・」
確かにそのとおりだった。
ここから二つの店までの距離は、ほとんど変わらない。
じゃあなぜ、美奈は自分の店で買い物をしなかったのか。
それは、気にしていたからだ。
美奈は、自分の家から遠く、しかも、電車通勤で荷物になるのが嫌だったので、普段ほとんど自分の店で買い物をした事がない。
そんな美奈が買い物をして変な噂を流され、もし、それが上田の耳に入ったら・・・
当然、上田は怒るだろう。
例え、正当な理由があったとしても。
ましてや美奈には、その正当な理由がなかったのだから。
坂下の的確な指摘に、美奈が答えを詰まらせていると、不意に鍋が悲鳴を上げた。
シュー!
すぐに気付いた美奈は、慌てて鍋の火を止め、何とかふきこぼれという事態から逃れることができた。
と同時に、坂下の追及の手からも。
それっきり、坂下は、その話題に触れることはなかった。
くしくも、美奈は、取っ手の取れた鍋に、救いの手を差し伸べられた格好となった。


三日目。
その日も美奈は、坂下の部屋を訪れていた。
そして、いつものように料理を作ろうと冷蔵庫のドアを開けたとき、美奈の目に、それは飛び込んできた。
いかにも高そうな箱に入り、異彩を放っているマスクメロンが。
「どうしたの?これ」
「何が?」
「マスクメロン」
「ああ、それな」
「買ったの?」
「いや、もらったんだよ」
「誰に?」
美奈には嫌な予感がしたが、聞かざるを得なかった。
「夏休みに、雑貨でバイトしてた高校生の女の子。名前なんだっけ。お前知ってるだろ、仲良かったから」
「・・・中山さん?」
「そうそう。その娘が今日来て、怪我させたお詫びにって・・・。お前じゃなかったんだな、脚立立てかけたの」
「・・・」
「いいって言ったんだけどな。強引に置いていっちゃったんだよ。せっかくだから、後で食べようか」
何で分かったんだろう。
事故は8月31日、中山香がバイトを終え店を出た後で起こっている。
そして、その日、夏休みが終わると同時に、香はバイトを辞めている。
あの日、美奈は香に頼まれて、最初だけ商品を取るのを手伝い途中でレジに戻った。
在庫置き場で作業をしていたのは二人っきり。
私がレジに戻った後で、誰かに見られたんだろうか。
そんなはずはない。
事故の後しばらく様子を見ていたが、誰も何も言い出そうとはしなかったんだから。
「何で分かったの?」
その疑問が、自然と美奈の口をついて出ていた。
「何が?」
「中山さん。坂下君が怪我したこと」
「ああ、パートのおばちゃんに聞いたんだって。街で偶然会って雑談してたら、俺の怪我の話題になって。で、事故が起きた時間からいって自分だろうって」
美奈は、その話題から逃れるために料理を始めた。
坂下は、そんな美奈を尻目に、一人で話を続けた。
「しかし、お前も人がいいよな」
「・・・」
「商品取るの手伝ったの、最初の方だけだったんだってな。脚立立てかけるときには、いなかったんだろ」
「・・・」
「仲いいからかばったのか?」
違う。
そんなんじゃない。
そんなんじゃ・・・
ただ、利用しただけだった。
坂下に近付く口実が欲しくて・・・
美奈は半年前、初めて坂下を見たときから、ずっと気になっていた。
しかし、美奈には上田という彼氏がいる。
上田には何の不満もなく、今も付き合っている。
結婚してもいいとさえ思っていた。
坂下が現れる前までは・・・
坂下に近付きたい。
坂下のことがもっと知りたい。
そう思っていたとき、ふと気付くと、美奈の目の前にそれは転がっていた。
坂下と、二人っきりで会うことができ、しかも、もし、それが上田にばれたとしても、別れにまではいたらないであろう理由が。
美奈は、迷うことなく、その〈理由〉を拾い上げた。
そして、誰にも気付かれることなく、自分の物にしてしまった。
と、思っていたのに・・・


「やっぱり、うまいな」
坂下は、食後のデザートとして、無邪気にメロンを頬張っていた。
しかし、
「何で食べないんだ?」
まだ全然口をつけていない美奈に気付いて言った。
「え?」
「嫌いなのか?」
「ううん、そんなことないけど・・・晩御飯でお腹一杯になっちゃったから。ラップしとくから、明日食べて」
そう言ってしまってから、美奈は、ほとんど手をつけずに残っている、自分の料理に気付いた。
「これも」
美奈は、料理とメロンの皿を手に、急いでその場を立ち去った。


「気をつけて」
美奈は、その坂下の声を、玄関で靴を履きながら背中で受け止めていた。
「今まで、ありがとう」
今まで・・・
その言葉が、美奈の上に重くのしかかり、靴を履き終えた後も、しばらくの間立つことができなかった。
これからは?
そう、未来はどうなるか分からない。
ひょっとしたら・・・
美奈は、その言葉の明るい響きだけを頼りに、勢いよく立ち上がり振り向いた。
「早く治してね。怪我」
「ああ」
美奈は、ドアを開け外に出る。
今にも口から飛び出しそうな、「もう、来ちゃいけないの?」という言葉を必死に抱きとめながら。
そして、静かにドアを閉めた。
二人が、ただの同僚に戻った瞬間だった。


「柴田さん」
出勤して早々、美奈は、スーパーの二階にある事務所で、店長から声をかけられた。
「はい」
「悪いんだけど、今日、鮮魚手伝ってくれないかな」
「いいですけど、どうかしたんですか?」
「パートの山口さんが休んでるんだよ」
「病気ですか?」
「いや、車に撥ねられたんだって」
「え!」
「たいした事はないみたいなんだ。昨日、連絡もらって、すぐにお見舞いに行ったんだけど、元気そうだったから。撥ねられたっていうより、ちょっと当てられただけみたいだから」
「そうなんですか。わかりました」
「フェラーリなんだって、相手の車。たぶん金持ちだろうから、いっぱいふんだくってやるって意気込んでたよ」
坂下の怪我のことを香に話したのは、山口さんなんだろうか。
店長の話を聞いた美奈は、なんとなくそんな風に思っていた。


「柴田さん」
その日の帰り、美奈は、スーパーの通用口を出たところで呼び止められた。
振り返ると、そこには、制服姿の香が立っていた。
坂下を怪我させた娘だ。
「どうしたの?」
美奈がそう聞くと、香はちょこんと頭を下げた。
「すいません。私の代わりに・・・」
「いいのよ。私だって少しは手伝ったんだし。坂下君の怪我は気にしなくていいわよ。たいしたことないみたいだし。わざとやったわけじゃないんだから」
「はい。坂下さんにも、そう言われました」
「そう」
こっちが利用した相手に逆に謝られ、居心地が悪くなった美奈は、話題を変えた。
「坂下君の怪我のことって、誰に聞いたの?」
「え?」
「鮮魚の山口さん?」
「はい、何で知ってるんですか?」
やっぱり。
恐ろしいまでの偶然だった。
〈人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ〉
美奈は、馬が躍動するフェラーリのエンブレムと共に、そんなフレーズを思い出していた。


「初めてね。こんな所に来るの」
美奈は、フランス料理店で、デザートを食べ終えて言った。
「そうだな」
向かいに座っている、スーツ姿の上田がうなづいた。
「この間のガキの使い見た?」
「ああ」
「面白かったね」
「そうだな」
「新しい携帯どう?」
「いいよ、画質きれいだし」
美奈は怖かった。
怖かったからしゃべり続けた。
こんな所に連れて来られた時から、大体予想はついていた。
上田が何を言い出すのか。
何を渡そうとしているのか。
それから逃れるために美奈は・・・
「この前ね・・・」
「ちょっといいかな」
上田は、美奈の話を強引に遮った。
「話があるんだ」
「・・・何?」
「大事な話」
「・・・」
「結婚してくれないか」
上田は、そう言いながら、美奈の前に指輪のケースを置いた。
美奈は、それをじっと見つめる。
受け取ってしまおうか。
そうすれば楽になれる。
上田は社交的で仕事もでき、同僚や上司の受けもいいから、たぶん出世もするだろう。
性格も良いし、見た目も結構かっこいい。
申し分のない相手だった。
ただ一つ・・・
遅かった。
もしこれが半年前だったら、何も迷うことなく、素直に受け取っていただろう。
坂下と出会う前なら・・・
結婚はタイミングだ、という話をよく聞くけど、まさにその通りだった。
こんな気持ちじゃ受け取れない。
こんな気持ちじゃ・・・
美奈は、黙って指輪を押し戻した。
「受け取ってくれないのか?」
そんな事は予想もしていなかったのか、上田の顔には戸惑いがあった。
「断るっていう意味じゃないの。ただ、急に言われたから驚いちゃって・・・ちょっと考えさせて」
「・・・そうか。そうだよな。大事なことだからな。ゆっくり考えてくれればいいよ」
落ち着きを取り戻した上田は、笑顔でそう言った。


「どうしたの?」
翌朝、更衣室で着替えをしていた美奈は、隣で着替えている同僚の美希に声をかけられた。
「え?」
「元気ないね」
「・・・そうかな」
その後、美希は、しばらく黙って着替えをしていたが、唐突にとんでもないことを言い出した。
「プロポーズでもされた?上田君に」
「え!?」
「やっぱりね」
「・・・なんで分かったの?」
「そろそろかなあと思って」
美希は、答えにならない答えをした。
「何が?」
「半年でしょ。上田君が店移動になって」
「うん」
「私のときも、そうだったから」
「私のとき?」
「うん。前の会社のときの話なんだけどね」
「・・・」
美希は5年前に、ここのスーパーに転職していた。
「そのときに、付き合ってた人がいたの。で、付き合いだして一年ぐらいだったかな。その人も転勤しちゃったのよ。上田君みたいに」
「それで?」
「転勤した後も、ずっと付き合ってたんだけど、5ヶ月位してからかな。急にプロポーズされちゃったの」
「それで、どうしたの?」
「断っちゃった」
「何で?」
「他に好きな人がいたから」
美希は、意味ありげに美奈を見た。
「・・・」
「ちょっと距離を置いたら、今まで以上に私の大切さが分かったって、彼は言ってたけど。気付いてたんじゃないかな、なんとなく。私に、他に好きな人が出来たって事」
「それで、その新しい人とはどうなったの?」
「ちょっと付き合って、すぐ別れちゃった。実際付き合ってみたら、ちょっと違ったのよね」
「そう・・・」
「と、まあ、これが、28歳独身女誕生秘話ってわけ」
「後悔してる?プロポーズ断ったこと」
「まあね。今考えると、あんないい人は、他にはいなかったのかなあって」
「・・・」
「上田君の方がいいと思うけどな」
「方って・・・」
「迷ってるんでしょ。坂下君と」
「・・・」
「やっぱり」
「ちょっと・・・」
「分かるわよ。美奈の様子見てれば」
「・・・」
「坂下君もいい人だとは思うけど、結婚相手としてはどうかな。人付き合いうまい方じゃないし、仕事できたとしても、あんまり出世しないんじゃないかな」
「・・・」
「もし、プロの小説家になれたとしても、不安定なんじゃないの。めちゃめちゃ売れれば別だけど」
「・・・」
「私の場合は、まだ若かったから良いけど。美奈、もう28なんだから」
「何言いたい事言ってんのよ」
「え?」
「勝手に決め付けないでよ!」
美奈は、一人で更衣室を出て行った。
そして、階段で一階まで下りたとき、すぐ横にある、精肉部の作業場から出てきた坂下と顔を合わせた。
「おう、おはよう」
「おはよう。もう、大丈夫なの?怪我」
「ああ、まだちょっと痛むけどな。あんまり迷惑かけても悪いし」
「そう。良かったね」
「悪かったな」
「何が?」
「心配かけて」
「別に・・・心配なんかしてないわよ」
そう言うと、美奈は、足早に立ち去って行った。


「避けられてるのかな、俺」
美奈と上田は、ファミリーレストランで夕食を摂っていた。
その席で、不意に、上田がそんな事を言い出した。
「え?」
「二週間ぶりだろ。会うの」
「・・・そんな事ないよ。たまたま、いろんな用事があったりしたから・・・」
確かに、避けたい気持ちはあった。
しかし、この二週間の間上田と会えなかったのは、本当にたまたまだった。
飲み会に誘われたことも。
突然、田舎の母親が訪ねてきたことも。
病気で入院した友達の世話をしていたことも。
そして、何より、坂下と出会ってしまったことも。
そう、すべては、たまたまだった。
「それならいいけど・・・」
上田は一応納得した様子で、また、料理を食べ始めた。


それは、何の予告もなく、ある日突然やってきた。
その日、美奈は、いつものように出勤し、売り場で行われる朝礼に出ていた。
店長の訓示に始まった朝礼は、普段どおりに進んでいった。
そして、そろそろ解散かという時になって、再び店長が口を開いた。
「最後に、皆さんにお知らせがあります。坂下君」
店長に呼ばれた坂下は前に出る。
「えー、坂下君は、今月いっぱいで退職することになりました。小説家としてデビューすることが決まったそうです」
店長のその言葉で、店内は静まり返った。
いや、実際にはざわついていたのだが、そのざわめきも、坂下の挨拶も、美奈の耳に届くことはなかった。


午後三時。
美奈は一人、休憩室に向かっていた。
いつもなら、休憩室に、誰か話し相手がいて欲しいと思うのだが、今日だけは違った。
とにかく、一人になりたい。
誰もいて欲しくない。
そう願いながら、美奈は、休憩室のドアを開けた。
しかし、中には先客がいた。
一人でテレビを見ている坂下が。
「休憩か?」
美奈に気付いた坂下が声をかけてきた。
「うん」
「・・・これ」
そう言いながら、坂下は、ポケットから取り出した小銭を美奈の前に差し出した。
「何よ、これ」
「おごるよ、コーヒー。色々ご馳走になったから」
「何よ、今頃」
「チャンスがなかったから。誰かに見られて、変に誤解されても困るだろ」
美奈は、それを受け取り歩き出した。
そして、自動販売機の前に立った美奈は、坂下にもらった三枚の硬貨を、しばらくの間じっと見つめていた。
振り返ると、坂下は、こちらに背を向けている。
それを確認した美奈は、その硬貨を、そっと自分のポケットにしまいこんだ。
そして、自分の財布からお金を取り出しコーヒーを買った。
コーヒーを手にした美奈は、坂下の向かいの席に座った。
「どうやって決まったの?デビュー」
「前に賞に出した小説があって、で、その賞には落ちたんだけど、別の雑誌の編集長がその小説読んで、気に入ってくれたんだよ」
「うれしい?プロになれて」
「まあな。連載っていってもいつ終わるか分からないし、原稿料も安いから、素直には喜べないけどな」
「連載なの?」
「ああ」
「そんなので仕事辞めて、大丈夫なの?」
「何とかなるだろ。一人だし、多少は貯金もあるし」
「そう・・・」
「やっとつかんだチャンスだから、集中したいんだ。後悔したくないしな。あの時仕事辞めとけばなんて」
「・・・」
「今の仕事やりたくてやってるわけじゃないし」
「なんていう雑誌に載るの?」
「え?言っただろ、俺。朝礼のときに」
坂下は、不思議そうに言った。
「ごめん、聞いてなかった。考え事してて」
「文英社のスピーク」
「いつから?」
「12月9日」
「二ヵ月後ね。だったら、まだ、仕事辞めなくてもいいんじゃないの?出来上がってるんでしょ、小説」
「書き直さなきゃいけないんだよ。枚数も足らないし」
「そう・・・。ペンネームは?」
「まだ決まってない」
「タイトルは?」
「気が済むまで」
美奈が質問するたびに。
そして、坂下が、その質問に答えるたびに。
それまでは、おぼろげにしか見えていなかった辛い現実が、はっきりと、その姿を美奈の前にさらけ出していった。


送別会の席で、坂下は笑っていた。
そんなにうれしいんだろうか、プロになれることが。
私に会えなくなることは、なんとも思ってないんだろうか。
坂下の笑顔が、美奈の胸を悲しく締め付けた。


酔っ払いの集団が、夜の街を歩いていた。
集団は、二次会の店に向かっている。
やがて、その集団の中の一人が、誰にも気付かれることなく離脱して行った。
そして、それを追うように、もう一人。


「大丈夫なの?主役がこんな所にいて」
一人で公園のベンチに座り、タバコを吸っている坂下に、美奈が声をかけた。
「かまやしないよ。連中は、酒が飲める口実が欲しいだけなんだから」
「・・・」
「現にこうやって、誰にも気付かれずに、こんな所でタバコ吸ってられるのがいい証拠だろ」
「私は気付いたわよ」
そう言いながら、美奈は坂下の隣に座った。
「お前は変わってるからな」
「どこが?」
「アルバイトの女の子かばってみたり、俺みたいな奴の後ついてきてみたり」
「そうか、変わってるか・・・そうかもね」


「そろそろ帰った方が良いんじゃないのか。みんな心配してるだろ。お前は俺と違って、人気あるんだから」
「・・・」
「それに、もし、こんなところ誰かに見られたら」
「いいわよ、別に・・・それならそれで」
美奈は、遠くを見つめながら、つぶやくように言った。
「変だな、今日のお前」
「・・・」
「何かあったのか?」
「・・・うん・・・ちょっとね。悩み事が」
「どんな?」
美奈は、すぐには答えようとはしなかった。
「・・・プロポーズされたの。上田君に」
美奈は、坂下の顔を見た。
一瞬、こわばったようにも見えたが、気のせいかもしれない。
暗さのせいではっきりしなかった。
「何で悩むんだよ。好きなんだろ、そいつのこと」
「うん」
「じゃあ・・・」
「もう一人いるから」
「何が?」
「他に好きな人が、もう一人・・・」
「・・・」
「どうしたらいいと思う?」
「俺に聞かれても・・・」
「分かると思うけどな・・・坂下君なら」
「・・・」
「その人も、小説家目指してるの。坂下君みたいに」
「・・・」
「参考にするから、聞かせてくれない?男の人の気持ち」
「・・・」
公園のブランコが、風に揺れた。
「そいつは、お前の事どう思ってるんだ?」
「それが分からないから聞いてるの」
坂下は、タバコを取り出し火をつけた。
そして、大きく煙を吐き出してから口を開いた。
「もし、そいつがお前の事を好きだったら」
「・・・」
「上田と結婚して欲しいと、思うんじゃないかな」
「何で?」
「好きな女には、幸せになってもらいたいからな」
「何でその人とだと、幸せになれないの?」
「なれないって訳じゃないけど、確率の問題だよ」
「お金なんてなくてもいいじゃない。一緒に苦労すれば」
「お前は良くても、相手はどうかな。そんなお前の姿見るのは、辛いんじゃないかな」
「・・・」
「お前には、笑顔が一番似合うから」
そう言って坂下は、携帯用の灰皿に短くなったタバコを入れた。
「それでいいの?・・・坂下君は」
「・・・」
「辛くないの?」
「・・・いいんじゃないかな、それで・・・もし俺が、そいつだったとしたらな・・・」
「・・・」
「現実は時に、醜く姿を変えるけど、思いでは、いつまでもきれいなままでいてくれるからな」
「・・・」
坂下は、腕時計を見て立ち上がった。
「もうこんな時間か・・・どうする?二次会に戻るか?家に帰るんだったら、駅まで送っていくぞ」
坂下がそう声をかけたが、美奈は、うつむいたまま動こうとはしない。
「どうする?」
坂下がもう一度聞くと、美奈は、やっと口を開いた。
「なに格好つけてんのよ・・・馬鹿」
「・・・」
「一生、一人でいればいいじゃない!」
美奈は、叫ぶように言って、そのまま走り去って行った。


美奈は、ただ、仕事をしていた。
坂下のいなくなったこの職場で、ただ、仕事をしているに過ぎなかった。
坂下は、昨日で仕事を辞めている。
一言も話さなかった。
あの送別会の日から昨日まで、美奈は、坂下と、とうとう一言も話さなかった。
そして、今日の昼、美奈は一本の電話をもらった。
「そろそろ返事くれないか。8時に、いつもの店で待ってるから」
電話の向こうで上田が言った。
美奈は、まだ迷っていた。
どうしたらいいのか。
どうすればいいのか。
散々迷った挙句に、美奈は結論を出した。
もう一度会ってから決めよう。
もう一度だけ、坂下に会ってから・・・
そう決心した美奈が、なんとなく外に目を向けると、店の前の道を、一台の引越し業者のトラックが通り過ぎて行った。


久しぶりだった。
この感触を味わうのは。
仕事を終えた美奈は、坂下のアパートの鉄製の階段を上がっていた。
そして、坂下の部屋の前にたどり着いたとき、美奈の胸に不安がよぎった。
部屋の明かりが消えている。
美奈は、その不安を打ち消そうと、力強くドアをノックした。
一回。
二回。
三回。
しかし、ノックの音はむなしく響き、その役目を果たすことなく消えていった。
その時、不意に、隣の部屋のドアが開き、四十代くらいの女性が現れた。
「あの・・・」
「そこの人なら引っ越したわよ。今日」
「どこに行ったかは・・・」
「さあ・・・」
それだけ言うと、その女性は、さっさと美奈の横を通り過ぎて行った。
後に残された美奈の脳裏を、今日店で見た、引越し業者のトラックが横切って行った。


「この電話は、現在使われておりません」
駅への道をたどる途中、美奈が携帯で坂下に電話をかけてみると、そんなメッセージが流れてきた。
機械的なそのメッセージは、いつにも増して冷たく感じられ、美奈の心に深く突き刺さった。
当然、行き先など、誰にも教えていないだろう。
美奈と坂下を結ぶか細い糸が、坂下によって断ち切られてしまっていた。
その時、道端にある缶コーヒーの自動販売機が、美奈の目に映った。
その前に立った美奈は、ポケットから、大事そうに三枚の硬貨を取り出した。
「おごるよ、コーヒー」
いつかの坂下の言葉を思い出しながら、美奈は、その三枚の硬貨を強く握り締めた。
そして、一枚ずつ、自動販売機に投入していく。
「さようなら」
と、つぶやきながら。


「いい加減捨てろよ、こんな物」
「いいじゃない、まだ使えるんだから」
「恥ずかしいだろ。誰か来て見られたら」
「大丈夫よ。そういう時は、ちゃんと他の使ってるから」
上田は、その取っ手の取れた鍋を見るたびに、そう文句を言ってきた。
その度に、美奈は、そう言い返していた。
美奈は、どうしても捨てる気になれなかった。
取っての取れたその鍋に、坂下の面影を映し出していたから。
美奈が上田と結婚してから、十年が過ぎていた。
そして、坂下と会えなくなってからも。
あの日、美奈は上田に返事をした。
それは、簡単な選択だった。
それまで二択だった問題が、一択になったのだから。
もう、迷うこともなかった。
今ではこうして、八歳になる一人娘の良美と三人、幸せに暮らしている。
これで良かったんだろうか。
これで・・・
坂下が、今どこで何をしているのか、美奈は知らない。
十年前、坂下の小説は、あの雑誌には載らなかった。
というより、出版社に問い合わせてみて分かったのだが、そんな話は元々なかったらしい。
坂下は、仕事を辞めると決めた時、すでに、美奈の気持ちに気付いていたんだろうか。
そのうえで、美奈に気を使わせないために、あんな嘘までついて身を引いたんだろうか。
今となっては知りようもない。
せめて、坂下の書いた小説だけでも読んでみたかった。


日曜日。
美奈は、娘の良美と二人、デパートに買い物に来ていた。
上田は、友人とゴルフに行っている。
特に、買いたい物があるわけではなかった。
二人分の昼食を作るのが面倒だったから、ここで一緒に済まそうと思っただけで。
「可愛いお嬢さんですね」
子供服を見ていた美奈は、女子店員に、そう声をかけられた。
「どうも」
「お母さんにそっくり。きれいになるんでしょうね、将来。お母さんみたいに」
きれいかどうかは別として、美奈は、確かによく言われた。
親戚や友人に、近所の人・・・
会う人ごとに、
「良美ちゃんは、お母さんにそっくりね」
と言われる。
そして、美奈自信もそう思っていた。
良美は日に日に、美奈に似てきていた。


美奈は良美と二人、停留所で、のんびりと帰りのバスを待っていた。
そして、手持ち無沙汰に辺りを見回していると、美奈の目に、それは飛び込んできた。
20メートルくらい先の路上で、本を売っている坂下の姿が。
横顔しか見ることはできないが、確かに坂下だった。
思わず歩き出しそうになるのを、美奈は必死で我慢した。
「良美ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
美奈は、良美の前にしゃがみ込んで言った。
「何?」
「あそこにね、白い服着た人が座ってるでしょ」
美奈は坂下を指差す。
「うん」
「あの人の所に行って、これで、あの人が売ってる本買ってきてくれない?」
と言って、美奈は、財布から二千円を取り出し、良美に渡した。
「一人で?」
「うん。お母さん、電話しなきゃいけないところがあるから」
「うん、いいよ」
良美は、初めて美奈にお使いを頼まれたのが嬉しかったのか、元気に走り出していった。
「気をつけてね」
美奈は、良美の背中に声をかけた。
美奈には勇気がなかった。
坂下と会う勇気が。
もし、会ってしまったら。
もし、話してしまったら。
自分がどうなるか分からなかった。
それが怖くて・・・
まもなく、良美は、坂下の所にたどり着いた。
すると、目の前にある映画館からどっと人があふれ出してきて、二人の姿は、完全に見えなくなってしまった。
不安げに見つめていると、やがて、その人ごみの中から良美が顔を出した。
両腕で、しっかりと坂下の本を抱きかかえながら。
その時、ちょうどバスが来て、美奈は、良美と共に乗り込んだ。
「はい、これ」
席に着くと、良美は美奈に本を差し出した。
「ありがとう」
美奈に本を渡した良美は、もぞもぞとポケットを探り出す。
そして、出てきた物は、美奈が渡した二千円だった。
「どうしたの?これ」
「いいって」
「どうして?」
「そっくりなんだって、私」
「そっくり?」
「うん。昔、大好きだった人に」
「・・・」
「おじさんが昔大好きだった人に、私がそっくりだから、お金はいらないって」
まもなく、バスは発車した。
そして、坂下の前に差し掛かると、良美が、坂下に向かって手を振り出した。
それに気付いた坂下も、笑顔で手を振り返した。
その目はいつしか、良美ではなく、美奈を見つめていた。
美奈は、良美に覆いかぶさるようにして、小さくなっていく坂下を、いつまでも見つめていた。
やがて、バスは交差点を曲がり、美奈は静かに腰を下ろした。
やっと別れることが出来た。
やっと、ちゃんと別れることが・・・
十年経って、やっと・・・
「どうしたの?お母さん」
「・・・」
「どうして泣いてるの?」
美奈は、良美の質問に答えることも出来ずに、ただ、じっと、坂下の本を抱きしめていた。