日本神話や神道において、人間が住む世界を現世(うつしよ)と呼ぶのに対し、神々が住む世界は幽世(かくりよ)と呼ばれ、永久の神域とされている。
人間は、異界である幽世に自由に踏み入ることはできないが、神々は別だ。
人と変わらない姿形でありながら、人知でははかり知れない絶対的能力を持つ、超自然的存在の彼らは、人知れず往来している。


ここ、神御座(かみおわ)町は、その名の通り『神が御座す町』として、古の時代から知られる街だ。
人口千五百人ほど。
四方を山に囲まれた小さな街だが、肥沃な土地に恵まれ、農作物がよく実る。
これは、空間的に隣接する幽世で、神々が常に人々の生活を見守り、福を授けてくれるためと信じられていた。


地神を祀る神社では、八百万の神に感謝を捧げる数多くの信仰儀式を、祭りとして催している。
祭りは『祀り』。
神に祈ること、交信すること。
異界の神をもてなし、共に楽しむ行事として、住民たちの間にも深く浸透している。
神御座町の住民たちは、時に人間を騒がせることもある神を崇拝し、畏怖しながら、悠久の時を共生してきた。



――これはそんな、神と人が共に暮らす街に生まれた一人の少女の、不運で悲劇的で幸せな嫁入りのお話。
「痛っ」


三年間通った高校の正門を出ると同時に、私は小さな声をあげ、左手を無意識に左目に当てた。
つい先ほど、卒業式が終わった。
高校生活最後のホームルームの後、クラスメイトたちが名残惜しそうに歓談を続ける教室から、一人ひっそりと出てきたところだった。


私は大学に進学せず、家業を手伝うことになっている。
これが、人生最後の下校――。


幼い頃から身体が弱く、友達が少ない私にとって、高校生活はそれほど楽しいものではなかった。
それでも、『人生最後』に感傷的な気分になった途端、目の痛みに襲われた。
右手に記念品の入った紙袋を提げ、左手には卒業証書を入れた筒を持っていた。
私の足元に、筒がカランと音を立てて転がる。


「う……」


右目を頼りに視界を確保し、支えを求めて正門の柱に寄りかかる。
左目がズキズキと痛い。
この痛みは、ゴミが入って眼球が傷ついたとか、そういう類のものではない。
もっと奥の方、視神経に繋がるあたりの痛みだろうか?
痛みを堪えながらも、わりと冷静に判断できたのは、これが初めてではないからだ。


最初は三カ月ほど前だと思う。
忘れた頃時々痛むくらいだったのが、ここ最近は頻回だ。
一日に数回見舞われることもある。


なんだろう……心の中で疑問を呈し、どことなくよぎる不安に、無意識にブルッと身体を震わせた時。


水葵(みずき)っ! どうした?」


たった今出てきたばかりの正門の方から、やや上擦った声がした。
顔を上げてそちらを向かなくても、幼なじみの千雅(せんが)だとわかる。
この学校で……いや、この狭い街で、私を下の名前で呼び捨てにするのは、両親と亡くなった祖父母以外、彼しかいない。


「目? 目がどうかしたのか?」


ちょっと張り詰めた声が近付いてくる。
私は自分を落ち着かせようと深呼吸してから、ゆっくり左目から手を離した。
目の前に立つ、私より十五センチ近く背の高い彼を見上げる。


すっきりとした短髪。
男らしい太い眉が印象的な精悍な顔に焦点を合わせようと瞬きしても、右目だけで捉えていた視界と見え方に大差はない。


「大丈夫。ちょっと……ゴミが入っただけ」


私は自嘲気味に呟いて、かぶりを振った。
まるで、嘘を裏付けるように強い風が吹き、背中半分の長さがある私の黒髪が揺れる。
私は前髪を左手で押さえ、心配そうに見下ろす千雅から目を逸らし、唇を結んだ。
私は生まれてすぐに高熱を出し、その影響で左目の視力が弱い。
正常な右目と比べると瞳の色も極端に薄く、青みがかった灰色。
この目を、幼い頃、同年代の子供たちに気味悪がられた。
見られないよう、いつも前髪を長くしている。


卒業。新たな旅立ちを前に、別れを惜しむ友達がいないのも、今に始まったことじゃない。
千雅は、なにか言いたそうに私を見ていたけど、ふとなにか気付いたように歩いていった。
黒い学生服の背中を目で追うと、私が落とした卒業証書の筒を拾って、こちらに戻ってきた。


「ほら」

「う、うん。……ありがとう」


ヌッと胸元に突き出され、私はそっと手を伸ばした。
だけど、受け取ろうとした手が宙を掻く。


「っ……」

「おい。どうした?」

「ごめん。ありがとう」


私はもう一度お礼を言って、今度は慎重に筒を受け取った。
千雅は訝し気に首を傾げてから、


「帰ろうか」


私を促し、先に立って歩き出す。
私は胸元で一度、筒を持つ左手にギュッと力を込めてから、改めて彼の背中に目を凝らした。


――ああ、やっぱり。
もともと、ぼんやりとしか輪郭を結べない左目が、今は光さえ感じない。
私は、二宮(にのみや)水葵。
この街の氏神、地神を祀る神社を代々守り継いできた一族の生まれで、父は現宮司だ。
私の家は街の北の外れ、神社の敷地内、参道から右に折れた道の奥にある。


三十分ほど歩いて、神社に着いた。
舗装された道路から逸れるとすぐ、大きな赤い鳥居が見える。


「じゃ、またね」


細かい玉砂利が敷き詰められた道に足を踏み入れてから、千雅を振り返った。
なのに彼は、「いや……」と頭を掻く。


「あ。そうだ。ついでに、本殿にお参りして帰ろうかな」


思い出したようにポンと手を打つ彼に、私は首を傾げた。


「また? 先週も……」

「別にいいだろうが。何度詣でても」


ムキになって言われて、ひょいと肩を竦める。
まあ、私もそうだけど、この街で生まれ育った大半の人が信心深い。
千雅はちょっと前まで大学合格祈願で足繁く通っていたし、今度はお礼参りか。


私はそう納得して先に進み、鳥居の前で足を止めた。
千雅も隣に並んだ。


鳥居は、結界。
神様が住む世界への入口と言われる。


二人揃って一礼してから鳥居をくぐり、右に寄って並んで歩き出した。
真ん中は正中。神様の通り道だ。
参道の中ほどまで行って、私は足を止めた。


「じゃ」


境内には行かないから、お参りに御社殿に向かう千雅とはここでお別れだ。
千雅は「ん」と頷いたものの、やはりなにか言いあぐね、ポリッとこめかみを掻く。
「? 千雅?」

「ええと……水葵、あのさ」


呼びかけた声が被った。
私が譲って口を噤むと、千雅が思い切ったような顔をして、一歩前に踏み出してくる。


「水葵、来週誕生日だろ、十八の」

「うん?」

「映画でも行かない? 祝ってやるから」

「……わざわざ隣町まで?」


私はギョッとして聞き返した。
高校から徒歩圏内に、街一番の繁華街があるけど、映画館なんて高尚な娯楽施設は、バスに乗って一時間、隣町まで行かないとない。
千雅はグッと詰まってから、気を取り直したように胸を張る。


「もう春休みだし、別にいいだろ? お前、進学しないから暇じゃん」

「でも、神社の手伝いしなきゃ」

「誕生日くらい、休ませてもらえよ」


やけに押しが強い彼に怯み、私は『うーん』と考えた。


「……一応、お父さんに確認してみる」


そう答えると、千雅は目に見えてホッとした顔をした。


「じゃ、近くなったらLINEする」


私の父がダメとは言わないと決め込んでいる彼に、苦笑した。
千雅の父親はこの街で四期目の町長で、宮司の父とは公使ともに付き合いがある。
それもあって、子供の私たちも、生まれた頃から家族ぐるみの関係だ。
確かに、千雅と一緒と言えば、ちょっと遠出でも父は許可するだろう。


「うん。じゃあ、また」


私は今度こそ手を振って、彼と別れ、参道から右の脇道に進んだ。
その夜、十一時。
お風呂に入って自室に下がった後、再び左目が痛み出した。
昼間と同じように手で押さえ、固く目を瞑って痛みを紛らわそうとする。


ひと月に一度通っている眼科の先生には、学年末テストの勉強の疲れかも、と言われている。
次の診察まで、まだ二週間ある。
その前に診てもらった方がいいだろうか。


せっかく、来週千雅と隣町にいく許可をもらったけど、右目が頼りの私に映画は疲れる。
やめておくべきかな。
あまり無理して、このまま本当に見えなくなったらという恐怖で、心臓がドキンドキンと激しく打ち出し、床にペタンと座り込んだ。


両親には、この目の痛みのことは相談していない。
二人とも過保護で心配症だから、ちょっとしたことでも大袈裟になってしまうからだ。
でも、どうしよう。
どうしよう――と、痛みに耐えながら葛藤していると。


「!?」


いきなりザアッと強い風が吹きつけて、ビクンと肩を震わせた。
窓は開いていないはずだ。
ちゃんと閉まっているのを確認しようと目を開け――。


「俺が与えた神力が、尽きかけている」


物憂げな低い声と共に頬を撫でられる感触に、ひゅっと音を立てて息をのんだ。
目の前に、漆黒の装束を身に着けた男の人がいた。
片膝を突き、私の目……色の抜けた左の瞳をジッと見つめていた彼と、真正面から視線がぶつかる。