「漫画の長すぎるモノローグは隙だらけなのか」の記事の作成から1ヶ月が過ぎた。
隆典はラッキーゾーンのオフィスでいつものように記事を作っている。Tシャツにジャケット、ズボンという普通の姿。霊界大戦のキャラの格好から解放されたのだ。
「すかんくえいぷ君、これ見て。自信作」
林田モジャラこと中村明日香はA4の紙の束を持って隆典に声をかけた。web記事の原稿を印刷したものだ。
彼女は黄色のカーディガンに下はスパッツという普通の姿。随分前に霊界大戦スタイルとはおさらばしている。
web記事は「最高の二度寝をしよう」という企画だ。4人のライターが二度寝の方法を競い合い、それを林田モジャラが点数をつけ、優秀者を決めるというものだ。
「自信作ってどういうことです?」
「まあ読んで見てよ」
林田モジャラはドヤ顔だ。
読んでみると実にくだらない。褒め言葉だが。
お香を炊き始めたり、お酒を飲み始めたり、なぜか柔道の受け身の練習をした後でベットインと実に個性的な二度寝の数々だが、その中に透子が参加していた。
「あれ、10円ミンクって、栗林ですね。彼女は僕の補助と経理のはずですけど」
「ほんとは三人だったんだけど、2週間くらい前に加えてくれって直訴してきたのよ。アイデアが面白かったから、急遽加えたってわけ」
「はあ」
「面白いでしょ」
透子は針金と紙粘土を使って「腕枕をしてくれる彼氏」を自作していた。顔は福笑いのように上下左右のバランスが微妙に崩れている。ちょっと怖い。その腕枕をしてくれる彼氏の腕に頭を乗せようとするがうまくいかずグダグダになっていた。だが、ラッキーゾーンの記事はそのグダグダ感を楽しむものでもある。むしろ、グダグダこそが売りだ。
「リベンジってこのことか」
「どういうこと?」
「いや、こっちの話です」
隆典は林田モジャラに原稿を返して、自分のパソコンに向き直った。ひと月前の仕事で夕月から受けた屈辱。それを仕事で返すということか。途轍もない執念を感じる。
目黒川小学校の児童館は、校舎のすぐそばに立っている2階建ての建物だ。建造してから何十年も経っているからだろうか、外壁の塗装がところどころ剥げていた。
児童館の中に体育館の二分の一の大きさのホールがある。ホールの床にブルーシートが敷かれている。土曜の昼下がりの陽の光がホールの中に差し込んでいる。
隆典と透子は稽古着に袴姿の居合の先生の平井広治氏とブルーシートの上で話をしている。
隆典の手には何故かさつまいもがあり、透子の足元には大型のスポーツバックが置かれている。
そして、平井氏の腰には朱鞘の日本刀が差してある。真剣だ。
「丹下・シャー・善」という霊界大戦のキャラクターがいる。居合で主人公サイドを助ける男だ。この男はあらゆるものを斬る。服やら車やらミサイルやら稲妻やらおならやら実にバラエティ豊かだ。
今回隆典と透子は「丹下・シャー・善の技を再現しよう」という企画で、居合道の先生をしている平井氏に可能な範囲で丹下・シャー・善の技を再現してもらうことになっている。ちなみにミサイルや車などを斬るシーンは画像編集ソフトを使って再現する予定である。
霊界大戦の技を再現してくれる居合道の先生を探すのは非常に困難を極めた。
だいたい、武道を教える先生というのは堅物で真面目な人が多い。「丹下・シャー・善の技を再現してくれませんか」なんてお願いしても普通は無視される。隆典がどれほど丁寧な電子メールの文面でお願いしても、お断りの文面が届くのはまだいい方、返事すら来ないことも多い。ふざけたお願いを聞いている暇はないというのが居合道界隈の認識のようだ。
そんな中で唯一OKを出したのが平井氏だったというわけである。隆典が出した何通ものメールのうち「僕、すかんくえいぷさんの記事をいつもみてます」の言葉を添えてOKの返信をしてきたのはこの人だけだ。
そして数度の打ち合わせの末、平井氏が普段使っている稽古場である児童館で、土曜の朝稽古後の昼に企画の収録となった。
「今日はこんな不躾なお願いを聞いて頂き、ありがとうございます」
隆典が丁寧な言葉で丁寧に頭を下げた。ラッキーゾーンの仕事はくだらないものばかりだが、外部の人間に協力をお願いするときは最大限の礼儀を持ってお願いしている。
なぜなら、普通の人間に時間の無駄遣いをする暇はないからだ。その貴重な時間を割いてもらうからには最大限の礼儀を尽くすものなのだ。
「こちらこそ、ずっと好きだったブログの記事に協力できるなんて感激です、外崎さん」
平井氏は関西訛りでにこやかに言った。歳は52だが、その歳ですかんくえいぷのブログのファンというのは珍しい。平井氏には透子と隆典のペンネームを伝えてあるが、基本的に平井氏は本名の苗字で二人を呼んでいる。なんとなくペンネームで呼ぶのは恐れ多いというのがその理由だそうだ。
「そのような言葉をいただけるとは光栄です」
隆典は最大限の敬語を使っている。さつまいも片手だが。
今回の企画は真剣を使うため、危険極まりない。良い子のみんなは真似しないでくださいと言ったところか。
平井氏と会話をしながら、隆典はもしかしたら、居合道家に断られたのは馬鹿馬鹿しいからではなく、危ないからではないかと思い始めていた。何か事故があった時、責任は取れない。だから断ったのではないか、と。
ある程度まで近づかないとおならは届かない。近すぎると尻が斬れる。そう考えると、緊張のあまり、お尻からおならではなく実が出てきそうだ。
「平井さん、あの……本当に大丈夫なんですか」
「何がです?」
「あの……おなら斬るの……危なくないですか」
「僕に任せてください。仕損じるような真似はしません」
関西訛りのイントネーションの声に揺るぎない自信と覚悟が混ざり合っている。太い眉毛。刀にかけている指も太くて分厚い。
隆典は平井氏の立ち姿を見るうちに自然と心が落ち着いてきた。本来なら、こちら側が先に覚悟を持っていないといけない立場だ。webライターは何をやるにも自己責任。今更弱気になんてなれない。
「お願いします」
隆典は手にさつまいもを食べ始める。おならを出すにはさつまいもが一番だからだ。
おならが出そうなタイミングで「出ます」と言いながら隆典がお尻を出す。おならの音が出たと同時に平井氏が刀を振り下ろして「おならを斬る」という段取りだ。
平井氏は隆典から1メートルほど距離をとり、静かに抜刀し上段に構えた。透子も大型のスポーツバックを持って二人から距離をとってスマートフォンを構え、撮影の準備に入った。
「出ます」
隆典がさつまいもをブルーシートに置き、急いでズボンをずり下げてお尻を平井氏の方に向けた。
平井氏は眼光鋭く隆典のお尻を睨みつけている。集中しているのだ。
大きなおならの音が響いた。
平井氏は掛け声と共に上段から一気に刀を振り下ろした。刀の先から衝撃波が出ているかのような迫力だ。隆典は突き出したお尻にわずかながら風圧を感じた気がした。
平井氏は刀を音もなく鞘に収めていく。隆典はズボンをずり上げている。
透子はスマートフォンを下ろすと大きなため息をついた。撮影の間、緊張で息が詰まっていたのだ。
「すごいですね」
隆典は拍手をしながら平井氏に駆け寄った。
「言ったでしょう。僕に任せてくださいと」
平井氏は背筋を伸ばして少しドヤ顔をしている。
「お尻に風圧感じましたよ、風圧」
隆典は興奮してしゃべっている。平井氏はドヤ顔気味の穏やかな表情だ。
「すいません、次、お願いできませんか」
透子が2人に声をかけた。そうだ、まだ企画は終わっていない。でも……
「少し休憩を挟んだ方がいいんじゃないか」
隆典はたしなめるような調子で透子に声をかけた。
「いや、すぐがいいです」
「でも、平井さんだって……」
「私には時間がないのよ」
平井氏には透子の「余命」は伝えていない。余計なことだと隆典は思ったからだ。
「でも、こっちの都合を平井さんにあまり押し付けるなよ」
「僕は大丈夫ですよ、外崎さん」
平井氏が穏やかオーラを発して言った。どこまで器が大きいんだ、この人。
「むしろ、僕もせっかちな方なんで。ちゃっちゃとおわらしましょ。ちゃっちゃと」
平井氏は穏やかな表情をしている。
「すいません、平井さん」
隆典は仕方なく透子からスマートフォンを受け取った。
透子と平井氏が再現するシーンは、本来は服の背中が燃えている状態で空を飛んでいる人物の背中の服だけを、すれ違いざまに丹下・シャー・善が斬るというものだ。服を燃やしながら空を飛ぶのは再現不可能だったので、今回はヘッドスライディングする透子のカーディガンだけを斬ることになった。それでも、下手をすれば顔を斬りかねない。かなり危険だ。
透子と平井氏が児童館の端から端まで離れて向かい合った。まるで果たし合いの前のようだ。
平井氏は少し中腰気味に立った姿勢で、鞘に収まった刀の柄頭を透子の方に向け、刀の鯉口を切っている。
対する透子の方は駅伝などの長距離走のスタートの姿勢だ。
隆典は二人がカメラの画面にちょうど入る位置に移動した。
「行きます」
透子は少し助走をつけて、平井氏の3メートル手前のあたりでヘッドスライディングをした。透子が平井氏の横に飛び込むと同時に、平井氏は透子の赤いカーディガンに抜き打ちを浴びせた。透子は勢い余って児童館の壁に激突した。
「あだだだだだだだ」
透子は顔を抑えてうずくまっている。
「大丈夫か」
隆典がカメラを止めて透子に駆け寄ろうとした時だった。
「ああ!」
隆典が大声を上げる。静かに納刀をする平井氏の足元に20センチほどの赤い布切れが落ちている。透子のカーディガンの生地だ。
「何……あ!」
透子はカーディガンを脱いで確認すると、裾が短くなっている。
「嘘でしょ……服だけ……」
「すげえええええええええええ!」
隆典はカーディガンの生地を拾い上げて大声で叫んだ。
三人はブルーシートの上で抹茶饅頭を食べている。透子が持ってきたものだ。
平井氏はにこやかである。神だ。神様みたいだ。おバカな企画に付き合ってくれるし、こっちの緊張ほぐしてくれるし、ファンなんて言ってくれるし。隆典は天にも登りそうな気分だ。
「外崎さんのペンネーム、何が由来なんです?」
「ああ、これはスカンクエイプっていうUMAが由来です。子供の頃そういうエイリアンっぽいのが好きだったんですよ」
「はあ。なるほど。僕、イタチの仲間のスカンクかと思いましたよ。で、栗林さんは10円ミンク。ちょうどミンクとスカンクで、両方イタチっぽい」
「ああ、そういえば」
「僕昔、仕事先でミンクの毛皮のこと、おならするやつの毛皮って言ってえらいことになったことがありましてね」
「そ、そうなんですか」
平井氏は終始フランクな感じで話しかけてくる。厳しい武道の先生という雰囲気とはかけ離れているが、厳しそうだから凄いわけではないことは、先ほどの神業を見て十分にわかった。
「ところで、気になったんですけど、栗林さん」
「はい」
「時間がないって言ってましたよね。何かご予定でも…」
隆典は抹茶饅頭をかじりかけのまま固まった。まずい。平井氏はどうやら、余命のことを伝えていないせいで、「時間がない」の一言を「スケジュールが押している」という意味に勘違いしたようである。
「いやその、それは……」
隆典が弁解しようとするのを遮り、透子は話し始める。
「私は、余命半年なんです」
「ああ、それは……大変な時期にわざわざ」
平井氏は少し驚いた様子を見せた。隆典と再会し、ラッキーゾーンに入社してから一月は過ぎているため、実際にはもう少し短いのだが。
「あの、気をつかわせてしまったらすいません」
「いえいえ。大丈夫ですよ。それにしても、なんでそんな大変な時にこんな変な企画しよう思うたんですか。言うちゃなんですけど」
平井氏も、以前隆典が抱いたのと同じ疑問を透子にぶつけた。
「それは死んだ後、皆に忘れて欲しくないって思ったから。馬鹿すぎることをすれば、馬鹿すぎてみんなずっと覚えてるだろうから」
「はあ……なるほど。どうりで思い切りよくヘッドスライディングできるわけや。普通尻込みしますよ。顔斬れるんちゃうかって」
平井氏は感心した様子で透子を眺めている。
隆典はそんな平井氏を驚いた様子で見つめている。
「平井さん、馬鹿にしないんですね」
「外崎さん、とんでもない。馬鹿になんてできないですよ。むしろ、立派やと思います」
「立派」
「ええ。人間、余命なんて簡単に認められません。現実が認められない、受け入れられないものなんです。その点、この子は立派です。受け入れて、じゃあどうしようって次の行動に移せてますから」
「な、なるほど……」
隆典は手に持った抹茶饅頭を食べかけのまま、平井氏の顔に見入っている。居合の技術もすごいが、なんだか考え方もすごい。
「でもね、死んだ後でも覚えていてもらおうって、なんだか後ろ向きな気がしてくるんですよね」
「……」
透子が視線を落とした。自分を否定されたような気分になったんだろう。平井氏は慌てて付け足す。
「別に、栗林さんのことをけなそうと思ったわけではないんです。ただ、人間覚えてる方が辛いこともあるんじゃないかって思ってね」
「覚えてる方が、辛いこと」
「そうです。これは、僕の師匠なんですけど、お酒の席で、いつも自殺した息子さんの話をするんです。私があの時、こうしてればって自分を責めるんです。そういうのを見ると、覚えてる方が、辛いんちゃうかなって」
透子はまだ視線を落としている。ブルーシートの上には、封を開けた抹茶饅頭の箱がある。6個あったうちの3つが無くなり、箱の傍らに包み紙が重ねられている。
「うーん、言葉って難しいなあ。上手く言えんのやけど、要するにこういうアホみたいなことを普通のことにしてほしいって思ってるんです」
「普通のことに……」
透子は平井氏の方に向き直している。平井氏の言葉を必死に受け止めようとしている。
「そう、普通のこと。だって外崎さんはこういうことをもう普通のことにしてるでしょ」
「確かに」
透子は納得した様子で聞き入っている。
「普通にしてると言われても」
隆典は戸惑っている。要するに、透子にアホなことにどんどん挑戦してもらいたいと言いたいのだろうか。
「でも、私はね、外崎さんの普通にいつも助けられてます。なんぼ辛いことがあっても、外崎さんの記事見ると元気出てきますもん」
隆典の胸の奥にジンと熱いものが込み上げた。自分のやっている馬鹿な行動に対して、これほど熱い感謝の気持ちをぶつけられたことはなかった。
「きっと、栗林さんも普通にできます。まだ、半年あるんですから。半年続ければ、日常です。なんたって10円ミンクですから。ミンクとスカンク、そっくりさん。おかしなとこも一緒」
「なるほど、うまい」
透子が笑っている。
「うまいのか」
隆典は首を傾げている。
ラッキーゾーンのオフィスに、窓からの西日が差し込んでいる。もうすぐ日が沈む時間帯だ。平井氏と別れて、二人は目黒川小学校からオフィスに帰ってきていた。記事の原稿を書いた隆典は鞄に荷物をしまっている。帰宅の準備だ。
透子はデスクのパソコンに向かい、経理の仕事をしている。領収書の整理は、記事の執筆の合間にするため、時折帰宅が定時をすぎることもある。
「本当にいいのか」
「鍵くらい自分で閉められるわよ」
「そうじゃなくて、これからもずっと、この仕事続けるのかどうかってこと」
平井氏から言われたことを、隆典は気にしていた。
透子はキーを打つ手を止めた。
「ずっと憧れだったの、こういうことが。でも、諦めてたの」
「憧れ?」
「そう、私も外崎君みたいになりたいって思ってたの」
隆典には意外だった。頭がおかしくなったわけでも、やけになったわけでもなく、憧れ。
ずっと自分のことなんて真面目ビームで興味なかったと思ってたのに。
「みんなで可笑しな闇鍋したり、変な人形作って戯れたり、可笑しな実験したり。平井さんと一緒。すごくくだらないけど、お腹いっぱい笑わせてくれて。いっぱい幸せになれたから」
透子は、少し顔を赤らめて隆典の方を向いている。こういうことを話すのはかなり気恥ずかしいようだ。
「自分には向いてないって、ずっと思ってたから、今この仕事できて幸せ。死ぬまで、ずっとこうだといいと思ってる」
透子は隆典に笑いかけている。その顔を見ていると、もうやめろなんて言えなくなった。10円ミンクとすかんくえいぷ。同じ仲間だ。仲間同士、おんなじことをやろう。
隆典はラッキーゾーンのオフィスでいつものように記事を作っている。Tシャツにジャケット、ズボンという普通の姿。霊界大戦のキャラの格好から解放されたのだ。
「すかんくえいぷ君、これ見て。自信作」
林田モジャラこと中村明日香はA4の紙の束を持って隆典に声をかけた。web記事の原稿を印刷したものだ。
彼女は黄色のカーディガンに下はスパッツという普通の姿。随分前に霊界大戦スタイルとはおさらばしている。
web記事は「最高の二度寝をしよう」という企画だ。4人のライターが二度寝の方法を競い合い、それを林田モジャラが点数をつけ、優秀者を決めるというものだ。
「自信作ってどういうことです?」
「まあ読んで見てよ」
林田モジャラはドヤ顔だ。
読んでみると実にくだらない。褒め言葉だが。
お香を炊き始めたり、お酒を飲み始めたり、なぜか柔道の受け身の練習をした後でベットインと実に個性的な二度寝の数々だが、その中に透子が参加していた。
「あれ、10円ミンクって、栗林ですね。彼女は僕の補助と経理のはずですけど」
「ほんとは三人だったんだけど、2週間くらい前に加えてくれって直訴してきたのよ。アイデアが面白かったから、急遽加えたってわけ」
「はあ」
「面白いでしょ」
透子は針金と紙粘土を使って「腕枕をしてくれる彼氏」を自作していた。顔は福笑いのように上下左右のバランスが微妙に崩れている。ちょっと怖い。その腕枕をしてくれる彼氏の腕に頭を乗せようとするがうまくいかずグダグダになっていた。だが、ラッキーゾーンの記事はそのグダグダ感を楽しむものでもある。むしろ、グダグダこそが売りだ。
「リベンジってこのことか」
「どういうこと?」
「いや、こっちの話です」
隆典は林田モジャラに原稿を返して、自分のパソコンに向き直った。ひと月前の仕事で夕月から受けた屈辱。それを仕事で返すということか。途轍もない執念を感じる。
目黒川小学校の児童館は、校舎のすぐそばに立っている2階建ての建物だ。建造してから何十年も経っているからだろうか、外壁の塗装がところどころ剥げていた。
児童館の中に体育館の二分の一の大きさのホールがある。ホールの床にブルーシートが敷かれている。土曜の昼下がりの陽の光がホールの中に差し込んでいる。
隆典と透子は稽古着に袴姿の居合の先生の平井広治氏とブルーシートの上で話をしている。
隆典の手には何故かさつまいもがあり、透子の足元には大型のスポーツバックが置かれている。
そして、平井氏の腰には朱鞘の日本刀が差してある。真剣だ。
「丹下・シャー・善」という霊界大戦のキャラクターがいる。居合で主人公サイドを助ける男だ。この男はあらゆるものを斬る。服やら車やらミサイルやら稲妻やらおならやら実にバラエティ豊かだ。
今回隆典と透子は「丹下・シャー・善の技を再現しよう」という企画で、居合道の先生をしている平井氏に可能な範囲で丹下・シャー・善の技を再現してもらうことになっている。ちなみにミサイルや車などを斬るシーンは画像編集ソフトを使って再現する予定である。
霊界大戦の技を再現してくれる居合道の先生を探すのは非常に困難を極めた。
だいたい、武道を教える先生というのは堅物で真面目な人が多い。「丹下・シャー・善の技を再現してくれませんか」なんてお願いしても普通は無視される。隆典がどれほど丁寧な電子メールの文面でお願いしても、お断りの文面が届くのはまだいい方、返事すら来ないことも多い。ふざけたお願いを聞いている暇はないというのが居合道界隈の認識のようだ。
そんな中で唯一OKを出したのが平井氏だったというわけである。隆典が出した何通ものメールのうち「僕、すかんくえいぷさんの記事をいつもみてます」の言葉を添えてOKの返信をしてきたのはこの人だけだ。
そして数度の打ち合わせの末、平井氏が普段使っている稽古場である児童館で、土曜の朝稽古後の昼に企画の収録となった。
「今日はこんな不躾なお願いを聞いて頂き、ありがとうございます」
隆典が丁寧な言葉で丁寧に頭を下げた。ラッキーゾーンの仕事はくだらないものばかりだが、外部の人間に協力をお願いするときは最大限の礼儀を持ってお願いしている。
なぜなら、普通の人間に時間の無駄遣いをする暇はないからだ。その貴重な時間を割いてもらうからには最大限の礼儀を尽くすものなのだ。
「こちらこそ、ずっと好きだったブログの記事に協力できるなんて感激です、外崎さん」
平井氏は関西訛りでにこやかに言った。歳は52だが、その歳ですかんくえいぷのブログのファンというのは珍しい。平井氏には透子と隆典のペンネームを伝えてあるが、基本的に平井氏は本名の苗字で二人を呼んでいる。なんとなくペンネームで呼ぶのは恐れ多いというのがその理由だそうだ。
「そのような言葉をいただけるとは光栄です」
隆典は最大限の敬語を使っている。さつまいも片手だが。
今回の企画は真剣を使うため、危険極まりない。良い子のみんなは真似しないでくださいと言ったところか。
平井氏と会話をしながら、隆典はもしかしたら、居合道家に断られたのは馬鹿馬鹿しいからではなく、危ないからではないかと思い始めていた。何か事故があった時、責任は取れない。だから断ったのではないか、と。
ある程度まで近づかないとおならは届かない。近すぎると尻が斬れる。そう考えると、緊張のあまり、お尻からおならではなく実が出てきそうだ。
「平井さん、あの……本当に大丈夫なんですか」
「何がです?」
「あの……おなら斬るの……危なくないですか」
「僕に任せてください。仕損じるような真似はしません」
関西訛りのイントネーションの声に揺るぎない自信と覚悟が混ざり合っている。太い眉毛。刀にかけている指も太くて分厚い。
隆典は平井氏の立ち姿を見るうちに自然と心が落ち着いてきた。本来なら、こちら側が先に覚悟を持っていないといけない立場だ。webライターは何をやるにも自己責任。今更弱気になんてなれない。
「お願いします」
隆典は手にさつまいもを食べ始める。おならを出すにはさつまいもが一番だからだ。
おならが出そうなタイミングで「出ます」と言いながら隆典がお尻を出す。おならの音が出たと同時に平井氏が刀を振り下ろして「おならを斬る」という段取りだ。
平井氏は隆典から1メートルほど距離をとり、静かに抜刀し上段に構えた。透子も大型のスポーツバックを持って二人から距離をとってスマートフォンを構え、撮影の準備に入った。
「出ます」
隆典がさつまいもをブルーシートに置き、急いでズボンをずり下げてお尻を平井氏の方に向けた。
平井氏は眼光鋭く隆典のお尻を睨みつけている。集中しているのだ。
大きなおならの音が響いた。
平井氏は掛け声と共に上段から一気に刀を振り下ろした。刀の先から衝撃波が出ているかのような迫力だ。隆典は突き出したお尻にわずかながら風圧を感じた気がした。
平井氏は刀を音もなく鞘に収めていく。隆典はズボンをずり上げている。
透子はスマートフォンを下ろすと大きなため息をついた。撮影の間、緊張で息が詰まっていたのだ。
「すごいですね」
隆典は拍手をしながら平井氏に駆け寄った。
「言ったでしょう。僕に任せてくださいと」
平井氏は背筋を伸ばして少しドヤ顔をしている。
「お尻に風圧感じましたよ、風圧」
隆典は興奮してしゃべっている。平井氏はドヤ顔気味の穏やかな表情だ。
「すいません、次、お願いできませんか」
透子が2人に声をかけた。そうだ、まだ企画は終わっていない。でも……
「少し休憩を挟んだ方がいいんじゃないか」
隆典はたしなめるような調子で透子に声をかけた。
「いや、すぐがいいです」
「でも、平井さんだって……」
「私には時間がないのよ」
平井氏には透子の「余命」は伝えていない。余計なことだと隆典は思ったからだ。
「でも、こっちの都合を平井さんにあまり押し付けるなよ」
「僕は大丈夫ですよ、外崎さん」
平井氏が穏やかオーラを発して言った。どこまで器が大きいんだ、この人。
「むしろ、僕もせっかちな方なんで。ちゃっちゃとおわらしましょ。ちゃっちゃと」
平井氏は穏やかな表情をしている。
「すいません、平井さん」
隆典は仕方なく透子からスマートフォンを受け取った。
透子と平井氏が再現するシーンは、本来は服の背中が燃えている状態で空を飛んでいる人物の背中の服だけを、すれ違いざまに丹下・シャー・善が斬るというものだ。服を燃やしながら空を飛ぶのは再現不可能だったので、今回はヘッドスライディングする透子のカーディガンだけを斬ることになった。それでも、下手をすれば顔を斬りかねない。かなり危険だ。
透子と平井氏が児童館の端から端まで離れて向かい合った。まるで果たし合いの前のようだ。
平井氏は少し中腰気味に立った姿勢で、鞘に収まった刀の柄頭を透子の方に向け、刀の鯉口を切っている。
対する透子の方は駅伝などの長距離走のスタートの姿勢だ。
隆典は二人がカメラの画面にちょうど入る位置に移動した。
「行きます」
透子は少し助走をつけて、平井氏の3メートル手前のあたりでヘッドスライディングをした。透子が平井氏の横に飛び込むと同時に、平井氏は透子の赤いカーディガンに抜き打ちを浴びせた。透子は勢い余って児童館の壁に激突した。
「あだだだだだだだ」
透子は顔を抑えてうずくまっている。
「大丈夫か」
隆典がカメラを止めて透子に駆け寄ろうとした時だった。
「ああ!」
隆典が大声を上げる。静かに納刀をする平井氏の足元に20センチほどの赤い布切れが落ちている。透子のカーディガンの生地だ。
「何……あ!」
透子はカーディガンを脱いで確認すると、裾が短くなっている。
「嘘でしょ……服だけ……」
「すげえええええええええええ!」
隆典はカーディガンの生地を拾い上げて大声で叫んだ。
三人はブルーシートの上で抹茶饅頭を食べている。透子が持ってきたものだ。
平井氏はにこやかである。神だ。神様みたいだ。おバカな企画に付き合ってくれるし、こっちの緊張ほぐしてくれるし、ファンなんて言ってくれるし。隆典は天にも登りそうな気分だ。
「外崎さんのペンネーム、何が由来なんです?」
「ああ、これはスカンクエイプっていうUMAが由来です。子供の頃そういうエイリアンっぽいのが好きだったんですよ」
「はあ。なるほど。僕、イタチの仲間のスカンクかと思いましたよ。で、栗林さんは10円ミンク。ちょうどミンクとスカンクで、両方イタチっぽい」
「ああ、そういえば」
「僕昔、仕事先でミンクの毛皮のこと、おならするやつの毛皮って言ってえらいことになったことがありましてね」
「そ、そうなんですか」
平井氏は終始フランクな感じで話しかけてくる。厳しい武道の先生という雰囲気とはかけ離れているが、厳しそうだから凄いわけではないことは、先ほどの神業を見て十分にわかった。
「ところで、気になったんですけど、栗林さん」
「はい」
「時間がないって言ってましたよね。何かご予定でも…」
隆典は抹茶饅頭をかじりかけのまま固まった。まずい。平井氏はどうやら、余命のことを伝えていないせいで、「時間がない」の一言を「スケジュールが押している」という意味に勘違いしたようである。
「いやその、それは……」
隆典が弁解しようとするのを遮り、透子は話し始める。
「私は、余命半年なんです」
「ああ、それは……大変な時期にわざわざ」
平井氏は少し驚いた様子を見せた。隆典と再会し、ラッキーゾーンに入社してから一月は過ぎているため、実際にはもう少し短いのだが。
「あの、気をつかわせてしまったらすいません」
「いえいえ。大丈夫ですよ。それにしても、なんでそんな大変な時にこんな変な企画しよう思うたんですか。言うちゃなんですけど」
平井氏も、以前隆典が抱いたのと同じ疑問を透子にぶつけた。
「それは死んだ後、皆に忘れて欲しくないって思ったから。馬鹿すぎることをすれば、馬鹿すぎてみんなずっと覚えてるだろうから」
「はあ……なるほど。どうりで思い切りよくヘッドスライディングできるわけや。普通尻込みしますよ。顔斬れるんちゃうかって」
平井氏は感心した様子で透子を眺めている。
隆典はそんな平井氏を驚いた様子で見つめている。
「平井さん、馬鹿にしないんですね」
「外崎さん、とんでもない。馬鹿になんてできないですよ。むしろ、立派やと思います」
「立派」
「ええ。人間、余命なんて簡単に認められません。現実が認められない、受け入れられないものなんです。その点、この子は立派です。受け入れて、じゃあどうしようって次の行動に移せてますから」
「な、なるほど……」
隆典は手に持った抹茶饅頭を食べかけのまま、平井氏の顔に見入っている。居合の技術もすごいが、なんだか考え方もすごい。
「でもね、死んだ後でも覚えていてもらおうって、なんだか後ろ向きな気がしてくるんですよね」
「……」
透子が視線を落とした。自分を否定されたような気分になったんだろう。平井氏は慌てて付け足す。
「別に、栗林さんのことをけなそうと思ったわけではないんです。ただ、人間覚えてる方が辛いこともあるんじゃないかって思ってね」
「覚えてる方が、辛いこと」
「そうです。これは、僕の師匠なんですけど、お酒の席で、いつも自殺した息子さんの話をするんです。私があの時、こうしてればって自分を責めるんです。そういうのを見ると、覚えてる方が、辛いんちゃうかなって」
透子はまだ視線を落としている。ブルーシートの上には、封を開けた抹茶饅頭の箱がある。6個あったうちの3つが無くなり、箱の傍らに包み紙が重ねられている。
「うーん、言葉って難しいなあ。上手く言えんのやけど、要するにこういうアホみたいなことを普通のことにしてほしいって思ってるんです」
「普通のことに……」
透子は平井氏の方に向き直している。平井氏の言葉を必死に受け止めようとしている。
「そう、普通のこと。だって外崎さんはこういうことをもう普通のことにしてるでしょ」
「確かに」
透子は納得した様子で聞き入っている。
「普通にしてると言われても」
隆典は戸惑っている。要するに、透子にアホなことにどんどん挑戦してもらいたいと言いたいのだろうか。
「でも、私はね、外崎さんの普通にいつも助けられてます。なんぼ辛いことがあっても、外崎さんの記事見ると元気出てきますもん」
隆典の胸の奥にジンと熱いものが込み上げた。自分のやっている馬鹿な行動に対して、これほど熱い感謝の気持ちをぶつけられたことはなかった。
「きっと、栗林さんも普通にできます。まだ、半年あるんですから。半年続ければ、日常です。なんたって10円ミンクですから。ミンクとスカンク、そっくりさん。おかしなとこも一緒」
「なるほど、うまい」
透子が笑っている。
「うまいのか」
隆典は首を傾げている。
ラッキーゾーンのオフィスに、窓からの西日が差し込んでいる。もうすぐ日が沈む時間帯だ。平井氏と別れて、二人は目黒川小学校からオフィスに帰ってきていた。記事の原稿を書いた隆典は鞄に荷物をしまっている。帰宅の準備だ。
透子はデスクのパソコンに向かい、経理の仕事をしている。領収書の整理は、記事の執筆の合間にするため、時折帰宅が定時をすぎることもある。
「本当にいいのか」
「鍵くらい自分で閉められるわよ」
「そうじゃなくて、これからもずっと、この仕事続けるのかどうかってこと」
平井氏から言われたことを、隆典は気にしていた。
透子はキーを打つ手を止めた。
「ずっと憧れだったの、こういうことが。でも、諦めてたの」
「憧れ?」
「そう、私も外崎君みたいになりたいって思ってたの」
隆典には意外だった。頭がおかしくなったわけでも、やけになったわけでもなく、憧れ。
ずっと自分のことなんて真面目ビームで興味なかったと思ってたのに。
「みんなで可笑しな闇鍋したり、変な人形作って戯れたり、可笑しな実験したり。平井さんと一緒。すごくくだらないけど、お腹いっぱい笑わせてくれて。いっぱい幸せになれたから」
透子は、少し顔を赤らめて隆典の方を向いている。こういうことを話すのはかなり気恥ずかしいようだ。
「自分には向いてないって、ずっと思ってたから、今この仕事できて幸せ。死ぬまで、ずっとこうだといいと思ってる」
透子は隆典に笑いかけている。その顔を見ていると、もうやめろなんて言えなくなった。10円ミンクとすかんくえいぷ。同じ仲間だ。仲間同士、おんなじことをやろう。