地下鉄はゴオオと音を立てながら地下トンネルの暗闇の中を進んでいる。東京メトロ日比谷線の車内は、窓の外と比べると明るさが際立つ。透子と隆典、そして「半ペーター」こと緑川半平太は出入り口付近で吊革につかまりながら、朝なのに真夜中のような窓の外を眺めている。
半ペーターはパーカーにズボン、バットケースと大型のスポーツバックを肩に背負った姿だ。今日の企画で使う道具を運んでいる。
透子はカーディガン、Tシャツ、ジーパンという姿だ。全般的に動きやすさを重視している。もちろん、企画のためだ。
そして隆典は上は裸、乳首に星形シール、そして下はニッカポッカという姿である。「霊界大戦のキャラの格好で過ごしてみよう」の企画を隆典だけがまだ続けさせられている。会議の遅刻のペナルティはマジだ。

透子は喫茶店で隆典やなすびの良いちと会った翌日、社長のJRA難波園芸こと逢坂友也と面接をした。そして、正式にラッキーゾーンの経理担当兼原稿執筆補助のアルバイトとして採用となった。ペンネームは10円ミンク。
「余命半年か。またすぐ経理募集しないとな」とJRA難波園芸はデリカシーに欠ける発言をしたが、透子の鼻の穴の写真を撮り続ける飽くなきくだらなさへの執念をかなり気に入ったようだった。

「あの社長も副社長も、ホント採用適当だな」隆典は呆れたような口調で言った。「まだ私がここで働くことに納得してないの?」透子が口を尖らせる。
「当たり前だろ。そう甘くないんだよ」
「すかんくえいぷ君、随分厳しいね」
半ペーターは言いながらバットケースとスポーツバックを背負い直した。
「僕は色々厳しくしなくてもいいと思うけどね、すかんくえいぷ君。今時の若い子は誉めて伸ばすものだよ」
「栗林は俺の同級生、同い年なんですけど」

隆典はなんとかして透子にラッキーゾーンを辞めさせたかった。1週間、1ヶ月とすぎていくうちに余命はどんどん縮まる。縮まった後で「こんなことするんじゃなかった」と後悔しても遅い。辞めさせるには早めの挫折に限る。挫折には絶望が必要だ。絶望には徒労感が必要だ。その意味では、今回の仕事はうってつけだ。なぜなら、ものすごく体を使い、ものすごい徒労を味わう企画だからだ。
隆典は窓に反射して映る自分の姿を見ながら笑った。悪役を気取ってみたが、霊界大戦のキャラの格好のせいで珍妙さが増しただけに終わった。



北千住で東京メトロ日比谷線から千代田線に乗り換え、数駅を挟んで松戸駅で三人は降りた。そこから数分歩いて辿り着いたのは江戸川の河川敷だ。サッカー場くらいの大きさの土の地面のグラウンドがある。グラウンドの周囲は雑草が伸び放題で、膝の高さまで育った雑草が茂っている箇所もある。

今日はここで「漫画の長すぎるモノローグは隙だらけなのか」という企画のためにピッチャーとバッターの一騎討ちをするのだ。長いモノローグのセリフを言うバッター目がけて、ピッチャーがボールを投げる。それを撮影係が撮影するという形だ。

そしてそのセリフがこれだ。
「内角にストレート、外角に変化球。単調だな。自分の投げ方に自信があるのか。テキトーにやってるのか。頭悪そー。学校の授業全部寝てそう。それか、黒板全部写すけどテスト0点とか。こういうのって、初球はストライクだったからベースから離れて立てば外への変化球がくる。狙いはライトのポールから左だ。ファールを打つくらいの気持ちでバットでサッカーボールを打つ感じ。刀でボウリングのボールを斬る感じ。あれ違う?フィニッシュは左手を残す感じ」

透子は右手にバットを持って、左手に持ったセリフの書かれた紙を読み上げている。
「これ、本当に長いんだけど。言ってる間に三振しそう」
撮影係となった半ペーターはスマートフォンを操作している。
「10円ミンクちゃん、仕方がないよ。漫画なんだから」
そして、右手にボールを持った隆典は投球練習をしている。左足を上げると同時に、ボールを持った右手を右足の下の地面スレスレまで下げてから、振り上げて投げる。結構本格的な投げ方だ。
「すかんくえいぷ君、君野球やってた?」
「いや、単純にネットの動画で見たマサカリ投法まねただけです」
「村田兆治か。随分古いチョイスだね」
「外崎君、準備いい?」
「オッケー」

透子がセリフの紙をジーンズのポケットに突っ込みバットを構えると、ボールを持った隆典は透子から10メートルほど離れた位置まで移動する。ピッチャーマウンドやプレート、フィールドの白線もないので何もかもがアバウトだ。諸事情でグラウンドが使えず、河川敷でやるしかなかったからしょうがないが。
撮影係の半ペーターがカメラを構えた。撮影準備は万端。
「いくぞ」
「内角にストレート、外角に…」
透子が言い終わらないうちに左腕にボールが当たった。デットボール。

「イダだだだあだああああああああああちょっとおおいおいおおいお」

バットを落として地面に転がり悶絶する透子。
「だから言っただろ。甘くないって。もうやめるか?」
隆典は悶絶する透子のそばまで歩き、落ちているボールを拾った。まだまだか。まだやる気か。早めに音をあげてほしい。音をあげさせるために体を張る企画を一緒にやることを提案したんだから。

「いや、まだまだ。今のはオーバーリアクションしただけ。記事にするには取れ高が大事だから」
透子は全身砂まみれで立ち上がった。
「いい心掛けだね、10円ミンクちゃん」
「もう一回お願いします」
バットを再び構える透子。
隆典がボールを投げる。
「内角にストレ…あばばばばばばばばば」
デットボール。悶絶。
「もう一度お願いしま…」
デットボール。
「いや早い早い」
半ペーターがカメラを手に隆典に駆け寄った。
「すかんくえいぷ君。さっきからデットボールばっか。コントロールはどうした」
「村田兆治が言ってました。暴投は楽しい」
「そんなわけあるか。交代だ交代。今度は10円ミンクちゃんピッチャー。俺バッター」
半ペーターはスマートフォンを隆典に押し付けた。そしてバットを透子から受け取り、透子が立っていたバッターの位置まで歩いた。今度は透子がピッチャーのポジションだ。そして撮影係が隆典。
「内角にストろ…おわ!」
透子が投げたボールが半ペーターのすぐ横を勢いよく通り過ぎていく。半ペーターはたまらず空振り。透子は高校時代、ソフトボール部でピッチャーだったのだ。球速はMAX120キロ。実業団から誘いがあったという噂もあった。スポーツも勉強もできる。そんな彼女が、余命半年を宣告されたことを機にこんなアホみたいな仕事をするようになるとは。隆典はそんな彼女が理解できない。
ボールは反ペーターの横を通り過ぎた後、土手に近い茂みの方向へと転がっていった。
「取りに行ってきます」
透子が土手方向へ走っていった。部活中の高校生のような元気な走りだ。
「すごいね、彼女」
半ペーターは目を丸くして透子を見ている。


透子は懸命にボールを探していた。茂みの方に視線を落とし、注意深く白い球を探している。この辺にはないのかな。どこにいったんだろう。
見つかる気配がないので、透子は視線をあげ、周囲を見渡した。もしかしたら思いも寄らない場所まで飛んでいるのかもしれない。
「あった」
土手の中腹に白い物が見える。ボールか。
白い物のところまで、透子は走っていった。
ボールに手を伸ばそうとした瞬間だった。

「何やってんの。栗林さん」

透子を顔を上げた。スーツ姿の若い女性が土手の上のアスファルトの道路に立っているのが見える。佐久間夕月。透子の高校時代のクラスメイトだ。
「佐久間さん、久しぶり」
「久しぶり。何やってんの? 砂まみれなんだけど、野球?」
「いや、その……仕事」
「へえ。こんな平日の昼間に野球やる仕事あるんだ。暇なの?」
ストレートな嫌味だった。先ほど透子が投げた120キロは出てたであろうストレート並みの真っ直ぐ。打者もとい、言葉を投げつけられる本人の手元で伸びるストレート。

透子は学生時代、群れることを嫌った。自分から自分を語ることもしない。それゆえに誤解があっても、妬まれても、弁解や解決を自分からしようとはしなかった。
佐久間夕月も透子と学年1位を争うほど勉強が出来た。スポーツもソフトボール部で、透子と同じピッチャー。自然と透子に対抗意識を持った。ただ、不幸だったのは夕月の両親が勝者以外を認めない人間だったことだ。学年で1位でないと、成績表やテストを破り捨てるのはザラな親だった。そんな中、成績やソフトボールで上を行っても、超然として悠々と抜き返す透子に夕月は嫉妬心を持ってしまった。

「すごいご機嫌な会社ね」
夕月はなおも嫌味のストレートを投げつけてくる。たまらず透子が口を開こうとした時だった。

「何やってんだ、栗林」

隆典がやってきた。だが、その格好がおかしい。上は裸、乳首に星形シール、そして下はニッカポッカ。それを見た夕月は吹き出し笑い出した。
「なんで外崎いるの? もしかして同じ会社? 昼間から野球してんの? しかもそんな格好で。超暇だね」
笑い声に嘲るような響きが混ざる。土手の上から見下ろして、隆典と透子に嘲り笑いを浴びせている。

「随分と落ちぶれたね、栗林さん」

最も重いストレートな嫌味がきた。透子が聞きたくないであろう言葉だ。
隆典が一番嫌だったのは、この仕事をすることで透子がバカにされることだったのだ。バカにされる前にやめて欲しかった。透子なら、今頃は国家公務員や一流企業に勤められてもおかしくない。それなのに今はこんな野球ごっこをしている……。
「こう見えても、きちんとした仕事よ。佐久間さん。これだって記事を書くための……」
「いいよ。栗林」
隆典は透子の右腕を掴んだ。透子は「ちょっと」と言いかけたが、掴んでいる右腕には力が込められていて、動かせない。

「俺、モテねえ人間だけど、今日ほど心の底からモテなくてよかったって思ったことねえわ。ブスにモテたっていいことねえよ」
隆典は夕月を睨んでいた。夕月も隆典を睨んでいる。
「いくぞ」
隆典は身を翻して透子の腕を引き、河川敷の半ペーターのいる方へ歩き出した。



中目黒のラッキーゾーンのオフィスは、窓が西側を向いている。オフィスの中央にデスクが2列並んでいる。窓の反対側に入り口がある。隆典のデスクは入り口に近い窓側。半ペーターは奥の窓側の席。透子は入り口近くの壁側で、隆典の席と向かい合う形になっている。
三人はそれぞれのデスクに戻りパソコンに向かった。透子は領収書の整理。隆典と半ペーターは記事の作成だ。
あの後三人は予定通り記事作成のために変わりばんこにピッチャー、バッター、撮影係をやった。
隆典は透子のことが気になった。
まだ会社に慣れてもいないのに、高校の同級生だった人間にあんなことを言われるとは。会社に戻るまでの間、隆典は透子に「大丈夫か」「気にするな」と声をかけたが、透子はポーカーフェイスだった。
隆典はデスクトップパソコンのモニター越しに透子の顔を伺うが、透子は机の上のノートパソコンのキーを無言で叩いている。ポーカーフェイスのままで。
隆典はモニターに視線を戻した。記事を書こう。彼女はもう気にしてないんだろう。そう思うことにした。


ラッキーゾーンのトイレはオフィスのすぐ横に1つだけある。男女兼用だ。
トイレの壁には鉛筆で書かれたリアルなタッチのお尻のイラストがいくつも貼られていた。これは、誰かがある日突然お尻のイラストを1枚貼り出したのを皮切りに、2枚、3枚と勝手に増えていき、最終的に壁を埋め尽くしたというものだ。
便器に座った位置から見て右側の、トイレットペーパーがセットされている場所のすぐ上の1枚にはリボン付きのシールが貼られている。最優秀賞ということだろうか。

透子はトイレの中で声を押し殺して泣いていた。「そう甘くないんだよ」と言う隆典の手前、透子は弱みを見せたくなかった。社会に自分を認めさせたい。認めさせてから死にたい。だが、押し殺した感情全てを抑え込める訳ではなかった。

「やっぱり泣いてたんだな」

トイレのドアの前に、隆典が立っている。
「泣いてましぇん。汗でしゅ」
透子は涙声で主張する。
「なすびの良いちさんが言ったこと、覚えてるか?」
「泣けないピエロ?」
「そうだ。ここのライターさんは顔写真をWeb上に公開している。ペンネームと一緒にだ。それがどういうことかわかるか? どんな時でも、そのペンネームのキャラクターを演じないといけないんだ」

このラッキーゾーンが持ってるwebの自社メディア「ふぁーるちっぷ」には、インフルエンサーと呼ばれる影響力の大きいブロガーの記事がある。ラッキーゾーンの社員も多くはインフルエンサーだ。そういう存在は、ブログやSNSなどで確立した自分のキャラクターを崩せない。イメージを損ない、仕事に支障をきたすようになるからだ。

「だから、ずっとピエロを演じ続けないといけないんだ」

一度くだらないことをして笑いを取ったら、ずっとそれを続けないといけない。
真面目な政治や社会の真面目な話はシャットアウト。
身内の不幸を神妙な顔で語ることはイメージダウン。
どんなに自分が苦しくても、ヘラヘラしていないといけない。

隆典は中学時代からブログを始め、2階から墨汁を被ったり、普通の出汁と具材にコーラや人形を混ぜた闇鍋をクリスマスに友達と一緒に食べるなど、さまざまな奇行をブログに上げ続けた。その結果ブログはネット上で有名になったが、そのせいで教師の夢を諦めざるをえなくなった。教育実習先の小学生にこう言われたからだ。

「先生って、すかんくえいぷさんだよね」

目だけは黒い線で隠してたのだが、それ以外の顔のパーツでバレたらしい。仕方なく隆典は、このラッキーゾーンで様々なくだらない奇行を仕事に変えたのだ。

「お前、それでいいのか。死ぬまで、ずっとピエロなんてでき…」
隆典が言うのを遮るように、トイレから目を真っ赤に腫らせた透子が出てきた。
「リベンジする」
「へ」
「リベンジするもん」
透子はオフィスの方へスタスタと歩いていった。リベンジって……何をするんだよ。
隆典は不安になった。