生きるのを許されたいのだと、彼女は言っていた。
 誰に許されたいのか、と問えば、分からないと彼女は言う。それなら別に気にしないでいいのに、とは思うけれど、彼女にとってはそんなに簡単な話ではなかったらしい。

 彼女の名前は桜つづる。初めて聞いた時は、どちらが苗字で名前なのか分からなかった。だが、名は人を表す、という言葉の通りに、彼女は桜のようにはらりと散って去っていってしまいそうで、けれど口から零れる言葉は何かを綴っているようだった。
 俺は彼女が笑っているところをあまり見たことが無い。というか、他人と接している所をあまり見たことが無い。必要なことがあれば人と話す、それくらいだ。簡単に言えば窓際の自分の席で休み時間に本を読んでいるようなタイプ、と言えば通じるだろうか。そして、その窓際の席が、彼女の雰囲気によく似合っていた。
 そんな桜と話すようになったのは今から数か月前になる。その時の出会いはとても衝撃的だった。
 その日は雨が降っていた。教室で友人とだべっていた俺は、偶々通りかかった先生に目をつけられ、雑用を押し付けられた。友人とジャンケンをして、負けた俺が荷物運びを頼まれたのだ。
 面倒くさいと愚痴をこぼしながら、何が入っているか分からない、ガチャガチャとガラスの音が鳴る段ボールを抱えて、校舎裏の危険物処理場まで運んだ。
 そこで、俺は違和感に気付いた。
 昼休みや休憩時間には、昼食をとったり授業をすっぽかす生徒が数名居るこの場所でも、放課後には生徒は用事が無くて近寄らない。更に言えば、今は雨が降っている。わざわざ濡れに、汚れにやって来るような物好きは、滅多に存在しないだろう。それなのに、足が、壁の影から見えたのだ。
 恐怖心を感じながらも、俺はその足の主が居るであろう場所に忍び寄った。
 そして、桜つづると出会ったのだ。彼女が手首を真っ赤に染めた姿で。
 手首が真っ赤に染まっていたのは、血だからと即座に理解した。そして、その血は手首から手のひらを伝って、地面にシミを作り上げていた。小さな雨の水たまりと、彼女の血の色が混ざり合って、美術で赤い絵の具を水洗いでキレイの落とすときの、マーブル模様が脳裏に浮かび上がった。
「桜!?」
 思わず声を上げ、彼女の両肩に手を添えれば、彼女はのそりと顔を上げる。
「何?」
 他人の死をも覚悟した俺からすれば、とんだ拍子抜けだった。彼女は、何も問題を無さそうに此方に目を向けた。
 彼女の態度に動揺して、声を掛けたのにどう対応するのが正解なのかも分からなくて、言葉が詰まる。
 えっと、その、としばらく言葉を紡いでから、取りあえずポケットからハンカチを取り出した。
「血、出てるし」
 ハンカチ持っていきなさい、と怒鳴りつけた母さんありがとう。心の中で礼を述べて、彼女の細い手首にしばりつけた。
「……なんでこんなこと」
 自然と口から零れた。ハンカチで結び終えてから、零れた言葉に、彼女は伏せていた顔を上げて、俺をじっとりと見る。
「言ったって分からないよ。君は私じゃないから」
 カッ、と体が熱くなるような気分がした。
 当たり前の事なのに、俺は全く理解できていなかったらしい。言葉が詰まって、何も言い返せなくて、俺は何も言えずにその場から駆け足気味に逃げ去った。
 
 それから暫く。今日も天気は生憎の雨。今日は少々ザアザア降りだ。
 俺の脚は、自然とあの場所へと向かっていた。今日は傘をさして、校舎裏に向かってみれば、案の定、桜つづるはそこに居た。
 彼女は俺の方に目を向ければ、ポケットから何かを取り出して、俺に手渡してきた。
 先日渡した、ハンカチだった。綺麗に洗濯したのか、血のシミなど全く見えなかった。
 礼を述べるのも少しおかしいと思いつつも、ありがとうと言いながら受け取ってポケットに仕舞って。
 ザザザ、ボタボタ、と傘が雨を弾く音が響くだけで、俺達の間に言葉は無くて。
 よく見れば、彼女の手首の傷は増えているようにも見えた。
 あの日から、どうも彼女が気になって目で追ってしまっていた。
 物静かだが、責任感は強いようで、頼まれごとは断らない。とても優しい真面目な良い子。目立つことが苦手な為、あまり思い切った行動はしない。そう、ただのそこら辺に居るような、よく居るような女子高生。
 それが沢山の相手に見せていた姿なのだとしたら、俺の前にだけ現れたこの彼女は、誰なのだろう。
「自分を傷つけるの、止めたら」
 ぽつり、と呟いた言葉に、彼女は相変わらず、のそりと目線をこちらに向ける。
 スカートの裾が雨で濡れている。自分がさしている傘を、彼女に被せるように移動させる。今更だろう。ただの気やすめだろうが、自然とそうしていた。
「何で? 貴方には関係ないんじゃない?」
「それでも、俺はもう、見ちゃったし。関係者になっちゃっただろ」
「ああ、そうか。ごめんね」
 俺の言葉に、彼女は自然と謝罪の言葉を述べた。そうだ、彼女は「良い子」な分類なのだ。だから謝る。だけど、彼女が動く心の原理は恐怖心。そしてその恐怖心より大きな責任感。
「……別に、私は死ぬためにやってるわけじゃないの」
「そうなのか」
「こうしたことをしてる人は大体そうだよ」
「へえ」
 彼女はポケットからカッターを取り出して来て、カチカチと音を立てて刃を伸ばして、それを手首に刃を垂直に立てて、そのままスライドさせた。
 止める隙も与えてくれなかった。
 彼女の白い傷だらけの手首に、新たな赤い線が刻まれた。そして、それと重なる様に、まるでバツ印を作る様にして、重ねて傷を作り上げる。二つの新しい赤い線から、プクリと赤い液体がにじみ出てきてて、そのまま手首を伝って、肘の方へ垂れていくので、彼女は制服を汚さない様にと、手首を地面の方へ向けて下げた。
 水たまりに、また、赤い血が混ざりあった。水たまりに、彼女のバツ印が反射して写っていた。
「私はね、生きるのを許されたくてやってるの」
 生きるのを許されたい、とはいったい何なのだろうか。俺には全く想像のできない様な言葉だった。そんなこと、考えたことも無かったのだ。
「何かをしたいときに、人は許可を得たりするでしょう?」
「うん」
「だから、こうして、生きるのを許してもらってるの」
「誰に?」
「さあ?」
 訳が分からないと思った。
 雨足は相変わらず休まらなくて、ビニール傘が雨を弾く音が、ここまで大きいと感じたことは生まれて初めてだし、雨で濡れてじんわりと肩が塗れる不快感も、ここまで気分が悪いと感じたことは初めてだった。
 それでも、目の前の彼女は、きっと、毎日こんな不快感も気分の悪さも抱えているのかもしれない。
 桜は俺じゃない。彼女に言われた通りで、俺は彼女の事なんて何も分からなくて、だから、彼女がどうしてこうした思考になったのかは分からない。
「俺はさ、桜じゃねえしさ、正直お前の考え方はよく分からない」
「うん」
「生きるのを許してもらうっていう考えは、本当に、よく分からない。許されないと駄目な事ではないと思う」
 だけど、彼女は、生きるのには許可が必要なのだと言う思考なのだろう。
 だから逃げ込む場所は、友人の隣とかの明るい場所ではない。弱った動物というものは、多くの目に晒されることを嫌う。暗く、狭く、だれも入りたがらないような、そんな場所で静かにその時が過ぎるのを待つものだ。

 膝を折って桜と向きあう。何も映そうとしていなかった彼女の目が、ようやく俺の姿を認めて焦点を結んだ。
「桜」
 なるべく穏やかな声でその名を呼び、警戒されないように、ゆっくりと手を伸ばす。逃げられないように、怖がらせないように。手負いの獣に接するように、手首に手を触れた。彼女は反抗することも無く受け入れる。安堵の息が思わず薄く洩れるのが分かった。
 なんとか懐柔の一歩に成功し、続いて再び、受け取ったばかりのハンカチでその手首を縛りつける。
「俺は、許すとかじゃなくて、桜に生きてほしいよ」
 自分でもなぜこの言葉が口から出たのかは分からない。
 彼女が抱えているものを引き出し、慰めてやるのは難しい。なにせ他人に弱音を吐かずに自傷をする不器用さだ。
 だから俺達にできるのは、「桜つづる」の側に寄り添ってやることだけだろう。
 手の甲側に結び目を作ったので、手首を少し捻らせて、彼女の傷跡があるであろう場所に、偶々胸元のポケットに入っていたペンで花丸を書いてみた。
「うわ、形くずれちゃった」
「なんでマイネームペン持ってるの」
「先生にさ、私物に名前を書けって怒られたから持ってたままだった」
「成程。それより、これ油性だよ」
「あ、ヤッベ!」
 花丸を書き終えてから気づいた後の祭りだ。彼女の手首からハンカチが外されたら、それはもう愉快なことになってしまうだろう。
 気付かなかったな、と口を零せば、ふわりと空気が和らいだような気がする。
「ふふ、ありがとう。青葉くん」
 小さく笑いながら、彼女は礼を述べてくれた。
 俺は生まれて初めて、彼女に名前を呼ばれて、なんだか心臓がぐうって締め付けられたような気がして、顔が熱くなった。

「ハンカチ、代わりを返すね」
「……じゃあ、それ、あげる」
「え?」
「俺印の花丸ハンカチ。だから、もう、自分で傷つけんなよ……」
 今までやってきたことを急にやめるのは難しいことだろうし、彼女の考えを否定しちゃうことになるのかもしれない。
「もし、本当に辛くてしんどくなったら、俺の元へ殴り込んできてください。甘んじて、その拳を受け入れるし」
 ぽかんとした表情をしてから、彼女は小さく笑みを浮かべた。
 俺の手が彼女の方へ伸ばされる。彼女はそろそろと手を伸ばし、その小さな手を掴んで引き上げる。振りほどかれると思った指が、予想に反して、そして期待通りにしっかり握り返してきた。
 それがなんだか、ひどく嬉しいと感じた。