去年の秋の終わり。
街路樹はすっかり色づいて、空には鱗のような雲が重なっていた。
ある日の午後、加奈に借りた本(司馬遼太郎『坂の上の雲』文庫版全八巻。……重かった)を返しに、僕は彼女の部屋を訪ねた。
扉を開けた彼女は沈痛な面持ちで、開口一番にこう言った。
「死体を埋めるの、手伝ってくれない?」
いきなりそんなことを言われたら、誰だってギョッとする。
「まさか、誰か殺したの?」
そんな質問をしたとしても、僕が責められる筋合いではないだろう。
それなのに、加奈は思いっきり眉を寄せて、
「なにバカなこと言ってんの? 鳩だよ。鳩が、アパートの裏で死んでるの」
と、呆れ果てたように言ったのだった。
なんだ、鳩か。
共犯にならずに済んだことにはホッとしつつも、その頼みはふたつ返事で引き受けられるものではなかった。
「保健所に電話すれば? なにかウイルスを持ってるかもしれないし」
面倒な気持ちもあって、僕はそう提案する。期待は外れて、彼女はその案に賛成はしなかった。
「私有地だと対応してくれないみたい」
「アパートの管理人に連絡するとか」
「管理人さんの住所、ちょっと遠いの。わざわざ来てくれるかわからない」
「じゃあ、業者に頼もう。なんなら、僕が費用を払うから」
「ううん、大丈夫。……自分でなんとかする」
僕が逃げ道を探していることを察したのか、加奈は少し残念そうに言った。
情けない話だが、僕は鳥が苦手だ。生きているのもできれば触りたくないくらいなのに、死骸となればなおさらだ。けれど、加奈に無様な姿は見せたくなかった。
「わかった。手伝う」
「無理しなくていいよ。自分でも、無理なお願いしてると思うもの」
「やるよ」
「いいよ、ひとりでやるから」
「はっきり言って嫌だけど、君のお願いは断りたくないから」
「……なにそれ」
加奈の顔にじわじわと笑みが浮かび、そのまましばらく彼女は笑っていた。
それでも、死骸は触りたくないという気持ちが顔に出ていたのだろう。加奈は自分でさっさとゴム手袋をつけて、僕には小さなスコップを差し出した。
「死体は私が持つから、これで穴を掘ってくれる?」
「君こそ大丈夫なの? 死体触るの、平気?」
「平気じゃないけど、実家で鳥を飼っていたことはあるし。それに、このまま放っておくのはかわいそうだから」
ちゃんとゴム手袋もしてるから。と、オペ前の外科医みたいに両手を翳す。
ゆるふわな外見の中身は、僕よりはるかに男前だった。
アパートの裏側は小さな空き地になっている。まったく手入れされていないので、雑草が生い茂り、そのせいで夏場は虫がたくさん入ってくるらしい。もっとも、加奈は虫などで動じる性格ではなかったが。
空き地の真ん中で、鳩は眠るように死んでいた。
飢えか、病気にでもなったのか。見たところ外傷はなさそうなので、猫やカラスに襲われたわけではなさそうだった。
動物に掘り起こされないようにと深く穴を掘り、そこに加奈が鳩を横たえる。土をかけて平らにならしてから、近くに落ちていた小さな石を墓標代わりに置いた。
加奈はほっとしたようにゴム手袋を外した。
「ごめんね。こんなこと手伝わせて」
「僕こそごめん。結局、たいして役に立たなかったし」
手伝うと偉そうに言ったものの、本当に役立たずだったので、加奈に対して申し訳なかった。でも、加奈は僕の気持ちを察したようにやさしく微笑んで首を振る。
「ううん、ありがとう。ひとりでやるの、ちょっと怖かったから。いてくれて助かった」
僕ひとりだったら、見て見ぬふりをしただろう。けれど、加奈には最初からそんな選択肢はなかったのだ。
嶋本加奈は、そういう人なのだ。
一見頼りなさそうな普通の女の子なのに、芯が強くて、迷うことなく誰かにやさしくできる。
人が少し躊躇してしまうような、勇気を必要とするような場面でも、彼女は手を差し伸べる。老人にも子供にも、死んだ鳩にも。
加奈は僕の良心だった。
そのまっすぐな心根に触れるたび、自分の中にも澄んだ湧水が溢れ出るように、この世のすべての善良なるものを信じたいと思えた。
加奈はしゃがんだまま、鳩の墓標に両手を合わせる。
「こんなお墓でごめんなさい。どうか安らかに眠ってね」
彼女の閉じた目蓋に、重ねた指先に、秋の淡い日差しが揺れていた。
アパート裏の狭い空き地が、とても厳かで神聖な空間に変わる。
鳩は、安らかに眠れたに違いない。
そして、いつかまた、この大空を元気に羽ばたくのだ。
***