僕は空っぽで、君は透明

 立夏との電話が終わった後、僕達は特に喋ることもなく、姉さんの帰りを待っていた。

 朝ほどの気まずさは無くなったのだが、親密度が深まった分この沈黙が逆に気まずい。

 その気まずさは青井花火も感じているようで、さっきからソワソワと身体を動かしたり、頬をぽりぽりとかいたりしている。

 その沈黙に耐えかねた僕は、彼女に質問してみることにした。

「あの、答えられたらでいいんだけどさ、平行世界に行くっていうその腕時計、なんか他の機能があったりしないの?」

 質問を投げかけてから気がついた。

 朝はあんなに仲良くなりたくなかったのに、今では沈黙に気まずさを感じるようになるなんて思ってもみなかった。僕の心の中の空っぽはどうやら、彼女によって満たされ始めているようだ。

 青井花火は質問を受けてから一瞬だけ考える素振りを見せる。

「太陽くんにだったら話しても大丈夫でしょう」

 彼女は人指し指を立てて話し始めた。

「実は私の世界にあるテクノロジーには、平行世界に行く以外の技術もあるんです。それが、時間遡行です」

 時間遡行と聞いて、僕の中の何かが反応した。

 時間遡行――いわゆるところ、タイムトラベルというやつだ。

 もしかして、それを使えば葉月を救えるのかもしれない。タイムスリップすれば、葉月の事故を未然に防げる可能性はある。

 そこまで考えて、その可能性を振り払った。恐らく、それをするには青井花火のエネルギーを使わなければいけないのだろう。彼女には時間がない。そんなことをするわけにはいかない。

「まあでも、これにも難しい点があるんですよ。使用者の世界では時間遡行ができないんです。例えば私が住んでいた世界をXの世界とします。そして、私はXの世界では時間遡行ができない。私が時間遡行できるのは私にとっての平行世界であるAの世界だったりBの世界だったりってことになるんです。だから、私は私の世界で時間遡行をして過去の私に病気にならないよう干渉できないんですよね」

 過去に戻ったところで私の病気は防ぎようがないんですよね、と彼女は自嘲気味に笑った。

 彼女の説明を聞いて、僕の中に芽生えた微かな思いは完全に萎んでしまった。まあでも、それで良かった。完全に無理だと言われた方が、諦めがつく。

「そっか……。じゃあつまりは、僕は君の過去の世界にはいけるけど、僕の過去の世界には行けないってことだね」

「そうなりますね」

 そんな会話をしていた矢先のことだ。

「ただいまー! 若者達よ、ちゃんと青春してきたか?」

 玄関の扉が勢いよく開いて、いつもより数倍元気な姉さんが帰ってきた。
 そのあと僕達は夕飯を食べ、今日あった出来事を姉さんに報告した。

 姉さんはそれを聞いてとても喜んでいたし、青井花火の喜びのゲージも二つ目のタンクが溜まって、三つ目のタンクに突入していた。

 夕飯のあと僕達はそれぞれシャワーを浴びて、寝室へと戻っていった。

 青井花火が夕食のあと、何種類もの薬を飲んでいるのを見て、彼女が本当に病気にかかっているということを、再認識させられた。

 明日に備えて早く寝ようと布団に入ったものの、色々と考えてしまい、中々寝付けない。

 気分を変えるために僕は一階へと下りた。

 居間に入ろうと戸を開けると、風に乗ってヤニの匂いが流れてくる。

「姉さん。何回も言ってるけど、窓を開けたまま煙草を吸ったんじゃ意味ないよ。煙が全部部屋に流れてきてる。ほら、それに上で病人が寝てるじゃないか」

 言いながら、僕は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出し、コップへと注ぐ。

「悪いな。たしかに病人がいるんじゃよくないよな」

 ベランダで煙草を吸っていた姉さんが振り返って言う。姉さんは相変わらずの下着姿で口から煙を吐き出した。

 煙草を灰皿に押しつけた後、空き缶の中へ捨て、部屋へと戻ってくる。

「無事に仲良くなれたようでよかったよ」

 姉さんは椅子を引いて座り、僕に水を一杯頼んだ。

 僕はミネラルウオーターをもう一杯分注いでから姉さんの前に座る。

「さて、今日の感想はどうだった? 悪くなかっただろ」

 姉さんは机に両肘をついており、その上に顎を乗せている。

「はっきり言ってとても楽しかったよ」

「うんうん。そう思ってくれてよかったよ」

 僕の言葉を聞いて、姉さんは何度も頷いて笑顔を見せてくれた。

「でも、青井花火は病気なんだよな。姉さん……僕は怖いんだ。このまま彼女を亡くしてしまったらどうしようって」

 ポツリと、本音が溢れてしまった。胸の奥に溜まっていたわだかまりのようなものが溢れてくる。

「僕は……僕は怖いんだ。また……またあんな風に大切な人が消えていったらどうしようって……そう思うと怖くて怖くて仕方ないんだ」

 目頭が熱くなる。自然と、拳を握る手に力がこもってしまう。堰を切ったように涙が止まらなくなってしまった。

 僕は慌てて目元をつまみ、涙を無理やり止める。でも、涙は止まってくれなかった。

 おかしい。こんなこと言うつもりなんて全くなかったのに。

「立夏と清涼にだって気を許してしまった。彼らだって、いついなくなるか分からないのに。葉月みたいに、急にいなくなっちゃうかもしれないんだ……」

 姉さんは僕の言葉を静かに聞いてくれていた。そして、僕が落ち着くのを待ってから口を開く。

「お前の不安は簡単に分かるって言っちゃいけないものだよ。でもな、これだけは絶対に言えるぞ」

 姉さんは一度ミネラルウォーターに口をつけてから続けた。

「今のままのお前でいることを葉月ちゃんは望んでない」

 姉さんは僕の眼をじっと見つめている。僕は頷いた。僕だって本当は分かっていたんだ。このままじゃいけないってことくらい。でも、怖かった。怖くて怖くて仕方なかったんだ。もう一度あの輝かしい日々を失いたくなかった。またああやって、傷ついて打ちのめされるのが嫌だった。

「私は言ったろ。これがきっかけになってくれればいいって。花火ちゃんはお前が閉じこもってた暗い部屋を開けてくれたんだよ」

 姉さんの声に、より一層力が込められる。

「後はお前がその部屋を出るかそのまま閉じこもるかのどちらかだ。でも、私はお前にはやるべきことがあると思ってる」

 そこで姉さんは一拍開けて続けた。

「太陽。それはなんだと思う?」

 姉さんは首を傾け瞳を細めて僕を見ていた。

 僕がやるべきこと。それは――それは――

「彼女を、救うことだと思う」

 姉さんはにこりと微笑んで僕を見ている。慈悲深い、落ち着いた眼差しだった。

「うん。それが太陽の出した本当の答えだったら、そうするべきだ」

 姉さんはそう言ってからまたミネラルウォーターを一口だけ飲んだ。

「良し。じゃあ、今日の話をもう一度詳しく教えてよ」

 姉さんの最後の笑みはとても無邪気なものだった。
「それじゃあ行ってらっしゃい! 楽しんでくるんだよ!」

 翌日、姉さんは玄関まで僕達を見送りに来てくれた。時刻は十二時半を過ぎようとしている。立夏や清涼達と海に遊びに行くところだ。昨日姉さんと話したように、僕は青井花火を助けるんだ。もう、失わないために、後悔しないために。

「じゃあ行ってくるよ。ほら、えっと……花火、行こう」

 僕は彼女の名前を呼んで手を差し出した。ちょっと照れくさくて、頬をかいてしまう。

「あ、ありがとう……ございます……」

 花火は一瞬だけ眼を見開いたが、すぐに僕の手を握ってくれた。

「気をつけて行っておいで!」

 そんな僕達の様子を姉さんは微笑ましそうに見ている。

 僕は空いている片方の手で姉さんに合図を出してから家を出た。

「うわあ。酷い暑さだね」

 外に出ると、むわっというまとわりつくような熱気と、鋭い日差しに襲われた。

 花火は姉さんに借りた麦わら帽子のポジションが定まらないのか、何回もかぶり直していた。

 だが、かぶり直していたかと思うと、今度は急に帽子を顔の前に持っていって顔を隠してしまう。

「どうしたの?」

 僕が聞いても彼女はかぶりを振るだけで何も言ってくれない。

 まさか、と思う。

 嫌な予感が、背筋を這い上がってきた。

 僕は彼女と初めて会った時のことを思い出した。あの時、彼女は病気の発作に襲われていた。あの時の苦しんでいる花火の様子が、脳内を埋め尽くす。

 もしかしたら、今もそれで苦しんでいるのかもしれない。ちらりと、脳裏にあの日の葉月の姿が浮かんでしまった。

 もう、誰も失いたくない。

「どうした!? どこか痛いのか!? 苦しいのか!?」

 気がついた時には花火の肩を掴んでいた。凄い剣幕になっていたかもしれない。でも、そんなの気にしていられなかった。

「ひゃっ! べ、別にどこか痛いとかそういうわけじゃないんです」

 肩を掴まれた彼女は驚いてビクッと肩を弾ませた。そして、一歩二歩と後ずさると、右手をじっと見つめた。

 良かった。でも、どうしたのだろうか。辛くないなら、なんで顔を隠したのだろう。

 僕が胸を撫で下ろすと同時に、花火は口を開いた。

「ごめんなさい。私、ぼんやりとしか覚えてないんですけど、知っているんです。こんな風に、誰かに名前を呼んでもらったり、手を握ってもらったりしたっていう経験を、あまりしていなくて……だから、その……つい、嬉しくなっちゃいました」

 そう言うと、彼女はふふっと笑みをこぼした。

「だからその、ニヤニヤと頬が緩んでいるところを見られたくなくて……」

 どうやらそれが原因で、彼女は顔を隠したのだという。なんというか、凄く可愛らしい理由だった。勘違いしてしまったのが、恥ずかしいくらいだ。

「あの日来てくれたのが太陽くんで、太陽くんが助けてくれて、太陽くんに会えて、とっても良かったです」

 この時始めて、花火と葉月が重なって見えなくなった。いや、正確に言えば重ねて見るのを辞めてしまった。一人の女の子として、僕は花火を見ていたんだ。

 そして、本当に失いたくないと思った。それと同時に、気づいてしまう。

 彼女のゲージが溜まったとしても、彼女はこの世界から消えてしまうと。そして、行ってしまったら最後、この世界には戻っては来られない。

 今までは助けられれば良いと思っていた。そうすれば、過去を乗り越えられると思っていたんだ。だけど、こんな気持ちになってしまうなんて。こうなってしまったら、助けるだけじゃだめだ……。これから先も一緒に生きていきたいと、一緒にいたいと思ってしまう。そんな、叶わないことを夢見るようになってしまった。

 どんな結果になろうとも、僕の負けが決まっている。こんな負け試合に、挑むだけ馬鹿らしいかもしれない。

 でも、それでも、こんな風に誰かに必要とされて、感謝されるというのは、悪い気はしなかった。花火は、僕にそれを教えてくれた。

 だから、どうせ離れ離れになってしまうなら、少なくとも彼女の命だけは救いたいと思った。それくらいしか、僕は彼女に残すことができない。

「こちらこそありがとうだよ。僕も会えて良かった。僕で良ければ、これから何度でも呼んであげるさ」

 胸の奥に新たに生まれたもう一つの暗闇を抑えて、僕はもう一度彼女に手を差し出した。

「はい! よろしくお願いします」
 しばらく歩くと、約束の場所が見えてきた。今はもう廃業してしまった海の家の前だ。そこにはもうすでに立夏と清涼が待っていた。彼らは僕達に気づくと手を振ってくる。

「おーい太陽! 花火ちゃん! こっちこっち!」

 立夏はピョンピョン飛び跳ねながら、両手を大きく振っていた。

「ごめん。待たせたね」

「全然大丈夫だよ。俺らも今来たところだからな。それじゃあ行こっか!」

 清涼が僕の手を引いて行く。

 彼らは沢山の遊び道具を持って来ていた。ビーチボールやビーチフラッグス用のフラッグ。スイカ割り用の棒とスイカだったりと、充分に準備してくれていたらしい。

「まあ私達から誘ったから当然っちゃ当然よね」

 そのことについて感謝を伝えると立夏は胸を張って答えていた。

 それから僕達は遊ぶことになった。

「おし、いくぞ!」

 ビーチバレーでは僕と立夏が同じチームになって、清涼と花火が相手チームだった。

 僕は中々清涼の球が取れず、随分と立夏に助けてもらった。花火も花火で立夏の球が取れずに、清涼に迷惑をかけていた。なんだかんだでチームバランスは悪くないものだと思う。

 結果は僅差で僕達のチームが勝った。

「やったよ! 勝てた!! ありがとう太陽!」

 立夏は僕の前で、きゃんきゃんと子犬のようにはしゃいでいた。

「太陽! やったね!!!」

 彼女は僕の方に手を向けて、飛び跳ねながらハイタッチを求めてきた。

「やったな。立夏のおかげだよ。ありがとう!」

 僕もそれに応じて、柄にもなくハイタッチをした。

「いいなあ、お前ら」

 よっぽど勝ちたかったのか。そんな僕達の様子を、清涼が羨ましそうに見ていた。

 次にやったのはビーチフラッグスだ。

 僕と対戦したのは清涼で、花火とは立夏が戦った。

 花火は肌の露出を避けるために丈の長い服を着ていたために大丈夫だったが、立夏はタンクトップにデニムのショートパンツという格好だった。そのため、フラッグを取ろうと飛び込んだところで、下着が見えるか見えないかの際どいラインまでズボンがずれてしまった。

 僕と清涼はお互いに声を漏らし、顔を見合わせた。

 僕達のそんなやりとりを見てていたのか、花火が近づいて来て声を荒らげた。

「今この人たち変な想像してましたよ!」

 僕と清涼が同時に肩をビクッと震わせる。

 見事にフラッグを先に取り、付着した砂を振り払っていた立夏が「なんだって!」と僕達の方を向いた。 

「やっぱり太陽くんはそういうの好きだったんじゃないですか。私のを見た時もそういういやらしい目で見ていたってことですね……」

 胸元を隠しながら叫ぶ花火を見て、どんどん僕の顔が青ざめていくのが分かった。

 きっと初めて透過病を見た時のことを言っているんだろう。

「え、お前らまさか」

 横では清涼が口を開いて驚いていた。

「はあ!? ちょっとそれどういうことなの? 太陽! 私の可愛い花火ちゃんに何したんだよ! 詳しくきかせて!!」

 僕の前では今にもフラッグを折りそうになって顔を赤くして怒っている立夏の姿があった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! それは違うんだって! 誤解なんだよ!」

 そのまま僕達はとても楽しい時間を過ごした。

 清涼はスイカ割りで何度も何度も空ぶって砂浜を殴りつけていた。水上騎馬戦では僕が無理言って花火と同じチームにしてもらった。だから、運動神経が良い者同士の立花清涼チームには手も足も出ずに大敗してしまった。

 でも、仕方ない。花火の身体は透明に侵食されていて、水に濡れてしまえばそのことが清涼や立夏にバレてしまうからだ。その事情を知らない清涼が彼女を肩車すれば、謝って海の中に落としてしまうリスクがある。

 それだけは避けたかった。だから、僕が細心の注意を払って彼女を肩車する必要があった。ただでさえ運動神経が鈍いのに、それに加えて花火が水に濡れないよう注意しなければならない。

 彼女を肩に乗せた時、彼女の柔らかな太腿に挟まれた。それと同時に、彼女の暖かさが伝わって来た。トクントクンと波打つ命の鼓動に、彼女の生を感じる。この命を絶対に消したくないと心の底から思った。

 本当に、本当に楽しい時間だったと思う。

 今まで逃げて来た分を取り返すかのように、僕は遊んだ。

 それから瞬く間に時間が過ぎ去って行き、すっかり陽が落ちてしまった。

 僕達は四人で小さな円になって手持ち花火を始めた。

 真っ暗な海岸線にポツリと灯火がともる。

 花火はシューっという音を立てながら白い煙を吐き出した。パチパチと赤黄色緑などの様々な彩りの炎が燃えている。

「これが花火ですか。私と同じ名前なのに、綺麗でとても眩しいんですね」

 膝を抱えながら、花火がポツリと呟いた。彼女は瞳を細めながら、自分と同じ名をした美しい炎を見つめていた。彼女の瞳の中に、赤い炎が映る。

「花火ちゃん。これは手持ち花火って言ってね。これの他に、打ち上げ花火ってのがあるんだよ」

 清涼が花火を見ながら呟いた。

「打ち上げ花火はこんなもんじゃないんだよ! もっともっと綺麗なんだ」

 立花も、彼に続けて言う。

「夏休みに入って少ししたら夏祭りがあるんだ。そこでこれの比じゃないくらい大きな打ち上げ花火が打ち上がるんだ」

「もうこーーっんなに大きな花火なんだよ」

 立夏が両手をいっぱいに広げ大きさを表す。

「それはもう、花火ちゃんみたいに綺麗で眩しい打ち上げ花火なんだよ」

 立夏の言葉を聞いて花火は一瞬だけ前を向いた。だが、すぐに顔を下げてしまう。

「ありがとうございます。お世辞であってもそう言ってもらえると嬉しいです」

 パチパチと音を立てる炎に眼を向けたまま、花火は乾いた笑みを浮かべた。

「全然お世辞なんかじゃないんだよ」

 立夏がキャーキャー言いながら、両手を振って花火に彼女自身の魅力を力説していた。

 僕はここで言わなきゃいけないと思った。そう思った時にはもう、口が開いていた。

「僕も本当にそう思うよ。な、清涼もそう思うだろ?」

 一人で言うのは恥ずかしかったので、清涼も巻き込んでしまった。照れ臭くて、視線を海へと向けてしまう。

 その時、清涼の様子が少しだけおかしかった。彼は物憂げな顔で、立夏の方を見ていた。

「ん? あ……ああ! 俺もそう思うよ。自信持ちな!」

 僕達が言ってもしばらくは「そんなことないですよ」とか「お世辞はよしてください」とか言っていたが、しばらくしたら「錯覚かもしれませんが、自信がついてきちゃったかもしれないです……」と膝に頬を埋めながら呟いていた。

 なんだかそんな彼女を見ていると頬が緩くなってしまうな。

 僕の表情の変化に気がついたのか、花火は口を開けてあわあわと震えだした。

 暗くてよく分からないが、きっと顔が真っ赤に染まり上がっているんだろうなと簡単に予想できる。

「じょ、冗談です! チョロい奴だと思わないでください」

 恥ずかしさの頂点に達したのか、花火が僕のことをぽかぽかと叩き始めた。

 そのような感じで、僕はこの海遊びをとても楽しむことができた。

 僕達はその後少しだけライブについて話し合った後に解散することになった。

 みんなが楽しんでくれていたら嬉しいな、なんて昨日までは考えもしなかったようなことを思っている自分に驚く。

 帰り際に立夏が少しだけ暗い顔をしていたように見えたが、何かの間違いだと思う。

 今日遊んで確信した。

 僕は、完全に彼らのことが好きになってしまった。

 それはつまり、もう戻れないところまで来てしまったということだ。

 僕はもう、後に引くことができない。ここからもう、引き返すことができない。

 彼らを失いたくない。この幸せを空っぽにしたくない。だから、僕は絶対に花火を救いたいと思う。
 あれから二週間が過ぎた。もう一学期は終わって夏休みへと突入している。

 この二週間で、僕達は大いに遊んだ。川に行ってバーベキューをしたり、花火が料理を学びたいというので、一緒に台所に立ったりした。一緒に食べたカキ氷は美味しかったし、映画館で恋愛映画を見てお互いに顔を赤くしたりもした。

 立夏や清涼との中は急速に昔のように親しいものになっていった。

 花火とも打ち解けることができて、今ではすっかり仲良くなっている。彼女と親しくなるにつれて、些細な変化にも気がつくようになった。その中でも目立つのが花火の時折見せる暗い感情が、より多くなっているということだ。

 それに気がついていながら、僕は花火に何もできていない。彼女の力になれていなかった。

 僕達は今、スタジオを借りてライブに向けて演奏の練習をしている。

 みんなで曲を通して演奏する。音が幾重にも重なって身体中を響かせ、振動が内臓を揺さぶる。曲が終わった後も、身体が震えているのが分かった。凄まじい熱気が部屋中に漂っている。

「やっぱり狭い部屋で演奏すると耳がつまるな」

 清涼がドラムスティックをくるくる回しながら呟いた。右目を閉じて右耳をトントン叩く。

「そのくらい我慢しなさいよ」

 立夏は清涼に向かって言葉を放っている筈だが、彼女の意識はそちらにないようで、視線は花火の方へと向けられている。

 まあそれも無理はない。最近の花火は元気がないからな。立夏はそれを気にかけているのだろう。

 清涼も立夏が自分のことなど気にしていないと気がついているのか、暗い表情をしていた。

 花火に元気がないのは仕方ないことだと思う。彼女の病気は現在進行系で進んでいて、その事実を知っている僕は気安く「元気出してよ」などとは言えなかった。

 僕は彼女に喜びを与えなければならないというのに、何にもできていない。

 花火は頬から滴り落ちる汗を拭おうともせずに、マイクに体重を預けるように立っていた。

 彼女の瞳がどこを捉えているのか分かりにくい。まるで虚空を見つめているかのような生気のない瞳をしていた。

 そんな花火の様子を見かねた立夏が声をかけた。

「花火ちゃん今のめっちゃ良かったよ! 今までで一番声が出てた!」

 花火が顔を上げる。そして、生気のない笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます。でもまだまだダメですね。もっと力強く歌えるはずです。もう一回通しでやりましょう!」

「うん! 分かった!」

 立夏が元気よく答えてもう一度演奏が始まる。

 僕達がフェスでやる曲に選んだのはRADWIMPSの楽曲だ。文化祭でやるなら日本語で盛り上がりやすく知名度の高いグループの方が良いだろうという意見からそうなった。

 それからしばらく練習して、今日は解散という流れになった。

 ライブまであと少ししかないということもあって僕達の間にはピリピリした空気が流れていた。そんなメンバーを気遣ってか、今日は立夏がやけにテンションを上げてくれていた。

 いつもは元気な清涼も心なしか元気があまりないように見える。

 立夏と清涼と別れてから、僕達二人だけの時間が訪れる。花火は俯きながら歩いていて、心ここに在らずといった感じだった。何か話題を見つけなければ。

「あのさ、花火」

 僕が名前を呼ぶと彼女はガバッと顔を上げて「なんですか?」と首を傾けて笑顔を見せた。無理して笑ったような乾いた笑みだ。

「言いたくなかったら言わなくて良いんだけどさ、元の世界にはどうやって帰るつもりなの?」

 以前、やり方は伏せると言っていた帰り方だ。秘密なのでわざわざ聞くこともためらわれたが、僕の頭では今これくらいしか話題が出て来なかった。

「あ、秘密なら全然言わなくていいんだよ」

「そんなことはありません。太陽くんに秘密なんてとんでもないですよ。太陽くんのことを信じていますから」

 一瞬の間を置いてから花火が話し始める。

「いわゆる、パワースポットという場所で機械を作動させるんです。特別な方法とか暗号とかはありません。それじゃ私みたいな人間が機械を使えませんから」

「パワースポット? パワースポットってあのパワースポットのことか?」

 まさかの回答に僕は思わず聞き返してしまった。そんな場所だなんて普通は考えもしない。

「はい。霊的に不思議な力がある場所や、精霊の力とか、神隠しとか、いわくつきの呪いの場所とか、なんでもいいんです。そこでエネルギーを満たした機械を作動させればいいんです」

「こっちの世界じゃ考えられないようなテクノロジーを使ってるんだね」

「私もどういう技術を使ってるのかはさっぱりなんですよ。見た感じこの世界と私の世界とではあまり違いがないように見えるんですけどね。でも、知らないところで違いはたくさんあるでしょうね。例えば、私の病気もその一つです」

 花火の表情がだんだんと曇っていくのが分かる。

 その顔を見て黒い感情が込み上げてきた。並行世界の話はしない方が良かったかもしれない。嫌でも彼女に病気のことを思い出させてしまうから。

 僕は花火と出会ったことで、花火のお陰で、心を開くことができた。僕の硬く閉ざされていた心を、花火はこじ開けてくれた。

 それなのに、僕はまだ花火に何もしてあげられていない。

「花火。絶対帰ろうな。生きて、帰るんだ」

 俯きかけていた花火の瞳を見る。その瞳を見て、更に暗い感情が波のように押し寄せて来た。花火が帰ったら、もう二度と会うことはできない。今のように、彼女の瞳を見て話すこともできなくなってしまう。

 僕にあっちの世界に行く手段はないし、花火はもうこちらの世界に来れないからだ。

「はい。ありがとうございます! もちろん…………です」

 花火を少しでも元気付けようと言ってみたものの、花火の表情はちっとも明るくならない。

「じゃあ明日からまた練習だ。最近の花火はどんどん上手になってるから僕も頑張らないとな」

「あと少しで文化祭ですもんね。それまでに仕上げないといけません! 私ももっともっと頑張ります!」
 更に二週間が過ぎた。文化祭の準備も進んでいて、学校の装飾などもかなり完成して来ている。というより、文化祭まであと三日しかない。

 立夏と清涼はそれぞれの友人と一緒に準備に取り組んでいた。

 ここでの清涼、立夏はとても元気そうに見える。清涼は掃除ロッカーの前でモップを使って友人にちょっかいを出していた。立夏も飾り付け用の花を作りながら友人と談笑している。

 今日も学校の準備が終わったら帰ってバンドの練習だ。

 文化祭の準備が終わり、家に帰って花火を連れてからスタジオへと向かう。

 あれから花火のゲージはあとタンク一つ分のところまで来ていた。しかし、そのタンクが溜まる気配が一向にない。

 きっとライブが上手くいけば溜まるはずだと、今はそう信じて頑張るしかない。

 坂を下っていき、海沿いの道を歩いて行く。途中で葉月の墓の前を通った。今朝供えた線香の煙はもう上がっていなかったが、供えたお菓子は喜んで食べてくれているだろうか。ここの前を通ると頑張ろうという気になる。葉月が力を貸してくれているのかもしれない。

 スタジオに入ると、そこにはすでに清涼と立夏がいた。

「あ! 太陽達が来たよ!」

 僕達が扉を閉めると立夏が小走りで駆け寄ってきた。

「じゃあ練習始めよっか!」

 立夏が僕の腕を引いて行く。その際に清涼と目が合ったが、すぐにそらされた。

 予約の確認をした後、すぐに練習を始めた。

「じゃ、いくぞー」

 清涼がスティックをカッカッカッと叩くのが合図となって、曲がスタートする。

 リズムに乗って演奏していると分かることがある。個々の技術はそれなりに高くなってきたから、人前でやっても恥ずかしくない水準には達していると思う。だけど、何かが足りない。何か物足りなさがあるんだ。音楽がうまく噛み合っていないような、不調和な感じがする。それはきっと、僕達の間で不穏な雰囲気が漂っているからだろうか。それとも、花火や清涼が暗い顔をしているからだろうか。

 どちらにせよ、花火が暗いのは僕のせいだ。僕がもっと、彼女を元気付けなければならないんだ。

「今のは今までで一番良かったね」

 演奏が終わってから、立夏が大きな声をあげた。お通夜みたいな周りの雰囲気を気遣ってか、無駄に声を張っていた。そんな立夏も空元気なのが分かってしまう。

 少しでも場を和ませようと気を使ってくれている。

 立夏は滴り落ちる汗をタオルで拭きながらある提案をした。

「ねえ、明日夏祭りがあるって知ってるでしょ? 気分転換も兼ねてみんなで行かない?」

「お、いいね」

 その提案に僕は賛成する。事実、今の僕達の演奏技術は一日やそこらじゃどうすることもできない水準にまで達している。

 ここらで休息を入れて、みんなでパーっと気分をリフレッシュするのがいいかもしれない。

 夏祭りに行けば花火だって最後のゲージが溜まるかもしれない。いや、絶対に溜めさせる。もう彼女には時間がないんだ。一刻も早く、違う世界に行かなければならない。それに、その世界に透化病の治療法があるとは限らない。そしたら、彼女はまたゲージを溜めなければならない。時間は早い方がいい。

 そうだ。例えもう、一生会うことができなくなったとしても……早い方がいい……。それが、花火のためなんだから。

 こんなことを考えてしまったからだろう。無意識のうちに下唇を噛み締めていた。

 そんな僕の様子を心配してくれたのか、花火が不安気な顔をして僕を見ていた。咄嗟に笑顔をつくる。

 ぎこちない笑みになってなければいいんだけどな。

「やった。太陽来てくれるんだね! みんなも行くでしょ?」

 そんな僕らのやり取りを知ってか知らずか、立夏が僕に飛びついて来た。

 僕は助けを求めるように清涼の方に視線を向ける。清涼は清涼で、悲しそうに目を細めて立夏を見つめていたが、僕の視線に気がついて焦ったように笑顔を作った。

「ああ、俺も行くよ。丁度気分転換もしたかったしな」

「清涼もありがとう。明日は楽しもうね」

 立夏は清涼の方へ行って彼の肩を叩いた。

「もちろんだ。ライブ前に気分をスッキリさせないとな!」

 清涼はとびきりの笑顔を弾けさせた。それでも、瞳だけは笑ってないように見える。

「花火ももちろん来てくれるよね? ほら、前に言ってたとびきり綺麗な花火が打ち上がるから、行こうよ」

 僕は花火の元まで歩いて言った。

 少しでも、彼女が元気を取り戻してくれたらと思う。そして、感情が溜まってくれたらとも……思って……いる。

「あっ! はい! 行きましょう!」

「楽しみにしててね。すっごい大きな花火が見れるからさ」

 僕は両手を目一杯広げて大きさを表した。

 そんな僕達の間に立夏が割って入る。

「よし! じゃあみんなでパーっと気分をリフレッシュさせよう! 明日の八時に海の家の前に集合で!」

 約束してから、僕達は解散した。

 立夏と清涼に手を振って別れてから花火の横まで走って行く。

 明日こそは花火に喜びの感情を与えるんだ。
 自分から遠ざかって行く彼の背中に、一生かけても追いつく気がしない。

 太陽の背中に向かって振る手の動きが、彼が進んで行くにつれて小さくなっていく。

「ほら、帰ろうぜ」

 清涼に言われて、打水立夏は小さなため息をこぼした。

「うん。帰ろうか」

 海沿いの道を清涼と並んでとぼとぼと歩いて行く。風が吹いて砂が目や口に入るが全く気にならなかった。むしろ、入ってくれて構わない。そうすれば、この視界が滲んでいるのを、砂のせいにすることができるから。

 お互いの口数は少ない。

 気を利かせてくれた清涼が何度か話しかけてくれたが、立夏は上の空でまともな返事を返せていなかった。

 太陽は全く自分を見てくれない。それが立夏にとっては胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。

 やっと太陽と昔のように接することができるようになったのに、太陽は青井花火のことばかり気にしている。

 立夏自身、花火とも仲良くできればと思っている。これ以上昔のように誰かを亡くしたくないからだ。今いる人達を大事にして、後悔のないようにしたいという思いは清涼と変わらない。

 だから、彼女は花火が羨ましかった。花火に対し嫉妬の感情を抱いていた。

 長年恋い焦がれて、それでも振り向いてもらえない相手とすぐに打ち解けて、心までもこじ開けて、自分には向けてくれない想いも向けてもらえて、心の底から羨ましいと思っていた。

 多分、花火にとっては取るに足らないことなんだろうが、今回のライブに太陽が参加してくれると言ってくれた時は、本当に嬉しかった。その程度で、嬉しいと感じてしまう。

 このライブを、頑張って成し遂げた大切な思い出としてずっと胸にしまっておこう。そう思った立夏は苦しい想いを隠して一生懸命にみんなの中を取り持った。

 清涼と花火はなぜか元気がないし、太陽も花火の元気が無いことを気にしている。

 だからせめて、自分だけでも元気にしてないと、彼女は精一杯頑張って笑顔を振りまいた。

 全ては、太陽との思い出のために、少しでも彼の視界に少しでも入れるように、彼の記憶に残れるように、そして、振り向いてもらうために。

 清涼と別れて家へ帰る。

 すぐに自室に入って部屋着に着替えてベッドにダイブした。

 瞳を閉じると、記憶の海へと溺れていく。深く深く沈んで行ったその先にあったのは、小学校の頃の思い出だ。

 初めて太陽を異性として意識した時の記憶。

 当時、立夏と葉月はミニバスのチームに所属していた。

 県内でも有数の強豪チームで、初の全国大会出場を狙えるほど、チームの状態は仕上がっていた。

 いよいよシーズンインになる。そんな矢先に、立夏は重度の右ふくらはぎの肉離れを起こしてしまった。

 ブチンッという音ともに足に力が入らなくなり、無様に床に崩れ落ちた。

 駆け寄ってきてくれたチームメイトの顔を、まともに見ることが出来なかったのを覚えている。

 六年生、最初で最後の全国大会を目指していた立夏の目の前は真っ白になった。

 県大会の最中には完治しないだろう。靭帯は切れなかったものの、重度の肉離れでは試合には出られない。シンプルな絶望。それが彼女の全て支配していた。

 松葉杖をついて廊下を歩いていた時だ。前から見知った少年がやって来た。

「よ」

 太陽は右手をあげ、軽い調子で立夏に話しかけてきた。

「右足怪我したんだって、葉月に聞いたよ」

 太陽は心落ち着くような優しい笑顔を向けてくれたと思う。

「だから、どうしたのよ……」

 世界の全てが憎くて、目も合わせたくなかった。

 それでも、太陽は笑ってくれていた。嘲笑とかではない、暖かい笑顔だ。

「葉月と立夏には全国大会に行ってもらいたいから、僕にできることがあったらいいなって。僕たちの思い通りにならない世界なんてぶっ壊れちまえって、一緒に叫んで回ろうぜ。少しでも立花の力になりたいって思うよ」

 そこからだった。立夏は次第に太陽のことを意識するようになった。今まではただの友達程度にしか思っていなかったのに、気がつくと、太陽の横顔ばかり追っていた。

 毎日放課後に海の家の前に二人で集まって太陽は相談に乗ってくれた。

 太陽がいたから、立夏は腐らずにミニバスの練習に参加できていた。試合にも顔を出せていた。彼がいなかったら、彼という心の支えがなかったら、心の闇に覆われて逃げ出してしまっていたかもしれない。

 ある日の出来事だ。

 その日は放課後すぐではなく、病院の帰りに立花は太陽に相談事があると言っていた。待ち合わせの場所は、いつもの海の家だ。

 しかし、診察は思いのほか長引き、更にはいつも乗っていたバスまで事故渋滞で中々進まなかった。

 太陽を待たせるのは悪い。そんな感情もあったが、本当に治るのかどうか、仲間達は試合に勝ち続けてくれるのかどうか、そんな不安を太陽にぶちまけたい気持ちもあった。時計の針は着々と時を刻んでいく。その間ずっと、立夏は不安と焦りを抱えていた。

 やっとの思いでバスから降りた時にはもう、約束の時間はとっくの昔に過ぎていた。

 いるはずがないと思いながら向かった海の家の前に、彼の姿があった。

 月明かりに照らされながら手持ち無沙汰にしている太陽の横顔を、立夏は一生忘れることができないだろう。

 その姿を見て、「ああ」と立夏は感嘆の声をもらしていた。

 この人のために絶対に怪我を治そうと、そう思えた。

 そして、県大会の決勝でチームの全国大会出場が決まった時だ。

 「これでまた試合に出れるチャンスが増えたな。リハビリ頑張ろうぜ」と隣の席で応援していた太陽が言ってくれた。 

 それはもう暖かな笑顔だった。

 この時にはもう、立夏は太陽のことを完全に好きになっていた。

 全国には何とか間に合ったものの、結局二回戦で敗退となった。

 試合後に太陽がタオルを持って来てくれたことを昨日のように思い出せる。

 記憶の海から顔を出し、立夏はベッドから起き上がる。そして等身大のたて鏡の前に立った。

 私だってここ最近は頑張って来た。明日少しくらい報われてもいいはずだ。手くらい握ってみようかな。握らせてくれてもバチは当たらない。そう思いながら、鏡におでこをコツンとぶつけさせた。
 太陽を見送る立夏の切なそうな姿が、酷く胸を苦しめる。

 太陽が進んで行くに連れて、立夏がどんどんしおらしくしぼんでいるように見えた。

 そんな彼女の姿を見ていられなくて、見ていたくなくて、長月清涼は「ほら、帰ろうぜ」と口にした。

 立夏は名残惜しそうに太陽を見てから、小さくため息をこぼす。

「うん。帰ろうか」

 二人並んで肩を落としながら、ゆっくりと海沿いの道を歩いて行く。

 状況はどうあれ、立夏と二人で歩いているという事実は嬉しかった。

 だが、立夏はまるで空っぽになってしまったかのように何も喋らずにただただ歩いていた。

 それがたまらなく悲しい。
 今、目の前にいるのは自分なのに、彼女の頭には太陽のことしかないのだろうと、太陽しか見ていないのだろうと思うと、胸が痛くて痛くて仕方がなかった。

「明日の夏祭り楽しみだな」

「うん。そうだよね」

 少しでも自分を見て欲しくて声をかけてみても、立夏は上の空でほとんど反応を示してくれない。その後も何度か喋りかけたものの、反射のように同じ返答しか返ってこないので、清涼は話すのをやめた。ただ、悲しくなるだけだから。

 立夏が今苦しんでいるのはすぐに分かった。

 彼女に振り向いて欲しくて、彼女のことばかり瞳で追ってしまうから、嫌という程分かってしまう。

 立夏が出している救難信号にいち早く気づけていながら、何もできず、何の力にもなれない自分自身に清涼は腹が立って仕方がなかった。

 救難信号を出している相手が自分じゃないから、手を伸ばしたって掴んでくれない。

 かつて自分に自信が持てず、人と話すことが苦手だった清涼を引っ張り出してくれたのは立夏だ。

 家まで迎えに来てくれて、外の世界に連れ出してくれた。

 彼女に見合う人間になれるように、清涼は運動や勉強に全力で取り組んだ。全ては、立夏に振り向いてもらえるようにだ。

 だから、彼女が落ち込んで沈んでいる今こそ、その恩返しをするべきだ。

 救難信号の相手が自分かどうかなんて、気にするのはもうやめだ。

 彼女が清涼を引っ張り出してくれたように、今度は清涼が彼女を深い心の奥底から引き上げる番だ。

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

 分かれ道に差し掛かると、素っ気なく別れの言葉を口に出し、立夏はとぼとぼ歩いて行った。

 先程の立夏のように、彼女が進んで行くにつれて彼女の背中に向かって振る手の動きが小さくなっていく。

 立夏の背中が見えなくなってから、清涼は掌を見つめた。

「やっぱり、立夏が助けを求めてる相手は俺にじゃねえよな。俺に助けを求めてるわけじゃない」

 ポツリと、小さな声で呟いた。

 言ってから、見つめていた掌を力強く握りしめる。

「だけど、そんなのは関係ないよな。立夏の助けが聞こえたなら、俺が彼女を助け出していいはずだ。そのくらいの図々しさがあったってバチは当たらない」

 小さく、しかしながら力強く宣言してから、清涼は家へと向かって歩き出した。
 青井花火は夕闇に照らされる海を眺めていた。

 彼女にとって、こちらの世界に来てからの数週間は、信じられないほどに楽しい時間だった。

 花火に残っている微かな記憶の中に、こんな風に誰かと遊んで、笑顔で過ごしている姿は全くない。

 モヤに包まれている記憶の中だとしても、産まれた時から親に必要とされていなかったことはしっかりと自覚している。

 なんで完全に忘れて来れなかったのかと、花火は頭を抱えた。

 シングルマザーだった母は、幼い花火を置いて夜な夜な遊びに出かけていた。

 元より身体が弱く、頻繁に熱を出していた花火は何度も何度も高熱で気を失いそうになりながら親の帰りを待った。

 帰って来ても母は花火を気にかけることはなく、娘が高熱でうなされているのにも関わらず病院にも連れて行かず、薬も市販のものしか与えなかった。

 学校でもこれといった友人ができずに、孤独な生活を送っていた。

 地獄のような日々があまりにも記憶に焼き付いているのか、微かに覚えてしまっている。

 透化病にかかり、強制的に入院することになった時だって、母は迷惑そうな顔をするだけで心配する素振りなど微塵も見せなかった。

 もちろん、見舞いには誰も来ない。

 こんな風に誰にも必要とされず、誰にも見向きもさされず、ひっそりと死んでいくんだな。そう思っていた花火の前に、ある日突然来客が現れた。

 母やその他の人同様に顔は思い出せないが、その人は突然やって来て花火に生きる希望を与えてくれた。

 初めは心を開いていなかった花火だったが、毎日やって来て話してくれるその人に花火は次第に心を開いていった。それどころか、いつの間にかその人が来るのを待つようになっていた。

 その人が並行世界に行くことを勧めてくれたから、今花火は太陽達と出会えて幸せな時間を送れている。「残された時間の中で、後悔がないように、やりたいことを、思ったことを、全てやろうよ」そんなことを、言ってもらった覚えがある。

 もう少しだけ生きていたい。太陽達ともっと色んな景色が見たい。だけど、太陽達と会えなくなるのが本当に寂しい。

 そんな葛藤に、青井花火は支配されていた。