僕は空っぽで、君は透明

 気がつくと浜辺に立ち尽くしていた。

 隣を向くとそこにはもう二度と会うことができない女の子がこちらを見て笑っている。その笑顔を見て、胸が熱くなった。

「久しぶりだね。太陽は元気にしてた?」

 その声を聞いて、その瞳を見て、その姿を見て、溢れんばかりの思いが色んなところから吹き出す。だけど、それらを抑えて僕は彼女に向き直った。

「今までは正直元気だったとは言えないな。でも、葉月が戻って来てくれたならまた昔みたいにやっていけそうだよ」

 そう言うと、葉月は少しだけ悲しそうな顔をした。

「そうなんだ……」

 なぜそんな顔をするのだろうか。そう考えた途端、物凄い不安に襲われた。僕はまた彼女を傷つけてしまったのだろうか。言わないといけない。あの時はごめんと。彼女に謝らなくてはならない。

「もう行かないといけないんだ」

 そんな僕の思いとは裏腹に、葉月はじゃあねと手を振って歩き出した。

 ダメだ。いかないで。

 今すぐに彼女を追いかけたい。だが、僕の足は重い鉛のように全く動かない。思うように走れない。その間にも葉月はどんどんと砂浜を進んで行ってしまう。

 必死に声を振り絞ろうとするが、声が出ない。

 葉月が行ってしまう。

 彼女が、遠ざかっていく。

 葉月……振り絞った声は、喉の奥でかすれて消えた。

 この声が届くことはきっとない。

 だって彼女はもう、この世にはいないのだから。
 開け放した窓から風と共にやってくる蝉の鳴き声で、僕は目を覚ました。

 網戸にへばりついた蝉が元気よく音色を奏でている。このうだるような暑さの中でも、彼ら蝉は休むことなく鳴き続けていた。

 上体を起こし、身体にべったりと張り付いたシャツを脱いだ。ベッドの下に落ちていたタオルケットを取って丁寧に折りたたむ。

 夏の朝はいつもこうだ。寝ている間にタオルケットを剥いでる。

 ベッドから降りて窓の前に立ち、海を眺めた。磯の匂いを孕んだ湿っぽい潮風が吹いて、前髪が揺れた。

「さて、と。準備をするか」

 タンスからTシャツとズボンを取って部屋を出る。階段を降りて風呂場へ向かいシャワーを浴びてから着替えた。そのまま朝食も取らずに家を出た。

 家の前のちょっとした坂道を下り、砂浜沿いの道を歩きながら、僕は彼女の元へ向かう。

 早朝だからか、海には殆ど人がいなかった。いたのは海パンで海に飛び込んで行った熱血そうな人と、肩を寄せ合いながら眠っている大学生くらいのカップル一組のみ。

 どちらも僕とは無関係なタイプの人間だ。彼らはみんな人生が楽しそうで、輝いて見える。

 途中コンビニに寄ってお菓子とジュースを買った。そのまましばらく進んで、墓場の前で足を止める。

 山の斜面を削って作った墓場だ。そこの四段目の左から四番目が彼女――送火葉月の墓となっている。 

 彼女は僕の幼馴染で四年前に死んだ。中学一年生の頃の話になる。死因は事故死。山の中で足を滑らせたらしい。

 葉月が死ぬ直前、僕は彼女と喧嘩をしていた。恥ずかしい話だが、僕はそのことを死ぬほど後悔している。死ぬほどなんて軽はずみに使うべきではないと思うが、それだけ後悔しているということを分かって欲しい。

 この後悔を背負ったまま、葉月の分まで生きなければならないと、そう思った。どんなことがあっても、最後まで生きないといけないと、固く誓った。

 もう少し優しくできなかったのかと、もっとろくなことを言えなかったのかと、思い返せば思い返すほど後悔の念は増して行く。

 以降、贖罪のつもりではないが、毎日こうして葉月の墓へと来て祈りを捧げている。 

 でも、家には一度も行けていない。

 生前の葉月が好きだったお菓子とジュースを供えて、数分間墓の前に立ち尽くしてから、僕は墓場を後にした。

 帰り道になっても、海に人は少ない。夏とはいえまだ朝だし、シーズンの夏休みを迎えたわけでもない。

 海パンの男性は未だに海を泳いでいたし、大学生くらいのカップルもまだ甘ったるい夢の中だ。

 きっと、彼らは幸せなんだろう。そう思うと、少し羨ましくもあった。だけど決して、彼らのようになりたいとは思わない。

 彼らの他には犬の散歩をしているおばさんと、僕と同い年くらいの女の子がいた。

 時間が経ち少し人数が増えてはいたが、それは夏に鳴いている蝉の寿命が七日から八日に増えるのと同じくらいの些細な変化だ。

 僕はその同い年くらいの女の子を眺めていた。なんとなく葉月があのまま死んでいなかったら今はこんな感じの子になっていたのかな、なんて考えてしまったからだ。

 女の子は白いワンピースを着ていた。丈の長いワンピースで、くるぶしまで届くほどの長さだ。波打ち際を歩いたらすぐに濡れてしまいそうに見える。日焼け防止の為だろうか、ワンピースの上から赤いカーディガンを羽織っていたのが、印象的だった。

 夏の早朝とはいえ、少し暑そうに見える。

 これが日中の炎天下の中で、女の子が麦わら帽子をかぶっていて、ぬるい潮風と共に帽子が飛ばされたりしたら完璧なんだけどな。なんて、要らないことを考えてしまう。

 それもこれも、全部葉月のせいだ。

 生前の葉月がよくそんな失敗をしていた。みんなで必死になって飛ばされた麦わら帽子を取りに行った時のことを鮮明に思い出せる。ある時は海の家の屋根に、ある時は山の中に、ある時は海の中に、汗だくになって、びしょびしょになって、ようやく帽子を取り戻した後に輪になって浜辺に寝転んだりした。大事そうに帽子を抱えていた葉月の横顔が脳に焼き付いて消えてくれそうにない。

 僕の心は確かに空っぽになったはずなのに、もう跡形もなく無くなってしまったはずなのに、残像のように葉月の姿がいつまでも心にある。

 これはもう呪いに近いものなんだろうなと、いつしか自嘲気味に思うようになった。

 女の子はきょろきょろと辺りを見ていた。一瞬海パンの男性の方へ歩いて行こうとしたが、思い直したのか犬の散歩をしているおばさんの方へ向かって行った。

 彼女達は何事かを話し込んでいた。女の子が身振り手振りを使って何かを懸命に説明していたが、おばさんの方は眉間に皺を寄せて怪訝な顔をしていた。

 女の子はおばさんと話し終えると一礼して再び辺りを見回す。

 こんな朝早くから海辺で何をしているのだろうか。頭の中を空っぽにして静観していたからだろう、女の子と目があった。彼女がワンピースを揺らしながら近づいて来る。

「ちょっといいですか?」

 鈴の音のように美しい声音だった。髪は黒く艶やかで、腰あたりまで伸びている。大きな瞳も葉月にとても似ていた。肌は夏だというのに、驚くほど白かった。さすが、日焼けを気にしているだけのことはある。 

「どうしたんですか?」

 まだ登校まで時間はあるし僕としても断る理由はない。僕は彼女と少しの間話すことにした。

 ただし、絶対に深くは踏み込まないように、心の距離を一歩引いたところまで離しておく。

「あの、身体が透明になってしまう病気に心当たりはありますか?」

 一瞬、何かの冗談かと思った。おばさんが眉間に皺を寄せていた理由が、何となく分かってしまった。
 
 これはドッキリか何かだろうか。少し話し込んだ後、ドッキリ大成功の札を持った奴が出てきても何もおかしくないなと思った。だが、女の子の表情は真剣そのものだった。もしこれが演技だとしたらそれはそれで感心してしまうくらいには真剣な眼差しをしている。

 だからもしかすると、体が透明になってしまう病気は実在するのかもしれない。だけど、医学の知識量がふ菓子のようにスカスカな僕だからかもしれないが、そんな病気は知らない。

「えっと、申し訳ないんだけど知らないかな」

「分かりました。他を当たってみます」

 僕が素直にそう告げると女の子はニコッと笑って一礼してからまた歩き出した。彼女の笑顔は、笑うことに慣れていないような、どこかぎこちない笑みだった。

 女の子は歩き出す時に「間違えちゃったのかな」などと、ぶつぶつ何かを言っていたが、うまく聞き取れなかった。
 家に戻り、居間に入ると風にのって煙草の煙が流れ込んできた。 

 煙草の匂いは嫌いだ。この世の不純物を全て詰め込んだような匂いが、なんだか好きになれなかった。

 朝の煙草の匂いは姉さんが起きて来たことを意味している。

「姉さん。いつも言ってるけど窓開けたままベランダで煙草吸っても意味ないよ。煙が全部家の中に入ってきてる」

 姉さんは下着姿のままベランダで煙草を吸っていた。僕の声に反応して唇から煙草を離し、ゆっくりと振り返る。蒸気機関のように煙を吐き出し、眠たそうに目をこすってからボサボサに乱れた頭をぽりぽりとかいた。

「あ、帰って来たんだ。相変わらず朝早いね。朝ご飯昨日の残り物で良いから、準備しといて」

 姉さんは僕の問いかけを無視して人差し指で台所を指す。

「了解。あと、そんな姿でベランダに出てると外から見られるよ」

「良いのよ。別に減るもんじゃないし。見たけりゃ勝手に見てれば良いから」

 姉さんはベランダから海を見下ろしていた。僕の家の後ろはちょっとした崖になっていて、その下には普通の道がある。見られる可能性は充分にあるのだが、姉さんは全く気にしていない。

「確かにそうだ。裸見られてるわけじゃないしね」

「そういうことよ」

 姉さんと短いやり取りを終えてから台所へ向かう。

 下着姿なんてビキニと変わらない。特に海の近くに住んでいるから良く水着になるし、近所の人に見られたところで何も感じない。というのが、姉さんの主張らしかった。実に彼女らしい考え方だなと思う。

 シチューの入った鍋に火をつけ、二人分のご飯をよそる。姉さんは昨日の残り物だけで良いと言ったが、これではいささか少なすぎる気もする。僕は冷蔵庫から生卵三つとフライパンを出し、フライパンに油を引いてから溶かした卵を入れて卵焼きを作った。

「まあ朝だしこのくらいあれば充分だろう」

 卵焼きが出来上がる頃に一服を終えた姉さんがやって来た。

「何? あんた卵焼きなんて作ってるの? 寝起きは胃が受け付けないから昨日の残りだけで良いのに」

「そんなのギリギリまで寝てる姉さんが悪いんだよ。ご飯食わないとロクに仕事できないだろ」

 二人だけの朝食が始まる。我が家には父も母もおらず、住んでいるのは僕と姉さんの二人だけだ。 

 両親は三年前に死んだ。これも事故だ。旅行の帰り道の出来事だった。僕と姉さんを置いて、旅行帰りの幸せな気分の中、二人は仲良く天国へ旅だってしまった。本当、嫌になってしまう。

 父と母が死んで以来、僕と姉さんは両親の遺産をチマチマ使いながら暮らしている。ちょうど去年に姉さんは大学を卒業し、晴れて社会人となった。結婚して家を出るまでは僕を養ってくれるらしい。その代わり、僕がこうやって家事全般をやっている。当然のギブアンドテイクだと思うが、この姉が結婚するビジョンが見えない。僕達はもしかすると一生、この街で暮らしていくのだろうなという漠然とした思いがあった。

「あんたさあ」

 姉さんは僕の作った卵焼きを箸で掴みながらそう切り出す。

「なに?」 

「まだ清涼くんとか立夏ちゃんと喋ってないの? あの子達、この間うちの前の駄菓子屋に来てたよ」

 清涼と立夏というのは僕の以前の友人達のことだ。僕と葉月と清涼と立夏。この四人が僕の幼馴染で、昔良く一緒に遊んでいた。思い返せば、あの頃が僕の人生の中で一番輝いていたかもしれない。だからこそ、あの輝きを失ってしまったからこそ、僕は今こうなってしまった。

「別に何でも良いだろ。迷惑かけてるわけじゃないんだからさ。それより姉さんこそ会社の人とうまくやってけてるの?」

「私は別に上手にやってかなくても良いのよ。私は特に上手にやっていく必要もないし。地元の友達とは上手にやっていけてるしね。ビジネスパートナーに友情なんて求めたらいけないのよ」

 姉さんはコップに入っていた水を一気に飲み干してから続ける。

「あんたみたいな根性なしとは違うから。目を背けてるわけじゃないしね。一緒にしないで欲しいかな」

 姉さんはピンとコップを弾く。グラスに入っていた氷がカランと音を立てた。

 姉さんの言葉を聞いて、水の中にどす黒い粘液を落としたかのように、僕の心に靄が漂う。

「余計なお世話かな。僕は好きでやっているんだよ。自分自身は自分で守るからいいのさ」

「そういうところが弱いって言ってんの。言っておくけど、あんたのそれ、強さでもなんでもないからね。強さを求めるんじゃなくって強くならないといけないのよ。乗り越えないと話にならないわ」

 僕は姉さんの言葉を無言で聞き、噛みしめるように残りの朝食を胃に放り込んだ。

 せっかく作った朝食は、何の味もしなかった。粘土でできた食べ物の形をした何かを食べているような気分だった。それらは僕の腹の奥にずっしりと重くのしかかり、わだかまりと共になかなか消えてくれなかった。

 食べ終えてから席を立ち、再びシャワーを浴びてから身支度を整えて家を出た。先程までと比べていくぶんか日差しが強くなっている。突き刺さるような日差しを受け、目を細めながら学校までの道を歩く。

 家の前のちょっとした坂道を今度は逆に登っていく。坂道を登りながら、小さなため息をついてしまった。

 葉月を亡くしてから、僕は臆病者になってしまった。

 あの輝やかしく美しい日々を、もう二度と失いたくない。

 僕は、これ以上何かを失うのが怖い。
 クラスに着く頃にはいつも教室の連中はあらかた登校し終わっている。僕がクラスに入ったところでクラスの喧騒になんら変化はない。夏に鳴く蝉の数が一匹増えたことを誰も気にしないのと同じようなものだ。

 空っぽの鞄をロッカーに入れてから席に着く。小さなため息をついてから机に突っ伏した。

 目を閉じて暗闇に意識を委ねると、今朝姉さんに言われた言葉が頭の中をぐるぐると回り始める。

 清涼と立夏は僕の幼馴染だ。昔は仲が良かった。でも、葉月が死んでからは会話をしていない。正直なところ会話をしていないわけではないが、僕が一方的に避けている。

 僕はもうこれ以上、大切なものを失いたくないんだ。父を亡くし、母を亡くし、大好きだった幼馴染までもを亡くした。その度に言葉では言い表せないような喪失感に襲われて、どうしようもないくらい悲しくなった。打ちのめされた。

 失いたくなければ、初めから手に入らなければいい。そう思ってから僕は友人関係などを全て断ち切った。

 葉月と清涼と立花。あの四人で過ごした輝かしい日々さえ無ければ、こんなにも傷つくことは無かった。

 初めから何も知らなければ、葉月と出会ってなければ、葉月を失うことも無かったんだ。

 だから僕は、そういう人生を目指した。喜びもなければ悲しみもない。そんな起伏のない平坦な人生を手に入れようと思った。それが傷みから逃れる唯一の方法だと思ったからだ。信じたからだ。

 僕は空気でいい。風のように何もかもをすり抜けていきたい。目の前にボタンがあったとしても、僕はそれを押さない。どうしてもというのなら誰かがそのボタンを押すまで待つ。

 能動的ではなく、受動的に、そういう生き方を選んだ。 

 人と関わる時も踏み込みすぎず、適度な会話で終わらせる。そういうことを心がけて過ごして来た。

 姉さんはそれを強さではないと言った。それには同感だ。孤独でいられることが強さではないことくらいは分かっている。姉さんは少し勘違いをしているんだ。僕は自分が強いだなんて思っていない。僕は弱い。弱くて、脆くて、触ったら一瞬にして崩壊してしまいそうな、そんな繊細な心を持っているから、それを守るために逃げ出したんだ。

 逃げたことによってどうなるか。逃げたことによってどうするか。それが一番大事なんだと思っている。 

 僕はもう自分の心の限界を感じた。だから、逃げた。それだけのことなんだ。 

 誰にも触れられることなく、透明人間のようになっていたい。そうしていたいのだが――

 そこで思考の波が途切れる。トントンと、指で机を叩く音が聞こえたからだ。

「おはよう。太陽」

 ほとんど反射的に顔を上げてしまう。そこには清涼が立っていた。長月清涼――僕の幼馴染みの一人。彼は夏の朝にぴったりな爽やかな笑顔で僕を見ている。

 その隣に立っているのはこれもまた元幼馴染の打水立夏だ。

「今朝清涼と一緒に葉月のお墓に行ったんだよ。そしたらお供え物があったからさ。太陽のやつかなって思ったんだけど、違う?」

 立夏も夏ぴったりのお日様のように眩しい笑顔で喋り出す。

 清涼は少し伸びたスポーツ刈りのような髪型をしていて、体格もでかい。頭脳明晰スポーツ万能、クラスの人気者だ。

 立夏は髪を肩辺りで切りそろえていて、全体的に細く、すらっとしている。バスケ部のエースで男子からの人気も高い。

 空気のように過ごしていたいのだが、そんな人気者の二人が時々話しかけてくる。そんな様子をクラスメイトは毎回訝しんで見ていた。

 なぜあの二人があんな奴に、みたいな感じで。今も現にコソコソと囁き合っている。 

 今朝のような赤の他人ならば、踏み込みすぎずドライに一歩距離を置いて会話をすることができるのだが、この二人の場合そうはいかない。

 幼馴染として数年間過ごしていた記憶、さらには葉月の記憶が刺激されてしまうため、少し感情的になってしまうのだ。具体的にいうと気を抜くと昔のように心を許してしまいそうになる。

「そうだよ。僕が行ったんだ」

 できるだけ二人に視線を合わせないように、視線を窓の外にある海に向けて言う。

「あ、やっぱりそうだったんだね」

「もし太陽が墓参りに行ってたら放課後もう一回一緒に行ってみたいなって立夏と話してたんだ」

 二人揃って「良かったら一緒に行かない?」と聞いてきた。

 僕は海を眺めたまま少しだけ考える素振りを見せる。

 答えはノーだ。即決できる。

 この二人と葉月の墓参りになんて行ったら苦しくて苦しくて仕方ないだろう。

 建前として少しだけ悩むんだ。そうすることによって相手に負わせる傷を最小限にすることができる。

 喋り掛けられたくないのならいっそ突っぱねてしまえばいいと思うかもしれない。だが、僕にはそれがどうしてもできなかった。こういうところでも、僕はとても弱い。

「誘ってくれたのは嬉しいんだけどさ。今日は放課後にどうしても外せない用事があるんだ。ごめんね」

 こういう場合『また良かったら誘ってよ』と付け足さないことがミソだ。

 僕が言うと立夏は悲しそうな表情で「そっか」とだけ呟いた。

「予定が悪かったならしゃあないな。また今度よろしく頼むよ」

 清涼は立夏の背中をぽんぽんと叩きながら、笑顔を崩さずに言ってくれた。そのまま二人ともそれぞれの席へ戻る。

 朝の光が教室中に充満していた。僕の前から去って行く二人の背中は、透明な光も相まって悲しげに見える。

 僕はそんな二人の様子を、目を細めながら眺めていた。僕はいったい何をどうしたいんだろうか。

 朝の姉さんの言葉が再び脳内に反響する。僕は確かに弱い。でも、弱いままでいい。今のままでいいんだ。きっと、失敗はしない。だって、そうすれば失うものなんて何も無いんだから。これ以上下がりようがない。だからこれでいいんだ。壊れることだってないはずだ。
 放課後――僕はすぐに教室を出た。別に居心地が悪いとかそういうのではない。立夏や清涼に再び声をかけられるのが嫌だからってわけでもない。嫌ではあるが、すぐに交わせるからだ。

 今はとにかく一人になりたい。一人の時間が欲しかった。基本的にお前は一人でいるじゃないかと思うかもしれないが、今の僕が求めているのは完璧な一人だ。近くに誰一人としておらず、あるのは自然が創り出す音だけの静かな世界。

 そこで落ち着きたい。ゆっくりとこの乱れた感情を沈めたい。

 外に出ると、空は未だ青いままで、海の上には天高く伸びる入道雲が浮かんでいた。至る所から聞こえる蝉時雨が心地よく鼓膜を打った。

 帰り道と反対側に向かって歩いて行く。そっち側に目的の場所があるんだ。

 僕の周りにはまだ下校途中の生徒達が大勢いた。彼らを避けるように僕は道路の端、海側の方に備え付けられている階段へ向かう。

 この道路は坂道のようになっていて、海側の道には海沿いの道路へ続く階段が付いているところがある。ジェットコースターの横に付いてある係員用の階段みたいなものだと思ってくれていい。岩を削って作った階段で、ステンレス製の柵がついた丈夫な作りになっているが、高さによる恐怖からあまり利用されていない。

 下り方面へ向かって伸びている階段を一段一段慎重に降りて行く。

 しばらく歩いた所に、小さな踊り場のようなところがある。

 そこが僕のお気に入りスポットだ。嫌なことがあると、良くここに来ていた。

 柵からぶらんと足を放り出して踊り場に腰を下ろした。

 眼前には広大すぎる海が広がっている。空へと伸びる雲。海へ向かって滑空する鳥。耳元を通り過ぎる風の音。岩場に当たるさざなみのリズム。

 ここに来ると、現実を忘れられる。水平線の向こう側に連れて行ってもらっているような気になる。

 しばらく海を眺めてから今さっき降りてきた階段に視線を移した。

 ゴツゴツとした岩の階段がどこまでも続いている。昔よく、ここで千と千尋の神隠しごっこをした。

 千が釜爺の元へ行くために降りた階段。あれを連想した当時の僕達はここの危険度も知らずにこの危ない階段を駆け下りていた。

 一人になって、自然の力を借りて、頭から今日のことを振り払おうとしてみても、結局のところ過去へ、葉月へ行き着いてしまう。

 辛くなった時、苦しくなった時、最終的に助けてくれたのは昔の記憶達だ。

 過去は美しいものだから。この記憶は僕の逃げ道なんだと、自分に言い聞かせる。だから、僕は立夏や清涼と友達に戻りたいと思っているわけではない。

 海の上に光の道を作りながら、陽が沈みかけていた。

 もう、家に帰ろうと思った。

 ここは暗くなったら危ない。足を滑らせたりしたら大変だ。そう思った瞬間、葉月のことが頭に浮かんだ。僕は慌てて頭を振って、その想像を振り払った。

 事故だけは、何が何でも起こしてはならない。

 一段一段、階段を慎重に降りて行く。陽はまだ完全に暮れきってはいないが、階段を下り終わる頃には空は真っ赤に染まっていた。

 海沿いの道路に降り立ち、夕日に照らされた緋色の海を横目に歩く。風に流された砂浜の砂が、靴底と擦れ合いじゃりじゃりと音を立てている。

 しばらく進んでいるとバス停が見えて来た。小屋のような木製の休憩所があるバス停だ。小屋の中には青いベンチがあって、何度かそこで雨宿りをしたことがある。そのバス停の前を通り過ぎようと歩いた時、背筋が凍りついた。

 そのベンチの前に、今朝会った女の子が倒れていたからだ。あの、カーディガンを羽織っていた少女だ。彼女が、苦しそうに顔を歪めて倒れていた。

 酷く呼吸が乱れていて、額にはあぶら汗が浮かんでいる。死んだ葉月や父母の姿が頭の中にフラッシュバックする。

 僕は頭の中に蘇って来た彼らの姿を振り払い、倒れている少女に駆け寄った。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

 この状況を見過ごせるほど腐った覚えはない。

「う……うぅ……」

 少女は呻き声を上げていた。どうやら意識はあるようだ。

「とりあえず救急車をよびます。もう少しですから、頑張ってください」

 救急車を呼ぼうとケータイを取り出した時だ。

「待……って……くだ……さい」

 少女が震える腕を伸ばして、力無く僕のケータイを掴んできた。

「お、お願い……です……救急車は……呼ばないで」

 振り絞って出した微かな声で、彼女は必死に訴えてくる。

「でも、君。凄く苦しそうだ」

「お願い……です……から……辞めて……ください。できれば……貴方の家まで……連れて行って……くだ……さい……たす……け……」

 少女はそこまで言うと意識を失ってしまった。

 どうするべきなんだ。

 彼女を僕の家まで連れて行くべきなんだろうか。

 今も少女は身体を汗でぐっしょりと濡らしながら荒い息を立てている。

 救急車は呼ぶなと言われた。家まで連れて行ってくれと頼まれた。

 でも、彼女をこのまま家まで連れて行ったら、僕は彼女を失った時にまた心に深い傷を負うかもしれない。このまま彼女を見捨てたならば、僕は今罪悪感を覚えるだけで済むだろうか。

 だが、彼女は最後なんと言いかけていた。

 苦しむ少女の横顔が、葉月の顔と重なって見えた。

 ああ、ダメだ。そんな風に見えてしまったら見捨てることなんてできない。

 彼女の身を案じるならば救急車を呼ぶのが一番だろう。ただ、彼女がこんなに苦しみながらも、意識を失う寸前でありながらも、救急車を拒んだということには、何かそれなりの理由があるはずだ。

「僕はやっぱり弱いな。弱すぎて自分で自分が嫌になる」

 人とは関わりたくないと自分で決めたはずなのに、かつての友人さえも拒んできたはずなのに、僕は彼女を背負って歩き出していた。
 陽が暮れたというのに、暑さは留まるところを知らないらしい。シャワシャワと鳴く虫の音が、酷く蒸す熱帯夜に拍車をかける。

 背負った彼女の呼吸は荒いままだった。一分一秒の遅れが、命に関わるかもしれないという焦りが、僕の中にどんどんと積み上がっていく。

 そんな思いを抱えながら、やっと家にたどり着いた。

 ぽたぽたと汗が滴り落ち、街灯に照らされたアスファルトの上に黒い斑点を作る。

 肘を使って家の戸を開けてから姉さんを呼んだ。多分もう帰って来てるはずだ。

「姉さん! 悪いけど来てくれ!」

「どうしたん? 私より帰りが遅いなんて珍し……って背中の子どうしたの!」

 姉さんは居間から顔を覗かせた。僕の背中にいる少女を見て驚きの声を漏らす。

「事情は後で説明するから、とりあえず布団を用意して欲しい」

 僕が口早にそう言うと、姉さんは「分かった」と呟いて動き出した。

 その間に彼女を背負ったまま二階に上がる。今はもう空き部屋となってしまった部屋を開け、姉さんが来るのを待った。少し経ってから布団を抱えた姉さんがやって来た。布団を敷き、少女をそこに寝かせる。白い肌にはさらに大量の汗が浮かび上がっていて、髪の毛が額にへばりついていた。薄い胸が激しく上下に動いていて、見るからに苦しそうだった。

「姉さん。汗が酷いんだ。身体を拭いてあげてよ」

「分かったよ。とりあえずお前、桶に水入れて来てくれ」

 ほれ、ほれ、と姉さんは手で合図を出す。

「ちょっとお前、冷静になって来い。顔、ヤバいから」

 姉さんの一言に心臓を掴まれたような感覚があった。

「あの時を思い出してんだろ? 顔色、最悪だぞ。流石にお前にも倒れられたらしんどいわ」

 僕は言われるがまま部屋を後にして洗面所に向かい、桶の中に水を入れた。

 姉さんが言ったあの時とは、恐らく葉月が死んだ時のことだろう。現に僕は何度か少女と葉月を重ね合わせている。今にも死にそうな顔をしていたのかもしれない。

 姉さんが言いたいことは何となく分かるつもりだ。これ以上引きずるなということだろう。

 分かっている。理屈では分かっているが無理なんだ。もう葉月はいないし、どれだけ後悔したって、あの時間は戻ってこない。

 なら、今を幸せに生きた方が良いに決まっている。だけど、僕にはそれができない。葉月がいないと、幸せなんて手に入れられる気がしないんだ。

 水に浸したタオルを絞ってから、水が入った桶を二階に持って行く。

「おし。んじゃ身体拭くか。太陽はこの子の荷物の中でも漁っといてくれ。もしかしたら薬とか入ってるかもだから」

「分かったよ」

 少女が薬を持っている可能性なんて考えもしなかった。いや、普通は少し考えれば分かることなのかもしれない。ただ、僕にはそれができていなかった。勝手に頭に血を登らせて冷静な判断ができなかった。

 でも、今はできることを精一杯やるだけだ。

 少女が持っていた白いショルダーバッグを持って部屋を出る。

 荷物を勝手に漁るなんて申し訳ないなとは思うけど、そんなことは言ってられない。

 鞄を開けて、中身を調べる。薬を探している途中に、見たことのない物を発見した。一見腕時計に見えそうなそれは手首に巻きつけるタイプの装飾品のようだ。腕時計でいうところの時計盤の場所には液晶が取り付けられていて、その周りを銀の縁が覆っていた。Apple Watchのような形をしているが、それとはまた違う。

 見たことのない、不思議な物だった。

 だが、今はそんな物に気を取られている場合ではない。早く薬を探さなくては。

 そう思った矢先の出来事だった。

 部屋の中から姉さんの悲鳴が聞こえた。

「おい!! やばいんだ! 早く来てくれ!」

 姉さんがこんな大声を出すことなんて滅多にない。よっぽどのことなんだろうと、僕は慌てて部屋に向かった。

 部屋の扉が勢い良く開かれて、姉さんが顔を出す。

「どうしたの!?」

「いいから早く!」

 こんなに焦った姉さんを見るのは久しぶりだ。

 僕は姉さんに引っ張られる形で部屋に引きずり込まれる。

 身体を拭かれていた少女はワンピースを脱がされて、下着姿になっていた。気まずくなった僕は少し視線をそらしてしまう。

「しっかり見ろ!」

 姉さんに頭を掴まれて無理矢理見させられる。そこで視界に入ってきた現実を見て、僕は絶句した。

 あのいつも冷静な姉さんが取り乱した理由が分かった。

 その女の子の身体には、あるべき場所にあるべき物が無かった。

 なんと表現するのが正解なのだろうか。元の形は想像できるのに、そこにあるべきものが欠けている。

 へそから肋骨の下部分辺りまでが、綺麗に消えていた。

 上半身と下半身が繋がっていないのだ。まるで空洞のように、そこには元々何もなかったかのように、彼女の身体の一部が無くなっている。

 そしてそれは現在進行形で彼女の身体を消滅させていた。目を凝らして見ると、じわじわと彼女の身体が減っているのが分かる。

「姉さん……これ、どういう……」

「そんなの私にも分かんねえよ。顔とか拭いた後、服脱がせたらこうなってたんだから」

 そこで僕は今朝のことを思い出した。

 ――あの、身体が透明になってしまう病気に心当たりはありますか?

 彼女は僕にそう問いかけてきたんだ。

 そんな病気があったなんて知らない。というより、本当に体が透明になる病気は存在していたんだ。あれは、ドッキリなんかじゃ無かった。

 彼女が今朝言っていたのはこの病気のことだろう。

「この現象が病気かどうかなんて私には分かりゃしないけどさ、なんか薬はあったのか?」

 これが病気だとすれば、絶対に薬があるはずだ。彼女はきっと、それを持ってる。

 姉さんに言われてすぐにバッグを漁ると、夥しい量の薬が見つかった。同じ場所に説明書のようなものもあり、その中に発作に関する薬の説明書きがあった。

 恐らく、今起きてるこれが発作だろう。外で倒れていたんだ。突発的に起こったに決まっている。そこに記されている薬を飲ませよう。

「姉さん。発作用の薬があったよ」

「なら今すぐそれを飲ませるんだ! 意識の確認して! 寝てたら危ないから!」

 僕は彼女の横に腰を下ろして、彼女に語りかける。

「薬を持ってきました。意識はありますか? 頑張って、薬を飲んでください」

 姉さんの言う通り、意識がない中で勝手に水を飲ませて器官に入ったら大変だ。辛いだろうがまずは彼女を起こさないと。

 僕の声が届いてくれたのか彼女は薄っすらと目を開けた。そして力無く小さく頷いてくれた。

 それを見た僕はすぐさま彼女の口にカプセルを入れて飲ませる。薬を飲んだ彼女はまたすぐに意識を失った。

 少し経って女の子の容体が落ち着いてから、僕達は居間に戻った。そこで姉さんに事情を説明する。どうしてこの女の子をここに連れて来るに至ったかを出来るだけ丁寧に説明した。

「へえ。まさか今のあんたにそんなことができるとはねえ。ちょっと感心したよ」

 言葉の通りに姉さんはその話を嬉しそうに聞いていた。

 そんな姉さんの笑顔を見て、僕は少しだけ胸が痛んだ。

 姉さんはきっと僕が葉月を失ってから始めて誰かと関わろうとしていると思っているのだろう。だけど違うんだ。
僕が彼女を助けようと思ったのは、彼女と葉月が重なって見えたからなんだ。僕はまだ昔の出来事を乗り越えられていない。

 誰かに心を開いて、失うかもしれないリスクを背負って生きていくなんてことはできないんだ。だから、彼女とはあまり仲良くなりたくない。話しかけられたとしても、一歩距離を置こうと思う。

 だって、あの子は絶対に病気にかかっている。もしここで心を許したとして、あの子と仲良くなってしまったとして、葉月の時と同じようにあの子を失った時、僕は耐えられるだろうか。

 いいや、耐えられない。耐えられるわけがない。

 姉さんには悪いけど僕はまだ成長できていない。乗り越えられていない。これまでも、そして、これからも同じだ。僕はこのままでいたい。

「人がせっかく喜んでる時になんで辛気臭い顔してんだよ」

 言いながら、姉さんは席を立って煙草を一本取り出した。

「どうせあれだろ? 僕が彼女を助けようと思ったのは愛しの葉月ちゃんとダブって見えたからなんだとかなんとか思ってんだろ?」

 煙草を口にくわえ、ライターで火をつけてから姉さんはベランダに向かった。

 僕は姉さんの話を黙って聞いている。いや、黙って聞くことしかできない。

「私が気づいてないと思ったか? 私から見てもあの子は葉月ちゃんに似てんだから、私でも分かるわよ」

 ベランダの柵に背を預けて姉さんは僕の方を見る。

 煙草の煙が風に乗って部屋に流れ込んで来た。それが、痛いくらいに目にしみる。

「私はそれでも良いって思ってるってことだよ。面影を重ねようがなんだろうが、太陽が誰かと関わったことが嬉しいってこと。いきなり誰かと仲良くして友達を作りなおせなんて思ってないから。段階を踏んでで良いのよ。私はこれがキッカケになればって思ってる。それだけだよ」

 姉さんはふーっと煙を吐き出す。

 僕は、姉さんの気持ちに応えられるだろうか。その答えは、正直言って分からない。

「姉さん。良いこと言ってくれてる時に言うのも何だけどさ。病人が上にいるから窓は閉めた方が良いよ」

 だから、とりあえず揚げ足を取ってこの場は済ませておこう。

「おっ。確かにそうだな。お前には良いとして、お客さんには気を使わなきゃいけないな!」

 姉さんは笑ってから窓を閉めた。それでいいんだと思う。
 意識が深く深く下へと堕ちていく。暗い水中を漂っているかのような感覚に陥った後、おぼろげながらも意識が蘇ってきた。

 初めは全体がぼやけて見える。段々と輪郭を捉えられるようになって、次第に形が分かるようになった。

 気がつくと、僕はアスファルトの上に立っていた。右を向くと海が見えて、左側には赤いポストがある道路だ。

 忘れもしない。そこは中学校の通学路だった。その場所に、僕は立ち尽くしている。

 その瞬間に、これは夢なんだと理解した。僕はこの夢を何度も何度も見ている。

 僕の前から、制服に身を包んだ少女が歩いてきた。彼女の隣には同じく制服を着た少年が歩いている。その少年とは僕のことで、隣にいるのは葉月だ。

 彼らに僕の姿は見えていない。当時あった出来事を、僕が思い出しているに過ぎない夢だからだ。

「ねえ、図書館とか行って調べたんだけどさ。やっぱり神隠しの場所はあそこで間違いないみたいだよ!」

 葉月は僕の隣で笑顔を振りまきながら話している。

 この時、僕達はこの地域で昔から語られている都市伝説にハマっていた。今思えばどこの誰が言い始めたのかも分からない何の信憑性もない話だが、当時の僕達にとっては何よりも気になる話題だった。

「私達でそこに行ってみようよ! もしかしたら神隠しにあっちゃうかもしれない! そしたら立夏や清涼達に教えて驚かせようよ! きっと羨ましがると思うんだよね!」

 葉月は目をキラキラと輝かせて嬉しそうに僕に提案して来る。ただ、その時の僕はあまり葉月と二人で行動したくなかった。

 僕はこの時間違いなく葉月のことが好きだった。それは友達としての好きとかそういうことではなく、異性としての好きだった。

 僕は彼女と付き合いたいと思っていたんだ。恋人として、彼女として、隣を歩いていて欲しかった。

 僕と葉月はとても仲の良い幼馴染だったから、学校でもよく一緒に行動していた。

 そのせいでクラスメイトからあいつらは付き合っているだのなんだのと噂されるようになったんだ。

 二人でいる時間は、本来なら喉から手が出るほど欲しいものだ。僕だって、初めは二人の時間が嬉しかった。

 だけど、クラスメイト達からからかわれて「私達はそんなんじゃないのにね」なんて言いながら苦笑いする葉月の姿を見て、考えが変わった。

「私は別に君を好きじゃないよ」と言われているようで、酷く心が痛んだ。

 だから、僕は彼女を拒んだ。拒んでしまったんだ。それが間違いだったと今なら分かる。

「僕は良いよ」

 僕がそう言うと、葉月は顔をしかめて僕を見つめてきた。

「なんで? 最近の太陽はなんか変だよ」

「別に何も変じゃないよ」

 僕の発言が嘘だと分かるのか、彼女は目を細めてジーッと僕を見つめた。

「もしかしてクラスの子達にからかわれるのが嫌なの? 私、そんなの全然気にしてなんかないよ」

 彼女の偽りの無い素直な言葉が胸に突き刺さる。

『私、そんなの全然気にしてなんかないよ』

 それだよ。と心の中で呟いた。それなんだよ、葉月。

 気にしてないというのが、とても嫌なのだ。僕は意識して仕方ないというのに、君は全く意識していない。そのことが、途方もないほどに悲しい。惨めで、情けないと思ってしまう。

 そして僕は、夢の中でそんな僕達を見ていた。心の中がざわざわと泡立っていく。

 ああ、ここで僕は言ってしまうんだな。何度も何度も後悔して、取り消したくても取り消せなくて、未だに夢にまで出てくるような言葉を。

「そういの嫌なんだよ……」

言葉に出したらもう止まらなかった。

「君は良いかもしれないけど、僕は嫌なんだ! 行くなら一人で行ってくれよ! もう、お前とは会いたくない!」

 気がつけば叫んでいた。

 行くなら一人で行ってろ。

 僕の言葉通りに彼女は一人で神社に向かった。そして、事故にあって死んだ。

 最後に言った言葉がもう会いたくないだ。

 本当に会えなくなってしまった。

 本当にどうしようもない馬鹿野郎だ。

 今の僕があの時の僕に会えるなら、胸ぐらを掴んでやりたい。

 僕は俯いたまま、葉月の顔を見ずに走り出した。逃げたんだ。乱暴な言葉で傷つけてしまった葉月の前にいたくなくて、僕は逃げ出した。僕は目を瞑りながらがむしゃらに走って、今の僕の横を通り過ぎて行った。

 待ってくれ! 行くな! 葉月に謝れ!

 手を伸ばして引き止めようにも、身体が動かない。叫んで止めようにも声が出ない。

 走って行く僕の背中が見える。立ち尽くす葉月の姿をこれ以上見たくない。

 せめて、夢の中だけでも仲直りして欲しい。

「頼むから、行かないで……」

 ガバッと、タオルケットを投げ出して飛び起きていた。

 目が、覚めたんだ。

 窓越しに海に浮かぶ月が見える。額には脂汗がぐっしょりと付着していて、シャツもびしょびしょだった。

「またあの夢か」

 はあ、はあ、と荒い呼吸を整えて、僕は天井を見上げた。

 自分の気持ちしか考えず、相手を傷つけた。更には一人で行かせて死なせるという取り返しのつかない失敗まで犯してしまった。

 あのとき僕も神社に一緒に行ってたら。それを考えない日はない。事故を防ぐことができていたかもしれない。そんなもしものことを、考えずにはいられなかった。僕は馬鹿だ。葉月を殺したのは、僕だと言ってもいい。

 そのことを考えるたびに胸が締め付けられる。

 やはり僕に友人を持つ権利なんてない。手に入れてもまた同じように傷つけて失ってしまう。

 ぽっかりと空いた心の穴が増えるだけだ。僕はもうこれ以上は失いたくない。傷つきたくないんだ。

 人を傷つけていたって、僕は自分のことしか考えていない。なんて自分勝手な人間なんだろうか。自分で自分が嫌になる。

 気分を紛らわせるために一階に下りた。冷たいミネラルウォーターをコップに注いで一気に飲み干す。冷たい液体が空っぽの胃の中を満たしていく。火照った身体に水が痛いくらいに染み込んできた。

 口を拭ってからベランダに出る。柵に肘をついて、手に顎を乗せて海を眺めた。

 緩やかな波の音だけが聞こえる静かな世界。いっそのこと世界がずっとこうなってしまえばいいとさえ思う。

 世界なんて、終わってしまって構わない。そうすれば、みんな揃ってあの世だ。みんながみんな不幸だというのは、それはそれで幸せで美しい話だと思う。

 空を見上げると、そこには満天の星が広がっていた。あの中の一つが葉月なんだと、夜空を見上げるたびに思うようになった。

 そんなことを思い返していた時だ。

 煌めくように流れ星が落ちて、夜の闇に吸い込まれていった。

「あの星が葉月で、僕の前に落ちて来てくれたらいいんだけどなぁ」

 自分で言って、ため息をついてしまう。こんなアホらしいことを考えて気持ちよくなってしまうなんて、本当に終わってる人間だ。

「姉さん。やっぱり僕にはまだ無理そうだよ」

「どうしたんですか?」

 聞き慣れない声がして、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。慌てて振り返って見ると、居間の戸から女の子が顔を半分だけ出してこっちを見ていた。

 さっき助けたあの少女だ。

 どこから聞かれていたのだろうか。全部聞かれていたと考えるとかなり恥ずかしい。

 気持ち悪いポエマーだと馬鹿にされるかもしれない。

「なんでもないよ。それよりも君は寝てなくて大丈夫なの?」

「さっき叫び声がしたんで慌てて起きてきました。そちらこそ大丈夫なんですか?」

 ああ、彼女はどうやら僕の寝言で起きてしまったようだ。でもあれは寝言というよりは叫び声だったから、申し訳ないことをした。

「ごめん。それ、僕の声だ。ちょっと悪夢を見てたけど、大丈夫だから気にしなくていいよ。それよりも君は寝たほうがいい」

 あの夢を悪夢と言うことは嫌だったが、ここは便宜上仕方なくそう言っておこう。

 僕はできるだけ彼女と目を合わせないようにして言った。そしてベランダから部屋に戻る。

 一刻も早く彼女と距離をとりたかった。これ以上話すのが怖い。

 彼女のことを気にいるのが怖かったし、彼女と近くにいて葉月を思い出すこともためらわれたからだ。

「あの……今日はどうもありがとうございました」

 女の子は僕を見て深々と頭を下げた。

 頭をあげてから僕を見てニコッと笑ったが、やはりその笑顔も今朝と同じで作り物のようなぎこちないものだった。

「別にいいんだ。気にしないでよ。僕は少し出かけてくるから、早く寝た方がいいよ。まだ、体調だって万全じゃないんだろうから」

 礼を言う彼女に右手を上げて応えてから、僕はシャツだけを着替えて外に出た。

「はあ……姉さんには悪いけど、やっぱり無理そうだよ」

 いざ人を前にすると失う怖さを一番に考えて行動してしまう。僕は彼女を気に入りたくない。

 葉月に似ている彼女を嫌いになるはずがないんだ。思い出して辛かろうと、面影に幸せを感じてしまうんだ。だからこそ、彼女を気に入ってはいけない。

 雑念を振り払うためにも、僕は今から葉月の元へ向かおうと思う。本当は身体を洗って清潔にしてから行きたかったが、あの女の子がいるところで風呂に入るのも嫌だ。仕方なくシャツだけを変えて行く。

 誘蛾灯に群がる害虫を横目に暗い夜道を歩く。途中コンビニに寄って葉月へのお供え物を買った。

 あの女の子から逃げるように葉月の元へ向かっているのだが、頭から中々あの子のことが消えてくれない。

 それもそのはずなんだ。まずあの子は葉月に似ている。それだけでも僕の頭から離れにくいというのに、加えて身体が透明になっているのだから。

 彼女の肋骨付近を見た時の衝撃が、未だに脳から消えてくれない。透明と呼んでいいのかも分からない。あれからは消滅に近いものを感じた。

 僕の心が空っぽになってしまったように、彼女は身体を虚に蝕まれているのかもしれない。

 この現象を呼びやすくするために便宜的に名前をつけようと思う。この現象を《透明化》と呼ぶとして、彼女の《透明化》はいったい人体にどんな影響を及ぼすのだろうか。

 《透明化》は命に関わる病気なのだろうか。命に関わるのだとしたら、僕はまた――――

 水の中に黒い絵の具を垂らしたかのように、僕の心の奥深くに靄がかかる。

 そこまで考えて、僕は慌てて意識を振り払った。頭をブンブンと回して頬を二回叩く。

「違うだろ。冷静になるんだ。僕はまだ彼女と仲良くなったわけじゃない。失ったって全然平気な相手なんだ……そのはずなんだ……」

 ただ葉月に似ているだけだから。葉月と彼女は違う。全く違う人間なんだ。

 とにかく彼女のことを意識から外さなければ。葉月と似ていようが、身体が透明だろうが、忘れるんだ。朝見た時はそんなに意識しなくて済んだのに。やはり『助けた』という事実と《透明化》の衝撃が大きいのだろう。ダメだ。消えてくれない。

 脳にこびりついて離れてくれない彼女の事を無理矢理忘れるために、僕は全力で走り出した。

 考えたくないのなら、何も考えられないくらいに全力で走ればいい。

 僕はさざ波の音に意識を傾けながら、むし暑い夏の夜を全力で走った。走り抜けた。

 暴言を吐いて逃げ出したあの日の僕を追いかけるように、僕はただ全力で、ひたすらに全力で葉月の墓を目指して走った。アスファルトを蹴って、がむしゃらに走り続けて、気がついた時には墓場の前にいた。

「はあっ……はあっ……」

 激しく込み上げる嘔吐感を必死に抑え込む。頬から汗が滴り落ちて、地面にいくつもの斑点を作り上げた。

「汗だくになっちまった……」

 膝に手をついて激しく肩を上下させながら、僕は自分の服を見つめる。シャツにもズボンにも汗が染み込んでいて、とても葉月の前に行けるような状態ではない。

 だけど、ここまで来たからには顔くらいは出したい。

 僕は滴り落ちる汗を拭ってから階段を上がり四段目の左から四番目の墓の前で腰を下ろした。

 さっき買った線香に火をつけて墓の前に置く。その後今朝買ったお菓子とジュースを取り替えた。

 そのまま僕は逃げるように祈りに没頭した。他の事は何も考えずに、葉月への祈りに全神経を集中させた。

「君が居なくなってから、とても大変だよ」

 祈っている途中で、言葉が漏れる。そこから、堰を切ったように言葉が溢れて来た。

「僕はいつも過去に縋ってる。あの頃はまだ未来に希望を見出していたんだ。まさかこんな自分になっているなんて思わなかったよ」

 言葉が溢れ出す。今なら、葉月の前にいれば、なんでも素直に話せる気がした。今思っていることがすんなりと出てくる気がする。それから、言葉がすらすらと出てきた。

「僕は君を失ったあの日からずっと後悔して来た。もう後悔はしなくないと思って生きてきた。今まさにその後悔と向き合わなくちゃいけない場面が来たのかもしれない。今が過去になった時、僕は後悔したくない。胸を張って未来の自分に誇れるような今を生きたいんだ」

 そこで、言葉に詰まる。その瞬間にほんのりと暖かい風が吹いて、僕の頬を撫でた。葉月が僕を撫でてくれたのかと、一瞬だけ思う。その錯覚のおかげで何とか続けることができた。

「僕はこれ以上……失いたくないんだ。だから、僕は彼女をどうすればいいと思う? 失わないためにこのまま突き放せばいい? それとも葉月の時の後悔を晴らすために彼女を助ければいい? 後悔しないためには、何かを失わないためには、どうしたらいいんだろう」

 葉月を前にして、葉月の力を借りて、やっと、僕は口に出して言うことができた。僕が心の奥底で悩んでいたこと。それは彼女を助けるべきかどうかということだ。

 僕が倒れている彼女を助けてしまったのには理由がある。それは葉月に似ていたということと、葉月を失った時の罪悪感、後悔によるものだ。

 僕はこのまま失うリスクを背負いながら彼女を助けるべきなのだろうか。それとも、先ほど会った時のように避け続けるべきなのだろうか。

「彼女は……きっと病気なんだ。助かるかどうかなんて分からない。だから、後悔を晴らそうとしたって更なる後悔を背負うことになるかもしれない。僕にはどちらも選べない。選びたくない。今までずっと、葉月が僕を導いてくれたからだ」

 僕にとって、葉月はそれくらい大きな存在だった。彼女が、僕の道標だった。

 結局、終わりのない問いに答えを見つけ出すことができず僕は立ち上がった。

「君の前で話せたからスッキリしたよ。ありがとう」

 言ってから、僕は葉月のお供え物を眺める。僕が持って来た物とは別に、いくつかのお菓子とジュースが供えてあった。

 どれも葉月の好きなお菓子だ。今朝立夏たちが供えたものだろう。

 昔みんなで一緒に飲んだサイダー。一緒に食べた駄菓子。それらを見ていると、少しだけ懐かしい気持ちになる。

 僕は帰りながら、取り替えたお供え物のサイダーを開けた。プシュッという音と共に、サイダーの良い香りが立ち昇る。飲み口に耳を近づけるとシュワシュワと炭酸の弾ける音がした。

 中身はすっかりぬるくなっていたが、思い出の味は、全く変わっていなかった。

 このサイダーの缶をマイクがわりにして葉月が歌っていた曲を思い出す。サビのワンフレーズしか覚えてないし、何の歌だったかは忘れてしまったが、そのことがとても印象に残っていた。

『悲しみは消えるというなら喜びだってそういうものだろう』

 彼女の鈴の音のように美しい歌声と、この歌詞だけははっきりと覚えている。

「この歌、すっごく良い歌なんだよ! 良かったらみんな聞いてみてよ!」

 歌い終わった葉月がいつもそう言っていた。でも、歌の題名が思い出せない。

 いつも前向きな葉月が歌うにしては少し消極的な歌詞だな、なんて思いながら聞いていた。確かに、悲しみがいずれ消えるのなら喜びだって消えてしまうのかもしれない。

 なんだかこのまま家に帰るのもためらわれた。今家に帰って、《透明化》の少女が起きていたら嫌だから。答えが見つからない今、彼女と顔を合わせたくない。それが逃げだというのは分かっている。ただの時間稼ぎだということも分かっている。

 僕は小さなため息をついて、少女と始めて出会った浜辺へと下りた。しっとりと冷たい砂に腰を下ろして、ぼんやりと空を眺める。

 死んだ人間はお星様になる。

 どこで学んだか覚えていないが、いつからか脳に刷り込まれていた言葉だ。

 空には無数の星が広がっていた。その中の一つが、きっと葉月だ。彼女は今、無限のように広い宇宙の中を漂っているんだろう。

「まるで宇宙飛行士だ」

 星になって宇宙に行った彼女は夜にしか顔を出してくれない。そう思っていたが、今は考えが変わった。

 夜に彼女を見れるだけで充分だ。なんて、いつしかそう思うようになっていた。