──双方で婚姻の意向の確認が取れると、ツクミが婚礼までの流れを説明した。
あやかしと人間の婚礼は、各々の一族のしきたりに則って進められるものだ。鵺の場合は、婚礼の日を待たずに、ひと月後には紗代は荘宕家に住まいを移すことになるという。
「鵺は新月の夜に、お相手を迎えに行くのが習わしです。お迎えにあがってから婚礼の日までは、紗代様には荘宕家本宅の離れにお住まいになっていただきます。そこで、鵺の生活に慣れていただきます」
(同じあやかしでも、初子の婚約者の鬼の一族とは、ずいぶん違う)
鬼の一族は婚約期間が長く、人間の花嫁には三年間の花嫁修業が課される。初子も学校であやかしの歴史や文化についてを学んでおり、それも花嫁修業の一環として数えられるが、あと二年の期間が残っている。初子が鬼牙に嫁ぐのは、卒業後の予定だった。
(わたしのほうが先に、この家を出ることになるなんて……)
思いもよらなかったことが立て続けに起こって、まだ現実のことだと実感できない。
「失礼いたします。荘宕家の荷車がご到着ですが……」
「荷車?」
「はい……」
客間の障子越しに伝える使用人の戸惑いが伝わってくる。
「突然のことでご迷惑かとは存じますが、紗代様は荘宕家の大切な花嫁ですので、心ばかりですが玄夜様から贈らせていただきたい品をお持ちしております。どうぞ、紗代様にお納めいただけましたら。よろしければ、荷運び人に紗代様のお部屋まで運ばせますが」
「それはそれは。ありがたく頂戴することにいたしましょう。せっかくですから、拝見いたしましょうかな。そのほうが紗代の喜んだ顔もお見せできましょう」
父がツクミの提案をやんわりと断ったのは、紗代の部屋が他人に見せられないからだ。
紗代の部屋は、昔物置として使われていた三畳に満たない板の間で、家具もぼろぼろの行李に傾いた文机と、薄い布団があるだけ。
父は「大事な娘」と言った手前、そんな暮らしを強いてきたことは隠す必要がある。
揃って客間を出ると、荷車から降ろされた荷物が、廊下に所狭しと並べられていた。
こっくりした色味の桑の鏡台に、蒔絵の化粧道具一式。長持の金具は草花を象り、細部まで意匠を凝らした一級品。それが四つも並べられ、ほかにも裁縫箱や盥類などが次々と運び入れられている。
「こ、これは……」
これは、嫁入り道具だ。
普通は嫁側で用意して嫁ぐ家に持参するもので、相手から贈られるようなものではない。
それも、並みの嫁入り道具ではない。
これだけのものを運んできたのだから、さぞ人目を引いたのだろう。加地木家の門前には近隣の人たちが集まり、ちょっとした人だかりができているほどだった。
「悪いが、新しいものを用意する時間がなく、母の形見の花嫁道具を持ってきた。しばらく母の古で許してくれ」
「お母さまの……? そんな大切なものをいただくわけには……」
「使ってくれ。母も喜んでくれたはずだ──あなたが嫌でなければ、だが」
「嫌だなんて……わたしには、もったいなくて……」
嫁入り道具は、母親から娘に受け継がれるものだ。もちろん背景にはすべての新調が難しいという経済的事情もあるが、紗代だって、ほんの幼い頃には、母親の鏡台や着物はいずれ自分のものになるのだと憧れを抱いた。
荘宕家には娘がおらず譲り先がなかったのかもしれないが、たとえ息子で嫁入り道具を必要としなかったとしても、玄夜にとっても大切なもののはずだった。
恐縮する紗代に、玄夜は優しく声をかける。
「あなたが快適に暮らせるようにしたい。長持に詰めた布団は新しいものだ。着物はツクミが選んだ。あなたには少し仕立てが大きいかもしれないが、しばらく辛抱してくれ」
「こちらの長持には、玄夜様がお選びになった着物が入っております。紗代様にきっとお似合いだとおっしゃって」
「おい……」
ツクミの捕捉に玄夜がたじろぐが、否定もしなかった。
(こんなにしていただいて……どうしたら……)
無能者の自分には、釣り合わない。
どうするべきかと父を窺うと、父は今にも舌なめずりしそうな顔で、並んだ道具を見分していた。
「こちらは、荘宕家の大奥様の形見でございます。どれも大奥様が大切にされていた品ばかり。玄夜様が紗代様にお使いいただくようにと、はるばる運んでまいりました」
「それは……コホン。さすが、どれも素晴らしい品ばかりですな。しかし紗代は……初子と同じ部屋を使っておりまして。そうだ、このお品は、東の部屋に運んでもらおう。私の物は書斎へ運びなさい。紗代は今日から、東の部屋で寝起きするといい。──そこのお前、ご案内しなさい」
「はい、旦那様。こちらへどうぞ」
使用人の誘導で、荷物がどんどん東の部屋へと運び込まれていく。そこは父が趣味の蔵書を保管していた部屋で、じゅうぶんな広さがある。
荷運びを見守りながら、玄夜は静かに紗代の隣に立った。
「本当なら、今すぐにでも荘宕に連れて帰りたいのだが……。どうか、ひと月、あなたはそのままでいてくれ」
「え……? それは、どういう……」
どういう意味なのか、玄夜は答えのかわりに微笑みを残して帰っていった。
◆ ◇ ◆
(鵺とは、恐ろしい姿をした伝説上の生き物……)
出かける準備をしながら、父から渡された本の内容を思いだす。
──猿の顔、狸の胴、虎の手足に蛇の尾をした、おぞましい姿の物の怪。伝承によって猫の頭だったり、虎の胴だったりと姿の違いはあれど、複数の動物の部位によって成る醜怪な化け物としての描写は定着している。鵺は夜に不気味な声で鳴き、その鳴き声は凶兆とされ、実際に多くの災いを呼んだといわれている。鵺は鳥だという説もあるが、過去には人間によって退治された記録もあり、真相は謎に包まれている──
鵺について何も知らなかった紗代には、驚きだった。
(本当の姿は、おぞましい化け物……? そんな方には、見えない)
玄夜からは、三日に空けず手紙が届く。流麗な文字でしたためられる内容は『変わりないか』と紗代への心配がほとんどで、彼自身のことには、あまり触れられていない。
紗代は、生まれてはじめて手紙の返事を書いた。何を書いていいのか見当もつかず、見かねた使用人たちが知恵を絞って助けてくれた。
手紙を書いているあいだは、どうしたって玄夜のことばかり考える。
ほんの半月前までは、見知らぬ存在だった鵺の青年。
今だって、知らないことのほうが多い相手。
それなのに、彼について悩む時間が増えるにつれて、彼を身近な存在のように感じる。
なんだか不思議な心地だった。
『週末に出かけよう──』
五度目の手紙で町に誘われ、今日がその約束の日。
(お父様には、婚約しているのだから構わないと、お許しをいただいたけれど……)
年頃の男女が二人で町に出かけるなんて、なんといわれるかわかったものではない。
その不安のせいだろう。やけに鼓動が早いのだ。
「お嬢様、お見えになりましたよ」
「は、はい……!」
使用人への返事まで、声が上ずってろくにできない始末だ。
(落ち着いて。粗相のないように……)
一緒に出歩く玄夜に恥をかかせないよう、彼の贈ってくれた着物と帯を使わせてもらった。夏の終わりの季節柄を考えて、灰がかった水色の地に白の萩柄の着物を選んだ。着物自体が美しいのだから、着ているのが紗代だとしても、みすぼらしくは見えないはずだ。
部屋を出た紗代は、視線を感じて、廊下を振り返った。
廊下の奥からは、初子が紗代を睨んでいる。
──紗代が玄夜に嫁ぐと知った比佐と初子は、金切り声で父に詰め寄り、紗代の破談を求めていたが、父もさすがにそれは認めなかった。
『荘宕なんて、名前も聞いたことがありませんのに!』
『鵺とはそういう、謎の多い一族だ。だからこそ、姻戚になっておいて損はない。……それに、条件がいい。断れるはずがないだろう──今後は紗代には手を出すな。家の仕事もさせなくていい。そんな暇が合ったら、あやかしについて学ばせるんだ。わかったな』
家長の通達である。いつもなら紗代を罵り、使用人として顎で使う比佐が、部屋を与えられて雑用から解放された紗代に、沈黙を守っている。
初子も父の言いつけに不承不承ながら従っているが、ずっとこの調子で、監視するように陰から紗代を睨みつけていた。
構えば初子の神経を逆なでするだけだと、紗代はそっと視線を逸らして玄関に向かった。
ツクミと玄夜は、使用人と話しながら紗代を待っていた。
「お待たせしました」
「ああ、よく似合っているな。あなたは本当にきれいだ」
まばゆいものでも見るように、お面の奥で玄夜の目が細められる。
容姿を褒められたことはもちろん、異性に「きれいだ」と言われたことなどあるはずもなく、紗代は呼吸を忘れて返事を探した。
「あの……いただいた着物は……どれも、とてもきれいで…………ありがとうございます」
「ふふっ、紗代様。それでは、わたくしはこれにて失礼いたします」
「え……お帰りになるのですか?」
「はい。お二人のお邪魔をしては、お叱りを受けます。若様はそれはもう、紗代様にお会いできるのを首を長くして待っておいでで」
「ツクミ……もういい、早く帰れ」
玄夜に追い立てられたツクミを見送ると、紗代は玄夜と連れ立って町へ向かった。
女は男のうしろを歩くのが常識だが、玄夜は紗代が歩みを緩めると、それに合わせて隣に並ぶ。何度かそれを繰り返し、歩みはゆっくりなのに紗代の胸は不安で苦しくなるほど、たまらず言った。
「あの……荘宕様、どうぞ、お先に行ってください……」
「なぜだ? どうせ俺の姿は誰にも見えない」
「あ……」
紗代の目には、玄夜の姿はツクミや父たちと変わらずはっきりと映るため、玄夜の体質のことをすっかり失念していた。
(わたしったら、なんて間抜けな……)
隣に並ぶもなにも、周りの人から見たら、紗代は今一人で歩いているのだ。
二人での外出を見とがめられないかと不安に駆られていた自分が恥ずかしい。一気に顔に熱があがってくる。
「……申し訳ございません」
「どうして謝る。慣れるまで時間がかかるものだ。それに、見えないことをこんなに楽しく思ったのは初めてだ。あなたと並んで歩けるのだから」
不安は解消されたはずなのに、どうしてだかまた胸が騒ぎだす。
けれども、緊張はいくらか軽くなった。
紗代は、ぽつりぽつりと玄夜と話しながら並んで歩き、いくつもの店が立ち並ぶ中心街へ行きつくと、玄夜に連れられて小間物屋へ入った。
「何かお探しですか?」
店主に声を掛けられて、紗代は玄夜のほうを見る。
「髪飾りを見たいと伝えてくれるか?」
「……髪飾り、ですか?」
「はいはい、髪飾りですね。お待ちください」
小間物屋は髪飾りや化粧品から、煙草入れや眼鏡まで細々した日用品を扱う店だ。
商品のいくつかは店の中に並んでいるが、鼈甲は虫がつきやすく、櫛などの髪飾りはしまわれていることが多い。店主は期待を含んだ笑みで、紗代の前にいそいそと商品を並べた。
「こちらの櫛なんてお似合いになると思いますよ。こっちのリボンはいかがです?」
店主のすすめる赤いリボンなどは初子に似合いそうだ。
比佐なら、大ぶりの鼈甲の櫛。ツクミなら、緑の草花柄の蒔絵の櫛。
あれこれ心中で選んでいるうちに、藤を思わせる紫のリボンと、漆塗りの真っ黒な地に螺鈿で花模様が散らされた櫛に惹かれた。けれども、紗代には必要のないものだ。
「どれがいい?」
「え……わたし、ですか?」
店主に聞こえないように、こっそりと玄夜に問う。
「俺がつけてもしかたがない。あなたに贈りたい」
肩をすくめる玄夜の言い分はもっともだが、紗代は慌てて首を横に振った。
「これ以上は、いただけません……もうじゅうぶんしていただいています」
「あの……お嬢さん? 大丈夫ですか?」
店主に怪訝な目をされて、紗代はまた顔が熱くなった。
そうだ、店主には玄夜は見えないのだから、話すなら声を潜めなければ。
動揺する紗代に、玄夜がくくっと堪えきれないように喉を鳴らした。
「店主のためにも、何か買って早く店を出よう」
「そういうわけにはいきません……!」
「お、お嬢さん……? いったい誰としゃべってるんです!?」
「ほら、怖がっている。店主への詫びだと思って」
そういわれると断りきれず、紗代は紫のリボンを選んだ。
代金は店主の目を盗んで玄夜が台に置くかたちで支払い、紗代は逃げるように店を出た。
しばらく二人は黙って歩いていたが、玄夜がクスクスと笑いだして、その顔があまりにも楽しそうだから、胸がじんわりと温かくなった。
自分と一緒に過ごす人が、こんなに楽しそうな顔をするのは、初めての経験だったから。
◆ ◇ ◆
はじめて二人きりで出かけてから、玄夜は紗代を二度、散歩に誘った。加地木家の周辺を少し歩いて、他愛もないことを話す。
手紙のやり取りに加えて、彼と過ごす時間は、紗代にとって大切なものとなっていた。
三度目に散歩に誘われたときには、紗代の生活は、彼と出会う前とはすっかり変わっていた。
部屋を与えられ、玄夜が贈ってくれた布団でゆっくり眠れている。みすぼらしい着物を着ると逆に使用人にやんわり窘められ、加地木の娘として──鵺の婚約者として、大事に扱われるようになった。
家の仕事のかわりに、今は父が選んだ教師から、屋敷で教育を受けている。
「そうか。では今は、あやかしについて学んでいるのか」
「はい。少しずつ、ですが……」
夕方の川沿いを歩く二人の下には、一人分の影しかできていない。
けれども玄夜は、たしかに紗代の隣にいる。
ゆっくり歩いていた二人の前に、急に木陰から子供が飛び出してきた。
「おっと」
これまで、玄夜はすれ違う人がぶつかりそうになると、するりと身をかわして避けていた。だが子供が転ぶとみると、玄夜はすかさず手を伸ばして受け止めた。
すると子供は、玄夜をはっきりと見上げて、笑いかけたのだ。
「ごめんなさいー!」
「え……」
子供は元気に遠くへ駆けてゆき、紗代は思わず足を止めた。
「あの……見えないのでは……?」
「子供の心には穢れがない。心に穢れのない人間だけが、鵺の真の姿を見ることができる」
「穢れ……」
「人間は、時と共に心が穢れ、目が曇っていくものだ。だが、あなたの心は清らかだ。どれだけ周りに闇が巣食っていようとも──これまで出会った誰よりも、あなたの心は美しい」
あたりまえに玄夜の姿が見える紗代には、わかるようでわからない。
駆けていくあの子供と、自分の心が同じように清らかだとは、とても思えないのだ。
「鵺については、聞いたか?」
「はい……父に勉強するようにと、本を渡されました」
「醜い姿が載っていただろう? 怖くはなかったか」
本に描かれていた鵺は怖かった。
しかし、紗代の目に映る玄夜は、お面をつけた優しい青年で、怖いだなんて思わない。
「わたしには……荘宕様は、ほかの人と同じように見えます」
「そうか。だが、俺はたしかに鵺で、この面を取ると、俺の姿は皆にも見えるようになる。ただしそれは、あなたが見ている人型の姿ではなく、見る者が恐れを抱く姿として映る。鳴き声で鵺だと悟った者は、伝承の姿を思い浮かべて、俺を化け物として見ることになるだろう。人の恐怖を映す、それが鵺の実態だ」
そうか。鵺の伝承はいくつかあるのに、記録の姿が統一されていないのは、そういう事情だったのだ。
「お面を取ったら……わたしにも、違う姿が見えるのでしょうか……?」
「それはない。この面の効果は、あやかしの力を抑えるもので、姿を変えるものではない」
お面にそのような効果があったことも、はじめて知った。
鵺とはそういうものなのだろうと、あるがままを受け入れていた。
「……俺は、あなたに苦労をかけることになる」
「え……?」
「ともに過ごして、見てきただろう。俺はひとりでは買い物もできない。二人で喫茶店に入るのも難しい。注文は、あなたにしてもらわなければならない。俺は人の世で暮らすには適さぬ体で、あなたの理想の伴侶ではないだろう。それでも俺は、あなたに嫁に来てほしい」
傾きかけた陽に空は赤く色づいて、紗代と玄夜の肌をも染めていく。
特別な力を持つ、あやかしたち。
完全無欠の存在としてもてはやされる彼らだが、目の前の玄夜は、自分は決して完璧な存在ではないと認め、それを受け入れている。
紗代は、それを強さだと思った。
幼い頃から無能者と蔑まれてきた紗代は、怯え、諦め、自分の人生を投げ出してきた。
どうせ無駄、どうせできない、どうせ自分は……そうして自分を軽んじることで、楽になろうとしてきた。
周りに流され、現実から逃げてきた。
(わたしも……強く、なりたい……)
まだ紗代には、夫婦というものはわからない。あやかしについても、鵺についても、知らないことがたくさんあるはずで、今後に不安がないといったら嘘になる。
けれども、彼を支えていく道を選んでみたいと、淡い思いが胸に灯る。
父がそう望むから、断ることができないから、そんな理由ではなく。
紗代の意思で、こう答える。
「……はい。喜んで、お受けいたします」
「ああ……ありがとう」
お面をつけていても、玄夜が晴れやかに破顔しているのがわかり、紗代は見てはいけないものを見てしまったような気恥しさに襲われて、そっと顔を伏せた。
◆ ◇ ◆
(何よ、無能者のくせに……)
初子はいらだっていた。
能力を持たない紗代が鵺の当主とやらに見初められたことも気に入らないし、父が紗代の縁談に乗り気なのも気に入らない。
(お父さまは、わたしたちばかり苦しめて)
加地木家の跡取り息子だった父は、正妻がいながら、初子の母と恋に落ち、子を産ませた。人間にあやかしの能力が受け継がれているかは、早ければ一歳に満たないうちに判断がつく。初子は乳飲み子の頃から能力を認められて加地木家に入ったが、父は無能な紗代と役立たずの正妻といつまでも縁を切らず、比佐を妾として扱って苦しめた。
(お母さまは今でも悪い夢を見るというのに)
無能で愚図な紗代が、あんなに立派な嫁入り道具を用意されて。
最近では着飾って出かけ、ろくに使用人の仕事もしていない。
「初子? 気分でも悪い?」
学校から帰る車の中で、初子ははっとして、鬼牙に見初められたお嬢様の猫を被りなおした。
「違うの。お姉さまのことで……。荘宕様と結婚だなんて、心配だわ」
「玄夜は俺の親友だよ。紗代ちゃんのことだって、惚れこんで真剣に考えてる」
「だけど、本には恐ろしい物の怪と記録されているんだもの……」
「心配ないさ。男の俺がいうのもおかしいけど、玄夜の見た目はいいんだ。見えないのがもったいないよ」
鬼牙は将来有望だし好いてはいるが、善人過ぎて、いざというときに使えない。
せめて、鵺についてだけでも鬼牙から引き出して弱みを握りたい。
そうすれば、紗代を追い込んで破談に持っていくことができるかもしれない。
あの無能者が捨てられて途方に暮れる姿を想像すると、胸がすく。
「丞灯さん、鵺の一族についてもっと教えて? わたし、お姉さまの結婚相手のことをもっとよく知りたいの」
「そうだなぁ……。俺だって、よその家のことを全部知ってるわけじゃないけど……鵺は、災いを呼ぶと言われているけど、本当はその逆なんだ」
「逆?」
「うん。人間の悪い感情が穢れと呼ばれ、穢れが災いを呼ぶことは学校で習っただろう? 鵺は穢れに目ざといから、災いが起こる前に鳴いて、ほかのあやかしたちに知らせて浄化を促す役目を担ってるんだよ。昔は、勘違いされて人間に討伐されることもあったそうだけど……今は国の中央とも、強力に繋がってる」
「ふぅん……」
面白くない。
穢れだの災いだの。人間には感情があるのだ。知能が高く、欲だって抱くものなのだ。生きていれば、怒りや憎しみ、妬みとは無縁でいられない。
鵺の真の姿が見える条件については、先日鬼牙から教わった。
(あの無能者の心には穢れがないですって? ただ鈍感なだけよ)
くだらない、と心の中で吐き捨てて──初子は気付いてしまった。
もしも、そんな紗代が穢れに触れたら。たとえば怒りや恨みに支配されたら。
そうしたら、鵺の姿を見られなくなる?
(鵺が見えなくなれば、きっと破談ね。……待っていなさい、紗代)
初子はひっそりとほくそ笑んだ。
◆ ◇ ◆
明日の夜、いよいよ玄夜が迎えに来る。
そう思うと、紗代はなかなか寝付けなかった。
あんなにはっきりと玄夜に嫁入りすると思っていたはずなのに、約束の日がいざ迫ってくると、不安に押しつぶされそうになる。
真っ暗な部屋の中で、遠く、鳥の鳴き声がする。
美しくも、どこか寂しそうな声。
鳥や虫の音くらい、いつも聞こえるはずなのに、今日はやけに耳につく。
(緊張して、気が立っているせいね……そうだ)
紗代は布団から起きだして、真っ暗な部屋を手探りで鏡台へとたどり着く。一番上の抽斗には、玄夜に買ってもらったリボンが大切にしまってある。
まだ髪にかけたことはない。けれど、やっぱり自分なんて、と不安に負けてしまいそうになるたびに、紗代はそれに触れて心を奮い立たせた。
玄夜の強さを分けてもらうように、リボンをそっと手のひらで包む。
(大丈夫、大丈夫……落ち着いて。わたしが自分で、選んだ道よ)
自分自身に言い聞かせて心を落ち着けた紗代の指先に、ふと、覚えのないざらつきが触れた。
「えっ……」
慌ててリボンを取り出して、暗闇の中で広げようとする。はらりはらりと花びらが散るように、リボンが床に舞い落ちた。
切り裂かれたのは見るまでもない。それでも、目にするまでは信じたくない。
紗代は震える手で明かりをともした。
あんなに美しかった紫のリボンが、ズタズタに引き裂かれてしまっている。
(ひどい……どうしてこんなこと……)
さんざん虐げられてきたが、着物や私物を切り裂かれたことはなかった。
今になってなぜこんなことをするのか。
悲しみで呆然としかかった紗代の視界に、紫の布に交じって、桃色の生地が映る。
「そんなっ……!」
長持に飛びついて蓋を開くと、中の着物も、リボンと同様に傷だらけにされていた。
あちこちにハサミを入れたうえに、力任せに引き裂いたように大穴が空き、修繕は不可能だ。
「……ひどい……どうして……」
どんな仕打ちにも涙一つ流さず耐えてきた。けれどもこれはあまりに酷で、堪えきれずに涙が零れた。
これは、玄夜の思いやりだった。彼の優しさが、踏みにじられたのだ。それがどうしようもなく悔しかった。
「お姉さまに相応しくないものは、わたしが処分しておいてあげたわ」
「初子……」
いつの間にか紗代の部屋の障子を開けて、初子が中に入って来ていた。
長持に縋りついて涙を流す紗代を、初子は勝ち誇ったように見下ろしていた。
「どんな気分かしら。腹が立つでしょう? わたしが憎いでしょう?」
体の奥で炎が上がったような激しい感情がこみ上げてくる。
腹が立つ? 憎らしい?
あたりまえだ。これで、どうして恨まずに済むというのか──
「紗代!」
玄夜の声とともに、ぶわりと部屋に風が吹き、明かりが消えた。
「なに? なんなのっ!?」
初子の怯えた声が、暗闇の中で反響する。
だが玄夜は、騒ぐ初子など気にも留めない。
闇の中で、温かく大きな彼の手が、紗代の両頬を包んだ。
「紗代、堕ちないでくれ。そっちに行かないでくれ。俺を見ろ!」
強く言われて、紗代ははっとする。
胸に抱いた負の感情。これに流されては、心が穢れて玄夜が見えなくなってしまう。
(それはいや……!)
まだ見える。彼の姿が、はっきりと。
「……荘宕、さま……」
「見えるか? 聞こえるんだな?」
「はい……」
紗代がこくりとうなずくと、玄夜は安堵の息をついた。
「よかった……紗代を失うかと思った」
玄夜の瞼が伏せられると、長いまつ毛が瞳を隠す。彼の眉に、さらさらと流れる髪がかかる。
(あ……お面が、ない……)
いつも彼の顔の半分を隠しているお面が、今日はない。
筆を流したような涼やかな目元に、通った鼻梁。これまでも見えていたやや薄い唇がそれらと合わさると、こんなにも美しい顔になるのか。
男性にしておくのが惜しいほどの麗しさに、状況を忘れて思わず見惚れてしまう。
「なによっ、荘宕様がそこにいるの?」
「ああ、ここにいるぞ」
問うた初子を玄夜が振り返ると、一拍後に、初子は悲鳴をあげて腰を抜かした。
「何事だ!?」
騒動に気付いた父や比佐が紗代の部屋に集まったが、揃って驚愕に腰を抜かしてへたり込んでしまう。
「っひっ……! こ、これはっ……!」
「嫌っ! こっ、来ないで! あなたっ、多江がっ、多江が化けてっ……!!」
比佐はどうやら、玄夜の姿が紗代の亡き母に見えるようだ。
比佐には比佐の言い分があるだろうが、化けて出るのを恐れるほどには、自分がしたことの自覚はあるようだ。
「まったく……欲にまみれるからそうなる。しばらく腰を抜かしておけ」
初子は腰を抜かして震えあがり、父は両手を合わせて拝み、比佐は頭を抱えてうずくまっている。
ため息をついて、玄夜は紗代に向き直り、羽織を肩にかけてくれた。
「鬼の一族がもうすぐ来る。それまで待とう」
「玄夜!」
もうすぐ、どころか、玄夜の言い終わらないうちに、鬼牙が紗代の部屋に乗り込んできた。そのあとには、鬼牙を屋敷に招き入れたであろう住み込みの使用人と、鬼牙の仲間が続いている。
使用人まで脅かすのは酷だと思ったのだろうか、玄夜はすでにいつもの白いお面をつけていた。
「これは……何があったんだ」
鬼牙は動揺を隠しきれない様子で、玄夜と初子を交互に見やる。
「……見えるはずだ。鬼の目なら」
鬼の目は、赤く光るとき、真実を見るといわれている。
鬼牙の瞳が赤く光ると、彼はグッと唇を噛み、いまだ腰を抜かした初子を立たせようと腕を引いた。
「……初子、立つんだ。穢れの元凶を、こんな住民の多い地区にいつまでも置いておくわけにはいかない」
「……わたしは悪くない! 悪いのは紗代よ。無能者のくせに」
鬼牙は、肩を落として初子の前に膝をついた。
「じゃあ、君は、俺とのあいだに生まれた子が能力を授からなかったら、紗代ちゃんと同じように扱うのか?」
初子が目を瞠り、ぽろぽろと涙を零した。
(きっと初子は、そんなこと、考えたこともなかったのね……)
初子はただ、母親である比佐の真似をしていただけ。幼い頃から、紗代は虐げていい存在で、自分のほうが優れていると植え付けられてきたのだ。
「ちがう……ちがう……そんなこと……」
初子はいやいやと首を振り、涙を流しながら、鬼牙に連れられて屋敷を出て行った。
いまだ正気に戻れずに怯えきった父と比佐も、鬼牙の仲間たちによって引きずられるように屋敷から連れ出された。
「鬼牙は、婚約者を見捨てたりしない。きっと彼女は更生できる」
そう願う。心から。
優しく語りかけてくれる玄夜に、紗代は希望を抱いてうなずいた。
◆ ◇ ◆
紗代はツクミと使用人たちに世話をされ、玄夜の迎えを屋敷で待った。
──昨日の一件で、屋敷はまだ混乱している。
近隣の人々や、使用人の家族が駆けつけてくれたけれど、なんとか正気に戻って紗代を送り出しにやってきたのは父だけで、比佐と初子の姿はない。
父と比佐は遠方に隠居するという体で転居することになった。たとえ浄化されたとしても、一度穢された土地に元凶が戻って、いいことはないそうだ。
初子は鬼牙の縁者に引き取られ、花嫁修業を一からやり直す。結婚が一年延びることになるけれど、破談になるよりいいと初子も承知したらしい。
紗代は生家を失うことになるが、寂しさはない。
それは、昨日、大切なことに気が付いたから。
紗代の母は、よく泣いていた。幼い紗代は母に笑ってほしかったが、母はいつも悲しげで、「ごめんね」と謝ってばかりだった。繊細な人だから比佐の嫌がらせに耐えかねて泣いているのだと、ずっとそう思っていた。だけど違う。
(お母さまは、わたしが不憫で泣いていたのね……)
玄夜から贈られた品を傷つけられて、紗代は彼の心が踏みにじられたと感じて、悔しかった。悔しくて悔しくて、涙が出た。
自分の大切なものが傷つけられるのは、自分自身が害されるより、ずっとつらいのだ。
紗代は、母に迷惑をかけたという思いがずっとあった。自分が能力を持って生まれていればと、幼心に何度思ったか知れない。母からの愛情を、めいっぱい感じた覚えはない。それは、無能者で母を泣かせる原因の自分が愛されるはずがないと思い込んでいたからだ。
だけど違う。自分は母に愛されていた。自分が思うより、ずっと深く。
つらいこともあったけれど、加地木に生まれて──母の子に産まれて、幸せだったと今になって気が付いた。
だから、この家に思い残すことはない。
これからは、玄夜にこの思いを届けられるようになりたい。
人間に姿が見えなくとも、わたしはあなたがそばにいてくれたら幸せだ。
いつか、言葉にして伝えたい。
月のない夜道に、鬼火が灯る。
祝福と物珍しさが半々の人々に見送られ、玄夜の式のツクミに手を引かれて紗代は加地木の家を出る。
家の前には人力車が止まり、お面をつけた玄夜が上から手を差し出した。
「ああ、本当に紗代はきれいだ。行こう」
「……はい」
彼の手を取って紗代が車に乗ると、見送りの人々がにわかにざわついた。
(見えないのだものね……)
普通の人々には、紗代が一人で軽々と車に乗ったように見えただろう。
けれどもそれにも慣れてきた。皆に見えなくても、彼はここにいいる。
玄夜が嫁入り道具を贈ってくれたおかげで、父は娘を手ぶらで送り出したと後ろ指をさされることもない。父が恥をかかずに済むということは、初子にとってもいいことだ。
(荘宕様はこうなると、予想していらしたの……?)
「うん? なんだ?」
「いえ、なんでも……」
車が動き出すと、生まれ育った町の人々が手を振って見送ってくれる。
町を抜けても鬼火は続き、青い光が点々と山まで続いていた。
「荘宕様の御屋敷は、あの山ですか?」
「そうだ……そうだが、いい加減、その荘宕様というのはやめないか」
「え……?」
「玄夜、と名前で呼んでくれ」
「……く、玄夜、さま……」
顔がカッと熱を持つ。きっと、みっともないほど頬を赤くしていることだろう。暗い夜でよかった。
「いいな、夫婦という実感がしてきた」
「婚礼の日はまだ先ですよ……?」
「そうだな。これからは毎日紗代に会える。それが嬉しい」
「わたしも、うれしいです」
玄夜がめずらしく動きを止めて、すーっと目を逸らした。
(あれ……?)
半分ほど髪に隠れた彼の耳が、ほんのりと赤く色づいているような──
「っ……」
気付いた紗代も照れてしまって、膝の上で手を握りしめて俯いた。
その紗代の手に、玄夜の手がそっと重ねられる。
「大事にする。生涯だ。幸せになろう」
「はい。……あの、ですけれど、わたし……今も幸せです」
はにかみながら想いを伝えた紗代に、玄夜はまた一瞬動きを止めて、彼の手が優しく頬を包む。
(え……)
唇に、やわらかな彼の唇が重ねられた。
「あ、のっ……!」
「心配ない。誰にも見えん」
甘やかに囁かれて、紗代はそっと目を閉じた。
いま一度玄夜に奪われた唇は、いつまでも熱を持ち、紗代の彼への想いを育てていく。
幸せに満ちた甘い二人の生活は、これから始まっていく──。