畳んだばかりの洗濯物を目の前で広げられ、頭上から浴びせられる罵倒を、紗代(さよ)はただ頭を下げて詫びてやり過ごそうとしていた。

「ほら、ここにもシミが! まったくお前は、何度言ってもわからない愚図だね!」
「……申し訳ございません」

 紗代の頭に、継母の比佐(ひさ)が投げつけた洗濯物が叩きつけられる。
 いつものことだと、紗代は身じろぎもせずに畳に額づいて詫びるだけ。

 衣類のほんの些細なほつれやシミの見逃しも、食器の欠けも、庭に降り積もった落ち葉まで、この家では比佐の目についたすべての疵瑕が紗代の責任になる。

「おまえのような無能者は、この加地木家の恥なのよ! それを情けでこの家に置いてやっているのに。十九にもなって、ろくに仕事もできないなんて!」
「……申し訳ございません」

「あの、失礼いたします奥様……お嬢様が傘を忘れて行かれましたが、迎えの者に持たせましょうか? 今日は昼過ぎで授業は終了とのことでしたけれども……夕方からはたしか雨で……」

 見かねた使用人が、比佐の注意を紗代から逸らそうと廊下から声をかける。
 いつもならこれで紗代は解放されるところだが、今日は比佐の虫の居所が悪かったらしい。

「紗代。おまえが持ってお行き。それくらいは無能者でもできるでしょう。初子と入れ違いになったら承知しませんよ」
「……はい」

 比佐が部屋を出て行くと、声をかけてくれた使用人が慌てて紗代に駆け寄った。

「お嬢様……」
「ごめんなさい。……出てきますので、あとを頼みます」

 心痛の表情を浮かべる使用人にその場を任せて、紗代は早々に傘を持って家を出た。
 しばらく歩いて昼前の活気づいた目抜き通りに差し掛かると、道行く人々は楽しげで、陰った気持ちが少しは晴れる。

(間に合うかしら……)

 紗代の異母妹の初子が通う高等学校は、町から離れた山麓にある。
 道のりは長いが、当然、紗代は徒歩だ。しかし初子は、婚約相手の鬼の一族から送迎の車を出してもらっている。

 ──この国に、古くからひっそりと存在していたあやかしたち。

 人間とは異なる種の彼らは、不思議な力を持っている。

 その強大な力ゆえ、いにしえの人間の長たちはあやかしを恐れ、あやかしたちも人間と深く交わることを避けてきた。

 長らく国のなかでも一握りの上層部だけが、あやかしたちとの交流を持ち続けてきたが、明治に入り文明の光があちこちに射すにしたがって、彼らは公に姿を現し、人間との共存を選んだ。

 人間よりも頑強な肉体を持ち、見目麗しいあやかしたちは、瞬く間にこの国の中心的存在となっていった。戦火を防ぎ、和平を迎えたのも、あやかしたちの功労によるところが大きいといわれている。

 紗代の加地木(かちき)家は、高祖父の代にあやかしと人間の間に生まれた娘を娶った。

 それ以降、加地木家はわずかながら能力を有した子が生まれるようになり、紗代の父も力を授かり社会的成功を収めている。

 当然子供にも期待が寄せられたが、加地木家の長女である紗代は、力を受け継ぐことはなかった。
 いっぽうで、父の(めかけ)の比佐が産んだ初子(はつこ)は、父と同じ能力を授かった。

 初子は妾腹ながら歓迎されて加地木家へ入り、本妻である紗代の母と紗代は、屋敷で肩身の狭い思いをして過ごした。

 心労がたたって、母が亡くなったのは紗代が十歳の頃。
 それからは、紗代は加地木家の娘としての暮らしを奪われ、使用人のように扱われてきた。

 ──無能者。
(そう呼ばれても、しかたがない……)

 初子は、純血のあやかしたちや、能力を持つ者だけが通うことを許された高等学校から大学までを含めた学び舎『妖の怪学校』に通っている。そこで初子は両親の期待に応え、鬼の一族の分家の子息に見初められた。

 二つ年下の初子と比べられると、紗代はどうしたって劣る。

 初子は幼い頃からいくつも芸事を習い、高等学校まで進学して様々な教養を身に着けたが、紗代は最低限の尋常小学校を出ただけで、芸事には縁がなかった。

 容姿にしたって、初子は愛らしい顔立ちで、長い髪は美しい艶を放ち、肌はみずみずしく、艶やかな柄の着物をさらりと着こなし、どこへ出しても恥ずかしくない良家の令嬢だ。

 紗代は違う。容姿は暗い性格が滲んで見え、髪は伸ばしっぱなしで艶もなく、みすぼらしい。肌は血色が悪くかさついて、指先などは水仕事でいつもひび割れている。古びた着物を繕って夏も冬もなく着回している紗代を見て、使用人がいる家の令嬢だと思うものはいないだろう。

 けれどもそれも、しかたのないこと。
 持つ者と、持たざる者。
 同じ家に生まれたとて、同列に扱われるはずもない。

 幼い頃から虐げられてきたせいで、紗代は期待することをやめてしまった。
 そうでもしなければ自分が苦しむだけだというのは、母を見て学んだことだった。

 ◆ ◇ ◆

 なんとか昼に妖の怪学校に到着した紗代は、門前の木の下で初子を待った。
 守衛によると、そろそろ初子の学年は授業を終える頃だという。

(夏なのに、ここは涼しい)

 ここまでの道中で日差しに火照り、汗ばんだ肌が木陰に吹く風に冷やされていって心地良い。

「あれ? 紗代ちゃん。初子のお迎えに来たのかな?」
鬼牙(きが)さん……こんにちは」

 校門から出てきたのは、初子の婚約者の鬼牙丞灯(じょうひ)
 隣には、学友なのか、同年代の青年が並んでいる。

 大学部に在籍する鬼牙は、鬼の一族の特徴とされる青みがかった黒髪に赤い目を持ち、丈高く見目麗しい。分家の出ではあるが、たいそう優秀で本家への養子の噂もあるほどで、将来を嘱望されていた。人柄も良く、紗代にも親切に接してくれる。

 彼は、初子が紗代を慕っていると本気で信じているようで、紗代が家でどんな扱いを受けているか、知りもしない。

「今日は暑かったろう。中で休んでいったらどうだろう? お茶くらいなら中で──」
「いえ、届け物をしたら、帰りますので……」
「一人で帰るっていうのか? 初子と一緒に送って行ってあげるよ」
「あの……いえ、お気持ちはありがたいのですが、まだ用がありますので……」

 一緒に送迎の車に乗せてもらうなど、初子と比佐の神経を逆なでするだけだ。
 頑なに断る紗代に、鬼牙は怪訝そうな顔をしながらも「そうか」とうなずいた。

(お隣の方は、どなただろう……)

 鬼牙の隣に立つ青年は、鼻先までを覆うお面をつけている。
 眉が描かれ、目がくりぬかれている以外、これといった特徴のない白い面だ。

(狐や猫の耳もないけれど、どの一族の方かしら)

 背丈は鬼牙と変わらないが、鬼の一族と比べるとさすがに幾分線の細い印象を受ける。

 黄褐色の筋の混じった長い黒髪を結んで片側に流し、夜を思わせる黒の羽織を着ている。くりぬかれた面の目からは漆黒の眼が覗き、静かにこちらを窺っていた。

 初子と違って、家の手伝いをするばかりの紗代は、あやかしの一族と顔を合わせることはほとんどない。彼がどこの誰か、紗代はさっぱりわからなかった。

(不思議な方……)

 紗代が彼にも会釈をすると、お面の奥で、わずかに眼が見開かれた気がした。

「紗代? こんなところで何をしてっ──……あら、丞灯さん」

 学友たちと連れ立って校門へ向かって来ていた初子は、紗代を見るなり目を吊り上げた。が、鬼牙を認めるとくるりと表情を変えて、にっこりと微笑む。

 学友たちの輪を離れて駆けてきた初子は、あろうことかお面の青年の前に割り込んで、鬼牙の隣にぴったりと寄り添うようにして立った。
 お面の彼は、よほど穏やかな性質なのだろう。初子の態度に気を悪くした様子もない。

「驚いた。どうしてお姉さまがここにいるの?」
「……これを届けに来たの。それではわたし、用があるのでこれで」
「えぇ? せっかくだから、一緒に帰りましょう?」
「俺もそう言ったんだけどね。初子もこう言ってるし、途中まで乗って行ったらどうだろう?」

 鬼牙が提案すると、初子が唐突に紗代の袖をきつく掴んだ。

「ふーん……わたしが来る前から、丞灯さんと話してたのね……。せっかく丞灯さんもおっしゃってるんだもの。ねっ、お姉さま!」

 はた目には、異母姉にじゃれつく妹に見えただろう。
 しかし、鬼牙の目を盗んで初子の靴が紗代のつま先を踏みつける。

「痛っ……」
「ねっ、ねっ、お姉さまったら!」

 そのままガクガクと袖を引っ張られ、紗代の膝が折れて体がぐらりと傾いた。
 倒れ込む紗代から逃げて、初子はスイッと横へ飛び退る。

(転ぶ──!)
「きゃっ──」

 衝撃に備えてぎゅっと目を瞑った紗代の体は、土の上ではなく、力強い腕に抱きとめられる。
 ふわりと白檀の香りが鼻腔をくすぐり、ぬくもりが紗代を抱く腕から伝わってくる。
 はっとして目を開くと、視界を染めるのは黒の羽織。

(お面の方が、助けてくれた……?)

 呆然とお面の青年を見上げた紗代を、彼は口を閉ざしたまま、じっと見つめ返している。
 どうしてだか、彼の瞳に吸い寄せられるように目が逸らせなかった。ほんの数瞬。けれども確かに、紗代とお面の青年は互いに見つめあっていた。

「紗代ちゃん、大丈夫?」
「は、はいっ……」

 鬼牙も紗代を助けようと手を伸ばしてくれいたようで、紗代が体勢を立て直すと、お腹のあたりに差し出されていた鬼牙の手が引っ込められる。
 鬼牙の手は紗代にはかすりもしていないけれど、初子にはどう見えただろう。

「お姉さま、ごめんなさいっ。わたし、ついはしゃいでしまったわ。怪我はない?」

 紗代を心配するふりをして、初子がまたお面の青年を無視して鬼牙の隣に割り込んでくる。──いや、お面の彼が、わざと一歩後退ったのだ。

(あれ……? 今、初子を避けた……?)

 けれど、今はそれどころではない。

 人のいい鬼牙は気付いていないだろうが、紗代には初子が機嫌を損ねているのが伝わっていた。思い通りに紗代が転ばなかったこと。鬼牙が紗代を助けようとしたこと。そのどちらもが、初子は気に入らないのだ。

「……大丈夫よ。あの、申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました」

 お面の青年と鬼牙に礼をして、紗代は逃げるように初子たちから離れた。

「では……用があるから。これで」
「そう? また家でね、お姉さま」

 ひらりと手を振る初子と鬼牙にぎこちない笑みを返し、彼らのうしろに佇むお面の彼に、もう一度深くお辞儀をする。
 きっと家に帰ったら、初子に当たり散らされるのだろう。悪くすれば、比佐にも。

(お面の方に、もっときちんとお礼をお伝えできたら良かったのに……)

 男女が手を繋ぐことさえ(はばか)られる世風だ。
 人助けとはいえ、衆人環視の中でみすぼらしい紗代などを抱き留めてしまって、彼が嫌な思いをしていなければいいと紗代は願った。

 ◆ ◇ ◆
 朝からずっと蔵の掃除をしていた紗代は、凝った腰を伸ばしてふうっと息をついた。

(これで済んでよかった)

 昨日、帰宅してみると、やはり比佐が鬼の形相で待ち構えていた。

『初子の婚約者に色目を遣うだなんて、恥知らずが!』

 こればかりは、そんなことはしていないと、必死に食い下がったけれど、聞き入れてもらえるはずもなく。

 罰として、今日は朝から一日蔵の掃除するよう言いつけられたのだ。
 けれども屋敷の中で比佐と顔を合わせて身に覚えのないことで叱られるより、一人薄暗い蔵の中で掃除をしているほうがいい。
 屋敷の使用人たちにも、よけいな心配をかけずに済む。

「埃まみれでお似合いよ。お姉さま」

 振り返ると、蔵の入り口に初子が立っていた。

丞灯(じょうひ)さんは優しい方よ。だからお姉さまが無能の愚図でも、良くしてくださるの。勘違いして馴れ馴れしくしないで」
「…………」

 いつ、紗代が鬼牙に馴れ馴れしく接したのだろう。
 いつだって話しかけてくるのは鬼牙からだ。それだって、紗代が初子の姉だからだ。

 鬼牙の優しさにヤキモチを焼いているなら、それは初子と鬼牙の問題で、紗代は関係ない。
 言っても、初子は聞く耳を持たないだろうけれど。

「丞灯さんに助けられたからって、勘違いしないことね。二度と、丞灯さんと二人きりで話すのはやめてちょうだい!」
「助けてくださったのは……」
「口答えしないで!」

 昨日も比佐に説明しようとしたのに、こうして遮られてしまう。

(あの場には、お面の方がいらっしゃったのに……どうして鬼牙さんと二人きりだなんて話になるの)

 紗代を助けてくれたのだって、お面の彼で鬼牙ではない。
 けれども思い込みの激しい初子は、事実よりも自分が感じたことが正しいのだ。

「お前の話なんて聞いてないのよ、無能者!」

 激昂した初子の口調は、母親の比佐にそっくりだ。

(もういいわ……)

 比佐も初子も、紗代の言い分など聞く気がないのだ。今に始まったことではないし、食い下がればそれがまた逆鱗に触れるだけ。
 反論する気力も失せて黙っていると、初子はフンと鼻を鳴らす。

「わたしがこの家にいるうちに、お姉さまを追い出してしまおうかしら。根性悪の無能者を家に置いておいたら、お母さまの心労になるわ」

 紗代とて、できることなら家を出たい。けれども紗代が家を出て自由に生きることは、父が許さない。

 紗代の父は『雨見』という、雨の気配を予知する力があり、その力を生かして商いをしている。海路陸路の運送業の運航計画や、祝宴の日取りの相談まで、幅広く顔を利かせて財を成した。この国の人間のなかでは裕福なほうだが、家の働き手はいくらあってもいい。

 それに、雇いの使用人なら賃金が必要だが、血を分けた娘なら金を払う必要はない。

 これまでにも、見かねた縁者や知人が紗代を引き取ってもいいと申し出てくれたが、父が断固として許さなかった。父は紗代を、死ぬまで使い潰すつもりでいる。
 だから、紗代を追い出すという、初子の思惑が叶うことはない。

「これから鬼牙さんがお見えになる予定なの。顔を出さないでよ。いいわね」

 言われずとも、紗代には比佐から言いつけられた蔵の掃除がまだ残っている。鬼牙に会いたいとも思っていない。出て行くはずがないではないか。

「……ええ」
「お嬢様、あの……お客様がお見えで、旦那様がお呼びですが……」

 駆け足で蔵にやってきた使用人が、おずおずと声をかける。
 どうやら鬼牙の迎えが到着したようだ。

「ええ、わかったわ」
「いえ……あの、初子お嬢様ではなく、紗代様のお客様で……」
「っ!!」
「──紗代、紗代。早く来なさい」

 屋敷から呼ばわる父の声に、初子はひどく憤慨した様子で、髪を跳ねさせて蔵を出て行った。

「わたしに、お客様……?」
「はい、立派なお着物の女性の方で……荘宕(しょうご)家の御使いでいらしたと」

 荘宕家。まったく心当たりがない。
 学生の初子と違って紗代はほとんど家を出ることはなく、友人と呼べる相手もいない。

(どなただろう……)

 履物を持って屋敷の中を歩くと比佐に叱られるので、紗代はぐるりと庭を回って玄関に向かった。
 すると、覚えのある黄褐色の筋の混じった黒髪が見えた。

(お面の方……!)

 やはり黒の羽織に白いお面をつけた、あの青年だ。
 もしや昨日の一件で、彼に迷惑をかけたのだろうか。

「お待たせいたしました」

 屋敷の中からではなく、玄関の外から紗代が現れるとは思っていなかったのか、振り返ったお面の青年は、不思議そうに首をかしげる。
 けれども彼は、口を開こうとはしない。

「……庭で、手伝いをしておりまして。あの、昨日はたいへんご迷惑をおかけして……」

 紗代が深く頭を下げても、やはり彼は黙ったまま。
 そういえば昨日も、彼は一言も話さなかった。

(寡黙な方……なの?)

 だが話してくれなければ何の用での訪問かもわからない。
 沈黙に耐えかねたように、彼の隣に佇んでいた髪を結った上品な女性が、恭しく腰を折った。彼女は紗代よりも十ほど上だろうか。

 青年と違い、彼女はお面をつけていない。

「お初にお目にかかります。わたくしは荘宕家より参りました、ツクミと申します。──若様」
「……ああ、そうか。忘れていた。あなたには、俺の姿が見えているんだな」

 お面の彼がよく通る声で尋ねるので、今度は紗代が首をかしげる番だった。

「え……は、はい」
「俺の声も、聞こえているな?」
「はい……あの?」

 何をあたりまえのことを言っているのか、からかわれているのだろうかと紗代の心に不安が過ったときだった。

「俺は荘宕(しょうご)玄夜(くろや)。鵺の一族の当主だ。今日はあなたに求婚に来た」

 ◆ ◇ ◆
 突然の求婚宣言に面食らってしまった紗代に代わって、ツクミが使用人に声をかけ、父に取り次がれて、彼らは客間に通された。

 しかし、用意されたお茶はツクミと父と紗代の三人分だけで、なぜか玄夜の前にはお茶が出されなかった。紗代は慌てて自分の分を彼の前にそっと差し出す。

「ありがとう」

 気を悪くした様子もなく、玄夜が優しい声でそう言うので紗代はほっとした。

 妖の怪学校で鬼牙と一緒にいたのだ。彼もあやかしの一族で、鬼牙の友人なのだろう。加地木の粗相は、「そういう家で育った娘」として初子の恥になってしまう。万が一にも、初子の縁談に影響があってはならない。

「荘宕家は、(ぬえ)というあやかしの一族です。玄夜様はこの春に荘宕家の当主になられました。此度は御息女の紗代様を、ぜひに荘宕家にもらい受けたくお願いに参りました」
「ほう、鵺の本家の……。しかし、紗代とはどこでお会いになられたのでしょう。この娘は、ほとんど家から出ておりませんが」

「昨日、妖の怪で会った」
「──先日、初子様の通われている妖の怪学校でお見掛けしたのです」

 不思議なことに、父に話すのはツクミばかりで、玄夜が言ったことまでツクミはわざわざ復唱する。

(どうして? みんなには、姿も見えず、声も届かないというの……?)

 そう考えると、彼が紗代に尋ねたことも、お茶が出ないことも、初子が彼を頭数に入れなかったことにも合点がいくが、そんなことがあり得るのだろうか。

「不思議だろうが、これも鵺の力の一部だ」

 よほど困惑をあらわにしてしまっていたのか、玄夜が気を利かせて紗代に説明してくれる。

「俺の声は、あなたの御父君には届いていないし、この姿も見えてはいない。面を外せばここにいることは伝わるが……。この姿を認識できる者は、ほとんどいない」

 にわかには信じがたいけれど、それが事実なのだろう。
 だとすると、どうして紗代には彼の姿が見え、声が聞こえるのか。

「あなたが特別なんだ」

(特別……)

 そんなふうに言われたことは、これまでの人生で一度もなかった。
 さんざん無能者として扱われてきた自分に特別な力があるとは思えない。
 けれど、もし。自分にも特別なものがあったのなら、それがどんなに些細なものだったとしても、少し嬉しい。

「玄夜様はその体質ゆえ、伴侶としてお迎えできる方は限られております。紗代様さえよろしければ、ぜひに荘宕家にお迎えしたく」
「なるほど……」

 父がチラリと紗代を窺う。
 あやかしの一族からの縁談を断る家など、ありはしない。

 それも、ただでさえ嫁ぎ先のあてもない紗代のような無能者を欲しいと言ってくれるのだ。父とて、すでに紗代を嫁がせるつもりでいるはずだ。だからこの一瞥は、お前はどうだ、と問う意図ではない。いかに好条件を引き出そうかと、値踏みしているのだろう。

「恥を忍んで申し上げますが……初子と違って、紗代には能力がありません。ですから、あやかしや能力についての理解や知識もなく、社交教養も必要ないと教育していないのです。そのぶん家事は叩き込みましたが……当主の奥方が務まるかどうか。ご迷惑をおかけするやもしれません」
「まったく問題ない」

 即答だった。
 あまりにも即時に答えが出されたため、紗代のほうが心配になるほどに。

「能力など必要ない。あなたに、嫁にきてほしい」

 お面の向こうから強い視線で射抜かれて、紗代はどうしていいかわからなくなる。

(どうして、そんなに……)

「鵺の一族にとっては、能力の有無は問題ではありません。鵺の本来の姿が見える方は、今となっては、あやかしでも多くはありません。紗代様はまさしく、特別な御方。そのため玄夜様は、どうしても紗代様に、と」

 鵺の事情は、少しずつわかってきた。
 確かに、夫となる相手の姿が見えない、声が聞こえないでは、夫婦になるのは難しいだろう。
 紗代は偶然、鵺の一族が求める花嫁の条件を満たしていたわけだ。

「さようですか。いやはや、光栄なことで……ですが紗代には、ゆくゆく我ら夫婦の面倒を見てもらうつもりでいたもので……それに、大事な娘がいなくなるのは寂しいものです」

 玄夜がうなずくと、ツクミが上質な和紙を取り出し、父のほうへと静かに滑らせる。

 受け取った和紙を広げた父は、内容を一読するとこぼれんばかりに目を瞠り、これまでの思わせぶりな態度を一転させて相好を崩した。
 内容を知らされるまでもなく、よほどの好条件を提示されたのだとわかる態度だ。

「これは参りましたな。これほどまでに娘を願ってくださるなど、紗代は果報者だ。ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「あなたは、どうだろうか」

 玄夜はわざわざ、決定権のない紗代にも尋ねてくれる。

(お優しい方なのね……)

 問われるまでもなく、紗代の答えは決まっている。

「謹んでお受けいたします」

 深く頭を下げていた紗代は、このとき玄夜が安堵したように口元をほころばせていたことを知らない。

 ──双方で婚姻の意向の確認が取れると、ツクミが婚礼までの流れを説明した。

 あやかしと人間の婚礼は、各々の一族のしきたりに則って進められるものだ。鵺の場合は、婚礼の日を待たずに、ひと月後には紗代は荘宕家に住まいを移すことになるという。

「鵺は新月の夜に、お相手を迎えに行くのが習わしです。お迎えにあがってから婚礼の日までは、紗代様には荘宕家本宅の離れにお住まいになっていただきます。そこで、鵺の生活に慣れていただきます」

(同じあやかしでも、初子の婚約者の鬼の一族とは、ずいぶん違う)

 鬼の一族は婚約期間が長く、人間の花嫁には三年間の花嫁修業が課される。初子も学校であやかしの歴史や文化についてを学んでおり、それも花嫁修業の一環として数えられるが、あと二年の期間が残っている。初子が鬼牙に嫁ぐのは、卒業後の予定だった。

(わたしのほうが先に、この家を出ることになるなんて……)

 思いもよらなかったことが立て続けに起こって、まだ現実のことだと実感できない。

「失礼いたします。荘宕家の荷車がご到着ですが……」
「荷車?」
「はい……」

 客間の障子越しに伝える使用人の戸惑いが伝わってくる。

「突然のことでご迷惑かとは存じますが、紗代様は荘宕家の大切な花嫁ですので、心ばかりですが玄夜様から贈らせていただきたい品をお持ちしております。どうぞ、紗代様にお納めいただけましたら。よろしければ、荷運び人に紗代様のお部屋まで運ばせますが」
「それはそれは。ありがたく頂戴することにいたしましょう。せっかくですから、拝見いたしましょうかな。そのほうが紗代の喜んだ顔もお見せできましょう」

 父がツクミの提案をやんわりと断ったのは、紗代の部屋が他人に見せられないからだ。

 紗代の部屋は、昔物置として使われていた三畳に満たない板の間で、家具もぼろぼろの行李に傾いた文机と、薄い布団があるだけ。
 父は「大事な娘」と言った手前、そんな暮らしを強いてきたことは隠す必要がある。

 揃って客間を出ると、荷車から降ろされた荷物が、廊下に所狭しと並べられていた。
 こっくりした色味の桑の鏡台に、蒔絵の化粧道具一式。長持の金具は草花を象り、細部まで意匠を凝らした一級品。それが四つも並べられ、ほかにも裁縫箱や盥類などが次々と運び入れられている。

「こ、これは……」

 これは、嫁入り道具だ。
 普通は嫁側で用意して嫁ぐ家に持参するもので、相手から贈られるようなものではない。
 それも、並みの嫁入り道具ではない。
 これだけのものを運んできたのだから、さぞ人目を引いたのだろう。加地木家の門前には近隣の人たちが集まり、ちょっとした人だかりができているほどだった。

「悪いが、新しいものを用意する時間がなく、母の形見の花嫁道具を持ってきた。しばらく母の古で許してくれ」
「お母さまの……? そんな大切なものをいただくわけには……」
「使ってくれ。母も喜んでくれたはずだ──あなたが嫌でなければ、だが」
「嫌だなんて……わたしには、もったいなくて……」

 嫁入り道具は、母親から娘に受け継がれるものだ。もちろん背景にはすべての新調が難しいという経済的事情もあるが、紗代だって、ほんの幼い頃には、母親の鏡台や着物はいずれ自分のものになるのだと憧れを抱いた。

 荘宕家には娘がおらず譲り先がなかったのかもしれないが、たとえ息子で嫁入り道具を必要としなかったとしても、玄夜にとっても大切なもののはずだった。
 恐縮する紗代に、玄夜は優しく声をかける。

「あなたが快適に暮らせるようにしたい。長持に詰めた布団は新しいものだ。着物はツクミが選んだ。あなたには少し仕立てが大きいかもしれないが、しばらく辛抱してくれ」
「こちらの長持には、玄夜様がお選びになった着物が入っております。紗代様にきっとお似合いだとおっしゃって」
「おい……」

 ツクミの捕捉に玄夜がたじろぐが、否定もしなかった。

(こんなにしていただいて……どうしたら……)
 無能者の自分には、釣り合わない。

 どうするべきかと父を窺うと、父は今にも舌なめずりしそうな顔で、並んだ道具を見分していた。

「こちらは、荘宕家の大奥様の形見でございます。どれも大奥様が大切にされていた品ばかり。玄夜様が紗代様にお使いいただくようにと、はるばる運んでまいりました」
「それは……コホン。さすが、どれも素晴らしい品ばかりですな。しかし紗代は……初子と同じ部屋を使っておりまして。そうだ、このお品は、東の部屋に運んでもらおう。私の物は書斎へ運びなさい。紗代は今日から、東の部屋で寝起きするといい。──そこのお前、ご案内しなさい」
「はい、旦那様。こちらへどうぞ」

 使用人の誘導で、荷物がどんどん東の部屋へと運び込まれていく。そこは父が趣味の蔵書を保管していた部屋で、じゅうぶんな広さがある。
 荷運びを見守りながら、玄夜は静かに紗代の隣に立った。

「本当なら、今すぐにでも荘宕に連れて帰りたいのだが……。どうか、ひと月、あなたはそのままでいてくれ」
「え……? それは、どういう……」

 どういう意味なのか、玄夜は答えのかわりに微笑みを残して帰っていった。

 ◆ ◇ ◆
(鵺とは、恐ろしい姿をした伝説上の生き物……)
 出かける準備をしながら、父から渡された本の内容を思いだす。

 ──猿の顔、狸の胴、虎の手足に蛇の尾をした、おぞましい姿の物の怪。伝承によって猫の頭だったり、虎の胴だったりと姿の違いはあれど、複数の動物の部位によって成る醜怪な化け物としての描写は定着している。鵺は夜に不気味な声で鳴き、その鳴き声は凶兆とされ、実際に多くの災いを呼んだといわれている。鵺は鳥だという説もあるが、過去には人間によって退治された記録もあり、真相は謎に包まれている──

 鵺について何も知らなかった紗代には、驚きだった。

(本当の姿は、おぞましい化け物……? そんな方には、見えない)

 玄夜からは、三日に空けず手紙が届く。流麗な文字でしたためられる内容は『変わりないか』と紗代への心配がほとんどで、彼自身のことには、あまり触れられていない。

 紗代は、生まれてはじめて手紙の返事を書いた。何を書いていいのか見当もつかず、見かねた使用人たちが知恵を絞って助けてくれた。

 手紙を書いているあいだは、どうしたって玄夜のことばかり考える。
 ほんの半月前までは、見知らぬ存在だった鵺の青年。
 今だって、知らないことのほうが多い相手。
 それなのに、彼について悩む時間が増えるにつれて、彼を身近な存在のように感じる。
 なんだか不思議な心地だった。

『週末に出かけよう──』
 五度目の手紙で町に誘われ、今日がその約束の日。

(お父様には、婚約しているのだから構わないと、お許しをいただいたけれど……)
 年頃の男女が二人で町に出かけるなんて、なんといわれるかわかったものではない。
 その不安のせいだろう。やけに鼓動が早いのだ。

「お嬢様、お見えになりましたよ」
「は、はい……!」

 使用人への返事まで、声が上ずってろくにできない始末だ。

(落ち着いて。粗相のないように……)

 一緒に出歩く玄夜に恥をかかせないよう、彼の贈ってくれた着物と帯を使わせてもらった。夏の終わりの季節柄を考えて、灰がかった水色の地に白の萩柄の着物を選んだ。着物自体が美しいのだから、着ているのが紗代だとしても、みすぼらしくは見えないはずだ。

 部屋を出た紗代は、視線を感じて、廊下を振り返った。
 廊下の奥からは、初子が紗代を睨んでいる。

 ──紗代が玄夜に嫁ぐと知った比佐と初子は、金切り声で父に詰め寄り、紗代の破談を求めていたが、父もさすがにそれは認めなかった。

『荘宕なんて、名前も聞いたことがありませんのに!』
『鵺とはそういう、謎の多い一族だ。だからこそ、姻戚になっておいて損はない。……それに、条件がいい。断れるはずがないだろう──今後は紗代には手を出すな。家の仕事もさせなくていい。そんな暇が合ったら、あやかしについて学ばせるんだ。わかったな』

 家長の通達である。いつもなら紗代を罵り、使用人として顎で使う比佐が、部屋を与えられて雑用から解放された紗代に、沈黙を守っている。
 初子も父の言いつけに不承不承ながら従っているが、ずっとこの調子で、監視するように陰から紗代を睨みつけていた。

 構えば初子の神経を逆なでするだけだと、紗代はそっと視線を逸らして玄関に向かった。

 ツクミと玄夜は、使用人と話しながら紗代を待っていた。
「お待たせしました」
「ああ、よく似合っているな。あなたは本当にきれいだ」

 まばゆいものでも見るように、お面の奥で玄夜の目が細められる。
 容姿を褒められたことはもちろん、異性に「きれいだ」と言われたことなどあるはずもなく、紗代は呼吸を忘れて返事を探した。

「あの……いただいた着物は……どれも、とてもきれいで…………ありがとうございます」
「ふふっ、紗代様。それでは、わたくしはこれにて失礼いたします」
「え……お帰りになるのですか?」
「はい。お二人のお邪魔をしては、お叱りを受けます。若様はそれはもう、紗代様にお会いできるのを首を長くして待っておいでで」
「ツクミ……もういい、早く帰れ」

 玄夜に追い立てられたツクミを見送ると、紗代は玄夜と連れ立って町へ向かった。

 女は男のうしろを歩くのが常識だが、玄夜は紗代が歩みを緩めると、それに合わせて隣に並ぶ。何度かそれを繰り返し、歩みはゆっくりなのに紗代の胸は不安で苦しくなるほど、たまらず言った。

「あの……荘宕様、どうぞ、お先に行ってください……」
「なぜだ? どうせ俺の姿は誰にも見えない」
「あ……」

 紗代の目には、玄夜の姿はツクミや父たちと変わらずはっきりと映るため、玄夜の体質のことをすっかり失念していた。

(わたしったら、なんて間抜けな……)

 隣に並ぶもなにも、周りの人から見たら、紗代は今一人で歩いているのだ。
 二人での外出を見とがめられないかと不安に駆られていた自分が恥ずかしい。一気に顔に熱があがってくる。

「……申し訳ございません」
「どうして謝る。慣れるまで時間がかかるものだ。それに、見えないことをこんなに楽しく思ったのは初めてだ。あなたと並んで歩けるのだから」

 不安は解消されたはずなのに、どうしてだかまた胸が騒ぎだす。
 けれども、緊張はいくらか軽くなった。
 紗代は、ぽつりぽつりと玄夜と話しながら並んで歩き、いくつもの店が立ち並ぶ中心街へ行きつくと、玄夜に連れられて小間物屋へ入った。

「何かお探しですか?」
 店主に声を掛けられて、紗代は玄夜のほうを見る。

「髪飾りを見たいと伝えてくれるか?」
「……髪飾り、ですか?」
「はいはい、髪飾りですね。お待ちください」

 小間物屋は髪飾りや化粧品から、煙草入れや眼鏡まで細々した日用品を扱う店だ。
 商品のいくつかは店の中に並んでいるが、鼈甲は虫がつきやすく、櫛などの髪飾りはしまわれていることが多い。店主は期待を含んだ笑みで、紗代の前にいそいそと商品を並べた。

「こちらの櫛なんてお似合いになると思いますよ。こっちのリボンはいかがです?」

 店主のすすめる赤いリボンなどは初子に似合いそうだ。
 比佐なら、大ぶりの鼈甲の櫛。ツクミなら、緑の草花柄の蒔絵の櫛。
 あれこれ心中で選んでいるうちに、藤を思わせる紫のリボンと、漆塗りの真っ黒な地に螺鈿で花模様が散らされた櫛に惹かれた。けれども、紗代には必要のないものだ。

「どれがいい?」
「え……わたし、ですか?」

 店主に聞こえないように、こっそりと玄夜に問う。

「俺がつけてもしかたがない。あなたに贈りたい」
 肩をすくめる玄夜の言い分はもっともだが、紗代は慌てて首を横に振った。

「これ以上は、いただけません……もうじゅうぶんしていただいています」
「あの……お嬢さん? 大丈夫ですか?」

 店主に怪訝な目をされて、紗代はまた顔が熱くなった。
 そうだ、店主には玄夜は見えないのだから、話すなら声を潜めなければ。
 動揺する紗代に、玄夜がくくっと堪えきれないように喉を鳴らした。

「店主のためにも、何か買って早く店を出よう」
「そういうわけにはいきません……!」
「お、お嬢さん……? いったい誰としゃべってるんです!?」
「ほら、怖がっている。店主への詫びだと思って」

 そういわれると断りきれず、紗代は紫のリボンを選んだ。
 代金は店主の目を盗んで玄夜が台に置くかたちで支払い、紗代は逃げるように店を出た。

 しばらく二人は黙って歩いていたが、玄夜がクスクスと笑いだして、その顔があまりにも楽しそうだから、胸がじんわりと温かくなった。

 自分と一緒に過ごす人が、こんなに楽しそうな顔をするのは、初めての経験だったから。

 ◆ ◇ ◆
 はじめて二人きりで出かけてから、玄夜は紗代を二度、散歩に誘った。加地木家の周辺を少し歩いて、他愛もないことを話す。

 手紙のやり取りに加えて、彼と過ごす時間は、紗代にとって大切なものとなっていた。

 三度目に散歩に誘われたときには、紗代の生活は、彼と出会う前とはすっかり変わっていた。

 部屋を与えられ、玄夜が贈ってくれた布団でゆっくり眠れている。みすぼらしい着物を着ると逆に使用人にやんわり窘められ、加地木の娘として──鵺の婚約者として、大事に扱われるようになった。
 家の仕事のかわりに、今は父が選んだ教師から、屋敷で教育を受けている。

「そうか。では今は、あやかしについて学んでいるのか」
「はい。少しずつ、ですが……」

 夕方の川沿いを歩く二人の下には、一人分の影しかできていない。
 けれども玄夜は、たしかに紗代の隣にいる。

 ゆっくり歩いていた二人の前に、急に木陰から子供が飛び出してきた。
「おっと」

 これまで、玄夜はすれ違う人がぶつかりそうになると、するりと身をかわして避けていた。だが子供が転ぶとみると、玄夜はすかさず手を伸ばして受け止めた。
 すると子供は、玄夜をはっきりと見上げて、笑いかけたのだ。

「ごめんなさいー!」
「え……」

 子供は元気に遠くへ駆けてゆき、紗代は思わず足を止めた。

「あの……見えないのでは……?」
「子供の心には穢れがない。心に穢れのない人間だけが、鵺の真の姿を見ることができる」
「穢れ……」
「人間は、時と共に心が穢れ、目が曇っていくものだ。だが、あなたの心は清らかだ。どれだけ周りに闇が巣食っていようとも──これまで出会った誰よりも、あなたの心は美しい」

 あたりまえに玄夜の姿が見える紗代には、わかるようでわからない。
 駆けていくあの子供と、自分の心が同じように清らかだとは、とても思えないのだ。

「鵺については、聞いたか?」
「はい……父に勉強するようにと、本を渡されました」
「醜い姿が載っていただろう? 怖くはなかったか」

 本に描かれていた鵺は怖かった。
 しかし、紗代の目に映る玄夜は、お面をつけた優しい青年で、怖いだなんて思わない。

「わたしには……荘宕様は、ほかの人と同じように見えます」
「そうか。だが、俺はたしかに鵺で、この面を取ると、俺の姿は皆にも見えるようになる。ただしそれは、あなたが見ている人型の姿ではなく、見る者が恐れを抱く姿として映る。鳴き声で鵺だと悟った者は、伝承の姿を思い浮かべて、俺を化け物として見ることになるだろう。人の恐怖を映す、それが鵺の実態だ」

 そうか。鵺の伝承はいくつかあるのに、記録の姿が統一されていないのは、そういう事情だったのだ。

「お面を取ったら……わたしにも、違う姿が見えるのでしょうか……?」
「それはない。この面の効果は、あやかしの力を抑えるもので、姿を変えるものではない」

 お面にそのような効果があったことも、はじめて知った。
 鵺とはそういうものなのだろうと、あるがままを受け入れていた。

「……俺は、あなたに苦労をかけることになる」
「え……?」
「ともに過ごして、見てきただろう。俺はひとりでは買い物もできない。二人で喫茶店に入るのも難しい。注文は、あなたにしてもらわなければならない。俺は人の世で暮らすには適さぬ体で、あなたの理想の伴侶ではないだろう。それでも俺は、あなたに嫁に来てほしい」

 傾きかけた陽に空は赤く色づいて、紗代と玄夜の肌をも染めていく。

 特別な力を持つ、あやかしたち。
 完全無欠の存在としてもてはやされる彼らだが、目の前の玄夜は、自分は決して完璧な存在ではないと認め、それを受け入れている。

 紗代は、それを強さだと思った。
 幼い頃から無能者と蔑まれてきた紗代は、怯え、諦め、自分の人生を投げ出してきた。

 どうせ無駄、どうせできない、どうせ自分は……そうして自分を軽んじることで、楽になろうとしてきた。
 周りに流され、現実から逃げてきた。

(わたしも……強く、なりたい……)

 まだ紗代には、夫婦というものはわからない。あやかしについても、鵺についても、知らないことがたくさんあるはずで、今後に不安がないといったら嘘になる。

 けれども、彼を支えていく道を選んでみたいと、淡い思いが胸に灯る。
 父がそう望むから、断ることができないから、そんな理由ではなく。
 紗代の意思で、こう答える。

「……はい。喜んで、お受けいたします」
「ああ……ありがとう」

 お面をつけていても、玄夜が晴れやかに破顔しているのがわかり、紗代は見てはいけないものを見てしまったような気恥しさに襲われて、そっと顔を伏せた。

 ◆ ◇ ◆
(何よ、無能者のくせに……)
 初子はいらだっていた。

 能力を持たない紗代が鵺の当主とやらに見初められたことも気に入らないし、父が紗代の縁談に乗り気なのも気に入らない。

(お父さまは、わたしたちばかり苦しめて)

 加地木家の跡取り息子だった父は、正妻がいながら、初子の母と恋に落ち、子を産ませた。人間にあやかしの能力が受け継がれているかは、早ければ一歳に満たないうちに判断がつく。初子は乳飲み子の頃から能力を認められて加地木家に入ったが、父は無能な紗代と役立たずの正妻といつまでも縁を切らず、比佐を妾として扱って苦しめた。

(お母さまは今でも悪い夢を見るというのに)

 無能で愚図な紗代が、あんなに立派な嫁入り道具を用意されて。
 最近では着飾って出かけ、ろくに使用人の仕事もしていない。

「初子? 気分でも悪い?」
 学校から帰る車の中で、初子ははっとして、鬼牙に見初められたお嬢様の猫を被りなおした。

「違うの。お姉さまのことで……。荘宕様と結婚だなんて、心配だわ」
「玄夜は俺の親友だよ。紗代ちゃんのことだって、惚れこんで真剣に考えてる」
「だけど、本には恐ろしい物の怪と記録されているんだもの……」
「心配ないさ。男の俺がいうのもおかしいけど、玄夜の見た目はいいんだ。見えないのがもったいないよ」

 鬼牙は将来有望だし好いてはいるが、善人過ぎて、いざというときに使えない。

 せめて、鵺についてだけでも鬼牙から引き出して弱みを握りたい。
 そうすれば、紗代を追い込んで破談に持っていくことができるかもしれない。
 あの無能者が捨てられて途方に暮れる姿を想像すると、胸がすく。

「丞灯さん、鵺の一族についてもっと教えて? わたし、お姉さまの結婚相手のことをもっとよく知りたいの」
「そうだなぁ……。俺だって、よその家のことを全部知ってるわけじゃないけど……鵺は、災いを呼ぶと言われているけど、本当はその逆なんだ」
「逆?」
「うん。人間の悪い感情が穢れと呼ばれ、穢れが災いを呼ぶことは学校で習っただろう? 鵺は穢れに目ざといから、災いが起こる前に鳴いて、ほかのあやかしたちに知らせて浄化を促す役目を担ってるんだよ。昔は、勘違いされて人間に討伐されることもあったそうだけど……今は国の中央とも、強力に繋がってる」
「ふぅん……」

 面白くない。
 穢れだの災いだの。人間には感情があるのだ。知能が高く、欲だって抱くものなのだ。生きていれば、怒りや憎しみ、妬みとは無縁でいられない。

 鵺の真の姿が見える条件については、先日鬼牙から教わった。

(あの無能者の心には穢れがないですって? ただ鈍感なだけよ)
 くだらない、と心の中で吐き捨てて──初子は気付いてしまった。

 もしも、そんな紗代が穢れに触れたら。たとえば怒りや恨みに支配されたら。
 そうしたら、鵺の姿を見られなくなる?

(鵺が見えなくなれば、きっと破談ね。……待っていなさい、紗代)
 初子はひっそりとほくそ笑んだ。

 ◆ ◇ ◆
 明日の夜、いよいよ玄夜が迎えに来る。

 そう思うと、紗代はなかなか寝付けなかった。
 あんなにはっきりと玄夜に嫁入りすると思っていたはずなのに、約束の日がいざ迫ってくると、不安に押しつぶされそうになる。

 真っ暗な部屋の中で、遠く、鳥の鳴き声がする。
 美しくも、どこか寂しそうな声。

 鳥や虫の音くらい、いつも聞こえるはずなのに、今日はやけに耳につく。

(緊張して、気が立っているせいね……そうだ)

 紗代は布団から起きだして、真っ暗な部屋を手探りで鏡台へとたどり着く。一番上の抽斗には、玄夜に買ってもらったリボンが大切にしまってある。

 まだ髪にかけたことはない。けれど、やっぱり自分なんて、と不安に負けてしまいそうになるたびに、紗代はそれに触れて心を奮い立たせた。
 玄夜の強さを分けてもらうように、リボンをそっと手のひらで包む。

(大丈夫、大丈夫……落ち着いて。わたしが自分で、選んだ道よ)

 自分自身に言い聞かせて心を落ち着けた紗代の指先に、ふと、覚えのないざらつきが触れた。

「えっ……」

 慌ててリボンを取り出して、暗闇の中で広げようとする。はらりはらりと花びらが散るように、リボンが床に舞い落ちた。
 切り裂かれたのは見るまでもない。それでも、目にするまでは信じたくない。
 紗代は震える手で明かりをともした。
 あんなに美しかった紫のリボンが、ズタズタに引き裂かれてしまっている。

(ひどい……どうしてこんなこと……)
 さんざん虐げられてきたが、着物や私物を切り裂かれたことはなかった。
 今になってなぜこんなことをするのか。
 悲しみで呆然としかかった紗代の視界に、紫の布に交じって、桃色の生地が映る。

「そんなっ……!」
 長持に飛びついて蓋を開くと、中の着物も、リボンと同様に傷だらけにされていた。
 あちこちにハサミを入れたうえに、力任せに引き裂いたように大穴が空き、修繕は不可能だ。

「……ひどい……どうして……」

 どんな仕打ちにも涙一つ流さず耐えてきた。けれどもこれはあまりに酷で、堪えきれずに涙が零れた。
 これは、玄夜の思いやりだった。彼の優しさが、踏みにじられたのだ。それがどうしようもなく悔しかった。

「お姉さまに相応しくないものは、わたしが処分しておいてあげたわ」
「初子……」

 いつの間にか紗代の部屋の障子を開けて、初子が中に入って来ていた。
 長持に縋りついて涙を流す紗代を、初子は勝ち誇ったように見下ろしていた。

「どんな気分かしら。腹が立つでしょう? わたしが憎いでしょう?」

 体の奥で炎が上がったような激しい感情がこみ上げてくる。
 腹が立つ? 憎らしい?
 あたりまえだ。これで、どうして恨まずに済むというのか──

「紗代!」
 玄夜の声とともに、ぶわりと部屋に風が吹き、明かりが消えた。

「なに? なんなのっ!?」
 初子の怯えた声が、暗闇の中で反響する。

 だが玄夜は、騒ぐ初子など気にも留めない。
 闇の中で、温かく大きな彼の手が、紗代の両頬を包んだ。

「紗代、堕ちないでくれ。そっちに行かないでくれ。俺を見ろ!」

 強く言われて、紗代ははっとする。
 胸に抱いた負の感情。これに流されては、心が穢れて玄夜が見えなくなってしまう。
(それはいや……!)
 まだ見える。彼の姿が、はっきりと。

「……荘宕、さま……」
「見えるか? 聞こえるんだな?」
「はい……」

 紗代がこくりとうなずくと、玄夜は安堵の息をついた。

「よかった……紗代を失うかと思った」

 玄夜の瞼が伏せられると、長いまつ毛が瞳を隠す。彼の眉に、さらさらと流れる髪がかかる。

(あ……お面が、ない……)

 いつも彼の顔の半分を隠しているお面が、今日はない。
 筆を流したような涼やかな目元に、通った鼻梁。これまでも見えていたやや薄い唇がそれらと合わさると、こんなにも美しい顔になるのか。
 男性にしておくのが惜しいほどの麗しさに、状況を忘れて思わず見惚れてしまう。

「なによっ、荘宕様がそこにいるの?」
「ああ、ここにいるぞ」

 問うた初子を玄夜が振り返ると、一拍後に、初子は悲鳴をあげて腰を抜かした。

「何事だ!?」

 騒動に気付いた父や比佐が紗代の部屋に集まったが、揃って驚愕に腰を抜かしてへたり込んでしまう。

「っひっ……! こ、これはっ……!」
「嫌っ! こっ、来ないで! あなたっ、多江がっ、多江が化けてっ……!!」

 比佐はどうやら、玄夜の姿が紗代の亡き母に見えるようだ。
 比佐には比佐の言い分があるだろうが、化けて出るのを恐れるほどには、自分がしたことの自覚はあるようだ。

「まったく……欲にまみれるからそうなる。しばらく腰を抜かしておけ」

 初子は腰を抜かして震えあがり、父は両手を合わせて拝み、比佐は頭を抱えてうずくまっている。
 ため息をついて、玄夜は紗代に向き直り、羽織を肩にかけてくれた。

「鬼の一族がもうすぐ来る。それまで待とう」
「玄夜!」

 もうすぐ、どころか、玄夜の言い終わらないうちに、鬼牙が紗代の部屋に乗り込んできた。そのあとには、鬼牙を屋敷に招き入れたであろう住み込みの使用人と、鬼牙の仲間が続いている。
 使用人まで脅かすのは酷だと思ったのだろうか、玄夜はすでにいつもの白いお面をつけていた。

「これは……何があったんだ」
 鬼牙は動揺を隠しきれない様子で、玄夜と初子を交互に見やる。

「……見えるはずだ。鬼の目なら」
 鬼の目は、赤く光るとき、真実を見るといわれている。
 鬼牙の瞳が赤く光ると、彼はグッと唇を噛み、いまだ腰を抜かした初子を立たせようと腕を引いた。

「……初子、立つんだ。穢れの元凶を、こんな住民の多い地区にいつまでも置いておくわけにはいかない」
「……わたしは悪くない! 悪いのは紗代よ。無能者のくせに」

 鬼牙は、肩を落として初子の前に膝をついた。

「じゃあ、君は、俺とのあいだに生まれた子が能力を授からなかったら、紗代ちゃんと同じように扱うのか?」

 初子が目を瞠り、ぽろぽろと涙を零した。
(きっと初子は、そんなこと、考えたこともなかったのね……)

 初子はただ、母親である比佐の真似をしていただけ。幼い頃から、紗代は虐げていい存在で、自分のほうが優れていると植え付けられてきたのだ。

「ちがう……ちがう……そんなこと……」

 初子はいやいやと首を振り、涙を流しながら、鬼牙に連れられて屋敷を出て行った。
 いまだ正気に戻れずに怯えきった父と比佐も、鬼牙の仲間たちによって引きずられるように屋敷から連れ出された。

「鬼牙は、婚約者を見捨てたりしない。きっと彼女は更生できる」

 そう願う。心から。
 優しく語りかけてくれる玄夜に、紗代は希望を抱いてうなずいた。

 ◆ ◇ ◆