朝からずっと蔵の掃除をしていた紗代は、凝った腰を伸ばしてふうっと息をついた。

(これで済んでよかった)

 昨日、帰宅してみると、やはり比佐が鬼の形相で待ち構えていた。

『初子の婚約者に色目を遣うだなんて、恥知らずが!』

 こればかりは、そんなことはしていないと、必死に食い下がったけれど、聞き入れてもらえるはずもなく。

 罰として、今日は朝から一日蔵の掃除するよう言いつけられたのだ。
 けれども屋敷の中で比佐と顔を合わせて身に覚えのないことで叱られるより、一人薄暗い蔵の中で掃除をしているほうがいい。
 屋敷の使用人たちにも、よけいな心配をかけずに済む。

「埃まみれでお似合いよ。お姉さま」

 振り返ると、蔵の入り口に初子が立っていた。

丞灯(じょうひ)さんは優しい方よ。だからお姉さまが無能の愚図でも、良くしてくださるの。勘違いして馴れ馴れしくしないで」
「…………」

 いつ、紗代が鬼牙に馴れ馴れしく接したのだろう。
 いつだって話しかけてくるのは鬼牙からだ。それだって、紗代が初子の姉だからだ。

 鬼牙の優しさにヤキモチを焼いているなら、それは初子と鬼牙の問題で、紗代は関係ない。
 言っても、初子は聞く耳を持たないだろうけれど。

「丞灯さんに助けられたからって、勘違いしないことね。二度と、丞灯さんと二人きりで話すのはやめてちょうだい!」
「助けてくださったのは……」
「口答えしないで!」

 昨日も比佐に説明しようとしたのに、こうして遮られてしまう。

(あの場には、お面の方がいらっしゃったのに……どうして鬼牙さんと二人きりだなんて話になるの)

 紗代を助けてくれたのだって、お面の彼で鬼牙ではない。
 けれども思い込みの激しい初子は、事実よりも自分が感じたことが正しいのだ。

「お前の話なんて聞いてないのよ、無能者!」

 激昂した初子の口調は、母親の比佐にそっくりだ。

(もういいわ……)

 比佐も初子も、紗代の言い分など聞く気がないのだ。今に始まったことではないし、食い下がればそれがまた逆鱗に触れるだけ。
 反論する気力も失せて黙っていると、初子はフンと鼻を鳴らす。

「わたしがこの家にいるうちに、お姉さまを追い出してしまおうかしら。根性悪の無能者を家に置いておいたら、お母さまの心労になるわ」

 紗代とて、できることなら家を出たい。けれども紗代が家を出て自由に生きることは、父が許さない。

 紗代の父は『雨見』という、雨の気配を予知する力があり、その力を生かして商いをしている。海路陸路の運送業の運航計画や、祝宴の日取りの相談まで、幅広く顔を利かせて財を成した。この国の人間のなかでは裕福なほうだが、家の働き手はいくらあってもいい。

 それに、雇いの使用人なら賃金が必要だが、血を分けた娘なら金を払う必要はない。

 これまでにも、見かねた縁者や知人が紗代を引き取ってもいいと申し出てくれたが、父が断固として許さなかった。父は紗代を、死ぬまで使い潰すつもりでいる。
 だから、紗代を追い出すという、初子の思惑が叶うことはない。

「これから鬼牙さんがお見えになる予定なの。顔を出さないでよ。いいわね」

 言われずとも、紗代には比佐から言いつけられた蔵の掃除がまだ残っている。鬼牙に会いたいとも思っていない。出て行くはずがないではないか。

「……ええ」
「お嬢様、あの……お客様がお見えで、旦那様がお呼びですが……」

 駆け足で蔵にやってきた使用人が、おずおずと声をかける。
 どうやら鬼牙の迎えが到着したようだ。

「ええ、わかったわ」
「いえ……あの、初子お嬢様ではなく、紗代様のお客様で……」
「っ!!」
「──紗代、紗代。早く来なさい」

 屋敷から呼ばわる父の声に、初子はひどく憤慨した様子で、髪を跳ねさせて蔵を出て行った。

「わたしに、お客様……?」
「はい、立派なお着物の女性の方で……荘宕(しょうご)家の御使いでいらしたと」

 荘宕家。まったく心当たりがない。
 学生の初子と違って紗代はほとんど家を出ることはなく、友人と呼べる相手もいない。

(どなただろう……)

 履物を持って屋敷の中を歩くと比佐に叱られるので、紗代はぐるりと庭を回って玄関に向かった。
 すると、覚えのある黄褐色の筋の混じった黒髪が見えた。

(お面の方……!)

 やはり黒の羽織に白いお面をつけた、あの青年だ。
 もしや昨日の一件で、彼に迷惑をかけたのだろうか。

「お待たせいたしました」

 屋敷の中からではなく、玄関の外から紗代が現れるとは思っていなかったのか、振り返ったお面の青年は、不思議そうに首をかしげる。
 けれども彼は、口を開こうとはしない。

「……庭で、手伝いをしておりまして。あの、昨日はたいへんご迷惑をおかけして……」

 紗代が深く頭を下げても、やはり彼は黙ったまま。
 そういえば昨日も、彼は一言も話さなかった。

(寡黙な方……なの?)

 だが話してくれなければ何の用での訪問かもわからない。
 沈黙に耐えかねたように、彼の隣に佇んでいた髪を結った上品な女性が、恭しく腰を折った。彼女は紗代よりも十ほど上だろうか。

 青年と違い、彼女はお面をつけていない。

「お初にお目にかかります。わたくしは荘宕家より参りました、ツクミと申します。──若様」
「……ああ、そうか。忘れていた。あなたには、俺の姿が見えているんだな」

 お面の彼がよく通る声で尋ねるので、今度は紗代が首をかしげる番だった。

「え……は、はい」
「俺の声も、聞こえているな?」
「はい……あの?」

 何をあたりまえのことを言っているのか、からかわれているのだろうかと紗代の心に不安が過ったときだった。

「俺は荘宕(しょうご)玄夜(くろや)。鵺の一族の当主だ。今日はあなたに求婚に来た」

 ◆ ◇ ◆