畳んだばかりの洗濯物を目の前で広げられ、頭上から浴びせられる罵倒を、紗代(さよ)はただ頭を下げて詫びてやり過ごそうとしていた。

「ほら、ここにもシミが! まったくお前は、何度言ってもわからない愚図だね!」
「……申し訳ございません」

 紗代の頭に、継母の比佐(ひさ)が投げつけた洗濯物が叩きつけられる。
 いつものことだと、紗代は身じろぎもせずに畳に額づいて詫びるだけ。

 衣類のほんの些細なほつれやシミの見逃しも、食器の欠けも、庭に降り積もった落ち葉まで、この家では比佐の目についたすべての疵瑕が紗代の責任になる。

「おまえのような無能者は、この加地木家の恥なのよ! それを情けでこの家に置いてやっているのに。十九にもなって、ろくに仕事もできないなんて!」
「……申し訳ございません」

「あの、失礼いたします奥様……お嬢様が傘を忘れて行かれましたが、迎えの者に持たせましょうか? 今日は昼過ぎで授業は終了とのことでしたけれども……夕方からはたしか雨で……」

 見かねた使用人が、比佐の注意を紗代から逸らそうと廊下から声をかける。
 いつもならこれで紗代は解放されるところだが、今日は比佐の虫の居所が悪かったらしい。

「紗代。おまえが持ってお行き。それくらいは無能者でもできるでしょう。初子と入れ違いになったら承知しませんよ」
「……はい」

 比佐が部屋を出て行くと、声をかけてくれた使用人が慌てて紗代に駆け寄った。

「お嬢様……」
「ごめんなさい。……出てきますので、あとを頼みます」

 心痛の表情を浮かべる使用人にその場を任せて、紗代は早々に傘を持って家を出た。
 しばらく歩いて昼前の活気づいた目抜き通りに差し掛かると、道行く人々は楽しげで、陰った気持ちが少しは晴れる。

(間に合うかしら……)

 紗代の異母妹の初子が通う高等学校は、町から離れた山麓にある。
 道のりは長いが、当然、紗代は徒歩だ。しかし初子は、婚約相手の鬼の一族から送迎の車を出してもらっている。

 ──この国に、古くからひっそりと存在していたあやかしたち。

 人間とは異なる種の彼らは、不思議な力を持っている。

 その強大な力ゆえ、いにしえの人間の長たちはあやかしを恐れ、あやかしたちも人間と深く交わることを避けてきた。

 長らく国のなかでも一握りの上層部だけが、あやかしたちとの交流を持ち続けてきたが、明治に入り文明の光があちこちに射すにしたがって、彼らは公に姿を現し、人間との共存を選んだ。

 人間よりも頑強な肉体を持ち、見目麗しいあやかしたちは、瞬く間にこの国の中心的存在となっていった。戦火を防ぎ、和平を迎えたのも、あやかしたちの功労によるところが大きいといわれている。

 紗代の加地木(かちき)家は、高祖父の代にあやかしと人間の間に生まれた娘を娶った。

 それ以降、加地木家はわずかながら能力を有した子が生まれるようになり、紗代の父も力を授かり社会的成功を収めている。

 当然子供にも期待が寄せられたが、加地木家の長女である紗代は、力を受け継ぐことはなかった。
 いっぽうで、父の(めかけ)の比佐が産んだ初子(はつこ)は、父と同じ能力を授かった。

 初子は妾腹ながら歓迎されて加地木家へ入り、本妻である紗代の母と紗代は、屋敷で肩身の狭い思いをして過ごした。

 心労がたたって、母が亡くなったのは紗代が十歳の頃。
 それからは、紗代は加地木家の娘としての暮らしを奪われ、使用人のように扱われてきた。

 ──無能者。
(そう呼ばれても、しかたがない……)

 初子は、純血のあやかしたちや、能力を持つ者だけが通うことを許された高等学校から大学までを含めた学び舎『妖の怪学校』に通っている。そこで初子は両親の期待に応え、鬼の一族の分家の子息に見初められた。

 二つ年下の初子と比べられると、紗代はどうしたって劣る。

 初子は幼い頃からいくつも芸事を習い、高等学校まで進学して様々な教養を身に着けたが、紗代は最低限の尋常小学校を出ただけで、芸事には縁がなかった。

 容姿にしたって、初子は愛らしい顔立ちで、長い髪は美しい艶を放ち、肌はみずみずしく、艶やかな柄の着物をさらりと着こなし、どこへ出しても恥ずかしくない良家の令嬢だ。

 紗代は違う。容姿は暗い性格が滲んで見え、髪は伸ばしっぱなしで艶もなく、みすぼらしい。肌は血色が悪くかさついて、指先などは水仕事でいつもひび割れている。古びた着物を繕って夏も冬もなく着回している紗代を見て、使用人がいる家の令嬢だと思うものはいないだろう。

 けれどもそれも、しかたのないこと。
 持つ者と、持たざる者。
 同じ家に生まれたとて、同列に扱われるはずもない。

 幼い頃から虐げられてきたせいで、紗代は期待することをやめてしまった。
 そうでもしなければ自分が苦しむだけだというのは、母を見て学んだことだった。

 ◆ ◇ ◆

 なんとか昼に妖の怪学校に到着した紗代は、門前の木の下で初子を待った。
 守衛によると、そろそろ初子の学年は授業を終える頃だという。

(夏なのに、ここは涼しい)

 ここまでの道中で日差しに火照り、汗ばんだ肌が木陰に吹く風に冷やされていって心地良い。

「あれ? 紗代ちゃん。初子のお迎えに来たのかな?」
鬼牙(きが)さん……こんにちは」

 校門から出てきたのは、初子の婚約者の鬼牙丞灯(じょうひ)
 隣には、学友なのか、同年代の青年が並んでいる。

 大学部に在籍する鬼牙は、鬼の一族の特徴とされる青みがかった黒髪に赤い目を持ち、丈高く見目麗しい。分家の出ではあるが、たいそう優秀で本家への養子の噂もあるほどで、将来を嘱望されていた。人柄も良く、紗代にも親切に接してくれる。

 彼は、初子が紗代を慕っていると本気で信じているようで、紗代が家でどんな扱いを受けているか、知りもしない。

「今日は暑かったろう。中で休んでいったらどうだろう? お茶くらいなら中で──」
「いえ、届け物をしたら、帰りますので……」
「一人で帰るっていうのか? 初子と一緒に送って行ってあげるよ」
「あの……いえ、お気持ちはありがたいのですが、まだ用がありますので……」

 一緒に送迎の車に乗せてもらうなど、初子と比佐の神経を逆なでするだけだ。
 頑なに断る紗代に、鬼牙は怪訝そうな顔をしながらも「そうか」とうなずいた。

(お隣の方は、どなただろう……)

 鬼牙の隣に立つ青年は、鼻先までを覆うお面をつけている。
 眉が描かれ、目がくりぬかれている以外、これといった特徴のない白い面だ。

(狐や猫の耳もないけれど、どの一族の方かしら)

 背丈は鬼牙と変わらないが、鬼の一族と比べるとさすがに幾分線の細い印象を受ける。

 黄褐色の筋の混じった長い黒髪を結んで片側に流し、夜を思わせる黒の羽織を着ている。くりぬかれた面の目からは漆黒の眼が覗き、静かにこちらを窺っていた。

 初子と違って、家の手伝いをするばかりの紗代は、あやかしの一族と顔を合わせることはほとんどない。彼がどこの誰か、紗代はさっぱりわからなかった。

(不思議な方……)

 紗代が彼にも会釈をすると、お面の奥で、わずかに眼が見開かれた気がした。

「紗代? こんなところで何をしてっ──……あら、丞灯さん」

 学友たちと連れ立って校門へ向かって来ていた初子は、紗代を見るなり目を吊り上げた。が、鬼牙を認めるとくるりと表情を変えて、にっこりと微笑む。

 学友たちの輪を離れて駆けてきた初子は、あろうことかお面の青年の前に割り込んで、鬼牙の隣にぴったりと寄り添うようにして立った。
 お面の彼は、よほど穏やかな性質なのだろう。初子の態度に気を悪くした様子もない。

「驚いた。どうしてお姉さまがここにいるの?」
「……これを届けに来たの。それではわたし、用があるのでこれで」
「えぇ? せっかくだから、一緒に帰りましょう?」
「俺もそう言ったんだけどね。初子もこう言ってるし、途中まで乗って行ったらどうだろう?」

 鬼牙が提案すると、初子が唐突に紗代の袖をきつく掴んだ。

「ふーん……わたしが来る前から、丞灯さんと話してたのね……。せっかく丞灯さんもおっしゃってるんだもの。ねっ、お姉さま!」

 はた目には、異母姉にじゃれつく妹に見えただろう。
 しかし、鬼牙の目を盗んで初子の靴が紗代のつま先を踏みつける。

「痛っ……」
「ねっ、ねっ、お姉さまったら!」

 そのままガクガクと袖を引っ張られ、紗代の膝が折れて体がぐらりと傾いた。
 倒れ込む紗代から逃げて、初子はスイッと横へ飛び退る。

(転ぶ──!)
「きゃっ──」

 衝撃に備えてぎゅっと目を瞑った紗代の体は、土の上ではなく、力強い腕に抱きとめられる。
 ふわりと白檀の香りが鼻腔をくすぐり、ぬくもりが紗代を抱く腕から伝わってくる。
 はっとして目を開くと、視界を染めるのは黒の羽織。

(お面の方が、助けてくれた……?)

 呆然とお面の青年を見上げた紗代を、彼は口を閉ざしたまま、じっと見つめ返している。
 どうしてだか、彼の瞳に吸い寄せられるように目が逸らせなかった。ほんの数瞬。けれども確かに、紗代とお面の青年は互いに見つめあっていた。

「紗代ちゃん、大丈夫?」
「は、はいっ……」

 鬼牙も紗代を助けようと手を伸ばしてくれいたようで、紗代が体勢を立て直すと、お腹のあたりに差し出されていた鬼牙の手が引っ込められる。
 鬼牙の手は紗代にはかすりもしていないけれど、初子にはどう見えただろう。

「お姉さま、ごめんなさいっ。わたし、ついはしゃいでしまったわ。怪我はない?」

 紗代を心配するふりをして、初子がまたお面の青年を無視して鬼牙の隣に割り込んでくる。──いや、お面の彼が、わざと一歩後退ったのだ。

(あれ……? 今、初子を避けた……?)

 けれど、今はそれどころではない。

 人のいい鬼牙は気付いていないだろうが、紗代には初子が機嫌を損ねているのが伝わっていた。思い通りに紗代が転ばなかったこと。鬼牙が紗代を助けようとしたこと。そのどちらもが、初子は気に入らないのだ。

「……大丈夫よ。あの、申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました」

 お面の青年と鬼牙に礼をして、紗代は逃げるように初子たちから離れた。

「では……用があるから。これで」
「そう? また家でね、お姉さま」

 ひらりと手を振る初子と鬼牙にぎこちない笑みを返し、彼らのうしろに佇むお面の彼に、もう一度深くお辞儀をする。
 きっと家に帰ったら、初子に当たり散らされるのだろう。悪くすれば、比佐にも。

(お面の方に、もっときちんとお礼をお伝えできたら良かったのに……)

 男女が手を繋ぐことさえ(はばか)られる世風だ。
 人助けとはいえ、衆人環視の中でみすぼらしい紗代などを抱き留めてしまって、彼が嫌な思いをしていなければいいと紗代は願った。

 ◆ ◇ ◆