気がつくと保健室の天井を見上げていた。
ベッドのカーテンが引かれている。
思い出せるのは、空腹だったことと未奈美たちに又嫌味を言われたことくらい。
それから気が遠くなって……。
そうだ、思い出した。きっと倒れて保健室に運ばれたのだ。こんなことは初めてだった。
もう起きれるとは思うけど頭がぼんやりしていたし、正直なところ教室には戻りたくなかった。
未奈美や沙月、文句を言いながら結局はその二人にくっついているらしい、りりあの意地悪な顔が浮かんで空腹の胃にキリキリと痛みが走ったからだ。
――いっそのこと寝たフリでもしていようかな?
と思った。
でもその数秒後には、自分の性格上、罪悪感を感じて逆に眠れないだろうと簡単に想像ができたから、すぐにあきらめはついた。
私は仕方なくゆっくり起き上がることにした。
が、目の前が突然ぐわんと斜めに大きく揺れてベッドに倒れ込んでしまい、養護の小杉先生が慌ててこちらに来た。
「高瀬さん?」
小杉先生の声と同時にカーテンが開かれると、心配そうに私をのぞき込んだ。
「起きようと思ったら、なんか目の前がクラクラして……」
「無理しないで。まだ横になってたほうがいいと思う。石川先生には伝えておくから。心配してると思うし」
――私の心配なんて、しないと思うけど。
頭の片隅でそう思いながら一応の返事はした。
「はい」
担任の石川先生は学校行事には「一致団結!」とか言ってやたら張り切るタイプなのに、ちょっとしたトラブルでさえも見て見ぬフリをするから嫌いだった。
そういう性格だとみんなも思っているからなのか、そこはクラスの中で暗黙の了解みたいになっていて、そもそも担任なんてこれっぽちも信頼していなかったし本当は言っても言わなくてもどっちでもいいと思った。
だからと言ってそんな事を保健室でグチる余裕も元気もない。
力なく返事をすると同時に、私のお腹がぎゅるぎゅると大きな音を立てて活動した。
小杉先生は目をまん丸くして「ん?」という表情をしながら私に言った。
「高瀬さん、もしかして、朝ご飯食べてこなかった?」
楽しみに残しておいた食パンが昨日ラス1で、そこからお腹に入ったものは水だけで何も食べていなかった。しかも賞味期限が切れていた。それを知っていても私にとっては大事な食事だったから、早く食べ切ってはいけなかったのだ。
――食べる物がなかったなんて、恥ずかしくて言える訳ないじゃん。
「えっと……ダイエットでもしようかな?と思って」
「ダイエットしなくても十分痩せてるよ」
見えすいた嘘は通じなかった。頭も働かないから余計に何も言い返す言葉が見つからなくて、私は黙って視線を外した。
小杉先生は胸の前で腕を組み、小さなため息をついた。
いつも優しいその顔が笑っていなかった。
むしろ半分怒ったような表情にさえ見えた。
すると、くるりと背中を向けて歩き出したと思ったら、自分のバッグの中から何やら探してすぐに私の寝ているベッドに戻って来た。
「まだ給食には早いから。これ食べて」
目の前に差し出されたカロリーメイトを見て、反射的なものだったのかわからないけれど、タイミングよく又お腹が鳴った。
こうなると空腹を否定することはできなかった。
「すみません……」
無心で袋を開けると私はむさぼるように食べた。望んでいる食感ではなかったけれど、すごく美味しかった。泣きそうなくらい嬉しくて、それ以来、私の中で忘れられない味になった。
すると食べる勢いとパサついた口の中のせいで当然ゴホゴホとむせてしまった。けれども私の食欲は止まらなくて、口からこぼれてしまったものを集めながら食べ続けた。
誰も見ていないとわかっていたこともあるけれど、その時の私には恥ずかしさも何もなかった。とにかく空腹のお腹が満たされることに必死だったのだ。
そんな私に小杉先生がインスタントのカフェオレをこれまた内緒で出してくれて、背中をさすってくれた。
その時の私を、先生はどう思っていただろうか?
「ゆっくり食べないと。布団にこぼれたのは気にしないで。とりあえず石川先生にもう少し保健室にいるように伝えてくるから」
私は小さく頷いて見せた。
その後、小杉先生が職員室から戻ってくると、安心からなのか私はふたたび目を閉じた。
次に目が覚めたのは、給食室からいい匂いが漂ってきた時だった。
私はずっと思っていたことをカーテン越しに先生に聞いてみることにした。
「先生」
「どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「いえ、あの、私って……」
「私って?」
「クサイですか?」
少しの沈黙が流れた。
「誰かに何か言われたの?」
カーテンがあって良かった。私の顔も見えないし、先生の困った顔も見なくて済むから。
それでも私はすぐに答えられなかった。思い出したくなんてなかったけど、その時のことは頭の中で勝手によみがえってくる。
休み時間に座っていると未奈美が大きな声で「なんかクッサ」と私のすぐ後ろで言って、大きな声で笑ったのは最近の話だ。
背中が……特に、頭の後ろ辺りがざわざわした。
最初は何のことやらわからなかったし、まさか自分のことを言われているなんて思ってもみなかった。ただ、もしかしたら、私に意地悪をしたいからわざとそんな言葉を言っているのかもしれないと思い直した。
そして嫌な予感は的中してしまった。
「この人もしかしてお風呂入ってないんじゃない?」
――どうしよう。どうしよう。どうしよう。
頭の中で「どうしよう」という言葉だけが繰り返された。
だって……本当のことだったから。
食事もそうだけれど水道が止められて5日目という日でもあった。トイレは近所の公園に行き、夜は極力水も飲まないようにする事でどうにか生活していた。
身支度は、朝公園のトイレに行ったついでに水飲み場で怪しまれない程度にしていたけれど、さすがにシャンプーを持って行く勇気はなかった。
――これが冬じゃなくて良かった。
と毎日頭の中でそう思っていた。
それから真っ赤になっているであろうと想像かつくくらい急激に顔が火照り始めて、手のひらが汗ばんできたから両手のこぶしをぎゅっと強く握った。
「ウソでしょ?」
沙月は半信半疑だったのかもしれない。
「えー、やだー」
いつも大袈裟な話し方をするりりあは当然オーバーに言った。
――そっち行ってよ。
冷や汗が流れて何か言い返すことなんてできなかったし、動けなくなってうつむくことが精一杯だった。
そして、その時の私はなぜだか、
――泣いてはいけない。
と強く思ってしまって、泣きたいのを我慢して奥歯をかみしめて耐えた。
その声色から冷やかしとしか思えなかったし、すごく嫌な響きで言葉を放った。
だからなのだろう。一瞬クラスの中に静けさが走った。
――みんな、そう思ってるんだ……。
ショックだった。
それから未奈美たちが大笑いしてた。
「マジかー」って言って楽しそうに、ずっとずっと笑っていた。
みんながこちらを見ているような気がした。
そんな恥ずかしいことで私に注目してると思ったら、急に身動きがとれないほど体が緊張して顔が強張って、悲しいっていうより、この場から一刻も早く逃げたいと思う気持ちが強くなってしまってトイレに走って逃げ込んだのだ。
とにかくタイミングが悪かった。チャイムが鳴ったけど私はトイレから出る勇気がなくて、結局、六時間目の国語をすっぽかす形になってしまったのだった。
――あー、もう……リュック持ってくればよかった。
トイレに腰かけたままで、少し凹んだ。でも仕方がないのだ。
リュックなんて気にせずに帰ろうと思えば帰れた。けど、帰らなかった。
自分で言うのも変だけど私は基本的に真面目なところがあるから、授業をさぼったのも初めてだったし、勝手に帰ったとしても絶対バレてお母さんに怒られると思ったからだ。
怒れらるのも嫌だったけど、どうしてそうなったのか聞かれたら、きっとお母さんは間違いなく心配すると思ったから尚更帰るという選択はできなかった。
お母さんにはこれ以上悲しい顔をさせたくなかった。
それにリュックを置いて帰ったら、未奈美たちに何かいたずらをされてしまいそうな予感がしたから、どうしても持って帰りたかった。
授業が始まって誰の足音も聞こえなくなってから、色んなことを考えて、色んな思いを巡らせた。
その日の放課後、教室を出て早く家に帰ろうと思ったのに、誰が聞いても『怒ってます!』みたいな声で私を呼んだのは担任だった。
「高瀬!」
「はいっ」
私は仕方なく立ち止まり、肩をすくませて振り返った。
「国語の時間どこにいた?」
まだ二十代だというのにぽっちゃり体形で、服のセンスの無さといつも煙草の臭いがしてオジサンみたいだから、陰では『石川オジサン』ってみんなに呼ばれていた。
「えっと、トイレです」
「トイレ?」
驚くのは仕方ないけど大きな声で言うから、廊下でも私はさらし者みたいな目でみんなに見られた。
「……はい」
「そんなとこでサボって何したかったんだ? とにかく鹿島先生に謝りに行くぞ」
「職員室にですか?」
「当たり前だよ」
――先生たちにもクサイって思われたらどうしよう?
「えっと……それって、今からですか?」
「今謝らないでどうする? 悪かったことはすぐに謝らないと意味がないんだぞ」
――わかるけど、ホント、ムリ。
私がずっと黙っていると石川先生はしびれを切らしたらしく、私の目の前まで来た。
――相変わらずタバコくさいんですけど。
私はハッとした。
みんなと同じく石川先生をタバコくさいと思っていたけれど、私もそれと同じように美奈未たちにそう思われているのだ。顔をしかめたくなるような独特なタバコのニオイも、お風呂に入れず髪を洗えていなくて少しギトついているニオイも同類なのかもしれない。
そんなふうに考えたらゾッとした。
すると私の左手を引っ張ろうとしたから、無意識に腕を振り払っただけなのに、すごく力が入ってしまったみたいで自分の腕の方が痛かった。先生も驚いたらしく素直ではない私に更に怒った顔をした。
反抗したくてそんな態度をとった訳じゃない。たった1ミリも私に近づいてほしくなかったからだ。
いくら石川オジサンと陰で呼ばれているような先生だったとしても、たった今の自分が不潔だと思われる事が嫌だったからだ。
そんな抵抗も虚しく結局私は職員室まで来ることになった。
机に座っている鹿島先生の前まで来ると、
「謝りなさい」
と石川先生に言われた。
鹿島先生はゆっくりと振り向いて私の顔をじっと見つめた。
「すみませんでした」
私はそう謝ったのに、石川先生の怒りは収まっていなかったらしく、
「ちゃんと頭下げろ!」
と怒鳴って私の頭をぐいっと押して無理に下げたのだ。
――私にさわらないで!!
「やめて!」
自分でも驚くほど私は大声を出した。そして頭に置かれた石川先生の手を思い切り振り払ったのだった。
「さっきといい、今といい、その態度は何だ?」
石川先生も負けじと大きな声だった。
そして職員室でもさっきの教室みたいに、一瞬シーンと静まり返ったのだ。
――そんな目で私を見ないで……。
すでに涙目でぼやけてはいたけれど、先生という大人たちの刺すような視線が痛くて私の涙は次から次へと溢れた。
「何があったの?」
鹿島先生も驚いていたけれど優しく冷静に私にたずねた。
――不潔だって思われたのが嫌だった。
そう言えたらどんなに気持ちが楽になっただろう。
でもそんなこと言える訳がないから、「何もありません」という代わりに首を左右に振って否定した。
私は少しだけ顔を上げたけれど注目されているのがわかって、すごく怖くなった。
その時からだと思う。人が『怖い』と思うようになった……。
――お願いだから見ないで!
心の声を吐き出すことができなくて私は泣くだけだった。
しばらくしても泣き止まない私に掛ける言葉もなくなったのだろう。
「今日は帰りなさい」
仕方ないという声色で石川先生に言われ無言で職員室から出ると、下駄箱のところまで鹿島先生と小杉先生が一緒に来てくれていた。石川先生が来ないところが先生らしいと思ってガッカリというかやっぱりなと思った。
私は外履きを出してから鹿島先生に改めて言った。
「ご、ごめんさない」
幼い子供のようにしゃくり上げて泣いてしまったから喉が痛くて、しかも言葉が途切れてしまい上手く言えなかった。でも鹿島先生は何か悟っていたのかもしれない。
「高瀬さん。もしね、お家で困ってることがあるんだったら、先生か、小杉先生に話してね」
『早く帰りたい』という気持ちと『話そうかな』という気持ちが胸の中でぐるぐる回った。
足元に目を移すと、外靴がいつもよりボロボロに見えて恥ずかしくなった。
自分の気持ちに気がつかれないようにサッと顔を上げると、頑張って笑顔を作って答えた。
「わかりました……」
先生たちは優しかったけれど、どこか悲しそうな目で私を見ていた。
ベッドのカーテンが引かれている。
思い出せるのは、空腹だったことと未奈美たちに又嫌味を言われたことくらい。
それから気が遠くなって……。
そうだ、思い出した。きっと倒れて保健室に運ばれたのだ。こんなことは初めてだった。
もう起きれるとは思うけど頭がぼんやりしていたし、正直なところ教室には戻りたくなかった。
未奈美や沙月、文句を言いながら結局はその二人にくっついているらしい、りりあの意地悪な顔が浮かんで空腹の胃にキリキリと痛みが走ったからだ。
――いっそのこと寝たフリでもしていようかな?
と思った。
でもその数秒後には、自分の性格上、罪悪感を感じて逆に眠れないだろうと簡単に想像ができたから、すぐにあきらめはついた。
私は仕方なくゆっくり起き上がることにした。
が、目の前が突然ぐわんと斜めに大きく揺れてベッドに倒れ込んでしまい、養護の小杉先生が慌ててこちらに来た。
「高瀬さん?」
小杉先生の声と同時にカーテンが開かれると、心配そうに私をのぞき込んだ。
「起きようと思ったら、なんか目の前がクラクラして……」
「無理しないで。まだ横になってたほうがいいと思う。石川先生には伝えておくから。心配してると思うし」
――私の心配なんて、しないと思うけど。
頭の片隅でそう思いながら一応の返事はした。
「はい」
担任の石川先生は学校行事には「一致団結!」とか言ってやたら張り切るタイプなのに、ちょっとしたトラブルでさえも見て見ぬフリをするから嫌いだった。
そういう性格だとみんなも思っているからなのか、そこはクラスの中で暗黙の了解みたいになっていて、そもそも担任なんてこれっぽちも信頼していなかったし本当は言っても言わなくてもどっちでもいいと思った。
だからと言ってそんな事を保健室でグチる余裕も元気もない。
力なく返事をすると同時に、私のお腹がぎゅるぎゅると大きな音を立てて活動した。
小杉先生は目をまん丸くして「ん?」という表情をしながら私に言った。
「高瀬さん、もしかして、朝ご飯食べてこなかった?」
楽しみに残しておいた食パンが昨日ラス1で、そこからお腹に入ったものは水だけで何も食べていなかった。しかも賞味期限が切れていた。それを知っていても私にとっては大事な食事だったから、早く食べ切ってはいけなかったのだ。
――食べる物がなかったなんて、恥ずかしくて言える訳ないじゃん。
「えっと……ダイエットでもしようかな?と思って」
「ダイエットしなくても十分痩せてるよ」
見えすいた嘘は通じなかった。頭も働かないから余計に何も言い返す言葉が見つからなくて、私は黙って視線を外した。
小杉先生は胸の前で腕を組み、小さなため息をついた。
いつも優しいその顔が笑っていなかった。
むしろ半分怒ったような表情にさえ見えた。
すると、くるりと背中を向けて歩き出したと思ったら、自分のバッグの中から何やら探してすぐに私の寝ているベッドに戻って来た。
「まだ給食には早いから。これ食べて」
目の前に差し出されたカロリーメイトを見て、反射的なものだったのかわからないけれど、タイミングよく又お腹が鳴った。
こうなると空腹を否定することはできなかった。
「すみません……」
無心で袋を開けると私はむさぼるように食べた。望んでいる食感ではなかったけれど、すごく美味しかった。泣きそうなくらい嬉しくて、それ以来、私の中で忘れられない味になった。
すると食べる勢いとパサついた口の中のせいで当然ゴホゴホとむせてしまった。けれども私の食欲は止まらなくて、口からこぼれてしまったものを集めながら食べ続けた。
誰も見ていないとわかっていたこともあるけれど、その時の私には恥ずかしさも何もなかった。とにかく空腹のお腹が満たされることに必死だったのだ。
そんな私に小杉先生がインスタントのカフェオレをこれまた内緒で出してくれて、背中をさすってくれた。
その時の私を、先生はどう思っていただろうか?
「ゆっくり食べないと。布団にこぼれたのは気にしないで。とりあえず石川先生にもう少し保健室にいるように伝えてくるから」
私は小さく頷いて見せた。
その後、小杉先生が職員室から戻ってくると、安心からなのか私はふたたび目を閉じた。
次に目が覚めたのは、給食室からいい匂いが漂ってきた時だった。
私はずっと思っていたことをカーテン越しに先生に聞いてみることにした。
「先生」
「どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「いえ、あの、私って……」
「私って?」
「クサイですか?」
少しの沈黙が流れた。
「誰かに何か言われたの?」
カーテンがあって良かった。私の顔も見えないし、先生の困った顔も見なくて済むから。
それでも私はすぐに答えられなかった。思い出したくなんてなかったけど、その時のことは頭の中で勝手によみがえってくる。
休み時間に座っていると未奈美が大きな声で「なんかクッサ」と私のすぐ後ろで言って、大きな声で笑ったのは最近の話だ。
背中が……特に、頭の後ろ辺りがざわざわした。
最初は何のことやらわからなかったし、まさか自分のことを言われているなんて思ってもみなかった。ただ、もしかしたら、私に意地悪をしたいからわざとそんな言葉を言っているのかもしれないと思い直した。
そして嫌な予感は的中してしまった。
「この人もしかしてお風呂入ってないんじゃない?」
――どうしよう。どうしよう。どうしよう。
頭の中で「どうしよう」という言葉だけが繰り返された。
だって……本当のことだったから。
食事もそうだけれど水道が止められて5日目という日でもあった。トイレは近所の公園に行き、夜は極力水も飲まないようにする事でどうにか生活していた。
身支度は、朝公園のトイレに行ったついでに水飲み場で怪しまれない程度にしていたけれど、さすがにシャンプーを持って行く勇気はなかった。
――これが冬じゃなくて良かった。
と毎日頭の中でそう思っていた。
それから真っ赤になっているであろうと想像かつくくらい急激に顔が火照り始めて、手のひらが汗ばんできたから両手のこぶしをぎゅっと強く握った。
「ウソでしょ?」
沙月は半信半疑だったのかもしれない。
「えー、やだー」
いつも大袈裟な話し方をするりりあは当然オーバーに言った。
――そっち行ってよ。
冷や汗が流れて何か言い返すことなんてできなかったし、動けなくなってうつむくことが精一杯だった。
そして、その時の私はなぜだか、
――泣いてはいけない。
と強く思ってしまって、泣きたいのを我慢して奥歯をかみしめて耐えた。
その声色から冷やかしとしか思えなかったし、すごく嫌な響きで言葉を放った。
だからなのだろう。一瞬クラスの中に静けさが走った。
――みんな、そう思ってるんだ……。
ショックだった。
それから未奈美たちが大笑いしてた。
「マジかー」って言って楽しそうに、ずっとずっと笑っていた。
みんながこちらを見ているような気がした。
そんな恥ずかしいことで私に注目してると思ったら、急に身動きがとれないほど体が緊張して顔が強張って、悲しいっていうより、この場から一刻も早く逃げたいと思う気持ちが強くなってしまってトイレに走って逃げ込んだのだ。
とにかくタイミングが悪かった。チャイムが鳴ったけど私はトイレから出る勇気がなくて、結局、六時間目の国語をすっぽかす形になってしまったのだった。
――あー、もう……リュック持ってくればよかった。
トイレに腰かけたままで、少し凹んだ。でも仕方がないのだ。
リュックなんて気にせずに帰ろうと思えば帰れた。けど、帰らなかった。
自分で言うのも変だけど私は基本的に真面目なところがあるから、授業をさぼったのも初めてだったし、勝手に帰ったとしても絶対バレてお母さんに怒られると思ったからだ。
怒れらるのも嫌だったけど、どうしてそうなったのか聞かれたら、きっとお母さんは間違いなく心配すると思ったから尚更帰るという選択はできなかった。
お母さんにはこれ以上悲しい顔をさせたくなかった。
それにリュックを置いて帰ったら、未奈美たちに何かいたずらをされてしまいそうな予感がしたから、どうしても持って帰りたかった。
授業が始まって誰の足音も聞こえなくなってから、色んなことを考えて、色んな思いを巡らせた。
その日の放課後、教室を出て早く家に帰ろうと思ったのに、誰が聞いても『怒ってます!』みたいな声で私を呼んだのは担任だった。
「高瀬!」
「はいっ」
私は仕方なく立ち止まり、肩をすくませて振り返った。
「国語の時間どこにいた?」
まだ二十代だというのにぽっちゃり体形で、服のセンスの無さといつも煙草の臭いがしてオジサンみたいだから、陰では『石川オジサン』ってみんなに呼ばれていた。
「えっと、トイレです」
「トイレ?」
驚くのは仕方ないけど大きな声で言うから、廊下でも私はさらし者みたいな目でみんなに見られた。
「……はい」
「そんなとこでサボって何したかったんだ? とにかく鹿島先生に謝りに行くぞ」
「職員室にですか?」
「当たり前だよ」
――先生たちにもクサイって思われたらどうしよう?
「えっと……それって、今からですか?」
「今謝らないでどうする? 悪かったことはすぐに謝らないと意味がないんだぞ」
――わかるけど、ホント、ムリ。
私がずっと黙っていると石川先生はしびれを切らしたらしく、私の目の前まで来た。
――相変わらずタバコくさいんですけど。
私はハッとした。
みんなと同じく石川先生をタバコくさいと思っていたけれど、私もそれと同じように美奈未たちにそう思われているのだ。顔をしかめたくなるような独特なタバコのニオイも、お風呂に入れず髪を洗えていなくて少しギトついているニオイも同類なのかもしれない。
そんなふうに考えたらゾッとした。
すると私の左手を引っ張ろうとしたから、無意識に腕を振り払っただけなのに、すごく力が入ってしまったみたいで自分の腕の方が痛かった。先生も驚いたらしく素直ではない私に更に怒った顔をした。
反抗したくてそんな態度をとった訳じゃない。たった1ミリも私に近づいてほしくなかったからだ。
いくら石川オジサンと陰で呼ばれているような先生だったとしても、たった今の自分が不潔だと思われる事が嫌だったからだ。
そんな抵抗も虚しく結局私は職員室まで来ることになった。
机に座っている鹿島先生の前まで来ると、
「謝りなさい」
と石川先生に言われた。
鹿島先生はゆっくりと振り向いて私の顔をじっと見つめた。
「すみませんでした」
私はそう謝ったのに、石川先生の怒りは収まっていなかったらしく、
「ちゃんと頭下げろ!」
と怒鳴って私の頭をぐいっと押して無理に下げたのだ。
――私にさわらないで!!
「やめて!」
自分でも驚くほど私は大声を出した。そして頭に置かれた石川先生の手を思い切り振り払ったのだった。
「さっきといい、今といい、その態度は何だ?」
石川先生も負けじと大きな声だった。
そして職員室でもさっきの教室みたいに、一瞬シーンと静まり返ったのだ。
――そんな目で私を見ないで……。
すでに涙目でぼやけてはいたけれど、先生という大人たちの刺すような視線が痛くて私の涙は次から次へと溢れた。
「何があったの?」
鹿島先生も驚いていたけれど優しく冷静に私にたずねた。
――不潔だって思われたのが嫌だった。
そう言えたらどんなに気持ちが楽になっただろう。
でもそんなこと言える訳がないから、「何もありません」という代わりに首を左右に振って否定した。
私は少しだけ顔を上げたけれど注目されているのがわかって、すごく怖くなった。
その時からだと思う。人が『怖い』と思うようになった……。
――お願いだから見ないで!
心の声を吐き出すことができなくて私は泣くだけだった。
しばらくしても泣き止まない私に掛ける言葉もなくなったのだろう。
「今日は帰りなさい」
仕方ないという声色で石川先生に言われ無言で職員室から出ると、下駄箱のところまで鹿島先生と小杉先生が一緒に来てくれていた。石川先生が来ないところが先生らしいと思ってガッカリというかやっぱりなと思った。
私は外履きを出してから鹿島先生に改めて言った。
「ご、ごめんさない」
幼い子供のようにしゃくり上げて泣いてしまったから喉が痛くて、しかも言葉が途切れてしまい上手く言えなかった。でも鹿島先生は何か悟っていたのかもしれない。
「高瀬さん。もしね、お家で困ってることがあるんだったら、先生か、小杉先生に話してね」
『早く帰りたい』という気持ちと『話そうかな』という気持ちが胸の中でぐるぐる回った。
足元に目を移すと、外靴がいつもよりボロボロに見えて恥ずかしくなった。
自分の気持ちに気がつかれないようにサッと顔を上げると、頑張って笑顔を作って答えた。
「わかりました……」
先生たちは優しかったけれど、どこか悲しそうな目で私を見ていた。