「千代ちゃん、次はこれを、あちらのお客様に運んでくれるかい」
「承知しましたわ」
店長に微笑んだ後、2つ並んだコーヒーカップを慎重に運ぶ。右にあるのが、カフェ・オレ。左が何もいれていないブラックコーヒーだ。生クリームが入った小瓶と一緒に、指定された席へ進む。
店長には、出勤するなりすぐに伝えた。婚約が決まったため、あと1か月で辞めさせてほしいと。
昨日聞いたばかりの立花家との婚約は、千代が望んだものではなかった。ましてや自分の父親よりも年上の男に嫁ぐなど、受け入れがたいことだった。正直言うと、逃げ出してしまいたい。でもだからこそ、先に退路を断ってしまおうと思ったのだ。
両親には、朝、立花家との婚約を受け入れると言った。婚約までの1か月は働かせてほしいということも同時に。
コーヒーサロンでの噂話も、好気的な目もうんざりだった。本当はすぐにでも辞めてしまいたいくらいだけれど、容易に仕事を投げだす人間だと思われたくなかった。
指定された席の前についた。そこにいるのは、立て襟の白いシャツに袴を着込んだ書生服の青年と、薄紅梅の艶やかな着物を上品に着込んだ女性がいた。女性は短く切った髪を毛先でカールさせ、大きなバレッタをしている。最近大流行している耳隠しと言われる女性の髪型だ。男性からは反発が多いと聞くが。
「お待たせいたしました、こちらはカフェ・オレでございます」
耳隠しの女性が白い指を胸元に掲げ、小さく挙手をした。彼女の前にカフェ・オレを置く。次にブラックコーヒーを、書生服の青年の前に置いた。
「ありがとう」
「注文はお揃いかしら?」
「美しいね、どこのご令嬢かな」
一瞬、動きが止まった。千代に言われているのか、耳隠しの女性に言っているのかわからなかったからだ。少し考えて、目の前の女性に令嬢か、なんて聞くわけがないと思い直す。もう既に知り合いなのだから、一緒にコーヒーサロンに来ているのだろう。
「どうして、そんなことをお聞きになるのかしら」
千代は笑みを浮かべて答えた。
「顔に塗っているのは白粉だろう。庶民には到底手に入るものじゃない。どうして、こんなところに?」
「社会勉強ですわ」
書生服の青年と目線を合わせて、両の口角を弓なりに上げた。幼い頃から何度も何度も練習したこの笑顔で、大抵のことは解決できる。青年は、目の前にあるコーヒーカップに口づけた。薄く、血色の良い唇。顔全体をよく見ると、非常に整った顔立ちをしていた。
鋭い切れ長の目、平行に引かれた二重の線。周りに縁取るまつ毛は長く、整えられた眉で凛々しさが増す。男性的でハンサムというよりも、女性的な美しさ。それでも青年だとわかるのは、座っていてもわかる背の高さと、声の低さからだろう。
「社会勉強。素晴らしい事だね。今は女性も働く時代さ。でも、その白粉はよくないな」
「白粉、ですか?」
「その香りや色は男を誘惑させるけれど、コーヒーの香りが削がれるんだよ。それに、鬢付け油も使っているかい?」
「ええ、少し」
「じゃあ、そっちの香りの方が強いのかな。どっちにしろ、あまり好ましいとは、僕は思わないけれど」
初めて言われたことに、少しだけたじろぐ。毎日つけるものだから、香りなど気にしたことがなかった。
でも、確かにコーヒーは香りが良く、それを嗜む方も多いと聞く。まさか自分が、その香りを削いでいるとは思わなかった。
耳隠しの女性を見る。彼女は、白粉をつけていなかった。でも、艶やかできれいな肌をしている。白粉をつけた時のような真っ白い肌ではないが、内側から染み出るみずみずしさと、血色の良さがある。着物や仕草からすると、彼女もどこかの令嬢だとは思うが……白粉のない肌、巷で流行の耳隠し。普通の令嬢ではないのかもしれない。
「失礼、いたしました」
「そうだ、君。名前は?」
「千代です」
身なりと言動からして、彼も華族か成金だろう。伊角の名前はあえて伏せておいた。
「美しい名前だね。じゃあ、千代さん。今日はこれから用事があるかい?」
「……ここで働きますわ」
「よしきた!」
青年は目を見開き、鼻をぷっくりと膨らませた。目の前の女性に目配せしたあと「店長!この子を借りるよ!」と大きな声で叫ぶ。仕事がある、という千代の声は届かない。思わず2、3歩後ろに下がるも、気にも留めていない様子だった。女性は目を伏せたまま、残ったカフェ・オレを口に含んだ。その顔は、少し呆れたようにも見える。
女性が目線を上げる。ぱっちりと音がするくらい、視線が合った。彼女は両の口角を弓なりに上げて、目を細めてみせた。美しい、と思った。
令嬢の美しさというのは、白い肌と黒く長い髪だ。そうやって教育されてきたし、千代もそれに美しさを感じる。彼女はそれとは少し違う。でも、美しいと思った。
書生服の青年が、千代の左手首を掴む。
「さあ、行こう。店長の許可は取ったよ。僕はここの店長に貸しがあってね、少しの融通は利くのさ。大丈夫、心配しないで」
「あの、困ります。私、そろそろ婚約するので……男性と一緒にいるところを見られたら、どんな噂が立つか」
「大丈夫さ、なにも二人っきりじゃない。静子もいるじゃないか。それにね、僕も婚約が決まっている。だから、下手な真似はしないよ」
青年は目をいっぱいに細めて微笑んだ。平行二重の大きな目が、糸のように一直線になる。どこかで見覚えがあるような笑顔だ。その朗らかな笑顔は千代の警戒心をゆるゆるとほどいていく。ふぅ、と小さく息を吐き出した千代の肩を、静子と呼ばれた耳隠しの女性が優しく押した。
「大丈夫ですわ。茂さまを信じなさって。悪いようにはいたしません」
「あぁ、そうだ申し遅れた。すまないね。僕は茂。そして彼女は静子。僕のパートナーだよ。仕事上のね」
「私生活には一切関わりがありませんわ」
「そんなに言い切らなくてもいいじゃないか」
二人は顔を見合わせて笑って、千代を表に出そうと動き出す。茂は千代の左手を、静子は千代の両肩を。押したり引いたり動きながら、ついに外へと引っ張り出した。
頃合いを見たように、目の前に四輪自動車が停まる。
「これは……?」
「うちの車さ、さあ、これで行くよ」
「車になんて、乗ったこと」
「結構楽しいですわよ。さあ、乗って」
茂と静子の手によって、後部座席に放り込まれる。初めて乗った四輪自動車は、新しい革の匂いがした。
――何が、始まるのかしら。
怖かった。それと同時に、浮足立つような期待があった。あと1か月で千代の人生は一度終わる。そして、何も変化がない生活になるだろう。人生最後の、誰かからの贈り物かもしれない。千代は脈打つ心臓を押さえ、両肩で大きく息を吸い込んだ。
二人に連れられたどり着いたのは、駅近くのステーションホテルだった。
鉄道の発達に伴い出来上がったホテルで、開業して5年も経っていないはずだ。広々としたロビーに入ると、上に続く階段が見え、スーツに身を包んだ男性が恭しく近寄ってくる。
茂はその男性を左手一本で制して、千代をホテルの一室へと連れて行った。
初対面の男性と一緒に、ホテルに行くなどどうかしている。以前の千代であれば絶対にしない軽率な行動であったが、静子も一緒だという安心感と、二人のテンポのいい会話に興奮していたことが相まって、足取りが軽かった。このステーションホテルが千代の憧れであった、というのも理由の1つだ。
一室に入ると、太陽の光を目いっぱいに受け入れた広い窓が目に入る。その前には布張りの一人掛けソファが2つ、向かい合っていた。間には四角くシンプルな木製のテーブルがあり、その上には灰皿が置かれている。
ソファの横には化粧台が。こちらは褐色に染められて、取っ手部分には装飾を施している。一目で高級品と分かるもので、鏡は窓からの光を反射して白く光っていた。
目の前には、背の低い広々としたベッドが一つ。白いシーツがシワなくしっかりとつけられており、沢山の枕が積み重なっている。
茂は奥の一人掛けソファに座り「さあ、こちらにきてくれ」と千代と静子を呼びつけた。
静子に手を引かれ、恐る恐る足を踏み出す。ベッドの向かいには扉がもう一つあり、そちらはお風呂のようだった。水辺の清潔な匂いがする。
静子は化粧台の椅子を引き、千代に座るよう促す。そのまま茂の斜め後ろに立ち、千代と向き合う形になった。
「早速なんだが、白粉を取ってほしいんだ」
突然のことに、千代は動けなかった。先ほどまであった浮くような気持ちがしおしおと萎えていく。
初対面の男性の前で、素顔を晒すなど……令嬢の千代には抵抗心しか抱けない。
「見知らぬ男に素顔を晒せとおっしゃるのですか」
「君はまだ十代だろう、肌はきめ細かいはずだ。本当は白粉なんていらないくらいにね。でも、しているのには理由があるのだろう?」
茂は一瞬、静子の顔を見た。静子は茂と目線を合わせることなく、千代の方を真っ直ぐ見据えている。茂は自嘲的に笑いながら、千代にまた視線を戻した。
「君は令嬢としての教育を受けてきているんだ。お母さまの教えかな」
はい、と肯定した。
白粉を塗るのは、とても難しい。何度も何度も練習しなければいけない。手のひらで溶いた練り白粉は、瞬く間に乾いて、のんびりしていてはムラができてしまう。水で溶いたあと、素早く顔や襟にかけて塗り込んで、大きな刷毛で何度も撫でて落ち着けるのだ。そのあと、上から粉白粉をはたいて均一にする。
母は、千代が物心がついたころに、白粉の付け方を教えるようになった。令嬢は美しくなければいけない。華族としての振る舞いを、千代に教え込もうとしていたのだろう。今思えば、その頃の母はもう随分と体が弱っていたはずだ。自分の死期が近いことを悟っていたのだと思う。
「素敵なお母さまなんだね」
「ええ、とても。でも、もう亡くなってしまったわ」
「それは……失礼した。軽率だったね」
「気になさらないでください、もう随分前です。顔も、写真で見るしか思い出せません」
「写真を撮っていたんだね。それなら、君とよく似て美しかっただろう」
写真に収めるということは、美しい容姿ということと同義だった。美しいものを後世に残したくなる、というのは人間の性らしい。
女の価値は美しさ。肌が白く、髪が黒く、首が細く、長く。
美しくなければいけない。息苦しくあったが、疑問に思うことはなかった。令嬢は皆がそう思っていたし、美しくいることは当たり前で、それを怠ることの方がおかしかった。でも、一般に馴染むと、この容姿は目立つ。
「千代さん」と口を開いたのは静子だ。
「私を、醜いと思いますか?」と、千代を真っ直ぐ見つめたまま言った。色素の薄い茶色い瞳が、窓からの光を反射して光る。
予想外の質問に、息が詰まった。彼女は、確かに肌は白くない。それに髪も短く、結い上げるほどの長さもない。それでも――。千代は、ゆっくりと首を横に振る。
「そんなことないわ。あなたはとても美しい」
ありがとう、と静子は小さく頭を下げた。
「私も白粉を塗っているの。でも、あなたのような真っ白のものとは違う。肉の色を混ぜた、有色の白粉よ」
見て、と静子は、下げていた小さな手提げから丸い缶を取り出し、手のひらに乗せて差し出した。
花が描かれた丸い缶の蓋を開ける。ポン、と空気の抜ける音がした。そこには、薄桃色に色付いた白粉があった。千代が持っている真っ白で雪のようなものとは違う、肌の色に近い桃色だ。
「初めて見るかい?実はね、もう明治の終わりには発売されているんだよ。でも、まだ一般どころか令嬢にも広まっていない」
千代は、口早に話す茂の顔を見た。彼の表情は真剣そのもので、千代の顔を食い入るように見ている。
「時代の先駆者になってほしいんだ」と、茂は口にした。
時代の、先駆者――。
伊角家の洋館を思い出す。今はメンテナンスもできず、ところどころが錆びれて異様な音が鳴る、崩れる寸前の伊角家。あの家も以前は時代を先取りしたものだった。
新しいものは、いずれ古くなり朽ちる。伊角家の洋館もそうだ。古くなったものは見向きもされないどころか、嘲笑の対象になる。
――抗いたい。
千代はそう思った。もう一度、静子の顔を見る。白粉をつけているのかは、正直わからなかった。肌の色に近いからだろう。これは、色を変えるというよりも、肌の色を均一にする意図なのかもしれない。
「つけてみるわ」と、自然と声に出ていた。その声に自分でも驚いた。思わず顔を上げると、同じく驚いた静子と目が合う。ふ、と同時に口元が緩んだ。
よし!と叫んだのは、後ろで様子を見守っていた茂だ。
「ここの浴室を使いたまえ。男性に素肌を見せたくないのであれば、静子ならばよいだろう。僕も君の素肌を見たい気持ちはあるけれどね、これでも紳士だ。遠慮するよ」
あまりにも正直な申し出に、千代は思わず吹き出してしまった。口元を軽く押さえて咳払いで誤魔化すと、静子は大きな口を開けて笑った。白い歯と、真っ赤な舌が良く見える。こんなに大きな口で笑う人を、千代は初めて見た。それにつられて笑いがこみ上げて、涙があふれてきそうになった。なんて、愉快なんだろう。
静子と浴室に連れだって、顔だけ洗い白粉を落とす。
そのまま、化粧台の椅子を持ってきて、静子が千代に有色の白粉をつけた。
「どうかしら」静子の声を皮切りに、千代は鏡に向き直る。
鏡に映る自分を見た。真っ白な白粉とは違う、本来の肌の色に近い自分の姿だ。頬紅を塗らなくても、うっすらと血色の滲む頬。眉も自然に顔を出し、のっぺりとしていた顔に凹凸を感じる。
顔の影が濃くなった、というのが正しいだろうか。
千代はゆっくりと、喉の奥で言葉を丸めてから、丁寧に話し始めた。
「こっちの方が……そうね、ええ、そう。うまく言えるかわからないけれど」
口ごもる。言葉が上手く出てこなかった。この色は、自然色、と言うそうだ。その名の通り、そうだ、とても自然で――。
「私に、会えた気がするわ」
本来の自分のように見えた。元々ある美しさを引き出してくれるような。白色で隠すのではなく、内にある自分を肯定してくれるように感じた。
鏡越しに静子を見ると、彼女は真っ赤な唇を吊り上げ笑う。彼女の笑顔が伝播して、千代の唇も弓なりになる。目元は上限の月のように、口元は下限の月のように。目尻と口角を繋げばハアトの形になるような、色のついた笑顔だった。
「差し上げるわ」と、静子は言った。
「私の使い古しで悪いのだけれど。今度会った時は、新しいものを持ってくるわね」
「でも……」
「もらってくれないか」
浴室ドアから、いつの間にか茂が覗いていた。
「まあ、茂さん。レディの浴室を覗くものではありませんわ」
「君はとても美しい。期待以上だったよ」
茂は静子の忠告を無視して、浴室に足を踏み入れた。そのまま、千代の手を取り、袴を捌いてひざまずいた。ひとつひとつの動作が洗礼されて、コマ送りの映像に見える。
――彼も、とっても美しいわ
千代は顔が火照るのを感じた。
この白粉は、肌の火照りを隠せるのかしら。そう思った頃には、千代の心臓は飛び出しそうなくらいに暴れ出していた。
「うっかりしていると、恋に落ちてしまいそうだ」
茂はそのまま、手の甲に口付けを落とした。一瞬、千代の心臓が脈をとめる。すぐに死んでたまるかと、慌ててまた動きだした。千代は、茂の顔を見られなかった。男の人の手に触れたのは、家族以外では初めてだったからだ。
「……困りますわ」
「そうだね、僕にも婚約者になる人がいるというのに」
沈黙が流れる。このままだと、心臓の音が聞こえてしまいそうだ。少しだけ軽くなった肌と、少しだけ軽くなった心。そしてずっしりと抱えた重たい別の感情に、千代の心はせわしなく浮き沈みしている。
「店まで送ろう」
茂は千代の手を取ったまま立ち上がる。そのまま、エスコートするように部屋の扉まで連れて行った。
静子は、千代の手に有色の白粉を乗せる。
「多分、1週間くらいは持つと思うわ。少なくてごめんなさいね」
「次は、新しいものをプレゼントするよ。その時、また君は変わるんだ。君の美しさを、僕に貸してくれるかい?頼むよ」
「1か月、だけなら。婚約は1か月後なの」
千代は答える。茂は少し眉を下げて小さなため息をついた後、静子にロビーまで送るようにと言いつけた。茂は、期限を定めたことに返事をしなかった。
静子と並んで部屋を出る。重い扉が閉まる瞬間、茂が小さく口を開く。
「また、会いにいくよ」
わずかに耳に届いた後、パタンと小さく扉が鳴いた。
静子からもらった白粉は、家族を随分と驚かせた。
綾子は何か言いたげだったが、一度口を開いただけで、何も話そうとはしなかった。
コーヒーサロンの同僚たちは、皆ひそひそと言葉を濁した。「もう白粉は買えなくなったの?」と直接嫌味を言う人もいた。
唯一褒めてくれたのは、店長ともう一人。トキだった。いつもは「すぐいなくなるのだから」と邪険に扱うトキだったが、顔を見るなり「綺麗だよ」と満面に笑った。驚いて言葉を返せなかった。千代はそのことを、少しだけ後悔している。
あれから、一週間が経った。
有色白粉は、今日でもう空になってしまった。新しいものを買おうにも、どこに売っているのかすらわからない。それに、そもそも自由に使えるお金がなかった。
「また会いに行く」と言ったあの言葉は、嘘だったのか。それとも、期限を定めて嫌気がさしたのか――。
千代はどうしようもない不安に襲われていた。まだ、白色の白粉は残ってはいる。でも、褒めてくれたトキの笑顔が忘れられなかった。もしかしたら彼女も、千代の付けていた白粉の香りを良しとしていなかったのではないか。料理人として勤める彼女であれば、料理の香りが削がれることは嫌だろう。そう思ったからだ。
だからと言って、素肌を見せて出歩くことは怖い。令嬢にとっては、裸で歩くのも同義なのだ。もちろん、他の人はそんなこと考えもしないのだろうが。
しかし、そんな不安はすぐに打ち消された。茂が来店したからだ。今日は静子を連れていなかった。
茂はこの前とは違い書生服ではなく、スーツに蝶ネクタイをつけた西洋の服装をしていた。平均より随分と高い身長と、凛々しい顔立ち。頭は店長と同じくざんぎり頭ではあるが、浪人のようなだらしなさはない。彼には西洋の服がよく似合った。店内の視線を独り占めするくらいには。
「千代さん」と、彼は真っ先に口にした。ゆっくりと近付く。
「いらっしゃいませ。もういらっしゃらないかと思ったわ」
「すまないね、仕事が立て込んでいて」
彼は切れ長の目を糸のように細めて微笑んだ。ゆるゆるとまた警戒心がほどけていく。
「うん、やはりそちらの肌の方が美しい。君の本来の美しさが出ているよ。ところで」
そこまで言って、茂は辺りを見回し、ある一点で視線を止めて右手を上げた。視線の先にいるのは、店長だった。
「今日も千代さんを借りたいんだ。いいね」
「構わないよ」
ろくに考えもしなかったであろう店長の返事が、すぐに肯定で返ってくる。
「今日は君を、時代の最先端に連れて行くよ。レディ」
茂は微笑む。千代も釣られて微笑んだ。今日は、どんなことが待っているのかしら。そう思うと心が躍った。
抗いたい。この時代と、与えられた運命に。
茂に連れられてきた先は、理容館だった。
駅前に新しく建てられた、背の高いビルの1階にある洋風の入り口。そこを開けると、丸い革張りの椅子が何個も並び、前には大きな鏡がある。
そこにいるのは、沢山の女性、女性、女性……。
こんなに女性がひしめき合うのはめったに見ない。今流行りの束髪に結い上げている人、髪の長い耳隠し、ウェーブをかけた髪、断髪したおかっぱ。
肩をすくめて、一人一人の女性を見る。皆、静子のように色付いた笑顔で鏡を見ている。
「驚いただろう。まだ、街中には少ないけれどね、断髪している女性は意外にも多いのさ」
「こんなに……。令嬢の頃なら、見ることのできない光景ですわ」
「君は、今も令嬢じゃないか」
茂と顔を見合わせて笑う。どうしてこの人は、笑うとこんなにも愛らしいんだろう。精悍な顔立ちと笑った顔の振れ幅に、胸の音が大きくなる。
奥から一人の女性が顔を出した。静子だ。
「千代さん、いらっしゃい」
着物の上から割烹着を着た静子が、ゆったりとこちらへ歩いてくる。
「静子さん、もしかして、ここで働いていらっしゃるの?」
「そうよ。この前、美髪学校ができたでしょう。私はそこの卒業生なの。髪だけじゃなくて、お化粧や顔そりなんかもできるわよ」
自慢げに笑う静子は、いたずらな子供のように可愛らしい。少しばかり、今よりもっと幼かった頃の義弟を思い出した。
「驚いたわ。どこかのご令嬢かと思っていたの」
「まあ。あなただって令嬢でも働いているじゃない。今は女性も働く時代よ」
なんてことのない、といった静子の様子を見てみると、自分の方がおかしくなったかのように感じられる。女性も働く時代。確かに、職業婦人という言葉ができて、女は飾り物だけではなくなった。
静子のように、髪結いとして働く女性や、千代のようにコーヒーサロンで働く女性も増えたのだ。
でも、家で美しく雛のようであれと言われた千代にとって、働くことが当たり前というのは、違和感がある。今でも、働いている自分が恥ずかしくなる時があるのだ。現に、同僚からは「令嬢のくせに」とからかわれているのだから。
「千代さん、今日は髪を切りませんか?」
「髪を!?」
静子の言葉に、思わず声が裏返る。予想以上の大きな声に、両手で口元を素早く抑えた。髪を、切る?束髪ではなく?
周りの女性を一周見回す。確かに、数人は断髪している女性もいる。でも、まだ大半は髪が長い。
日本髪は少なくなってきているが、髪を肩より上に切る人の方がもっと少ない。
口に手を当てたまま、息もできずにいる千代を見て、茂が後ろから背中を支えた。
「男性の断髪は、明治時代にはもう済んでいる。今は侍のように月代にしている人の方が少ないだろう。女性はずっと日本髪で過ごしてきたね。もちろんそれも美しいさ。でもね、もっと自由になってもいいんじゃないかと、僕は思うんだよ」
頭の上から、茂の声がする。静子はホテルの一室で見たように、真っ直ぐに千代を見つめていた。
「でも、髪を……」
「すまない、唐突過ぎたね。では先に、服を見に行こうか。静子、またあとでくるよ」
わかったわ、と静子は微笑む。残念そうに眉を下げた彼女を見ると、少しだけ心が痛んだ。でも、髪だ。髪は女の命であると、母は何度も口にしていた。でもそれも、もう十年以上前の話だ。
茂は千代の腰を引き寄せ、反転して店を出ようとした。
「先に、君に似合う洋服を見に行かないかい。それを見て、もしも断髪したくなったらここにこよう」
「お洋服、ですか?でも私、お金が」
「構わないよ。僕のわがままに付き合ってもらっているからね。これくらいは買わせてほしい」
茂は千代の腰に手を添えたまま歩き出す。てっきり車に乗るのかと思っていたが、そのまま歩き出した。
千代の小さな歩幅に合わせるように、茂はゆっくりと足を進める。
――いけないわ。
と千代は思った。男の人と肩を並べて、腰に手を添えられて歩く。以前のような、女性は男性の後ろを歩け、なんてことは少なくなってきてはいるが、ここまで外で密着することは少ない。
それに、茂の容姿は目立つのだ。背が高いのももちろんだけれど、なによりその美しさが。書生服だった時も美しい人だと思っていたが、西洋の服だと華やかさがさらに極まる。遠くから見ても目立つのだろう。老若男女問わず近付く度に茂を見上げ、その後千代を盗み見る。
千代は自分の着ている服を見た。縞模様の着物に西洋のエプロンをつけたまま。周りからはどんな風に見られているんだろう。途端に恥ずかしくなる。絶対に、顔が赤いはずだ。見なくてもわかる。
「下を向かないで。千代さん、君は美しい」
「そんなことないわ。今、とても恥ずかしいの。すぐに着替えたいくらいだわ」
「そうかい、それは丁度良かった」
茂は足を止める。目の前には誰もが知るような呉服店があった。まだ伊角家が資産家として十分な地位にいたころは、何度か使用したことがある。
「茂さん、いけないわ。こんなところ」
「君に着てほしいものがあるんだよ。もうお金は払ってしまってね。着てもらわないと困るよ」
茂は千代の腰に手を回したまま、呉服店に足を踏み入れる。
ドアボーイによって扉をあけられ、店内を見回すと、一目で高級とわかる洋服が並んでいた。千代は咄嗟に顔を下げる。白いエプロンが目に入って、顔がますます火照ってくるのがわかった。
茂はその様子を見てか、先ほどより早い歩幅で足を進める。
とある場所で足を止め、茂はやっと千代から手を離した。
顔を上げると、彼は何やら店員と話している。千代さん、と話しかけられ一歩前へ出る。
店員が千代に差し出したのは、金糸雀色の洋服だった。男性シャツにスカートがついたワンピース型の洋服だ。
「こちらはボタンを開けて、上からかぶっていただくようになっております。袖はパフスリーブになっており、ふんわりとした印象になりますよ。スカートは生地を贅沢に使っておりますので、歩く度に風を受けて女性らしい可憐な陰影になるかと思います」
男性の店員は、マニュアル通りに読み上げたような固い説明を千代にした。パフスリーブ、というのはその盛り上がったようにできている型の部分を言うのだろうか。以前絵本で見た西洋のお姫様のドレスを小ぶりにしたような作りだ。
「本当は、幾何学模様も似合うと思ったのだけれどね。君はいつも私服は着物のようだから、なるべくシンプルな物を選んでみたよ」
千代はワンピースを手に取った。着物の生地とは違う、薄くて滑らかな生地。着物のようなぱっきりとした糊付けはされていない、柔らかく体と風によって姿を変えるワンピース。
「かわいい……」
ふ、と笑う声が聞こえる。見上げると、茂の優しい表情が見えた。精悍な顔立ちは笑うと小動物のようになる。思わず微笑み返すと、ほんの少し、茂の顔が桜色に染まったような気がした。
拳を口元にあて、咳払いをしてから茂は話始める。
「靴はこの、白いヒールのついたものを購入したよ。少し踵に高さがあるけれど、足首の前に留め具があるから歩きやすいと聞いてね。女性の履物は履いたことがないから、聞き伝えで選んで申し訳ない」
「いえ、嬉しいですわ。茂さんが選んでくださったものだもの」
店員が千代と茂を交互に見た後、ワンピースを千代の手から受け取る。こちらへ、と右手を差し出し奥へと促した。茂を見上げる。優しく頷く彼を見て、心臓が一拍、跳ねた。
「君の洋装は楽しみだな」
「あまり期待しないでくださいませ」
目を伏せて、店員の後を着いていく。洋装に袖を通すのは初めてだわ。千代は心を躍らせ更衣室へと向かった。
女性店員が先に準備を整えてくれていた、個室に足を踏み入れる。
白いエプロンと縞模様の着物を脱いだ。かけられていたワンピースを取り、ボタンを外す。
スカートの下から頭を差し入れ、重力に沿って金糸雀色が落ちる。すとん、と肩の上で止まったそれは、少し冷たく柔らかかった。
袖を通し、ボタンを閉める。着物では感じない脛とふくらはぎの冷たさ。すぅすぅと風が舞い込むようで、少し、恥ずかしかった。
個室を開ける。出されていた白いハイヒールに足を入れる。足首にある留め具をぱちんと留めて、一歩足を踏み出す。コツン、と床の音がした。
店内のソファで待っていた茂と目が合う。一瞬驚いたように眼を丸めた彼は、すぐに目を一直線に細めて笑った。
近付き、両手をとる。指先がジンジンと熱くなった。
「どうかしら」
「とても似合っているよ。想像以上だ。美しい」
茂は千代の右手を取って高く掲げた。二人の腕でできた歪なアーチ。茂は千代の腕を優しく押して、そのアーチを潜らせる。一周、くるりと回った。
「後ろ姿も可憐で素敵さ。鏡は見た?」
「いいえ、まだなの。なんだか膝がスース―して恥ずかしいわ」
「僕が一番最初に見られたんだね。僕はラッキーボーイだ」
茂は千代の手を引いて鏡の前へと連れて行った。
金糸雀色のワンピース。シャツをモチーフにしたワンピースは、着物よりも体に沿ってより女性らしいと思った。動く度に、スカートの裾がふわりと揺れる。空気の抵抗に少しだけ逆らう軽い生地は、着物の時より心も軽くしてくれるようだった。
「着物姿も艶やかだけれど、洋装になると可憐になるね。千代、美しいよ」
呼び捨てで呼ばれたことに、千代はすぐに気付いてしまった。今度は耳まで赤くなる。茂の言動ひとつひとつが、千代の心臓を跳ね上げ心を薄桃色に染めていく。静子の最初に着ていた着物を思い出し、少し心が痛んだ。
「新しい私になったみたいだわ」
千代は言った。ワンピースを着た自分もそうだが、茂と一緒にいるときの、踊るような気持ちがむずがゆかった。どうしてこうも、彼は千代の心を揺るがすんだろう。グラスの中の積み重なった氷が溶けて、カランと音を鳴らすような、心もとなく、熱く、不安な気持ち。でも、そのグラスの下にある溶けた水を、飲み干してしまいたいような。複雑で言語化できない熱を持った気持ちが、千代の心を揺さぶっていく。
「どうだい、千代。この服はとても美しいだろう」
ええ、と頷く千代の髪に、茂は優しく触れた。簪を引き抜き、結っていた髪がほどける。
腰のあたりまで伸びた、黒く艶やかな長い髪。令嬢の誇りとして、毎日手入れをした黒い髪。
茂は千代の髪を後ろから掬う。丸めるように髪を持ち上げ、肩の上で手をとめた。
そこには、あの美容室で見かけたような、新しい時代の女性がいた。
膝下のフレアなワンピース、白いヒールの靴、肩上までの短い髪。新しく、美しく、清い。実に時代を先取った女性だ。
「似合うと思わないかい」
「自分で言うのは恥ずかしいわ」
「いいんだよ。自信を持って」
千代は鏡越しに茂を見る。やはり、胸の高鳴りは抑えられない。低い声がささやく度、切れ長の目が線になる度、大きくなる脈拍が、中心で体をもてあそんでいた。
「とても、素敵、だと思うわ」
茂は笑った。千代もつられて頬を弛めた。髪が熱い。首筋が熱い。髪のあげられたうなじから、湯気が出るのではないかと思った。
「髪を切るわ」
無意識に出た言葉は、千代も驚くセリフだった。それでも“それが正しい”と思ったのだ。
茂は少し目を見開いた後、愁眉を開き顔をほころばせた。美しい、と思った。
「ありがとう。千代。僕はね、君に時代を作ってほしいんだよ」
「私にできるかわからないわ。でも、やってみたい」
「それがいい。じゃあ、髪を切るのは明日にしよう。静子には伝えておくよ。そして、その時に話したい事があるんだ」
茂はほころばせた顔を引き締め、千代の目をまっすぐに見た。茂の光彩は少し茶色く、室内の光を反射している。美しい、その茶色い瞳に心を吸い込まれながら、千代はゆっくりと頷いた。
婚約まで、あと1週間を切っていた。
翌日。その日はサロンでの仕事は休みだった。けれど、千代は家族に仕事へ行くと嘘をついた。
婚約前に、男性と二人でいるところを見られたら、どんなことを言われるか――この婚約が破談になれば、伊角家はもう終わりなのだ。
軽率な行動をしているのは分かっている。でも、もうあと数日しかない自由な時間で抗いたいと思っていた。茂への不思議な気持ちを、抑えることはできなかった。
いつもはゆったりと進める足取りが軽い。跳ねるように足を上げ、両足が地面から離れてしまいそうだった。
有色の白粉も塗った。髪は上半分だけをまとめ上げ、後ろで三つ編みをして結い上げた。それに、少し大きめの風呂敷に、買ってもらった金糸雀色のワンピースと白いハイヒールをいれている。本当は家から着ていきたかったけれど、両親に知られると後々面倒になるからそこは我慢だ。
今日待ち合せているのは、昨日会った静子の勤める理容館だった。小走りでたどり着くと、店の前にはもう見慣れた四輪自動車が停まっていた。自動車のボディに体を預け、青空を見上げた茂がいる。
「茂さん」
「千代、おはよう。ワンピースは着てこなかったのかい?もちろん着物も素敵だけれど」
「すみません。両親にとやかく言われるかと思って」
なるほど、と茂は頷き、微笑んだ。また胸が一拍、大きく鳴る。思わず頬に手を添えて、こちらも頬を綻ばせた。
さあ行こうか、と茂は昨日と同じく腰に手を添え、千代の足取りを誘導してくれた。添えられた手が、熱い。
理容館のドアの前では、もう静子が待っていた。茂が手をかけるよりも早く、勢いよく開けられたガラス扉は、少しだけ風の音がした。
「いらっしゃいませ、千代さん」
「静子さん、昨日はごめんなさいね」
「いいのよ。茂さんから聞いたわ。断髪されるって」
千代は頷いた。静子の顔が途端に明るくなる。頬が桃色に染まり、可愛らしいと思った。
最初、静子を見た時は、とても美しい人だと思った。でも今は、可憐で少女のようだと思っている。
「でも、千代さんのご両親はいいのかしら」
「いいのよ」
相談はしていなかった。相談する気もなかった。あの時、父が千代を守るそぶりをしながら、本当はもう決断していたことが腹立たしかった。父を初めて憎いと思った。
伊角家の為に結婚するのだ。これくらいの最後の反抗は、いいじゃないか。
「さあ、では早速断髪式といこうか」
「相撲取りみたいでいやだわ。もう少しおしゃれに言ってくださる?」
茂と静子の掛け合いが楽しい。千代も釣られて笑い出す。このまま、この日々が続けばいいのにと思った。静子に促され鏡の前に置かれた椅子に座り、首にケープをかけられる。髪を降ろして、櫛で何度も梳かされる。
髪を毛先でひとまとめにされ、静子がハサミを取り出した。
「千代さん、いいかしら」
「ええ、でも、私に切らせてくださる?最初の一回だけでいいの」
静子は驚く様子で千代を見た。まん丸い目がもっと丸くなり、小さめの黒目がはっきりと見えた。そのあと、こっくりと頷く。銀色のハサミが手渡され、千代はゆっくり髪へと腕を伸ばした。
ハサミの間に髪が挟まる感覚。
――千代、変わるのよ
母の声が聞こえた気がした。ゆっくりと指を近づける。しゃり、という音とともに、はらりと髪が落ちた。涙が出るかと思ったけれど、せいせいした。うざったかったのだ。この長い髪が。
そのあとは、静子の手によって整えられる。しゃり、しゃりという髪の千切れる音が、千代の体をもっともっと軽くしてくれるようだった。
鏡越しに茂を見る。入口付近で壁によしかかり、こちらを見ている彼はなんだか嬉しそうだ。目が合う。微笑む。また、胸が鳴る。
――いけないわ。
と千代は思う。でも、もうそれでもいいかと思った。どうせあともう少ししたら、茂とも会わなくなる。そうしたら、私は立花家に嫁に行き、父より年上の旦那様の元で、子供を作り子育てをする。それが、私の運命なのだ。
「できたわ」と、静子が声をかけた。鏡を見ると、そこには肩より上に切りそろえたおかっぱヘアーの千代がいた。毛先をカールして女性らしさが上乗せされている。少し、顔が小さくなっただろうか。目の錯覚なのだけれど。
「素晴らしい」と、茂は子供のように駆け寄ってきた。鏡越しに目が合う。切れ長の目が細くなる。静子は一旦席を外して、預けていた風呂敷を持ってきた。
「後ろの控室を使っていいわ。早く着替えて頂戴」
ええ、と返事をしてから風呂敷を受け取り、案内された通り従業員用の扉へ進む。
――そういえば、今日はお客様がいないのね
千代は店の異変に気付いた。昨日来た時は、ところかしこにたくさんの女性が座っていて、従業員も大勢いた。でも、今日は一人もいない。
千代はひとまず着替えることにして、控室へと進んでいった。
金糸雀色のワンピースに袖を通して、白いハイヒールの靴に足をおさめる。
鏡の前で一周くるりと回ってみた。以前とは違う。髪を切った新しい自分。
心が躍る。自分で言うのは恥ずべきことだが、美しいと思った。
鏡に映るのは可憐な少女。少し、幼くなった気はするけれど、年相応のような気もする。
動く度に揺れるフレア。影がゆらめき、気分も華やかになってくる。
コツン、とヒールと床で音を鳴らして、来た道を引き返す。
――どんな反応をするのか、楽しみだわ
千代は胸を躍らせながら扉を開けた。
目に入ったのは、今か今かと待ちわびていた茂と静子だ。
思わず、ふ、と吹き出した千代に、2人は満足そうに笑った。
「美しいよ、千代」
「ええ、本当に綺麗だわ。ちょっと待って」
静子は小走りでどこかに行ったと思ったら、すぐに戻ってきた。そして、きんちゃく袋から棒状のものを取り出した。蓋を開けると、中は真っ赤だった。
「静子さん、それは?」
「紅よ。今はね、こういう棒状になった紅が発売され始めたの」
「初めて見るわ」
静子は少し笑って、赤い棒を唇に近付ける。それを茂が横からかすめ取った。
「それは、僕がつけたいな」
静子と千代は目配せをする。静子は紅を茂に手渡す。茂が、目の前に跪いた。
指先が顎に触れる。少し顎があげられ、色素が薄めの茶色い瞳と目が合った。微笑む。紅が唇に触れられ、上、下と優しく撫でる。
できたよ、と茂は言った。静子は小さなため息と一緒に、うっとりと微笑んだ。
「これで立派な、モダン・ガールだ」
頬が赤い。火照る。茂の顔が近かった。鏡を見る。金糸雀色のワンピース、白いハイヒール、おかっぱの髪、赤い紅。昨日までの千代とは違う。生まれ変わったような気分だった。
「モダン・ガール……」
「どうして君にこうなってほしかったのか、僕の話を聞いてくれるかい?」
ええ、と千代は頷く。静子は茂と目を合わせた後、控室へと去っていった。理容館には茂と千代の二人だけがいる。
「僕はね、これからの時代は女性が引っ張っていくべきだと思っているんだよ」
茂は話始める。
「僕は成金でね。でもそれも、今は輸出業が盛んだから成り立っているだけで、いつかは必ず廃れると思うんだ。そんな時に目に付いたのが、女性さ」
「女性、ですか」
「そう、女性だよ。これからは、女性が輝く時代さ。だから、化粧も、ファッションも、髪型も、もっと自由に、美しくなるべきだと思っている」
「それで、どうして私に、こんなことを?」
千代は尋ねた。時代の最先端に連れて行く、と言われた。その上衣装や化粧、髪型までも変えられて、それも全て茂のお金だ。見ず知らずの女性にここまでする意味が分からなかった。他にも女性は沢山いるのに。
「君には、広告塔になってほしいんだ。僕には君のような美しい女性が必要なんだ」
「そんな、私はそんなに、美しくなんかありませんわ」
「いいや、君は美しい。もちろん、外見だけじゃない。中身の美しさも。凛として、強く、華やかで。美しさで勝負できるのは女性の特権だよ」
あなただって美しいのに、と千代は思った。
茂の顔を見ると、胸がどうしようもなくうるさくなる。時には自分の声をかき消すくらいに。
「でも、私、もう婚約が近いのですよ」
泣きたくなった。結婚。それは自由とは正反対の言葉だ。常に家の名字を背負い、誰かの妻として行動を監視される。それに、立花家はここ一体で名前は知らない人はいないほどの大富豪だ。そんな自分が、広告塔になんかなれるはずがない。
「問題ないよ」茂は答えた。「――僕の実家は、立花造船だからね」
ひゅう、と息を吸い込む音がした。立花造船。千代の嫁ぐ場所だ。
「じゃあ、もしかしてあなたは――」
立花造船の子息だ。義母の綾子の声が頭の中で反芻する。「長男は行方不明、次男は引きこもり――」
情報とは違っているが、立花で成金と言えばそこしかない。
最初から、知っていたという事か。私が立花家に嫁に行くことを。
「全部、知っていたのですね」
「すまない、でも――」
「聞きたくありませんわ」
千代は立ち上がり走り出した。宙を浮くようだった足は、地下に潜りそうなくらい重かった。金糸雀色のワンピースが軽い。なんて動きやすいのかしら。これも茂から与えられたものだというのに。
令嬢が、泣いてはいけない。こんなところで泣いてはいけない。
母の言葉を頭に思い浮かべる。泣いてはいけない。泣いては、いけない。
いつの間にかたどり着いた先は、千代の勤めるコーヒーサロンだった。
もう閉店時間は過ぎて、お客さんは誰もいない。奥に小さな明かりが見える。ドアを開ける。まだ施錠はされていなかった。
ドアの先についた鐘が、心地よい音を鳴らした。
「すみません、もう閉店で――あれ、千代ちゃん?」
そこにいたのは、店長だった。スーツに蝶ネクタイとサスペンダーをつけた、散切り頭の気のいい男。
驚いた顔をした店長は、千代を見るなりすぐに笑った。切れ長の目が一直線に細くなる。その笑顔が一瞬茂と重なって、涙が溢れそうになった。
「千代ちゃん、髪の毛切ったんだね、とってもかわいいよ」
「……すみません」
「どうして謝るの?よく似合っているのに」
店長はカウンターの椅子をひいて、千代に座るように促した。
小動物のような優しい笑顔に引き寄せられるみたいに、千代は一歩、また一歩と足を進めて椅子に座る。
ちょっとまってて、と言った店長は、すぐにコーヒーを入れ始めた。
「なにかあったのかな」
「いえ……」
「結婚相手の事?」
図星だった。千代は答えられなかった。そんな千代の表情を察してか、店長はコーヒーを差し出し、目線を合わせてニッコリと微笑んだ。
「恋をしていたのかと思っていたけれど」
――恋。
「わかりませんわ。恋なんてしたことないもの」
「その人を見て、ドキドキしたり心が温かくなったりするのが、恋だよ」
「そう、それなら、私は――」
真っ先に思い出したのは、茂との時間だった。初めて連れられたステーションホテル。有色の白粉、金糸雀色のワンピース。美しい、と囁く低い声。美しいまなざしと、笑うと一直線になる目元。
途端に胸が大きく脈打つ。締め付ける心臓がぎゅうと痛んで、思わず左手を胸に添えた。いけない、と思っていた。ずっと。だからこそ――。
――恋を、していたんだわ。
言葉に詰まる。こんなとき、どうやって言ったらいいかわからなかった。千代はもう少しで婚約する。茂の父親と。結婚したら、同じ屋根の下、毎日を過ごさなければいけない。耐え難い現実だった。もう会わないでいられるのなら、忘れられることもできたかもしれない。でも、そうじゃない。好きな人と毎日同じ家で暮らして、それでも決して結ばれないということは、どんな生き地獄だろう。
「話してみてもいいんじゃないかな」
「いけませんわ。私には、婚約する方がいらっしゃるのに」
ふ、と店長が笑いを零した。千代と目を合わせて、いたずらに目配せする。
「僕はね、人を見る目はある方なんだよ。だから大丈夫。茂はそんなに、器の小さな男じゃないさ」
「……どうして、知っていらっしゃるの?」
「茂は、僕の――」
サロン入り口のドアベルが鳴る。軽快な音に振り向いた先には、茂がいた。
「千代、やっぱりここにいたんだね」
「茂さん……」
「兄さん、ちょっと席を外してくれないか。話があるんだ」
「……兄さん?」
わかったよ、と返事をしたのは店長だった。
「茂は僕の弟だよ。黙っていてごめんね」
店長は切れ長の目でウインクしてから、奥の控室へと下がっていった。
弟……?店長の顔と、茂の顔を交互に思い浮かべる。精悍な顔立ち、笑うと一直線になる目元……。そうか、最初に茂を見た時に、どこか見覚えがあったのは、彼と店長が似ていたからか。情報が完結するや否や、千代、と茂の呼ぶ声がする。一歩踏み出し近付いた。千代は椅子から立ち上がる。茂の顔は、見られなかった。
「黙っていてすまない。騙すつもりじゃなかったんだ。ただ、婚約する前に……どんな人か、知りたくて」
うつむいた頭の方から、茂の低い声がする。少し震えているような気がした。
「最初から、言ってくれないなんてひどいですわ。私――」
「君となら……千代となら、うまくいくと思ったんだ」
それは、義母と息子として?声に出そうとしても、喉の奥がキュウ、と収縮して、掠れた息しかでなかった。この人のことを、今更息子だなんて思えない。どうしても好きでいてしまう。それなのに、この人はずっと、義母になるのがどんな人かと見極めていたのだ。腰に手を回し、美しいとその唇でつぶやいたときも。
涙があふれてきそうだった。令嬢が、泣いてはいけない。下唇をかみしめる。大きく息をついたあと、喉を無理やりこじ開けて絞り出した。
「でも、私はあなたのお父様と結婚するのよ」
沈黙。恐る恐る顔を上げ、茂の顔を見た。まん丸に開かれた茶色い瞳。少しだけ開いた口。声もでないのだろうか。表情は驚きそのものだった。遠くから、店長の笑い声が聞こえる。
「何を……言っているんだい?」
「そうやって言われましたわ。立花造船の旦那様と婚約すると」
そう、立花造船の旦那様、と言えば茂の父親だった。父より年上だと言っても、まだ隠居するには若すぎる。社長の座を退くにはまだ数年あるはずだ。それに、長男は行方不明、次男は引きこもりと言っていたじゃないか。長男の噂の謎は解けた。店長はこのコーヒーサロンで寝泊まりしていることがほとんどだからだ。家に寄り付かないから、行方不明と言われていても納得できる。
でも、次男の茂の方はどうだ。引きこもり……その噂が本当なら、何を、していたのだ。
「立花造船の社長は、僕だよ」
「……え?」
控室に繋がるドアから、店長が文字通りお腹を抱えながら再び現れる。目尻には涙を浮かべ、頬は真っ赤になっていた。
「何を笑っておられるのですか?それに、兄弟って」
「あはは、すまないね、千代ちゃん。いや、でもそうか。君は華族のご令嬢だものね」
「よく……わからないですわ」
千代は、困り果てた茂と笑いが止まらない店長を交互に見た。情報が多すぎて完結しない。社長が、茂……?そして引きこもりはどういうこと?
「華族は、家督を継ぐのに厳しい決まりがあるかもしれないが、成金は華族じゃない。だから、いつ誰が社長になってもいいのさ。立花造船はもうとっくに、茂が社長になっているよ」
「でも、噂では次男は引きこもりって……」
「僕が社長を継いだのはつい最近のことさ。それまでは、留学していたんだよ。姿を見かけないから、そういう噂がたったのかもしれないね」
「そうでしたの……」
留学は、国の命令でなければ自腹で行かなければいけない。破格のお金がかかるだろうが、確かに、立花造船のような大成金であれば、それも不可能ではないのかもしれない。
「もしかして、千代は父の元に嫁ぐと思っていたのかい?」
頷く。まだ、納得できない部分は多い。華族は家督を継ぐには厳しい条件がある。基本的に、当主が死亡する場合や戸籍を失った場合でなければ相続はできない。当主が隠居する方法もあるが、隠居するには年齢制限があるのだ。だから、立花家の当主と言えば当然、旦那様であると疑わなかった。それを急に、茂が社長だと言われても……。
「父は母を今でも愛しているからね。後妻をとるなんてことはしない」
「本当に……?」
「本当だとも、僕が保証するよ」笑いながらそう言ったのは店長だ。
「伊角家に弟との婚約を持ちかけたのは僕だからね。確かに、社長との婚約とは言ったけれど……まさか、そんな勘違いをしていたとは」
店長は指先で目尻を撫でながら答える。
「千代。僕は心配だったんだ。いくら兄さんの勧めだからといって、顔も知らない女性と婚約するなんて怖かった。だから……静子に協力してもらって、君に声をかけたんだ」
「静子さんは、本当に仕事上のパートナーなの?」
「すまない。それも嘘だ。静子は兄さんの婚約者だよ」
思わず店長の顔を見る。いたずらに、子供のように笑った彼は、随分と楽しそうだ。店長に婚約者がいたなんて……サロンの経営が成り立たないわ。と一瞬よぎった。でも、それならば……
「茂さんも、静子さんも、私が伊角家の長女だと知っていたの?」
「そうさ。最初はサロンで真っ白い顔をしていたから驚いたよ。もうそんな白粉をしている人は深窓の令嬢くらいさ。でも、君は美しかった」
茂は千代の手を取る。指先が触れ合い、触れたところがしびれてくる。じんじんと霜焼けになった指先のように。痛い。それでも温かかった。
千代、と茂は言う。目の端が少しうるんでいるようだ。千代は茂の琥珀色の瞳を見つめた。その目にはモダン・ガールが映っている。金糸雀色のワンピース、おかっぱ頭に、真っ赤な唇。
「僕と、結婚してくれるかい」
じんわりと茂の姿が滲んでいった。とんだ取り越し苦労だったけれど、皆の勘違いだったけれど。幸せになれるんだわ。
断る理由はないわ、と千代は微笑む。目尻から小さな雫がこぼれた。令嬢は泣いてはいけない。でも、今だけはどうか許して。
――お母さま
呼びかける。私、幸せになるわ。
千代は時代を先走る。これからの未来は、必ず明るいものになるはずだ。
ふわりとスカートの裾が揺れる。令嬢の名を捨てる千代は、新たな時代へと踏み出した。