茂に連れられてきた先は、理容館だった。
 駅前に新しく建てられた、背の高いビルの1階にある洋風の入り口。そこを開けると、丸い革張りの椅子が何個も並び、前には大きな鏡がある。
 そこにいるのは、沢山の女性、女性、女性……。
 こんなに女性がひしめき合うのはめったに見ない。今流行りの束髪に結い上げている人、髪の長い耳隠し、ウェーブをかけた髪、断髪したおかっぱ。
 肩をすくめて、一人一人の女性を見る。皆、静子のように色付いた笑顔で鏡を見ている。

「驚いただろう。まだ、街中には少ないけれどね、断髪している女性は意外にも多いのさ」
「こんなに……。令嬢の頃なら、見ることのできない光景ですわ」
「君は、今も令嬢じゃないか」

 茂と顔を見合わせて笑う。どうしてこの人は、笑うとこんなにも愛らしいんだろう。精悍な顔立ちと笑った顔の振れ幅に、胸の音が大きくなる。
 奥から一人の女性が顔を出した。静子だ。

「千代さん、いらっしゃい」

 着物の上から割烹着を着た静子が、ゆったりとこちらへ歩いてくる。

「静子さん、もしかして、ここで働いていらっしゃるの?」
「そうよ。この前、美髪学校ができたでしょう。私はそこの卒業生なの。髪だけじゃなくて、お化粧や顔そりなんかもできるわよ」

 自慢げに笑う静子は、いたずらな子供のように可愛らしい。少しばかり、今よりもっと幼かった頃の義弟を思い出した。

「驚いたわ。どこかのご令嬢かと思っていたの」
「まあ。あなただって令嬢でも働いているじゃない。今は女性も働く時代よ」

 なんてことのない、といった静子の様子を見てみると、自分の方がおかしくなったかのように感じられる。女性も働く時代。確かに、職業婦人という言葉ができて、女は飾り物だけではなくなった。
 静子のように、髪結いとして働く女性や、千代のようにコーヒーサロンで働く女性も増えたのだ。
 でも、家で美しく雛のようであれと言われた千代にとって、働くことが当たり前というのは、違和感がある。今でも、働いている自分が恥ずかしくなる時があるのだ。現に、同僚からは「令嬢のくせに」とからかわれているのだから。

「千代さん、今日は髪を切りませんか?」
「髪を!?」

 静子の言葉に、思わず声が裏返る。予想以上の大きな声に、両手で口元を素早く抑えた。髪を、切る?束髪ではなく?
 周りの女性を一周見回す。確かに、数人は断髪している女性もいる。でも、まだ大半は髪が長い。
 日本髪は少なくなってきているが、髪を肩より上に切る人の方がもっと少ない。
 口に手を当てたまま、息もできずにいる千代を見て、茂が後ろから背中を支えた。

「男性の断髪は、明治時代にはもう済んでいる。今は侍のように月代にしている人の方が少ないだろう。女性はずっと日本髪で過ごしてきたね。もちろんそれも美しいさ。でもね、もっと自由になってもいいんじゃないかと、僕は思うんだよ」

 頭の上から、茂の声がする。静子はホテルの一室で見たように、真っ直ぐに千代を見つめていた。

「でも、髪を……」
「すまない、唐突過ぎたね。では先に、服を見に行こうか。静子、またあとでくるよ」

 わかったわ、と静子は微笑む。残念そうに眉を下げた彼女を見ると、少しだけ心が痛んだ。でも、髪だ。髪は女の命であると、母は何度も口にしていた。でもそれも、もう十年以上前の話だ。
 茂は千代の腰を引き寄せ、反転して店を出ようとした。

「先に、君に似合う洋服を見に行かないかい。それを見て、もしも断髪したくなったらここにこよう」
「お洋服、ですか?でも私、お金が」
「構わないよ。僕のわがままに付き合ってもらっているからね。これくらいは買わせてほしい」

 茂は千代の腰に手を添えたまま歩き出す。てっきり車に乗るのかと思っていたが、そのまま歩き出した。
 千代の小さな歩幅に合わせるように、茂はゆっくりと足を進める。
――いけないわ。
 と千代は思った。男の人と肩を並べて、腰に手を添えられて歩く。以前のような、女性は男性の後ろを歩け、なんてことは少なくなってきてはいるが、ここまで外で密着することは少ない。
 それに、茂の容姿は目立つのだ。背が高いのももちろんだけれど、なによりその美しさが。書生服だった時も美しい人だと思っていたが、西洋の服だと華やかさがさらに極まる。遠くから見ても目立つのだろう。老若男女問わず近付く度に茂を見上げ、その後千代を盗み見る。
 千代は自分の着ている服を見た。縞模様の着物に西洋のエプロンをつけたまま。周りからはどんな風に見られているんだろう。途端に恥ずかしくなる。絶対に、顔が赤いはずだ。見なくてもわかる。

「下を向かないで。千代さん、君は美しい」
「そんなことないわ。今、とても恥ずかしいの。すぐに着替えたいくらいだわ」
「そうかい、それは丁度良かった」

 茂は足を止める。目の前には誰もが知るような呉服店があった。まだ伊角家が資産家として十分な地位にいたころは、何度か使用したことがある。

「茂さん、いけないわ。こんなところ」
「君に着てほしいものがあるんだよ。もうお金は払ってしまってね。着てもらわないと困るよ」

 茂は千代の腰に手を回したまま、呉服店に足を踏み入れる。
 ドアボーイによって扉をあけられ、店内を見回すと、一目で高級とわかる洋服が並んでいた。千代は咄嗟に顔を下げる。白いエプロンが目に入って、顔がますます火照ってくるのがわかった。
 茂はその様子を見てか、先ほどより早い歩幅で足を進める。
 とある場所で足を止め、茂はやっと千代から手を離した。
 顔を上げると、彼は何やら店員と話している。千代さん、と話しかけられ一歩前へ出る。
 店員が千代に差し出したのは、金糸雀色の洋服だった。男性シャツにスカートがついたワンピース型の洋服だ。

「こちらはボタンを開けて、上からかぶっていただくようになっております。袖はパフスリーブになっており、ふんわりとした印象になりますよ。スカートは生地を贅沢に使っておりますので、歩く度に風を受けて女性らしい可憐な陰影になるかと思います」

 男性の店員は、マニュアル通りに読み上げたような固い説明を千代にした。パフスリーブ、というのはその盛り上がったようにできている型の部分を言うのだろうか。以前絵本で見た西洋のお姫様のドレスを小ぶりにしたような作りだ。

「本当は、幾何学模様も似合うと思ったのだけれどね。君はいつも私服は着物のようだから、なるべくシンプルな物を選んでみたよ」

 千代はワンピースを手に取った。着物の生地とは違う、薄くて滑らかな生地。着物のようなぱっきりとした糊付けはされていない、柔らかく体と風によって姿を変えるワンピース。

「かわいい……」

 ふ、と笑う声が聞こえる。見上げると、茂の優しい表情が見えた。精悍な顔立ちは笑うと小動物のようになる。思わず微笑み返すと、ほんの少し、茂の顔が桜色に染まったような気がした。
 拳を口元にあて、咳払いをしてから茂は話始める。

「靴はこの、白いヒールのついたものを購入したよ。少し踵に高さがあるけれど、足首の前に留め具があるから歩きやすいと聞いてね。女性の履物は履いたことがないから、聞き伝えで選んで申し訳ない」
「いえ、嬉しいですわ。茂さんが選んでくださったものだもの」

 店員が千代と茂を交互に見た後、ワンピースを千代の手から受け取る。こちらへ、と右手を差し出し奥へと促した。茂を見上げる。優しく頷く彼を見て、心臓が一拍、跳ねた。

「君の洋装は楽しみだな」
「あまり期待しないでくださいませ」

 目を伏せて、店員の後を着いていく。洋装に袖を通すのは初めてだわ。千代は心を躍らせ更衣室へと向かった。

 女性店員が先に準備を整えてくれていた、個室に足を踏み入れる。
 白いエプロンと縞模様の着物を脱いだ。かけられていたワンピースを取り、ボタンを外す。
 スカートの下から頭を差し入れ、重力に沿って金糸雀色が落ちる。すとん、と肩の上で止まったそれは、少し冷たく柔らかかった。
袖を通し、ボタンを閉める。着物では感じない脛とふくらはぎの冷たさ。すぅすぅと風が舞い込むようで、少し、恥ずかしかった。

 個室を開ける。出されていた白いハイヒールに足を入れる。足首にある留め具をぱちんと留めて、一歩足を踏み出す。コツン、と床の音がした。
 店内のソファで待っていた茂と目が合う。一瞬驚いたように眼を丸めた彼は、すぐに目を一直線に細めて笑った。
 近付き、両手をとる。指先がジンジンと熱くなった。

「どうかしら」
「とても似合っているよ。想像以上だ。美しい」

 茂は千代の右手を取って高く掲げた。二人の腕でできた(いびつ)なアーチ。茂は千代の腕を優しく押して、そのアーチを潜らせる。一周、くるりと回った。

「後ろ姿も可憐で素敵さ。鏡は見た?」
「いいえ、まだなの。なんだか膝がスース―して恥ずかしいわ」
「僕が一番最初に見られたんだね。僕はラッキーボーイだ」

 茂は千代の手を引いて鏡の前へと連れて行った。
 金糸雀色のワンピース。シャツをモチーフにしたワンピースは、着物よりも体に沿ってより女性らしいと思った。動く度に、スカートの裾がふわりと揺れる。空気の抵抗に少しだけ逆らう軽い生地は、着物の時より心も軽くしてくれるようだった。

「着物姿も艶やかだけれど、洋装になると可憐になるね。千代、美しいよ」

 呼び捨てで呼ばれたことに、千代はすぐに気付いてしまった。今度は耳まで赤くなる。茂の言動ひとつひとつが、千代の心臓を跳ね上げ心を薄桃色に染めていく。静子の最初に着ていた着物を思い出し、少し心が痛んだ。

「新しい私になったみたいだわ」

 千代は言った。ワンピースを着た自分もそうだが、茂と一緒にいるときの、踊るような気持ちがむずがゆかった。どうしてこうも、彼は千代の心を揺るがすんだろう。グラスの中の積み重なった氷が溶けて、カランと音を鳴らすような、心もとなく、熱く、不安な気持ち。でも、そのグラスの下にある溶けた水を、飲み干してしまいたいような。複雑で言語化できない熱を持った気持ちが、千代の心を揺さぶっていく。

「どうだい、千代。この服はとても美しいだろう」

 ええ、と頷く千代の髪に、茂は優しく触れた。簪を引き抜き、結っていた髪がほどける。
 腰のあたりまで伸びた、黒く艶やかな長い髪。令嬢の誇りとして、毎日手入れをした黒い髪。
 茂は千代の髪を後ろから掬う。丸めるように髪を持ち上げ、肩の上で手をとめた。
 そこには、あの美容室で見かけたような、新しい時代の女性がいた。
 膝下のフレアなワンピース、白いヒールの靴、肩上までの短い髪。新しく、美しく、清い。実に時代を先取った女性だ。

「似合うと思わないかい」
「自分で言うのは恥ずかしいわ」
「いいんだよ。自信を持って」

 千代は鏡越しに茂を見る。やはり、胸の高鳴りは抑えられない。低い声がささやく度、切れ長の目が線になる度、大きくなる脈拍が、中心で体をもてあそんでいた。

「とても、素敵、だと思うわ」

 茂は笑った。千代もつられて頬を弛めた。髪が熱い。首筋が熱い。髪のあげられたうなじから、湯気が出るのではないかと思った。

「髪を切るわ」

 無意識に出た言葉は、千代も驚くセリフだった。それでも“それが正しい”と思ったのだ。
 茂は少し目を見開いた後、愁眉を開き顔をほころばせた。美しい、と思った。

「ありがとう。千代。僕はね、君に時代を作ってほしいんだよ」
「私にできるかわからないわ。でも、やってみたい」
「それがいい。じゃあ、髪を切るのは明日にしよう。静子には伝えておくよ。そして、その時に話したい事があるんだ」

 茂はほころばせた顔を引き締め、千代の目をまっすぐに見た。茂の光彩は少し茶色く、室内の光を反射している。美しい、その茶色い瞳に心を吸い込まれながら、千代はゆっくりと頷いた。
 婚約まで、あと1週間を切っていた。