いつのころからか、まるで夜盗のように闇に紛れて京の中を歩き回る癖ができた。今ではひとつの習慣になっていて、行かぬ日が続くと体が疼く。

 闇はときに、日の光では見えない真実を浮かび上がらせる。
 今夜もまたひとつ、なにかが見えるかもしれない。

「お前は付いてこなくてもいいぞ」
「そういうわけにはいきませぬ」

 上から無造作に狩衣を羽織り、目立たぬ牛車に乗る。

 外はまだ西の夕焼けが見えているが、寝静まってからでは遅すぎる。今夜の目的は話の盗み聞きなので、暮れなずむ夕暮れに紛れで五条へと進んだ。

 希々の屋敷へ着いたときには、ちょうどいい塩梅に夜の帳が落ちてきた。
 牛車は目立たぬ場所へと移動させ屋敷の中へと忍び込む。

 あちこち崩れ落ちた築地塀を抜けるのは簡単だ。
 母屋の床下に潜り込み、灯りが漏れるところまで行くと、話し声が聞こえてきた。

「でも母君さま、頭中将がまた催促してきたらどうするのです?」
 山吹という女の声だ。

「心配ない」とは、叔母の声である。

「今日、毛野少将に使いを出した。希々を呼び出して夜這いさせてしまえばこっちのものじゃ」

 なに?
 ぎょとしたように目を見開く彦丸と、視線がかち合った。同じく驚いたらしい。

「うっとおしい。そのまま連れていってもらおう」

「ふふ。そうよね。結婚したとなれば頭中将だって、なにも言えないわ」
「毛野少将は、なんと言っていた?」

 年嵩の侍女の声が「それが」と答え始める。
「待ちきれないと。首尾よくことが運べば、金の菩薩像を成婚の祝いにくださるそうでございます」

「なんと、さすが毛野少将じゃ」

 ぞっとした。
 毛野少将というやつは、金に困った若い女を家に連れ込んでは虐待するという黒い噂が絶えない男だ。
 親が遺した財産を食いつぶすごろつきで、金だけはある。金の菩薩像を渡す話も嘘ではないだろう。

「ねえ母君、頭中将からいただいたこの衣、本当に希々に渡さなくていいの?」
「今まで面倒みてやったんだ。礼にもらっておけばいい」

「そうでございますよ。路頭に迷うところを奥方さまに助けていただいて、裳着までして差し上げたんですもの。当然ですよ」
「そうよね」

「それにしても、残念であった。酒さえ飲んでくれれば眠らせ、お前と床を共にさせたのに。そうなればお前は頭中将の妻じゃ」
「次こそ必ず、首尾よく」

 そこまで聞いて、床下から出た。
 もうたくさんだ。


「ったく、なんだあれは」
「とんでもない女でしたね」

 それにしても。
「希々が危ないな」

「ええ。まさか今夜ではないでしょうが、一刻を争いますね。どうしましょう?」
「捜して連れていく。とてもここには置いてはおけぬ」
 三条には母が遺した小さな邸がある。隠れ家にはちょうどいい。

「ええ、そうですね」

 どこかに押し込まれていなければいいが。
 まずはそのまま、希々がいるはずの下屋に向かった。

 だが下屋はふたつあって、どちらにいるのかわからない。床が高いわけでもないので潜り込むわけにもいかず壁に立ち、耳をそばだてた。

「姫さま逃げましょう。ここにいてはいけません。絶対になにか企んでいるに違いないです」
「でも、行く宛てなんてないし。それに大丈夫よ。どんな人か知らないけれど、いい人かもしれないわ」

 よかった。希々の声である。
 ほっと胸をなで下ろし、彦丸とうなずきあう。

「いい人なわけありゃしません。あの女が持ってくる話なぞ」と答える下人の声を聞いて入り口に向かい、そっと扉を叩いた。

「希々、迎えに来たぞ。頭中将朝霧だ」

 ぴたりと話し声が止まる。

「女房の誘いに来たぞ」

 わずかに扉が開き、そっと顔を覗かせた年老いた男は、声が聞こえた下男だろう。

「あ、頭中将」
 ひょっこりと顔を出した希々が、覆面を取った我が顔を見て、にっこりと笑った。

◆男嫌いと女嫌い◇


 梅女と末吉の進めもあり、母の形見の品だけを布に包んで背中に背負い下屋を出た。
 もちろん末吉も梅女も一緒である。

 そうじゃなければとても出てはいけないから。

 ところが――。

「おい。どこへ行く」
 強面の下男ふたりが立ちはだかった。

 叔母がこの屋敷に連れてきた屈強な男である。
 手には硬そうな長い棒。あんなもので叩かれたら、ひとたまりもない。

 末吉が私の前に立つ。
 怖いだろうに梅女が一歩前へ出た。

「寺に行くんだよ。なんか文句でもあるのかい」

「はっ! こんな闇夜になにが寺だ」
 男はせせら笑う。

 心配なのは、どこかにいるはずの朝霧さまだ。
 下屋の外で待っていると言ったのだから近くにいるはずだけれど、姿は見えない。男たちに見つからないといいけれど。

 ごくりと喉を鳴らして、私は梅女のさらに前に出た。
「お前たち、私に手を挙げるつもりなの?」

「姫さまを心配しているんですぜ? こんな夜に出かけちゃ危ないでしょう?」

 にやにやと薄ら笑いを浮かべながら、男らは行く手を塞ぐように並ぶ。

 今まではこんなふうに干渉してこなかったのに、ここ数日様子が違う。朝霧さまに知れるのを警戒しているのか、もしくは私の結婚に向けて、見張るように言われているのかもしれない。

 ふぅー。
 大きく息を吐いて、気持ちを落ち着けた。
 私は目の端で梅女に合図し、梅女は微かにうなずく。その刹那――。

「やーっ」
 ふたり同時に、懐から取り出した袋を男の目に向けて投げつける。

「うわっ」
 次は末吉が竹の棒で押し倒すはずが。
 黒装束の朝霧さまが躍り出て、刀を振りかざした。

 ドサッという重たい音をたてて男がふたりとも倒れる。
「うっ……」
 苦悶の表情の男を足蹴にした朝霧さまは私たちを振り返り、うなずいた。

「さあ早く」
「は、はい」

 朝霧さまがあの強そうな男ふたりを、しかも同時に倒した?
 一瞬のうちの出来事が俄かに信じられず、ドキドキと胸が高鳴るばかりだ。

 振り返って見てみても男らは転がったままで。
 見下ろす朝霧さまの影は、闇に溶けていた。

 門を出ると彦丸が待っていた。
 彼も黒装束を身にまとっている。

「大丈夫ですか?」
「はい」

「じゃ、この牛車に三人とも乗ってください。牛飼いには言ってありますから」
「あ、で、でも」

「いいから早く。大丈夫、後から向かいます」
 梅女にも「さあ」と進められて、私たち急いで牛車に乗った。

「末吉、大丈夫? 足が痛い?」
「いえいえ、ただ、われのような下人が乗っても、本当にいいんでしょうか?」

「心配ないわよ。三人って言ったでしょう?」

 私たちが乗ると、ギィと音を立てて牛車は動き出す。

 最初のうちは心配でじっと耳を澄ませていたけれど、屋敷からは目立つような大きな音は聞こえてこない。

 叔母に仕える男のうち強そうなのは、さっきの下男ふたりだけだ。
 だからきっと大丈夫だと自分に言って聞かせた。

 やがて牛車が角を曲がり、息をひそめていた末吉が、ほっとしたようにため息をつく。

「いやー姫さま、長生きはするもんですな。生まれて初めて牛車に乗りました」

「ふふっ、私もよ。姫さまのおかげですね」

 末吉も梅女も楽しそうに笑う。

「なにを言ってるのこんなときに」とは言ったものの、こんなときだからこそだ。

「よかったね」と忍び笑いが零れる。

「見事でしたな。頭中将の刀さばき、なにかが光ったと思ったらもう、あいつらが倒れてました」

「ほんと、どこから出てきたのか、全然わからなかったわ」

 黒装束なんかしちゃって、まるで夜盗のようだった。貴族にしておくにはもったいないくらい。といったら変だけれど。

「しかし、姫さまも大活躍でしたな。灰袋はしっかり目に命中してましたよ、やつらの顔。くっくっく」

「練習のかいがありましたねっ、姫さま」

「うんうん」

 大きくうなずいた。

 末吉が骨を折られたときから、万が一を考えて、三人で練っていた作戦だった。

 灰が入った袋をぶつけて目を眩まし、末吉が棒で押し倒して、あとはひたすら逃げる。正確に当たるように皆で何度も繰り返し練習もしたし、袋がうまく破けるように改良を重ねたのだ。

「頭中将さま、大丈夫かしら」

「様子を見るだけって言っていましたもの、大丈夫ですよ」
 そうよね……。

 牛車はいくつか角を曲がり、やがてゆっくりと止まった。

「着きましたよ」

 牛飼いに声を掛けられて、降りたところは広い庭の屋敷だ。

 細い弓なりの月が照らす僅かな明かりではわからないが、立派な邸には違いない。釣殿の下で池がきらきらと輝いている。

 邸から出てきた女性と牛飼いが話をしている間、私たちは無事を喜びあった。

 そういえばあの牛飼い、通りで会った感じの悪い男とは違う。きっと牛飼いだけでも何人もいるんだろう。

「とにかくひと安心ですね」
「よかった。皆無事で」

 末吉は目をしょぼしょぼにして泣き始めた。
「なによりじゃ……」

 私の胸にも熱いものがこみ上げてくる。
 あのままいればどうなっていたか。

「姫さま……」
 梅女も泣き、私たちは三人肩を寄せ合って涙を流した。
***


 五条の屋敷を逃げ出してから半月が経った。

 右大臣家、一条のお屋敷では、菖蒲の花が咲き乱れて曲水を縁取っている。

 私は一条の邸に入り、そのまま朝霧さまのお世話係、女房になった。
 梅女と末吉はあのまま三条のお屋敷で働いているが、三条と一条の邸は自由に行き来できるのでなんの心配もない。

 梅女と末吉も明るくなった。
 皆は優しいし、毎日が楽しいと心からうれしそうに笑っていた。それは私も同じ。

 五条の屋敷を思うと気持ちが塞ぐけれど、今はとにかくがんばって働くだけだ。

 鏡を覗いて紅をひく。

 きれいな衣を着てお化粧すると、私でもまるでお姫さまみたいに見えるから笑ってしまう。


「希々、そろそろ朝霧さまを起こしてさしあげて」
「はーい」

 手水鉢の用意をしていると、先輩女房の小筑(こつく)さんがひょっこりと顔をのぞかせた。

「ねえ希々は恋人いないの?」
「はい。いないです」

 小筑さんには蔵人(くろうど)の恋人がいる。ほかの女房の話によれば、帝に近侍する大層立派な方らしい。

「どういう方がいいの? 気にかけておくから教えて」
「うーん。そうですね」と、考えた。

「そんなに出世せずとも、優しくて浮気をしない人がいいかなぁ」

「出世はいいの?」
「はい。食うに困らなければ、平凡でいいです。どこか景色が美しい土地の受領(ずりょう)とかで、のんびり暮らせれば、それが一番ですね」