空はすでに夕暮れから夜へと変わりつつあった。
それでも彼は待ち続けていた。
大樹の根元に小さな身体を凭れかけさせ、膝を抱え、迫り来る闇に怯えながら。
……迎えが来ないことは分かっていた。
母親は、彼が近づくたびに青ざめ、無言で身を避けた。
そして心でこう言っていた。
〈この子さえいなければ〉
『ああ気味が悪い。……とこの息子だよ。あたしが捨てた古い道具を拾ってきて「これはおばさんの物でしょう?」って……誰にも言ってやしないのに』
『うちの子が、誰にも教えてない家の中のことが、……には全部ばれてるみたいで気持ち悪いって──何? 覗いてるんじゃなかったら何だっていうの』
他人に近寄ると頭の中に聞こえてくる声、見えてくる光景──物心ついた頃にはすでにそうだった。
手でさわったり、あるいは身体が触れたりすればほぼ確実に、相手の声で何かが聞こえ、相手の目線で何かが見えた。それは今現在の感情か、もしくはかつて体験したことの記憶なのだと後から知った。
息子のそういう能力に気がついた時、母親は笑うことをやめ、父親は──
『……、出ていったって? そりゃああんな子供がいればなあ。うちでなくて良かったよ』
『あそこの奥さん、……から来た家の娘だっていうじゃないか。どうりでねえ。あの国って、あんな人間が崇められて暮らしてるんだってさ』
母親は何も知らなかった。
何代も前に、母親の家はかつての祖国を去り、今の国に根を下ろし暮らしてきた。
かつての祖国が、そういう特殊な人間を長年生み出し続けている土地だと聞いてはいたが、関係ないこととしか思っていなかった。母親もその両親も。
今さら、先祖返りのように、昔の土地の縁が降り掛かってこようとは、考えもしなかったのだ。
〈この子さえいなければやり直せる〉
どこかで、枝の折れる音がした。
眠りかけていた彼の耳にそれはやけに大きく聞こえ、びくりと身体を震わせる。
目を開けると闇だった。
この深い森の中に、月の光はほとんど届かない。そもそも月が出ているのかどうか、彼に知る術はなかった。
がさがさと草を踏むような音がする──何かが近づいてくるような。耐えきれず彼は立ち上がった。方向も分からないままに駆け出す。
行く当てがあるはずもなく、ましてや森を抜け出す道も分からない。木々の根や石に足を取られながらも、それでも闇雲に走った。
母親が迎えに来てくれたのかも知れないのに。
そう考える一方で、それはあり得ないことだと彼は知っている。
疲れ果てた顔をした母親は今朝、何も言わずに息子を連れて家を出て、この森へやってきた。日が高くなるまで歩き続け、先ほどの大樹のところで──彼を置き去りにしたのだ。
『ここにいなさい。絶対に動いたらだめよ』
虚ろな目つきで、しかし強い口調でそう言った母親の心には、もう息子の存在はなかった。数週間前に出ていった父親のことだけで占められていた。
父親を捜して、二人でやり直すこと。それだけが母親の望みだった……息子は必要ないのだ。
覚束ない足取りで走りながら、彼は泣いていた。
もはや先ほどの場所に戻ろうという気もなかった……そうしたくてもおそらく無理だろうが。
とにかく、この闇から逃れたかった。
安全な場所を見つけ出したかった。
──足先に何かが引っかかり、走る勢いのままに彼は前へと倒れた。転んだのが何度目なのか、とっくに分からなくなっている。幾度も地面に打ちつけたせいで身体中が痛い。限界だった。