古びたセダンが、山間の高速道路をひた走る。

サイドミラーは車の持ち主の性格が出ており、
塗装は()げ、潮風で()びたままになっている。

カーラジオから流れる音程の(とぼ)しい流行歌が、
(きょう)のように聞こえて眠気を誘った。

「組長とドライブ楽しいっす。」

車の持ち主でトサカ頭が、
しゃがれた声で喜んでいる。

助手席に座る人物はなにも(しゃべ)らず、
わずらわしいラジオを切った。

胸元を大きく開いたワイシャツの、
(そで)をめくり見事に日焼けした細腕を出し、
爪はマニキュアで綺麗に手入れされている。

足元に置いた(きり)箱を、エナメルで輝く革靴で(はさ)む。
タイトな黒色のスラックスを履く細身の美人。

もの憂げなその目鼻立ちは洋人形のようで、
金色に染めた髪には蛍光ピンク色を混ぜていて、
車内でも浮世(うきよ)離れした存在感を発揮(はっき)する。

浮かれ気分のトサカ頭に、
窓枠に頬杖をつく指にいらだちがあった。

トサカ頭は変わらず能天気で、反応がなければ
今度はちらちらと助手席を見て運転する。

「ずーっとおんなじような景色っすね。
 組長、ヤノハマって、あとどんくらいっすか?」

鬼寅(きとら)、お前! ちゃんと前見て運転しろ。
 俺の命預けてんだぞ。
 調子に乗ってんじゃねえよ。
 あと組長って呼ぶんじゃねえ。」

助手席の美人が威圧感のある太い声で、
とさか頭の鬼寅(きとら)叱責(しっせき)した。

大きく隆起(りゅうき)した喉仏(のどぼとけ)(うな)る。
助手席に座る組長と呼ばれた美人。
ワダは男である。

「35で二見の漁協のボスっすよ?
 俺、舎弟っすから組長は組長っす。」

「舎弟でもねえよ。
 お前はパシリだ、パシリ。」

鬼寅(きとら)はワダの『使いっぱしり』だ。

いまもむかしもこんな職業は存在しないが、
鬼寅(きとら)筆舌(ひつぜつ)()くし難い醜男(ぶおとこ)の無職であった。

浮浪(ふろう)者同然だった鬼寅(きとら)は、
ワダが半年ほど面倒を見ている新入りだ。

ワダは彼を自分の家に住まわせ、
一般常識を学ばせている。

顔も悪いが口も悪い、髪型からして頭も悪いが、
ワダが教えればできる器量の持ち主ではあった。

生まれや育ちのせいか性癖(せいへき)被虐(ひぎゃく)趣味があり、
性格の矯正(きょうせい)容易(ようい)で、さほど苦労もなかった。

家では掃除を率先(そっせん)して行い、機械いじりを好み、
与えた駄賃(だちん)でこの中古車を買った。

ワダに従順(じゅうじゅん)鬼寅(きとら)も今日に限って言えば、
――(なつ)かれるのも問題があるな。
と、思うのであった。

「でも組長すげーってみんな言ってます。
 取材だってあったじゃないっすか。」

「少子高齢化だ。人手不足なんだよ。
 前組合長なんて80過ぎてたぞ。
 おかげで引き継ぎぐちゃぐちゃ。」

「でも、ほかにも候補者いたんじゃないっすか?」

「んなもん家柄で決まんだよ。
 こんなのやりたくてやるわけじゃねえ。
 実家がイヤで二見(ふたみ)まで来たのによぉ。」

「ところで組長の家ってなにやってんですか?」

鬼寅(きとら)の頭で伝わるもんかぁ。」

ワダは少しいたずらっぽい笑みを見せた。

「そうだな。お前もこの車で入ってるだろ。
 月極(つきぎめ)グループって言って、
 全国の駐車場管理してる元締めだよ。」

「マジっすか! マジっすかぁ…。
 マジどこでも見かけて不思議だと思ってたけど、
 それじゃ組長ん家、超すげーじゃないっすか。」

「お前、マジか…?」

月契約の駐車場の看板など全国どこでも
見かけるが、鬼寅(きとら)がこんな冗談(じょうだん)を真に受ける
頭の程度であることにワダは愕然(がくぜん)とした。

「なんすか、月極(げっきょく)グループの息子って
 ウソっすか?」

月極(つきぎめ)グループなんて存在しねえよ。
 でもまぁ、実体のなさで言えば近いぜ。
 本家に近い西側だと特にな。」

「へぁー。じゃあアレっすか。
 ヤのつく職業っすか。やべーじゃねえっすか。」

「ちげーよ。
 近いことやってるヤツはいたけど。」

ワダの遠く離れた兄がそれに近い蛮行(ばんこう)を働き、
気に病んだ姉が引きこもったこともあった。

そんなことを思い出して、
今日の目的を(うれ)いていた。

「んで、これからその実家に行くんすか?」

「実家じゃねえな。兄貴の家だ。
 俺と同じでアザナ(字名)をいまは大山(おおやま)に変えてるから
 分家みたいなもんかな。」

「そんな苗字(みょうじ)って簡単に変えられるんすか?
 ますますやべーっすね。」

「そうだよ、やべーんだよ。」

鬼寅(きとら)語彙(ごい)(とぼ)しさに苦笑したが、
形容しがたい実情に便乗して同意した。

今日は本家ではないだけマシだと、
ワダは自分を納得させた。

「組長が休み返上で行くような、
 ステキな用事があるんすか?」

「俺が行きたい用事だったらひとりで行くわ。
 お前なんかに運転させず。」

「ひでぇっすよ、そりゃ。」

「俺だって新年だけは否応なしに、
 本家に挨拶に行くんだがなぁ。」

鬼寅(きとら)が自ら運転を買って出たのは
趣味ではなくこれまでの教育の賜物(たまもの)だが、
今日ばかりは気乗りしない用事であった。

三重(みえ)県の二見(ふたみ)から南南西へ車で約1時間半。
尾鷲(おわせ)北で高速を降りてすぐの矢浜(やのはま)に兄の家がある。

「ヤノハマでしたっけ? なにがあるんすか。
 酒がうまいとか。あっ! その酒飲むんすか?」

「お前は運転するからダメに決まってんだろ。
 しかし、地方自慢の定番だよなぁ。
 酒だの米だの魚だの。」

「ないんすか?」

「そりゃ二見(ふたみ)からすりゃこっちも田舎だしな。」

「くぁー。」

鬼寅(きとら)がそのトサカ頭に似合う鶏声(けいせい)を発した。

「んなとこ、なにしに行くんすか?」

「だからお前は来なくていいって言ったろうが。
 それをしつこくなぁ。」

――本当にしつこかった。

置いていくと知れば泣いてすがりつき、
玄関で土下座するので邪魔で踏みつけたが
それを喜ぶとは思いも寄らなかった。

「俺のせいっすか! それ、俺のせいっすか!
 そうっすね…。」

普通ならこの素直なところを()めるべきだが、
どうせ調子付くだけなので無視を決める。

――育て方は悪くない。育ち方が悪いんだ。

鬼寅(きとら)の出来の悪さに、
ワダはそう自分を納得させた。

「少し年の離れた俺の兄貴の家だがな。
 そこに娘がふたりいるんだよ。
 たぶんお前と同じくらいの。」

「おっ! いいじゃないっすか。
 美人っすか? なんなら紹介してくださいよ。」

発情期のサルのような、短絡(たんらく)的もとい
直結(ちょっけつ)的思考の若者の会話はとても疲れる。

――ウチの漁協の老人連中に近いもんがあるな。

しかし自分も昔はこうだったのではないかと、
ワダは錯覚(さっかく)して自制(じせい)心を働かせる。

「お前は山に埋められたいのか?」

「マジっすか? そんなにっすか?」

「分家でもそんぐらいのデカい山主なんだよ。
 で、そこの長女の美影(みかげ)って子が成人して、
 前に本家の人間と見合いしたんだと。」

「ほぼ身内っすね。」

最初の子は金環(きんかん)日食(にっしょく)の日に生まれたので、
大山(おおやま)は娘に美影(みかげ)と洒落た名前を付けた。

「相手は姉の男孫(だんそん)っていうからそうなるわな。
 そいつは美馬(みま)って野郎なんだが、
 顔はいいらしいが悪い(うわさ)()えねえ。
 しかも本家の後ろ盾があるんで
 好き放題やりやがる。」

そんなワダも公明正大(こうめいせいだい)な人間ではない。

「くぁー。そんなやつにも、
 見合い話なんてあるんすねぇ。」

「やんちゃ坊主が嫁でも持てば、
 多少なりとも落ち着くって、
 姉さん連中は考えたんだろ。
 まあ古い考えだな。」

本家で年の離れた姉のヒメとその娘、
美馬(みま)の母親であるタエの考えなど、
分家のワダには知るよしもない。

「で、娘の見合いに、
 兄貴は家族全員で行ったんだよ。
 向こうは本家だから挨拶しなきゃならん。」

「ヤバいっすね。」

「クソみてえなしがらみばっかだ。
 そこで美馬(みま)の野郎がよ。
 見合い相手の姉の美影(みかげ)じゃなくて、
 妹の咲良(さくら)に手を出しやがった。」

「ひっでぇ!」

「だろう?」

(かわ)いた笑いを浮かべた。

「相手は本家。
 分家の兄貴が強く出られるはずもない。
 一応食い下がってはみたらしいんだが、
 結局、美影(みかげ)の見合いはダメになってな。
 妹の咲良(さくら)咲良(さくら)で陽気なもんだから、
 本家への輿入(こしい)れを喜んでやがる。
 しかももうすでに妊娠したんだと。」

「うげぇ。アネキはメンツぐちゃぐちゃっすね。」

「そうだよ。それでショック受けてな。
 美影(みかげ)の方が引きこもっちまったんだと。」

「あれ…えっ! ちょっと待ってください。
 ちょっと待ってくださいって。
 んじゃひょっとして…。
 そんな辛気(しんき)くせえ家に行くんすか?
 これから?」

「おう、そうだ。」

ワダは眉間にシワを寄せ、深くうなずく。
――鬼寅(きとら)も察しの悪いやつだ。

「お前、俺のアシ()をしつこく買って出ておいて、
 まだ関係ねぇと思ってるだろ。」

「オレ、車で待ってようかなぁと。」

「車と一緒に海に沈めるぞ。
 お前は俺ら兄弟の、酒の(さかな)になるんだよ。」

笑っては見せたがワダも気が沈んでいる。

分家となってから起業した兄弟同士、
部下の数や能力で自慢をし合う仲だったので、
今回の呼び出しは、互いに参っていた。

「んで、組長はどうすんすか?」

「たまには挨拶に来いと執拗(しつよう)()われたが、
 それ以上、どうとも言われてねえしなぁ。
 そもそもよぉ。35のおっさんがだ。
 20の姪っ子相手になにができんだって話だ。」

「いやでもオレが女なら嫉妬(しっと)しますよ。組長に。」

「んな気持ちの悪い仮定の話で、
 お前に嫉妬(しっと)されてもなぁ。」

言われた鬼寅(きとら)が肩を()らしてケラケラと笑う。

「どうせまた、家族のつまんねぇ愚痴(ぐち)
 付き合わされるだけだろ。」

――だけではなかった。

「なんで俺が引きこもりの説得せにゃならん。
 美影(みかげ)は兄貴の娘で、俺は部外者だぞ。」

ワダは鬼寅(きとら)と共に兄である大山(おおやま)の家で、
ハナジャコ|(ヒメジという赤い小魚)の干物を
かじっていたら無理な頼みをされた。

「そりゃお前にしか頼めんからだ。
 嫁も咲良(さくら)()っとけと言うんだ。」

大山(おおやま)はワダとは真逆の大男で、
口の周りにヒゲを繁茂(はんも)させた
山賊(さんぞく)のような風体であった。

「ふたりの言う通り、
 ()っといたらいいじゃねぇか。」

「そのおふたりは?」

()もしない周囲を見渡し、鬼寅(きとら)がたずねる。

「嫁入りだって喜んで、名古屋(なごや)まで買い物。」

「だからふたりがいない今日に呼んだのかよ。
 ちゃんと家族会議しろよなぁ。
 そもそも引きこもりなんて、
 俺らの姉貴もやってたろ。」

「ヒメ姉さんくらい本家の偉い立場ならともかく、
 こっちは分家で美影(みかげ)はもうハタチだぞ。
 ここでつまづいたまま、
 転落人生ってのもなぁ。」

「転落人生って決めつけるのも
 いかがかと思うぜ。」

「しかし久々に組長見たら
 男前過ぎてびっくりしやしませんか?
 娘さん。」

鬼寅(きとら)が車内での会話を、
今度は大山(おおやま)にたずねた。

「んなこと、するわけない。
 こいつとウチの娘は、
 子供んときから知ってんだ。」

「最後に会ったの、10年前くらいだぜ。
 覚えてねえって。」

「お前、新聞にも載ってたろ。
 見たぜ。イケメン組合長だって。」

「取材されてましたもんね。組長。」

鬼寅(きとら)のニヤつく顔に腹が立ち、
軽く頭を小突いた。

「いまどき地方紙なんて、
 誰も読まねえと思ったら。いたわ。」

「いいから頼むぜ。ダメ元だが。
 説得できたら今度なんかおごるから。」

「そんな期待、してねえよ。」

深々と頭を下げて頼む大山(おおやま)の姿に、
ワダは重い腰を上げて、2階へと上る。

大山(おおやま)は家族を作ってすっかり丸くなった。

しかし階段にある可愛い姪っ子の家族写真は、
数年前から止まっている。

娘には反抗(はんこう)期というのもあるのだろう、
とは余計な心配だ。この引きこもりこそが、
娘の遅い反抗(はんこう)期かもしれない。

ここへ来る前の最悪の予想が見事に当たって、
大きなため息をついた。

美影(みかげ)ちゃん、いるかい?」

ワダは彼女の部屋の前に立つ。

15もトシの離れた娘を相手に、
どのように接すればよいものか、
扉をノックするまで考えてはいなかった。
それからなるべく穏やかな口調を心がける。

二見(ふたみ)に住んでる叔父のワダだ。
 昔会ったことあると思うが、
 まあ覚えてないだろうな…。
 兄貴、君のオヤジに話を聞いたよ。」

二見(ふたみ)のおいちゃん…?」

まさか返事があるとは思わず、
1階に戻ってハナジャコを食べようと
背を向けた瞬間だった。

おいちゃんとは懐かしい響きだが、
これが成人女性から発せられたと思うと
心地(ここち)悪さに鳥肌(とりはだ)が立った。

「ははは…。いま話はできるか?」

「入っていいよ…。」

扉の向こうで相手が顔を確認できないのを
いいことに、ワダは黙って渋い顔を見せた。

――入りたくねぇ…。

引きこもりの部屋など、
溜め込んだ老廃(ろうはい)物の溜まり場に決まってる。
身の毛がよだつ思いで扉を開けた。

「失礼するよ。」

ワダが想像したものとは違い、
大きなゴミ袋も、変色したペットボトルもない。

風呂に入らず、トイレにも行かないような、
そんなワダの想像の中にある儀礼的(フォーマル)
引きこもりではなく安堵(あんど)した。

扉に鍵さえ掛けないあたり、
美影(みかげ)品行方正(ひんこうほうせい)な引きこもりだと言える。

しかし女性の部屋と呼ぶにも殺風景だった。

――樟脳(しょうのう)(くせ)ぇ。

タンスの防虫剤の臭いが鼻につく。

ベッドの隅に寝間着姿をした黒髪の女が座り、
大きなクマのぬいぐるみを抱いている。
これが引きこもりの正装だろうか。

東京(とうきょう)千葉(ちば)浦安(うらやす)に行ったはるか昔――、
ワダが姉妹ふたりに買い与えたものだった。

美影(みかげ)は色あせた能面(のうめん)のような顔でワダを見つめる。
目元が兄の骨格に似ているのか、色気はない。
それに濃い眉毛に薄い表情。

――子供の頃から変わってないな。

それが久しぶりに再会した姪への第一印象。
明るい妹に比べ、姉の美影(みかげ)は表情に乏しい。

美馬(みま)に選ばれなかった理由もなんとなくわかる。
それとも美馬(みま)のせいで表情が陰っているだけか。

「久しぶりだねぇ――。」

「大きくなった。」と付け加えようとも考えたが、
「父親に似て。」と勘ぐられても困るので省略。
本人が好きで似せているわけでもない。

それに自室に籠もっていれば化粧の必要はない。
進学校育ちで化粧を必要としなかったのか。

いままで外見に劣等(れっとう)感を抱かなかったのなら、
彼女は環境に恵まれているのかもしれない。

しかし、美影(みかげ)の心が傷つくほどに、
悪意を持つ美馬(みま)や世間はそれほど優しくはない。

「お久しぶりです…。
 あの、パパがなにか言ってましたか。」

「…心配してたよ。」

あのクマかイノシシのような顔の父親を、
娘がパパと呼ぶので笑いをこらえた。

「おいちゃんにまで…。
 パパは世間体しか考えてないんです。
 私は(みにく)く、サクに嫉妬(しっと)してる。
 だから私はこうして岩になるの…。」

「岩ねぇ。
 …じゃあ兄貴を困らせるために、
 ずっと岩になってるのか?
 美影(みかげ)ちゃんも兄貴を介護するころまで、
 岩でいるわけじゃないだろう。」

「おいちゃんなんて恵まれてるんだから、
 私の気持ちなんてわかんないでしょ!」

他所の家の事情など知ったことではないが、
癇癪(かんしゃく)を起こす幼稚な相手と同じく感情的になり、
会話を(こじ)れさせるつもりもワダにはない。

「まぁ自慢じゃないが、それはよく言われるね。
 ひとは(うらや)ましいと言ってくれるが、
 俺だってそれを皮肉(ひにく)に感じることもあるぜ。」

ワダを招き入れた美影(みかげ)だが、
しばらく会話をする気がなさそうなので
よくある愚痴(ぐち)をこぼしてみせた。

「遊んでそうに見える俺でも、
 見えないとこで努力してるんだぞ。
 食事制限は当然、毎週ジムに通ってるし、
 海の上だと皮膚(ひふ)がボロボロになるから、
 日焼け止めを絶対に欠かさない。
 髪なんて紫外線と潮風で傷むから大変だ。
 爪だって手入れしてんだぜ。ほれ。」

両手の甲を向けて爪をよく見せると、
ぬいぐるみから顔を突き出して細い目を見開いた。

日焼けして肉のついた太い指だが、
手にはクリームを欠かさず塗っている。
仕事で使う自慢(じまん)の手だ。

「俺だって美影(みかげ)ちゃんを、
 まだ若くて(うらや)ましいとは思うぜ。
 これも嫉妬(しっと)と呼べるかもな。
 バカな美馬(みま)のおかげで本家とは(えん)が切れた。
 成人した娘の引きこもりを許容(きょよう)するくらいに、
 理解ある両親に恵まれてるのもいいな。
 酒の席に無理やり付き合わされることもない。
 俺なんて漁協の組合長になって大変だぜ。」

そう言うと、会話をしてくれる気になったのか
美影(みかげ)が口を開いた。

「新聞見たよ。
 おいちゃんは自由で(うらや)ましいって、
 パパがよく言ってた…。」

「自由ぅ~?
 俺なんて兄貴から呼び出されただけで、
 こうして犬のように()けつけなくちゃいけない。
 いまは会社もあるし、しがらみだらけの人間だ。
 それなら美影(みかげ)ちゃんのが何倍も自由だろう。」

「じゃあ私でも、おいちゃんと結婚できますか?」

「はぁ? いや、待て待て。
 じゃあじゃないでしょ。じゃあ、じゃ。
 こんなおっさんをからかうんじゃないよ。」

軽く咳払(せきばら)いをして、気を取り直す。
美影(みかげ)は顔半分をぬいぐるみに埋めて、
和田の反応を面白そうに眺めている。

美馬(みま)のバカほどじゃないが――。
 俺も若い頃はそこそこ遊んでた。
 結局、女と付き合うのもしがらみに感じて
 いまはこうして独身を満喫(まんきつ)してるわけだ。」

和田は部屋の椅子(いす)
勝手に腰掛けて、口弁(こうべん)する。

鬼寅(きとら)も一応カウントすべきか一瞬迷ったが、
存在感は無いに等しいのですぐに無視した。

「それに美影(みかげ)ちゃんは結婚願望(がんぼう)ないでしょ。」

「えっ。」

「だってそうだろ?
 縁談(えんだん)があるまで、()けてただろ。
 ()けてないにしろ自分から出会いを求めもせず、
 誰かがなにかして来るのを待ってたわけだ。」

否定をしかけたが、美影(みかげ)はまた
ぬいぐるみの頭に口づけをして沈黙(ちんもく)した。

「そりゃ兄貴たちは色々と経験してるから、
 あれやこれやとアドバイスしたくなる。
 親心(おやごころ)とか老婆心(ろうばしん)とか、いらん節介(せっかい)だな。
 結婚すればきっと得られるものもあるだろう。
 美影(みかげ)ちゃん自身は、家族と過ごしてきた
 これまでを否定したいわけでもないだろ。」

目線を下げたままだが、うなずいてはくれる。

「でなきゃ婿養子(むこようし)でも捕まえるか、
 一生実家暮らしでもするなら別だが、
 成人すればいずれは家を離れる。
 一時(いちじ)孤独(こどく)や不安で家族を困らせるのは…。」

――甘え。…とは、昔の言い方か。

和田がそう考えて頭を(ひね)ったところで、
美影(みかげ)が顔を上げた。

「甘え、てるかな…。」

「いや、甘えて困らせるのはいいと思うぞ。
 どうせ兄貴は甘えであっても喜ぶだろ。」

言ってから、ひとついい案が浮かんだ。

「いっそひとり暮らしでもしたらどうだ。」

「へっ? ひとり暮らし?」

(えん)を切れって言ってるわけじゃないが。
 遅かれ早かれするつもりだろ?
 兄貴は過保護なくせに、甘いんだから
 甘えられるウチは甘えちまえ。」

椅子(いす)から立ち上がりドアノブに手をかけた。

「なんなら俺も口添(くちぞ)えするぜ。」

「ホント?」

「まあ、俺が言って説得できるとは思わんが。」

目を輝かせる美影(みかげ)に、
兄に対する罪悪感が芽生(めば)えて
予防線(よぼうせん)を張っておいた。

「でぇっ!」

扉を開けた途端、汚い悲鳴と綺麗な衝突(しょうとつ)音が響く。
どうやら盗み聞きをしていた鬼寅(きとら)が、
扉にぶつかり壁に頭を打ったらしい。

廊下には大山(おおやま)までいた。

鬼寅(きとら)、なにやってんだ、お前。」

胸ぐらを(つか)んで細腕で持ち上げる。
細身の和田でもその程度の力は持ち合わせる。

「いやぁ、組長が遅いんで旦那とね、
 ふたりがしっぽりやってんじゃねえかって
 話したら俺ひっでー怒られて、
 言われて偵察(ていさつ)してたんすよ。」

「クズかよ。兄貴もさぁ。」

「いや、スマン。で、どうだった?」

父親(ちちおや)なら自分で話せ!」

ふたりのデリカシーのなさに、
和田は鬼寅(きとら)股間(こかん)(ひざ)蹴りを浴びせる。

痛がりつつ(うれ)しそうに廊下に倒れたので、
邪魔にならないように頭を踏みつけた。

廊下にはぬいぐるみを抱いたままの、
美影(みかげ)が姿を見せる。

「パパ…。」

「ミカちゃん…。」

――あれ? ミカって呼んでんの…?

兄の親バカっぷりを目の前で見せられ唖然(あぜん)とする。

「ワガママ言ってごめんなさい。
 ママとサクちゃんにもあとで謝るね。」

「いや、ミカちゃんがつらかったのに
 助けになれなくて、パパは情けないな…。」

ミカちゃん――もとい、美影(みかげ)がワダを見る。

「それで、パパ。
 私ね、ひとり暮らししてみたいの。」

「そうか…。いや、聞いてたが…。」

「おいちゃん…。」

美影(みかげ)に提案した責任もあるので、
巻き添えついでに一応ひとこと告げておく。

「兄貴もいい加減、子離れしとかないと。
 今度はもっと(こじ)らせるぜ。」

――引きこもりの反抗(はんこう)期か、親バカか、両方か…。

「ひとり暮らしの話はあとでママと…、
 待て、こいつの家はパパ、ダメだぞ。」

「それは俺も断っておく。」

「あはははは。
 組長と娘さんは釣り合わないでしょ。
 俺もいるんで、心配無用(しんぱいむよう)っすよ、ご主人。」

()まれたままの鬼寅(きとら)が放った言葉は最悪だった。

笑われた美影(みかげ)は部屋に戻ってしまい、
再度説得を要する事となった。

鬼寅(きとら)はもう一度()り上げられた。

今度は兄の大山(おおやま)が、鬼寅(きとら)のトサカ頭を
天井にぶつけて潰すほど高く上げた。

「なぁ、鬼寅(きとら)くん、だっけ?
 海と山どっちが好き?」

「え…。怖…。」

「山でじっくり菌類に分解されるのと、
 魚と一緒に海で泳ぐの。
 どっちがいいかって話だよ。」

「う…どっちも…いやです。」

質問の意味が理解できたようで、
鬼寅(きとら)の顔がみるみるうちに青ざめる。

大山(おおやま)はいまにも鬼寅(きとら)の首を
ねじ切りそうな勢いで鼻息を荒くしている。

(こじ)れさせた親バカっぷりが、
荒れていた昔の彼を思い起こさせて
ワダはそれを懐かしむ。

鬼寅(きとら)のバカっぷりも遺憾(いかん)なく発揮(はっき)された。
(くち)(わざわ)いのもとである。

鬼寅(きとら)ぁ…。本来ならお前の始末は
 俺がつけるべきなんだが…。ところでだ、
 お前は他人の結婚にとやかく言えた立ち場か?
 それともそういう仕事にでも()きたいのか?」

「いえ…。その――。」

「んーじゃあ結婚する気は?
 あぁ、中古で車も買ったし、
 一緒にドライブする相手も欲しいもんな。
 俺の駄賃(だちん)じゃ足りないよなぁ。」

「いえ…じゅ、充分…いただいて…ます。」

「お前のその口は、
 海底の砂でもすくうために付いてんのか?
 そのトリ頭使って考えてみろ。
 陸生(りくせい)動物なのか? 水生(すいせい)なのか?」

「す、ずんばぜん…。」

息苦しさと羞恥(しゅうち)心で顔は真っ赤に染まり、
涙とよだれと鼻水が混ざって大山(おおやま)の手に落ちた。

鬼寅(きとら)を床に落としたところで、
大山(おおやま)がこらえきれずに笑いはじめた。

「どした? 兄貴。」

「ぐぁははっ…。
 いや、だってこいつの顔、おかしいだろ。」

ゆでダコかサルだかわからない鬼寅(きとら)の顔。

「いまさらかよ。
 このアホを顔で(ひろ)ったわけじゃねえが、
 笑って許せるなら許してやってくれよ。」

「おし。笑おう。」

生まれつきの顔を笑ってやるのは(こく)である。
しかし、埋める沈める『本家流』よりはマシだ。

大山(おおやま)は言って鬼寅(きとら)の首根っこを(つか)んで引きずり、
美影(みかげ)の部屋に乗り込んだ。

鬼寅(きとら)の顔を笑う大山(おおやま)の笑い声は廊下まで響く。

美影(みかげ)は部屋の鍵を閉めて拒絶(きょぜつ)するのでもない。
怒ってふたりを追い出さないところを見る限り、
問題はなさそうだ。

和田は階段を降りて、
遅くなったが彼女の成人祝いに用意した
(きり)箱の酒を取りに戻った。

――――――――――――――――――――

本作はフィクションであり、
実在の人物・地域・団体などとは
一切関係がありません。

参考元:
山の神講(オコゼ):尾鷲市(三重の伝統行事-東紀州地区)
https://www.youtube.com/watch?v=zJfpr8ag2V0

三重県観光連盟公式サイト「観光三重」
https://www.kankomie.or.jp/event/detail_39567.html

一日一魚 ヒメジ(ハナジャコ)
https://www.city.owase.lg.jp/public/ichigyo/kyounosakana/140419.htm