古びたセダンが、山間の高速道路をひた走る。
サイドミラーは車の持ち主の性格が出ており、
塗装は剥げ、潮風で錆びたままになっている。
カーラジオから流れる音程の乏しい流行歌が、
経のように聞こえて眠気を誘った。
「組長とドライブ楽しいっす。」
車の持ち主でトサカ頭が、
しゃがれた声で喜んでいる。
助手席に座る人物はなにも喋らず、
わずらわしいラジオを切った。
胸元を大きく開いたワイシャツの、
袖をめくり見事に日焼けした細腕を出し、
爪はマニキュアで綺麗に手入れされている。
足元に置いた桐箱を、エナメルで輝く革靴で挟む。
タイトな黒色のスラックスを履く細身の美人。
もの憂げなその目鼻立ちは洋人形のようで、
金色に染めた髪には蛍光ピンク色を混ぜていて、
車内でも浮世離れした存在感を発揮する。
浮かれ気分のトサカ頭に、
窓枠に頬杖をつく指にいらだちがあった。
トサカ頭は変わらず能天気で、反応がなければ
今度はちらちらと助手席を見て運転する。
「ずーっとおんなじような景色っすね。
組長、ヤノハマって、あとどんくらいっすか?」
「鬼寅、お前! ちゃんと前見て運転しろ。
俺の命預けてんだぞ。
調子に乗ってんじゃねえよ。
あと組長って呼ぶんじゃねえ。」
助手席の美人が威圧感のある太い声で、
とさか頭の鬼寅を叱責した。
大きく隆起した喉仏が唸る。
助手席に座る組長と呼ばれた美人。
ワダは男である。
「35で二見の漁協のボスっすよ?
俺、舎弟っすから組長は組長っす。」
「舎弟でもねえよ。
お前はパシリだ、パシリ。」
鬼寅はワダの『使いっぱしり』だ。
いまもむかしもこんな職業は存在しないが、
鬼寅は筆舌に尽くし難い醜男の無職であった。
浮浪者同然だった鬼寅は、
ワダが半年ほど面倒を見ている新入りだ。
ワダは彼を自分の家に住まわせ、
一般常識を学ばせている。
顔も悪いが口も悪い、髪型からして頭も悪いが、
ワダが教えればできる器量の持ち主ではあった。
生まれや育ちのせいか性癖か被虐趣味があり、
性格の矯正が容易で、さほど苦労もなかった。
家では掃除を率先して行い、機械いじりを好み、
与えた駄賃でこの中古車を買った。
ワダに従順な鬼寅も今日に限って言えば、
――懐かれるのも問題があるな。
と、思うのであった。
「でも組長すげーってみんな言ってます。
取材だってあったじゃないっすか。」
「少子高齢化だ。人手不足なんだよ。
前組合長なんて80過ぎてたぞ。
おかげで引き継ぎぐちゃぐちゃ。」
「でも、ほかにも候補者いたんじゃないっすか?」
「んなもん家柄で決まんだよ。
こんなのやりたくてやるわけじゃねえ。
実家がイヤで二見まで来たのによぉ。」
「ところで組長の家ってなにやってんですか?」
「鬼寅の頭で伝わるもんかぁ。」
ワダは少しいたずらっぽい笑みを見せた。
「そうだな。お前もこの車で入ってるだろ。
月極グループって言って、
全国の駐車場管理してる元締めだよ。」
「マジっすか! マジっすかぁ…。
マジどこでも見かけて不思議だと思ってたけど、
それじゃ組長ん家、超すげーじゃないっすか。」
「お前、マジか…?」
月契約の駐車場の看板など全国どこでも
見かけるが、鬼寅がこんな冗談を真に受ける
頭の程度であることにワダは愕然とした。
「なんすか、月極グループの息子って
ウソっすか?」
「月極グループなんて存在しねえよ。
でもまぁ、実体のなさで言えば近いぜ。
本家に近い西側だと特にな。」
「へぁー。じゃあアレっすか。
ヤのつく職業っすか。やべーじゃねえっすか。」
「ちげーよ。
近いことやってるヤツはいたけど。」
ワダの遠く離れた兄がそれに近い蛮行を働き、
気に病んだ姉が引きこもったこともあった。
そんなことを思い出して、
今日の目的を憂いていた。
「んで、これからその実家に行くんすか?」
「実家じゃねえな。兄貴の家だ。
俺と同じでアザナをいまは大山に変えてるから
分家みたいなもんかな。」
「そんな苗字って簡単に変えられるんすか?
ますますやべーっすね。」
「そうだよ、やべーんだよ。」
鬼寅の語彙の乏しさに苦笑したが、
形容しがたい実情に便乗して同意した。
今日は本家ではないだけマシだと、
ワダは自分を納得させた。
「組長が休み返上で行くような、
ステキな用事があるんすか?」
「俺が行きたい用事だったらひとりで行くわ。
お前なんかに運転させず。」
「ひでぇっすよ、そりゃ。」
「俺だって新年だけは否応なしに、
本家に挨拶に行くんだがなぁ。」
鬼寅が自ら運転を買って出たのは
趣味ではなくこれまでの教育の賜物だが、
今日ばかりは気乗りしない用事であった。
三重県の二見から南南西へ車で約1時間半。
尾鷲北で高速を降りてすぐの矢浜に兄の家がある。
「ヤノハマでしたっけ? なにがあるんすか。
酒がうまいとか。あっ! その酒飲むんすか?」
「お前は運転するからダメに決まってんだろ。
しかし、地方自慢の定番だよなぁ。
酒だの米だの魚だの。」
「ないんすか?」
「そりゃ二見からすりゃこっちも田舎だしな。」
「くぁー。」
鬼寅がそのトサカ頭に似合う鶏声を発した。
「んなとこ、なにしに行くんすか?」
「だからお前は来なくていいって言ったろうが。
それをしつこくなぁ。」
――本当にしつこかった。
置いていくと知れば泣いてすがりつき、
玄関で土下座するので邪魔で踏みつけたが
それを喜ぶとは思いも寄らなかった。
「俺のせいっすか! それ、俺のせいっすか!
そうっすね…。」
普通ならこの素直なところを褒めるべきだが、
どうせ調子付くだけなので無視を決める。
――育て方は悪くない。育ち方が悪いんだ。
鬼寅の出来の悪さに、
ワダはそう自分を納得させた。
「少し年の離れた俺の兄貴の家だがな。
そこに娘がふたりいるんだよ。
たぶんお前と同じくらいの。」
「おっ! いいじゃないっすか。
美人っすか? なんなら紹介してくださいよ。」
発情期のサルのような、短絡的もとい
直結的思考の若者の会話はとても疲れる。
――ウチの漁協の老人連中に近いもんがあるな。
しかし自分も昔はこうだったのではないかと、
ワダは錯覚して自制心を働かせる。
「お前は山に埋められたいのか?」
「マジっすか? そんなにっすか?」
「分家でもそんぐらいのデカい山主なんだよ。
で、そこの長女の美影って子が成人して、
前に本家の人間と見合いしたんだと。」
「ほぼ身内っすね。」
最初の子は金環日食の日に生まれたので、
大山は娘に美影と洒落た名前を付けた。
「相手は姉の男孫っていうからそうなるわな。
そいつは美馬って野郎なんだが、
顔はいいらしいが悪い噂が絶えねえ。
しかも本家の後ろ盾があるんで
好き放題やりやがる。」
そんなワダも公明正大な人間ではない。
「くぁー。そんなやつにも、
見合い話なんてあるんすねぇ。」
「やんちゃ坊主が嫁でも持てば、
多少なりとも落ち着くって、
姉さん連中は考えたんだろ。
まあ古い考えだな。」
本家で年の離れた姉のヒメとその娘、
美馬の母親であるタエの考えなど、
分家のワダには知るよしもない。
「で、娘の見合いに、
兄貴は家族全員で行ったんだよ。
向こうは本家だから挨拶しなきゃならん。」
「ヤバいっすね。」
「クソみてえなしがらみばっかだ。
そこで美馬の野郎がよ。
見合い相手の姉の美影じゃなくて、
妹の咲良に手を出しやがった。」
「ひっでぇ!」
「だろう?」
乾いた笑いを浮かべた。
「相手は本家。
分家の兄貴が強く出られるはずもない。
一応食い下がってはみたらしいんだが、
結局、美影の見合いはダメになってな。
妹の咲良は咲良で陽気なもんだから、
本家への輿入れを喜んでやがる。
しかももうすでに妊娠したんだと。」
「うげぇ。アネキはメンツぐちゃぐちゃっすね。」
「そうだよ。それでショック受けてな。
美影の方が引きこもっちまったんだと。」
「あれ…えっ! ちょっと待ってください。
ちょっと待ってくださいって。
んじゃひょっとして…。
そんな辛気くせえ家に行くんすか?
これから?」
「おう、そうだ。」
ワダは眉間にシワを寄せ、深くうなずく。
――鬼寅も察しの悪いやつだ。
「お前、俺のアシをしつこく買って出ておいて、
まだ関係ねぇと思ってるだろ。」
「オレ、車で待ってようかなぁと。」
「車と一緒に海に沈めるぞ。
お前は俺ら兄弟の、酒の肴になるんだよ。」
笑っては見せたがワダも気が沈んでいる。
分家となってから起業した兄弟同士、
部下の数や能力で自慢をし合う仲だったので、
今回の呼び出しは、互いに参っていた。
「んで、組長はどうすんすか?」
「たまには挨拶に来いと執拗に請われたが、
それ以上、どうとも言われてねえしなぁ。
そもそもよぉ。35のおっさんがだ。
20の姪っ子相手になにができんだって話だ。」
「いやでもオレが女なら嫉妬しますよ。組長に。」
「んな気持ちの悪い仮定の話で、
お前に嫉妬されてもなぁ。」
言われた鬼寅が肩を揺らしてケラケラと笑う。
「どうせまた、家族のつまんねぇ愚痴に
付き合わされるだけだろ。」
――だけではなかった。
「なんで俺が引きこもりの説得せにゃならん。
美影は兄貴の娘で、俺は部外者だぞ。」
ワダは鬼寅と共に兄である大山の家で、
ハナジャコ|(ヒメジという赤い小魚)の干物を
かじっていたら無理な頼みをされた。
「そりゃお前にしか頼めんからだ。
嫁も咲良も放っとけと言うんだ。」
大山はワダとは真逆の大男で、
口の周りにヒゲを繁茂させた
山賊のような風体であった。
「ふたりの言う通り、
放っといたらいいじゃねぇか。」
「そのおふたりは?」
居もしない周囲を見渡し、鬼寅がたずねる。
「嫁入りだって喜んで、名古屋まで買い物。」
「だからふたりがいない今日に呼んだのかよ。
ちゃんと家族会議しろよなぁ。
そもそも引きこもりなんて、
俺らの姉貴もやってたろ。」
「ヒメ姉さんくらい本家の偉い立場ならともかく、
こっちは分家で美影はもうハタチだぞ。
ここでつまづいたまま、
転落人生ってのもなぁ。」
「転落人生って決めつけるのも
いかがかと思うぜ。」
「しかし久々に組長見たら
男前過ぎてびっくりしやしませんか?
娘さん。」
鬼寅が車内での会話を、
今度は大山にたずねた。
「んなこと、するわけない。
こいつとウチの娘は、
子供んときから知ってんだ。」
「最後に会ったの、10年前くらいだぜ。
覚えてねえって。」
「お前、新聞にも載ってたろ。
見たぜ。イケメン組合長だって。」
「取材されてましたもんね。組長。」
鬼寅のニヤつく顔に腹が立ち、
軽く頭を小突いた。
「いまどき地方紙なんて、
誰も読まねえと思ったら。いたわ。」
「いいから頼むぜ。ダメ元だが。
説得できたら今度なんかおごるから。」
「そんな期待、してねえよ。」
深々と頭を下げて頼む大山の姿に、
ワダは重い腰を上げて、2階へと上る。
大山は家族を作ってすっかり丸くなった。
しかし階段にある可愛い姪っ子の家族写真は、
数年前から止まっている。
娘には反抗期というのもあるのだろう、
とは余計な心配だ。この引きこもりこそが、
娘の遅い反抗期かもしれない。
ここへ来る前の最悪の予想が見事に当たって、
大きなため息をついた。
「美影ちゃん、いるかい?」
ワダは彼女の部屋の前に立つ。
15もトシの離れた娘を相手に、
どのように接すればよいものか、
扉をノックするまで考えてはいなかった。
それからなるべく穏やかな口調を心がける。
「二見に住んでる叔父のワダだ。
昔会ったことあると思うが、
まあ覚えてないだろうな…。
兄貴、君のオヤジに話を聞いたよ。」
「二見のおいちゃん…?」
まさか返事があるとは思わず、
1階に戻ってハナジャコを食べようと
背を向けた瞬間だった。
おいちゃんとは懐かしい響きだが、
これが成人女性から発せられたと思うと
心地悪さに鳥肌が立った。
「ははは…。いま話はできるか?」
「入っていいよ…。」
扉の向こうで相手が顔を確認できないのを
いいことに、ワダは黙って渋い顔を見せた。
――入りたくねぇ…。
引きこもりの部屋など、
溜め込んだ老廃物の溜まり場に決まってる。
身の毛がよだつ思いで扉を開けた。
「失礼するよ。」
ワダが想像したものとは違い、
大きなゴミ袋も、変色したペットボトルもない。
風呂に入らず、トイレにも行かないような、
そんなワダの想像の中にある儀礼的な
引きこもりではなく安堵した。
扉に鍵さえ掛けないあたり、
美影は品行方正な引きこもりだと言える。
しかし女性の部屋と呼ぶにも殺風景だった。
――樟脳臭ぇ。
タンスの防虫剤の臭いが鼻につく。
ベッドの隅に寝間着姿をした黒髪の女が座り、
大きなクマのぬいぐるみを抱いている。
これが引きこもりの正装だろうか。
東京で千葉の浦安に行ったはるか昔――、
ワダが姉妹ふたりに買い与えたものだった。
美影は色あせた能面のような顔でワダを見つめる。
目元が兄の骨格に似ているのか、色気はない。
それに濃い眉毛に薄い表情。
――子供の頃から変わってないな。
それが久しぶりに再会した姪への第一印象。
明るい妹に比べ、姉の美影は表情に乏しい。
美馬に選ばれなかった理由もなんとなくわかる。
それとも美馬のせいで表情が陰っているだけか。
「久しぶりだねぇ――。」
「大きくなった。」と付け加えようとも考えたが、
「父親に似て。」と勘ぐられても困るので省略。
本人が好きで似せているわけでもない。
それに自室に籠もっていれば化粧の必要はない。
進学校育ちで化粧を必要としなかったのか。
いままで外見に劣等感を抱かなかったのなら、
彼女は環境に恵まれているのかもしれない。
しかし、美影の心が傷つくほどに、
悪意を持つ美馬や世間はそれほど優しくはない。
「お久しぶりです…。
あの、パパがなにか言ってましたか。」
「…心配してたよ。」
あのクマかイノシシのような顔の父親を、
娘がパパと呼ぶので笑いをこらえた。
「おいちゃんにまで…。
パパは世間体しか考えてないんです。
私は醜く、サクに嫉妬してる。
だから私はこうして岩になるの…。」
「岩ねぇ。
…じゃあ兄貴を困らせるために、
ずっと岩になってるのか?
美影ちゃんも兄貴を介護するころまで、
岩でいるわけじゃないだろう。」
「おいちゃんなんて恵まれてるんだから、
私の気持ちなんてわかんないでしょ!」
他所の家の事情など知ったことではないが、
癇癪を起こす幼稚な相手と同じく感情的になり、
会話を拗れさせるつもりもワダにはない。
「まぁ自慢じゃないが、それはよく言われるね。
ひとは羨ましいと言ってくれるが、
俺だってそれを皮肉に感じることもあるぜ。」
ワダを招き入れた美影だが、
しばらく会話をする気がなさそうなので
よくある愚痴をこぼしてみせた。
「遊んでそうに見える俺でも、
見えないとこで努力してるんだぞ。
食事制限は当然、毎週ジムに通ってるし、
海の上だと皮膚がボロボロになるから、
日焼け止めを絶対に欠かさない。
髪なんて紫外線と潮風で傷むから大変だ。
爪だって手入れしてんだぜ。ほれ。」
両手の甲を向けて爪をよく見せると、
ぬいぐるみから顔を突き出して細い目を見開いた。
日焼けして肉のついた太い指だが、
手にはクリームを欠かさず塗っている。
仕事で使う自慢の手だ。
「俺だって美影ちゃんを、
まだ若くて羨ましいとは思うぜ。
これも嫉妬と呼べるかもな。
バカな美馬のおかげで本家とは縁が切れた。
成人した娘の引きこもりを許容するくらいに、
理解ある両親に恵まれてるのもいいな。
酒の席に無理やり付き合わされることもない。
俺なんて漁協の組合長になって大変だぜ。」
そう言うと、会話をしてくれる気になったのか
美影が口を開いた。
「新聞見たよ。
おいちゃんは自由で羨ましいって、
パパがよく言ってた…。」
「自由ぅ~?
俺なんて兄貴から呼び出されただけで、
こうして犬のように駆けつけなくちゃいけない。
いまは会社もあるし、しがらみだらけの人間だ。
それなら美影ちゃんのが何倍も自由だろう。」
「じゃあ私でも、おいちゃんと結婚できますか?」
「はぁ? いや、待て待て。
じゃあじゃないでしょ。じゃあ、じゃ。
こんなおっさんをからかうんじゃないよ。」
軽く咳払いをして、気を取り直す。
美影は顔半分をぬいぐるみに埋めて、
和田の反応を面白そうに眺めている。
「美馬のバカほどじゃないが――。
俺も若い頃はそこそこ遊んでた。
結局、女と付き合うのもしがらみに感じて
いまはこうして独身を満喫してるわけだ。」
和田は部屋の椅子に
勝手に腰掛けて、口弁する。
鬼寅も一応カウントすべきか一瞬迷ったが、
存在感は無いに等しいのですぐに無視した。
「それに美影ちゃんは結婚願望ないでしょ。」
「えっ。」
「だってそうだろ?
縁談があるまで、避けてただろ。
避けてないにしろ自分から出会いを求めもせず、
誰かがなにかして来るのを待ってたわけだ。」
否定をしかけたが、美影はまた
ぬいぐるみの頭に口づけをして沈黙した。
「そりゃ兄貴たちは色々と経験してるから、
あれやこれやとアドバイスしたくなる。
親心とか老婆心とか、いらん節介だな。
結婚すればきっと得られるものもあるだろう。
美影ちゃん自身は、家族と過ごしてきた
これまでを否定したいわけでもないだろ。」
目線を下げたままだが、うなずいてはくれる。
「でなきゃ婿養子でも捕まえるか、
一生実家暮らしでもするなら別だが、
成人すればいずれは家を離れる。
一時の孤独や不安で家族を困らせるのは…。」
――甘え。…とは、昔の言い方か。
和田がそう考えて頭を捻ったところで、
美影が顔を上げた。
「甘え、てるかな…。」
「いや、甘えて困らせるのはいいと思うぞ。
どうせ兄貴は甘えであっても喜ぶだろ。」
言ってから、ひとついい案が浮かんだ。
「いっそひとり暮らしでもしたらどうだ。」
「へっ? ひとり暮らし?」
「縁を切れって言ってるわけじゃないが。
遅かれ早かれするつもりだろ?
兄貴は過保護なくせに、甘いんだから
甘えられるウチは甘えちまえ。」
椅子から立ち上がりドアノブに手をかけた。
「なんなら俺も口添えするぜ。」
「ホント?」
「まあ、俺が言って説得できるとは思わんが。」
目を輝かせる美影に、
兄に対する罪悪感が芽生えて
予防線を張っておいた。
「でぇっ!」
扉を開けた途端、汚い悲鳴と綺麗な衝突音が響く。
どうやら盗み聞きをしていた鬼寅が、
扉にぶつかり壁に頭を打ったらしい。
廊下には大山までいた。
「鬼寅、なにやってんだ、お前。」
胸ぐらを掴んで細腕で持ち上げる。
細身の和田でもその程度の力は持ち合わせる。
「いやぁ、組長が遅いんで旦那とね、
ふたりがしっぽりやってんじゃねえかって
話したら俺ひっでー怒られて、
言われて偵察してたんすよ。」
「クズかよ。兄貴もさぁ。」
「いや、スマン。で、どうだった?」
「父親なら自分で話せ!」
ふたりのデリカシーのなさに、
和田は鬼寅の股間へ膝蹴りを浴びせる。
痛がりつつ嬉しそうに廊下に倒れたので、
邪魔にならないように頭を踏みつけた。
廊下にはぬいぐるみを抱いたままの、
美影が姿を見せる。
「パパ…。」
「ミカちゃん…。」
――あれ? ミカって呼んでんの…?
兄の親バカっぷりを目の前で見せられ唖然とする。
「ワガママ言ってごめんなさい。
ママとサクちゃんにもあとで謝るね。」
「いや、ミカちゃんがつらかったのに
助けになれなくて、パパは情けないな…。」
ミカちゃん――もとい、美影がワダを見る。
「それで、パパ。
私ね、ひとり暮らししてみたいの。」
「そうか…。いや、聞いてたが…。」
「おいちゃん…。」
美影に提案した責任もあるので、
巻き添えついでに一応ひとこと告げておく。
「兄貴もいい加減、子離れしとかないと。
今度はもっと拗らせるぜ。」
――引きこもりの反抗期か、親バカか、両方か…。
「ひとり暮らしの話はあとでママと…、
待て、こいつの家はパパ、ダメだぞ。」
「それは俺も断っておく。」
「あはははは。
組長と娘さんは釣り合わないでしょ。
俺もいるんで、心配無用っすよ、ご主人。」
踏まれたままの鬼寅が放った言葉は最悪だった。
笑われた美影は部屋に戻ってしまい、
再度説得を要する事となった。
鬼寅はもう一度吊り上げられた。
今度は兄の大山が、鬼寅のトサカ頭を
天井にぶつけて潰すほど高く上げた。
「なぁ、鬼寅くん、だっけ?
海と山どっちが好き?」
「え…。怖…。」
「山でじっくり菌類に分解されるのと、
魚と一緒に海で泳ぐの。
どっちがいいかって話だよ。」
「う…どっちも…いやです。」
質問の意味が理解できたようで、
鬼寅の顔がみるみるうちに青ざめる。
大山はいまにも鬼寅の首を
ねじ切りそうな勢いで鼻息を荒くしている。
拗れさせた親バカっぷりが、
荒れていた昔の彼を思い起こさせて
ワダはそれを懐かしむ。
鬼寅のバカっぷりも遺憾なく発揮された。
口は災いのもとである。
「鬼寅ぁ…。本来ならお前の始末は
俺がつけるべきなんだが…。ところでだ、
お前は他人の結婚にとやかく言えた立ち場か?
それともそういう仕事にでも就きたいのか?」
「いえ…。その――。」
「んーじゃあ結婚する気は?
あぁ、中古で車も買ったし、
一緒にドライブする相手も欲しいもんな。
俺の駄賃じゃ足りないよなぁ。」
「いえ…じゅ、充分…いただいて…ます。」
「お前のその口は、
海底の砂でもすくうために付いてんのか?
そのトリ頭使って考えてみろ。
陸生動物なのか? 水生なのか?」
「す、ずんばぜん…。」
息苦しさと羞恥心で顔は真っ赤に染まり、
涙とよだれと鼻水が混ざって大山の手に落ちた。
鬼寅を床に落としたところで、
大山がこらえきれずに笑いはじめた。
「どした? 兄貴。」
「ぐぁははっ…。
いや、だってこいつの顔、おかしいだろ。」
ゆでダコかサルだかわからない鬼寅の顔。
「いまさらかよ。
このアホを顔で拾ったわけじゃねえが、
笑って許せるなら許してやってくれよ。」
「おし。笑おう。」
生まれつきの顔を笑ってやるのは酷である。
しかし、埋める沈める『本家流』よりはマシだ。
大山は言って鬼寅の首根っこを掴んで引きずり、
美影の部屋に乗り込んだ。
鬼寅の顔を笑う大山の笑い声は廊下まで響く。
美影は部屋の鍵を閉めて拒絶するのでもない。
怒ってふたりを追い出さないところを見る限り、
問題はなさそうだ。
和田は階段を降りて、
遅くなったが彼女の成人祝いに用意した
桐箱の酒を取りに戻った。
――――――――――――――――――――
本作はフィクションであり、
実在の人物・地域・団体などとは
一切関係がありません。
参考元:
山の神講(オコゼ):尾鷲市(三重の伝統行事-東紀州地区)
https://www.youtube.com/watch?v=zJfpr8ag2V0
三重県観光連盟公式サイト「観光三重」
https://www.kankomie.or.jp/event/detail_39567.html
一日一魚 ヒメジ(ハナジャコ)
https://www.city.owase.lg.jp/public/ichigyo/kyounosakana/140419.htm
サイドミラーは車の持ち主の性格が出ており、
塗装は剥げ、潮風で錆びたままになっている。
カーラジオから流れる音程の乏しい流行歌が、
経のように聞こえて眠気を誘った。
「組長とドライブ楽しいっす。」
車の持ち主でトサカ頭が、
しゃがれた声で喜んでいる。
助手席に座る人物はなにも喋らず、
わずらわしいラジオを切った。
胸元を大きく開いたワイシャツの、
袖をめくり見事に日焼けした細腕を出し、
爪はマニキュアで綺麗に手入れされている。
足元に置いた桐箱を、エナメルで輝く革靴で挟む。
タイトな黒色のスラックスを履く細身の美人。
もの憂げなその目鼻立ちは洋人形のようで、
金色に染めた髪には蛍光ピンク色を混ぜていて、
車内でも浮世離れした存在感を発揮する。
浮かれ気分のトサカ頭に、
窓枠に頬杖をつく指にいらだちがあった。
トサカ頭は変わらず能天気で、反応がなければ
今度はちらちらと助手席を見て運転する。
「ずーっとおんなじような景色っすね。
組長、ヤノハマって、あとどんくらいっすか?」
「鬼寅、お前! ちゃんと前見て運転しろ。
俺の命預けてんだぞ。
調子に乗ってんじゃねえよ。
あと組長って呼ぶんじゃねえ。」
助手席の美人が威圧感のある太い声で、
とさか頭の鬼寅を叱責した。
大きく隆起した喉仏が唸る。
助手席に座る組長と呼ばれた美人。
ワダは男である。
「35で二見の漁協のボスっすよ?
俺、舎弟っすから組長は組長っす。」
「舎弟でもねえよ。
お前はパシリだ、パシリ。」
鬼寅はワダの『使いっぱしり』だ。
いまもむかしもこんな職業は存在しないが、
鬼寅は筆舌に尽くし難い醜男の無職であった。
浮浪者同然だった鬼寅は、
ワダが半年ほど面倒を見ている新入りだ。
ワダは彼を自分の家に住まわせ、
一般常識を学ばせている。
顔も悪いが口も悪い、髪型からして頭も悪いが、
ワダが教えればできる器量の持ち主ではあった。
生まれや育ちのせいか性癖か被虐趣味があり、
性格の矯正が容易で、さほど苦労もなかった。
家では掃除を率先して行い、機械いじりを好み、
与えた駄賃でこの中古車を買った。
ワダに従順な鬼寅も今日に限って言えば、
――懐かれるのも問題があるな。
と、思うのであった。
「でも組長すげーってみんな言ってます。
取材だってあったじゃないっすか。」
「少子高齢化だ。人手不足なんだよ。
前組合長なんて80過ぎてたぞ。
おかげで引き継ぎぐちゃぐちゃ。」
「でも、ほかにも候補者いたんじゃないっすか?」
「んなもん家柄で決まんだよ。
こんなのやりたくてやるわけじゃねえ。
実家がイヤで二見まで来たのによぉ。」
「ところで組長の家ってなにやってんですか?」
「鬼寅の頭で伝わるもんかぁ。」
ワダは少しいたずらっぽい笑みを見せた。
「そうだな。お前もこの車で入ってるだろ。
月極グループって言って、
全国の駐車場管理してる元締めだよ。」
「マジっすか! マジっすかぁ…。
マジどこでも見かけて不思議だと思ってたけど、
それじゃ組長ん家、超すげーじゃないっすか。」
「お前、マジか…?」
月契約の駐車場の看板など全国どこでも
見かけるが、鬼寅がこんな冗談を真に受ける
頭の程度であることにワダは愕然とした。
「なんすか、月極グループの息子って
ウソっすか?」
「月極グループなんて存在しねえよ。
でもまぁ、実体のなさで言えば近いぜ。
本家に近い西側だと特にな。」
「へぁー。じゃあアレっすか。
ヤのつく職業っすか。やべーじゃねえっすか。」
「ちげーよ。
近いことやってるヤツはいたけど。」
ワダの遠く離れた兄がそれに近い蛮行を働き、
気に病んだ姉が引きこもったこともあった。
そんなことを思い出して、
今日の目的を憂いていた。
「んで、これからその実家に行くんすか?」
「実家じゃねえな。兄貴の家だ。
俺と同じでアザナをいまは大山に変えてるから
分家みたいなもんかな。」
「そんな苗字って簡単に変えられるんすか?
ますますやべーっすね。」
「そうだよ、やべーんだよ。」
鬼寅の語彙の乏しさに苦笑したが、
形容しがたい実情に便乗して同意した。
今日は本家ではないだけマシだと、
ワダは自分を納得させた。
「組長が休み返上で行くような、
ステキな用事があるんすか?」
「俺が行きたい用事だったらひとりで行くわ。
お前なんかに運転させず。」
「ひでぇっすよ、そりゃ。」
「俺だって新年だけは否応なしに、
本家に挨拶に行くんだがなぁ。」
鬼寅が自ら運転を買って出たのは
趣味ではなくこれまでの教育の賜物だが、
今日ばかりは気乗りしない用事であった。
三重県の二見から南南西へ車で約1時間半。
尾鷲北で高速を降りてすぐの矢浜に兄の家がある。
「ヤノハマでしたっけ? なにがあるんすか。
酒がうまいとか。あっ! その酒飲むんすか?」
「お前は運転するからダメに決まってんだろ。
しかし、地方自慢の定番だよなぁ。
酒だの米だの魚だの。」
「ないんすか?」
「そりゃ二見からすりゃこっちも田舎だしな。」
「くぁー。」
鬼寅がそのトサカ頭に似合う鶏声を発した。
「んなとこ、なにしに行くんすか?」
「だからお前は来なくていいって言ったろうが。
それをしつこくなぁ。」
――本当にしつこかった。
置いていくと知れば泣いてすがりつき、
玄関で土下座するので邪魔で踏みつけたが
それを喜ぶとは思いも寄らなかった。
「俺のせいっすか! それ、俺のせいっすか!
そうっすね…。」
普通ならこの素直なところを褒めるべきだが、
どうせ調子付くだけなので無視を決める。
――育て方は悪くない。育ち方が悪いんだ。
鬼寅の出来の悪さに、
ワダはそう自分を納得させた。
「少し年の離れた俺の兄貴の家だがな。
そこに娘がふたりいるんだよ。
たぶんお前と同じくらいの。」
「おっ! いいじゃないっすか。
美人っすか? なんなら紹介してくださいよ。」
発情期のサルのような、短絡的もとい
直結的思考の若者の会話はとても疲れる。
――ウチの漁協の老人連中に近いもんがあるな。
しかし自分も昔はこうだったのではないかと、
ワダは錯覚して自制心を働かせる。
「お前は山に埋められたいのか?」
「マジっすか? そんなにっすか?」
「分家でもそんぐらいのデカい山主なんだよ。
で、そこの長女の美影って子が成人して、
前に本家の人間と見合いしたんだと。」
「ほぼ身内っすね。」
最初の子は金環日食の日に生まれたので、
大山は娘に美影と洒落た名前を付けた。
「相手は姉の男孫っていうからそうなるわな。
そいつは美馬って野郎なんだが、
顔はいいらしいが悪い噂が絶えねえ。
しかも本家の後ろ盾があるんで
好き放題やりやがる。」
そんなワダも公明正大な人間ではない。
「くぁー。そんなやつにも、
見合い話なんてあるんすねぇ。」
「やんちゃ坊主が嫁でも持てば、
多少なりとも落ち着くって、
姉さん連中は考えたんだろ。
まあ古い考えだな。」
本家で年の離れた姉のヒメとその娘、
美馬の母親であるタエの考えなど、
分家のワダには知るよしもない。
「で、娘の見合いに、
兄貴は家族全員で行ったんだよ。
向こうは本家だから挨拶しなきゃならん。」
「ヤバいっすね。」
「クソみてえなしがらみばっかだ。
そこで美馬の野郎がよ。
見合い相手の姉の美影じゃなくて、
妹の咲良に手を出しやがった。」
「ひっでぇ!」
「だろう?」
乾いた笑いを浮かべた。
「相手は本家。
分家の兄貴が強く出られるはずもない。
一応食い下がってはみたらしいんだが、
結局、美影の見合いはダメになってな。
妹の咲良は咲良で陽気なもんだから、
本家への輿入れを喜んでやがる。
しかももうすでに妊娠したんだと。」
「うげぇ。アネキはメンツぐちゃぐちゃっすね。」
「そうだよ。それでショック受けてな。
美影の方が引きこもっちまったんだと。」
「あれ…えっ! ちょっと待ってください。
ちょっと待ってくださいって。
んじゃひょっとして…。
そんな辛気くせえ家に行くんすか?
これから?」
「おう、そうだ。」
ワダは眉間にシワを寄せ、深くうなずく。
――鬼寅も察しの悪いやつだ。
「お前、俺のアシをしつこく買って出ておいて、
まだ関係ねぇと思ってるだろ。」
「オレ、車で待ってようかなぁと。」
「車と一緒に海に沈めるぞ。
お前は俺ら兄弟の、酒の肴になるんだよ。」
笑っては見せたがワダも気が沈んでいる。
分家となってから起業した兄弟同士、
部下の数や能力で自慢をし合う仲だったので、
今回の呼び出しは、互いに参っていた。
「んで、組長はどうすんすか?」
「たまには挨拶に来いと執拗に請われたが、
それ以上、どうとも言われてねえしなぁ。
そもそもよぉ。35のおっさんがだ。
20の姪っ子相手になにができんだって話だ。」
「いやでもオレが女なら嫉妬しますよ。組長に。」
「んな気持ちの悪い仮定の話で、
お前に嫉妬されてもなぁ。」
言われた鬼寅が肩を揺らしてケラケラと笑う。
「どうせまた、家族のつまんねぇ愚痴に
付き合わされるだけだろ。」
――だけではなかった。
「なんで俺が引きこもりの説得せにゃならん。
美影は兄貴の娘で、俺は部外者だぞ。」
ワダは鬼寅と共に兄である大山の家で、
ハナジャコ|(ヒメジという赤い小魚)の干物を
かじっていたら無理な頼みをされた。
「そりゃお前にしか頼めんからだ。
嫁も咲良も放っとけと言うんだ。」
大山はワダとは真逆の大男で、
口の周りにヒゲを繁茂させた
山賊のような風体であった。
「ふたりの言う通り、
放っといたらいいじゃねぇか。」
「そのおふたりは?」
居もしない周囲を見渡し、鬼寅がたずねる。
「嫁入りだって喜んで、名古屋まで買い物。」
「だからふたりがいない今日に呼んだのかよ。
ちゃんと家族会議しろよなぁ。
そもそも引きこもりなんて、
俺らの姉貴もやってたろ。」
「ヒメ姉さんくらい本家の偉い立場ならともかく、
こっちは分家で美影はもうハタチだぞ。
ここでつまづいたまま、
転落人生ってのもなぁ。」
「転落人生って決めつけるのも
いかがかと思うぜ。」
「しかし久々に組長見たら
男前過ぎてびっくりしやしませんか?
娘さん。」
鬼寅が車内での会話を、
今度は大山にたずねた。
「んなこと、するわけない。
こいつとウチの娘は、
子供んときから知ってんだ。」
「最後に会ったの、10年前くらいだぜ。
覚えてねえって。」
「お前、新聞にも載ってたろ。
見たぜ。イケメン組合長だって。」
「取材されてましたもんね。組長。」
鬼寅のニヤつく顔に腹が立ち、
軽く頭を小突いた。
「いまどき地方紙なんて、
誰も読まねえと思ったら。いたわ。」
「いいから頼むぜ。ダメ元だが。
説得できたら今度なんかおごるから。」
「そんな期待、してねえよ。」
深々と頭を下げて頼む大山の姿に、
ワダは重い腰を上げて、2階へと上る。
大山は家族を作ってすっかり丸くなった。
しかし階段にある可愛い姪っ子の家族写真は、
数年前から止まっている。
娘には反抗期というのもあるのだろう、
とは余計な心配だ。この引きこもりこそが、
娘の遅い反抗期かもしれない。
ここへ来る前の最悪の予想が見事に当たって、
大きなため息をついた。
「美影ちゃん、いるかい?」
ワダは彼女の部屋の前に立つ。
15もトシの離れた娘を相手に、
どのように接すればよいものか、
扉をノックするまで考えてはいなかった。
それからなるべく穏やかな口調を心がける。
「二見に住んでる叔父のワダだ。
昔会ったことあると思うが、
まあ覚えてないだろうな…。
兄貴、君のオヤジに話を聞いたよ。」
「二見のおいちゃん…?」
まさか返事があるとは思わず、
1階に戻ってハナジャコを食べようと
背を向けた瞬間だった。
おいちゃんとは懐かしい響きだが、
これが成人女性から発せられたと思うと
心地悪さに鳥肌が立った。
「ははは…。いま話はできるか?」
「入っていいよ…。」
扉の向こうで相手が顔を確認できないのを
いいことに、ワダは黙って渋い顔を見せた。
――入りたくねぇ…。
引きこもりの部屋など、
溜め込んだ老廃物の溜まり場に決まってる。
身の毛がよだつ思いで扉を開けた。
「失礼するよ。」
ワダが想像したものとは違い、
大きなゴミ袋も、変色したペットボトルもない。
風呂に入らず、トイレにも行かないような、
そんなワダの想像の中にある儀礼的な
引きこもりではなく安堵した。
扉に鍵さえ掛けないあたり、
美影は品行方正な引きこもりだと言える。
しかし女性の部屋と呼ぶにも殺風景だった。
――樟脳臭ぇ。
タンスの防虫剤の臭いが鼻につく。
ベッドの隅に寝間着姿をした黒髪の女が座り、
大きなクマのぬいぐるみを抱いている。
これが引きこもりの正装だろうか。
東京で千葉の浦安に行ったはるか昔――、
ワダが姉妹ふたりに買い与えたものだった。
美影は色あせた能面のような顔でワダを見つめる。
目元が兄の骨格に似ているのか、色気はない。
それに濃い眉毛に薄い表情。
――子供の頃から変わってないな。
それが久しぶりに再会した姪への第一印象。
明るい妹に比べ、姉の美影は表情に乏しい。
美馬に選ばれなかった理由もなんとなくわかる。
それとも美馬のせいで表情が陰っているだけか。
「久しぶりだねぇ――。」
「大きくなった。」と付け加えようとも考えたが、
「父親に似て。」と勘ぐられても困るので省略。
本人が好きで似せているわけでもない。
それに自室に籠もっていれば化粧の必要はない。
進学校育ちで化粧を必要としなかったのか。
いままで外見に劣等感を抱かなかったのなら、
彼女は環境に恵まれているのかもしれない。
しかし、美影の心が傷つくほどに、
悪意を持つ美馬や世間はそれほど優しくはない。
「お久しぶりです…。
あの、パパがなにか言ってましたか。」
「…心配してたよ。」
あのクマかイノシシのような顔の父親を、
娘がパパと呼ぶので笑いをこらえた。
「おいちゃんにまで…。
パパは世間体しか考えてないんです。
私は醜く、サクに嫉妬してる。
だから私はこうして岩になるの…。」
「岩ねぇ。
…じゃあ兄貴を困らせるために、
ずっと岩になってるのか?
美影ちゃんも兄貴を介護するころまで、
岩でいるわけじゃないだろう。」
「おいちゃんなんて恵まれてるんだから、
私の気持ちなんてわかんないでしょ!」
他所の家の事情など知ったことではないが、
癇癪を起こす幼稚な相手と同じく感情的になり、
会話を拗れさせるつもりもワダにはない。
「まぁ自慢じゃないが、それはよく言われるね。
ひとは羨ましいと言ってくれるが、
俺だってそれを皮肉に感じることもあるぜ。」
ワダを招き入れた美影だが、
しばらく会話をする気がなさそうなので
よくある愚痴をこぼしてみせた。
「遊んでそうに見える俺でも、
見えないとこで努力してるんだぞ。
食事制限は当然、毎週ジムに通ってるし、
海の上だと皮膚がボロボロになるから、
日焼け止めを絶対に欠かさない。
髪なんて紫外線と潮風で傷むから大変だ。
爪だって手入れしてんだぜ。ほれ。」
両手の甲を向けて爪をよく見せると、
ぬいぐるみから顔を突き出して細い目を見開いた。
日焼けして肉のついた太い指だが、
手にはクリームを欠かさず塗っている。
仕事で使う自慢の手だ。
「俺だって美影ちゃんを、
まだ若くて羨ましいとは思うぜ。
これも嫉妬と呼べるかもな。
バカな美馬のおかげで本家とは縁が切れた。
成人した娘の引きこもりを許容するくらいに、
理解ある両親に恵まれてるのもいいな。
酒の席に無理やり付き合わされることもない。
俺なんて漁協の組合長になって大変だぜ。」
そう言うと、会話をしてくれる気になったのか
美影が口を開いた。
「新聞見たよ。
おいちゃんは自由で羨ましいって、
パパがよく言ってた…。」
「自由ぅ~?
俺なんて兄貴から呼び出されただけで、
こうして犬のように駆けつけなくちゃいけない。
いまは会社もあるし、しがらみだらけの人間だ。
それなら美影ちゃんのが何倍も自由だろう。」
「じゃあ私でも、おいちゃんと結婚できますか?」
「はぁ? いや、待て待て。
じゃあじゃないでしょ。じゃあ、じゃ。
こんなおっさんをからかうんじゃないよ。」
軽く咳払いをして、気を取り直す。
美影は顔半分をぬいぐるみに埋めて、
和田の反応を面白そうに眺めている。
「美馬のバカほどじゃないが――。
俺も若い頃はそこそこ遊んでた。
結局、女と付き合うのもしがらみに感じて
いまはこうして独身を満喫してるわけだ。」
和田は部屋の椅子に
勝手に腰掛けて、口弁する。
鬼寅も一応カウントすべきか一瞬迷ったが、
存在感は無いに等しいのですぐに無視した。
「それに美影ちゃんは結婚願望ないでしょ。」
「えっ。」
「だってそうだろ?
縁談があるまで、避けてただろ。
避けてないにしろ自分から出会いを求めもせず、
誰かがなにかして来るのを待ってたわけだ。」
否定をしかけたが、美影はまた
ぬいぐるみの頭に口づけをして沈黙した。
「そりゃ兄貴たちは色々と経験してるから、
あれやこれやとアドバイスしたくなる。
親心とか老婆心とか、いらん節介だな。
結婚すればきっと得られるものもあるだろう。
美影ちゃん自身は、家族と過ごしてきた
これまでを否定したいわけでもないだろ。」
目線を下げたままだが、うなずいてはくれる。
「でなきゃ婿養子でも捕まえるか、
一生実家暮らしでもするなら別だが、
成人すればいずれは家を離れる。
一時の孤独や不安で家族を困らせるのは…。」
――甘え。…とは、昔の言い方か。
和田がそう考えて頭を捻ったところで、
美影が顔を上げた。
「甘え、てるかな…。」
「いや、甘えて困らせるのはいいと思うぞ。
どうせ兄貴は甘えであっても喜ぶだろ。」
言ってから、ひとついい案が浮かんだ。
「いっそひとり暮らしでもしたらどうだ。」
「へっ? ひとり暮らし?」
「縁を切れって言ってるわけじゃないが。
遅かれ早かれするつもりだろ?
兄貴は過保護なくせに、甘いんだから
甘えられるウチは甘えちまえ。」
椅子から立ち上がりドアノブに手をかけた。
「なんなら俺も口添えするぜ。」
「ホント?」
「まあ、俺が言って説得できるとは思わんが。」
目を輝かせる美影に、
兄に対する罪悪感が芽生えて
予防線を張っておいた。
「でぇっ!」
扉を開けた途端、汚い悲鳴と綺麗な衝突音が響く。
どうやら盗み聞きをしていた鬼寅が、
扉にぶつかり壁に頭を打ったらしい。
廊下には大山までいた。
「鬼寅、なにやってんだ、お前。」
胸ぐらを掴んで細腕で持ち上げる。
細身の和田でもその程度の力は持ち合わせる。
「いやぁ、組長が遅いんで旦那とね、
ふたりがしっぽりやってんじゃねえかって
話したら俺ひっでー怒られて、
言われて偵察してたんすよ。」
「クズかよ。兄貴もさぁ。」
「いや、スマン。で、どうだった?」
「父親なら自分で話せ!」
ふたりのデリカシーのなさに、
和田は鬼寅の股間へ膝蹴りを浴びせる。
痛がりつつ嬉しそうに廊下に倒れたので、
邪魔にならないように頭を踏みつけた。
廊下にはぬいぐるみを抱いたままの、
美影が姿を見せる。
「パパ…。」
「ミカちゃん…。」
――あれ? ミカって呼んでんの…?
兄の親バカっぷりを目の前で見せられ唖然とする。
「ワガママ言ってごめんなさい。
ママとサクちゃんにもあとで謝るね。」
「いや、ミカちゃんがつらかったのに
助けになれなくて、パパは情けないな…。」
ミカちゃん――もとい、美影がワダを見る。
「それで、パパ。
私ね、ひとり暮らししてみたいの。」
「そうか…。いや、聞いてたが…。」
「おいちゃん…。」
美影に提案した責任もあるので、
巻き添えついでに一応ひとこと告げておく。
「兄貴もいい加減、子離れしとかないと。
今度はもっと拗らせるぜ。」
――引きこもりの反抗期か、親バカか、両方か…。
「ひとり暮らしの話はあとでママと…、
待て、こいつの家はパパ、ダメだぞ。」
「それは俺も断っておく。」
「あはははは。
組長と娘さんは釣り合わないでしょ。
俺もいるんで、心配無用っすよ、ご主人。」
踏まれたままの鬼寅が放った言葉は最悪だった。
笑われた美影は部屋に戻ってしまい、
再度説得を要する事となった。
鬼寅はもう一度吊り上げられた。
今度は兄の大山が、鬼寅のトサカ頭を
天井にぶつけて潰すほど高く上げた。
「なぁ、鬼寅くん、だっけ?
海と山どっちが好き?」
「え…。怖…。」
「山でじっくり菌類に分解されるのと、
魚と一緒に海で泳ぐの。
どっちがいいかって話だよ。」
「う…どっちも…いやです。」
質問の意味が理解できたようで、
鬼寅の顔がみるみるうちに青ざめる。
大山はいまにも鬼寅の首を
ねじ切りそうな勢いで鼻息を荒くしている。
拗れさせた親バカっぷりが、
荒れていた昔の彼を思い起こさせて
ワダはそれを懐かしむ。
鬼寅のバカっぷりも遺憾なく発揮された。
口は災いのもとである。
「鬼寅ぁ…。本来ならお前の始末は
俺がつけるべきなんだが…。ところでだ、
お前は他人の結婚にとやかく言えた立ち場か?
それともそういう仕事にでも就きたいのか?」
「いえ…。その――。」
「んーじゃあ結婚する気は?
あぁ、中古で車も買ったし、
一緒にドライブする相手も欲しいもんな。
俺の駄賃じゃ足りないよなぁ。」
「いえ…じゅ、充分…いただいて…ます。」
「お前のその口は、
海底の砂でもすくうために付いてんのか?
そのトリ頭使って考えてみろ。
陸生動物なのか? 水生なのか?」
「す、ずんばぜん…。」
息苦しさと羞恥心で顔は真っ赤に染まり、
涙とよだれと鼻水が混ざって大山の手に落ちた。
鬼寅を床に落としたところで、
大山がこらえきれずに笑いはじめた。
「どした? 兄貴。」
「ぐぁははっ…。
いや、だってこいつの顔、おかしいだろ。」
ゆでダコかサルだかわからない鬼寅の顔。
「いまさらかよ。
このアホを顔で拾ったわけじゃねえが、
笑って許せるなら許してやってくれよ。」
「おし。笑おう。」
生まれつきの顔を笑ってやるのは酷である。
しかし、埋める沈める『本家流』よりはマシだ。
大山は言って鬼寅の首根っこを掴んで引きずり、
美影の部屋に乗り込んだ。
鬼寅の顔を笑う大山の笑い声は廊下まで響く。
美影は部屋の鍵を閉めて拒絶するのでもない。
怒ってふたりを追い出さないところを見る限り、
問題はなさそうだ。
和田は階段を降りて、
遅くなったが彼女の成人祝いに用意した
桐箱の酒を取りに戻った。
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本作はフィクションであり、
実在の人物・地域・団体などとは
一切関係がありません。
参考元:
山の神講(オコゼ):尾鷲市(三重の伝統行事-東紀州地区)
https://www.youtube.com/watch?v=zJfpr8ag2V0
三重県観光連盟公式サイト「観光三重」
https://www.kankomie.or.jp/event/detail_39567.html
一日一魚 ヒメジ(ハナジャコ)
https://www.city.owase.lg.jp/public/ichigyo/kyounosakana/140419.htm