社内サーバのメンテナンスを頼んでいる業者との定期打ち合わせが押して、昼休みが遅くなった。
課長に断りを入れて、40分時間をもらい、外へ出る。本当は1時間ゆっくり行ってきていいと言われたのだが、月末が近くていろいろとやることがあるため、早めに戻ろうと思った。
運良く、会社のビルから近い定食屋が、並ばずに済みそうだった。小綺麗な構えの扉を開けて、中に入る。
「ご相席でもよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
並ぶ列こそなかったものの、店内はほぼ満席である。近いのと、リーズナブルなのに美味しい定食とで、近隣の飲食店の中では人気なのだ、仕方ない。
……だが、他の店に行かなかったことを、みづほはすぐに後悔した。案内された席に座っていた人物のせいだ。
「すみません、ご相席お願いできますか」
店員の女性が訪ねている人物に、背後から念を送る。断って、お願いだから。
いいですよ、と振り返らずに答える相手の声に、みづほは回れ右をして店を出たくなった。しかし行動に移す前に店員は去り、相手は今になって振り返り、こちらを見た。
「──────」
「………………」
お互い何も言わないが、会いたくない相手に会った、という思いは一致していたに違いない。挨拶がとっさに出ない、どんよりした空気が物語っていた。
みづほは観念して、席に着く。
コートを着て鞄を持っている様子からすると、外回りからの帰りか、これから行くところなのか。スマホに集中している尚隆の身なりを視界に入れながら、みづほは例の噂に思いを馳せた。
あの噂を田村嬢から聞いてから、2日。たった2日で、噂はすでに社内中に広まっているように感じる。内容のインパクトを考えれば当然かもしれないし──あるいは、羨望や妬みも手伝って、誰かが意図的に広めている、ということもあるかもしれなかった。
周囲の反応としては無理もないだろうし、納得はできる。自分がもし当事者だったらすごく迷惑に感じるだろうとは思うが。
……尚隆は、どう感じているのだろうか。
そもそも、噂は本当なのだろうか。
漏れ聞くところによれば、数日前に尚隆が、営業統括担当の専務に呼ばれたのは確からしい。営業の半井専務といえば切れ者で有名だ──そして、その一人娘も。
2・3年前に、専務のコネで入社するのではないかと言われていた。だが本人が嫌がったのか、専務が身内を贔屓すると思われるのを避けるためなのか、彼女は入社しなかった。代わりにというか、外資系の企業に入り、そこでアメリカ人社長の秘書を務めていると聞く。留学経験があるらしいから英語は得意なのだろう。
その上に、専務がひそかに自慢にするほどの美人で、性格も悪くないらしい。事実なら、絵に描いたような才色兼備の女性だ。
そんな一人娘の見合い相手に、尚隆を選んだということは……言うまでもなく、彼をかなり買っていることに他ならない。部署が違うから直接に知る機会はなかったけど、尚隆が所属する営業2課でなかなかの実績を上げていることは、噂の中で必ず耳にした。前職の大手商社でも成績は良かったらしい。
さらに言うなら、大学もそこそこ名の通った所を卒業しているし(卒業生のみづほが言うのもなんだが偏差値は高い方だった)、風貌も決して悪くない。……いや、昔より落ち着いた分、頼りがいのある社会人としての見た目を確立している。
出世頭として、専務に目を付けられるのも無理はない。
「お待たせしました、本日の定食です」
先に、尚隆の分が運ばれてきた。この店はランチメニューが日替わりだが1品だけなので、店員は注文を取らない。席に着けば数分後に運ばれてくる。
今日のメインである煮込みハンバーグでも、副菜のひじきでもなく、味噌汁に尚隆は口を付ける。椀を置いたタイミングで、思い切ってみづほは口火を切った。
「──広野くんの話、噂になってるね」
サラダにのばした箸が、ぴたりと止まる。
「……何の」
「半井専務のお嬢さんと、お見合いするって話」
ああ、と気のない口調の相づちが返ってくる。
「本当なの、専務に呼ばれたって」
「………………」
尚隆はしばらく無言だった。ぼそぼそとした動きで、定食を3分の1ほど食べてからお茶を飲み、ようやく「呼ばれたのは、本当だけど」と答える。
ああ、本当なんだ。みづほは複雑な気持ちをこらえて、話を続けた。
「そう、すごいじゃない。半井専務、次の副社長間違いなしって言われてる人でしょ。そんな人に見初められたなんて、広野くんも将来有望って思われたわけよね。絶対、話は受けるべきだと思う」
ぴく、と尚隆の眉の片方が上がった。しばらく無言が続いた後、おもむろに向けられた視線に、思わずぎくりとする。
抑えた感情──それが何か、はわからないけれど、今にもほとばしりそうな感情を努力して抑えて、それでも止めきれずにあふれている、そういう目だ。
……いや、彼が何を言いたくて言えないのか、本当は気づいている。だが、それを言ってほしいとは思わなかったし、言わずにいてほしかった。
「──どうしたの」
「須田は、話受けた方がいいって、思ってんの」
その口調の抑えた、だが確かに感じる重々しさに、言葉が喉に詰まった。しかし努力して、言うべき台詞を紡ぎ出す。
「もちろん、そうに決まってるでしょ。こんな機会逃すべきじゃないわよ。お嬢さんとどうしても気が合わないっていうならともかく、いい人みたいだし、とりあえず会って何回かデートしてみれば?」
努めて明るく、何でもないことだと思っている。そんな風をめいっぱい演出して、みづほは言った。
……尚隆は、もしかしたら怒っているかもしれなかった。みづほに対して。実際の真剣度はどうあれ、告白した当の相手に他の女と付き合うことを勧められては、男性の立場からするとバカにされているように感じるかもしれない。
しかしみづほも真剣だった。
自分と付き合いたいなどという、一時の気の迷いからは早く醒めて、他のいい女性を探すべきだ。本気でそう思っている。
──だって、私なんかと付き合いたいって、本心から思うわけがない。
美人と一部で噂されるようになっても、どんな異性に声をかけられても、みづほの心底にはまだ、自信のない女子大生だった頃のみづほがいる。彼が、私なんかを好きになるはずがないと、言われるまでもなく自覚していた頃の。
今だって、わかっている。この人が私を本気で好きになるわけがない──彼は、私を好きなわけではないと。
昔の、ちょっと関わりを持った女に、久しぶりに会ったから気になっているだけだ。付き合いたい、なんて言ったのもその延長線上にすぎない。懐かしいから、適度に近くにいたから、体の相性が良かったから。それだけ。
……だから、間違っちゃいけない。期待なんかしちゃいけない。
尚隆は、唇を何度か動かしかけた。だが結局は何も言わなかった。そこだけは心底、良かったと思った。
そのまま無言を互いに貫き、それぞれ自分の食事を、ひいき目に見積もっても重い空気の中で進めた。先に食べ終えたのは尚隆の方で「──じゃ、お先」と一言置いて席を立つ。
彼が去っていって、ようやくみづほはほっと息をつける心地だった。思わずコップの水を、一息に飲み干す。
──これでいいんだ、これで。
見合い話が、尚隆の「気の迷い」が晴れるきっかけになれば良いと、本心から思っている。……だから、涙が出そうになるのは、水を一気に飲んでむせたせいだ。そうに違いない。
みづほは、そう自分に言い聞かせた。
「どうしたんですか?」
「え?」
「さっきからずっと、外ばかり見て」
「……いや、綺麗な月が出たなあ、なんて」
「まあ。広野さんてけっこうロマンチストなんですね」
くすくす、と向かいの席で笑う仕草には、嫌味な雰囲気も高慢な印象もまったくない。すごいな、と彼女に初めて会ってから何度も思ってきたところだ。
──半井専務に、承諾の返事をして、およそ3週間。
返事をした翌日には引き合わされたから、彼女との初対面からも、ほぼ同じだけの日にちが経つ。
彼女──半井澄美子嬢。25歳という、聞いていた年齢よりも大人びた、そして噂以上に美しく知的な女性。それが第一印象だった。
こんな女性と自分が釣り合うのだろうか、と尚隆は本気で案じたものだ。その懸念は正直、今でも抱えている。
なにせ話せば話すほど、澄美子の頭の良さ、知識の豊富さに舌を巻き、うならされるのだ。それなりの大学を出たとはいえ、単位取得はギリギリに近く、卒論もたいした評価をもらわなかった自分など、太刀打ちできない。
それにもかかわらず、澄美子といることにさほど気後れを感じないのは、彼女の気取りのなさのおかげだろう。これだけの美人で頭脳明晰な女性なら、自身のレベルの高さを鼻にかけるのが普通ではないかと思うが、澄美子にはそういった驕りや高慢さがまったく感じられない。
一人娘として大切にされた育ちのせいなのか、彼女自身が生来持つ性質なのか、あるいは両方か。
ともかくこれほどの女性であれば、さぞかしモテるだろうし自分なんかがあてがわれる必要はないのではないか、と思うのだが、澄美子に言わせると「恋愛をする暇がなかった」のだそうだ。
「ずっと、勉強や友達との時間が楽しくて。就職したら仕事に没頭してしまって、男の人とのお付き合いにまで気が回らなかったんです。それで、どなたともお付き合いしないままに、この歳になってしまって」
初対面の時、澄美子はそう説明した。今時、そんなことがあるのだろうか。尚隆はついうたぐったが、澄美子の表情や話しぶりに嘘は感じられなかった。
そして、最初の顔合わせは、専務が同席していたにもかかわらず、思いのほか楽しかった。頭が良いだけに澄美子は話し上手で、こちらが緊張のせいでつたない話しぶりになってしまっても、その中から的確に意図やポイントを読みとり、答えを返してくれた。
彼女のおかげで、スムーズに話せた覚えはないのに、会話が案外はずんだとまで感じられたのである。
噂以上に素敵な女性だと尚隆は思ったし、澄美子の方も、理由は不明ながら尚隆を気に入ったらしく、翌日には「またお会いできませんか?」との連絡が来た。メールやLINEを教えていたにもかかわらず、電話で。きちんとお話しした方がいいと思って、との弁で、お嬢様らしく古風なところもあるらしい。
……そんなこんなで、約3週間。週末には必ず会うようになって、初対面を除くと、今日が4回目のデートである。
昼過ぎに会ってから、彼女が好きだという美術館で企画展を見学し、夜は彼女のセッティングで、フランス料理店に来ていた。上品な店構えのわりにはフランクな雰囲気で、テーブルマナーに詳しくない人間には、尋ねれば嫌な顔をせずに丁寧に教えてくれる。無知だからと客をバカにすることなどしない、ちゃんとした店だと思う。
とはいえ、正直、言われた料理の名前もよくはわからないので、とにかく可能な限り行儀良く食べることで場を乗り切っていた。そしてついつい、皿が下げられ次の料理が来るまでの間に、気が抜けて外をぼんやり見てしまっていたという次第だ。
「本当、綺麗な月ですね。もうすぐ満月なんでしょうか」
「え、いや……どうでしょうね」
「また、広野さんてば。丁寧語はやめてくださいってお願いしているのに」
「……はあ」
「私の方が年下なんですから。いつまでもそんな話し方されると、緊張してしまいます」
「澄美子さんも緊張するんですか」
「まあ嫌だ。もちろんしますよ、人間ですもの」
照れくさそうに澄美子は微笑む。たいていの男なら、この笑顔ひとつで、彼女に完全にまいってしまうだろう。正直、尚隆も何度かぐらっと来ている。それほどに彼女の笑みは、そして人柄は魅力的だった。
……だが、何かが違う。
澄美子と会うことは嫌ではないし、会話は心地よい。それでも、彼女とこの先付き合いを続けて、結婚まで至るイメージが、どうにも湧いてこない。
場所が悪いのだろうか。これまで澄美子と出かけた場所と言えば、美術館や博物館などの施設、公園、この店のような高級料理店が続いている。それらのセッティングはすべて彼女だ。口調は物柔らかなのだが、なぜか澄美子の提案には、うなずかなくてはならない空気が強かった。そして実際、提案に有無を言えない気分にさせられる。
自分の普段の行動範囲と違う所ばかりだから、気後れが先に立つのだろうか。そんな気もしないではない。
「あの、澄美子さん」
「はい」
デザートが出た段階で、尚隆は思いきって切り出した。
「次に会う時に行く場所は、任せてもらってもいいですか」
「え」
澄美子は目を丸くした。
思ってもいなかったことを聞かされた、というふうにも見える。だがすぐにその表情を消し、にこりとまた微笑んだ。
「もちろん、かまいません。広野さんの行きたい所に連れていってくだされば」
何の含みもない口調で澄美子は言った。
その、あまりにも何気ない調子に、じわりと感じた違和感を尚隆は打ち消した。
……そうして、次の週末。
土曜日が半日出勤のシフトだという澄美子に合わせ、日曜日に会う約束をした。
尚隆が立てたプランは、といっても込み入ったものや高尚なものが思いつけるはずはなく、「映画を観に行って喫茶店でお茶、その後居酒屋で夕食がてら飲む」という、学生時代から変わらないパターン。非常にありきたりだ。
しかし、そういう、尚隆にとっての「ありきたり」の状況に澄美子がなじむ──なじめるかどうか。そこが重要なポイントだと思ったから、あえて使い古したプランを選んだ。
ただし映画に関してはつい気を使ってしまい、洋画の、落ち着いたストーリーの(であると思われる)恋愛ものを選んだ。
「こういうの普段観ないんですけど、興味深かったです」
観賞後の澄美子はそう言った。立ち寄った近くの喫茶店では、しばし映画の感想で盛り上がった──と言うべきか。
「あの場面で、男性がああいう行動をとるのはちょっと納得いきませんけど。女性が止めているのだし、危険な場所に行くのは人情に反すると思いますわ。そうでしょう?」
「まあ、あれは戦争時代の設定だから……男は戦地に行くのが当然と思われていた時代でしょうし、行かなければ世間に白い目で見られていたんじゃないかな」
「それがおかしいんです。愛し合っている二人を引き裂くなんて、いくら世間だろうと国だろうと、許されるべきじゃありませんわ。ねえ、そう思いません?」
「……ええまあ、そうかもしれませんね」
でしょう、と意気込む澄美子はちょっと珍しくて、端から見るなら「美人が頬を赤くして熱心に喋る姿は見ものだ」で済むと思うが、会話の相手としては感じるのはそれだけではなかった。
非の打ち所がない、完璧な女性と思える澄美子の唯一とも言えそうな、かつ大きな問題。
当人はきっと無意識であるに違いない。だが明らかに、彼女には「人を従わせなければ気が済まない」性質がある。
尚隆の提案に目を丸くしたのも、熱の入った会話で必ずこちらの同意を求めるのも、その表れだと感じた。おそらく、自分の言う通りに人が動くことに慣れていて、そうではない状況は落ち着かないのだろう。
たぶん、両親も周りの人間も、澄美子が可愛いあまりに、彼女の要求には百パーセントに近い割合で応じてきたのだ。澄美子自身、ポテンシャルが非常に高く何でもできる女性だから、意に沿わない、希望に反する事例には、これまでほぼ出会わなかったのかもしれない。
「広野さん、聞いてらっしゃいます?」
「え、ああ、聞いてますよ」
「本当に、監督の見識はどうなっているのかって、直接聞いてみたいくらいですわ。メール送ろうかしら。アドレスご存じありません?」
「いやさすがに……それは知らないですね」
話が長くなり時間が経ってきたのと、少し気分を変える目的とで、通りかかった店員に「すみません、ホットコーヒーとレモンティーひとつずつ」とお変わりを頼んだ。
するとすかさず「まあ」と目を見開き、澄美子は言った。
「私、次はミルクティーにしようかと思ってましたのに。頼む時はおっしゃってくださいな。
すみません、レモンティーはミルクに変更してください」
「ああ、失礼しました」
「そもそも男性って、思いこみが強すぎるところがあると思うんです、先ほどの広野さんみたいに。私がレモンティーを飲んでるからって、お代わりも同じだとお思いだったでしょう。そうとは限らないんですよ」
余計なことをしてしまった。澄美子に言質を与えてしまったうかつさに歯噛みする。尚隆のそんな後悔には気づかないふうで、澄美子はさらに話を続けた。
「だいたい、あの男性も、女性の話をちゃんと聞かないからあんなことになって──」
……結局、話が終わったのはそれから1時間半後、午後6時に近かった。
「ごめんなさい、私ってば興奮してしまって。喋りすぎてしまいましたね」
つい十数分前までの勢いが嘘のように、澄美子はしとやかに落ち着いた、普段の「お嬢様」の様子に戻っている。
「でも、楽しかったです。これからどちらに?」
尋ねられたが、正直、尚隆にはもう、今日は澄美子とこれ以上一緒にいたいという気持ちはなくなっていた。ひどく気疲れして、ともかく休みたかった。
「……すみません、今日はここまでで。実は少し風邪気味なので──もちろん、送りますから」
どう言われるかと思ったが、澄美子は意外とあっさり「あら、そうなんですか」と、いくぶん残念そうな色を混ぜて、応じた。
「わかりました。今日は一人で帰ります、まだ早いですし」
「いいえ、ちゃんとお宅まで送ります。責任ですから」
澄美子の家は今いる場所から1時間ほど離れた、山手の高級住宅地にある。6時過ぎとはいえ時期は冬至近く、もう陽は沈んでいるし、一人で帰したら専務や彼女の母親に何と思われるか。
「でも、風邪気味なら早く帰った方がいいですよ。雪も降っていますし。私は本当に、大丈夫ですから」
澄美子がそう言うのに、迷いはあったが、本心では少しでも早く一人になりたかったので、最終的には「そうですか」と同意した。
「ならせめてタクシーで帰ってください。代金は出します」
そこでまた、ひとしくり押し問答があったが、尚隆が粘って、澄美子に1万円を押しつけた。これでとにかく今は別れられるなら、安いものだと思った。
大通りでつかまえたタクシーが去ってゆくのを見送りながら、尚隆は心底、ほっとした気持ちでいた。同時に、ぐったりと心が疲れているのも感じた。
陽が落ち、街灯に照らされた駅前の通りを、ふらふらと駅に向かって歩く。
……そこから、いつもの路線には乗ったものの、自宅の最寄りでは降りず、さらに先の駅に向かったのは、無意識だったのか意識してなのか。
自分でもわからなかった。ただ、今は心の安らぎがほしいと思った。窓の外の雪は今は止んでいる。
目的の駅で降りて、記憶を頼りに歩を進め、マンションにたどり着く。のぼり始めた月に誘われるように。4階建てだからエレベーターはない。階段を、一歩一歩、何かを確かめるように踏みしめて上った。3階まで。
そして扉の前に立つ。インターホンを押した。
はいどなたですか、の穏やかな声。名乗ると「えっ」という驚きが返ってきた。
ぷつりと通話が切れると同時に、部屋の中からは焦った足音。数秒後、がちゃりと扉が開いた。
「……広野くん」
目をいっぱいに見開き、みづほはこちらを見上げている。当然だろう、いつだったか、この家までの道はよく覚えていないと言ったのだから。だがいざ駅に降り立ってみると、自分でも不思議なほどに、一度だけたどった道を正確に思い出した。
「どうしたの、こんな時間に──また雪、降ってきたの?」
マンションに着く少し前、止んでいた雪がまた、ちらちらと降り出してきた。冷えたコートの肩や髪に残る雪を見て、みづほは尋ねたに違いない。
「……とにかく一度入って、寒いから。コーヒーでも飲んでから──」
戸惑いを隠せないながらも、そう言ったみづほの言葉が、急に途切れた。自分が抱きしめたからだ。
すぐ後ろで、扉が音を立てて閉まる。鍵を閉めなければ、と一瞬思ったものの、そうするために動く気にはなれなかった。今はただ、みづほの温かい体に、優しい心に触れていたかった。
当然ながら、みづほはいきなりの事態に体をこわばらせている。しばし後、我に返って身じろぎし、尚隆の腕から逃れようともがいた。その動きを左腕で封じながら、右手を彼女の頬に添える。
「────、────」
唇も、きっと冷たかったに違いない。重ねた瞬間のみづほの驚きには、それも含まれているように思った。だがそれ以上にもちろん、今の状況自体に驚愕しているだろう。
そうだとわかっていながらも、やめようとはしなかった。思わなかった。彼女が、みづほが、欲しかった。
唇のかすかな震えが、止まった。だらりと下げられていたみづほの腕が、おそるおそるといったふうに、尚隆の背中に添えられる。
「…………鍵、閉めてくれる?」
ややあって唇を離した時、みづほは言った。
受け入れるサインなのだと、尚隆は判断した。
今夜ほど、一人の女を欲しいと思ったことはかつてなかった。彼女を1秒でも多く、少しでも強く感じたくて、何度も繰り返し求めた。みづほが、感覚的にはともかく経験上では慣れていないと前の時に気づいてはいたが、衝動を抑えられなかった。
そしてみづほは、慣れていないはずなのに、こちらの求めに適宜応じてくれた。つながるたびに深くなる充足感、高まる昂揚は、果てがないようにさえ感じられた。
……そうして3度、彼女とつながり。
さすがに息が上がって、二人ともしばらく横たわって休んでいた。だが息が落ち着くと、またもや欲しくなる。回数もわからなくなるほど重ねたみづほの唇を幾度かついばみ、肩から背中の肌をするりとなぞってから、腰を引き寄せる。
みづほがひゅっと息を吸い込んだ。
「ま、まって」
二の腕に添えられた彼女の手のひらからは、制止の意志が伝わる。
「……ちょっと、もう、無理」
声に色が付くなら、きっと真っ赤になっていたろう。そういうふうに思えるような、恥じらいでいっぱいの声だった。
そんな様子にも、尚隆の心にはじわりと火がともる。
──可愛い。
愛おしさが胸に、体全体に満ちる。みづほのまぶたに、頬に、唇に飽きることなく口づけた。みづほは最初こそ、もじもじと恥ずかしそうに避ける仕草をしていたが、やがておとなしく、雨のように続くキスを受け入れた。
あれだけ抱き合ってつながっても、みづほの中にはまだ、恥じらいが存在している。その事実がたまらなく可愛らしく思えた。
もう一度、は彼女のために止めておくことにしたが、体を引き寄せた腕は解かない。体温を、匂いを、まだしばらくは感じていたい。
「……なにか、あったの」
腕の中でみづほが尋ねた。行為の合間にも何度か、何事か言いかけていた。たぶんそう聞きたかったのだろう。
夜に、前触れもなく訪ねてきて、なんの説明もなしにただ繰り返し求めた。彼女でなくとも、誰であろうと疑問に思うのは当たり前だ。……だが、説明する気にはなれなかった。
今この時、みづほに対して、澄美子の話はしたくない。
「──何もないよ」
だから、そう答えた。みづほは顔を動かして、こちらに目線を移したようだった。おそらく、重ねて問いたかったのだろうけど──尚隆が言いそうにないと思ったのか、実際には2度目の問いは発されなかった。
代わりに、頭が再び動き、肩にすり付けられる。
そして目を閉じたようだった。……しばらくして、穏やかな寝息が聞こえ、呼吸がかすかに肌に当たる。
先ほどの問いも声が揺れていたし、相当疲れているに違いない。そうさせたのは自分だから、多少の後ろめたさ、申し訳なさは感じるものの、間違ったことをしたとは思っていなかった。
自分の心に嘘をつかない行動をした。それを後悔してはいない──彼女もそうだと、思いたい。
眠るみづほの耳元に、唇を近づける。
「好きだよ、みづほ」
ささやいて、耳たぶに口づけた。かつてないほどの愛しさに、尚隆の心と体は満たされていた。
その日出社すると、課長が厳しい顔でみづほを呼んだ。
「何でしょう?」
「淵上部長が呼んでる。出社次第すぐに来させるようにとのことだから、急いで行ってくれ」
淵上とは、システム課を含めた総務部門の部長である。営業畑出身のためか、普段は課のことは課長にまかせきりで、大きな会議や重要な決裁以外で関わってくることはない人なのだが。いったい何だというのだろう。
「わかりました。もし時間がかかったら、朝礼の進行お願いできますか?」
「やっとくから、とにかく急いで」
温厚で落ち着きのある課長が、どういうわけか妙に焦っている。普段ならあり得ないことの二重発生に、みづほの頭は混乱してきた。
とにかく、部長の所に行かなければ。8階から9階に上がり、指定された小会議室へと向かう。
案内札が使用中になっているドアを、2回ノックした。
「おはようございます、須田です」
「入りなさい」
ドアを開けると、一番奥の席に淵上部長が座っていた。先ほどの課長と同じく、いやもっと、厳しい表情でみづほを見ている。
ふわりと浮き上がってくる、予想があった。
「お待たせしました。お呼びと伺いましたが」
「とりあえずそこに座って」
そこ、と示されたのがどこなのかはっきりしなかったが、自己判断で、部長から3つ椅子を空けた位置に座った。
「さっそくだが、先週の週末、君は何をしていたかな」
「先週末ですか? 自宅におりました」
「証明できるかい」
「証明、と申されましても、私は一人暮らしなので」
「2日間、ずっと一人だったと証明できるか、ということなんだが」
「……何をおっしゃりたいのでしょうか、部長」
「これだよ」
と、部長がわざわざ立ち上がり近づいてきて見せたのは、3枚の写真。反射的に言葉が出なかった。
尚隆が、みづほの部屋があるマンションへ入っていくところ、みづほが尚隆を出迎えたところ──尚隆に抱きしめられた瞬間。誰がどうして撮ったのか、なぜこんなに的確に撮れたのか。想像しただけで背筋が寒くなる。
「写っているのは君と、営業の広野くんで間違いないね。
君も聞いているとは思うが、彼は今、半井専務のお嬢さんとの縁談が進んでいる。正式にはまだ決められていないが、まあ婚約者のような立場だ。その人物と、休日に自宅で密会するとは、いったいどういうつもりだったのかな。ぜひとも君の言い分を聞きたいね」
「…………この写真は」
「個人情報は伏せるが、ある社員からメールで昨日、私に送られてきた。パソコンで見せるより、印刷した方がよくわかると思ったんだよ。
さて、何か弁明なりなんなり、言いたいことはあるかな」
みづほは、しばらく沈黙した。
言い分が、無いわけではない──あの日、約束などはしていなかった。訪ねてきたのは尚隆の方である。夜に突然のことだったし、コーヒーでも飲んでいけばいいと思ったのは外のあまりの寒さに驚いたからで、他意は全くなかった。
……だが、結果的に彼の抱擁を受け入れ、一晩を過ごしたのは事実である。拒むこともできた。しなかったのは、まぎれもなく自分自身の選択だ。どう言い訳しようとその事実は変わらない。
たとえ自分にいっさいの非がなかったとしても、この写真がある限り、なにを言っても無駄だろう。
「──いえ、何もありません」
「なら、認めるんだね」
「はい」
そうか、と淵上部長はため息を吐き出すように言った。その「残念だよ」と言いたげな口調で、次に何を言われるのかも、なんとなくわかってしまった。
「須田くんは、入社以来システムの方で、よく頑張ってくれたよ。前坂くんから女性を主任にすると聞いた時も、反対はしなかった。君ならまあ務まるだろうと思ったからね。
その君がこんなことをしでかすとは……本当に残念だよ」
課長の名前を挙げ、淵上部長はいかにも惜しむような調子で、今度は声に出してそう言った。どこまでが本心なのかは疑わしいが。昇進の際「反対はしなかった」と言った通り、色よい反応も返さなかったと、前坂課長から聞いている。
「非常に残念だが、君がこの会社にいると、また同じ間違いを起こさないとも限らない。申し訳ないが、なるべく早く、辞めてもらいたいというのが上の意向だ。了解してもらえるだろうか」
表向きは疑問形、こちらの意思を確認している形だが、実質的には勧告に違いない。もしこの場で騒げば、公式に懲戒退職という事態にもなりかねないだろう。部長の表情を見てみづほはそう察した。
とても、不本意ではある。熱を入れてきた仕事を、こんな形で辞めねばならないなど──だが、証拠を突きつけられた上に、おそらくは半井専務の意向が働いているのであれば、どうしようもなかった。
絞り出すように、みづほは懸命に言った。
「…………承知しました」
「そうか。聞き分けが良くて助かるよ。ああ、もちろんだが自己都合退職扱いになるから、そのつもりで頼むよ」
「はい」
「それで、いつ辞められるかな。できれば2週間ぐらいでどうだろうか」
「──後任への引き継ぎの都合もありますから、せめて1ヶ月は頂きたいのですが」
「長いな。3週間程度にならないかね」
「……わかりました、では3週間で準備します」
「よろしく頼むよ」
部長との話を終え、小会議室を出て数歩進んだところで、みづほは立ち止まってしまった。システム課へ早く戻らなければいけないのに、足が動かない。
──心が、ひどく打ちひしがれていた。
上の意思であっさりと会社に切り捨てられたから、だけではない。自分の仕事が、しょせん2・3週間程度で人に任せられること、つまりは誰にでもできることに過ぎないと判断された。それが想像以上に辛かった。
客観的には、事実なのかもしれない。そうでなければ後任に引き継ぐこともできない。……だが、主任になって1年足らずとはいえ、精一杯の仕事をしてきた。目立つ立場ではないけれど重要な仕事、そう思って頑張ってきたのだ。
なのに──
「よう、どうした」
神経に障る声がして、顔をそちらに向けると、本庄が立っていた。……ああそうか、ここは9階、営業フロアなんだっけ。だったらなおさら、早く立ち去らなくては。
実行に移そうとした瞬間、本庄が「なんかあったか?」と先ほどと同じ口調で問うてくる。あなたには関係ない、と言い置いて去ろうと思った。だが、できなかった。
再び見た本庄の顔に、無視できない意味ありげな笑みが、貼り付いていたからだ。その表情で直感した。
「────まさか、あなたが?」
ぷっ、と本庄が息を吐き出して笑う。
「なんのことだよ」
その表情と目つき、声音から、相手がとぼけていることは明らかだった。本庄ならこちらの家を知っているし、これまでの経緯上、ああいうことをする動機もある。みづほを陥れる絶好の機会だと思ったに違いない。
その執念に基づいた行動を想像し、また寒気を感じる。
だが、本庄がやったという確実な証拠がない以上、この場で問いつめることはできなかった──それに、そんなことをしてもこの男は認めないだろうし、仮に認めたところで何も変わりはしないだろう。みづほは諦めるしかなかった。
「──いいえ、なんでも。私の勘違いです」
「だろうな」
くくっ、と喉を鳴らして本庄は再度笑う。しつこく続く声をそれ以上聞かないよう、みづほは足早にその場を去った。
……あまり長くこのフロアにいると、今度は尚隆に出くわすかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
今、彼に会ったら、何か声を掛けられたら、平静を保てるとは思えない。せめて、みっともない言動は、最後までしたくなかった。誰の前であろうと。
「辞めた?」
室内であるにもかかわらず、否、わかっていながら、大声を出さずにはいられなかった。
「どういうことですか、それは」
システム課の部屋に入ってすぐの受付スペース、応対した同じ年頃の男性社員を、尚隆は問いつめる。
対する社員は、困惑したように首を傾げるばかり。
「どうと言われても……こっちも急な話で、よくわからないんですよ。一身上の都合としか」
「一身上の都合?」
おうむ返しについ言ったが、信じられなかった。あれほど一生懸命に仕事に取り組んでいた彼女が、そんな、ありきたりすぎる上に詳細の不明な理由なんかで辞めるはずがない。
年が改まって、今は1月上旬。
先月、正確には3週間ほど前、尚隆は突然、課長の海外出張への同行を命じられた。日程は半月と、初めてなのに長丁場なのが気になったし、海外経験がほとんどないため不安でもあったが、良い機会だから行った方がいいと課長や同僚に励まされ、どうにか準備を整えた。
支社があるタイへの出張は、確かに貴重な体験の連続で勉強になったし、得意とは言えない英語も多少は鍛えられたような気がするから、行ってよかったと思う。そして帰国後は「疲れているだろうから」と、3日間の特別休暇を与えられた。続く週末も換算して、合計5日、仕事を休んだ。
そして久しぶりに会社に出てきて、システム課を訪ねた顛末がこれである。始業時間はとうに過ぎているのにみづほの姿が見えないので、近くの男性社員に尋ねたところ、主任は先週で退職しましたと言われたのだ。
「都合ってなんですか。まさか仕事でミスでもしたとか?」
「いや、それは……」
さらに詰め寄ると、男性社員(野間口、とネームカードが見えた)はカウンターから2歩、後ずさった。困らせている自覚はあったが、聞かずにはいられない。これ以上何もわからないなど、納得できない。
みづほが座っているはずの空席の向こう、責任者位置の席で、咳払いが聞こえた。見ると、その席の主、システム課の課長が立ち上がるところだった。
「広野くん、別室で話そう。君は席に戻っていいよ」
と言われた野間口氏は、会釈しながらそそくさと自分の席へ戻る。その姿に、先ほどよりは強く、申し訳ない思いが湧いてくる。他の社員の刺すような視線にも今さらながら気づいた。
こっちへ、と促されて、同じ8階の小会議室へと向かう。おそらく総務やシステム課が会議の際に使う部屋だろう。
「さてと」
システム課課長──ネームカードに「前坂」と書いてある相手は先に手近な椅子に腰掛け、立ったままの尚隆に「座りなさい」と自分の隣を示した。
言われた通り、小会議室仕様のパイプ椅子に腰を下ろす。
「君は、先週出張から戻ってきたんだったかな」
「そうです」
「で、須田くんに何の用だったんだい」
「個人的な話です。帰国してから何度か電話したんですが、つながらなかったので。それで伺いました」
──あの日、彼女の家で一晩過ごした、翌朝。
月曜日だったから、始発の時間を見計らい、一度自宅に戻ることにした。そろそろ服を着ようかと考えた頃に、みづほも目を覚ました。
二人そろってシャワーを浴び、身支度を整えた。彼女が用意してくれた朝食を取り、コーヒーを飲み、30分ほどを過ごした。その間、必要最低限の事柄以外はほとんど喋らずにいた。自分は考えていることがあったし、みづほはずっとうつむきがちで、頬を染めたままでいた。シャワーの際、抱き合いながらキスを繰り返したことが、後になって恥ずかしくなったのかもしれない。
『じゃあ、帰るな』
『……気をつけて』
『ちゃんとしてから、話すから。待ってて』