そう言うと、凛花は目を見開いて黙ったままこちらを見た。
今まで「家が近所の同級生」としか伝えていない。ボロが出て名前で呼んでいたことや、好きなアイスを教えたことはあったけど、それ以上の話はしてこなかった。
あの日の事故のことさえ言わなければ、神様は多少の思い出話も許してくれるだろうか。そんなことを考えて口を開いた。案の定、凛花は驚いてくれた。
「小学校の頃って……私達、いつから一緒にいたの?」
「保育園から、だったか。小学校に入学する前。俺がお前の家の近くに引っ越してきた。近所には同い年の子がお前しか居なかったこともあって、よく一緒に遊んでた。家族同士で仲が良かったよ。ここの遊園地も、凛花の家族が行った後に楽しかったことを熱弁されて、次の休みに行ったくらいだ。ああ、迷子になった話も聞いたな。大変だったねって慰めるので精一杯だったけど」
「た、確かに迷子になったけど……私、いろんなこと話してたんだね」
恥ずかしい、と顔を隠す凛花を見て、少しだけ肩の力が抜けたような気がした。彼女は赤い頬を隠すように両手でおさえながらさらに訊いてくる。
「どうして教えてくれたの? 今まで全然話してくれなかったのはなんで?」
「……思い出してほしくなかったから」
俺がそう言うと、凛花がきゅっと一文字に口を結んだ。なにかを覚悟した顔つきに、俺は「嫌いだったからじゃなくて」と続けた。
「事故当時の記憶を思い出してほしくないのが一番だけど、ずっと俺のことばかり気にかけてくる凛花に申し訳なさを感じてた」
小学生の頃は特に泣き虫だった。
背が小さいことで茶化され、体格のいいクラスのガキ大将には体当たりされるとすぐ吹き飛んでしまうくらい弱かった。周りが怖くて、怖くて、学校に行くことが億劫になった。勉強したくないからとか、授業に出るのが嫌だからとかよりも、人が怖くて学校に行けない。休日さえも引きこもりになって、随分両親を困らせたと思う。
そんな時、凛花が助けてくれた。
「放課後に宿題のプリント持ってきてくれて、一緒に解いた。学校に行かない日があっても必ず声をかけに来てくれた。いつも俺のことを気にかけて一緒にいてくれる。周りには必ず陰口をする奴がいて敵だらけだったのに、凛花だけが助てくれた。……心強いと思う反面、何もできないまま、ただ凛花の後ろに隠れていた自分が情けなかった」
ここで一度、言葉を切った。
凛花に今まで一度も自分の考えを話してこなかったことを、ひどく後悔した。記憶を失った凛花に過去の話をして考えを訴えても、お互いに罪悪感しか残らない。それでもどこかで思い出してほしいと願ってしまう自分がいるのも事実だった。
事故が起きたあの瞬間――いや、二人が出会った時からずっと、俺の感情はぐちゃぐちゃで、自分でも整理できずにいたのかもしれない。
「だから、事故に遭ったお前が俺だけの記憶を失っているのを知って……安心したんだ。不謹慎なのはわかってる。自分でもおかしいと思った。でもそれ以上に、もう凛花が俺のことを考えなくて済むと思ったら……ホッとしたんだ」
「そんなの……」
「わかってる! ……勝手すぎるよな。でも、俺は忘れてほしかった。俺のことを忘れて、学校の友達と残りの高校生活を楽しんで、好きな奴と付き合って、俺の知らないところで幸せになってくれたらいいって思ってた。……それなのにお前は、なんで関わってくるんだよ? これじゃあ俺は……またお前に縋って、助けられようとしてる、最低な人間だ」
嗚咽交じりに本心を告げると、凛花から目を逸らした。今まで溜めてきたものを吐き出すのが弱い者がすることだと思うと悔しくて、何よりそれを凛花にぶつけてしまうのが本当に嫌だった。
「……溝口くん、ちがうよ」
凛花がそっと、俺の手に触れて優しく包み込んだ。そっと顔を上げて見れば、うっすらと涙が浮かべている。
「勝手なのは私の方だよ。目が覚めた時、お母さんもクラスメイトも、どうして溝口くんを責めているのかわからなかった。でも学校に行って溝口くんの辛そうな顔を見て、私が傷つけたんだと思った。この人が私を突き飛ばして事故に遭わせたんじゃない、私が君を傷つけた。だから少しでも周りの人にわかってほしくて、あんな宣言をしたの。根拠なんてなかったよ。気づいたら勝手に動いてた。……でもそれが溝口くんを追い詰めてた、知らなかったとはいえ、ごめ――」
「謝るな」
「……え?」
「謝るなよ。……生きていてくれて、よかった」
包まれた手を外して、自分の手を重ねる。眠っている時以来に握った彼女の手は暖かかった。
車道で動かなくなった凛花の姿を見たときは、本当に死んでしまったのだと思った。コンクリートに広がる赤い液体、ぴくりとも動かない身体、冷えた手は今も忘れられない。それがこうして今、目の前にいる。たとえ記憶の一部を無くしても目を覚ましてくれた。それだけが救いだった。
すると凛花も手を握り返してくれた。夕日はもう雲で隠れてしまったのに、頬は赤く染まっている。
「私は記憶を無くして、以前の私の気持ちに寄り添うことはできない。でも、その……」
「凛花?」
「……っ、私、溝口くんが――」
言いかけたその瞬間、凛花がまるで糸を切られたマリオネットのように、ぐらりと身体がズレて座席から落ちそうになった。慌てて抱き止めるも、凛花は固く目を閉じて眠っている。
「凛花? おい、凛花!」
突然何が起こったのか。疲れて寝てしまったとも言い切れないが、不自然に意識が途切れた気がした。何度名前を呼び、身体を揺すり頬を軽く叩いても、一向に目が覚める気配がない。
体勢を変えようと顔をあげると、先程まで凛花が座っていた席に、いつかの仲介人が座っていた。
「やぁ。久しぶりだね」
「……なん、で……お前」
「お前って言い方は良くないな。仲介人と呼んでくれと言わなかったかな?」
仲介人はあの日と同じ全身真っ白な服を纏い、キャスケットを深く被っている。表情からは相変わらず何を考えているのか読み取れない。
こんな狭い空間にどうやって現れたのだろうか。
眠っている凛花を引き寄せて覆うように抱きしめると、キッと仲介人を睨んだ。
「いつからいた? お前、人間じゃないって言ってたな」
「確かにボクは人間じゃない。けど難しい話をして君は理解できるのかい? 彼女のことはおろか、自分のことも知らない君が。……でもまぁ、そうだな。ここに来た理由を述べるなら、『ルール違反』をしたから、かな」
「ルール?」
「そう。古賀凛花とボクは、記憶を失う前にとあるルールを取り決めたんだ。それに違反すると気を失い、自分が何を言おうとしていたのかを忘れてしまうのさ。だから君も、彼女が言いかけた言葉は聞かなかったことにしてほしい」
仲介人が茶目っ気にそう言うと、凛花に手を伸ばそうとする。思わず振り払った。
「……ふざけるな、なんでそんなことお前に決められないといけないんだ!」
「考えればわかることでしょ? それはボクが彼女の代償を受け取ったからさ」
さも当然のように笑う仲介人に、俺は凛花を抱えたまま胸倉を掴んだ。顔色を一切変えない仲介人はさらに続ける。
「暴力は良くないね。というか、叶えてあげたんだから当然でしょ」
「叶えたとかルールとか、よくわからねぇけど、お前が凛花の記憶を奪ったのか」
「まぁ、そういうことになるね」
「っ!」
「どうして君がそこまで怒りを露わにするんだい? 彼女とは合意の上で取引をしたんだ。君は一切関係ないだろう」
「……せ」
「ん?」
「お前が凛花から奪ったもの、全部返せよ!」
力を込めて掴んだポンチョがギチギチとしなる音が聞こえる。「記憶を奪った」と自白した今、凛花をこんな目に遭わせた相手を放っておくことなどできない。今すぐにでも嘲笑う仲介人を殴り飛ばしたかった。
でももし、凛花がこのまま目覚めなかったらと思うと、簡単に拳は向けられない。それを見通したうえで、仲介人は言う。
「奪ったとは心外だな。でも安心しなよ。彼女はこの観覧車が頂上を過ぎる頃に目覚める。今日の事は覚えているけど、言いかけたことは忘れてしまうけど。そういう取り決めだから、仕方がないね」
「……っ、お前!」
「じゃあ彼女の全部を取り返すために、君は何をくれるの? 自分の命でも差し出すかい?」
ポンチョを掴む手に仲介人の指先がそっと触れる。寒空に晒された、酷く凍えた手からは体温など感じるはずもなく、手首、肘、二の腕までなぞられ、そっと小太郎の首元に添えられた。キャスケットから見えた、鋭い目がぎらりと光る。
「止めた方がいい。君が生かされているのは彼女のおかげなんだよ。つまり、君がいなければ彼女はこんな取引をせずに済んだ。……彼女が守った命を、今ここで無駄にするかい?」
「……どういう、ことだ……?」
「そのままの意味さ。君が死ねば、彼女のしたことは意味がない。今度こそ自分から車道に飛び出すだろうね」
首元に手を添えられているだけなのに、首が締まっていく感覚がした。ゆっくり、じわじわと冷たい指先が気道を潰していくようだった。今すぐその手を振り払って逃げたかった。
でもここで逃がしたら、いつまた仲介人が現れるかわからない。人間かどうかもわからないこの人物だけが、凛花の失った記憶を取り戻す唯一の手掛かりなのだ。仲介人の言うことすべてを聞いて考えている余裕はすでにない。
このチャンスを逃してはならない。――その一心でポンチョを掴む手の力を強めた。
緊迫した空気が張りつめる中、ゴンドラが頂点に到達する。それを見て仲介人がフッと笑うと、俺の首から手を離した。
「なんてね。冗談さ。君も手を離してくれるかい?」
「……お前が凛花の記憶を戻してくれたら、すぐにでも離してやるよ」
「困ったな。まず君が彼女の真意を見つけてくれないと何もできない。話はそこからさ」
おどけた様子を見せる仲介人を前に、黙ったまま睨みつけた。そのしつこさに呆れたのか、仲介人は大きく肩を落した。
「仕方がない。一つだけ教えてあげよう。彼女は人には言えない悩みを抱えていた。しかし、唯一彼女の悩みを知っている人物がいる。茶化すような口ぶりをしていたから、言われた当人にはそれがいかに重要であるかは気付いていないかもしれないけど」
「それと記憶が失ったこと、事故に遭ったこととどう繋がるんだよ?」
「何度も言わせないでよ。抱えていた悩みに気付き、事故を調べれば自ずと答えが出てくるんじゃないかな。……君はつくづく面倒な人間だね」
仲介人はポンチョを掴む手を今度こそ振り払うと、突然ゴンドラががくん、と大きく揺れた。
咄嗟に手すりに捕まって、未だ眠っている凛花が離れないように抱き締めた。強風か地震か。揺れが激しくて立ち上がることができず、外の状況がわからない。ようやく揺れが落ち着いて、周りを見渡せる頃には、ゴンドラは地上へゆっくりと下がっていくところだった。他のゴンドラの揺れも変わらないため、きっと強風で煽られたのだろう。
顔を上げると、目の前に座っていた仲介人がいないことに気づいた。ドアや天井から抜け出したわけでもなく、いつの間にか忽然と姿を消した。
「……なんなんだよ、アイツ」
本当に人間じゃねぇのかよ。
特に全て知っているかのように人を見下した言動に腹が立つ。最後に言われたのも、結局は自分で見つけなければ意味がないと再度言われたようなものだ。教えるどころか、ヒントすらなっていない。
煮え切らない中でも凛花を席へ移すと、ぴくりと瞼が動いた。
「ん……」
「凛花? 起きた?」
「あ、れ……? 私、なんで!」
慌てて凛花が飛び起きると同時に、ゴンドラがまた大きく揺れた。慌てて近くの手すりを掴んで、彼女の方に倒れ込むのを堪える。
「いきなり動くなって! ゴンドラの中なんだから!」
「ご、ごめん! 忘れてた……」
揺れがおさまるのを待って、そっと元居た席に座ると、凛花は苦い顔をして訊いてくる。
「私、寝てたよね……ごめんね」
「ちなみにどこまで覚えてる?」
「えっと……私も自分勝手だよって言ったのは覚えてるんだけど……ごめん、そのあたりからわからない」
どうして寝ちゃったんだろう、と首を傾げる凛花。
仲介人の言った通り、言いかけた言葉はなかったことになっている。眠っている間に頂上を越え、あと少しで降りるのだとわかると、凛花は大きく肩を落した。
「ショック……せっかく頂上まで行ったら、一緒に写真撮ろうと思ってたのに……」
「写真なら牧野が撮ってただろ?」
「でもツーショットは撮ってない! おばさんにお願いされてるから、撮らなきゃって思ってて」
「……それってツーショットじゃないとダメなの?」
「ダメじゃないと思うけど、私も欲しいし」
「……ったく、そっち詰めて」
ポケットからスマートフォンを取り出すと、凛花の隣に座った。カメラモードを起動して画角に二人と背後の景色が見えるように入れる。さすがに牧野みたいに撮り慣れていないけど、これで我慢してもらおう。
「えっあ、あの、溝口くん!?」
「要らないならいいけど」
「い、いる! あ、ジェットコースター来るよ! 入れられるかな?」
「そんな良いタイミングで入るか……って、来た!?」
慌ててシャッターを切れば、運よく入り込んだジェットコースターとともに、どこか幼さが残る笑顔が写っていた。凛花のスマートフォンに送ると、表示された写真を見て嬉しそうに目を細めた。
ゴンドラを降りて、先に戻っていた四人と合流する。出入り口のある正門まで戻る道中、佐山が興奮気味に聞いてきた。
「お前と古賀ちゃんが乗ってたゴンドラ、めっちゃ揺れてたけど中で何してたんだよ?」
「え? 強風だろ?」
「確かに風吹いて揺れたけど、俺達のところそんなに揺れてなかったし。てっきり中で暴れてるモンだと……って、その蔑む目で見るな!」
強風や地震かと思っていた大きな揺れは、俺達が乗っていたものしか現れなかった?
揺れたのは仲介人が消えた直後だ。跳躍力でもついているのだろうか。思わず舌打ちをしそうになるも、平然を装った。
「多分、俺がスマートフォンを落して屈んだのと、同じタイミングで風が吹いたんだ。手すりとか捕まってなかったから、揺れに耐え切れなくて転んだけど……」
「本当かぁ? 古賀ちゃんに確認していい?」
「いいけど、アイツ寝てたから覚えてないと思うよ」
閉園時間を告げる音楽が流れてくる。駅行きのバで他の来場者と混ざってしまい、凛花と青山、森田の三人とは離れて座ることになった。
窓側から牧野、俺、佐山の順で座って出発すると、佐山はものの数分で口を開けたまま眠ってしまった。
「一番盛り上げてくれてたもんね、佐山くん」
「駅まで直行だし、放っておくか」
「そうだね。……それで溝口くん。凛花ちゃんとはどうだった?」
わくわくと笑みを浮かべて聞いてくる牧野に、少し考えてから口を開いた。
「半分は言えた、と思う。凛花も教えてくれた。……けど」
「けど?」
「……それだけ、だな」