溶けて消える、その前に

 驚いての方を向くと、彼女はにやけたように頬を緩ませ、照れながらも姿勢良く木馬に乗っている森田を写した画面を見せて言う。

「凛花ちゃんに怒られたら、私があげたって言っていいからね」
「……なんで」
「凛花ちゃんのこと、好きじゃないの?」

 牧野が悪びれなく訊いてくると、俺は口をつぐんだ。誰かに言った覚えはないし、誰にも言うつもりもない。する牧野は「私にはそう見えたよ」と続けた。

「私達って、三年間同じクラスだったでしょう? 凛花ちゃん、ずっと私やさっちゃんに溝口くんのことを話してくれたんだよ。それこそ、小さい頃の話とか」
「小さいって、どこから……」
「み、溝口くんの恥ずかしい話とか、貶すようなことは聞いてないから安心して! でもね、私にはそれが一番嬉しそうに見えたの。……だから、凛花ちゃんが事故に遭って、記憶を失くしたって聞いた時は心配だったけど、溝口くんのことも心配だった」
「俺?」
「私やさっちゃんはまだ覚えていてくれたけど、溝口くんのことは一切覚えてない。それがずっと気がかりだった。溜め込みやすいって聞いてたし、責任感も強いのも知ってた。…‥だからきっと、さっちゃんはどうにかしてあげたかったんだと思うの」
「もしかして、青山がずっと俺に当たってきたのは……」
「さっちゃん、凛花ちゃんが大好きだから」

 牧野がメリーゴーラウンドに目を向ける。楽しそうに笑う凛花と青山を見て、カメラを手に取って立ち上がった。

「私、凛花ちゃんになりたかった。皆に優しくできて、明るくて、可愛くて、愛される人になりたかった。だからね、溝口くん。――これ以上、凛花ちゃんを苦しめないで」

 見下ろすようにして言った彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。以前青山に注意したときの一方的な圧力をかける怒り方ではなく、今まで溜めていた感情が溢れないように抑えた言葉だった。

「溝口くんにだって考えがあるのかもしれない。それが凛花ちゃんのための行動だとしても、私は間違っていると思う。溝口くんの話をする凛花ちゃんはいつも楽しそうだった。……でも今は辛そうで見てられない。いくら私やさっちゃんが寄り添っても、大丈夫だよって笑って黙っちゃう。言えないって辛いんだよ。それは溝口くんだって同じでしょう」
「それは……」
「何年幼なじみやってても、話してみないとわからないことだってある。……それとも溝口くんにとって凛花ちゃんは、ただのご近所さん?」
「…………」

 ここまで牧野に言わせて、やっと気づいた。
 幼なじみだから、何となくお互いが考えていることを察して今までやってきた。でも結局は他人でしかない。血縁もなければ、想いを告げたこともない。

 最後に腹を割って話したのはいつだっけ。――いや、そんな話すらしたことがない。ただ隣にいただけで、俺は凛花に何もしてやれない。ずっと助けられてきたのに、むしろ俺は凛花の存在を否定しようとさえしていた。

「……少なくとも、二人は似た者同士だと私は思うよ」

 牧野はそう言って、俺と目線を合わせるように屈むと、じっと顔を見て頷いた。

「大分顔色が良くなったね。そろそろ動けそう?」
「あ……うん」
「じゃあ行こう! メリーゴーラウンド、あと三回は乗って貰わなくちゃ」
「三回?」
「そうだよ。だって私、今日は皆のカメラマンだもの!」

 ちょうど、メリーゴーラウンドから聞こえる音楽が止まった。牧野は俺の腕を掴んで立ち上がらせると、いきなりミラーレスのカメラを俺に向けてシャッターを切った。

「ちょ……いきなり撮るなよ」
「溝口くん、いつまで迷ってるの?」
「え?」
「ちゃんと向き合って話すべきだよ。今は辛いかもしれないけど、後回しにする方が絶対辛いから。これ以上、私の大好きな人たちを苦しめたら、私が絶対許さないからね!」

 カメラを振って牧野は悪戯に笑うと、メリーゴーラウンドから降りてきた凛花たちに向かって、「撮れなかったからもう一回乗ってきて!」と大声で伝える。森田の顔が強張ったのを見て、佐山が茶化し始めたのは言うまでもない。

「……向き合って話す、か」

 考えたこともなかった。……いや、考えないようにしていた、が正しいか。
 凛花が俺だけの記憶を失くし、思い出せないのは事故に遭った瞬間の恐怖が勝っているからだ。瓶に閉じ込めた蛇が怖いから蓋をするように、凛花もそうして恐怖の記憶に蓋をした。ただそこに、俺が紛れてしまっただけの話。俺だけを取り出そうとするのは危険だ。

 でも今の凛花は、無理やりにでも蓋をこじ開けようとしている。その瓶に恐怖が詰まっているとわかっていて、俺が内側から蓋が取れないように押さえている。開けさせるわけにはいかないんだ。

 考えながらメリーゴーラウンドへ向かう。足取りはいつになく重かった。
 昼食をとってから、まだ乗っていないアトラクションをまわっていく。最初は乗り物酔いでダウンしていた牧野や俺も徐々に慣れてきて、激しいものでなければ挑戦して楽しんでいた。
 さすがに佐山からジェットコースターに再チャレンジを持ち掛けられたときは丁重に断った。同じ轍は二度踏まない。

「最後はやっぱ観覧車っしょ!」

 閉園時間が近付いてきて、最後に一つ乗ろうと佐山が観覧車を指名した。もちろん、全員が賛成し、どうやって分かれるかを話していると、真っ先に凛花が手を挙げた。

「私、溝口くんと乗りたい!」
「……え?」

 突然の提案に思わず聞き返した。事前に「森田と牧野をどこかで二人きりにさせたい」という話はしていたが、一日を通して千佳の介抱をした時だけだった。だから観覧車で二人きりにして、他の四人が後ろで見守ろうと、こそこそ話していた矢先だった。すると、凛花に便乗して牧野も声をあげた。

「せ、せっかくだから二人一組で乗らない?」
「そうだな! あ、じゃあ青山、俺と乗ろっ!」
「わ、私?」
「おう。さっき休憩中に話してたアプリゲーム、一緒にガチャやって、気に入ったのあったら交換しねぇ? あ、もちろんフレンド申請もしよーぜ!」

 咄嗟の佐山の誘いに、青山は驚きつつも平然を装って合わせた。

「そ、そうね。アンタが良いの引いたら交換してもいいよ」
「うっわ。期待しても無駄みたいな顔すんなよ! これでも神引きの佐山って呼ばれてるくらいなんだぞ!」
「ガチャごときで燃えるなよ……となると、牧野。俺と一緒になるけどいいのか?」
「だ、だだだ大歓迎です!」
「大……?」
「な、何でもないよ! うん、よろしくね! ……これでいいかな、溝口くん」

 顔を真っ赤にした牧野がこっちに振る。この機会を使って凛花と向き合えということだろう。とはいえ、すでに二人組ができている。今更反対する気にもなれず、そっと凛花を見て訊く。

「俺でいいの?」
「溝口くんがいい」
「……わかった。いいよ」

 満面の笑みを浮かべる凛花に、小さく溜息をついた。
 この遊園地にある観覧車は、十五分をかけて一周する。運転中の揺れやゴンドラ内で会話を楽しんでいれば、あっという間に感じてしまうだろう。

 森田と牧野、佐山と青山を見送ってから乗り込んだ俺達は対面するように座ると、どんどん小さくなっていく景色に釘付けになっていた。

「すごいね。高いところって学校の屋上くらいしか無いから、なんか新鮮」
「だな。……こんなに広かったんだな」

 登っていくにつれて遊園地全体が見えてくる。来てすぐに乗ったジェットコースターが観覧車の前を通り過ぎると、凛花はあっと驚いて笑った。

「楽しそうだな、凛花」
「楽しいよ! だって高校最後の夏休みだもん。皆と来れてよかったなぁ」

 嬉しそうに目を細めて、外の景色に目を向けて答える凛花。ふと、事故直前に誘われた際、彼女が零した言葉を思い出した。

 ――『私も行きたかったなぁ』

 今思えば、あの時の凛花はすでに自分が事故に遭うことを悟っていたのかもしれない。とても悲しそうで、寂しそうな彼女の表情は今でも鮮明に覚えている。

 ならば、ここにいる彼女は凛花ではないのか。

 俺が知っている古賀凛花で間違いないのに、まるで他人のように見えてしまうのは、自分との記憶だけを失っているからだとしても、認めたくない自分がいる。
 だから自分から距離を置くようにした。俺の知らないところで楽しんで、幸せであればそれでいいと、いつしかそう諦めていた。

「溝口くんはどう? 今日楽しい?」

 雲の合間を縫って差し込んだ夕日が凛花の頬を照らす。艶めいたまつ毛も、口元も、思わず見入ってしまいそうになるほど、素直にきれいだと思った。

「……楽しいよ。お前が押しかけてこなかったら、きっと逃がしてた」
「そっか、よかったぁ。連れ出したかいがあったよ」
「これで二度目だ」
「二度目?」
「凛花が俺を強引に外に連れ出したことが、小学生の頃にあったんだよ」
 そう言うと、凛花は目を見開いて黙ったままこちらを見た。

 今まで「家が近所の同級生」としか伝えていない。ボロが出て名前で呼んでいたことや、好きなアイスを教えたことはあったけど、それ以上の話はしてこなかった。

 あの日の事故のことさえ言わなければ、神様は多少の思い出話も許してくれるだろうか。そんなことを考えて口を開いた。案の定、凛花は驚いてくれた。

「小学校の頃って……私達、いつから一緒にいたの?」
「保育園から、だったか。小学校に入学する前。俺がお前の家の近くに引っ越してきた。近所には同い年の子がお前しか居なかったこともあって、よく一緒に遊んでた。家族同士で仲が良かったよ。ここの遊園地も、凛花の家族が行った後に楽しかったことを熱弁されて、次の休みに行ったくらいだ。ああ、迷子になった話も聞いたな。大変だったねって慰めるので精一杯だったけど」
「た、確かに迷子になったけど……私、いろんなこと話してたんだね」

 恥ずかしい、と顔を隠す凛花を見て、少しだけ肩の力が抜けたような気がした。彼女は赤い頬を隠すように両手でおさえながらさらに訊いてくる。

「どうして教えてくれたの? 今まで全然話してくれなかったのはなんで?」
「……思い出してほしくなかったから」

 俺がそう言うと、凛花がきゅっと一文字に口を結んだ。なにかを覚悟した顔つきに、俺は「嫌いだったからじゃなくて」と続けた。

「事故当時の記憶を思い出してほしくないのが一番だけど、ずっと俺のことばかり気にかけてくる凛花に申し訳なさを感じてた」

 小学生の頃は特に泣き虫だった。
 背が小さいことで茶化され、体格のいいクラスのガキ大将には体当たりされるとすぐ吹き飛んでしまうくらい弱かった。周りが怖くて、怖くて、学校に行くことが億劫になった。勉強したくないからとか、授業に出るのが嫌だからとかよりも、人が怖くて学校に行けない。休日さえも引きこもりになって、随分両親を困らせたと思う。
 そんな時、凛花が助けてくれた。

「放課後に宿題のプリント持ってきてくれて、一緒に解いた。学校に行かない日があっても必ず声をかけに来てくれた。いつも俺のことを気にかけて一緒にいてくれる。周りには必ず陰口をする奴がいて敵だらけだったのに、凛花だけが助てくれた。……心強いと思う反面、何もできないまま、ただ凛花の後ろに隠れていた自分が情けなかった」

 ここで一度、言葉を切った。

 凛花に今まで一度も自分の考えを話してこなかったことを、ひどく後悔した。記憶を失った凛花に過去の話をして考えを訴えても、お互いに罪悪感しか残らない。それでもどこかで思い出してほしいと願ってしまう自分がいるのも事実だった。

 事故が起きたあの瞬間――いや、二人が出会った時からずっと、俺の感情はぐちゃぐちゃで、自分でも整理できずにいたのかもしれない。

「だから、事故に遭ったお前が俺だけの記憶を失っているのを知って……安心したんだ。不謹慎なのはわかってる。自分でもおかしいと思った。でもそれ以上に、もう凛花が俺のことを考えなくて済むと思ったら……ホッとしたんだ」
「そんなの……」
「わかってる! ……勝手すぎるよな。でも、俺は忘れてほしかった。俺のことを忘れて、学校の友達と残りの高校生活を楽しんで、好きな奴と付き合って、俺の知らないところで幸せになってくれたらいいって思ってた。……それなのにお前は、なんで関わってくるんだよ? これじゃあ俺は……またお前に縋って、助けられようとしてる、最低な人間だ」
 嗚咽交じりに本心を告げると、凛花から目を逸らした。今まで溜めてきたものを吐き出すのが弱い者がすることだと思うと悔しくて、何よりそれを凛花にぶつけてしまうのが本当に嫌だった。

「……溝口くん、ちがうよ」

 凛花がそっと、俺の手に触れて優しく包み込んだ。そっと顔を上げて見れば、うっすらと涙が浮かべている。

「勝手なのは私の方だよ。目が覚めた時、お母さんもクラスメイトも、どうして溝口くんを責めているのかわからなかった。でも学校に行って溝口くんの辛そうな顔を見て、私が傷つけたんだと思った。この人が私を突き飛ばして事故に遭わせたんじゃない、私が君を傷つけた。だから少しでも周りの人にわかってほしくて、あんな宣言をしたの。根拠なんてなかったよ。気づいたら勝手に動いてた。……でもそれが溝口くんを追い詰めてた、知らなかったとはいえ、ごめ――」
「謝るな」
「……え?」

「謝るなよ。……生きていてくれて、よかった」

 包まれた手を外して、自分の手を重ねる。眠っている時以来に握った彼女の手は暖かかった。

 車道で動かなくなった凛花の姿を見たときは、本当に死んでしまったのだと思った。コンクリートに広がる赤い液体、ぴくりとも動かない身体、冷えた手は今も忘れられない。それがこうして今、目の前にいる。たとえ記憶の一部を無くしても目を覚ましてくれた。それだけが救いだった。

 すると凛花も手を握り返してくれた。夕日はもう雲で隠れてしまったのに、頬は赤く染まっている。

「私は記憶を無くして、以前の私の気持ちに寄り添うことはできない。でも、その……」
「凛花?」
「……っ、私、溝口くんが――」
 言いかけたその瞬間、凛花がまるで糸を切られたマリオネットのように、ぐらりと身体がズレて座席から落ちそうになった。慌てて抱き止めるも、凛花は固く目を閉じて眠っている。

「凛花? おい、凛花!」

 突然何が起こったのか。疲れて寝てしまったとも言い切れないが、不自然に意識が途切れた気がした。何度名前を呼び、身体を揺すり頬を軽く叩いても、一向に目が覚める気配がない。

 体勢を変えようと顔をあげると、先程まで凛花が座っていた席に、いつかの仲介人が座っていた。

「やぁ。久しぶりだね」
「……なん、で……お前」
「お前って言い方は良くないな。仲介人と呼んでくれと言わなかったかな?」

 仲介人はあの日と同じ全身真っ白な服を纏い、キャスケットを深く被っている。表情からは相変わらず何を考えているのか読み取れない。
 こんな狭い空間にどうやって現れたのだろうか。
 眠っている凛花を引き寄せて覆うように抱きしめると、キッと仲介人を睨んだ。

「いつからいた? お前、人間じゃないって言ってたな」
「確かにボクは人間じゃない。けど難しい話をして君は理解できるのかい? 彼女のことはおろか、自分のことも知らない君が。……でもまぁ、そうだな。ここに来た理由を述べるなら、『ルール違反』をしたから、かな」
「ルール?」
「そう。古賀凛花とボクは、記憶を失う前にとあるルールを取り決めたんだ。それに違反すると気を失い、自分が何を言おうとしていたのかを忘れてしまうのさ。だから君も、彼女が言いかけた言葉は聞かなかったことにしてほしい」

 仲介人が茶目っ気にそう言うと、凛花に手を伸ばそうとする。思わず振り払った。

「……ふざけるな、なんでそんなことお前に決められないといけないんだ!」
「考えればわかることでしょ? それはボクが彼女の代償を受け取ったからさ」