木曜日の夕方ちかく。土岐明は弁護士の宇多に携帯電話で呼び出された。蒲田の印刷工場二階の自宅から京浜東北で東京に出た。地下街を大手町まで歩く。東京メトロの半蔵門線を乗り継ぐ。神保町を経て九段下で降りた。繚乱の桜が散ったばかり。日の陰った片側二車線の靖国通りは何となく肌寒い。時折流れる坂上からの風が頭髪をもてあそぶ。玉葱の日本武道館を左の眼の端で眺める。靖国神社の坂を上りきる。大村益次郎像を右手に見る。T字路の交差点の次の狭隘な路地を左折する。宇多法律事務所が入居している灰色のペンシルビルが右手にある。狭い階段で二階のドアにたどり着く。帰り支度の女秘書がうつむき加減に出てきた。階下から上ってきた土岐の目線が秘書の伏し目に正対した。秘書は差し込んだドア鍵を抜いて階段をけだるそうにそそくさと下りてゆく。宇多は受付奥の応接室で、銀鼠の三つ揃いでふんぞり返っていた。最新のスマートフォンを片手に待っている。ガラスのセンターテーブルの上に微糖の黒い缶コーヒーが二本。缶の底の縁から汗がにじみ出ている。
ソファに腰掛けながら土岐が挨拶しようとする前に宇多が堰を切ったように話し出した。
「早速だが調査依頼だ。先月たまたま暇だったんで国選弁護人をうっかり受けてしまった。昔は国選なんて引き受け手がなかったもんだが、今じゃ弁護士が余ってて抽選だ。外れてもいいと思ってたら当たってしまった。そうしたら、急に実入りのいい別件の弁護依頼が入ってしまって、そこで君の協力が必要になった」と言いながら缶コーヒーのプルトップを引く。
「被告は当番弁護士で接見した男で、・・・腐れ縁かも。三か月ほど前の殺人事件の調査だ。金にもならんし、マスコミの注目も急速に冷めてきているので、あまり力を入れたくない。しかし、あまりいい加減な弁護活動をすると法曹界に悪評が立つ。それは避けたい。・・・とりあえず、公判前整理手続の状況を説明する。それから依頼内容を言おう」
窓外のオレンジの夕暮れが急速に濃紺の夕闇に暗転する。応接室の照明の乳白の明るさが室内に充満してくる。首筋からやわらかな冷気が侵入してきた。ワイシャツの襟を立てながら国選と聞いて土岐は意気の消沈してくるものを感じた。報酬をあまり期待できそうにない。
宇多がソファ脇に置いてあった、メモを書き込んだA4コピーを土岐に手渡した。
「被告は真田徹、三十三、定職なし。四流大学を六年かけて卒業。好奇というネット喫茶をねぐらにしていたホームレス。一月十七日に殺害された今田実も三十三。ホームレスのようなものだが山谷のホテル小林という木賃宿に住んでいた。犯行当日、朝方に出たネット喫茶から犯行現場まで真田の画像が七か所の防犯カメラに、ご丁寧に時系列で捉えられている。おまけに、真田が犯行前日の一月十六日に凶器を購入した御徒町のスポーツ用品店の店員の目撃証言がある。凶器はマンクング社のボウガン。犯行現場近くの茂みから犯行の翌日に発見された。真田の指紋が今田の背中に刺さっていた矢からもボウガンからも取れている。検察の証拠固めは完璧だ。真田は隅田川沿いのスポーツセンターのトラックでボウガンの試し打ちをしようとした。スポーツセンターのトイレに入ったところ、たまたま今田がいた。検察のストーリーでは、真田は、今田のちょっとした言動に不快感を覚え、ホームレス生活からの鬱憤もあって、それらを晴らすために、今田に面白半分に照準を合わせたところボウガンが暴発した。故殺ではないので傷害致死罪であれば、量刑はそれほど重くはないと思うが、真田はそもそも今田に会ったこともないと主張している。だから検察のストーリーを全面否認している。しかし供述調書にはサインしているんだ。真田は取り調べ捜査官に強要されたと言っているが、どうも気の弱い投げやりな性格のようだ。これだけ聞きだすのに、えらく時間を要した。最初は、口がきけないのかと思うほど、口が重かった。回答も、こっちがいくつか選択肢を用意して聞かないと、答えない。いつまでも黙り続ける。何を聞いても『とくに』とか『べつに』とか答える。厄介なやつだ。未必の故意による殺人だとする検察のストーリーを受け入れれば、検察が勝訴しても、裁判官の心証もよくなるから、多少量刑は軽くなるのだが、真田は頑として、アリバイを主張している。だから当然、反省もしていない。東北から出てきた今田の遺族に謝罪もしてない。そのくせ接見したとき、留置場の生活も現在の拘置所の生活も、三食屋根付きで、ネット喫茶や脱法ハウスをうろついていた娑婆の生活と比べたら天国のようだとほざいている。冤罪を晴らしてやろうという、こちらのモチベーションが低下する。・・・困ったものだ。検察のストーリーと真田の主張するアリバイはそのレポートにある。防犯カメ
ラの七地点の映像のコピーがある。顔写真は髪の薄いしゃくれ顎の細面が今田で、長髪で丸顔が真田だ」
土岐は差し出されたA4のカラーコピーを手に取った。パラパラとめくった。左の列に時刻、右二列に真田が主張するアリバイと検察のストーリーが対比されている。ページの下には小さいポイントで脚注がひしめきあっている。カラーコピー写真の今田も真田も一様に顔色が悪い。疲労困憊しきったような表情。口角が垂れている。とくに殺害された今田の顔には目の下と頬に薄らとした影のような死相が出ている。資料の最後に今田の死体検案書が添付されている。資料に目を落としながら土岐が言う。
「それで、今回の調査は?」
「やればやるほど赤字になるので、何も依頼したくないのだが、恰好だけはつけないと。・・・裁判所が認めてくれる費用の範囲内で体裁を整えたいので真田が主張するアリバイと検察のストーリーを簡単に検証してくれないか。ざっとでいいから明日の昼過ぎに結果を教えてくれ。それを持って接見に行く。接見に行けば多少小遣い稼ぎになる」
「でも、・・・まだ、どういう調査結果になるかわからないでしょ」と宇多の顔を上目づかいに見ながら、土岐は缶コーヒーに手を伸ばす。
「いやあ、ついでがあるんだ。近くを通るから、接見する。接見すればカネになる」
「へえ。会うだけでカネをもらえんですか」
「国選はいろんなことで、チマチマとカネを出してくれる。単価は安いから、ポイントで稼ぐしかない。ただ、単価の規定が微に入り細を穿っているから、請求書類を作るのが面倒だ」と言うのを聞いて、土岐は缶コーヒーを持ったまま帰宅した。
翌日。金曜日の早朝。土岐は犯行日の前の深夜から真田がいたとアリバイを主張しているネット喫茶に向かった。好奇というその喫茶店は上野駅から中央通りを御徒町方向へ五分ほど歩いた右手の路地を少し入ったところにあった。好奇という黒地に白字の怪しげな看板が幅員三メートルあまりの狭い道路に突き出ていた。店内は薄暗い。、迷路のような通路の両側にべニアで囲った個室が並んでいた。壁紙が黒い。入店したとき、利用客の一人が、受付脇のフリードリンクを取りに来ていた。受付でアルバイトの店員から利用方法を聞いた。三十分だけ利用することにした。指定されたブースのパソコンは中国製の廉価版だ。キーボードの白い文字がいくつか、擦り切れて見えなくなっていた。机の上もキーボードもマウスも、ねっとりとべたついている。パソコンを立ち上げた。ネットサーフィンをしながら、事件当日、真田がこの店を九時すぎに出たことを宇多から受け取ったレポートで確認した。この時刻は、真田の主張するアリバイも検察のストーリーも同じだ。三十分たって、受付で会計を済ませた。領収書を受け取りながら、受付のアルバイト風の若い男に聞いてみた。
「3か月前の木曜、この店を利用した人が、殺人事件起こしたらしいんですが、知ってます?」
若い男のよどんだ目が暗く低い天井をななめに見つめた。
「ええ。オレも刑事さんに質問されたんで。でも木曜はオレのシフトじゃないんで」
土岐は、その日の受付担当者の名前と携帯電話番号を聞き出した。スマホに登録した。九時過ぎに、穴倉のような店を出た。外光がまぶしい。
事件当日、ネット喫茶から出て、真田はバス停に向かったと言う。検察は上野駅方向に向かったとしている。土岐は先に検察のストーリーに沿ってルート検証することにした。
中央通りに出た最初のT字路に擦り切れた横断歩道がある。渡らずに左に折れればバス停がある。バス停に行かずに、まっすぐ行くと上野駅。途中に交番がある。
横断歩道を渡ると交番の前を通らずに済むが、JRのガード下で再び中央通りにかかる横断歩道を渡らなければならない。土岐は遠回りになるが交番の前を通らずに中央通りをアメ横商店街方向に横断歩道を渡った。交番の対面にパチンコ屋がある。その左隣は巨大タンカーの船首のような形をした家電量販店のビル。歩道をすすむにつれてビルの奥行きが狭くなる。ガード下の通りの入り口でアメ横商店街をのぞける。家電量販店の裏側の最初のビルは首都圏を中心にチェーン展開しているドラッグストア。店員が路面に商品ワゴンを設置している。信号が変わった。ガード下の20メートルほどの幅広の横断歩道を歩行する群衆に身を任せて渡る。右手に地下鉄と地下街への入り口が口を開けている。その手前をタクシーが縦列で待機している。
最初の監視カメラの画像は、九時半に地下鉄銀座線の改札近くの地下街で撮られている。
喫茶好奇からまだ十分も歩いていない。監視カメラの位置を確認する。地下通路の天井の端から、地下通路の奥に向けてレンズが固定されている。広角に浅草方面の改札と銀座方面の改札と券売機がとらえられている。画像のコピーではジャージーを着て、野球帽を目深にかぶり、白いマスクであごを覆った男が煙草にライターで火をつけている。通路の中心だ。肩にクロスボウを入れた袋のひもをかけている。顔は見えない。正面を向いている。うつむき加減の角度から野球帽のニューヨークヤンキースのロゴがかろうじて見える。静止して煙草に火をつけている。画像にぶれがない。画像の位置関係を確認する。背後に映っている柱の模様から男の身長が百七十センチ前後だと推測できる。真田はここから、地下鉄銀座線に乗り、稲荷町、田原町を経て、浅草に向かったことになっている。
二番目の画像は、九時四十五分に浅草駅の改札を出たところで撮られている。最初の画像同様に監視カメラに正対し、タバコに火をつけている。同じジャージー、同じ野球帽、同じ白いマスク、同じ袋を肩にかけていることが確認できる。
三番目の画像は、九時五十五分に吾妻橋の交差点近くの商店街で撮られている。浅草駅の改札から徒歩五分足らずの防犯カメラ。ここでも同じような画像が撮られている。ここから真田は徒歩で、隅田川沿いの江戸通りを北上した。検察提出の供述証拠によれば、真田は日ごろのままならない生活の鬱憤をはらそうと、隅田川土手でクロスボウの試し打ちをするため適当な場所を探していた。ぶらぶら歩きながら隅田公園に向かう途中、江戸通りの隅田川沿いの歩道の上で煙草に火をつけているところをコンビニエンスストアの駐車場の防犯カメラに十時十分、コインパーキングの防犯カメラに十時十五分、言問橋近くのガソリンスタンドの防犯カメラに十時二十分、スポーツセンターの監視カメラに十時半ごろ、それぞれ撮られている。いずれの画像もポーズがほぼ同じだ。道路に背を向け、二メートルを少し超える高さから下方に向けられたカメラのレンズに正対するように立っている。画像の時刻を見ると、だいたい五分おきに撮られている。それぞれの防犯カメラの間隔は二百メートルもない。〈明確な目的を持って歩けば二百メートルの距離を歩くのに五分もかからない〉と宇多の注記がある。
このほかにも監視カメラや防犯カメラを設置している箇所はいくつかあったが証拠申請されていない。真田が歩行し、静止していなかったため画像が不鮮明であったのかもしれない。あるいは七枚の画像で立証に十分との警察と検察の判断であったのかもしれない。
土岐は東武伊勢崎線のガード下から百メートルほど北上した。十時十分の画像を提供したコンビニに入った。客は小柄な老人二人。黄緑色の制服の店員はレジに一人と商品棚に商品を並べているのが一人いた。土岐は年上に見えるレジ前の中年男性店員に声をかけた。
「すいません。防犯カメラについて、ちょっとお聞きしたいんですが、・・・」
「・・・はあ?」と気の抜けたような返事をする。
「防犯カメラは、このレジの上のやつと、駐車場にあるのと、2台だけですか?」と聞きながら、土岐はレジ脇の板ガムを一個つかんだ。それをレジカウンターの上に置く。
「・・・そうです。・・・このガム一個でよろしんですか?」と焦点の合わない目を土岐に向ける。ガムのバーコードをスキャンする。
「画像は、どのくらい保存してるんですか?」
「・・・設定は三十日、一か月ぐらいです。・・・お支払いは現金ですか?」
「現金で。・・・録画媒体はハードディスクですか?」と言いながら、土岐はズボンのポケットの中の小銭をまさぐる。
「・・・そうです」と言いながら、店員は土岐が出した小銭を一枚ずつ確認する。
「一か月分の録画はどっかに保存しておくんですか?」
「いえ。順次上書きしてゆきます」と店員はつまらなそうに言う。それだけ聞くと土岐はコンビニを出た。さらに北上した。言問橋西詰の交差点手前で十時二十分に画像を記録していた外資系のガソリンスタンドでも同じ質問をした。同じような返答があった。ただ、店内のカメラは強盗の顔を特定するのが目的で、店外のカメラは強盗の逃走車やガソリン代を踏み倒して逃走する車両を特定するのが目的だ、という説明があった。証拠画像は店外だ。
国道6号線の通称江戸通りはそこで終わる。さらに北上した。最後に尋ねた区立のスポーツセンターの管理棟ビルでは、監視カメラ設置の目的は夜間の痴漢や暴漢を捉えるため、とのことだった。画質を高く設定してあるため、一週間分しか録画されていないという。
犯行時刻は午前十時から十一時ごろ。犯行場所はスポーツセンターのアンツーカーのトラック脇の男子トイレの近く。犯行現場のアンツーカーのトラックはスポーツセンターの体育館ビルと四面ある屋外テニスコートの間にあった。当日のトラック利用者はいなかった。
殺害現場近くの男子トイレは、平屋の予約管理事務室の反対側の廊下奥にある。ドアが事務室通路側とトラック側の両方で開放されていた。老齢の管理棟ビルの事務員の説明によると、男子トイレはトラック側からも事務室側からも利用しやすいように、換気の目的もあって、両側のドアを常に開放している。
一周二百メートルのトラックをのぞく。トイレの真上は観客席。アンツーカーのトラックの向こう側は隅田川の土手になっている。トラック全体が三メートルほどの浅黄色のコンクリート塀に囲まれている。外から見えるのは観客席だけ。トラックは見えにくい。南隣に5階建ての体育館ビル。見上げると窓が多いのが目につく。窓際に人の気配は感じられない。