あの虹の向こうへ君と

「琴音……琴音……琴音……琴音……琴音……琴音……」


 世界で一番大好きな名前を呼び続けた。叫んだせいで、声が掠れている。それでも、止まらない。

 琴音は穏やかに僕の声をただ聞いている。聞いていると思いたい。

 僕は祈るように、ずっと名前を呼び続ける。もう、心の奥底では、状況を理解できていた。それでも、最後の意地で名前を呼び続けているのだ。
 突然、雨音が止んだ。

 だが、身体には依然として、凍てつくような水滴が降り注ぐ。

 どういうことだろうか。ありえない異変に、声が止まってしまった。

 雨音は聞こえないが、雨は確かに降り続いているのだ。僕の鼓膜が破れてしまったのだろうか。
「なんだこれ」


 自分の声がしっかり聞こえ、半狂乱だった頭が冷静さを取り戻していく。今の状況を考えようとした時だ。

 僕はドリーム・シネマの席に座っていた。
 僕の身体が動かない。あの時と同じだ。

 映画館の中は明るく、観客は誰一人いない。

 さっきまで間違いなく丘の上にいたはずなのに、なぜドリーム・シネマにいるのだろうか。

 いや、ここはドリーム・シネマですらなさそうだ。
 身体が動かなくても、脳が混乱していても、皮膚だけは正常だった。

 僕が生きている世界と、空気が全く違う。それを肌で感じ取っているのだ。

 この感覚に覚えがあった。間違いなく、ここは九月に映画館で観たあの映像が撮られた世界だ。
 一体、なにが起きてしまったのだろうか。これこそ夢を見ているとしか思えない。

 琴音を失った悲しみで、意識が現実から逃げてしまったのか。

 映画が始まる時のように、館内は徐々に暗くなっていく。

 これも、あの時と同じだ。

 これからまた、琴音の寿命が映し出されるのだろうか。そんなもの、もう見たくはない。琴音の寿命なら、現実として散々見てきた。
 スクリーンに映像が映し出された。身体が全く動かせないため、目を逸らすことは出来ない。

 映像がこの前と違う。これは僕が先程までいた世界のものだ。
 映し出されたのは病室の風景だった。左腕を骨折をしたと思われる女性が、ベッドで上半身だけを起こしている。

 その姿はまるで二十年後の琴音のようだった。間違いなく、琴音の母親である木村純子さんだ。
 純子さんは身体はガタガタ震えていた。酷く憔悴しているようだ。荒い呼吸と共に、うわごとのような言葉が出てきた。


「琴音の心肺が停止したなんて嘘よ……そんなことありえない……私より先に、琴音が死ぬなんてありえない……」


 どうやら事故が起きて、数日後のようだ。

 琴音の心肺が停止していたなんて、もちろん僕は知らなかった。