「さようなら」
木村先輩が振り向いた。大きい目がこっちを見ている。特に驚くわけでもなく、もちろんあいさつを返すわけでもない。彼女が目線を逸らすよりも早く、僕は帰る方向を向いて歩き始めた。
あいさつが返ってくるとは、最初から思っていない。反応さえ返ってこないと思っていたので、こっちを振り向いたことに驚いた。
あいさつをしたことにより、先ほどまであった罪悪感は消え、なんだかスッキリしている。
軽くなった頭で気がついてしまった。悪いことをしていないのに木村先輩に嫌われているなら、もうなにをしてもしなくても嫌われていることになる。それならやりたいようにしよう。
この日から、木村先輩を見かけるたびにあいさつをするようになった。反応があったのはあの一回だけで、それ以降は完全に無視をされている。
あいさつを続けていれば、木村先輩が根負けして色々話してくれるかもしれない。卒業まで話してくれなくても、酷い対応をされたちょっとした仕返しにもなる。
このぐらいやっても罰は当たらないだろう。
二〇一八年、九月十日、月曜日。
木村先輩にあいさつを初めてから、六日が経った。土日を挟んでいるので正確には四日だが、思ったより見かけることが多く、五回以上はしている。
だが、今日は一度も木村先輩に会えないまま学校を終え、とうとう駅まで来てしまった。なんだか、ちょっと寂しい。
これまでは、自分から学校で声を出すことがほとんどなかったが、彼女へのあいさつは自分から声を出す貴重な機会だった。
声を出さないことが当たり前のように思っていたが、無意識のうちに抑圧になっていたのだろうか。彼女にあいさつすることが、いつの間にか心地よくなっていた。我ながら、おかしな感情である。
定期入れを鞄から出し、改札へ入ろうとした時だ。
「ちょっと待って」
少しだけ大きく、それでいて本気で引き止めているかわからない声が、背後から聞こえた。
ここまで感情が読めない人は、一人しか知らない。しかし、その人が僕に話しかけるなどあり得ない。真実を確かめるため、ゆっくりと振り返る。
やはり、木村先輩だ。
相変わらず無表情だが、綺麗な形をした口が半開きになっていて、呼吸をするたびに肩にかかったシルクのような黒髪が揺れる。相当、疲れているようだ。彼女に話かけられたことに驚いたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「具合悪そうですけど、大丈夫ですか?」
僕はこの人のことが本当に心配なのだと思う。一体、「大丈夫ですか?」と何度聞いたのだろうか。次に来る答えが、わかりきっているのに聞いてしまう。
「大丈夫」
やはり思った通りの答えだ。だが、彼女の話はこれで終わりではなかった。
「ちょっと走っただけだから。それよりも、これ」
木村先輩は、鞄からなにかを取り出し僕に渡す。それは信じられないものだった。
「え? これをどこで?」
ケースを見てわかる。間違いなく、僕のスマホだ。入っているはずのポケットに手を入れてみると、そこにはなにも入っていなかった。
「通学路に落ちてたの。やっぱりあなたのだったのね」
いつ落としたのかわからない。そもそも、常にポケットに入れているスマホを落とすことなどあり得るのだろうか。
ポケットが破けていないか確かめるために、もう一度手を入れてみたが、やはり穴など空いていない。
納得できなくても、木村先輩が拾ったことは事実だ。お礼を言ってから受け取った。