合格祈願。
中学最後の正月とクリスマスを捨てて、ひたすらに鉛筆を握った一年。全てはこの瞬間にかけてきた。書いて書いて、書きまくった。
「できた…。」
目の前には一年間の努力の結晶、約八百枚の原稿。所々端が破れている。震える手で「完」と入れる。
外っ側は鉛筆で黒く汚れていて手首にはテーピングが巻かれた自分の右手が、人生で初めて、何よりも美しく見えた。
今までいくつもの物語を原稿に納めてきたけれど、この世界は自分の中では別格だ。情景描写、感情表現、ストーリー設定、全てが完璧だと思う。
私が目指す決心を決めた高校には文芸の授業があった。小説に理解がある友達と共に、この世界について学び、そして自分の世界を生み出す。進路に迷う私に一筋の光が差したようだった。これしかない、そう思ったのはこれまで生きてきてほぼ初めてだった。
この高校の受験は国語、数学のに科目に加えてフリーテーマの小説を提出するというもので文字数も特に決まっていなかったが、気がつけば週一で原稿を買い足すという習慣ができていた。とは言っても、プロ作家が卒業しているわけでもなくただ、自習のように小説を書く時間があるだけの高校で他の科目の授業も普通に行われる。それが、なんか分からないけれど自分にぴったりハマった。
春。この学校を受けると決めて、二教科の勉強をするつもりなんてなかった。私にとってこの高校を受けると言うのは一年を原稿に授けることだった。きっと、小説よりも評価されるのは国語や数学だと分かってはいたけれどもここまで書く決心をしてやって来れたのは、それだけ小説を愛していたからだと思う。
夏。金銭的問題で、性能の良いエアコンをつけてもらえなかったから何年前のものかも分からない黄ばんだ扇風機をつけて、汗を拭いながら世界を描いた。鉛筆を強く握ると、手汗で中が蒸れて気持ちが悪かったし、何より鉛筆が滑ることが仕方なく辛かった。
秋。休憩がてらにインスタを開いたら、中学の友達が彼氏と紅葉デートをしている投稿が上がっていた。しかも、三件も。嬉しそうな、どこか自慢げな友達の笑顔は私を苦笑させた。そういえば、この小説のために頻繁に学校を欠席していたから友達とも連絡をとっていないことに気がついて、少しクラスのグループLINEを見直した。
冬。秋の終わり頃から肌寒くなってきたと思ったら、田舎の家の中は凍っていた。早朝、母は水道の水が出ないと顔を真っ赤にして蛇口を捻り続けているし、家の中なのにダウンコートとマフラーは欠かせない。悴む手をなんとかさすって起こしながら鉛筆を握った。
そして、春。完成したのだった。
これ以上原稿が破れないように丁寧に紐で結び、住所と名前を記名してポストイン。
「これでよし。」
私は、人生最高の達成感を味わった。

小説を書き上げたら、国語と数学の勉強に打ち込んだ。苦手では無かったから、そこまで手が混むことはなかった。理科社会が受験科目じゃなくてよかった。もしそうだったらこんなに物語に集中してはいられなかっただろうから。
一回から「伊代ー。」と抑揚なしに私を呼ぶ母の声が聞こえる。
ノックひとつもせずにガチャっとドアを開けた母は表情を怖いくらいに変えずに言った。
「受かったってよ。」
それだけ言って私の反応も待たずに紙切れ一つ置いて出て行った。母が階段を降りているときに、「おめ」とだけ聞こえた。
母が置いていった紙を拾う。合格通知と私が好きな明朝体で書かれたA4サイズの紙。
「やったーーーー!」
絶叫してベットにダイブ。この瞬間を待っていた。下で、母が鼻で嬉しそうに笑う声が聞こえた。
これから私は、あの『椿高校』通うことになるんだ。心臓の音とこれから始まる生活への緊張感を忘れないように味わった。


入学してしばらく経った頃、初めて小説を書く授業が行われた。周りの生徒は、基本誰でも小説が好きな生徒ばかりで、近くの席の人とも気があった。秋に紅葉デートをしていたあの友達も、デザインの専門学校に受かったと連絡が来た。なぜか私自身、安心感を持ったのを覚えている。
五十分間、ただ原稿に向かう時間。心地よかった。時々風が吹く音が聞こえるだけで教室は鉛筆やシャーペンが当たる音しか存在しなくて、空気も澄んでいる。なんていい空間なんだろう。
そんな中、隣の席の生徒に視線を向ける。上村龍也。成績優秀、運動神経抜群、性格良しの三拍子揃った人気ナンバーワンの男子生徒。
お陰に、彼が書く小説は周りの生徒を虜にしてしまうと噂で、教師からも、先輩からも一目置かれている、まさに小説の中に出てくるような人物だった。
ぼうっとして彼を見ていると、こちらを向いた。そうだ、忘れていた。焼けた健康的な肌にくっきりとついた目。通った鼻筋。先程の三拍子にイケメンもついている四拍子揃いの生徒だった。
目が合うと、彼は小さい声で「どうかした?」と首を傾ける。そりゃあ、女子は振り向いてしまうぞ。そう言ってやりたい。どうもそんなことには気が付かないようで自然体のまま誰にでも優し行くて気遣いができる。もう既に、何人かの女子生徒に告白されているらしいけれどいまだに彼女はいない。だからモテるんだよな、と納得する。私はそんなに好みではないけれど。
さっきの問いに首を振って彼から目を逸らした。この人気者が隣にいるものだから休み時間は人が混み合って大変なのだ。少しは私みたいな人にも遠慮をしてほしい。容赦無く彼目当ての女子が(男子も)ぶつかってくるのだから。
授業の終わりのチャイムがなって書く手を止める。いつもの彼らが私の隣に集まってくるから仕方なく、仲がいい友達の紗香を連れて図書館へ向かう。
紗香は、この学校に来て初めてできた友達でいつも仲良くしてくれている。
「紗香は何を書いたの?」
そう尋ねると、紗香はニヤリと笑って「病に倒れて余命数年と診断された少女が少年と出会う話。」と答えた。
「何その抽象的な説明。そんなんじゃ分からんやろ」
田舎の訛りで軽く、紗香の背中を叩く。
「いでっ。わかるやろ、そう言う話なんやて。東京の病院で偶然二人が出会っちゃう運命的な期限付きの恋やわ。」
「ほんと、そう言う話好きやなー。紗香は。そう言うのって結末大体同じやし、書いとると精神病んでくるから気をつけなあかんで。」
「伊代は書いたことないくせに!」
下から覗き込むような顔が可愛い。頬を軽く摘んで見せると紗香は笑顔になった。そんなこんなで仲良しな私達だけれども、図書館では別行動。お互い本の趣味が違うからである。私は純文か、その他日常を描いた作品が好み。紗香はどちらかというとラノベ派で、恋愛物語が好みだそうだ。次の授業が始まる五分前に集合するという約束をして、私たちは別れた。
いつもの角を曲がって、純文が多く並んでいるコーナーに進む。小説オタクの司書さんが作って手作りポップには、目立つ橙色のマーカーでおすすめ本ランキングが記載されていた。私はこの司書さんがお勧めする本を参考にしてよく読む。趣味があうのか、どれも自分にしっくりくるものばかりなのだ。毎月更新されるポップを密かに楽しみにしていた。
今月は、太宰治が入ってる。
「今月は太宰治が入ってる。」
今、思ったことを口にされ、しかもその声が聞きなれた声だったから驚いて振り向く。やっぱり、上村龍也だった。
「森田さん、純文が好きなんだ。」
「うん、まあ。」
話しかけられたこと以前に、ここに彼がいることの方が謎だった。ぽかんとしていると、「大丈夫?」と心配されてしまった。
「僕も、純文好きなんだ。割と雑食だけどね。」
そういうと、彼は周りの本棚を物色し始めた。なんとなく話しかけづらい雰囲気があって私も周りの本棚に目を移す。
「今度、僕とも話そうよ。本について。」
「いいけど。なんで私?」
んー、と唸って「森田さん面白そうだから。」と言った。正直、なんといえばいいか分からなかった。ただ、今までに増して上村龍也と言う人間に興味を持った。
席が隣ということもあって、授業中に彼の視線を感じることが度々ある。全く集中できないこともあってほんとにやめて欲しかった。
「森田さんて、どんな話書くの。」
とある日の授業中小声で聞いてきた彼の顔は、私の答えが楽しみで待ちきれないというような感じだった。
だから、期待を裏切ってやろうと「さあ」と答えた。一瞬むすっとした表情を見せたがまたすぐに笑顔を取り戻して、「今授業中だもんね、後でまた聞くよ」と言った。彼は少しばかり天然なところがあるのかもしれない。
休み時間には、彼の元へ駆け寄ってくる友達と戯れて授業中には少し真剣な表情を見せる彼の小説を読んでみたいと思う自分がいた。
体育の授業。
男女別で行うのだが、一つの体育館をふたつに区切って行うので合同でやっているようなものだ。しかも、どちらとも種目はバスケットボールだった。運動がさほど得意ではない私にとっては、暇な時間。チームに迷惑をかけないように、試合ではなるべく端を自分の定位置にして見守る。男子の試合をただぼうっとみていると、彼がスリーポイントシュートを入れた。
すぐに他の男子生徒たちが駆け寄って彼の頭をくしゃっと撫でる。慣れたように肩を組み、手でグッドポーズを作って笑う彼らは夏の暑さを忘れさせた。
「かっこいいよね、上村。」
隣で同じように彼らをみていた紗香がつぶやく。
「勉強、運動、性格、顔良しの完璧少年。素晴らしいわ。」
そう、拍手しながら称える彼女に同感した。
「あんな人がうちの学校にいるなんて未だに信じられないよ。」
「だよね」
そう言って笑った。

「森田さんと、鈴木さん、体育で僕の事見てたでしょ。」
すんなり横に並ばれて一緒に芥川龍之介のコーナーを見ていると突然そう口にした。
「あ、うん。スリーポイント入れるなんてすごいねって話してたんだよ。」
「あれはまぐれだよ。一か八か、投げてみたら入っちゃっただけ。」
後頭部を手でかいて微笑む。
「まぐれでも入るって凄いじゃん。私なんか今までゴールにボール入ったことないけど。」
本当のことを言っただけなのに、嘘みたいに笑われた。
「そうなんだ。ここのバスケットゴールって高めに作られてるからね。入れるときができた日には鈴木さんとお祝いしようよ。」
「紗香も入ったことないと思うから伝えておくよ。」
話していて我ながらにつまらない話だと気づいて、鼻で笑った。

私が住む街には、とても大きな図書館がある。この地方では品揃えも広さもぶっちぎりの一番。この図書館を見つけてからは、休日に寄って本を読むか勉強するかが私の楽しみになっている。お気に入りのスペースはコンテストで受賞したいろんなジャンルの本が一つの本棚に並べられているところで、出版社ごとにまとめられているところも私の家の本棚と一緒で安心できるスペースだ。その本棚に一番近い席に腰掛け、適当に棚から取り出して読み始める。静寂に包まれた空間が私を本の中の世界に吸い寄せている感覚がして、今日はこの感覚に身を任せた。
一時間くらい本に浸かって、そろそろ帰ろうと棚に本を戻す。図書館だけれど、本を借りたことは一度もない。会員カードすら持っていないし、ここにいる時間で大抵の本が読めてしまうから必要なかった。
トートバッグを肩にかけ、席を立つ。
「森田さん?」
声がした方を振り向くと私服姿の彼がいた。緩めのジーンズにシワひとつない白のTシャツ。背には生地がはち切れそうなくらいパンパンのリュックサックを背負っている。
「あ、どうも。」
奇遇だね。そう言って彼は私の元へ歩み寄る。
「もう帰るところ?」
「うん。」
ちょっと付き合ってよ、と気さくに話しかける彼の表情はあの、授業中にはなしかけられた時と同じだった。
それから、少し語り合った。好きな作家とか、最近読んだ作品のここが良かったとか、物語を書くってすごく安心することだってこととか。少しの立ち話のつもりが話し始めると止まらないのは彼ではなくて私の方だった。
初めこそ、彼の話を一方的に聞いていたが最終的には彼が聞き役にまわっていて申し訳なくなった。
一通りの話が尽きると、彼はリュックを指さした。
「やろうよ、バスケ。」
なるほど、そこに入っていたのはバスケットボールだったのか。
話を聞いていくうちに、友達とバスケで遊んだ後だったことがわかった。近くにお気に入りの場所があると語る彼は変に自慢げだった。何を言わずについていくと、どんどん草むらというか林の中に入っていった。
「ここ、僕の秘密基地なんだ。子供っぽいでしょ。」
ついたところは林の中の小さな空き地のような場所だった。ずっと木が生えっぱなしだったのに、この土地だけなぜか空いていた。周りを木で囲まれて人工的な建物が一切見えないこの場所は確かに秘密基地だった。
彼が地面に座ってあぐらをかいたので私も腰を下ろす。上を見上げると、一面空で日光が差し込んでいるから明るかった。
「いい場所だね。」
「でしょ?実はここに僕以外の人を連れてきたのまだ森田さんだけなんだ。」
だからさ、と続ける。
「ここの場所のことは秘密ってことで。」
人差し指を立てて口もとに置く。
「なんで、私をここに連れてきたの。他にも友達ならたくさんいるじゃん」
「それは…」
考えるような仕草を見せた後、口元にあった右手の人差し指で私の横をさした。
「これ。」
さされた方向を見ると、大きな樹木が立っていた。他の木とは比べものにならないくらい太くて立派で、高い。濃い緑色の葉をつけているその樹木は彼の身長よりもさらに大きい部分に苗を絡ませていた。その苗は数日前の体育を思い出させた。
「僕の手作りバスケットゴール。苗を編んで作ったんだ。」
自慢げに語る彼に私はただ、唖然とするしかなかった。それが立派だったからだ。その期には、何度もボールをぶつけた痕跡があってずっと前からここで練習していたことを悟った。
「森田さんのボールがゴールに入るまで、ここで練習しようよ。」
私は、自分だけこの場所に連れてきてもらえたことの特別感から
「相当時間かかると思うよ。」
と素直じゃない返事をした。それが了承返事だということはちゃんと伝わったようだった。
彼に手本を見せてもらってから一回投げてみる。そのボールは網という名の苗には程遠くして落ちた。高さが全然足りなかった。
「もう少し、膝を使うといいんだ。膝のエネルギーを腕に伝えてそれをまたボールに送る。そうすればもう少し高く上げられるよ。」
「うん、やってみる。」
言われたようにやってみると、確かにさっきよりは高く投げられた。
「凄いね。」
「ここで練習したら、森田さんも体育で女子のヒーローになれるよ。」
「それは困るよ。注目されるのは結構。」
私はただ、チームの一員として参加できればそれでいいのだ。ひとつしかないこのバスケットゴールは学校にあるものとは違って自然の生命力を感じた。
今日中には入らなかったけど、しばらく練習した後は二人で地面に仰向けになった。
「練習させてくれてありがと。」
「こちらこそ。」
普段なら気まずくなるような短いやり取りもこの空間が和らげてくれているようで妙な安心感があった。
「ここに森田さんを招待したからもう僕たちは友達ってことでいい?」
「え、そうなのかな。」
友達は気がついたらそうなっているもの。誰かが言っていたことを思い出した。
「森田さんって全然僕の名前呼ばないよね。」
「そうかな」
「そうだよ。」
そう言って彼は体を起こした。私もそれに倣う。
「これからは龍也で。よろしく、伊代。」
そう言って片手を出した。
「うん。よろしく。」
私もそう言って彼の手を握った。
高校生にもなってこんなやりとりをするのはなんとなく決まりが悪かったけれどこれから私たちは友達だ。
それから暫く、私たちは放課後あの秘密基地でバスケの練習をする事にした。彼は友達と遊んでから帰りに寄る感じだったから、ほとんど私専用のスペースになった。いつ来ても自然の力には驚かされる。どんな心配事があっても、あの迫力のあって力強い樹木を見ていると負けていられなくなる。
初めの頃は林の中で迷って彼が居なければたどり着けなかった秘密基地も、今となってはすいすい進んで行けるようになった。
空き地について鞄を下ろす。休憩がてら地面に座り、そのまま倒れて大の字に寝転ぶ。目をつぶって日光と、木々の力を感じる。体全体にエネルギーが漲る感覚を感じてから立ち上がる。ボールは彼が樹木の下に置いていってくれている為それを使う。
膝を使ってボールを高く投げる。投げたボールは高さこそ順調だったものの、大きく右にずれて樹木の奥の方まで飛んでいってしまった。
「まだ、入らないんだよな。」
飛んで行ったボールを追いながら、いかに自分が運動音痴かを痛感する。中学の頃も体育は消極的だったし、今回のバスケだって彼と話している時にうっかり経験がないことを話してしまって断りきれなかっただけだ。
「なのに何でこんな一生懸命なんだろ。」
「どうした?」
「わっ!」
自分に集中していて全く気が付かなかった。後ろを振り向くと汗だくの彼がにっと歯を見せて笑っていた。
「いきなりびっくりしたなぁ、驚かさないでよ。」
「驚かしてなんかいないよ。声掛けただけじゃん。」
うん、確かにそうだ。
「うん、そうだね。」
だろぅ?と言って地面に座る。今日は汗のかき方が尋常ではない。
「汗、大丈夫?」
「ああ、今日は遊びすぎたかな。」
そう言って自分の水筒をカラカラと振った。残った氷の音だけが水筒の中から聞こえた。
「良かったら私の水飲む?まだ口つけてないよ。」
「マジかよ。こんな暑い日に水飲まないとか伊代の方こそ大丈夫?体調悪くない?」
私の方が心配されてしまって恥ずかしくなったから彼の手に水筒を押し付けた。
「ありがと」
うん、とだけ言っておいた。
水を飲んだ彼の顔色は先程よりも良くなっていた。汗もひいたし、いつも通りで安心した。
今日は家で休んで欲しくて、早めに別れることにした。家までの帰り道、途中まで同じ道を歩く私たちはこれもいつもの日課となっていた。夏で日も長いけれど、帰る時はすっかり暗くなっている。そのくらい、時間を忘れてしまうということだ。
「静かだね。」
お互い黙っていても気まずさは全くなくてむしろ心地いいくらいだった。
「そう?」
「え?」
「目立つ音が無くなっただけで田舎ならではのカエルの鳴き声も、どこかの家から聞こえるテレビの音声も、隣町の車のエンジン音も聞こえない?」
耳を澄ませてみる。確かに、さっきまでは何の音もしていないと思ったこの空間では小さな音が響いている。
「ほんとだ。」
「こうやって、耳を澄ませばいつも聞こえている音だって自分自身が蓋をしたらどんな音も消してしまうことがあるんだってよく感じる。」
そうだね。彼の言う通りだ。聴覚だけじゃなくて視覚も嗅覚も触覚も味覚も全部味わってみれば小さな発見が出来るかもしれない。
「なんか私たち、子供みたい。」
まだ16歳の子供だよ、と彼は笑った。
 翌日、朝食がいつもより美味しく感じた。

「伊代おはよう。」
いつものように紗香と図書室に行って別れた後、彼と会った。
「おはよう。」
私たちは、教室では言葉をかわさない。目立つ事も大きな理由だけど彼の周りには沢山人がいて私が話しかけられるタイミングなんてこれっぽっちも無いのだ。だからこうして、秘密基地や図書室で話す。
「伊代、今日の放課後は基地じゃなくて図書館にしよう。」
彼は、暑くて外には出れないよ。と言って頭をかいた。
「じゃあ、今日は帰ってもいいよ。友達と遊んでくれば。」
「どうして?」
「だって、いつも私に付き合ってもらっちゃってるからたまには放課後使って遊んできていいよ。」
彼曰く、むしろ僕の方が伊代に感謝しているから今日は図書館で待っててということだった。私なりの気遣いだったけどそういうことならと、約束した。
 私が図書館について、三十分後彼は来た。
「ごめん、遅くなった。」
彼の息切れした様子と、汗のかきかたを見たらどれだけ走って来てくれたかなんて一目瞭然で、申し訳なくなった。でもきっと、彼はそんなこと気にしていないだろうから謝らなかった。その位、私は彼を信頼するようになっていた。
「最近バスケの練習ばっかりで勉強してなかったから今日は勉強してから帰ろうか。」
そう言ってノートを取り出す彼に習って私もカバンを漁る。
「最近勉強できてなかったのに、テストであんな点数取れるんだ。」
最近のテストで彼は、五教科九十点以上という結果を残した。見事に学年トップだ。
「なんか私たち、普通の友達じゃないみたい。」
ふと思って口にしてみる。
「それは、僕も思うよ。異性二人で会っても何にも可笑しくないし、正直」
…伊代との時間は特別だよ。
そう聞こえて頬が紅潮していくのが分かった。私は何を期待しているのだろうか。初めは小説を書きながらそれなりに充実した、高校生活を送られればいいと思っていた。
でも今は何かが違う。それ以上の生活を求めているような気がして、落ち着かなかった。
「特別な時間をありがとう。龍也。」
その時私は初めて彼の名を口にした。
彼は気が付いていたと思うけど、笑って流した。彼は笑って流すことが多い。
 本当の気持ちを口にして伝えて欲しいよ。

「伊代〜今日の放課後カフェ行かん?新しいとこできたらしいよ。」
「紗香、カフェとかいうタイプやっけ」
馬鹿言うな!と言わんばかりにむすっとした紗香に仕方なく、付き合うことにした。
そういえば、紗香と放課後に会うのは初めてかもしれない。駅前に新しいカフェが出来たと言うので言われるがままに着いていった。学校から二十分も歩かず、着いたカフェはオシャレな都会っぽい店だった。
外装は白、ベージュ、ブラウンの三色でバランスよく塗られていて、店内もベージュを基調とした落ち着きある場所だった。開店したばかりだったからか、もう既に席は満席で十分程待ってようやく、席に案内された。
「美味しそうだね。」
「うん。」
周りは他校の女子高生か、カップルの二択でさっきからカラフルな、食べ物を写真に収めている。
しかし、店員さんに出されて見たメニューに私達は驚きを隠せなかった。
・ドリンク・
『抹茶とレモンティーのミックスティー』
『冷やし中華麺風アイスジュース』
『コーヒー (シロップはお好みのものを選ぶことが可能です)』
「いちご飴、ハンバーガー、寿司、キムチ」
「やめよ、紗香。お願いします。」
手を目の前で合わせて、冷静に真剣にお願いした。こんなメニューは、美味しい気がしない。なんでこんなに人が集まっているのだろう。不思議で仕方がない。
「でも、折角並んだんだし一つ頼んでみようよ。」
「うーん…」
紗香もメニューのおかしさには気づいていたらしい。私たちは一番普通に近い『抹茶とレモンティーのミックスティー』を頼むことにした。(その他フードも見てみたが酷すぎて、言葉が出ない。)
三分程して、ドリンクが運ばれてきた。スリムな形のグラスに八分目くらいは抹茶とおそらくレモンティーの混ざったものが注がれていて、上にはアイスクリームと小豆がトッピングされていた。
「せーの」
二人で裏切らないことを約束して、一口。
「美味しい!」
同時に声が出て笑ってしまう。味は本当に抹茶とレモンティーが混ざった味なのだけど、上手く二つがマッチしていて、甘さがあった。上のアイスクリームと一緒に口に入れるとそこにアイスもマッチして更に美味しくなった。
おかしかったのは、メニューに記載されている名前だけだったと悟った。あまりにも美味しくて五分も経たずに二人とも飲みきってしまった。
「美味しかったね。」
「頼んでみるものだね。」
そう言って、次は『タピオカとカマンベールの味噌パウンドケーキ』を注文し、紗香は『ザリガニソースとタラバガニの濃厚ケーキ』を注文したがそれも不思議な程に美味しかった。紗香のケーキも美味しかったらしく、満足して店を後にした。
 紗香と別れて一人帰路を歩く。あの店は斬新だけど美味しいから人が多く来ていたんだと納得する。挑戦してみるものだ。
「伊代?」
「龍也!」
龍也の姿を見て、放課後に基地に行かないと伝え忘れていたことを思い出した。
「ごめん!今日は紗香と遊んでて…連絡し忘れてた。」
「居ないからびっくりしたよ。伊代に何かあったんじゃないかって。」
「大袈裟だよ。今度からはちゃんと連絡するね。」
「今日みたいなことがあるかもしれないからさ」
そう言って彼はケースも何もついてない黒のスマートフォンを取り出した。
そして、連絡先教えてよと言った。
連絡先を交換しようと言われただけだけど、どうしてこんなに手が震えるのだろうか。緊張している。何に?
私のスマホの画面には、彼のメッセージアプリ用プロフィールが映されている。
名前は上村龍也と本名で、アイコンの写真は海だった。何の変哲もない、ただの海。
「海、好きなの」
「うん。ここは山に囲まれているから海がなくてずっとどんなものか知りたかったんだ。それで親に無理やり頼み込んで連れていってもらった時の写真。今なら一人で行けるけど、当時はまだ小学生だったから。」
綺麗だろ、と得意げに見せる彼の写真は確かに上手く撮れている。光の入り方から被写体の角度まで。
「綺麗に撮れてるね。」
「伊代は、海行ったことある?」
幼い頃に一度だけ。そう応えると「俺も。」と笑った。
「でも、その時の記憶って全然消えないんだよな。不思議と」
「私もその時の事は全部記憶として残ってる。」
「不思議だな。他の事は覚えてないのに、自分が楽しかったって心から思ったことって、これから先もずっと続いていくんだ。」
私との思い出もずっとあなたの記憶の中に、残っていくのかな。
 もう帰りが遅くなるからと、その後はすぐに別れた。

夏の季節は通り過ぎ、肌寒い日が続いていた。制服に薄いカーディガンを羽織って、秘密基地に行く。そして、ボールを投げる。
初めのうちは希望が見えず、いつまで続くのか心配していたけど、最近はゴールにボールが届くようになってきた。
「伊代、成長してるじゃん。」
そして、この場所に来ることは私にとっての楽しみになっていた。
「でも、まだ入らない」
そんな簡単に入るわけもないか、運動神経皆無の私が今までどれだけ体育をサボってきたか。
「もっと、集中して一か八か入れるんじゃなくて、ゴールにボールを入れるっていう案外当然のことを意識してみればいいんじゃない?」
そんな私にも、彼は続けて付き合ってくれている。こうやってと、見本を見せてくれたり、アドバイスしてくれたり。その数々が私を楽しくさせているのかもしれない。
ゴールにボールを入れる。
そう心の中で呟いて投げたボールは、ゴールに一直線に飛んでいく。そして、シュッと音が鳴ったと思ったら、ボールは苗で作ったネットの真下に落ちた。
入った…?
「凄いよ!伊代!入ったじゃん。」
「うん。」
今まで何回も練習してきたことが無駄じゃなかったって思えた。それに、最後に入ったこの一球が簡単なものにすら、思ってしまっている。
「おめでとう!」
彼が差し出した手に、私も手を合わせてハイタッチした。パンッ!と気持ちが良い音がした。
「今日はお祝いだね。」
「ありがとう。ずっと、練習に付き合ってくれて、応援してくれて。」
元は彼が言い始めたことだったけど、今や私は自分の為にやっていたと実感した。でなきゃこんなに感動するはずがない。
「コンビニで一番美味しそうなケーキ買ってあげるよ。」
いつもなら遠慮したけど、今回は彼の言葉に甘えて奢ってもらうことにした。
コンビニで、私は抹茶のショートケーキ、彼はバウムクーヘンとジュースを購入した。食べる場所に困って、また基地に向かう。
ゴールの方向に並んで座る。彼は、「このバームクーヘン美味い。」とか、「久々にコンビニのスイーツ買ったかも。」とか言いながら食べていた。特に反応もせずに私は黙々と食べ続けた。私も初めて食べたコンビニの抹茶ケーキは美味しかった。誕生日ぶりにこの量の生クリームを体に取り込んだから、胃が驚いている。後で胸焼けするかもしれない。
「あのさ、」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「これからも、ここ、来ていいから。」
そう言ったきり、彼は帰ってしまって私はただ、その後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
彼の頬と耳たぶが赤く染まっていたのは、夕焼け空のせいだろうか。
家に帰って、メッセージアプリを開く。両親と紗香、中学の頃の友達を数人だけしか登録していなかったのに、上村龍也と書かれたプロフィールがそこに表示されていることは、不自然でならなかった。連絡先は交換したものの、未だに会話はしていない。何となく、彼のアイコンである海の写真を眺める。本当に綺麗な写真で彼が、気に入っている写真だということが分かった。
 一週間程経っても、私は基地に行かなかった。目標は達成したし、紗香の遊びに誘われることが度々あったからだ。昔ながらの喫茶店に行ったり、休日には流行りの映画を見に行ったりもした。
「今日学校行けるかなぁ。」
そう思う原因は季節外れの大雨だった。もう秋だと言うのに昨夜から振り続けている雨は、止む気配がなかった。土砂崩れが起きるかもしれないし、徒歩での登校は拒まれるかもしれない。その時、メッセージの受信を知らせる音が鳴った。紗香もこの大雨に悩んでいるのだろうと、スマホを取り出すと相手は彼だった。
『大雨で基地が心配。今日の放課後、雨が止んでいたら寄って欲しい。』
短い文章だったが、気遣いが感じられた。もしかして、彼はあれから毎日基地に行っていたのかもしれない。元はと言えば彼が見つけ、私と出会うまでは彼が一人で通っていた場所だ。そこを私だけに教えてくれたときの特別感が蘇る。
『分かった。放課後ね。』
と返信した。これでトーク画面には、二つのメッセージだけが何処か寂しく、表示された。
登校時間ぎりぎりで、学校は通常通りに行われることが発表されて、急いで家を出た。
学校に着くと、すぐに紗香が寄ってくる。なぜだか今日はテンションが高い。おはようの挨拶も、ワントーン声が高かった。
「伊代!今日は新刊が発売される日だよ〜。超楽しみ。」
日付を確認すると確かに、出版社の新刊発売日だった。この出版社は割と大手企業で、年の売上はそこらの出版社の数倍はあるとか。私と紗香が唯一一緒に好きだと言った出版社だ。
「放課後、買いに行こ!」
いいよ、とうっかり言いそうになったが彼との約束を思い出して、遠慮しておいた。
昼過ぎにはすっかり雨が止み、虹がかかっていた。でも、基地はすごいことになっていた。
「ここ?」
彼に聞くと静かに頷いた。原型をとどめていなかったのだ。地面は泥まみれな上に、周りを囲んでいた木々も所々倒れていて、空き地を埋めている。おかげにあの樹木はそれこそ立ってはいたのだが、ゴールの部分がどこかへ行ってしまっていて、根元を傷つけられたあとしか残っていなかった。
「酷いな。」
今まで雨が降った時も、こんなに酷いことにはならなかったという。今回の大雨は致命的だった。
「少し片付ければマシになるかもしれない。」
早速片付け始める。彼がシャベルを持ってきてくれていたので、私はそれを使って泥を端に寄せる。彼には、力仕事を頼んで倒れた木を横にずらしている。しばらく無言で作業を続けていると、何となく元の空き地の部分が見えてきた。でもこれ以上は地面が乾燥するのを待つしかない。
「ゴール作ろうよ」
私が言うと、彼は不思議な顔をした。もう、目標は達成したのに何でと言いたげだった。
「折角作ってくれたものだったし、思い出として復元させようよ。それに、これから龍也も練習するかもしれないでしょ?」
「うん、そうしよう?」
それから、彼に一から教わることになった。苗の選び方、組み合わせ方、編み方、丁寧に教えてもらいながら心を込めて作った。
「何でこのやり方を知ってるの?」
彼は、小さい頃母親に教えてもらったといった。それをずっと覚えているって、彼は母親思いだ。
ゴールを編み終わって彼に、取り付けてもらった。
「伊代、ありがとう。今日手伝ってくれて」
「いいよ、いつもお世話になってるからね。」
 そう言って私達は、帰った。家に帰って母親に制服が汚れているのを指摘され、軽く叱られた。

去年は、小説に没頭して満喫できなかった紅葉も、今年は両親と見に行くことが出来た。色とりどりの紅葉が山を赤と橙に染めていた。
秋が終わると思えば、もう冬が来ていて寒さはさらに増した十二月下旬。
制服の上にコートを着て登校する生徒がほとんどだった。
学校で小説を書く時も手がかじかんで大変だった。一年前を思い出す。
クリスマスが近づき、クラスの皆はお相手を探し中でアプローチが痛かった。特に彼へは人数がほかの男子とは比べ物にならなくて、他の男子生徒が可哀想だった。
町はイルミネーションやその他の飾りで装飾され、クリスマスソングなんて耳にタコができるくらい聞いた。というか、聞こえてきた。
図書室。最近そこで彼と会うことが少なくなってきている。
「伊代はクリスマス予定ある?」
でも、たまに会う。
「特には」
「基地を装飾したいんだ。クリスマス仕様で」
途端、あの空き地がイルミネーションなどで飾られた時の姿が目に浮かんだ。胸が弾むのを感じて、了承した。久しぶりに彼の笑顔が見られて心底嬉しかった。
百均で簡単に装飾用のグッズを買って、基地に行くと彼もイルミネーションなどを用意していた。
大雨の跡はもうほとんど無く、いつも通りの空き地が顔を出した。
「雨止んで良かったね。」
ガシャガシャと、音をたてながら百均のレジ袋からグッズを出す。私が買ったものは、樹木を飾る用の鈴やカラフルな玉、赤色のリボンだ。折角だから本物の木を使って飾ろうと、クリスマスツリーは買わなかった。彼は家にあったからと、様々な色に光るイルミネーションを準備してくれていた。
他愛もないことを話しながら早速取り付けていく。
「伊代の小説読みたい。」
「うん、いいよ。これが終わったらね」
「ありがとう。」
読む者を虜にしてしまう小説を書く彼が、私の小説を読みたいと言ってくれるのは、とても嬉しい事だった。
「クリスマスの思い出教えてよ」
彼が問う。
「んー、家族とケーキ食べて寝た。」
「彼氏じゃないんだ。」
「いないし」
えーモテそうなのに、と言った彼に「作らないだけだから」と応えた。何処か、彼と二人きりでショッピングをするという事を想像していた。何を考えている、私は。
「龍也こそ、今日彼女と一緒じゃなくていいの。」
「俺もいねーし。」
「人の事言えないじゃん。」
何回も告白された事がある彼が誰とも、付き合っていたことがないという噂は本当だったのか。単純に何故か気になったけど、いつもの笑顔ではぐらかされてしまった。
突然、彼は手を止めて鞄の中を漁り始めた。何か赤色の箱を持っている。
「これ、クリスマスプレゼント。」
「えっ」
長さ二十センチほどの長方形の箱は、ゴールドのリボンに巻かれている。
「ありがと。」
リボンをほどいて開けてみる。中から出てきたのは白色のシンプルな手袋だった。
「気に入るかわかんないけど。」
照れたように頭を搔く彼は、嬉しそうだった。
「めちゃくちゃ可愛い。ありがとう。」
今日はイブだというのに、私は何のもてなしも無かったのが申し訳ない。
手袋を試しにつけてみる。肌ざわりがよくて、温まっていくのを感じた。

「メリークリスマス!」
その日は休日で、私は紗香の家にいた。クリパというやつだ。
テーブルには、紗香が用意してくれたお菓子に加えて、私が買ってきた炭酸ジュースが二本置かれている。
「はい、これ。」
そう言って、二人でプレゼント交換をする。紗香に貰ったプレゼントを開けてみると、万年筆だった。珍しく、外見は全て白で統一されていてオシャレな感じだ。
「ありがとう!授業で使うね。」
「うん!喜んでもらえて良かった。」
次に、紗香が私からのプレゼントを開封する。私が買ったものは、リップティントとアイシャドウ。ティントは紗香に似合いそうなオレンジ色で、アイシャドウはブラウン系統の物が四つセットになっている。
「可愛い!これ欲しかったんだよ〜」