伯祖父の葬式はすぐに行われた。
 葬式といえば誰か一人くらいは泣いたり、悲しんだりするものと思っていたが、そんな人は一人もいなく、それどころか真顔か、笑顔で「良かったな」「幸せだろうな」などと言っている。
 わたしもその集団の中にいると思うと嫌気がさしてくる。
 でも式後、喪服を着た伯祖父の古い友人らしき人達とすれ違ったが、その人達は他の人とは違い、わたしに『変』とは言わなかった。だから何故言わないのかと訊くと、首を傾げ質問の趣旨を理解していないようで「私が君に『変』と言わないと何かあるのかい?」と逆に訊かれた。
 わたしが訊きたいくらいなのに……。
 帰宅後、疲労が限界にきていたため自室に入るなり、着替えもせずにベッドにダイブした。
 しばらく休むと、バックから伯祖父から貰ったあのカードを取り出し、眺め始める。
 カードには大きく文化観光部という文字とその下には小田 啓太郎という名前が記載されている。
 「文化……観光部?」
 ネットで検索してみると国の行政部門と出てきた。
 ということは伯祖父は昔公務員で、文化観光部という部門で働いてたということなのだろうか。
 しかしわたしには断言できない。何故ならわたしは伯祖父の本名を知らないから。
由美さん夫妻に訊いても答えてはくれなかったし、そもそも親戚だからといって同じ苗字とは限らないからわたしと同じかもわからない。
 「やっぱり。あの日、訊いておけば良かったな」
 そうすれば少しは伯祖父のあの遺言に確証が持てたのだろうけど、今更どうしようもない。
 それに今一番引っかかっているのはそこではない。
 伯祖父はテレビの電気がプツンと切れるように突然死んだ。この最後に近い死の状態を作り出す物をわたしは知っている。それは『Sephirot』だ。
 なぜ『Sephirot』を何年も拒み続けてきた伯祖父が飲み続ける人と同じ死に方をしたのだろうか。わからない。
 すると突然わたしはこれ以上手を出していいのか不安にとらわれた。
 確かに『Sephirot』は今や『EDEN』と同じく国になくてはならない存在。それを疑っているのだから国を揺るがすことにわたしは首を突っ込もうとしてるのかもしれない。
 わたしは下手なことをしてまた居場所がなくなるのが怖い。
 それに、これ以上は前に進んではいけないとわたしの中の何かが全力で伝えている。でもわたしのこの状況を作り出した伯祖父の遺言の通りにすれば何が起こるのか気になって仕方がない。
 「軍の基地……」
 災害時、人命救助等をすることになっているのが軍だ。確かに昔は災害があったらしいがもうここ二十年以上災害は起こってなく、今では税金の無駄とまで言われている存在。
 軍の基地の土地は広大で東の海岸をほぼ全て敷地としている。
 そんな場所に何があると言うのだろうか。それに最終的に向かえと言われた『シマ』とは何だろうか。
 「どうしよう……」
 徐々にわたしの中の不安が好奇心に染まっていく感覚があった。
 「今日も公園いこ!」
 放課後。あいも変わらずナリは今日も今日とて公園へわたしを誘う。
 昨日わたしは葬式で学校を休んだ。
 これはそのことを唯一知るナリなりの気遣いなのかもしれない。
 特に断る理由もなかったので今日も今日とてわたしはナリと遊ぶことにした。
 今日はこの前とは違い少し学校から離れるかわりに大きく、カラフルな遊具の多い公園に向かう。
 ここ数日で様々なことを知り、世界にまで疑念を持ってしまったわたしはたとえ外で『変』と言われようが一秒でも家という狭い場所にいたくなかった。
 公園に着くとあまり人は見当たらず、遊具は誰にも使われていなかったためナリは子供のようにはしゃぎながら、その遊具の方へわたしを置いて走っていく。
 「サクラも遊ぼーよー!」
 ナリはわたしにそう叫びながら黄色い滑り台をのぼる。
 「わたしは遠慮するよ。今はそんな気分じゃない」
 わたしが近くにあったベンチに座るとナリは滑り台の上で立ちあがって「体動かそうよー」と言ってから滑り降りる。その後近づいてくるとわたしの手を引いて今度はブランコにいく。
 「これなら滑り台よりも、ベンチよりも良いでしょ?」
 ナリは赤いブランコに乗るとすぐにこぎ出すが、わたしは乗ってもこぐ気にもなれない。
 それを見かねたナリは昔話をし始めた。
 「ねぇ。中学二年生の頃のこと覚えてる?」
 「中学? もちろん覚えてるけど」
 「わたしさ、中学の頃いじめられてたんだよ。クラス対わたしくらいね。友達だと思っていた人もある日突然それが原因でわたしと話さなくなったし、もちろんその状況を見ても止める人なんて生徒にも教員にもいなかった。だからあの時程辛いと思ったことはないくらいわたしの心は落ち込んでた。その日もこの公園で放課後もいじめられてた」
 淡々と話す姿からはいつもの明るいナリの面影はない。
 でもナリの話す内容に何か引っ掛かるものがあった。何か忘れているようなそんな違和感に近いものが。
 「泥や水をかけられてわたしはその日も泣いてた。そこにまるで漫画やアニメのヒーローみたいな人が現れたの。その人はわたしと同い年だったのに強くてカッコ良かったんだ~。そして何よりその人に言われた言葉でわたしは救われたし、変ろうって思えた」
 確か昔似たような場面に出くわした記憶がある。同学年くらいの男女三人が一人に水やら何やらをかけて笑っていたからちょっかいをかけたのだ。
 これが忘れてたいたものの正体なのだろうか。
 その後どうなったかは覚えていないけど確かそのいじめられていた子にわたしは確か、こう言ったのだ。
 自分が泣く結果を変えたいなら――
 「――自分で変えるしかないよ。ってね」
 「えっ」
 ナリはブランコから勢いよく飛び、鉄柵を飛び越えて着地した。
 「その言葉のおかげでわたしはその現状を変えられた。だからどうしてもその人に関わりたくて、近づきたくて色々しようとしたんだけどその人近づかないでオーラがすごくて話しかけるまでに一年もかかっちゃった」
 振り向いて笑顔を見せるナリにわたしは驚きの顔しか出来なかった。
 「その感じだと忘れてたか、あの時の子がわたしだって知らなかったでしょ。でも無理もないよね。あの時は本当に少しの時間だったし、性格も変わったから」
 「ごめん。気づかなかった」
 「ううん。気にしなくていいよ。そんなことよりもわたしはサクラの困っていることに手を貸してあげたいの。今度はわたしが助ける番。ってね」
 ナリの差し伸べられた手にわたしがどんな期待して良いのかどうかわからない。期待して、頼ったところで他の人達のように無へ、裏切られるのがオチなのかもしれない。
 幼いわたしならそう思っただろう。
 でも今はそう思わない。
 「実は一つ相談したいことがあるんだけど……いい?」
 思えばこれが初めて誰かに相談したことだったと思う。
 わたしはここ二日の、伯祖父のことを全て話した。もちろんこれから軍の施設に行こうと考えていることも。
 「つまりサクラはそのおじいちゃんの遺言に従って動くってことだよね。それってサクラの意思ってことでいいの? それにこれってもしかしたら違法かもしれないよ? その伯祖父さんの死因だって……」
 口籠るナリにあまり不安がらせないようにわたしは笑顔をつくる。
 「未だにあの人がどんな意図があってこんな話をわたしにしたかわからない。でもここから何かを変えたいって気持ちは元々わたしの中にあったものだよ」
 これはもう何年も前からあったわたしの本音。
 何度『変』と言われようともそれがこの世界であり普通なのだと思い込むことで自分の気持ちを押し殺してきた。
 でも本当は逃げたかった。あの家からも、この世界からも逃げて自由になりたかった。
 それは一人の友人が出来たことだけで解消されるような軽いものではない。
 「わたしは行くよ。絶対」
 確証があるわけでも安全が保証されているわけでもない。だからこそわたしは行く。先の見えない道だろうともそこにわたしの望む可能性があるのなら前へ行くだろう。それに薬も飲まないようなあんな他の人とは違う人が言ったことなのだから確証はなくとも可能性があることに変わりはない。
 「意思は硬いみたいだね。ならわたしはもう何も言わない。そのかわり、わたしも一緒に行かせて。親友が困ってる時に一番に助けになりたいもん」
 「ありがとう。ナリ」
 わたしがそう言うとナリはニコッと笑った。
 今日も夕日は沈んでいく。
 全く変わらない時間に確実に。
 翌日。わたしはいつもよりも軽い足取りで学校に向かっていた。
 理由はもちろん昨日のこと。誰かに悩みを打ち明けたことなんてなかったから、悩み自体は解決せずともこんなに心が晴れるなんて知らなかった。
 今日なら通学中にスキップだって出来そうだ。
 そんなことを考えていると気付けば学校に着いている。いつものように周りからは変わらず『変』と言われているが今のわたしは無敵。今までも特に思っていなかったけど今日はまるで背景のように全く気にならない。
 わたしは今日もいつもと同じように教室のドアを勢いよく開く。
 教室にはもう登校しているナリがいたので近づき、話しかける。
 「おはよう。ナリ。昨日は改めて話を聞いてくれてありがとう。おかげで気持ちが軽くなったよ」
 「……」
 いつもなら逆だけどわたしから声をかけたからなのか、反応がない。
 「どうしたの? ナリ。なんか変……だよ」
 するとナリはこちらに視線を向ける。
 その瞬間わたしは気付いてしまった。
 この目は同じだ。
 「あのどちら様ですか? あなた……『変』ですね」
 ドバッと自分の内側から流れ出そうになった感情を押し殺そうとわたしは拳を強く握り締め、噛み締める。そして代わりにナリの机に一滴、また一滴と涙が落ちる。すると教室がざわめきだした。
 もう視線すらこちらに向けなくなったナリにわたしは泣くことしか出来なかった。
ナリが裏切ったわけじゃない。誰かがこうなるようにしたのだ。
 でもその誰かがこうしなければならなかったのはおそらくわたしが現状を変えたいと望んだからだ。
 そう思った瞬間、教室を飛び出しわたしは走り出していた。
 怒りの向ける矛先のわからぬまま、わたしの行き先だけは、はっきりとしている。
 わたしは一人。友を残し、一度として振り向かず進む。
 片道、電車で四時間。西から東へ移動したわたしはあれだけ行くか悩んだ場所にいる。
 門を通るとすぐ横に警備員のいる白い小屋で事情を話そうと思ったが上手く説明できる自信がなかったため、伯祖父からもらった例のカードを渡すと、上の者に連絡を入れる、と言って待つことになった。
 数分後「もう少々お待ちください」と警備員の方がそう言って奥の大きな建物に消えていく。
 待っている間、友人を無くし、相談する相手もいなくなったわたしはこの先どうすればいいのかと考えていたが、考えても考えても答えは一向に出ない。
 ため息をついていると肩をトントンとされ、振り向くとさっきの警備員と胸元に金のプレートのたくさんついた軍服を着た黒髪の綺麗な女性がいる。警備員の方は「話が聞きたいそうですのでどうぞ中に」と今度はわたしを建物の中に入るよう誘導した。建物の入り口まだ行くと警備員さんはここまでのようで小屋に戻っていった。
 受け継ぐように女性はわたしをとある部屋へ誘導する。その部屋はこの建物の一番上の奥にある部屋。
 「この部屋です」
 「あの。すみません。この部屋って……」
 「はい。空将殿のお部屋です」
 「えっ、ちょっと待っ――」
 わたしの言葉を無視して女性は扉をノックする。
 「お連れいたしました」
 扉の向こうからは「ああ。入れ」と一言。
 それを合図に扉が開き部屋の奥の机に空将と思われる軍服に女性よりも多くのプレートのついた屈強な男性がいるのが見えた。歳は……『Sephirot』を服用しているのかわからない。見た目の年齢は三十代に見える。
 わたしは女性に背中を押されて中に強制的に入らされる。
 するとわたしが入ったのを確認し、女性は「では失礼します」とさっさと部屋を出ていってしまった。
 屈強な男性いる部屋に女子高生が連れ込まれてしまった。
 言いようによってはそうとも言えるこの状況で数秒無言が続いた。
 それを見兼ねた空将は立ち上がり、わたしに部屋にあるソファに座るように勧め、わたしもそれに従い、ソファに座った。空将は無言でコーヒーを淹れ、わたしの前のテーブルに置くと向かい合うように自身もソファに座った。
 出されたコーヒーを飲んでも落ち着かないわたしは部屋をきょろきょろと見まわす。
 すると空将がさっきまで座っていた机の横には大きな旗が掲げてありその後ろにはガラスケースに入った賞状や、写真が置いてあった。
 そんなことをしているうちに空将がコーヒーを一口飲んだことでやっと会話が始まった。
 「私は回りくどい話があまり得意ではなくてね。率直に訊かせてもらう。このカードはどこで手に入れたのですか?」
 空将は話しながらわたしが持ってきたカードを胸ポケットから取り出しテーブルの上に置く。
 「これは先日亡くなった伯祖父から託されたものです。伯祖父からは死に際、これを持って軍の基地に行くようにと言われ、わたしはここに来ました」
 「その伯祖父さんのお名前は」
 「いえ。両親に訊いても教えてくれませんでしたので」
 「このカードについては何か」
 「いえ。特には」
 「そうですか……」
 空将は確実にこのカードについてわたしの知らない何かを知っている。わたしはそれを聞き出したい。
 空将としてはこのカードがただの高校生の手にあるのかを知りたいのだろうけどわたしは何も知らないから聞き出せずにいるって感じだろう。
 どうしたものか。
 と、ここでわたしは無意識に質問をした。
 「あのお名前を訊いてもよろしいでしょか」
 「ああ。これは私としたことが。失礼しました。上山 純一郎と申します。貴方のお名前も訊いてもよろしいでしょうか」
 「はい。加賀見 サクラです」
 わたしが名前を名乗ると上山空将は驚いた顔をして口を押さえる。
 「なるほど。それでカードが貴方のところに……」
 状況がつかめないわたしを見て上山空将は手を組み、昔話を始めた。
 「公務員の二人の男が昔、とある仕事でヘリを借りたいとここに来たことがあったのです。二人の名は小田 啓太郎と加賀見 透でした」
 小田 啓太郎は確かカードに書かれていた名前。加賀見 透さん……はもしかして伯祖父の名前かな。
 「彼らは上司と部下の関係でしたがとても仲が良さそうでした。そして二人はヘリに乗ってここより東の雲より上空にあるとある場所に向いました」
 「とある場所って?」
 「はい。その場所の名を『シマ』と言います。これは秘匿事項になっていまして『シマ』についてはこの件に関わった方の他に軍の上層部しか知らない事ですので口外禁止でお願いします」
 『シマ』だ。伯祖父の言っていた最終地。
 わたしはここにきてやっと先が見えてきた気がした。
 「『シマ』とは。東の海の上をずっと浮遊している浮遊島のことです。『シマ』は常に雲に覆われており、下部しか見えないため地上はおろか衛生写真でも上部は確認不能な不思議な場所です。秘匿事項になる以前は国中が『シマ』に行きたいと言っていたのですが、秘匿事項になるとある日突然国民は『シマ』に関連する記憶が消え、誰も話に出すことはなくなりました」
 今朝のナリと同じだ。やはりこの世界は誰かの都合の良いように調整できるんだ。
 でもなんでわたしの記憶は消されていないんだろう。
 少し言葉に出しただけのナリが対象になったのならわたしはもっと前に記憶を消されていてもおかしくないのに。
 もしかしてそこにわたしが『変』と言われる理由があるのかもしれない。
 わたしは確実に近づいている真実に対しての興奮を隠すようにコーヒーを一口、二口と飲んだ。
 「そんな場所に二人は何をしに行ったのですか?」
 「彼らのいた文化観光部は文化や自然の保存以外にも国家遺産の登録も行っています。そしてあの日二人は『シマ』にあると予想されていた遺跡を国家遺産に登録するための審査をするため『シマ』に足を踏み入れようとしていました。これは初めての試みでしたがタンデム装備で軍の者と『シマ』より高度から降下することで確実に二人がたどり着けるようにしました」
 「では『シマ』には何があったのですか? 教えてください!」
 「えー。実は私は知らないのです」
 わたしは驚いてつい声が出てしまう。
 「二人が降下した直後、突然通信障害が起きて状況が分からなかったのです。もちろん何度も通信を試みましたがダメでした」
 「ではその二人はどうなったのですか?」
 「それが……」
 上山空将は言いづらそうに一度下を俯いた。
 「……計四名で行った降下作戦でしたが、数時間後砂浜で見つかった加賀見さん以外の姿はなく、その後の加賀見さんからの事情聴取から、おそらく『シマ』にて三名死亡したと思われます。私がもっと警戒し、対策を立てていれば結果は変わったかもしれないのに。不甲斐ないです」
 ぎゅっと強く手を組む姿からも上山空将が強く悔いていることがわかった。
 「到着してからずっと加賀見さんはパニック状態だったためか『シマ』についての記憶はなく、ただ彼は一言。あれは遺跡ではない。と言っていました。これだけ危険性を聞いても『シマ』に行くつもりですか? 加賀見サクラさん」
 なっ。ば、ばれてる。
 一瞬隠そうとも思ったが『シマ』に行くには軍の、更には上山空将の協力が必要不可欠だ。ならここで隠したところであまり意味はない。
 「わ、わたしにはどうしても行かなければいけない理由があるんです! お願いです。協力してください!」
 わたしの言葉を聞いて上山空将はため息をつく。
 「さっきの話で言ったように、私は既に『シマ』で三人死なせています。だから不確定要素しかない死地のような場所に行くことを私はお勧め出来ません。出来ませんが……」
 上山空将はカップに残ったコーヒーを勢いよく飲み干し、覚悟を決めたように立ち上がった。
 「ですが私が同行するなら許可しましょう。どちらにせよ。降下の際無事に降りられる者が必要でしょう」
 「えっ。良いんですか?」
 「ええ。死地に子供一人だけで行かせるわけにも、部下を行かせるわけにもいかない。なら私が行くしかないでしょう」
 「怖くはないのですか?」
 「もちろん怖いです。怖いですが、それ以上に誰かをまた死に向かわせて死なせてしまう方が私は怖い。老兵で良ければお供させていただきたい」
 「むしろありがたいです。よろしくお願いします」
 わたしも立ち上がり握手を交わすと上山空将は胸ポケットから封筒を取り出し、机に置いた。
 その封筒が退役を意味していることに気づくのにそう時間はかからなかった。
 上山空将も覚悟上でいくのだ。ならわたしが、そんなことをして良いのか、などと言うのは無粋だろう。
 「装備などの調達は私がしよう。だから貴方は気持ちの準備をしておいてください。集合時間は明日明け方六時に。ちなみにスカイダイビングの経験はありますか?」
 「無いです」
 「なら資料は今渡しますが、降下の詳しい説明もその時行います。以上。何か質問はありますか?」
 「いえ。ありません」
 「では、明日また会いましょう」
 上山空将が敬礼したので、わたしも見よう見まねで敬礼した。
 「ただいま」
 また由美さん達は『EDEN』に行っているのか家には誰もいなかった。
 結局この家もわたしの居場所ではなかったということだろう。肉親に捨てられたのだ。なら親戚という名ばかりな他人の家だってそんなわたしの居場所になるはずがなかった。
 家に上がってすぐに自分の部屋に向かった。
 ドアを開けるといつものわたしの部屋。
 物も少なく必要最低限のシンプルな部屋。
 においも何もない部屋。
 まるで誰も住んでいないかのような部屋。
 改めて見ると本当に何もない。まるで無色だ。
 今思えば由美さんに嫌な顔をされたことはあっても怒られた覚えがないのも、もしかしたらこういうところから得体が知れない、可愛げがないみたいに思われていたからかもしれない。
 わたしは着替えなどの明日の準備を始める。
 そういえばどんな格好で行けば良いんだろう。もし許されるなら制服が良いけど、ダメだよね。もしかして貰った資料に載ってるかな。
 資料をペラペラと流し読みするとそれらしき記述を見つける。そこには安全面を考慮し、専用装備以外は不可とあり、がっかりする。
 「やっぱりダメか」
 高校生としてのわたしが行くから意味があると思ったけど決まりなら仕方ない。
 『シマ』は危険って別れ際にも上山空将にも散々言われたし、何か武器でも持っていこうかな。
 そんなことを考えているうちに日は落ち、玄関のドアを開ける音とともに由美さん達が帰ってきた。
 昨日までのわたしなら変わらない日として何も思わなかっただろうが、今のわたしには由美さん達と同じ空間にいることが苦痛に感じる。その理由はよくわからなくて曖昧。
 でもこの感情を感じているうちに二人にわたしの今したいことを言うべきだと思い、準備をしていた手を止めて部屋を出て一階のいつも由美さん達のいるリビングへ急ぐ。
 リビングに着き、目を合わせるなり由美さん達にいつものように『変』と言われたが気にせずわたしは伝えようとする。
 「わたし、明日……えっと」
 しかし勢いだけで来てしまっため、なんて伝えるか考えていなく、急いで考える。
 『シマ』に行く。これは『シマ』という言葉自体が口外禁止だからダメ。
 軍のところにお世話になってくる。これはなんか軍に迷惑かけるみたいで好きじゃない。
 今したいことをしてくる。これは何したいかわからないし、うーん。どうしよう。
 わたしが黙り込んでから十数秒だった頃、陽一さんが口を開いた。
 「どこかに行くのか?」
 由美さんもそれに続くように心配そうな顔をして口を開いた。
 「それって、危ないところじゃない? 大丈夫なの?」
 そんな心配の言葉を言われるとは言ってもみなくしばらく思考が停止した。
 「もしかして気分とか悪い?」
 「大丈夫。てっきり一方的にわたしが話して終わりだと思ってたのに、心配されるなんて」
 「心配するに決まってるだろ?」
 「なんで……」
 「そんなん親だからに決まっているだろう。確かに俺らはお前の本当の親じゃない。だけどそれは書類上の問題だ。俺らはサクラのことを本当の娘のように思ってる。これが心配する理由だ。それで何をするんだ? 言ってみなさい」
 あまりにも速く変わっていく二人のイメージにわたしの思考は追いついていなく、思わずたじろぐ。
 「えっと……」
 「言いづらいなら言わなくていい。だがそれを意思を持って最後までやり遂げなさい。俺から言えることはここまでだ」
 由美さんは近づいてきてわたしの手を握ったが、わたしは無意識にその手を振り払ってしまう。
 「あっ。これは」
 「いや良いの。ごめんなさい。でもこれだけは約束して。ちゃんと帰ってきて」
 「あ、えっ。う、うん。わかった」
 出来ない約束をするとわたしは逃げるように自分の部屋に戻った。
 何あれ。
 今まで感じたことのない他人からの感情を感じてわたしは混乱していた。
 数年越しの驚きの新事実。でもわたしは思った。
 由美さん達はわたしの親になろうとしようとして不器用になっていただけだったんじゃないかと。
 由美さん達が本音で言っていたからなんて、あんなことを言われ慣れているわけじゃないわたしにはわからないけど、本音だと良いなとわたしは思った。
 翌朝。わたしは制服を着る。
 準備したいつもは使わないリュックを持って一階へ。
 「もう行くの?」
 「うん」
 待ち構えていた由美さんは心配そうな顔をみせたが、反対にわたしは笑顔だった。
 玄関で靴を履いているとリビングから陽一さんも出てくる。
 「これを持っていきなさい」
 押し付けるように陽一さんが渡してきたのは赤い布の袋に刺繍の入った物だった。
 「何これ」
 「御守りだ。サクラの行く先に幸あらんことを祈る。頑張ってきなさい」
 それだけ言い終わると陽一さんは背を向けてリビングを戻ろうとしたのでわたしは立ち上がって二人に言った。
 「いってきます!」
 陽一さんは一度立ち止まり、振り向かずにうなずくとリビングへ行ってしまった。
 「ほら、陽一さん口数少ないから、こういうこと気恥ずかしいんでしょ。でもわたしはちゃんと言うわ。いってらっしゃい」
 「うん。いってきます」
 ひょっとしたら、最初で最後になるかもしれない見送りの言葉。
 血筋なのかもしれないけど、なんか気恥ずかしい。
 それでもわたしは外に出る。
 どんなに大きく硬く頑丈な殻でも穴が一つでもあれば外に出て自由になれる可能性がある。だから外は危険だなんて思って殻に閉じこもるくらいならわたしはその穴が空いている可能性に賭けて動き出す。
 それにわたしはもう多くのものを背負ってるから後には引かない。
 わたしはわたしを変えることも厭わない。
 基地に着くなりすぐに降下に使うタンデム装備の説明や持ち物検査やらで時間はどんどん経過していき、やっとの思いでわたしは今滑走路にいる。
 「大丈夫なんですか? 滑走路にこんな堂々と立ってて」
 「大丈夫です。元々そんなに使うことがないので。それよりもすみません二時間以上拘束してしまって」
 「いえ。これに乗せてもらえて、さらには『シマ』に行かせてもらえるのですから短いくらいです」
 本当はずっと座っていたからお尻が痛い。
 「それにしても大きいですね」
 わたしはこれから乗り込むグレーの飛行機を見ながら言ってみたが、そもそも飛行機なんて一、二回飛んでいるところを見たくらいなので標準的な大きさなんてわからない。
 「説明しましたが、食料や武器も一応乗せてあるからこれくらいがいいんです」
 「空将!! いつでも出れます!」
 「了解。では乗り込みましようか」
 「はい」
 無人操縦のできる飛行機はわたしと上山空将を乗せて離陸。『シマ』に向けてどんどん高度を上昇させ、あっという間に雲の上まで上昇した。
 初の飛行機に興奮も恐怖も不安もなく、わたしはただ乗せられているだけだった。
 「初の飛行機だというのに妙に落ち着いていますね」
 「そうですね。多分実感がないだけだと思います。そんなことより置いてきちゃって良かったのですか?」
 「ん? 何の話ですか?」
 「一緒に行きたいって人。たくさんいたじゃないですか」
 「ああ。彼らは部下です。昨日も言いましたが『シマ』はもはや死地。そんなところに部下たちを行かせるわけにはいかない。本当は君にも行っては欲しくはないのですが、高校生の女の子が軽い気持ちで軍の基地に一人で来るわけもないから許可しました」
 「ではなんで上山空将はこれに乗っているのですか?」
 「それは君を一人で行かせるには行かないと思って……」
 「他にもありますよね」
 上山空将は驚いた後、笑った。
 「気付いていたのですか。なら言わないわけにはいかないですね。ただ私は行って実際この目で見たかった。昔『ユメシマ』とまで言われた場所に。何度も行きたいと思ったが私は空将、行けるはずがない。この行けないもどかしさを持って何年もいたら君が現れたというわけです。すみません、大人は理由と言い訳がないと動けないものなんです」
 上山空将も殻の中にいたということだろう。でも今はその殻から出ようともがいている。わたしと同じだ。
 〈上山空将。まもなくポイントに到着します〉
 「了解」
 通信が入り、上山空将は立ち上がった。
 「話はここまで。降下準備を始めます」
 「分かりました」
 わたしたちがタンデム装備の準備を終えるころには降下ポイント直前だった。
 飛行機の後部が大きく開き始め、風が凄い勢いで機内に入る。
 〈予定通り物資を先に落とします〉
 開き終わると大きな物資がレールを滑って後部から流れるように落ちていった。
ということは次はわたしたちの番だ。
 後部の端っこに立ち、下を覗くと白い雲の厚い絨毯があり、物資はもうその中に消えている。
 「時間だ。大丈夫? 怖くはないかい?」
 「少し怖いです」
 「そっか。流石にこれは怖いよね。でもこういう時こそ笑いなさい。変えられるところから変えればどんなこともできるようになりますよ」
 そうだ。わたしはもう変わるんだ。前の自分と決別してでもやらないといけないことが目の前にあるから。
 わたしは引きつりながらも、思いっきりニカッと笑った。
 「時間もないからもういくよ。三、二、一、ゴーッ!」
 飛び降りると機内に入ってきた風とは比べ物にならないほどの風圧が全身に当たる。降下してすぐに上山空将が通信で何か言っていたがわたしはそれどころじゃなかった。
 しかしわたしの気持ちを待たずに高度は落ち、雲に入った。雲は入ると黒に変わり、さらに先程の風圧と一緒に雫が肌に突き刺さって痛い。とても痛い。でも笑っているからなのか耐えられなくない。
 その痛みを超えるとそれはあった。
 これが『シマ』……。
 上山空将は昨日遺跡があると予想されていたと言っていたけれど、こんなものは遺跡とは言わない。
 〈加賀見さん。パラシュートを開きます〉
 上山空将の声と共にパラシュートが開き一瞬ズンと重みがくる。
 そのままゆっくり降下し、無事着地した。
 上山空将は疲れた姿を見せずにすぐにわたしとの装備を外し、腰に入れていた拳銃を取り出して構えた。
 「物資の降下ポイントへ行きます。ついてきてください」
 さっきの雨で内出血しているのか、体中が痛い。
 それでもわたしはくいしばり、無理やり体を動かした。
 物資までたどり着くとやっと休憩出来た。息切れをするわたしの隣で物資の荷解きをしながら上山空将は独り言のように呟く。
 「くそっ。ここは遺跡というよりまだ生きた文明そのものじゃないですか」
 そう。ここは遺跡ではなく生きた文明。しかもわたしたちよりもさらに技術の進んだ文明に感じた。上からは光るビルのようなものが何棟も見えた。
 「急がないと奴らがくる」
 「や、奴らって?」
 「わかりません。わかりませんが前の調査の時に現れたものでしょうね。食料は最低限だけ持ってここに置いていきましょう」
 上山空将は拳銃をしまい、アサルトライフルを持つと物資の陰に隠れながらビルの方へ銃を構えてスコープを覗きだした。
 「何かがいる気配はないですね。近づいてみるか。どうしますかここに残りますか? 一緒に行きますか?」
 振り向いて上山空将はこちらに選択を委ねる。
 「一緒に行きます。だってきた意味が…ないじゃない……ですか」
 わたしは上山空将の後ろに突然現れたものに驚いてそれ以上言葉が出てこなく、尻餅をついた。
 「どうしたんですか?」
 上山空将がそう言った瞬間バンッと大きな音がして上山空将が脇腹をおさえて苦しみだす。
 「あれ心臓を狙ったつもりなんだけど。腰撃ち性能低過ぎ。こんなのまるでゲームじゃん」
 それはそう喋った。
 「くっ! 何者だ!」
 声の方へ上山空将が振り向いた瞬間また大きな音がして上山空将は倒れた。
 「やった。今度は脳天一撃。やっぱりよく狙わないと当たらないな」
 それはどう見たって白髪の青年だったが、言動等は人ではなかった。なぜなら人を殺して笑っていたから。
 「上からはなんか落っこちてくるから見てこいって言われてきてみればこれだよ。別に殺す気はなかったのにさ~」
 すると白髪の青年はわたしに近づいてきた。
 「あれ? 君どっかで見たような……。うーん。なんだっけ思い出せない。下っ端の僕でも記憶にあるくらいだから結構みんな知ってる人だと思ったんだけどなんだっけ」
 白髪の青年が考え始めたためわたしは上山空将の落とした拳銃を静かに持って構え、そして叫びながら引き金を引いた。
 拳銃は勢いよく手から離れ、遠いところまでいってしまった。だがこの近さだ。銃弾は確実に当たっている。はずだった。
 銃弾は白髪の青年に当たる前に見えない壁に向かって今も回転して飛んでいる。
 「危ないじゃん」
 「えっ、なんで……」
 白髪の青年が銃弾に指をさして何もない方向に素早く向けると、銃弾は指のさした方向へ飛んでいった。
 「僕らにそんなの効かないよ? ところでさ僕、君のこと思い出したからちょっとついてきてよ」
 白髪の青年は無理やり体を起こされ、わたしの手を掴み、連れて行く。
 これ以上下手に抵抗すれば何をされるかわからない。だからわたしは黙ってついて行くしかなかった。
 一番大きなビルに着くと白髪の青年は「門番の僕はここまで。君は最上階に向かうんだ」とわたしに伝えるとビルに入る扉を空中にウィンドウを出して操作し、開いた。
 「いい? 途中の階で降りたら絶対ダメだ。必ず最上階に行くんだ。そうしないとあいつら実験材料だからって言って君に何するかわからないからね。それで重要実験体の君に何かあったら僕はここを辞めないといけなくなるかもしれない。だから頼むから無事に最上階に行ってくれ。わかった?」
 唐突に人間味を帯びる白髪の青年に頷くとわたしはビルの中に入った。
 どちらにせよわたしに拒否権も、下手な行動も出来ない。それにもうわたしは現状維持なんてしないと決めたのだから前に進むのみだ。
 ビルの一階は大きなエントランスになっていて、白一色に統一されている。受付カウンターとかもなく、ただ真ん中にエレベーターがあるだけで階段もない。
 真っ直ぐエレベーターに近づきボタンを押す。するとボタンの上にある表示板の電気がついて十三と表示が出る。段々とその数字はすぐに減っていき、一になると扉は開き、乗り込む。
 扉のすぐ横にある行き先階ボタンの一番大きな数字を探す。
 「四十五、四十六、四十七、四十八、四十九……五十!?」
 まさかこれほど大きいとは。
 ここが一番大きいとはいえこれに似たビルを他にも何棟も建てるほどの力がここの最上階の人にはあるということだろうか。
 わたしは唾をのみ、五十と書かれたボタンを押した。すると扉は閉じて動き出し、表示板の数字はどんどん増えていく。
 一度落ち着いて整理しよう。
 上山空将が殺され、わたしがこうして生きているのはなんでだろう。
 白髪の青年はわたしのことを見知っているようだったし、わたしのことを重要実験体と言っていた。そういえば伯祖父も私に似たようなことを言っていたような気がする。確か、研究成果だっけ? 実験と研究。それら二つが意味するのは……。
 「全然わからない……」
 でも白髪の青年が別れ際言っていたことからここのビルは研究所の可能性が高い。
 そして伯祖父の言うことが正しければ私は研究成果。でも何を研究していたのかがわからない。
 考えているうちに表示板の数字は四十を超え、間もなくして最上階の五十階に到着した。
 扉が開くとエントランスのような白い道が奥まで続いている。その奥にその部屋はあった。
 「研究所長室……」
 扉は両開きになっていていかにもな雰囲気があった。
 わたしは深呼吸してポケットに入れていた御守りを強く握り、覚悟を決めて扉を開く。
 すると見覚えのある家具や配置のしてある部屋。まるで空将の部屋だった。
 「やっぱり侵入者というのはお前か。サクラ」
 ソファーで白衣を着偉そうにて座る男性をわたしは知らないが知っている。詳しくはそんな感じがしただけだけどその予想は的中した。
 「おじい?」
 「はは。お前に改めてそう言われるとなんか新鮮だなぁ。おい。そうだ一度死んだ伯祖父さんだ。まぁとりあえず座ったらどうだ? お前の知りたいこと全て話してやるからよ」
男性はそう言って薄ら笑いをした。
 わたしは対面する様に座るなり、すぐに質問をなげかける。
 「本当におじいなの?」
 「おいおい。二度も言わせるなよ。俺はお前のおじいさんだ。まぁ見た目は変わってるから疑いたくなる気持ちもわからなくないがな」
 見た目の年齢は二十代半ばくらい。髪も肌も白く綺麗で元の伯祖父の影も無い。
 「よくきたな。上から何か来るって警報が鳴ったから一瞬焦ったけど、まさか前に来た侵入者と同じ方法で来るとは思ってなかった」
 「前っておじいと同じってこと?」
 「あー。そこから説明しないといけないのか」
 面倒くさそうに伯祖父は頭をかく。
 「まずは名乗るとするか。加賀見 透あらため、本名を坂井 邦彦。この研究所長兼、この世界を運営している」
 「坂井? 運営?」
 「いきなり呼び捨てかよ。まぁいいや。そうだ。前の時も俺はここで働いていた時に、上から人が降ってくるところが見えたんだよ。まだ警備員も警報もなかったから研究員が直接行くことになり、十数人で着地したと思われる場所に行ったらなんとプレイヤーがいるじゃないですか。決まりでは基本この世界の核心を知った者は記憶を消すか消滅することになってる。だから全員殺したんだが、俺はいい機会だったから下を直接観察する者も必要だと考え、その後俺は一時的にアバターを変えて下に降りて加賀見 透として生きてきたということだ。一気に情報を話したから混乱するだろうがこれは事実だ」
 話が本当ならわたしの本当の伯祖父はとっくのとうにこの人達に殺されているということになる。衝撃ではあったけど、嬉しさの方が勝ってしまう。
 何故ならナリはここによって記憶を消されたと今確定したということで、わたしのここまで来た道は間違っていなかったということになるからだ。
 「下に降りてから何年も後、なんとも面白い実験体がいるじゃないか。とまぁ興奮していた時もあったねぇ。その者はほとんどの行動を自明的に動く他とは違い、非自明的に動き、エラーを連発するではないか。ちゃんとその時はここに報告したよ。まさに研究成果。やっと結果が出たとみんな喜んでいたよ。それが君だよ加賀見 サクラ」
 「それがわたしを研究成果と言っていた理由ってことね」
 「その通り」
 坂井は空中でウィンドウを表示するとコップに入った透明な液体を何もないところから出現させ、飲んだ。
 「それとついでに説明しておく。この液体は酒だが酒じゃない。この液体を飲むことでゲームで言う状態異常のような効果のシステムがスタートし、まるで酒を飲んだように錯覚させることができる。ここまで言えばお前ならわかるだろ?」
 「この世界は神ではなく、人によって作られた世界ということ?」
 「正解。理解が早くて助かるよ」
 ここまで話を聞いてわからないわたしではない。わたしはさっきの酒と同じでデータであり、彼にとっては人じゃない。それに目の前のこの人が一言言うだけで記憶どころか、わたしという存在は消えるということ。
 でもわたしのことを研究成果と言うくらいだからわたしを簡単に消すことはないだろう。
 死を自覚した瞬間、冷や汗が止まらなくなった。
 「この世界は元々、金持ちだけが入ることを許されるバーチャル世界の人口ユートピアとして作られたが、後に他のプロジェクトも同時並行で進められた。それが金持ち達とここのあらかじめ準備されていたAIとのあいだに出来た新たなAIの製造方法の確立」
 「そっちの人とわたしたちでその……。こ、子供が出来るの?」
 「お前って意外とウブなんだな」
 「う、うるさい」
 そう言って坂井に笑われた。
 「新たなAIを作るというよりはクローンに近いな。子の情報は七割が人の情報で残りの三割をAIからだ。ちなみにAIとAI、人と人との場合は五割ずつになる。本来のランダムなDNAの遺伝とは違うが妥当なものだろう? でもこれでも中々目的は達成出来ていない。それどころか新型自体、君以外見つかっていない」
 ここでわたしは一つ疑問に思う事があった。
 「他とわたしの違いって何? もしかしてそこにわたしが『変』って言われ続けた理由があるの?」
 「良いねぇ。意欲がある奴は好きだぜ、俺は」
 機嫌が良いのか坂井は前傾姿勢になる。
 「まず最初に必要な要素はこの世界に対する疑問と、否定だ。これがあるだけでそいつは非自明的に行動することが出来るということであり、しっかりとした人格や自己認識が備わっているという証拠だ」
 確かにわたしは『EDEN』について疑問に思ってから『変』と言われるようになった。ならそうなのかな。
 「そして二つ目は単なる壁を越えるきっかけそれだけだ。お前の場合友達をきっかけにここに来ることでそれは達成されたということになるな」
 「まさかこの機をうかがっていたの? ナリの記憶を消して私がここに来るようにきっかけを作って」
 「お友達の話か? もちろんそれもあるが、やはり彼女は自己認識はあっても人格のない中途半端に進化したAIだったから他と同様消すことになった。それだけだ。それより、良かったな。感動的な別れみたいになって」
 「いきなり何の話?」
 「何って、お前と一緒に暮らしてきた二人の話だよ。急にお前に対する態度変わっただろう?」
 それが何だというのか。あれはお互い不器用で、すれ違っていいただけであの人たちは元々ああいう人たちだった。そして昨日やっと理解しあえたんだ。
 「あー。もしかして勘違いしてないか?」
 「えっ」
 「人も経験し、学習するが、大人になった後に学習などほとんどの者がしない。だがお前たちAIは大人だろうが毎日何かを学習し、吸収している。子供はもちろん学校で。大人はどこだと思う? ヒントはお前らみたいな未成年は行けない場所だ」
 「まさか! それが『EDEN』なの? だってあそこは――」
 「おおかた、娯楽施設とでも思っていたんだろうが、それもあながち間違いじゃない。新たな知識を得ることでドーパミンが分泌され、快感を感じることもあるからな。そしてあの夫妻は昨日、親という存在を学び、お前に対する態度が一変した。つまりあれは俺らが変更させたものでもあるってことだな」
 「うそ……」
 坂井はへらへらと笑いながら「噓じゃないって」と言った。
 「しっかし『EDEN』とはよく言ったものだな。旧約聖書が元なんだろうから、AIの大人たちは知恵の実を食べて快楽を得ているという解釈もできるわけだ」
 実際にわたしが見たわけではないから絶対ではないが、所長であるこの人が言っているのだ。そう……なのだろう。だったら今朝のあれもこの御守りもすべて誰かがやっているのを知ったからやってみただけということなのだろうか。それがもし本当だとしたらわたしに向けられたあの言葉や態度は偽りだったのだろうか。
 またわたしは裏切られたのだろうか……。
 落ち込むわたしを気にしてのことかはわからないが、坂井はおもむろに立ち上がり、ポケットに手を入れて「ついて来い」と部屋を出たので、消化出来ずにいる様々な感情を整理する間もなく部屋を出た。
 部屋を出るとこの部屋よりもさらに奥にある白い螺旋階段を坂井は登り始め、それにわたしはついていく。
 登り切るとビルの屋上に着いた。
 雲に手が届きそうなほど高い。
 「少し待ってろ」
 また坂井は何もない空中からウィンドウを出して操作するとみるみるうちに『シマ』を囲んでいた雲が消え、晴天晴れの天気とわたしのいた国が見えてくる。
 「これからお前にはこっちの世界に来てもらう。拒否権はない。だが機械ではあるが今のお前の身体に似せた身体を渡すからそこは安心しろ」
 「別にそんなことは心配してないよ」
 なんとなくそんな気はしていたから驚きはしないが、心残りはある。
 「わたしがここを去った後、わたしに関わった人達はどうなるの?」
 「ああ。一度ここを出るお前は二度とここに戻ってくることはないから記憶を操縦して矛盾をなくすことになるだろうな。もしかして何かやり残したことでもあるのか?」
 「いや。それを聞いて安心した。ずっと行方不明のわたしを探されても困るしね。死んだことにしても悲しませるかもしれないし」
 「そうか……」
 そうだ。これでいいんだ。わたしは殺されないし由美さんも陽一さんも悲しまずにすむ。これが最善。何も間違ってない。
 それでもわたしの中にはまだ怒りがいつ爆発するか様子を伺っている。
 すると坂井はため息を吐いた。
 「お前がこっちの世界に来たら俺はこのバーチャル世界の所長を辞めてリアルの方で仕事するわ。お前も見知らぬ世界、見知らない人しかいないところだと不安だろ?」
 「別に大丈夫だし」
 少し恥ずかしくなってわたしはそっぽを向く。
 「可愛げがねぇな。正直になればいいのによぉ。まぁ俺もこんなさっぱりとしている様に見えるかもしれないけど、俺は君が来てくれると思うと内心ほっとしてるし嬉しいんだ。このプロジェクトは無駄ではなかったと、やっとスポンサーに良い報告が出来るからな。これでこの世界は見納めかもなぁ」
 ほっとした表情で景色を見ている坂井の横顔を見てわたしは気づいた。
 彼も生きるために必死なただの一般人なのだと。そうしなければならなかったのだと。
 ナリの記憶消去も、上山空将を射殺したのも、わたしの本当の伯祖父を殺したのも全て彼がこの仕事に就いていく上で必要なことだった。
 なら怒りの矛先はどこに向けるものでもないのかもしれない。
 わたしはこの世界の最後の景色を見ながら静かに矛を納めた。
 「――説明はここまでです。これ以上は機密事項ですので話すことができません。その上で質疑応答を受け付けたいと思います」
 説明をしていた男が座ると多くのフラッシュが横並びに座る男女数人のうち、明らかに一人異様に痩せ細り、車椅子に座っている男だけに向けられる。
 「新たなる人工知能の誕生と今後の民間への影響はどのようになると思われますか?」
 若い記者は立ち上がり、マイクを握って痩せ細った男に質問したつもりだったがその質問に答えたのは痩せ細った男ではなくその横に座っていた女性だった。
 「試作でアンドロイドを一体分作っただけで、まだわたしたちはそのボディの量産も人工知能の生産も目処が立ったわけではありません。なので民間でのアンドロイドの運用は未だ先になると考えています」
 若い記者が不満そうに座ると、次はしわの深い記者が立ち上がった。
 「ではせめてその最新アンドロイドをここで見せてはいただけませんか? このままいくと理論を聞きに来ただけになってしまいます。私はそのアンドロイドをカメラで撮るためにここに来たと言っても過言ではないんですよ。なのでボデイは試作段階と説明されてましたがそれでも良いので見せていただけませんかね」
 この質問にもまた同じ女性が答える。
 「すみません。それは出来かねます。わたしたちは――」
 「違います違います。私はそこにいる今回のプロジェクトの責任者の貴方に訊いてるんですよ。坂井さん。どうなんですか?」
 女性はしわの深い記者に負けじとそのまま喋ろうとしたが痩せ細った男がそれを止め弱々しい声で「俺が話します」と言って咳払いをした。
 「説明でも言った通り人工知能を完成させただけでボディは試作段階にあります。そんな不格好で不完全なものをこんなカメラの前に出して私達に辱めを受けろとでも貴方は言うおつもりですか? それに彼女には今までの量産され、戦争に使われて来た軽微な知能しか持っていない人工知能とは違い、人格も固有名を持っています。もはや彼女は人間とも言える存在なのです。それに彼女の精神年齢はまだ子供なのです。子供をこんな大人しかいなく、なおかつカメラやフラッシュの多いこの場に連れて行くほど私は不人情ではないので。もちろん理解しづらいことは承知していますが、理解する努力はお願いします」
 そう言ってマイクを置くと、それ以上彼に質問が飛ぶことはなかった。