高校一年生の冬の朝。俺はあの人に出会った。
 いや、出会ったというより『聴いた』。
 スマホで音楽を聞き流していた時、不意に知らない曲が流れた。思わず読んでいた小説を閉じてスマホ画面を開いて、そして驚いた。
曲名が無かった。そう、歌や音楽には必ずしもある曲名の部分が空白になっていた。

「なんだこれ……⁉」

 地下鉄が空いてる時間でほんとによかったと思う。俺が乗っていたい車両は人がいなかったから、独り言を聞かれずに済んだ。
 その名前の無い曲は同じく無名の人によって作られていた。文字通り、チャンネル名の所にも名前がなかった。再生回数は一回。チャンネル自体を確認したけど、この曲が初投稿らしい。
 つまり——俺が最初の視聴者だった。
 投稿日時はついさっき。朝の五時あたりに投稿されている。なんでこんな視聴されるのが少なそうな時間に……いや、朝だから意味のある曲なんだ。
 その曲は冬の朝。それも快晴で澄んだ空をイメージさせるような、とても爽やかで明るい、だけどちょっぴり儚さがある曲だった。歌詞は青春っぽい単語が多いが、その中でも感情や表情などを綺麗に繊細に表していて、流行りの曲調とはまた違ったテンポのよい曲だ。ボーカルの男性の歌声もこの曲のためにあるようなとても澄んだ声をしていた。まさに今日のような日にピッタリな曲。
 そして、概要欄を見てさらに驚いた。
 作詞作曲もアレンジも、動画のイラストも動画を作ったのも、全部ボーカルの男性ひとりだ。一人でこのとんでもなく綺麗な曲を作り上げたのだ。
 そして俺は同時にこう思ってしまった——この人みたいになりたいと。

『初めまして、高校一年生の者です。この曲を聴いてすごく感動して、俺も音楽を作りたいと思いました。自分の人生を賭けて、チャレンジしてみるつもりです。俺にできるでしょうか? もしよろしければ考えを聴かせて頂けると嬉しいです』

 動画のコメント欄に俺はそう書き込んだ。
 本当は国公立の大学に進んで、編集者になるための道を選ぶつもりだった。本は昔から大好きだし、小学生の頃からずっとそう思っていた。でも、心のどこかでこの夢は一番に叶えたい夢じゃないとも思っていた。そんな思いをかき消すために、毎朝一冊の小説を片手に地下鉄で読んでいた。好きで読んでる気持ちが半分、自分の本当の気持ちに蓋をするために読んでたっていう気持ちが半分。
 そして、この名前の無い曲に出会って俺の本当の気持ちがわかってしまった。
 俺は音楽を作りたい。ゼロから全て自分で作ってみたい。今自分が感動したように誰かに感動してほしい。たとえ棘の道でも俺は絶対に作り続けて、この夢で生きて行けるようにまでなると。
 他の人がこの夢を聴いたら、早計だとあきれるだろうか。でも、俺は一度決めたことはとことん突き詰めないと落ち着かない。
決めてすぐにコメントに書き込むとか、俺って結構単純だよな……。

「あ、やべっ……!」

 覚悟を決めて顔を上げると、いつの間にか地下鉄は終点まで来ていた。高校の最寄り駅からは五つほど進んでしまっている。慌てて時間を確認する。七時近く。次の地下鉄に乗って最寄り駅に着いても、乗り換えのバスがないから遅刻は免れない。
遅刻したとして、遅刻の言い訳が思いつかないし、正直に言ったら確実に怒られるよな……。俺の通ってる高校は進学校を謳うほどの難関校で、音楽に聴き入って遅刻しましたなんて言ったら何と思われてしまうか。
 スマホで母さんに電話を掛ける。

「あ、もしもし母さん? あの、ちょっと事情があって地下鉄乗り過ごしちゃって。うん、今日は学校を休む。帰ったらちゃんと話すから。ごめんって。これからは気を付けるよ。うん、うん、ありがとう」

 俺の家は母子家庭だ。俺が物心つく前に父さんは病気で亡くなった。しばらくはふさぎ込んでいた母さんも心を頑張って立て直して、俺を十年以上も女手一つで育ててくれた。数年前からはハンドメイドにはまって、今や人気作家になるほどの腕前だ。それもあってか、母さんは俺のやりたいことに反対したことがなかった。その分俺はすごく恵まれてる。「晴翔のやりたいようにやりなさい。母さんはあんたを信じてるから」とずっと言ってくれる。そして「あんたってクールな性格と顔なのに、意外と熱い心持ってるわよね~」とも。これに関しては生まれつきなので余計なお世話だが。
 そんな優しい母さんでもさすがに万年健康・小中皆勤賞の俺が、遅刻してさらにサボると聞いたら少しびっくりしてた。でもすぐ後に「気を付けて帰ってきなさいよ~」って苦笑しながら言ってくれた。

「ほんとに恵まれてるな……」

 あぁ、でも。母さんに苦労をかけないためにも国公立の大学に進む予定だったけど、いきなり音楽作りたいって言ったら、さすがに怒るかな……。
 誰もいないホームでベンチに座って、ふとそう思った。それと同時にスマホが震えた。俺のコメントに、本人から返信が来ていた。
 すこし期待があった。俺の言葉を受け止めて、応援してくれるのではないかという淡い期待が。
 そこにはたった一言、こう書いてあった。

『やめておいた方がいいと思います』

 スマホが手からすり抜けて床に落ちる音が、むなしくホーム中に響き渡った。


 人生で初めてサボったあの日。あの日同時に味わったのは絶望に近い、だけど悔しいという感情にも似た、少なくともあの曲とは真逆の感情だった。