二周目は他人で行く

 昨日の話をなんの気なしに、昼休みにしてみたら、情報通の奈都子(なつこ)ちゃんが教えてくれた。学級委員とは名ばかりの教師のパシリをやっているせいか、奈都子ちゃんのところには縦の情報も横の情報もすぐに入る。

「なんでもねえ、鬼瓦先生のせいで、園芸部と剣道部の仲は代々微妙らしいのよね」
「なんで? そもそも剣道部の顧問でしょ。あの人。なんで学校の敷地内で自家菜園つくってんの」

 奈都子ちゃんの言葉に、当然ながら恵美ちゃんが声を上げる。
 私もうんうんと頷きながらペットボトルを傾けると、奈都子ちゃんは「これはうちの先輩から聞いた話だけど」と前置きしてから語ってくれた。

「うちの学校で剣道の段持ちの人って鬼瓦先生以外いないんだって。うちの学校の剣道部そこそこ強いでしょう? だから顧問なしっていうのは大会規定とかに引っかかるから困るんだって。だから剣道部の顧問引き受ける代わりに、裏庭を園芸に使わせててって、園芸部と話を合わせたみたい。鬼瓦先生、園芸が趣味だからさ。園芸部からしてみたら、誰も来なくっても菜園が綺麗なまんまだから願ったり叶ったりで、そのまんま。ついでに剣道部の一年生も土いじりに連れてくるようになったから、園芸部からしてみれば活動してもしなくっても園芸場が管理されているから、それで園芸部員の幽霊部員化が進んだんだってさ。そりゃ剣道部が園芸部を恨む訳よ。なんでよその部の仕事を自分がしなきゃいけないんだって。そう言われても、顧問が勝手に決めた話なんて部員も知る訳ないじゃない。それのせいで、代々恨み恨まれる関係なんだってさ」
「なんじゃそりゃ……そんなの初めて聞いた」
「まあ、剣道部はともかく、園芸部ってほとんど幽霊部員しかいないしねえ。だからこの話も今は飛び飛びにしか伝わってないと思うよ?」

 奈都子ちゃんの説明で、あのぶすくれた男子が怒り出した理由に納得がいった。
 練習時間を奪って、うちの部の手伝いさせちゃったんだから、そりゃ怒るよなあ……でも、どうしよう。私はあの肉食獣みたいな男子のことを思い浮かべて、少しだけ身を震わせる。

「なに? キレてきた剣道部員、そんなに怖いの?」
「……うん、ものすっごく怒ってた。昨日は買い物があったから、先生に今日は部活出ないって言ったら帰るつもりだったのに」
「別にそこは由良が怖がる必要なくない? だって、用事があったんだからしょうがないでしょうが」
「そうなんだけど……」

 あの男子と今後、一対一で部活しないといけないとなったら、あまりにも気が重い。私がガタガタ震えている中、奈都子ちゃんが言う。

「でも、まあ。普通に人に八つ当たりさせて泣かせるような奴、肝がちっちゃいんだからそこまで気にする必要ないでしょ。それでも怖いって言うんだったら、今度の部活のとき、私らも付き合おうか?」

 奈都子ちゃんは美術部だから、絵を描くと言って絵画セット一式持ってしまえばどこでだって部活ができる。そう言ってはくれるものの。私は空になったペットボトルをひとまず鞄に突っ込むと、机に顔を突っ伏した。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど……でもあの男子のことも可哀想だし」
「本当、危ないって思ったらちゃんと連絡するんだよ? それが一番大事だからね」

 ふたりはまるでお母さんかと言わんばかりに心配してくるのに、私は思わず半笑いになってしまった。
 男女ふたりでただ土いじりをしているだけで心配されるっていうのはちょっとなあ……。そう思いながら、ふと次の準備をしていてシャーペンの芯がないことに気付いた。

「あ、シャーペンの芯がない。持ってる?」

 ふたりに聞いてみると、ふたりとも確認したけど、予備のシャーペンの芯は持っていなかった。時計をちらっと見る。これくらいだったら裏のコンビニまで走れば間に合うかな。私は「ちょっとコンビニ行ってくる!」とふたりに言い残してから、そのままコンビニまで走り出した。
 私がコンビニでシャーペンの芯を見つけると、そのままレジに並ぼうとしたとき。

「あ」
「はい?」

 大きな身長の男子が、ちょうど私の後ろに並んだのだ。持っているのは焼きそばパンにあんパン。……昼ご飯足りなかったのかなくらいに思って見上げてみる。どこかで見たことあったっけと思いながらレジをしていて、気付いた。
 今日は制服着ているからすぐに思い出せなかったけれど、昨日の肉食獣みたいな男子だ。私は早くレジよ終われと思ったら、タイミング悪くレジが変な音を立てる。

「ああ、すみません。レシートが切れたのでちょっと入れ直しますね!」

 目の前で店員さんがレジと格闘しはじめ、「次お待ちのお客様はこちらにどうぞー」と隣のレジに呼ばれた男子は、そちらで会計をはじめる。
 そのまま私と男子のレジが同時に終わってしまったのに、私は沈痛な面持ちで男子と一緒に学校に帰ることになってしまった。
 同じ道を帰らないと学校に着かない。そのままわざと足を緩めてもいいけど、もうそろそろ予鈴が鳴りそうだから歩幅をわざと小さくすることはできないし、だからと言って男子を抜かせるほど私は歩幅を出せない。男子のほうが私よりも明らかにコンパスがあるんだから、どうしても私は男子の斜め後ろを歩く体になってしまっていた。

「おい」

 不意に男子が声を上げるのに、私はビクリと肩を跳ねさせる。男子はぶっきらぼうに声を上げて、こちらを振り返った。釣り上がった目に、昨日の怒声を思い出し、怖くなって小刻みに震えていると、男子はこちらをじっと見てきた。

「……ああー、昨日は、悪かった」
「……はい?」
「泣かせるつもりはなかった。ただいきなり知らない部の手伝いさせられて、イライラして当たった。自分でもみみっちいと思ってる。すまん」
「えっと……」

 私は殊勝に謝ってくれると思っていなかったし、それどころか男子が私の顔をちゃんと覚えていたことに驚いていた。だからと言って謝ってくれたから、はい許しますと思えるほど、私はお人好しにもなれなかった。
 でも。この人もしばらくは私と部活を一緒にするんだ。私は幽霊部員じゃないと困るし、あんまりガツガツ予定を詰め込まれる部には入れないから、園芸部くらいの活動内容がちょうどいい。
 許すことはできなくっても。

「……どこのクラスの人? 名前は?」
「え、言ってなかった? Eクラスの近藤(こんどう)。お前は?」
「わ、たしは……Dクラスの佐久馬」
「そっか」

 ……知り合いになることは、できるんだ。
 それから、私は近藤くんと放課後の話をしてから、教室の前で別れた。
 変な知り合いができちゃったなあ。そう思うけれど、まあいっか。

****

 週に二回の園芸部の活動。今日も私以外部員が来ない中、近藤くんも顔を出していた。
 今日は収穫日で、桑の実を一緒に摘む。桑の実は別名マルベリーとも呼ばれていて、ラズベリーより甘いけどいちごより酸っぱいそれはあんまり店には出回ってないから、本当に園芸してないと食べられない木の実だ。私もおばあちゃんが桑の実を育ててなかったら知らなかった実だ。
 鬼瓦先生があれこれ説明するのを聞いてから、ふたりで実を摘む。高いところのは近藤くんが登って摘んで、低いところのは私が背伸びをして摘んでいた。
 鬼瓦先生が「ひとつくらいなら食べてもいいよ」と言うので、私たちは収穫した身を食べる。口の中でプチリと弾けて、独特の甘酸っぱさが口に広がる。
 私にとっては食べ慣れた味だったけれど、近藤くんは食べながら顔をしかめていた。

「なんかうすらぼんやりした味だなあ」
「そう? これってジャムにしたら結構おいしいよ?」
「ふーん。お前ジャムとかつくるの?」
「うーんと、スーパーの前にときどき農家の人が野菜の直売してるから、そこで傷む寸前のいちごを安く売ってもらえるんだ。それでつくるよ」
「なんか主婦みたいだなあ……」
「いちごって高いんだよ、本当に。だから傷む寸前でも安く買えるんだったらいいんだよ」

 私のしょうもない力説を、近藤くんは「ふーん」と聞いているのかいないのかわからない返事をしてくるのにむっとしながらも、どうにか桑の実を摘み終えた。

「先生、これってなにかつくってもいいですか?」
「いいよ。これ園芸部の秋の展示品だから、なにか展示できるような奴つくって」

 そう鬼瓦先生が言うので、私は拍子抜けした。

「あの……今まで園芸部の展示って、なにをしてたんですか?」
「ここの畑で採れた野菜を見せたり、うちの学校の壁側で育ってるつたを獲ってきて、それの苗をつくって配ったり」

 ほとんど鬼瓦先生の趣味の祭典じゃないか、園芸部の展示って。
 私は呆気に取られた顔で近藤くんを見たら、近藤くんもまた憮然とした顔をしていた。
 とりあえずたくさん獲った桑の実は私に全部任せられてしまったけれど、これで下手なものをつくれないし、展示品にする以上は見せたり食べたりできるものをつくらないといけないんだから、責任は重い。
 私が溜息をついていたら、近藤くんは帰りしなにボソリと言う。

「佐久馬さ、文句あるんだったら言えばいいのに」
「え? 桑の実のこと? 私しかまともに部活来てないのに、私がやるしかないんじゃないの?」
「……お前さあ」

 近藤くんは目を細める。それに最初に出会ったときに怒鳴られたことを思い出してたじろぎそうになるけれど、近藤くんが吐き出した言葉はあくまで落ち着いていた。

「なんでもかんでも『はい』『仕方ない』で済ませられるもんでもないだろ。嫌なものは嫌って言わないとつけあがる奴だっているって……俺だって、園芸部の手伝いを嫌だって言ってもやらされてるから、人のこと言えねえけど」
「そう? 私は幽霊部員じゃないと困るから、これくらいゆるゆるの部活で、ほんの少し責任持つんだったらまあ仕方ないなあと思うんだけど」

 もし部活に入らなくってもいいんだったら、最初から入らないもの。でも入った以上はやれるだけのことはやるし、やらないといけないこともやるんだけどな。
 私がそう言うと、近藤くんは意外そうに目を瞬かせてくる。

「……お前、結構流されてるのかと思ったけど、そうでもなかったんだな」
「……近藤くんは、さすがにそれは、デリカシー足りないんじゃないかな」

 それとも男子って、デリカシー欠ける態度がデフォルトなのかな。一周目も二周目も、ほとんど男子と向き合ったことのない私は、どうにも男子のことがよくわからないままだった。
 結局持って帰って、スマホで検索をかけながら桑の実でジャムをつくることにした。先生に聞いたら、別に展示品として見せるものだから試食のことは考えなくていいよということなので、味は度外視で日持ち優先と、砂糖をドバドバと入れながらアクをすくいつつ桑の実を煮る。
 隣の鍋で空き瓶を熱湯で殺菌しながら、ジャムの味見をした。

「あっま」

 手伝ってくれたんだから、近藤くんにも味見して欲しいけど、これはさすがに甘過ぎないかな。これだけで試食させるのは申し訳なくって、ホットケーキミックスの元をバターと混ぜて焼いただけのスコーンも添えておくことにした。
 そういえば。
 女子同士で友チョコを送り合ったり、お菓子をつくって差し入れし合ったりしたことはあっても、男子に試食という名目で手作り菓子を持っていくのは初めてだ。
 ……近藤くんは悪い人ではないのかもしれないけど、やっぱり体育会系の特有の空気が付きまとっているから苦手だ。そもそも園芸部の活動日じゃない限りは会わないんだもの。明日は剣道部の練習はあっても、園芸部の活動日じゃないのに、なに張り切ってるんだろう私は。
 そうは思ったものの、いつも手伝ってくれているお礼だ。
 私はそう言い訳して、タッパにスコーンを、煮沸の終わった空き瓶にジャムを入れて、明日持っていく準備をすることにした。
 ……思えば私、他のクラスに行ったこともないから、どんな顔で差し入れすればいいのかも、全然わからないや。
 今更になって気恥ずかしくなったけれど、日頃の感謝と自分に言い訳して、タッパを桜柄の風呂敷で包んだのだ。

****

 DクラスとEクラスは隣同士にも関わらず、案外接点がない。
 合同授業で一緒に授業を受けることもあるんだけれど、選択科目で一緒のものを取っていなかったら案外絡むことがない。おまけに男女だったら体育だって一緒にはならないし。
 私は手を合わせて恵美ちゃんについてきてもらいながら、Eクラスの教室の扉から中を覗き込んでいた。

「いた? 剣道部の人」
「いない……もしかして、まだ朝練なのかな」
「かもしんないねえ。しかしまあ……いつの間にいい感じになったの。その、近藤くんとやらと」

 ……本当に、そんなんじゃないんだったら。
 すぐに惚れた腫れたに結びつけようとする恵美ちゃんに、私は首をぶんぶんぶんと振る。

「ただお世話になってるから。あと私、ひとりで部活やってるのいつも手伝ってくれるから」
「最初はさんざん怖がってたのに、変われば変わるもんだよねえ……ああ、私もこういう甘酸っぱいのがいいなあ」
「なあに、彼氏ともう倦怠期に入ったの?」

 前の周でも今の周でも、恵美ちゃんは特に彼氏と別れることはなかったと思うけど。私はそう思いながら廊下で近藤くんを見ないかと視線をさまよわせていたら、恵美ちゃんは「違う違う」と手を振った。

「あたしじゃなくってさあ。うちの部。ひとりやたらめったらモテるのがいるの。ラブコメマンガの主人公みたいな奴」
「……ええ?」

 その言葉に、私は声が上擦る。
 私の声に「別に大丈夫だよ、他の部には迷惑かけてないみたいだしさ。クラスではどうだか知らないけど」と恵美ちゃんが笑って言う。

「なんでだろうねえ。特に顔がいいって訳じゃないけど、素行がいいのかな。ちょっと悩んでる子の相談乗っていたら、いつの間にやら惚れられてたっていうのを繰り返しててねえ。そいつ好きな女子で硬直状態なの。こんな状態で誰かひとり出し抜いて告白したら、一気に気まずくなるからできないって感じで、端から見てても変な緊張感漂ってる」

 その状況にものすごく心当たりがあるから、私は内心「やっぱり」とも「またか」とも思いながら、ただ「そうなんだ」と曖昧に笑った。
 ……また、篠山くん。モテまくっているんだ。
 前のときを思い出して、私はそっと溜息をついた。
 大丈夫、ここでは私と彼は赤の他人なんだから。今後も会うことはないんだから、勝手に心配したりしない。変な嫉妬を起こしたりしない。
 ……まだなにもしてない人を「気持ち悪い」なんて思ったりしない。また喉を苦酸っぱいものがせり上がってきそうなのを必死で堪えていたら。

「佐久馬?」
「あ……おはよう!」

 汗のにおいを漂わせて、近藤くんがやってきた。スポーツモヒカンの短い髪が、ペタンと額に張り付いてしまっている。私は急いで荷物を取り出した。

「あの、これ……!」
「……なにこれ」
「昨日採った桑の実でジャムつくったから、その試食! 文化祭の展示品だから、痛んじゃいけないってものすっごく甘くつくったから、そこにあるスコーンと一緒に食べて!」
「お? おう……」

 普段はいかつい顔をしている近藤くんの顔が、珍しく崩れている。
 あれ、甘い物苦手だった? だとしたら失敗したなあ、ちゃんと聞いておけばよかった。私は思わず「食べられる?」と聞いたら、だんだんと近藤くんの顔が火照ってきたのに気付いた。

「……俺、女子から食いもんもらうの初めて。ありがと。大事に食べる」

 そう言って私の差し出したものを本当に壊れ物を扱うように受け取ってくれた。
 その反応に、今度は私のほうが顔を赤くする番だった。
 私だって、男子に差し入れ渡すの初めてだよ。普段近藤くん、もっと嫌そうな反応するのに、こんなときだけこんな顔するなんて……!
 なにか言わないとと思って、顔を真っ赤にしたまま「その風呂敷とタッパは食べ終わったら返してね!」とだけ言っておいた。
 教室に戻るとき、一部始終を見ていた恵美ちゃんにさんざんからかわれたのは言うまでもない話だ。

「いやあ、青春だねえ」
「……そんなんじゃ、ないよ」

 少しだけふわふわと気持ちが舞い上がりそうになるけれど、それと同時に鉛を飲み込んだように気分が沈む。
 こんな気持ちになったことが、一度だけある。
 でもそれはたった一日で、最悪な結末を迎えてしまった。
 もうあんな気持ちは味わいたくないな。
 そう思ったら、今の気持ちに蓋をして、見なかったことにしてしまったほうが痛くなさそうだ。
 もう絶対に、二度目のチャンスなんてやってこない。あんなに痛い思いは、もうしたくない。
 中間テストが終わったら、一気に窓に日差しが強く差し込んでくるようになる。
 今年は空梅雨で、もっとじめじめすると思っていたのが嘘のようで、毎日毎日暑い。天気予報だと、今年は蝉は土の中でほとんど熱で死んでしまって出てこないとか、気温が高過ぎてそもそも鳴かないとか、いろんなことを言っている。
 制服が冬服から夏服に切り替わった頃、私の部活の格好もジャージから半袖の体操服と短パンに切り替わっていた。
 鬼瓦先生から「昼に水やりしたら、畑が煮沸されてしまうから、なるべく日差しの低い内に」と教えてくれたので、前日になるべく家事を済ませてから、早めに登校して、水を一生懸命畑にやっていた。
 校庭からはどこかの部活のランニングのかけ声。私はホースに手をやっているときだけは涼を取ることができた。
 そういえば。中間テストが終わってから、あんまり近藤くんは園芸部の部活には顔を出さなくなった。最初はあれだけ嫌がっていたのに、気付いたらずっとあの大きな人と一緒に土いじりをしていた。私には重過ぎる土や肥料も軽々と運んでくれていたけれど、今は本当に見なくなってしまったなあ。
 鬼瓦先生になんの気なしに聞いてみたら、あっさりと教えてくれた。

「ああ、近藤くんね。ようやく部の試合に出ることになったから」
「そうなんですか……?」
「もうすぐ県大会だからね」

 そうなのか、と私はぼんやりと思う。
 運動部とはほとんどクラスでも話をしないから、県大会がいつとか、インターハイがいつとか、そんなことまで私はちっとも知らなかった。
 私自身も部活の日以外は真っ直ぐスーパーまで行って買い物をしているから、運動部の見学なんてしたことがない。
 その日の部活が終わったあと、普段だったらかけ声が怖くって絶対に自主的に足を運ばない剣道場まで、なんの気なしに足が向いていた。運動部の独特の空気が、文化系女子にはちょっと怖過ぎる。
 邪魔にならないようにと、夏だから開けっぱなしになっている剣道場の戸から覗いてみると、皆が皆、胴着の上に防具を被って、竹刀を激しく打ち合っているのが見えた。
 私にはどの人がどれだけ強いのかがわからない。
 ただ大きな声を上げて、互いを威嚇している様。竹刀を結んだ途端に、互いの竹刀をさばきはじめる動きの俊敏さ。ときどき見せる打ち込みの激しさ。
 どれもこれも、そこそこ距離の近い場所から見るのははじめてで、汗のにおいの濃さも忘れて、ただポカンと口を開けて見ていた。
 やがて、打ち合いが終わったあと、皆が銘々防具を取りはじめる。防具を取った途端に、より一層汗のにおいが強くなったような気がする。皆が皆、端に寄せてあるペットボトルを傾けはじめたとき、やがてひとり、こちらにドタドタと近付いてきたのに、私は思わず固まっていた。
 大柄な近藤くんが、少し驚いた顔してやってきたのだ。

「お前……今日部活は?」
「きょ、今日の作業は終わったから……近藤くんは?」
「打ち合いの練習も終わったし、もうちょっとしたら着替えて帰る。あー……先生からなにか言われたのか?」
「ち、違うよ……ただ、最近近藤くん見ないから、部活大変なのかなと思って……」

 言っていて、だんだんと恥ずかしくなってきた。
 ……別に私と近藤くんは、園芸場で一緒に作業するだけの仲であり、それ以上でもそれ以下でもない。クラスメイトですら、ないんだから。
 近藤くんは少しだけ困った顔をしながら、手持ちのペットボトルを傾ける。

「んー……じゃあ、一緒に帰るか? そろそろ日が傾いてきたし」
「いや、いいよ。普段からこれくらいの時間だったらひとりで帰ってるし」

 今日はまだご飯の準備は揃っていたから、他に買い足すものもなかったはずだと、冷蔵庫の中を思い浮かべる。それに近藤くんはますます眉を潜ませる。

「……いや、ちゃんと送らせろよ」

 そう言って、「暑いけど、ここでちゃんと待ってろよ!!」と言い残して、そのまま去って行ってしまったのに、私はぽかんとしていた。
 恵美ちゃんはさっさと帰って、今頃は彼氏とファミレスデートをしているはずだ。
 だから、こういうときに周りに誤解されたくないからと逃げ帰るのが正解なのか、このまんま好意に甘えて送ってもらうために待つのが正解なのか、アドバイスが欲しくっても全然聞ける相手なんていなかったんだ。
 他の剣道部の人たちも、身長が大柄な人から私とそこまで変わらない人までいても、どの人も私よりも体格はがっちりとしているし、別に特別細い訳じゃない私でも細く見えるような気がする。
 ときどきこちらに好奇心でちらちらと見てくる、着替え終わったらしい剣道部の人たちにビクビクしていたら、「佐久馬!」と声をかけられて、私はびくり、と髪の毛を逆立てる。
 制服に着替えた近藤くんが、汗で額に前髪を貼り付けたまま、こちらにズカズカと寄ってきたのだ。

「帰るぞ」
「え、あ。はい」

 なんだろう、こんなに物々しい下校。初めてなんだけれど。
 自転車登校らしい近藤くんは、鞄と一緒に竹刀袋を背負い、なにげに私のほうを見ると、くいっと前籠を指差した。

「そこ。鞄入れていいから」
「えっ?」
「ほら、いいから入れる」
「あ、はい」

 私がいそいそと近藤くんに言われるがまま鞄を籠に入れたら、そのままスタスタと歩きはじめてしまった。
 近藤くんと私はコンパスの差があるせいで、私は必死で着いていかないと追いつけない。それに近藤くんは少しだけ意外そうな顔をしてこちらに振り返った。

「……もしかして、お前足が遅いの?」

 私の足が遅いんじゃなくって、私と近藤くんだと足の長さが違うの!
 そう声をかけたかったけれど、萎縮してしまって上手く抗議の声が出なく、私は「ごめんなさい」と謝っていった。
 近藤くんは少しだけ自転車にブレーキをかけて、こちらのほうに振り返る。

「別に、言ってくれりゃ遅く歩くのに」
「そんな、鞄入れてくれてるのに」
「別にそんなこと感謝するとこじゃなくね?」

 この人、優しいのか優しくないのか全然わからないなあ。
 私は少しだけ歩みが遅くなった近藤くんの隣を、テクテクと歩く。
 まだ空は高い。やっぱり、今日みたいな日は私ひとりで帰っても大丈夫だったんじゃないかなとぼんやりと思う。

「なあ、佐久馬。お前日曜日暇?」
「えっと」

 頭にぱっと出たのは、スーパーの特売日だった。その日はお母さんも休みだから、車を出してもらって大量に調味料とか日持ちする食料とか買っておくのだ。
 なんて。言ってもわからないよねえ。私は無難に「買い物」と言うと、近藤くんは「そっかあ」とだけ言った。
 あれ。私は目を瞬かせながら、近藤くんを見た。

「なにかあったの?」
「……なんもねえ」
「あの、私。また怒らせるようなこと」
「あのなあ、たしかにお前、見ててすっげえイライラすることあるけど」

 また怒気を孕んだ声を出すのに、私は肩を強ばらせる。それに気付いたのか、近藤くんは少しだけ気まずそうにふいっと顔を逸らした。

「……いや、忙しいんだったら別にいい」
「ええ? うん」

 そのまま、ふたりとも特に会話が弾むこともなく、うちのマンションまで帰ってしまった。私は鞄を取り、「ありがとう、送ってくれて」とお礼を言ったら、近藤くんはぶっきらぼうに「おう」とだけ言って、そのまま自転車に跨がって帰って行ってしまった。
 ……元来た方向へ。
 私はそれを、ポカンとして見ていた。
 もしかしなくっても、家、逆方向だったんじゃ。申し訳ない気分とむずむずした気分が迫り上がってくるけれど、同時に胃液が上がってきたのを、どうにか堰き止めた。
 ……近藤くんは、口が悪いし態度も悪いけど、多分いい人なんだ。
 だから、私みたいなよくわからない人間に優しくしなくってもいいのに。そう思いながら、彼を背にして、マンションへと入っていった。

****

「それ、応援に来て欲しかったんじゃないの?」

 休み時間に昨日のことを、かいつまんで話したら、あっさりと奈都子ちゃんにそう指摘されてしまった。応援って……剣道の?
 私がわからないという顔をしているせいか、奈都子ちゃんはポテチを食べながら話を続ける。

「うん、だって日曜日は剣道部、県大会だったんじゃないかな。近藤が団体戦に出るのか個人戦に出るのか知らないけど、どっちかに出るのが決まったから応援して欲しかったんじゃないの?」
「え……でも、私。剣道全然わからないんだけど……!?」
「いや、そりゃそうだろうけど」

 奈都子ちゃんが助けを求めるように恵美ちゃんのほうに顔を向けると、恵美ちゃんはそのまま私にがばっと抱きついてきた。

「よかったじゃない! 上手くいけば彼氏ゲットだよ!」
「いや……でも、そういうのって、よくないんじゃ」
「なにがよ?」
「だってさ……近藤くん。本当に剣道好きで。顧問のせいで園芸部の手伝いとかさせられたりするの、すっごく嫌なくらい剣道好きなのに、浮ついた気持ちで見に行くのは、失礼なんじゃないかな……」

 最初に泣かされたことは、今でも怖かったと思うけど。実際に近藤くんは背が高いし、言動がぶっきらぼうだし、女子の扱い本当にわかってないなって思うけど。
 好きなことを一生懸命好きでいるのは、私も羨ましいなと思う。私にはそういうなにかに打ち込むって情熱、ちっともないから。
 嫌なものは嫌って言えって、自分のことじゃないのに怒ってくれるのも、多分いい人だからだと思う。
 私がそう思ったことを口にしてみたら、奈都子ちゃんはぽろっと指先からポテチを袋に落とし、暑い中抱きついてくる恵美ちゃんが、そのまま私の背中をバシバシと叩いてきた。

「そこまで思ってるんだったら、なおのこと行ってあげたほうがいいよっ!」
「え……でも。私が行ったら失礼なんじゃ……」
「うーん、あたしが彼氏とデートスポットのひとつとして野次馬に行くんだったら失礼だと思うけど、近藤が頑張ってるのを知ってるあんたが見に行くのは、ちっとも失礼なことじゃないと思うな!」
「そう、なのかな……」

 剣道部の部活の応援って、なにか持ってったほうがいいんだろうか。それは近藤くんに聞けば教えてくれるのかな。私はぼんやりと近藤くんのことを頭に思い浮かべてみた。
 悪い人ではないんだと思う。ううん。むしろ優しい人だと、最近になって特にそう思っている。
 でも。
 頭に浮かんでくるのは、どうしても篠山くんと瀬利先輩のキスシーンだ。
 そのシーンを思い出すたびに、喉を苦酸っぱい味のものが突き上げてきて、それを必死で飲み下してなかったことにしてしまう。きっと今の私は、眉間に皺を寄せた変な顔をしていることだろう。
 ……もうこれは終わった話だし、私は既に死んでいるんだから、その世界の話にどうやっても介入なんかできない、どうしようもない話だ。
 ふわふわとしたものが浮かんでくるけど、それをどうしても押し留めてしまう。怖い。フラれてしまうほうがまだマシだった。私の恋心を簡単に踏み潰されてしまう、それが一番怖い。
 その日、私は園芸部に鬼瓦先生に謝って早めに家に帰ることにした。買い物に行かないといけないから。
 本当だったら、近藤くんと少しだけ話がしたかったけれど、稽古中の人に声をかけるのも忍びない。私は剣道場のほうを一瞥してから、さっさと帰ろうとしたとき。

「佐久馬」

 声をかけられて、私はビクン、と肩を跳ねさせた。振り返ったら、胴着姿の近藤くんがいた。多分走り込み中だったんだろう。少し息が上がっているようだった。

「こん、にちは」
「……あー、もう怒鳴ったりしないって。さすがに毎日急いで帰ってるのを見たら、なんかあるんだろうってことくらいはわかるし」
「ごめん……」
「そんなに怖がるなって」

 私がビクビクしている中、近藤くんはガリガリとうなじを引っ掻いたあと、もう一度私のほうに視線を戻した。

「あのさ、いっつも忙しそうにしてるけど、日曜はやっぱり忙しいか?」
「えっと……土日だったら、親も休みだから大丈夫だと思う」
「あれ? 前に買い物って言ってたけど」
「うち、共働きだから。だから普段の家事は全部私がやってるし、週末は買い出しに行ってるから……さすがにそれだけじゃ全部賄えないから、平日でも買い物に行くけど」

 そう伝えたら、少しだけびっくりしたように目を見開いたあと、「あー……すまん」と唸り声を上げられてしまった。

「どうして?」
「あー……うん。そんなに急いで帰らないといけないのかって、思ってなかったから。あー……すまん。でもそれだったらなおのこと、休みを潰す訳には」
「私、剣道のルールとか、全然わからないけど、見に行っても大丈夫なの?」

 そう言ったら、またも近藤くんは目を見開いたあと、こちらにもう一度声をかけてきた。

「マジで?」
「えっ?」
「マジで見に来てくれんの? あー……よかった。別に審判の言葉聞いとけばだいたいわかるから、ルールはそんなに問題ないと思う」
「そうなの? えっと。なにか持っていったほうがいいの?」

 私の言葉に、近藤くんは目をパチクリとさせていた。私は言葉を続ける。

「えっと差し入れ。他の先輩さんたちの邪魔にならなかったら、だけど……」
「アイス。アイスだったら入る。安いのでいい。アイス」

 アイスだったら、ドラッグストアのポイントとクーポンを使えば、人数分買ってもそこまで高くないかな。普段から買い出しに行っているドラッグストアのポイントを頭に浮かべながら、私は頷いた。

「わかった。邪魔にならないよう、見に行く」
「おう。じゃ」

 そう言って近藤くんは、ぶっきらぼうに背を見せて去って行ってしまった。でも。気のせいかすれ違いざまに見上げた耳が赤かったような気がする。
 私は家に帰る前にスーパーとドラッグストアをはしごして、買い物していった。ここしばらくのご飯の材料を買い足していたところで、私は鶏肉が安いことに気が付いた。
 ……多分剣道の試合では、傷むものを出さないようにってことで、手作り品は駄目なんだろうけど。平日の昼ご飯だったらどうなんだろう。私は鶏肉の値段をちらっと見てから、一枚余分に買っていった。
 今晩のおかずとして、漬け汁に漬けたひと口大の鶏肉を、米粉の衣を付けてジュワッと揚げる。二回揚げてから、多めにつくったぶんを冷ましておく。
 体育会系男子に唐揚げって、安直過ぎるのかな。そう思ったけれど、私は近藤くんの好きなものをなにも知らない。
 ただふわふわしてたいだけだったら、もうなにも考えずにただ眺めていればいい。傷付きたくないんだったら、もうなにもしなかったらいい。
 でも。私は彼の赤い耳が、脳裏から離れなかった。
 早く前の記憶が掻き消えてしまえばいいのに。
 私はそう思いながら、片手鍋で味噌汁をつくりはじめる。
 記憶に残っているキスシーン。あれが未だに引っかかっている。どうにか押し込めようとしても、私がふわふわとした気持ちになった途端に出てきてしまう。怖いし、思い出したくないし、誰にも説明できない記憶だ。
 まだ、ただふわふわとした気持ちを楽しみたいだけ。まだ、どうこうなりたいなんて微塵にも思っていない。
 想うことさえ気持ち悪くなってしまうのなら、私には前の記憶なんて必要ない。

****

 次の日、私はいつものように早めにやってきて、園芸場の草木に水をあげていた。そろそろ日差しがきつくなってきたから、朝に加えて夕方も水やりをしないといけなくなるだろう。
 私がホースを細く持って水をあげているところで、「おはよう、今日も早いな」と声をかけられた。近藤くんも胴着姿で、既に汗のにおいがするんだから、充分早起きだ。

「おはよう。もう大会が近いんだから、先生だって園芸部の手伝い、許してくれるんでしょう?」
「いや、そりゃそうだけどさ」

 そう言ってこちらのほうを見てきた。
 私も近藤くんも、そんなに言葉数がない。沈黙が降りて、その中でホースから水が飛ぶ音だけが響いている。

「あの、近藤くん。唐揚げ好き?」
「はあっ?」

 あまりにも脈絡なさ過ぎる言葉に、近藤くんは声を裏返して反応を返してくれた。そうだよね、私だって会話の前後と全く関係ない話だと思うもの。だいたいの土がしっかりと湿ったのを確認してから、ようやく水を止めてホースを立てかける。

「昨日、肉が安かったから、唐揚げつくり過ぎちゃったの。ええっと、友達に配るのも、嫌がられそうだし……」

 多分恵美ちゃんも奈都子ちゃんも、私がタッパに詰めてきた唐揚げを見たら、すぐに食べてくれるとは思うけど。
 私がたどたどしく並べる言葉に、近藤くんはしばらくポカンと黙り込んだあと、「おう」と頷いた。えっ、これって……。

「食う」
「あっ、ありがとう……っ」
「いや、俺。女子からその。食い物もらうの、初めてで……」

 そう言ってしどろもどろになっている近藤くんに、私は笑った。

「桑の実ジャムは駄目だった?」
「いや、あれは。まあ……美味かった。うん、楽しみ」
「片言になってるよ」

 さんざん笑ったけれど、私だって恥ずかしい。
 言い訳並べて取っておいたタッパを近藤くんに渡したあと、剣道部の試合の時間と場所の確認を取ってから、私たちは別れた。
 心臓がうるさい。ジャムだったらまだ文化祭のための試食だと言い訳ができたけれど、唐揚げだったら言い訳が全然できない。男子が好きそうという理由だけでつくって、それを渡したのなんて。近藤くんにはつくり過ぎたなんて嘘ついたけれど、こんなの端から見たら下心なんて見え見えだもの。
 ああ、情緒不安定だ。まさか言えないじゃない。
 言う気はないけれど、好きでいさせてくださいなんて。好意がそのまんま通じてしまわなくってよかった。本当によかった。私はそう思いながら、教室へと帰っていった。

****

 お父さんとお母さんには「友達の部活の応援に行きたい」と言ったら、拍子抜けするほどあっさりと「行っておいで」と言われてしまった。

「普段由良には家事やってもらってるし、土日くらい遊んできなさい」

 そう言われて、お母さんが車を出して途中まで送ってくれた。
 剣道の県大会は県立の体育館を貸し切って行われるものらしい。
 クーラーボックスにアイスをいっぱい入れて持っていって体育館に入ったとき、四つのブロックに分かれて、そこで大会の準備が行われているのが見えた。
 団体戦と個人戦。ふたつのブロックで団体戦が、もうふたつのブロックで個人戦が行われるらしい。女子と男子はそれぞれ別の体育館らしくって、ここでは男子しか見つからなかった。もっとも、胴着着て防具付けちゃったら、端からだと男女の区別なんて付けようがないけれど。
 私がきょろきょろとうちの学校を探していたら、「佐久馬さん?」と声をかけられた。鬼瓦先生だ。それに私はぺこりと頭を下げる。

「こんにちは! あの、差し入れを持ってきたんですけど……」
「ああ、ちょうど今から試合始まるから、こっちで見ておいで」
「ええ? いいんですか?」
「この辺りはうちの生徒たちが固まってるから、問題ないよ」

 そう鬼瓦先生が言うので、ちらっと見る。
 なるほど、胴着や防具は付けてないシャツと短パン姿だけれど、たしかにスポーツバッグを持って座っているのはうちの学校の男子らしい。試合には参加しない子たちなのかな。
 私は邪魔にならないように座って、下を見た。
 下ではうちの学校の団体戦が。向こうでは個人戦が見える。
 皆がそれぞれお辞儀をしているのを見たとき、ふいに個人戦の男子がひとり、うちのほうに振り返ったことに気付いた。防具にはうちの学校の名前が入っている。そして、竹刀を持っていないほうの手を挙げたのだ。
 あれ、もしかして……。
 鬼瓦先生はのんびりと口を開いた。

「近藤も調子に乗っているから。ちゃんと見てないと怪我するのに」
「えっ……! 防具付けていても、ですか?」
「竹刀は割れやすくできているから、ちゃんと防具に当たれば怪我はしないけど、打ち所が悪いと誰だって怪我するよ」
「えっ……!」

 そんな当たり前なことすら知らなかった私は、おっかなびっくり近藤くんの試合を凝視した。
 審判の人が旗を挙げたのだから、試合がはじまったのだろう。
 皆が皆、気合いの入った声を上げながら、なかなか打ち合いがはじまらないのを見ている。

「あのう、竹刀振らないんですか? さっきからずっと声を上げながら回ってますけど……」
「剣道はね、間合いを見る競技だから」

 鬼瓦先生がゆったりと解説してくれるのを聞きながら、私は近藤くんを見ていた。ここからだと少し遠いけれど、互いが睨み合いながら、ぐるぐると回っているのが見える。
 やがて、相手側のほうが大きく打ち込んできた。それを近藤くんが受け止める。もっと打ち合うのかと思ったけれど、何回か鍔競り合いをしたあと、またもぐるぐると周りはじめてしまった。

「あの、このまま打たないんですか? ええっと、面とか胴とか」

 聞きかじりの言葉を言うと、鬼瓦先生は軽く首を振る。

「剣道は三本勝負だから、先に決め技を二本決めたほうが勝ちなんだよ」
「ええっと……?」
「さっきの鍔競り合いで、もうちょっとでどちらかが打ち込みそうになった。だからまた間合いを取ったんだよ。ここからじゃわかりにくいかもしれないけど、互いに相手の次の行動を読み合って、今は勝機がないとわかったから、もう一度間合いを空けたんだよ。でももうそろそろ勝負は決まるよ」
「そうなんですか?」

 鬼瓦先生の言葉に、まだ勝敗がわかってない中、ふいに空調の風が吹いた。この辺りも熱気や湿気がこもっていてムンムンしているから、その風がありがたかった。
 そのとき。近藤くんが動いた。彼の大きな突きが、相手の胸を客席にも聞こえるほど大きな音を立てて打ったのだ。途端に、白旗が近藤くんのほうに上がった。

「わっ!」
「うん、見事な胸打ちだね」
「すごい!」

 わかってないなりに、今の近藤くんの技がすごかったことだけはわかった。結構間を空けていたはずなのに、技が決まったのはあっという間だったから。
 私が思わずパチパチと手を叩いている中、他の部員たちがやんややんやと喝采している中、鬼瓦さんは隣に座っている私にしか聞こえない程度の声でつぶやく。

「園芸部活中も、近藤もしょっちゅう機嫌悪くってピリピリしてただろ」
「ええっと……そんなことないです」
「別に怒ってないから、誤魔化さなくってもいいよ。。勝負事になったらどうしても喧嘩っ早い子が集まるから、空気を抜くために園芸場に連れて行ってるけど。あれも最初は同級生だけだったらともかく、上級生とまで折り合いが悪かったからねえ。そんな態度ばかり取るんじゃ、とてもじゃないけど団体戦には出せないし、だからといって個人戦で他校の生徒とまで揉めてしまっても困るし、大丈夫かねえと心配してたけど。佐久馬のおかげで大分マシになったねえ」
「え、私……ですか?」

 思えば。たしかに近藤くんは最初、好きでもない園芸部の手伝いで終始機嫌が悪かった。私も他に入れる部がないから辞めることもできないし、ずっと部活中はピリピリしていたと思う。
 私はただ、怖くて勝手に泣いただけで、近藤くんのためになにかしたことなんてなかったと思うけど。
 ただただ首を傾げている中、鬼瓦先生はゆったりと笑う。怖い顔も、笑えば存外優しく見える。

「若いっていいねえ」

 そう締めくくられるけれど、本当に心当たりがないものだから、そうなのかなとしか思えなかった。
 結果、近藤くんは一度は打ち返されてしまったものの、また取り戻したから、二対一で勝ち上がり。次の試合まで少し休憩したところで、私はようやく選手の皆にアイスを配りに出かけることにした。
 うちの学校、たしかに運動部は強いらしく、剣道部もご多分に漏れず強い。団体戦も次の試合へとコマを進めたのに、私は怖々とクーラーボックスを抱えて挨拶に行った。

「お、お疲れ様です……!」
「あれ、一年の子……だよね?」

 防具を取って、噴き出てくる汗をタオルで拭っている先輩は、たしかに前に剣道場で見た先輩のうちのひとりだったと思う。私がときどき近藤くんを見に行っていたから、顔を覚えられていたらしい。
 私がアイスを配りたい旨を伝えたら、先輩はすぐに「お前らー、一年から差し入れだぞー!!」と大声で言い「あざーっす!!」と頭を下げられるものだから、私はビクビク震えながら、クーラーボックスを開けてアイスを取ってもらった。
 私はアイスをひとつ持って近藤くんを探すと、近藤くんも防具を取ってペットボトルを傾けているところだった。私はひょいとパッケージごとアイスを差し出す。

「お疲れ様。あの、私。ルール全然わからないけど、すごかった」
「えー。ルールわかんないのにすごいってなんだよ」
「ルールわかんなくってもすごいって見てて思ったんだよ」
「ああ、サンキュ。アイスもな。ありがと」

 そう言いながらパッケージをめくってアイスに齧り付いた。近付いてみると本当にこの辺りは湿気がむんむんしているし、たしかに冷たいアイスが余計においしく感じるのかもしれない。
 私も湿気でパタパタと手を振っていたら、近藤くんがひょいと私が配ったアイスを差し出してきた。まだ少ししか囓っていない。

「ここ無茶苦茶暑いのに、お前の分ないだろ」
「いや、いいよ。私も別に、近藤くんの応援に来ただけだから」
「あのなあ。甲子園での高校野球でだって、観客も選手もバタバタ倒れてんだろ? 熱中症ってマジで怖いんだからな。ちゃんと水分摂っとけ、室内だからって油断すんな」
「え、でも……」
「ほら」

 またもずいっとアイスを差し出されて、私はたじろぐ。
 これって間接キスになるんじゃ……。友達同士でだったら平気でペットボトルの飲みっこだってできるけれど、男子と間接キスなんてしたことがない。
 ただ、近藤くんが眉間に皺を寄せて「ほらっ」となおも差し出してくるし、熱気のせいでアイスも溶けかけているのを見たら、さっさとひと口食べて返さないと、近藤くんが食べられなくなっちゃうと、慌ててひと口もらうしかなくなったのだ。
 シャクッとひと口囓ると、冷たさが喉を通っていく。本当に、暑い場所で食べるアイスはおいしい。

「ありがと……もう残りは近藤くんが食べちゃって」

 私がそう言って近藤くんを見上げると、いつかのときと同じく、耳まで真っ赤に染まっているのが見えた。
 ……まさか、近藤くん。本気で間接キスだって気付いてなかったんじゃ。
 こちらのほうを、先輩たちが生暖かい視線を向けてくるのがつらい。さっさと観客席のほうに戻ったほうがよさそう。

「そ、それじゃ。私もそろそろ、戻るから……」
「おい、佐久馬」
「はっ、はいっ……!」

 私が脱兎しようとする前に、近藤くんはぶっきらぼうに言う。

「……絶対に優勝するから、見とけ」
「う、うんっ」

 なにこれ。なにこれこの少年漫画みたいなのは。
 私がパッケージを回収してそのまま観客席まで戻るまでの間、ヒューヒューと口笛が飛び、近藤くんは恥ずかしかったのか、単純に次の試合の順番が近いのか、すぽっと防具を被って顔を見えなくしてしまった。
 気恥ずかしい中、私は試合に挑む近藤くんを見た。
 鬼瓦先生の解説のおかげで、どうにか試合の流れもわかってきた。おかげでどこで声援を上げればいいのか、どこで拍手をすればいいのかもわかってきて、心の底から剣道の試合を楽しむことができた。
 結果として、うちの学校は県大会優勝。近藤くんも個人戦を優勝し、インターハイにまで進めることができたのだ。
 なんだろう、これ。すごい。有言実行だなんて。優勝旗が渡されるのを眺めながら、私は観客席でずっと手を叩いていた。
 ようやく帰る用意をはじめたところで、私はようやく近藤くんに声をかけることができた。

「近藤くん! 優勝おめでとう! あの、すごかった! 本当に、すごかった!」
「おう、サンキュ。でもお前、ルール全然わかんないとか言ってただろ」
「鬼瓦先生が教えてくれたからわかったよ! でも、本当すごくって!」
「お前ぜんっぜん語彙ねえなあ」
「なんだろう、感激していると、言葉が本当に全然出てこなくって……!」

 我ながらあまりにも頭の悪過ぎる感想だったけれど、近藤くんはまたも照れたように頬を引っ掻いて明後日の方向を向いていた。

「いや、お前が見に来てくれたのに、下手な試合はできねえし……まあ、佐久馬はマジでルールわかってないから、俺が下手な試合してもわかんねえかもしれないけど」
「か、勝ち負けはわかるよっ! 審判さんたちが旗上げるし!」
「いやそうなんだけどさ」

 近藤くんはようやくこちらに視線を合わせて、にんまりと笑った。
 まるで大型犬が牙を剥いたような、獰猛な笑みだったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。

「ありがとな」
「……うん」

 私はそのお礼に、何度も馬鹿みたいに首を縦に振っていた。
 いつも、ふわふわしていたら、キスシーンが頭に浮かんで、吐き気がこみ上げてくるのに。初めて、キスシーンが脳裏に瞬くことも、吐き気が喉を迫り上がってくることもなかった。
 県大会を見に行ってから、私と近藤くんの関係は少し変わったように思う。
 近藤くんはインターハイの稽古もあるのに、朝と夕方の水やりは手伝ってくれるようになったのだ。
 さすがに近藤くんは部活のない日じゃなかったら家に送ってくれないけれど、ときどき一緒に帰って、私がスーパーやドラッグストアで買い出しするのに付き合ってくれるようになった。
 買い物に一緒に行くたびに、私は買い出しメモを見ながら籠にひょいひょいと物を入れていくのを、近藤くんは驚いた顔をして見てくる。

「お前……普段からこんなことやってんのか?」
「ええっと、うん」

 夏場はどうしてもなんでもかんでも傷みやすいから、まとめ買いしても傷んで駄目になってしまうことが多い。だからこまめに買い足していくしかないんだけど、近藤くんは本気でそういう買い出しがわからなかったらしい。
 私が一生懸命100円引きシールの貼られているパンや牛乳、セールになっているお肉を選んでいるのを、驚いた顔で見ていた。

「これで学校行けてるのか?」
「行ってるじゃない。うちは親が共働きだから、どうしても平日の家事は私に回ってきちゃうからさ」
「はー……」
「別に土日は暇だから、そこまで驚かなくっても」
「なんというか、佐久馬ってすごいな」

 そう近藤くんがしみじみと言うので、私はキョトンとしてしまった。

「どうして?」
「いや、うちは親父は警察で働いてるし、じいさんも警察学校で剣道やってるから、男は剣道やるっていうので全部回ってんだよな。お袋がこんなに買ってるとか、思ってもなかったわ」
「うーんと」

 私は逆に、近藤くんに全部悟らせないで家事全般をこなしているお母様のほうがすごいんじゃ、と思った。だって運動したあとの男の人って、恐ろしいくらいに食べるし、エンゲル係数は全然馬鹿にならないんじゃ、とわかってしまうから。
 ないものねだりと言ってしまえばそれまでだけど、人のすごいところや自分の家のすごいところなんて、他人から見ないと案外わかんないもんだよね。

「近藤くんも試合や稽古があるから難しいかもしれないけど、たまにはお母さんのスーパーの買い出しに付き合って、重いものを持ってあげたらいいんじゃない?」
「……そんな簡単なことでいいのか?」
「うーんと。私はときどき近藤くんが私の買い物袋を持ってくれているので、助かってます。お米と野菜と牛乳が切れたときは、ひとりで泣きそうになりながら袋を持ってたから、ひとつでも持ってくれたら嬉しいし、多分近藤くんのお母さんもそう思うんじゃないかな」
「ふーん、そっか」

 実際私は近藤くんが自転車に荷物を積んでくれるおかげで、泣きそうになりながら買い物をしなくっても済んでいるし、充分助かっている。
 ふたりでそうしゃべりながら帰っていると、着信音が響いた。私のスマホじゃない。ちらっと見ると、近藤くんが「ワリィ」と言ってからスポーツバッグからスマホを取り出した。

「もしもし……えっ、ごめん、もう一度言って」

 なにか話しはじめたのに、私はきょとんとする。重い荷物は全部近藤くんの自転車の籠に入れさせてもらっているし、私がここで聞いてていい内容なのかな。そう思って待っていたら、「じゃあな」と言ってからスマホを消した。

「どうかしたの?」
「うーん……なんか部の備品買って来てって言われたんだよ。明後日でいいらしいけど」
「備品って?」

 剣道部の備品ってなんなんだろうなと、私は暢気に思っていたら、近藤くんは「面倒くせぇ……」とガリガリと頭を引っ掻きながら教えてくれた。

「ラインテープ。ほら、この間の試合のときも床に貼ってただろ? あれ」
「へえ……あれってわざわざ貼り替えるものだったんだ」
「長いこと貼ってたら床がベタベタになるから、定期的に貼り替えてんだよ。それを買ってこいって。あとスポドリの粉末」
「ふーん」

 普段からペットボトル飲んでるなと思ってたら、皆でスポーツドリンクの粉末を溶かして飲んでいたのか。でもそりゃそうだよね。真夏に剣道場に胴着姿で稽古してたら、いくら戸を全開に開けてたとしても、暑いもんは暑い。
 もうすぐインターハイなんだしねえと、私は勝手に頷いて、ふと気付く。
 明後日は土曜日だ。親がふたりとも揃って家にいるから、私も自由が利く。

「買い物に付き合おうか?」
「えっ」

 あからさまにうろたえた声を上げた近藤くんに、私はきょとんとする。
 単純に、私は買い物用クーポンをスマホにいっぱい取ってるから、それ使って買ったら、部費を使うにしても安く上がるんじゃないかと思っただけだったんだけど。
 私がわかってない顔をしている中、近藤くんは「お前、ほんっとうそういう奴だよな」と言って、ぷいっとそっぽを向いて歩き出してしまった。最近は私に気を遣ってかゆっくり歩いていたのに、ズカズカと歩いて行ってしまうものだから、私は小走りで追いかけるしかない。

「あの、なんでっ!?」
「お前なあ、なんでいっつもそうなんだよ!」
「あの、私近藤くんを怒らせるようなこと言った!?」
「言ってねえ知らねえ」

 ふたりでギャーギャー言い合いながら、ようやく私は気が付いた。
 学校が休みなときに出会う。前は剣道部の皆に顧問の鬼瓦先生が一緒だったから、そんな意識はこれっぽっちもなかったけれど。
 ふたりっきりで会うんだったらデートだ。
 遅れて、私の顔が熱を持った。

****

 買い物に行く約束をした日。
 SNSで最近流行りの服をチェックする。
 前は剣道部の試合だからと、あんまり服のことは意識していなかったけれど、今回は違う。
 剣道部の買い出しなんだから、それっぽく言い訳できるように。でも普段着てるようなラフ過ぎる格好は絶対に駄目でしょ。
 夏場は量販店で買ったTシャツに、量販店で買ったジーンズというごくごくありふれた格好をしているけれど、それで出かけたらあまりにもデートっぽくない。これじゃ近所のスーパーに買い出しの格好と変わらない。
 いや、デートじゃないんだから、デートっぽい格好しなくってもいいのかな。買い出しの格好でも充分という心の声も聞こえるけれど、それじゃ嫌と乙女心が許さない。
 ……いやいやちょっと待って。そもそも私は近藤くんとデートをしたいの? したくないの?
 そもそも、これをデートとは思っていないんじゃ、近藤くんは……。普段の言動を考えれば充分にありえそうだ。でも。
 一緒に買い出しに行こうと言ったときの近藤くんの反応を見れば、むしろ気付かなかった私のほうが悪いんじゃとも思えてくる。いやいや、そっちのほうが自意識過剰過ぎる気もするし。うーん、どうなんだろう、これ?
 考えれば考えるほど訳がわからなくなり、結局は買ってもらったガウチョパンツに量販店のちょっとだけ高めなTシャツという、いつもよりもちょっとだけおしゃれという無難な格好になってしまった。
 これ、いいのかな。私はそれを洗面所の鏡の前でくるくると回って見つめる。
 本当だったら化粧とかすればいいんだろうけれど、私は化粧道具なんて持ってない。せめてもと持ち歩いているリップグロスだけ塗る。汗対策として、花の匂いのするデオトラントパウダーを全身にふりかけてから、私は待ち合わせの場所に出かけていった。
 買い出しに出かけるスポーツ用品店の入っているショッピングモール前。私はそこへ自転車を走らせていたら、チリンチリンとベルが鳴って、何気なく振り返る。

「よっ、今から行くのか?」

 近藤くんだった。有名スポーツメーカーのロゴの入ったTシャツにジャージ素材のハーフパンツ。大きなスニーカーは靴底が少し丸まっている。私服の近藤くんも本当に近藤くんだなと、私は思わず笑ってしまった。

「うん。てっきり私のほうが早いと思ったんだけど」
「いや、あちぃだろ。暑いとすぐ熱中症になって倒れんだよなあ」
「ああ……」

 近藤くんの言葉に私は納得した。
 この人は口が悪いだけで、優しいんだろうな。それとも、私がいいように取り過ぎてるんだろうか。ふたりで自転車を走らせながら、ショッピングモールの駐輪場に自転車を停めると、目的のスポーツ用品店に入った。
 スポーツのことは私にはちんぷんかんぷんだったけれど、近藤くんは楽しげにあれこれと見て回っている。私はわからないなりに、ちらちらとスポーツウェアを眺めていた。

「あっ、これお前にいいんじゃねえか?」
「はい?」

 結構高いなあとゴルフウェアを眺めていたところで、近藤くんが声を弾ませてなにかを持ってくる。持ってきたのは大量の軍手だった。って、なんで!?

「もうすぐ園芸部も夏の作業やんだろ。そのときに持ってたらどうだ?」
「えっ? そうなの?」
「おーい、しっかりしろ、園芸部。なんで俺のほうが園芸部のスケジュールに詳しいんだよ」

 そりゃ、園芸部を仕切っているのが実質剣道部の顧問だからだよとは、本人もわかっていることだろうから言えなかった。
 私が大量の軍手……本当にセールしているみたいで、10個をセットで破格なお値段となってる……を持たされながら首を捻っていたら、近藤くんがガリガリと頭を引っ掻いた。

「園芸部って、文化祭で配るために、苗を育てるんだってさ。で、育てるのがちょうど今頃って奴。重労働だし部員が全然来ねえから、剣道部の一年も駆り出されて作業すんだよ。これでわかったか?」
「う、うん……わかった。でもあれ? 園芸部って、秋の文化祭のとき、私ひとりで準備すればいいの?」

 そもそもやる気のない顧問に、見たことない先輩たちという体たらくで、どうして部として残っているのかわからないという部だ。なにを展示するのかだって、ほとんど知らない。せいぜい私が展示用の桑の実ジャムをつくったくらいだ。
 それで、近藤くんは「そこもかよ」と呆れたような顔をしてみせた。

「園芸部、いっつも幽霊部員ばっかりだけど、三人四人はなんとか普通に来てるから文化祭の準備もそれなりにはできるんだってさ。今年みたいにアクティブ部員がひとりしかいないほうが珍しいって、うちの顧問が言ってた」
「そうだよね。私もあんまり活動ない部じゃないと入れなかったんだけど」
「その割には結構部に顔出してるほうだと思うけどなあ、佐久馬は。まあ、そんな訳だから、文化祭は園芸部と剣道部で合同でやるんだとさ。剣道部も、大会のせいであんまり大がかりな準備はできないから、園芸部の出し物に便乗するというか、顧問がやりたいことやる」

 だろうね。鬼瓦先生の謎の園芸愛を思い返し、私は頷いた。
 とりあえず近藤くんの目的の品に、私は軍手を買って、出て行った。あとはクーポンを持っているドラッグストアに行けば買い物は終わりなんだけど。ふたりでドラッグストアへの道へ向かっていると。
 ピコンピコンと音楽ゲームの音に、私は思わず音の方角を見る。

「佐久馬?」
「いや、ときどき遊んでいる音楽ゲームに、新曲入ってるなあと」

 あんまり友達と遊べないから、土日に憂さ晴らしにひとりでゲームセンターに行って、音楽ゲームをすることはよくある。お小遣いが足りて、テスト前限定だけれど。
 近藤くんはそれをひょいと見る。私はそれに「わっ」と言った。

「金はあるの?」
「え?」
「ゲームする金。あ、これはふたりプレイできるんだな」

 ゲーム機に近付くと、さっさとひとり分の硬貨は入れてしまった。

「ほら、やりたいんだろ?」
「う、うん!」

 私も慌てて財布から硬貨を取り出すと、自分の分を入れる。

「これってどうすりゃいいんだ?」

 そう言って不思議そうにゲーム画面を見ているので、私は初心者向けの音楽を探して、それを打ち込んだ。
 たちまちプレイスタートし、軽快な電子音が響きはじめた。

「ええっと、赤いラインわかるかな? あそこに来た規定の色のボタンを叩くの」
「ふうん。あれ、三つとか同時に来たけど」
「三つ同時に押すの。こう!」

 私が手を伸ばして三つ同時に押すのに、近藤くんも「なるほど」と納得しながら押しはじめる。
 この音楽ゲームは割と得意なんだけれど、人に教えながらだとなかなか思い通りのスコアは取れない。対して、初心者モードで初心者向けの音楽だったとはいえど、近藤くんは順調にゲームのコツを掴んでいった。
 最終的にはふたりでピタンピタンと押せるようになったんだから、ゲームってすごい。

「結構肩とか張るなあ、これ」
「力入れ過ぎだよ。もっと力入れなくっても入力できるよ?」
「そんなもんか? でもこういうゲーム、あんまやったことないんだよなあ……佐久馬すっげえわ」
「そんなこと……」
「お前なあ、褒めてもすぐ謙遜するし、怒鳴るとすぐ謝るし。自分のこと卑下し過ぎ。もっと上から目線でも大丈夫だって」

 近藤くんから見たら、そうなんだなあ。私。
 彼はやけに自信満々だし、すぐ文句は言うし人に当たったりするけど、間違ってると判断したことにはちゃんと謝罪する。
 いい人、なんだよなあ……。
 私はそう思いながら、スコアをちらっと見てから「買い物に行く?」と促した。
 デートの作法なんてわからない。もしかしたら、近藤くんからしてみたら、ただ同級生と遊びに来た感覚なのかもしれないけれど。
 この時間が続けばいいなあ……。そう思ったときだった。

「もう、光太ってばいっつもそんなんだから!」

 聞き覚えのある声に、私は固まった。
 私たちの遊んでいた音楽ゲームの裏には、クレーンゲームがある。クレーンゲーム越しに見える女の子の集団には見覚えがある。
 あの子たち、全員天文部だ。ちらっと見た限り、恵美ちゃんがいないのは、彼女は彼氏とデートだからだろう。甲高い声を上げているのは、天文部の中でも特に可愛い同学年の女の子だ。たしか……島谷(しまたに)さん。
 その女の子集団の中で、ひとりだけ男の子が見える。当然か。アクティブな男子の天文部員は篠山くんしかいないはずなんだから。「光太」と呼ばれた彼の顔はここからだと見られないけど、困ったように口を尖らせているような口ぶりだ。

「そうは言ってもさあ。セールなんだし。だから次は量販店な?」
「磨けば光るのにそんなことばっかり言って!」
「ここもうちょっといい服あるでしょ!?」
「お前ら俺の財布にちっとも優しくないなあ!?」
「あっはっはっは。光太郎、お前ほーんと所帯じみてんなっ! いい嫁さんになれるぞ!」
「茶化さないでくださいよ~」

 庶民的で庶民的な反応ばかり示す篠山くんに、女の子たちは当然ながらブーイングする。それを豪快に笑い飛ばしているのは、瀬利先輩だろう。こちらからも黒いTシャツでジーンズっていう普通の格好にも関わらず、スタイルがいいばかりにちらちらと皆が見とれてしまう彼女が見てとれた。
 あまりにも覚えのある光景だ。天文部では、力仕事を篠山くんがやって、その周りを女の子が取り囲んでいるという光景が日常的になっていた。
 女だらけに男がひとり。普通はなにかとやっかまれそうだけれど、瀬利先輩をはじめとして、女子のアクが強過ぎるせいで、誰も表だっては羨ましがらなかった、日常的な光景。
 ……少し前の私は、その中にいたはずだった。
 何度も何度も頭の隅に追いやったのに、今日は本人たちが少し近くにいるせいで、今まで以上にリアルにその光景を思い返してしまう。
 気付いたら、私の体は強ばっていた。
 ……逃げないと。そう思っているのに、体はピクリとも動かない。今の彼は私のことを知らないんだから、素知らぬ顔して通り過ぎればいい。頭ではわかっているのに、クレーンゲーム一台向こうに彼がいるとわかったら、怖くって動けなくなっていた。
「……おい、佐久馬?」

 その声で、私は一気に現実に引き戻された。それでも、体は強ばって動けず、ただプルプルとしながら、近藤くんを見上げていた。
 まさか今回は一度も会ったことのない人を本気で怖がって動けなくなっているなんて、言える訳もなく、ただ逃げ出したいけれど体が動けないでいる。
 近藤くんは顔をしかめると、私が凝視しているクレーンゲーム機のほうを見て、女の子集団に目を留める。

「あれって、うちの学校の奴らか? 誰か、会いたくない奴でもいんの?」

 そのひと言に、私は必死で首を縦に振った。
 声帯まで強ばってしまって、声がまともに出てくれない。気持ち悪くって吐きそうで、えずきそうになるのをどうにか必死で堪えている。
 そのとき、近藤くんがぐいっと私の手を掴んだ。彼の手は私よりも大きくってグローブみたいだ。おまけに、剣道やってるせいかボコボコの豆ばかり当たっている。
 私が手に感心が移っている中、近藤くんはあからさまに顔をしかめた。

「佐久馬、お前マジで大丈夫か? 手が無茶苦茶冷たいぞ」

 それで私は近藤くんに手を引かれるまま、ゲームセンターを後にした。ゲームセンターからフードコートまで行ったところで、ようやく手を離してもらったけれど、私の唇がプルプルと震えて歯が勝手にカチカチと鳴る。今は夏で暑いはずなのに、気のせいかひどく肌寒い。

「……佐久馬、お前大丈夫か? あいつら誰だ?」

 そう聞かれ、私はたじろぐ。
 あの子たちとは同じ部活だったから知っていたけれど、クラスも小中も違うから、天文部以外に接点がない。今の私は天文部じゃないから、怖がっている理由なんて説明ができない。
 だから私はぶんぶんと首を横に振るしかできなかった。でも私の反応があからさまにおかしかっただろう。さすがに近藤くんも見逃してくれなかった。

「隠すな。お前マジですっげえ顔してるから、なんもない訳ねえだろ」

 そう言われても。どうやって説明すればいいんだろう。
 視線をさまよわせている私の目を、近藤くんはじっと見ている……彼は誠実な人だ。これだけ心配してくれているのに、なんの説明がないのは心苦しい。
 私は困り果てた末に、「前にね」とだけ前置きしてから、言葉を探しはじめた。いくらなんでも、本当のことを一から十まで言っても納得してもらえないけれど、嘘をついても見逃してもらえるとは思えなかった。
 だから、嘘ではないけれど本当でもない話をして、お茶を濁すしかできなかった。

「……好きな人がいたんだ。その人のことが好きだったけど、その人、女の子に人気でね。いっつも女の子に取り囲まれている人だった……だから私、すぐに諦めちゃったんだよね。仲のいい友達として、ずっと一緒にいれたらいいなって、そう思ってた」

 聞いている近藤くんは仏頂面だった。まるでなにかに耐えているような表情で、私は胸がシクシクと痛むのを感じていた。
 近藤くんはなにも悪くない。「今の」篠山くんはそもそも私を知らない。だから、そんな顔する必要なんてこれっぽっちもないのにと思わずにはいられなかった。

「でも皆が勝手にひとり諦めふたり諦め、気付いたら好きな人の周りに誰もいなくなったの。友達として一緒にいた私以外いなくなったから、もしかしたら今だったら言えるかもしれないって思ったの」

 口にしてみると、なんて身勝手な話だとも思う。
 気持ちなんて、一日や二日で変わるものじゃない。好きになってもらう努力をしたのかどうかは、今の私には思い出せない。ただ、友達としての距離感を保つ、ときめいても気付かないふりをする努力という、不毛な努力ばかり繰り返していた気がする。
 自分の保身が第一な時点で、そこまで好きじゃなかったのかなとも記憶をかすめる。打算ばっかりなんだもの。
 でも、ならどうしてずっと勝手に傷付き続けてるんだろう。今の私は彼とは他人で、彼は私の存在自体知らないはずだから、とっくの昔に悩む必要なんかなくなっているというのに。
 近藤くんは私が思い出して、ときどき吐きそうになるたびに、そっと背中をさすってくれた。胸が冷えて、寒くて仕方なくなったときに、絶妙なタイミングでさすってくれるから、どうにか呼吸ができた。

「……告白したけど。その人、私の告白した数分後には、誰か別の人とキスをしていた。それからなの。モテる人を見ると、途端に吐き気がしたり、気持ち悪くなったりするようになったの……我ながら気持ち悪い話だと思う。変なこと聞かせてごめんね」

 そう言って無理して笑う。
 はあ、終わった。そう思ってしまう自分がいた。
 こんなに自分勝手なことばっかり言ってたら、いくら近藤くんがいい人でも、呆れてしまってもしょうがないだろう。ううん、女子の汚い部分を見せたんだから幻滅されてもしょうがない。
 近藤くんが「はあ……」と溜息をついた。
 やっぱり。そうどこかで諦めが付いたとき、近藤くんは不愛想に口を開いた。

「それ、全然笑うとこじゃねえだろ。どう考えてもお前が告白した奴が悪い。なんでお前だけが一方的に悪いみたいになってんだよ。お前、自分のこと被虐し過ぎ」

 意外過ぎる言葉に、私はしばし目をパチパチと瞬かせる。

「え……だって。今はいない人だよ?」
「なんというかさあ。お前はお前で、勝手に自分は傷付かないポジションに居座るってその態度は気に食わねえけど、なあなあで済ませておいしいところ取りすんのも、結局は傷付きたくないからだけだろ。お前が告白したあともよその女にちょっかい出してるそいつも相当気に食わねえ」

 そうばっさりと切り捨てたことに、私は拍子抜けして、目を再びパチパチとさせた。そして大きな手で、私の手を握ってきた。
 まだ私の掌には体温が戻ってきてないのを、まるで揉み解すようにして柔らかく力を込めてくる。近藤くんの手は温かくて、すっかり冷え切ってしまっている私の手には心地いい。
 私の手を揉み解しながら、近藤くんは気遣わし気な目をする。

「ここまでトラウマになってんのに、なんでお前が謝るんだよ。そっちのほうがおかしいだろ」
「だって……いつまで経っても忘れられないから……私、自分のことしつこいって、そればっかり」
「なんだよ、忘れられないくらいひどいことした奴が悪いに決まってんだろ。俺だってしつこい性格だから、嫌いなセンセから言われたことなんていつまで経っても忘れないし、いつか絶対生徒の前でズラ引っぺがしてやるとか思ってんからな?」

 そう言ってきたことに、私は思わず噴き出した。生活指導の先生の中には、カツラだと噂されている先生がいるせいで、自然と頭に浮かんできてしまう。

「なんで、いきなりカツラの話になるの……!」
「いや、俺もしつこいなあと自己分析しただけで」
「全然。近藤くんは全然しつこくないよ……! むしろ健全過ぎて……」

 さっきまで落ち込んで、催していた吐き気も治まり、全然体温の戻らない掌にも、ようやく体温が戻ってきた。それに気付いたのか、近藤くんは何度も何度も私の指先を揉み込んでから、ようやく手を離した。

「おっし、ようやく笑ったな、佐久馬も」
「うん……ありがとう、近藤くん」
「別に。お前がうじうじしてんのは、なんか惜しいと思っただけだし。それにさ」

 そう言って近藤くんはふいっと顔を逸らした。また彼の耳が赤くなっているのに、私はあれ、と目に留めていたら、ぽつんと近藤くんが呟いた。

「……別にさ、お前が手ひどい失敗したのって、別に悪くねえと思うんだよな」
「……打算って思わないの?」
「もっと友達囲って相手追い詰めるとか、SNSでひどい目に合ったとか言って拡散させるとか、相手に仕返しする方法なんていくらでもあんだろ。でもお前はそんなことしてないんだろ? 痛いのが嫌って、そんなもん当たり前じゃねえのか? 武道だってまず習うのは受け身だし」

 近藤くんの言葉に、私はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。
 彼は不愛想だし、無神経だし、悪いところだっていくらでも挙げられるけれど。
 なにかに対して一生懸命言葉を繋げることができるのは、素敵なことだなとぼんやりと思った。
 近藤くんは、「なんか、臭いこと言ったよな」と誤魔化すように頬を引っ掻いてから、フードコートの入り口のほうに視線を向けた。開いたばかりのフードコートは、まだ人の数もまばらだ。

「もうちょっとしたら混みはじめるけど、今だったら席取れるだろ。そろそろなんか食うか?」
「うん。なに食べよっか?」
「腹減ってるから、カツ丼かなんか食えねえかなあ」

 ふたりでフードコートを見回して、結局は近藤くんはカツ丼の特盛り、私はカツ丼の並盛りを頼んで、並んで食べた。
 フードコートも日々レベルが上がっているせいか、お店のようにサクサクでおいしいとんかつを味わえ、ふたりで並んで食べた。
 ドラッグストアで買い物してから、ふたりで適当にショッピングモールを見て回った。
 帰りに自転車を駐輪場まで取りに行くとき、山田くんに「あのさ、佐久馬」と言われ、私は振り返った。

「……お前のさ、トラウマ。どうにかなるといいな」

 一瞬意図がわからず、私は目を瞬かせながら、「うん」と頷いた。私の間抜けな反応に、近藤くんが一瞬顔をしかめたけれど、もう次の瞬間には自転車を跨いでいたから、もう表情の確認なんてできなかった。
 なんでそんなこと近藤くんが聞くんだろう。
 一瞬だけ、自分にとって都合のいい話が頭を掠めたけれど、それに私は真っ先に「NO」を突きつけていた。
 ……私が思っているぶんには、なんの問題もない。でもあっちも好きだって思うのは、どうかしている。
 ずっとズキズキと胸が痛いのは、私がわずかにも期待してしまったからだ。篠山くんは私のことを好きだと思い込もうとしたからだ。
 好きになるのは勝手だ。私の自由だ。でも。
 期待しちゃいけない。好きだと思っちゃいけない。近藤くんに勝手に期待して、勝手に傷付いて、また近藤くんに迷惑なんてかけちゃ駄目だ。だって。
 私の恋はいつだって身勝手なんだもの。そんな気持ちを近藤くんに向けちゃいけない。
 蝉の鳴き声がぐわんぐわんとこだましている。
 それを耳にしながら、掃除も終わって閑散とした教室で恵美ちゃんに涙目で訴えていた。
 窓を全開にしても、クーラーの埃っぽい匂いはちっとも取れない。私の訴えに、恵美ちゃんは困ったような声を上げた。……実際に困らせてしまったんだろう。

「あのさあ、そこまで思ってるんだったらさあ、ちゃんと告白したほうがいいよ。ほら、今さ、部の中無茶苦茶空気悪いじゃない。争奪戦? 皆が皆、互いの動きを見てカバディしてるみたいな感じでギスギスしてさ」
「……私はさ、別に。篠山くんに告白しても失うものってないんだよ。だって、もしフラれてもそのまま部活に顔を出さなかったら、別に会わないし。同じクラスでもないし。でもさ、私がフラれたのを見たらさ、他の子が告白する気になると思う?」
「うーん……それなんだよねえ……」

 私は自分が泣きながら恵美ちゃんに必死で訴えている言葉を、ただ傍観していた。
 これって私が死ぬ前のときのこと……だよね。たしか、篠山くんと瀬利先輩が付き合ってるんじゃないかって噂が流れたときだったと思う。
 元々幽霊部員が多かった部なのに、篠山くん目当てで入部する子が増えていたのが一転、彼が既に付き合っているという噂のせいで、一斉退部したんだったか。
 この間、近藤くんと一緒にゲーセンに行ったとき。篠山くんの周りにいた女の子たちのうちの何人かも、そのときに辞めたんじゃなかったかな。
 私は当時、園芸部の存在を知らなかった上に、活動の緩い部じゃなかったら困るからと、部を辞めることもできず、ただ恵美ちゃんに泣きついてどうしようどうしようと愚痴をこぼしていた気がする。
 そんな中、ガラッと戸が開いた。話をしていた瀬利先輩だ。白いセーラー服のリボンタイは取ってしまい、自由になった胸元からはチラチラと谷間が見えるのに、私たちはそっと目を逸らした。
 わかりやすく恵美ちゃんが顔をしかめたのは、恵美ちゃんがあからさまに女を武器に使ってくるタイプが嫌いだからだろう。

「よっす、恵美に由良。いま大丈夫か?」

 私と恵美ちゃんは思わず顔を見合わせると、私よりも先に恵美ちゃんが表情をポーカーフェイスにしてから口を開いた。

「なんですか? 今日は部活なかったですよね?」

 彼女のあからさまな棘をスルーして、瀬利先輩は続ける。

「うーん、じゃなかったら逃げられるかなと思ってさ。いやさあ、うちの部。今人がいないじゃん? でもあたしもそろそろ引退しないと駄目だしさあ。こりゃまずいなあと思って」
「はあ……」

 恵美ちゃんが乾いた返事をする中、私はおずおずと口を開いた。

「あの……今、部に人は?」
「色男がへーんな噂流れてるせいかさあ、部に人がいないせいで、文化祭の準備が全然はかどんなくって困ってんだよねえ。部から文化祭の実行委員会にふたりくらい出さないと駄目なのに、人がいなさ過ぎてそれもできないしさあ。だから戻ってきてくれない?」
「それ、身勝手だって思いません? だって篠山のあれって、あいつの自業自得じゃないですか。部の空気だって悪いしっ」

 瀬利先輩のマイペースな言葉に、当然ながら恵美ちゃんは噛み付いた。そもそも噂の元凶は瀬利先輩で、彼女からも篠山くんからも否定の言葉が聞けないから、怒ったり泣いたりして部に人が来なくなってしまったんだから。
 ……私は、辞めてしまった子たちのことを責めることは、どうしてもできなかった。事情がなかったら、私だって同じことをしていたと思うから。本当なら、恵美ちゃんみたいに怒るべきところなんだ、身勝手だとか、無責任だとかって。
 でも。私は篠山くんの家庭の事情を知っていた。
 彼の家は母子家庭で、うちの共働きと同じく、家事全般は彼がやっていたはずだから、今の部の現状じゃ彼に負担がかかり過ぎてるんじゃと思ってしまったのだ。
 いくら土日には家族がいるからって、土日に全部の家事を回すのは無理だよね。
 友達のよしみというのが半分、部に来ないせいで負担が一気に篠山くんにかかっているという罪悪感が半分。
 ……ここで部に戻ったら、少しは篠山くんが感謝してくれるかもしれないという下心がほんのちょっぴり。

「あの……篠山くん。今はどうですか?」
「ちょっと、やめときなってば由良!」

 恵美ちゃんが止めるのも聞かずに、気付いたらこの質問が喉をついて出ていた。
 それに瀬利先輩が目をくりくりとさせる。

「おっ、戻ってきてくれる気になったか、由良?」
「えっと……文化祭の準備に、教室の準備をするのがふたり、実行委員会に出向するのがふたりで、最低四人いれば、部は回るんですよね?」
「回る回る。うちはプラネタリウムだから、暗幕張りさえすればそれで作業は終わるし。部の展示の準備はふたりで事足りるし、出向メンバーさえ揃ったら文化祭もなんとかなるよ」

 瀬利先輩のその言葉に、私は恵美ちゃんをじっと見た。
 恵美ちゃんは瀬利先輩のことを本気で苦手視しているし、今回の篠山くんとの件で完全に敵視してしまっていた。彼女は彼氏がいるぶんだけ身持ちが固く、交際のことをはっきりとしない人間は皆不誠実認定してしまうのだ。……つまりは、恵美ちゃんは私が篠山くんに気があるのに反対な訳で。
 恵美ちゃんは私の目に、ぶんぶんと首を振る。

「あたし嫌だよ。わざわざ友達がいいように利用されるのを横で見るの」
「……お願い、私のわがままだよ。一緒に部に戻ろう?」
「……あいつ、人の好意を平気で踏みにじる奴だよ? ひどい奴だよ? 本当にいいの?」
「いいよ。これは全部私のわがままなんだから、篠山くんは関係ない」
「あんたのわがままは篠山のせいだってのに……わかったよ、戻ればいいんでしょ」
「ありがとう……っ!」

 私は恵美ちゃんに抱き着いて「暑い……!」の悲鳴を聞いていた。
 それを眺めながら、私は頭が痛くなっていた。
 なんて友達甲斐の人間なんだろう、私は。
 恵美ちゃんは何度も何度も、嫌われるの覚悟で本気で止めてくれていた。なのにふわふわしていた私は、ただ篠山くんに頼られたいというそれだけで、一度距離を取ろうと思っていたのに戻ってしまったんだから、本当に質の悪い大馬鹿だ。
 勝手に期待して、勝手に裏切られたと思って……勝手に事故で死んじゃった。
 そんな私のドロドロしている部分を、近藤くんは知らない。
 話せる部分はかろうじて話したけれど、私と篠山くんのことに関しては、どうしても私が死ぬまでの話まで語らないといけなくって、言える訳がなかった。そもそも、やり直しているなんてこと、どうやって説明できるっていうの。
 だんだんと視界がぼやけてきたのは、これが夢だからだろう。ううん、ここまではっきりしているんだから、これはただ私の記憶を再生しただけなのかも。

****

 窓の外からは、蝉の鳴き声がこだましている。
 私はタオルケットに顔を埋めながら、ぼんやりとさっきまで見ていた夢を思い返していた。
 ……なんであんな夢見ちゃったんだろう。もう戻れない夢だっていうのに。今の私のことを、篠山くんも瀬利先輩も知らないはずだ。
 そもそも。このふたりが付き合っているって噂が流れはじめたのは九月だったような……。私が泣きながら恵美ちゃんに相談したのは、たしか九月の半ばだったはず。
 ふたりが付き合っていたのか付き合っていなかったのかは、結局わからないままだった。
 今も付き合っているのかは定かではない。
 天文部幽霊部員の恵美ちゃんによれば「天文部にいるなんでモテているのかわからない」男子には、今も特定の彼女がいないらしい。
 でも篠山くんのことだ。周りにいっつも女の子がいるんだ。なによりも押しの強い瀬利先輩がいるんだから、今は付き合っていなくても、ふたりが付き合い出すのも時間の問題だろう。
 ……ううん、今の私には全然ふたりのことなんて関係ないのに。私は首を振りながら、ようやく起き上がる。
 夏休みに入ったから、少しだけ寝坊はできるけれど、やることは変わらない。
 洗濯物を急いで片付けたら、学校に行かないと。園芸場の水やりをしないといけないし。
 さっさと着替えると、洗濯機を倍速でかけ、その間にトーストとインスタントコーヒーの簡単な朝ご飯を済ませる。手早く洗濯物を干すと、そのまま学校へと飛び出していった。
 夏休みになったら、さすがに登下校路も学校も静かなもんだ。この中でも登校しているのは、大会前の運動部くらいだろう。
 剣道部はたしか、明後日からインターハイの会場に現地入りすると言っていて、今日が学校でする最後の稽古の日だと近藤くんが言ってたな。
 園芸場に来てみたら、鬼瓦先生が育てた畑が艶々とし、夏野菜もたっぷりと実っている。これ採らなくってもいいのかな。私はそう思いながら水道のホースを取ると、蛇口を捻りはじめる。これを採る採らないの権限って私にはないものね。
 私はそう思いながら、水を畑に撒きはじめる。葉っぱに水をかけてはいけない。あんまり日差しが強いときには絶対に水をやっちゃいけない。鬼瓦先生に何度も何度も口酸っぱく言われた通りに水をあげているとき、剣道場から竹刀と竹刀がぶつかり合う音が響いてきた。
 剣道部の稽古も、明々後日からはじまる試合に向けての総仕上げなんだろう。いつもよりもその音は激しい気がする。私はそう思いながら耳を澄ませていたとき。

「佐久馬?」

 そう声をかけられ、驚いてびっくりして振り返る。
 さっきまで稽古をしていたんだろう。むわりと汗のにおいを漂わせている近藤くんだ。胴着姿で首にタオルを引っかけていた。

「おはよう。練習お疲れ様」
「おう。明後日には行くから」
「何度も聞いてるよ、それは」
「なあ」

 私はいつものぶっきらぼうな近藤くんの言葉に相槌を打っていたら、ぽつんと声をかけてくる。
 思わず近藤くんを見ると、この間のショッピングモールのときと同じように、罰の悪い顔をして、明後日の方向を見ていた。
 彼はちゃんとしゃべらないといけないときは視線を逸らさない。逸らしているときは、大概罰が悪いからだ。

「……俺、優勝してくるから。もし優勝してきたら、言いたいことがあるんだけど」

 そう言われて、私は固まる。
 ホースを持つ力が水流に負け、たちまち私は顔に思いっきり水流をかぶってしまった。

「おい、佐久馬……!?」
「ご、ごめんなさい……! 思わず呆けて……!」
「ああ、タオルこれしかねえし……」
「別にいいよ! 水やり終わったらすぐに家に帰るから!」

 私はぶんぶんぶんと首を振って、水しぶきを飛ばす。
 あまりにもお約束が過ぎる言葉に、私は近藤くんが言い出したことの意図がわからなかった。

「なんで?」

 ぽろりと間抜けな言葉が漏れていた。

「……この間、買い出しに行ってからずっと考えてた。お前、すっげえフラれ方したせいで、卑屈になってるからどうすりゃいいのか」
「フラれてないよ。私が勝手に勘違いしただけだから」
「いや勘違いで吐き気するほど追いつめられるってアリか? ……いや、それはどっちでもいいんだよ。俺が嫌なんだよ。訳のわからん奴がずっとお前ん中にいるのが」

 そうきっぱりと言われて、私は思わず黙り込んだ。
 私だって、もう記憶全部失くして、イチからやり直せたらいいなとは思ってた。もう痛い思いなんかしたくない。自分のドロドロした部分と嫌というほど向き合うなんて、気分が悪くって嫌だった。
 私の中には未だに篠山くんが住み着いていて、何度忘れようとしても、なにかの拍子に彼の気配を感じて、気持ちが死ぬ前に引きずり戻されてしまう。
 私は、近藤くんをちらっと見た。凝視する度胸は、どうしても湧かなかった。

「あの、私」
「なんだよ」
「いいところ、ないよ? すぐ落ち込むし、落ち込んだらズンドコまで落ち込むし、人の好意を素直に信じられないひねくれ者だし、特に美人でも可愛くもないし……」

 口にしてみればしてみるほどに、情けなくなってくる。どうして近藤くんがこんな私に声をかけてきたのか、本気でわからないからだ。
 でも。

「うるせえ」

 そのひと言で私の言葉を遮ったのも、近藤くんだった。

「うるせえ、いくらお前でも、これ以上自虐辞めろよ!? 本気で怒るぞ!」
「もう怒ってるじゃない!」
「これは怒ってんじゃねえよ、叱ってんだよ。ああん、もう。……とにかく、覚えとけ。お前、俺が優勝するよう、家で祈っとけ」

 告白するぞってあれだけわかりやすく言っているのに、こんなに上から目線の言葉なんてあるのかな。
 私はどうしようと思いながら近藤くんを見ていたけれど、彼は顔を真っ赤にして、「ふん」と鼻息を立てるものだから、本当に勝つ気なんだなということはよくわかった。

「……うん、返事考えとく」
「おう」

 言いたいことだけさんざん言って、そのまま近藤くんは剣道場へと帰っていった。
 残していった汗のにおいを嗅ぎながら、蝉時雨を一身に浴びる。
 私が彼に告白したのは、二年生の夏合宿だった。今は一年の夏で、部だって、状況だって、人間関係だって、全然違う。
 もう、いいんじゃないかな。少しだけそう思う。
 私は私を、そろそろ甘やかしてもいいんじゃないかな。近藤くんみたいな人、もう会えないと思う。
 なりたくて卑屈になったわけじゃないけど、そんな私がいいって言ってくれる人、次はいつ会えるかわからないんだもの。
 一通り水やりを終え、ようやく蛇口をひねってホースを片付けたとき。
 私は蛇口の下になにかが転がっていることに気付いた。

「え……?」

 丸いそれは、青く光っていた。縁日とかでよく見るゴムボールかなと思って拾い上げて、気が付いた。
 これ、天文部のオブジェ……文化祭のときに、やる気のない天文部がそれっぽく見えるようにと太陽系をつくって展示するときに使う、海王星のオブジェだ。
 私はがばっと頭上を見上げる。校舎裏にある園芸場は、天文部のある旧校舎……だったと思う。
 まだ文化祭の時期じゃないのに、準備して出さないのに、これが落ちてるなんておかしい。
 なにか一瞬ヒヤリとしたものが胸に走るような気がしたけど、それにぐっと耐えた。
 ……考え過ぎだ。私はセーラー服の胸元を掴みながら、一度拾ったオブジェをその場に戻した。
 これを拾って天文部に届ける度胸はなかったし、そもそも天文部は夏休み中は全面的に活動自体中止していたはずだ。合宿はあったけど、恵美ちゃんからは参加の話は聞いていない。あんまり参加人数少ない合宿だったら中止になるんじゃないかな。
 できる限り自分に都合のいい筋道を思い浮かべて、私はすぐにその場を立ち去った。
 インターハイに剣道部が出発してからというもの、私は近所の神社に行って、手を合わせていた。
 近藤くんが無事に勝ちますように。
 家に帰って家事を片付けつつ夏休みの宿題をしながらでも気が気じゃなくって、何度もスマホでインターハイの試合状況を確認していた。
 うちの学校の試合は夕方のギリギリにはじまるとわかると、慌てて家事を片付けて、SNSの現場で応援に来ている人の言葉を一期一句見逃さないようにと、たどたどしくそれをたどっていた。
 肝心の試合はどうなったんだろう。個人戦に出ているはずの近藤くんはどうなったんだろう。ハラハラしていたところで、いきなりスマホが震えた。
 アプリで通話してきたのは、この間買い物の際にアプリのIDを交換した近藤くんからだ。私はそれに恐る恐る手を取る。

「もしもし……?」
『よっ』
「近藤くん……! あの、試合どうなったの? 今日が一回戦で……」
『勝った。あと四回勝ったら決勝』
「すごい! 本当にすごくって、すごい!」
『なんか日本語おかしくねえ?』
「えっと……ごめん」
『だから別に謝んなって』

 あんまりにもあっさりと言うので、私はすぐにお祝いの言葉が出てこず、ただ馬鹿みたいな言葉をうわ言のように言うことしかできなかった。
 近藤くんにいなされながら、私はどうにかしてお祝いの言葉を引きずり出す。

「えっと、おめでとう……! 本当に、すごい!」
『サンキュ。ちゃんと待ってろよ? いつもの園芸場でいいよな?』
「えっと」

 普段だったら、「うん」と即答したところだけれど。
 私はそれがどうしてもできなかったのは、園芸場で見つけたオブジェのせいだった。それが怖くってどうしようどうしようと悩んだ末に、「夏風邪」と嘘ついて、園芸部のやる気のない顧問に電話して水やりを変わってもらったくらいだ。
 しばらく悩んだ末に、「剣道場」と言う。

「剣道場裏じゃ……駄目かな?」
『ええ……? 他の奴らいるだろ』

 当然ながら近藤くんから嫌そうな声が上がった。でも剣道部の先輩たちは、少ししかしゃべったことがないけれど、人の恋愛にとやかく言うタイプじゃないみたいだし、少なくとも邪魔はされないと思う。
 ただでさえ天文部は怖いし、篠山くんの気配には近付きたくなかった。あの季節外れのオブジェのせいで、嫌でも天文部と篠山くんの存在が頭から離れてくれない。だから、少しでも人目が付く場所がよかったんだ。

「やっぱり剣道場裏がいい。皆いい人たちみたいだから、祝福してくれると思う」
『んー……皆大きなお世話っつうか、これも「早く彼女に電話しろ」って言われたんだけど。別に言われなくってもすんのに』

 近藤くんがそうごにょごにょ言うのに、私は思わず笑った。鬼瓦先生も、剣道部の人たちも、皆いい人たちだから、きっと悪いことにはならない。

「じゃあ勝ってね。待ってるからね」
『……おう、途中で負けるようなことはしねえから』
「うん」

 そう言ってから通話を切り、私はベッドにダイブしてしまった。ころんころんと転がるのは、彼がいったいどんな顔で帰ってくるのかわからないからだ。
 きっとぶっきらぼうな顔で、武士のような形相で、剣道場裏に私を呼び出すんだ。まるで果たし合いみたいだと、きっと恵美ちゃんがからかうけど、私はそれでいいの。
 近藤くんといるときだったら、私は不安にならない。だから……。
 ようやく薄くなってきたはずなのに、未だに頭に浮かぶキスシーンを必死で振り払う。
 お願いだから、私の中から出ていって。もうこの記憶はいらない。私には必要ない。私の好きな人は、あなたじゃない。そう必死で振り払っていた。
 試合は三日間で、全部で五試合。今日勝って、明日も二回勝って、明後日二回勝ったら……私は告白される。
 返事の準備をしないと。少女漫画のセリフは私には歯が浮いてしまうようで様にならなくて、ドラマのセリフもいまいち。私はいったいどんな返事をすればいいんだろうと、必死で言葉を考えることに専念した。
 不安に潰されてしまわないよう。私の中に住み着いてしまっているなにかに負けないよう。

****

 その日も蝉の鳴き声は元気だった。
 けたたましい蝉の鳴き声を耳に、私は学校へと向かった。
 インターハイが滞りなく終わったあと、近藤くんから短くメッセージが届いたんだ。

【優勝した】

 それだけで、私は馬鹿のひとつ覚えで【おめでとう】の言葉と一緒にスタンプを連打していた。
 そして、こうして剣道場裏に向かうことになったんだけれど。私が学校に辿り着いたときには、既にバスが止まっていた。きっと夏休み明けの全校朝礼で、表彰されることになるんだろうな。
 そうぼんやりと思いながら、校門を通り抜ける。既に地区大会に向けて、どこかの運動部が走っているのが見える。この暑さだと、こまめに休みを取りながらの練習になるんだろう。
 剣道場裏に足を向けている中、この数日誰の気配もなかった剣道場がざわついているのがわかった。

「これからも鍛錬を怠らないように、今回の優勝を胸に、励みなさい……」
「はいっ!!」

 鬼瓦先生の淡々とした説教のあとに、礼が飛んでいる。そのあとに開けっ放しの剣道場の戸から、近藤くんが出てきた。

「よっ、ただいま」
「あ……あの……お帰りなさい」

 ほんの少ししか離れていなかったし、アプリでのやり取りは通話も含めてずっとしていたけれど。久しぶりに顔を合わせた近藤くんの態度に、この数日占めていた胸の冷たさが氷解したように思えた。
 私が心底ほっとした声を出すのに、またも近藤くんは眉間に皺を寄せた。

「んだよ、またやなことでもあったのか?」
「そんなこと、ないよ! ただ、近藤くんに久々に会えたのに、ほっとしたというか……」
「ずっと連絡は取ってただろうが」
「そ、れでも……! ちゃんと声が聞きたかった、から……」

 言っていて、だんだん恥ずかしくなり、背中が丸まってく。近藤くんの顔もだんだんと火照ってきたのは、なにも夏のせいだけではないだろう。
 近藤くんは耳までを真っ赤に染め上げて、ガリガリと頭を引っ掻く。今日はインハイ帰りのせいか、皆でミーティングをしただけで、稽古はないらしい。近藤くんからは制汗剤の匂いだけがした。
 近藤くんは黙って私の手を取った。この数日ずっと試合に出ていたせいか、大きな手にはボコボコと固い豆が擦れた。

「とりあえず、向こう行こう。なんか知んねえけど、園芸場は嫌なんだろう?」
「ん、ごめんなさい」
「いや、別に。ただそこまで佐久馬が怖がってる奴、殴りてえって思っただけで」
「だ、駄目だよっ……! 喧嘩したら、大会出場停止になっちゃうんでしょう……?」

 運動部の、特に武道系の部活では、喧嘩は部活動停止、下手したら退部くらいの強い処置だったはずだ。
 私が必死でぶんぶんぶんと首を振ったら、近藤くんは唇の端を持ち上げた。

「別に本当に殴ったりしねえ。ただ、落とし前を付けたいとは思っただけだ」
「本当に……大丈夫だからね?」
「わかってる」

 ふたりで手を繋いで、剣道場裏に着いた。後ろはコンクリート塀で囲まれているし、剣道場裏も下の戸は開かれているけれど、今日は本当にミーティングだけのせいか、もう今日は帰って行っているみたいで、人の気配もはけてきた。

「なんか、わざわざ言うのも変だって思うけど。お前、俺が帰ってくるまでに、返事考えてきたか?」

 近藤くんがひょいと私から手を離して聞いてくるので、私は思わずうつむいた。
 早く会いたいとばかり思っていて、肝心の告白の返事はどうすればいいのかわからなかった。
 告白したのだって、死ぬ前に一回したことがあるだけで、告白の返事をするなんて贅沢なこと、今までに一度だってない。
 私はちらっと近藤くんを見る。
 さっきまで、淡々としていたのが、顔を火照らせてしまっている。
 思えば。最初の印象は本当に怖かったはずなのに、気付いたら好きになっていたんだから、どう転がるのかなんてわからない。
 自分がちょろいのか、近藤くんがどうしようもないのに引っ掛かったのか、どっちなんだろう。
 私は人を好きになったら視界が狭まってしまう。ふわふわしてしまうから、この感情のままに突っ走っていいのか、未だに怖い。でも。
 近藤くんは。悲しい想いをさせないだろうなとだけは信じたい。ううん。信じてる。

「……あー、佐久馬に先に言わせるのは卑怯、だよなあ。あー……佐久馬」

 スー、ハー、スー、ハー。
 呼吸を整えた近藤くんからは、さっきまでの火照りは取れ、こちらのほうをじっと見てきた。

「好きだ」

 そのひと言で、私はポロッと涙が溢れた。
 大丈夫。近藤くんは私に、悲しい想いをさせない。大丈夫。この人はいい人だから。
 いい人だからこそ、幸せになってほしい。私なんかよりももっといい子がいると思うけど。でも。
 私がポロポロ泣き出したのに、ぎょっとした顔をして、近藤くんは寄ってきた。

「おい、お前。そこまで泣くなって!」
「あ、の……嬉しいの。嬉しいけど、でも……」
「……また、『私なんか』とか言うのはなしだからな?」

 私が言うより先に、近藤くんに釘を刺されてしまい、私は言葉を喉に押し留める。代わりに、言葉が出た。

「わ、たしも……好き。です……でも……」
「まだ、吐きたいほど嫌なあれ、忘れられないってか?」
「ご。めんなさい……」
「うーんとさ」

 近藤くんはボリボリと頭を引っ掻いたあと、私を引き寄せてきた。体が密着したことで、ようやく抱き締められたということに気付く。
 互いに汗をかいているから、私は必死に今日振りかけてきた制汗剤の中身を思い出そうとしていた。まだ取れてない、とは思う。

「暑いよ?」
「うるせえ……あのさ、記憶っていうのは、匂いで上書きできるとか、ネットで見た」
「えっ?」
「俺いっつも剣道やってるせいで、匂いっつうと汗か制汗剤か、あと園芸場の土の匂いかのどれかなんだわ。もう俺の匂いだけ覚えときゃ、上書きできんだろ」

 そう言って、抱き締める力を強くする近藤くんに、私は思わず顔の筋肉がふにゃふにゃになるのがわかった。
 答えなんて決まっているのに、私のほうが馬鹿だ。土壇場になってパニックに陥って、思ってもないことを口にして、近藤くんを困らせるなんて。

「好き……です。よろしく、お願いします」

 言葉にした途端、すっと気持ちは軽くなった。近藤くんはしばらく黙ったあと「……おう」と返事をした。
 こんな夏に互いに汗をかいて抱き合うなんて、おかしいったらない。でも。
 ようやく、私は自分の「好きだった」気持ちを置いて、「好き」だけを持って前に進める。

 ……そう、思っていたんだ。
 九月に入ったけれど、未だに残暑は厳しく、空調が効いてなかったらもう授業に集中なんてできない。

「なんでそんな大事なこと言わないの……! いくらでも報告できたでしょ! アプリとか通話とかでいくらでも……!」

 夏休み中に、近藤くんに告白され、お付き合いをはじめた。ひと言で言ってしまうとそれだけのことだけれど、そのことを恵美ちゃんと奈都子ちゃんに報告したら、抱き着かれてからさんざん怒られてしまった。
 夏休みだからずっと彼氏と過ごすと豪語していた恵美ちゃんに、夏休みだからとバイトに精を出して貯金をしていた奈都子ちゃんに、私の報告をしても、ただののろけ話と取られてしまうような……と思って遠慮してたんだけれどな。
 さんざんふたりに怒られて抱き締められたあと、ようやく離してくれたときには、私もヘロヘロになってしまっていた。

「まあ、でもおめでとう! 近藤くん? そいつが由良を泣かせたって聞いてたからいけ好かないって思ってたけど、まさか順調に交際に発展するとは思ってなかったわ!」
「あはは……ありがとう。私も不思議なんだけどね。全然接点がない人だったから、告白してくれたのも、付き合いはじめたのも、本当に今でも本当なのかわからない。いい人だから」
「もういっちょ前にのろけちゃって! このこの!」

 私がしんみりと言うのに、恵美ちゃんがグリグリと頭を小突いてくるのに、私は笑っていた。
 私たちのじゃれ合いを、奈都子ちゃんはしみじみと言う。

「そうだねえ。剣道部も大会常連だから、あんまりデートとかできないと思うけど、それわかってるんだったらいいんじゃないの?」
「こら、奈都子。せっかく由良の初カレシなんだから、素直に祝福してあげなって!」
「でも会ってる時間の長さって、付き合うとなったら重要だと思うんだよね」
「遠距離恋愛中のあたしに対する嫌みかっ!?」

 恵美ちゃんのグリグリは私から奈都子ちゃんに移行し、ふたりがキャッキャしているのを私は笑いながら見ている。
 本当に。ひとつ入る部活を変えただけでこうも変わっちゃうのは不思議だなと思ってしまう。何個も何個も選択肢があって、そのひとつを捨てて別のを拾っただけで、こうも前のときとは変わっちゃうんだなと思う。
 夏休みが終わり、いよいよ本格的に文化祭の準備がはじまり、学級委員として文化祭実行委員会のほうにも顔を出さないといけない奈都子ちゃんは、顔を合わせるたびに「しんどい」「しんどい」と言っていて大変そうだ。
 恵美ちゃんは恵美ちゃんで、「真面目に部のほうに出てみたら、人が無茶苦茶辞めててねえ。先輩に手を合わせられて仕方なく顔出してる感じ」とこぼしている。どうも、前のときと同じく、大量部員退部の騒動は起こっているらしかった。
 まあ、今の私には関係のない話だ。
 園芸部と天文部は文化祭で使っている教室も違うし、ほとんど幽霊部員オンリーのうちの部は、唯一のアクティブ園芸部員の私が文化祭実行委員の出向メンバーに出たら話にならないということで、顧問と鬼瓦先生の話し合いの末に、剣道部員からメンバーを差し出すことになったから、実行委員会のほうでも顔を合わせることはないだろう。
 文化祭の準備が本格的にはじまったら、文化祭に展示を出す部活は授業中でも公休扱いになって、文化祭の準備のほうを優先できる。
 まだ二学期がはじまったばかりだけれど、うちの園芸部も剣道部と合同で展示をすることになる。
 クラスも取っている選択授業も違うから、部活くらいでしか一緒にいられない近藤くんと、もうちょっとだけ一緒にいられるようになる。
 私がそのことをぼんやりと想像してたら、恵美ちゃんがにかっと笑って私に抱き着いてきた……って、なに?

「どうしたの」
「いやねえ。まさか由良からこんな話を聞けるようになるなんてねえと思っただけで。お祝いしないとねえ」
「別にいいよ。私も付き合い悪いほうだし」

 家事優先でなかなかファミレスにもハンバーガー屋にも寄れない付き合いの悪さは折り紙付きで、それでも友達でいてくれる恵美ちゃんや奈都子ちゃんは貴重なんだ。
 でも……私は少しだけ「あれ?」と思った。
 いつもだったら、私も彼氏のことがあるって、なにかにつけて彼氏の話をしてくるのに。今日は私の話で盛り上がって、対抗してこない。
 遠距離恋愛……正確には他校同士で付き合っているのだけど、彼氏さんは浮気するような人じゃないだろうし、喧嘩でもしたのかな。
 私が首を傾げていると、クラスメイトの男子が「木下(きのした)ー」と恵美ちゃんを呼んでいるので、私たちは男子のほうに顔を向ける。

「部活の人が呼んでる」
「あっ、そう。わかった。ちょっと行ってくるね」
「行ってらっしゃいー」

 恵美ちゃんはそのまま教室を出て行った中、奈都子ちゃんは机に乗せていたクッキーを食べる。

「恵美も最近は部活によく顔を出してるみたいなんだよね」
「あれ? 恵美ちゃん彼氏優先なのに……?」
「なんでも、彼氏と喧嘩中なんだってさ。今あの子不安定なんだよね。悪い奴に引っかからないといいんだけど」

 奈都子ちゃんの何気ないひと言に、私はギクリとした。
 他校同士で付き合っていたら、どんなにアプリや通話で頻繁にやり取りしていても、距離が遠ざかってしまう。
 もしそこで甘い言葉をかけられてしまったら? 優しくされてしまったら? ……弱っているときにこそ、人は近くの優しい人に寄って行ってしまう。
 ……前のときは、篠山くんと恵美ちゃんは同じ部っていう共通事項以外は特になかった。なによりも恵美ちゃんは私が篠山くんのことを好きだって知っていたし、彼氏と喧嘩することもなかった。
 今の私は篠山くんと接点はない上に、近藤くんとお付き合いをはじめた。
 今の情緒不安定な恵美ちゃんがもし、篠山くんに優しくされてしまったら、そのまま恵美ちゃんも落ちてしまうんじゃ……?
 考えていてぞっとしたけれど、同時に首を振る。
 ……それはいくらなんでも、恵美ちゃんに対しても篠山くんに対しても失礼だ。彼氏がいるんだから、すぐにはい次って行くほど恵美ちゃんもノリは軽くないし、いくら篠山くんが変に女の子にモテるからって、自分から下手な修羅場はつくらないでしょう。
 でも胸騒ぎがどうしてもする。
 仕方なく、私は「ちょっとスマホ使うね」と奈都子ちゃんに断ってから、アプリの家族グループにメッセージを投げ込んでおくことにした。

【今日は学校の用事に捕まったから、ご飯は残り物でチャーハンね】
 今日は園芸部の予定はない。せいぜいまだ残暑が厳しいから水やりしてしまったら終わりだというくらいだ。
 部活がないのに園芸部や天文部の使っている旧校舎に向かうのは、正直言って気が重い。特に、天文部に覗き見しようとする自分はなんなんだとついつい思ってしまう。
 私は既に付き合っている人がいるのに。もう会わないって決めたのに。なんで前に好きだった人に会いに行こうとしているんだろう。
 そう身勝手な自分が訴えるけれど、それに私は首をふる。
 ……これは恵美ちゃんが心配だからだ。
 恵美ちゃんの柔らかい部分に篠山くんが入っていったらと思うと……正直、気分が悪い。
 友達の破局の危機なのに、なんで自分のことばっかり考えるんだ。私は最低か。そう階段を一段進むたびに自己嫌悪が募っていく。
 のろのろしていても階段はいつかは途切れる。気付いたら天文部の使っている科学室の前に辿り着いていた。
 ……なにもなかったら、それでいいんだ。
 恵美ちゃんが変なことさえされなかったら、それで充分。
 だって、今の篠山くんは私のことを知らないはずなんだから。
 私はそう思いながら、戸の窓からそっと中の様子を伺った……。
 中の窓は開けているらしく、黄ばんだカーテンがはためいている。

「ちゃんと彼氏と連絡取ったの?」
「……取れないんだよ。何度やっても繋がらない。もう駄目なのかな、あたしたち」

 いつも聞いている恵美ちゃんの声よりも、一オクターブほど声が低いし、覇気がない。いつもの恵美ちゃんの快活さは、すっかりとなりを潜めてしまっていた……私たちとは、あれだけ普通にしゃべっていたはずなのに。
 恵美ちゃんは行儀悪くも、科学室の丸椅子に三角座りをして、膝に顔をうずめてしまっていた。
 彼女の癖のついた髪に、女子よりも大きめな手が伸びて、彼女の癖毛を伸ばすようにして撫でている男子。
 その姿を見た途端に、鮮明に思い出してしまっていた。
 彼はイケメンではない。黒い短く切り揃えた髪の男子が、制服を特に着崩すこともなく着ている。身長だって私よりは高いけれど、近藤くんよりも低い。中肉中背でないだけで、スタイルがひどくいい訳でもない。でも女家系のせいか、ひどく女子を安心させてしまうオーラをまとう、ごくごく普通の男の子。家事全般のせいか、手は年頃の男子よりも乾燥していて爪のあちこちがささくれ立っている。
 ……間違いなく、篠山くんだった。
 篠山くんが心底困った顔をしながら、恵美ちゃんの頭を撫でていた。

「部に出てくれないと困るんだけどさ、あんまり彼氏のこと放っておくなよ?」
「ん……ありがとね、篠山」

 男女間の友達にしては明らかに距離感がおかしいけれど、カップルにしては甘酸っぱい空気もけだるい雰囲気もないという、不可思議な光景。頭を撫でる篠山くんには、すこんと下心が消え失せ、普段は彼氏がいるために身持ちの固く警戒心の高い恵美ちゃんの警戒心が緩んでしまっている。
 私はこれにどう反応しようと迷っていたとき、ふいに篠山くんの恵美ちゃんを撫でる手が止まった。

「ん、誰?」

 そう言って戸の方へと向かってきた。
 って、まずい……! 私は慌てて後ずさりするけれど、それより先にガラリと音を立てて戸が開いた。それに驚いて、ベチャンと廊下に尻餅をつく。
 篠山くんは心底きょとんとした顔で、私のほうを見下ろしていた。

「ん? 入部希望? なわけないか」
「えっと……! と、友達が、今日元気なさそうだったから、様子を見に……!」
「あれ、木下のクラスメイト?」

 それに私は首を縦に振る。
 ……当たり前だ。向こうが私のことを知っている訳がない。だって、今の今まで、話しかけたことすらなかったし、そもそも会ったことだってなかったんだから。
 私は自分が挙動不審じゃないかと必死に考えるものの、頭がぐるんぐるんとしてしまって、上手く働いていない自覚がある。
 こちらが勝手にぐるんぐるんしている間に、科学室の奥から恵美ちゃんが出てきた。

「あ、由良! 今日は用事あったのにどうしたの……!」
「うん……そうなんだけど、今日は恵美ちゃん様子がおかしかったから、どうかなと心配しちゃって」
「あー……ごめん、篠山。今日はまだ文化祭の準備ないよね? 友達迎えに来たから、先に帰るわ」
「おう、お疲れ」

 私は恵美ちゃんのほうを見つつも、恵美ちゃんの傍に立っている篠山くんを盗み見た。
 彼はあくまで平常心なのに、私は少しだけ「あれ?」と思う。
 恵美ちゃんは彼氏とのことで揉めているんだから、それを慰めていた。それは私も盗み見ていたからわかる構図なんだけれど。
 ここって、普通。ふたりはただの友達同士ですってアピールするところじゃないのかな。
 篠山くんはいつだって、付き合ってる付き合ってないことははっきりと口にしていたはずなのに。それとも。
 思い返すのは、瀬利先輩と付き合ってるという噂が流れたときのこと。あのときも、否定も肯定もしなかった。
 なんで同じことを、恵美ちゃんにするの。
 まさか……。一瞬思いそうになり、私は浮かんだ仮説を必死で否定した。いくらなんでもそれはゲス過ぎるし、恵美ちゃんに対して失礼だ。
 私が勝手にぐるんぐるんと考え込んでいる間に、やんわりと篠山くんは口を開いた。

「ええっと、君も木下心配してくれたんだろ? 見てやってくれな?」

 そうの穏やかな言葉に、私はどぎまぎするのを抑え込みながら頷いた。


「うん。ありがとう」

 私は今、ちゃんと受け答えできているだろうか。なにも知らない恵美ちゃんが不審がるような声になっていないだろうか。努めて見知らぬ同級生としゃべっている体を保っていたけれど、私の心臓の激しい鼓動が耳について仕方がなかった。
 ……落ち着け。あっちは私のことを知らないはずだし、そもそも私は既にお付き合いしている人がいる。彼と私は赤の他人なんだから、変な邪推はしない。
 自分にそう必死で言い聞かせながら、鞄を携えてきた恵美ちゃんと一緒に帰っていった。
 手を振って見送る篠山くんにチクリとしたものを感じたけれど、それに気付かないふりをする。
 前はさんざん吐き気がこみ上げてきて、実際に何度も洗面所に駆け込んだけれど。今は近藤くんのおかげだろう。吐き気も胸をつっかえるような気持ち悪さも襲ってこなかったことに、私は心底ほっとした。

****

 私は恵美ちゃんと一緒に、本当に珍しくファミレスに入った。普段は忙しくって、なかなかファミレスで時間を潰す暇すらないからだ。
 ドリンクバーで適当にジュースとアイスティーをブレンドしてフルーツティーをつくって、席に戻る。

「どうしたの、恵美ちゃん。最近なんかおかしかったけど……彼氏さんと上手くいってたはずじゃない」
「……それ、聞いたの? 奈都子から?」

 普段はばっさりとしているのに、珍しく恵美ちゃんが弱っているのに、私も言葉が詰まる。

「……ごめん」
「別にいいんだけどさ。でもね……うん」

 恵美ちゃんはズズズとフルーツティーをすすりながら続ける。

「夏休み中は上手くいってたんだ。普通にデートしてたしね」

 やっぱり夏休み中はずっと一緒にいたんだなと納得していたら「でもね……」と恵美ちゃんは言葉を詰まらせる。
 私はフルーツティーをちびちび飲みながら続きを待っていたら、恵美ちゃんはぽろっと涙をこぼした。

「……夏休み終わってから、急に彼氏がよそよそしくなって、少しずつアプリの返信が遅れてくるようになったの。本当に心当たりがなくって……」
「それだけだったらわからないよね。彼氏さんと会ってお話したの?」
「……二学期に入ってから、急に彼氏学校の都合で忙しくなって、会いに行こうとしても止めるの。全然理由がわからないし、電話は繋がらないし……これでアプリまでブロックされたら、あたしどうしようって……」

 いくらなんでも、これはおかしい。
 私の知っている彼氏さんは、律儀で誠実な人だし、恵美ちゃんの真面目な性格を知っているから、下手に誤解されるようなことはしないはずだ。
 ただ。ひとつだけ心当たりがあり、私はずっと胸の中で警鐘が鳴っていたことを口にしてみた。

「……あのさ、天文部、今人がいないって聞いたけど」
「あれ? あんた、うちの部長が人足りないって言いに来たの知ってたっけ?」
「……前に他のクラスに『天文部人が足りない』って大声で言いに行っている先輩がいたから、そうなのかなと」
「ああ」

 恵美ちゃんはあっさり納得してくれた。
 今の瀬利先輩と直接対峙したことはないけれど、やっぱり今回も瀬利先輩が部員が減っているところ、幽霊部員を呼び戻しに行くことはしていたみたい。
 私が頭の中で考えていることはさておいて、恵美ちゃんは頷く。

「今はずっと篠山に押し付けられているみたいだし、あたしも部が潰れるの自体は困るから、顔を出すようにしてるよ。でもどうして?」
「……もしかしなくっても、しのや……さっきの男子と一緒にいるところを見られたっていうのはない? ほら、さっきの男子、ちょっと距離感が変というか、近過ぎというか……」

 ……私自身、自分が天文部にいたときは全然気付かなかったけれど。
 あの距離感はいくらなんでも、友達同士の距離感だなんて思わない。友達以上恋人未満。皆が皆惚れた腫れたにうつつを抜かしているわけじゃないだろうけど、距離感おかしいと思っても仕方ない感じがした。
 恵美ちゃんは涙を拭きながら、だんだん顔を青褪めさせていく。

「……まさか、見られた? 本当に、あいつのことは同じ部活の奴としか思ってなかったんだけど」
「残念だけど、そう思っても仕方ないと思うよ」
「あたしのせいじゃん! 彼氏、まだアプリブロックしてないよね!?」

 恵美ちゃんが震えている。通話が繋がらないと言っていたから、もしかするとそうなのかもしれない。私は黙って自分のスマホの電話を確認すると、それを差し出した。

「使って」
「え、でも由良……」
「彼氏さんとちゃんと仲直りしようよ。もし電話代高く付くようだったら、あとでそのぶんは請求するから」
「うん……ありがとね」

 恵美ちゃんは私のスマホを受け取ると、震える手付きで電話番号をタップしはじめた。
 私は慌てて彼氏さんに謝ろうとしている恵美ちゃんを見ながら、ほっとした。
 でも……。変な胸騒ぎは治まらない。
 私の知っている篠山くんは、たしかに周りに誤解されやすいタイプだ。特に女子。本当に弱っているところを優しくされてしまったら、ころっといってしまうのは経験則だけれど、篠山くんのあのどうしようもない癖は、男子には発揮しなかったはずだ。
 だから篠山くん狙いの女子のことを好きな男子と揉めたことは、一度だってなかったはずなんだ。でも今回は、もうちょっとで恵美ちゃんと彼氏さんが破局するところだった。ううん、彼氏さんがそう誤解しようとしていた。
 まさかと思うけれど……。
 私は今まで遭った不可解なことが頭を掠める。
 近藤くんと一緒に買い出しに行ったときに、天文部がゲームセンターで遊んでいたのは偶然? 夏休み中に天文部のオブジェが落ちていたのは? それに今回の恵美ちゃんの彼氏さんの件……。
 まるで私を天文部に誘い込むようで、気持ち悪い。でもそんなことする理由ってなに? だってそれだったらまるで。
 篠山くんが、前のときの記憶を持っているようなものじゃない。
 私の胸騒ぎはともかく、恵美ちゃんの通話は無事彼氏さんに繋がったみたい。恵美ちゃんが泣きながら必死で謝罪していたら、向こうから聞き覚えのある声がやんわりと彼女を慰めている声が届き、私もほっとした。
 もし、私のせいで恵美ちゃんが彼氏さんと別れていたら、きっと自分を許せなかった。
 でも。篠山くんが前のときのことを覚えているかもしれないって可能性が、消えた訳じゃない。どうしよう。
 私は彼のことを考えると、ひどく気分が重くなる。
 もう前のときの私とはずいぶんと違ってしまっている。
 今の私は篠山くんのことを好きじゃないし、前のときたしかに好きだった彼との思い出を、これ以上汚さないで欲しい。
 でもそれを篠山くんに言ってもいいの。だってこれがただの私の思い込みや勘違いだったら、どうしようもないじゃない。
 このことを誰に、どうやって相談しよう。私は頭が痛くなるのを感じながら、泣いた顔が笑顔に戻っていく恵美ちゃんを眺めていた。