私は混乱したまま、ひとまず部屋のクローゼットにかけてある制服に袖を通した。
……本当だ。一年も着ていたらツルツルに光ってしまうはずの真っ黒なセーラー服に白いリボンタイ。それは真新しいマットなままだった。
そこでようやく私はスマホを見ようと手を伸ばしてみて、カレンダーを見て愕然とした。
去年のカレンダーがかかっていて、4月の欄が開いている。4月5日の部分に丸を付けて【入学式】と書き込まれている……間違いない。夏休みじゃない。
仕事でお父さんもお母さんもとっくの昔に家を出て行ってしまった以上、私も家事を片付けたら急いで学校に出ないといけない。
ようやく頭のエンジンは温まってきたので、混乱はひとまず置いておいて、慌ててトーストとインスタントコーヒーで朝ご飯を済ませた。
食器を全部食洗機の中に突っ込んだあと、パジャマを洗濯機に放り込んで洗濯を回す。洗面所で身だしなみを整えたら、急いで通学路へと飛び出していた。
……どうして? 私は混乱したまま、辺りを見回した。
桜がちらちらと舞っていて、それを踏みながら歩く。
私は高校二年生だったはずなのに、目が覚めたら高校一年生になっていた……いや、戻っていた? これって、高校二年生だった頃のことが全部夢だったの? 虫がよすぎるけれど、そう考えたほうが自然だ。だって、私は今は高校一年生だし。
でも……。
頭の中に浮かんでくるのは、篠山くんと瀬利先輩の熱烈的なキスシーン。しかも、ディープ。それを思い返すと、やっぱり気持ち悪くなって吐きそうになってくる。
私はどうにか頭に浮かんだイメージを振り払おうと首をブンブンしてから、もう一度考える。
……こんなにはっきりと思い出せるのに、いくらなんでもこれが全部夢だったなんて思えない。むしろ、今のほうが私には違和感がある。
靴が真新しいせいで、通い慣れた道を歩いているにもかかわらず、踵や爪先が痛い。桜の花びらを踏みながら歩いていたら「由良ー!」と声をかけられた。
恵美ちゃんだ。
「この間まで受験勉強してたはずなのにねえ。一緒の高校に入れてよかったよかった」
「そ、そうだねえ、恵美ちゃんの彼氏とは離れちゃったけど」
「あぁん、まああいつは元々医学部行きたかったから、県立一本に狙いを定めてたからねえ。勉強頑張れってずっとアプリで応援してるからいいの」
本当にいつもの調子で会話が済んでしまった。
小学校からの付き合いだから、恵美ちゃんと話を合わせるのは簡単なんだ。
なんとか私はいつもの調子で恵美ちゃんに話を合わせていたけれど、何故か一年前に戻っていた私と違い、彼女はなんの違和感も覚えていないようだった。
「ね、ねえ……私、好きな人に告白してたら……どう思う?」
「えっ!? あんたそういう人っていたっけ!?」
恵美ちゃんは途端に食いついてきたけれど、やっぱり彼女は私が篠山くんに告白したことは覚えてない……いや、知らないみたいだった。
「う、ううん……なんでもない。そういう人に、会ったこと……なかったよね?」
「なに言ってるの、由良。もしあんたに初彼氏が出たら真っ先にお祝いしてあげるし、もしあんたをフるような奴だったら、すぐに諦めろって言うよ。見る目ない男なんて放っとけばいいんだからさ」
「あはは……ありがとうね」
あまりにもいつもの恵美ちゃんだったことに、私はじんわりと温かい気分になる……だからこそ、少しだけ申し訳なかった。
私が事故死してしまったあと、恵美ちゃんがあんまり自分を責めてないといいなと思った。もう死んでしまったあとのことは、私にもどうすることもできないのだけれど。
ふたりでしゃべっていたら、やがて学校が見えてきた。
市立で運動部がそこそこ強く、逆に文化部のやる気があまりない学校という印象だ。私は入学式で興奮した顔をしている恵美ちゃんを横目に辺りをそっと窺った。
……本当に、私は高校一年生に戻っちゃったんだなあ。昨日まで高校二年生だったはずなのに。やっと戻ってしまったことに実感を伴いつつ、私たちは校門をくぐった。
校門の近くでは、先輩たちが部活のチラシを配っている。それをかいくぐりながら、クラスを貼り出されている看板の元まで歩いて行く。
「天文部! 友達や恋人と一緒に星を見ませんかぁ~!?」
高らかな声で皆に笑顔を振りまきながらチラシを配っている人を見て、私はビクンと肩を跳ねさせた……まだ高校生のときの瀬利先輩だ。私が最後に見たときは化粧に私服で色気が増していたけれど、今は制服を着て、顔もすっぴんだ。それでも彼女が声を上げれば、皆が彼女にじっと視線を向けてしまう存在感を放っていた。
彼女の放つオーラは本当に気持ちのいいもののはずなのだけれど、今の私には逆効果だった。どうしても篠山くんとのキスシーンが頭の中で繰り返し再生されて、喉から気持ち悪さがこみ上げてくる。
私が口の中をもごもごしているのに気付いたのか、恵美ちゃんは心配そうにこちらに顔を寄せてくる。
「由良? どうしたの。顔、しんどそう」
「な、なんでもないよ、早くクラス見に行こう……座りたい」
「んー、そうだね。早く教室に行って座ったほうがよさげ」
恵美ちゃんが天文部も含めてどの部活のチラシも「ごめんなさい」と謝ってくれたおかげで、どこの部活からも追いかけ回されることはなく、そのままクラス発表の貼り出し看板の前へと躍り出た。
看板の前には、新入生がたむろして、自分の名前を探している。
基本的にAクラスからCクラスは成績優秀者で決められて、二年生以降は理系クラスになる。DクラスからFクラスまでは普通の成績の生徒で、二年生以降は文系や就職希望で占められる。
私は既に自分のクラスを知っているから、先にAクラスのほうを確認していた。
【Aクラス:篠山光太郎】
そこに彼の名前を発見して、私は制服の上からぎゅっと胸を抑えた。やっぱり、彼はここにいるんだと思い知らされる。
私がAクラスのほうを見ているのに、恵美ちゃんが笑う。
「さすがにあたしたちがそんな成績優秀者のところにいたらおこがましいって。ほら、あたしたちのクラスはDクラス! おんなじクラス!」
「う、うん。そうだね……」
私はそう曖昧に返事をして、恵美ちゃんに引きずられるがまま、そのまま教室へと移動していった。
****
入学式をねぼけまなこでやり過ごし、教室では時間割とこれからの予定表をもらい、そのまま下校となった。
彼氏とデートする恵美ちゃんと別れた私は、ひとりで本屋に寄って四月はじまりのスケジュール帳を買ってから、家路に着くことにした。
とりあえず、覚えていることを書き出しておこう。
私はガリガリと書き出した。
一年生
五月:天文部に入部。篠山くんと出会う
六月:合宿の買い出しに篠山くんと一緒に行く。好きになる
……書き出してわかったけれど、私、いくらなんでもチョロ過ぎないかな。
前の自分に頭を痛くしながら、私は書き出していった。
うちの学校は絶対にどこかの部に所属しないといけないけれど、恵美ちゃんは他校に通っている彼氏と遊びに行きたいから、私はうちが共働きなために家事をしないといけないから、あんまり部活の制約が厳しい部には入れなかった。
結局あれこれ選んで、幽霊部員でも問題なさそうだった天文部に入って、そこで理系クラスで接点ゼロだった篠山くんと出会ったんだ。
……それから友達の噂で聞いたけれど、彼が何故か入学してわずかひと月でモテまくっているという事実を知り、好きになったときには「こんな人好きになってもしょうがない」と早々に諦めたんだったな。
彼女になるのは早々に諦めたけど、せめて仲のいい部活仲間というポジションが欲しくって、家事の融通の利く範囲で部活に参加するようになったら。
七月:合宿。野外炊飯がおいしかった。
私が家の事情で家事をしないといけないのと同じく、篠山くんも家の都合で家事をしないといけないことを知って、似たもん同士だとずいぶんと気が合ったような気がする。
篠山くんはお父様が亡くなっているから、お母様が大黒柱。お姉様たちも大学や仕事で帰りが遅いから、どうしても家事の分担は篠山くんが負担していると。
意外と手際のいい野外炊飯での作業に互いを褒め合っていて発覚し、一気に打ち解けたんだった。
……そんなこと言うのは、あまりにもおこがましいかもしれないけど、同じ部活仲間としては、上手くやれていたはずなんだ。
でもさ……。
九月:篠山くんと瀬利先輩が付き合っているという噂が流れる
いつもは篠山くんが誰かと付き合うって噂が流れても、本人に聞いてみたらいつも「デマだよ」と笑っていた。モテるのって大変なんだなと思って、せめて友達ポジションとして「頑張ってね」と笑っていられたらよかったのに。
瀬利先輩のときだけは、「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。
あのとき、さんざん泣いたなあ……。
それで恵美ちゃんにずいぶんと叱られたと思う。「せめて玉砕すればいいでしょ!?」と言われたけど、篠山くんに告白なんてしたくなかった。
せっかく一生懸命、部活仲間ってポジションを築いたのに、それを崩すような度胸は、私にはなかった。もし告白してしまったら、部活仲間から「篠山くんのことが好きな女子」に区分が変わってしまう。その区分は彼女に昇格することはできても、部活仲間に戻れる保証なんてどこにもないんだ。その区分に自分から入る勇気なんて、これっぽっちもなかった。
よくも悪くも、クラスが違うし、部活以外に接点なんてない。部活に足が向かなくなったら、接点なんてふっつりと途切れてしまった。
結局は私たちの関係なんて、天文部だけが繋げてたんだなあ……。寂しいけど仕方がないと思っていたら、瀬利先輩のほうがひょっこりと顔を出してきたんだ。
「もうすぐさあ、文化祭だから。準備しないと駄目なんだけど、あたしも小論文書かないと駄目でなかなか準備手伝えないんだわ。篠山ひとりだと可哀想だから手伝ってくんない?」
そう言われて、私はなんと返事したんだったかな。
その年の天文部は、幽霊部員がやたらめったら多かった。過半数が女子で、多分篠山くん目当てで入ったんだと思うけど、彼が瀬利先輩と付き合っているという噂が流れてから、ただでさえ幽霊部員だったのに、とうとう退部届けまで出されてしまった。彼だって家のことしないと駄目なのに、ひとりで部活のこと押しつけられたら可哀想だ。
……なんて言っても、私だって人のことは全く言えない。勝手に部活に入って、勝手に足が向かなくなったのは、私だって同じなんだから。
仕方なく、私は文化祭の準備のために部活に通うようになった……それでも、私はひとりで行く度胸がなく、彼氏と順風満帆な恵美ちゃんに手を合わせて一緒に行ってもらったんだったな。
十月:文化祭。瀬利先輩は引退
天文部の文化祭なんていい加減なもんで、毎年室内プラネタリウムを繋げて、暗室にした教室いっぱいで定期的にプラネタリウムの鑑賞をするというものだった。それでもヒーリングミュージックを流して、星の説明をマイクで読み上げればそれっぽくなるから、毎年絵本の朗読と暗幕張って暗室つくるのだけは頑張っていた。
私もたくさん暗幕を張って、どうにかを暗室つくっていた。
たしかにひとりで暗幕なんて張るのはしんどいし、プラネタリウムの説明考えるのは大変だったなと反省する。
『銀河鉄道の夜』に出てきた星が見えるように調整し、当日に絵本の『銀河鉄道の夜』の朗読をすることで、それっぽい展示にした。
他の部活やクラスみたいにもっと遊べる奴のほうがよかったかもしれないけど、カップルからしてみればふたりっきりでデートできるというのは概ね好評で、そこそこ人が来てくれた。
打ち上げのとき、皆で天文室でポテトチップスを広げて、ペットボトルのジュースを傾けているのは楽しかった。
瀬利先輩が引退して、そのまま部長を一番出席率のよかった篠山くんが引き継ぐことになったのには思わず笑った。少し前までギクシャクしていたのが嘘のように、和やかだったと思う。
でも……そのときの私は、最後まで、篠山くんと瀬利先輩が付き合っているのか付き合ってないのかわからないままだった。
私は手帳をガリガリと書き留めながら、少しだけこめかみに手を当てた。
これだけ鮮明に覚えているってことは……やっぱり一年前だったはずのことは、本当にあったことだったんだよね?
思わず頬をふにっとつねってみる。痛い。これは、夢じゃない。
ここまで書いてみて思ったけれど、私はなにをどう間違えたのか、二周目をやり直させてもらえることになった。でも私はなにをしたいんだろう……。
もう一度天文部に入る? 瀬利先輩がいる、部活。
……どうしても思い浮かんでしまう篠山くんと瀬利先輩のキスシーンに、何度目かの苦酸っぱい思いを味わい、どうにか洗面所で口をゆすいでから、それを正した。
……無理だ。思い出すたびに吐き気を催すようだったら生活できない。これ完全にトラウマになっているじゃない。だとしたら、篠山くんと瀬利先輩とはできる限り距離を取るしかない。
幸いなことに、篠山くんとは部活以外では接点がないし、瀬利先輩はふたつ年上だからもっと接点がない。
私は覚えていることをひと通り書き出してから、どうやった接点を潰せるのかをあらかじめ考えはじめた。
うちの学校は全員部活に入る義務があり、入部届けとそれぞれの部が使っている教室一覧を配られる。そこからどの部があるのかを見学に行き、気に入った部に入部届けを出す仕組みになっている。
最低でも五月までにはどの部活に入ったのかを担任にまで言わないといけないため、皆真剣だ。
運動部の子たちは割と最初からやりたいことや入りたい部が決まっていたから、さっさと入部届けを出していたけれど、文化部……特に幽霊部員希望な子や、私たちみたいにあまり部活だけにかまけていられない人間は必死に、どこの部がいいかを探さないといけない。
「うーん、先輩からの話だと、天文部がいいらしいんだよね。人数がそこそこいて、幽霊部員でも大丈夫ってところは」
放課後、掃除の終わった教室で、私と恵美ちゃんはもらったばかりの入部届けにどこの部を書くかで悩んでいた。
そう話をする恵美ちゃんに、私はビクッと肩を跳ねさせると、恵美ちゃんはきょとんとしたまま私の顔を覗き込んできた。
「なに? あんた天文部は嫌なの?」
「う、うーん、私も、恵美ちゃんにずっと頼りっきりじゃ駄目だから、今回は部活を別れようかなと、思いまして……」
「あら。向上心が芽生えましたか。でも幽霊部員でも問題ない部って他にどこの部があったっけ」
恵美ちゃんにからかわれつつ、私は首を縦に振った。
……まさか言える訳がない。そこで失恋した挙げ句に事故で死ぬなんてこと、言っても頭大丈夫かと思われるだけだ。それに、私は繰り返し思い出すキスシーンでノイローゼみたいになってしまっている。とてもじゃないけれど、篠山くんと瀬利先輩と会って、まともにしゃべれるとは思えなかった。
私の内心はともかく、恵美ちゃんは「でもさあ……」と言いながら伸びをする。
「他に幽霊部員歓迎って部があるのかな? 正直、天文部が一番楽そうなんだよね。文化祭以外はめぼしい活動をしてないらしいし。あたしも彼氏に会いに行きたいから、吹奏楽部や合唱部は最初からパスだし」
「まあ。私もだけど」
どちらもどうして文化部なんてカテゴライズなんだと思わんばかりの、体育会系なノリの部だ。大会にだってバンバン出るし、縦社会だし、練習しない人間には人権がない。……理由があるからといって、部活を休むっていうのは言い訳にならないと思うから、最初からなしだと入部する部活から除外していた。
でも他の部もなかなかピンと来ないから困っている。
文芸部……課題の本を読んで感想を言い合う部とあるけれど、私はあんまり本を読まないからパス。生物部は動物の世話をする部らしいけど、学校見学したときに生物室に大量に並んでいるホルマリン漬けのを見た時点でもう駄目だった。生物の授業のときだったらまだ我慢できるかもしれないけど、部活でまであのホルマリン漬けと一緒になんて耐えられる自信がない。
他の部も、しがらみとか大会とか趣味が合わないとかで、なかなかめぼしい条件の部がなかったんだけれど……ひとつだけこれだと訴えるものがあった。
園芸部に目が留まったのだ。
部員の数もそこそこいるみたいだし、園芸部だったらそこまで部で集まってなにかをすることもないだろう。幽霊部員希望な私でも、大丈夫かもしれない。
「私……園芸部に入ろうかな?」
「園芸部ー? あんたって花に興味なんてあったっけ?」
「そりゃ花は好きだよ。観察日記とか好きだったし」
「ふーん。でもうちの学校の園芸部ってどんなんだろう?」
「見学してから考えるよ」
私の突然の園芸部入部宣言に、当然ながら恵美ちゃんが首を捻ってしまった。……私だって突飛だってことはわかっているんだよ。
でも。まずは部活を変えてみないことには、未来なんて変えられないと思うから。もうあんな、悲しい思いはしたくないもの。
好きな人に告白して、その日のうちに好きな人が私じゃない人とキスをしている現場に遭遇するなんてこと、何度も耐えられる自信はないよ。
結局は天文部の幽霊部員的な魅力に抗えなかった恵美ちゃんは「もし無理そうだったらちゃんと退部届けを出すんだよ」という応援と共に、園芸部の部室を探しに行くことになった。
****
恵美ちゃんと別れて入部届けを出しに出かけたら、もう吹奏楽部の練習が聞こえてくるし、合唱部の発声練習がそこかしこから耳に飛び込んでくる。
私は部活紹介の紙を何度も見ながら、どうにか辿り着いた旧校舎。どうも部室や移動教室の類は全部旧校舎のほうでやっているらしい。私たちが普段教室として使っているのは新校舎のほうだ。
紙と表札を見ながらどうにか辿り着いたのは、科学室。
園芸部の部室に使っているのは、何故か科学室だった。あちこちに科学の授業で教科書に書いてた薬品が並んでいるのをぼんやりと眺めていたら、顧問の先生がのったりと現れた。化学教師らしい先生は、白衣を着ていて髪も白髪混じりの、わかりやすい科学の先生だった。
「はあ……うちの部に入部希望ねえ……」
「はい、お願いします!」
私が頭を下げると、先生はなんとも言えない顔でこちらを見下ろしてきた。この先生はやる気があるのかないのかわからないなと、失礼なことを思う。
「そりゃ構いませんけど、うちの部ほとんど部員が来ないんですよねえ」
「はあ……」
「あんまり部員来ないと鬼瓦先生怒るんですけど」
「んんんん……?」
おにがわら先生って誰だろう。私は先生がぶつくさ言うのに、しきりに首を傾げていたら、ようやく落ちくぼんだ目をこちらに向けてくれた。
「まあ、入部届けはもう書けているんですよね? ならそれはいただきます。うちはここを拠点とするよりも、裏にある園芸場がメインですから、部活動の日は園芸場のほうに顔を出してくださいね。あ、結構汚れますんで、ジャージで来ることをお勧めします」
なんでジャージなんだろうと思ったけれど、園芸場に行くんだったら土仕事するんだから汚れてもいい格好のほうがいいのかと思い至った。
本当だったらあんまり汚れたくはないんだけれど、園芸部なんだから、仕方ない仕方ない。私はできる限り真面目そうな声色をつくって返事をした。
「あ、はい。わかりました。あの、よろしくお願いします。あ……先生」
「なんですか?」
私は窓のほうを見た。先生が言っていた園芸場には、たしかに畑があって、意外と野菜らしきものや果物らしきもの、花まで植わっているみたいだったけれど。
誰もいないように見える。園芸部員もいないみたいだし、誰が世話してるんだろう。
「うちの部長って、いるんですか?」
「んー……今誰でしたっけねえ……うち、文化祭以外は本当に活動してませんので」
なんだそりゃ。天文部も本当にやる気のない部だったけれど、まさか顧問がここまで園芸部がやる気のない部とは思わなかった。
でも、一応は先生にも入部届けを渡せたことだし、入部完了だよね。その日は私は先生に頭を下げて帰ることにした。
途中、科学室の隣の天文室を通り過ぎるときは、どうしても足早になったけれど。途中で入部届けを出しに来たらしい女の子たちがしゃべっているのが耳に入った。
「男子も天文部に入るんだねえ」
「あの美人部長に絡まれてた人? そりゃ幽霊部員になるんだったら、ここが一番楽なんじゃないの?」
「うん、そうかもしれないけどさ。ただちょっと格好よくなかった? ほら、ものすっごくスマートに荷物を持ってくれるところとかさあ」
「そーう? 単に気がいいんだと思ったけど」
その言葉に、ズキンと胸が痛むのを感じたけれど、 誰のことかすぐにわかったけれど、全部なかったことにして、私は足早にその場を後にした。
。
篠山くんは、顔がいい訳ではないんだ。ただ、本当に優しいんだ。だから優しくされた女子は皆好きになってしまうし、自惚れてしまう。それが、身を滅ぼす。だって、彼が優しいのは女子に対してだから。そこに好き嫌いの区別なんてない。
……そこまで考えて、私はぶんぶんと頭の邪念を吹き飛ばすように首を振った。
二周目のふたりは、私のことを知らないし、前の周で私となにがあったのかも知らないんだから、見て見ぬふりをしないと。
ここから先は、私の記憶にはない世界だ。そこにいくんだから、全部なかったことにしないと。
せっかく神様がくれたやり直すチャンスなんだ。もう傷付かないように、生きていたいから。
それから私は、園芸部に入った。
先輩たちはほとんど……どころか全く来ない上に、顧問まで来ないという体たらくで、私はジャージ姿で誰も来ない園芸場で立ち尽くしていた。
誰も来ないんだったら、もう帰ってもいいのかな。そもそも部長すら誰だかわからない部だからなあ、ここ。私は途方に暮れて視線をさまよわせていたところで、誰かが園芸場に入ってきたのが見えた。
「君かね、新しい園芸部員は」
こちらに声をかけてきたのは、有名メーカーのジャージを着た先生だった。いかつい雰囲気で、年は多分私のお父さんと同い年くらいだろう。格好からして、体育教師らしい。
「あ、はい。Dクラスの佐久馬です」
「そうかそうか、なら畑の雑草を抜こうか。雑草はコンポストに入れるから、バケツを持って行きなさい」
「はい……あのう、失礼ですが、園芸部の副顧問……でしょうか?」
「いや? 剣道部の顧問だが」
何故。私はそのとき、どんな顔でこの剣道部の顧問の先生を見たのかはわからないけど、多分引きつった顔をしていたんだと思う。
私の顔を余所に、先生はずいぶんと慣れた手付きで雑草を引っこ抜いてはバケツに放り込んでいた。
「この辺りは先生が世話してるから、あんまり荒らしたりしないように。野菜の収穫など、部活で必要な場合は、ちゃんと先生に言ってからするように」
「え? 顧問にですか? 先生にですか?」
「ああ、そういえば名乗ってなかったか。鬼瓦だ。畑のことはなんでも聞くので」
私はその物言いに、ツッコミどころしかないにもかかわらず、なにも聞くことができなかった。
どうして剣道部の顧問が園芸場を牛耳っているんだろう。どうして剣道部員は日がな園芸場にこもっている顧問に文句を言わないんだろうか。そもそも園芸部の顧問よりも園芸部活動に熱心って、剣道部の顧問辞めて園芸部の副顧問に捻り込めなかったんだろうか。
言いたいことはたくさんあれども、いかつい鬼瓦先生が真面目に真面目に雑草を抜いているのを見たら聞くこともできず、ただ夕方まで雑草を抜いて、コンポストに雑草を放り込んでから帰ったのだ。
これが、園芸部の活動一日目の記憶だ。
****
「うはははははははは……!!」
「わ、笑わないで! 私も、本気でわかってないんだから!!」
「あはははは……いや、ごめんごめん……でもいかつい先生とただ雑草を抜いて終わる部活って、結構斬新というかなんというか……」
昼休み。
私がパンを食べながら恵美ちゃんに園芸部の話をしたら、腹を抱えて笑われてしまい、思わずぶすくれると、恵美ちゃんは目尻にいっぱい溜めた涙を拭って手を合わせて謝ってきた。
「ごめんごめん。でも謎過ぎるね、それ」
「うん。本当に意味がわかんなかった。でも人がいなさ過ぎて返って楽なんだけどね。誰に対しても気を遣わなくっていいし」
「ふうん……でもそれだったら天文部でもよかったんじゃないの?」
彼氏とのデート最優先で、結局ひとりで天文部に入部し、幽霊部員と化した恵美ちゃんに指摘され、私は内心ギクリとする。
まさか言えないもんな、天文部で顔を合わせたくない相手がいるだなんて。私はできる限り笑顔をつくった。
「うーん、でも今更園芸部辞めるっていうのも愛想がないし。あ、さつまいも育ててるから、秋になったら焼き芋するんだって鬼瓦先生が言ってた」
「へえ……他部の人間でもよかったら、ごちそうしてもらいたいなあ」
「それは先生に聞かないとわからないけど」
適当に誤魔化して、それに納得してくれた恵美ちゃんに心底ほっとしながら、私は今日も園芸部へと出かけていった。
花に囲まれていて、教師とふたりっきりで部活しているというと、なんだか怪しい話になるけれど、全くそんなことはなくて。
園芸場はたしかに花で覆われているけれど、それ以上に多いのは野菜畑だ。いったいこれがなんの野菜なのかわからないつた植物から、これが本当に果物なのか信じられないくらい鮮やかな花まで、それらの世話を行っている。
鬼瓦先生は既に既婚者な上に、顔がいかつく、とてもじゃないけれど少女漫画的な展開なんて起こりようもない。
……前の周が、てんこ盛り過ぎたんだろうな。私はそう納得している。
顔がいい訳でもないのにモテまくる男子に告白して、中途半端な返事をもらった挙げ句に自爆して死んじゃうなんて未来に、辿り着きたい訳じゃない。
別に彼氏なんかできなくってもいい。好きな人ができなくっても困らない。ただ、平穏に高校生活を終えたいだけなんだから。
そんなことを口にしたら、彼氏持ちの恵美ちゃんに説教されそうだから、絶対に声に出して言わないけれど。
私はのんびりと天気を見た。
今日も五月晴れ。いい園芸日和になりそうだ。
****
その日は部活は早めに切り上げて、買い出しに行かないといけない。このところ買い物に行けてなかったから冷蔵庫の中が空に近くなっているからだ。
だから私はすぐ帰れるようにと、今日はジャージを着ずに園芸場に出かけたところで。
普段だったら座って黙々と作業している鬼瓦先生が見つからず、私はあれと首を傾げた。でも冷静に考えれば、鬼瓦先生は元々は剣道部の顧問なんだから、剣道部のほうに今日は顔を出しているんだろうと納得した。
元々園芸部だって活動日がそんなに固定されている訳ではない。雑草を抜いたり園芸場の世話が主な活動内容なんだから、当然雨の日は活動停止だ。
そんな緩い部だけれど、私は園芸部に入ってから、何故か剣道部の鬼瓦先生としか一緒に活動をしていない。顧問は相変わらずほとんど顔を合わせないし、私は未だにうちの部長の存在を知らないままだ。
困ったなあ、今日は早く帰りたいって伝えるつもりだったのに。私は困った顔で園芸場をさまよっていたら「おい」とぶっきらぼうに声をかけられて、驚いて振り返った。
身長が高い男子がこちらを睨んでいるので、思わず身が竦む。三白眼にスポーツモヒカンと、凄みのある人だ。
着ているのは胴着で、袴を合わせているところから察するに、剣道部の人……なんだと思うけど。
「お前か、園芸部員って」
「あ……はい……」
「手伝えって言われたんだけど」
「へ?」
「だから、ここの世話っ!」
言葉尻を強く言われてしまうと、こちらも思わず肩がびくびくと上がってしまう。
そもそもどうして私は剣道部の人に声を荒げられているんだろう。それに、私は今日、早く帰りたかったのに。でもあからさまにイライラしている剣道部員にそう伝える勇気はなかった。結局は園芸部の活動内容を逐一教えることとなってしまった。
……どうして園芸部のほぼ唯一のアクティブ部員が、剣道部の男子に園芸のレクチャーをしているんだろう。
どう考えてもおかしいんだけれど、それを突っ込める心の余裕も、口にする度胸もなく、私はただ、イライラしている男子の癇癪玉を破裂させないように、破裂させないようにと努めることしかできなかった。
男子は雑草をブチブチ抜きながら、私に言っているのか独り言なのかわからない文句を言っている。
「……そりゃ、俺はまだうちの部じゃ一番弱いけど、これでも段持ちなのに、なんで部活中に草いじりしてんだよ。練習しないといけないのに。しかもここの部やる気もぜんっぜんねえし……ああ、もう、くそっ」
私はあからさまにイライラしている男子に、「もうそろそろ帰りたいです」と言えず、ただ時計だけを気にしていた。
夕方になったらスーパーは値引きセールがはじまる。それまでに買い物を済ませてしまわないと、今日の晩ご飯だってつくれない。家にはギリギリ米しかないんだから。私は何度目かの時計の確認をして、気が付いた。
……もうそろそろ五時が回りそうだ。私はとうとう口で「ヤバイ」と言ってしまった。
「なんだよ?」
男子がギョロリと睨むのにビクつきながらも、私は立ち上がって雑草をコンポストに入れた。
「わ、私。本当にそろそろ帰らないといけなくって! きょ、今日は、本当は早く帰りたくって」
「お前な、ならなんで部に入ったんだよ!?」
とうとう男子の癇癪玉が破裂するのに、私は「ひいっ!?」と身を竦ませる。
ただでさえ大柄な上に胴着姿の男子が三白眼を吊り上げると、肉食獣みたいで本当に体が強ばって動けなくなってしまう。
男子はこちらを睨み付けながら吠える。
「ほんっとうに、ただお気楽に菓子でも食べたきゃそういう部に入ればいいじゃねえか。わざわざこっちの時間奪っていい道理はねえだろ!?」
「わ、たしは……別に……」
「なんだよ、お前みたいにうじうじ口の中でばっかりしゃべってる奴、ほんっとうにウザイんだよ!!」
なんで私、部活を休みたい日に部活をさせられた挙げ句に怒られてるの? 私だって家のことがなかったら早く帰りたいなんて言わないし。でも怒っている男子は自己紹介もないし、怖いし、なんで。
怖いし怒りたいしでも逆らえないしで、私の心はとうとう決壊してしまった。気付いたらボロッと涙が出てきていた。
それには強面の男子も少しだけ目を見開いたあと、なおもこちらを睨んでくる。
「そうやってすぐに泣くから!」
「ご、ごめんなさいっ! でも、今日は本当に無理っ!!」
謝る必要なんてないことはわかっている。でもこの剣道部の男子は怖い。
早く帰りたいし買い物したいし、ご飯つくらないといけない。
頭の中はパニックで上手く考えがまとまらない。ただ私は言いたいことだけ言うと、端に寄せていた鞄を引っ掴んで、そのまま男子を置き去りにして逃げ出していた。
涙はどんどん溢れてくるし、鼻水だって止まらない。
なんでこんなに悔しくて悲しくて泣いてるのか、訳もわからないまま、私は泣きながら走っていた。
スーパーに着いたら、案の定値引きセールでごった返してしまっていた。
私がズビズビ泣きながら買い物をしていると、主婦の人たちがぎょっとして道を開けてくれたり、一部の人たちは心配そうに「どうかしたの?」「具合が悪いの?」と聞いてくれたりしたのに「大丈夫です!」「なんでもありません!」と答えながら、なんとか買い物を終える。
ようやく買えた数日分の買い出しの袋をぶら提げながら、私は夕日をぼんやりと仰いでいた。
前の周のときは、篠山くんもスーパーの特売前に帰りたがったし、それに便乗する形で帰れたから、あんまり家の事情を周りに公表しなくってもよかったんだよなと今更思う。うちの事情を知っているのなんて、恵美ちゃんみたいな小学校時代からの付き合いの友達とか、それこそ篠山くんくらいだったんだから。
私だって、たまにはファミリーレストランのドリンクバーで馬鹿なジュースをつくって遊んだり、一緒に宿題して過ごしてみたいし、カラオケでフリータイムを使い切ってみたい。でも家事は待ってくれないんだから。
……事情を知らない人に怒っても、しょうがないよね。私はほんの少しだけ気持ちが落ち着いたのにほっとしながら、家路を急いだんだ。
昨日の話をなんの気なしに、昼休みにしてみたら、情報通の奈都子ちゃんが教えてくれた。学級委員とは名ばかりの教師のパシリをやっているせいか、奈都子ちゃんのところには縦の情報も横の情報もすぐに入る。
「なんでもねえ、鬼瓦先生のせいで、園芸部と剣道部の仲は代々微妙らしいのよね」
「なんで? そもそも剣道部の顧問でしょ。あの人。なんで学校の敷地内で自家菜園つくってんの」
奈都子ちゃんの言葉に、当然ながら恵美ちゃんが声を上げる。
私もうんうんと頷きながらペットボトルを傾けると、奈都子ちゃんは「これはうちの先輩から聞いた話だけど」と前置きしてから語ってくれた。
「うちの学校で剣道の段持ちの人って鬼瓦先生以外いないんだって。うちの学校の剣道部そこそこ強いでしょう? だから顧問なしっていうのは大会規定とかに引っかかるから困るんだって。だから剣道部の顧問引き受ける代わりに、裏庭を園芸に使わせててって、園芸部と話を合わせたみたい。鬼瓦先生、園芸が趣味だからさ。園芸部からしてみたら、誰も来なくっても菜園が綺麗なまんまだから願ったり叶ったりで、そのまんま。ついでに剣道部の一年生も土いじりに連れてくるようになったから、園芸部からしてみれば活動してもしなくっても園芸場が管理されているから、それで園芸部員の幽霊部員化が進んだんだってさ。そりゃ剣道部が園芸部を恨む訳よ。なんでよその部の仕事を自分がしなきゃいけないんだって。そう言われても、顧問が勝手に決めた話なんて部員も知る訳ないじゃない。それのせいで、代々恨み恨まれる関係なんだってさ」
「なんじゃそりゃ……そんなの初めて聞いた」
「まあ、剣道部はともかく、園芸部ってほとんど幽霊部員しかいないしねえ。だからこの話も今は飛び飛びにしか伝わってないと思うよ?」
奈都子ちゃんの説明で、あのぶすくれた男子が怒り出した理由に納得がいった。
練習時間を奪って、うちの部の手伝いさせちゃったんだから、そりゃ怒るよなあ……でも、どうしよう。私はあの肉食獣みたいな男子のことを思い浮かべて、少しだけ身を震わせる。
「なに? キレてきた剣道部員、そんなに怖いの?」
「……うん、ものすっごく怒ってた。昨日は買い物があったから、先生に今日は部活出ないって言ったら帰るつもりだったのに」
「別にそこは由良が怖がる必要なくない? だって、用事があったんだからしょうがないでしょうが」
「そうなんだけど……」
あの男子と今後、一対一で部活しないといけないとなったら、あまりにも気が重い。私がガタガタ震えている中、奈都子ちゃんが言う。
「でも、まあ。普通に人に八つ当たりさせて泣かせるような奴、肝がちっちゃいんだからそこまで気にする必要ないでしょ。それでも怖いって言うんだったら、今度の部活のとき、私らも付き合おうか?」
奈都子ちゃんは美術部だから、絵を描くと言って絵画セット一式持ってしまえばどこでだって部活ができる。そう言ってはくれるものの。私は空になったペットボトルをひとまず鞄に突っ込むと、机に顔を突っ伏した。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……でもあの男子のことも可哀想だし」
「本当、危ないって思ったらちゃんと連絡するんだよ? それが一番大事だからね」
ふたりはまるでお母さんかと言わんばかりに心配してくるのに、私は思わず半笑いになってしまった。
男女ふたりでただ土いじりをしているだけで心配されるっていうのはちょっとなあ……。そう思いながら、ふと次の準備をしていてシャーペンの芯がないことに気付いた。
「あ、シャーペンの芯がない。持ってる?」
ふたりに聞いてみると、ふたりとも確認したけど、予備のシャーペンの芯は持っていなかった。時計をちらっと見る。これくらいだったら裏のコンビニまで走れば間に合うかな。私は「ちょっとコンビニ行ってくる!」とふたりに言い残してから、そのままコンビニまで走り出した。
私がコンビニでシャーペンの芯を見つけると、そのままレジに並ぼうとしたとき。
「あ」
「はい?」
大きな身長の男子が、ちょうど私の後ろに並んだのだ。持っているのは焼きそばパンにあんパン。……昼ご飯足りなかったのかなくらいに思って見上げてみる。どこかで見たことあったっけと思いながらレジをしていて、気付いた。
今日は制服着ているからすぐに思い出せなかったけれど、昨日の肉食獣みたいな男子だ。私は早くレジよ終われと思ったら、タイミング悪くレジが変な音を立てる。
「ああ、すみません。レシートが切れたのでちょっと入れ直しますね!」
目の前で店員さんがレジと格闘しはじめ、「次お待ちのお客様はこちらにどうぞー」と隣のレジに呼ばれた男子は、そちらで会計をはじめる。
そのまま私と男子のレジが同時に終わってしまったのに、私は沈痛な面持ちで男子と一緒に学校に帰ることになってしまった。
同じ道を帰らないと学校に着かない。そのままわざと足を緩めてもいいけど、もうそろそろ予鈴が鳴りそうだから歩幅をわざと小さくすることはできないし、だからと言って男子を抜かせるほど私は歩幅を出せない。男子のほうが私よりも明らかにコンパスがあるんだから、どうしても私は男子の斜め後ろを歩く体になってしまっていた。
「おい」
不意に男子が声を上げるのに、私はビクリと肩を跳ねさせる。男子はぶっきらぼうに声を上げて、こちらを振り返った。釣り上がった目に、昨日の怒声を思い出し、怖くなって小刻みに震えていると、男子はこちらをじっと見てきた。
「……ああー、昨日は、悪かった」
「……はい?」
「泣かせるつもりはなかった。ただいきなり知らない部の手伝いさせられて、イライラして当たった。自分でもみみっちいと思ってる。すまん」
「えっと……」
私は殊勝に謝ってくれると思っていなかったし、それどころか男子が私の顔をちゃんと覚えていたことに驚いていた。だからと言って謝ってくれたから、はい許しますと思えるほど、私はお人好しにもなれなかった。
でも。この人もしばらくは私と部活を一緒にするんだ。私は幽霊部員じゃないと困るし、あんまりガツガツ予定を詰め込まれる部には入れないから、園芸部くらいの活動内容がちょうどいい。
許すことはできなくっても。
「……どこのクラスの人? 名前は?」
「え、言ってなかった? Eクラスの近藤。お前は?」
「わ、たしは……Dクラスの佐久馬」
「そっか」
……知り合いになることは、できるんだ。
それから、私は近藤くんと放課後の話をしてから、教室の前で別れた。
変な知り合いができちゃったなあ。そう思うけれど、まあいっか。
****
週に二回の園芸部の活動。今日も私以外部員が来ない中、近藤くんも顔を出していた。
今日は収穫日で、桑の実を一緒に摘む。桑の実は別名マルベリーとも呼ばれていて、ラズベリーより甘いけどいちごより酸っぱいそれはあんまり店には出回ってないから、本当に園芸してないと食べられない木の実だ。私もおばあちゃんが桑の実を育ててなかったら知らなかった実だ。
鬼瓦先生があれこれ説明するのを聞いてから、ふたりで実を摘む。高いところのは近藤くんが登って摘んで、低いところのは私が背伸びをして摘んでいた。
鬼瓦先生が「ひとつくらいなら食べてもいいよ」と言うので、私たちは収穫した身を食べる。口の中でプチリと弾けて、独特の甘酸っぱさが口に広がる。
私にとっては食べ慣れた味だったけれど、近藤くんは食べながら顔をしかめていた。
「なんかうすらぼんやりした味だなあ」
「そう? これってジャムにしたら結構おいしいよ?」
「ふーん。お前ジャムとかつくるの?」
「うーんと、スーパーの前にときどき農家の人が野菜の直売してるから、そこで傷む寸前のいちごを安く売ってもらえるんだ。それでつくるよ」
「なんか主婦みたいだなあ……」
「いちごって高いんだよ、本当に。だから傷む寸前でも安く買えるんだったらいいんだよ」
私のしょうもない力説を、近藤くんは「ふーん」と聞いているのかいないのかわからない返事をしてくるのにむっとしながらも、どうにか桑の実を摘み終えた。
「先生、これってなにかつくってもいいですか?」
「いいよ。これ園芸部の秋の展示品だから、なにか展示できるような奴つくって」
そう鬼瓦先生が言うので、私は拍子抜けした。
「あの……今まで園芸部の展示って、なにをしてたんですか?」
「ここの畑で採れた野菜を見せたり、うちの学校の壁側で育ってるつたを獲ってきて、それの苗をつくって配ったり」
ほとんど鬼瓦先生の趣味の祭典じゃないか、園芸部の展示って。
私は呆気に取られた顔で近藤くんを見たら、近藤くんもまた憮然とした顔をしていた。
とりあえずたくさん獲った桑の実は私に全部任せられてしまったけれど、これで下手なものをつくれないし、展示品にする以上は見せたり食べたりできるものをつくらないといけないんだから、責任は重い。
私が溜息をついていたら、近藤くんは帰りしなにボソリと言う。
「佐久馬さ、文句あるんだったら言えばいいのに」
「え? 桑の実のこと? 私しかまともに部活来てないのに、私がやるしかないんじゃないの?」
「……お前さあ」
近藤くんは目を細める。それに最初に出会ったときに怒鳴られたことを思い出してたじろぎそうになるけれど、近藤くんが吐き出した言葉はあくまで落ち着いていた。
「なんでもかんでも『はい』『仕方ない』で済ませられるもんでもないだろ。嫌なものは嫌って言わないとつけあがる奴だっているって……俺だって、園芸部の手伝いを嫌だって言ってもやらされてるから、人のこと言えねえけど」
「そう? 私は幽霊部員じゃないと困るから、これくらいゆるゆるの部活で、ほんの少し責任持つんだったらまあ仕方ないなあと思うんだけど」
もし部活に入らなくってもいいんだったら、最初から入らないもの。でも入った以上はやれるだけのことはやるし、やらないといけないこともやるんだけどな。
私がそう言うと、近藤くんは意外そうに目を瞬かせてくる。
「……お前、結構流されてるのかと思ったけど、そうでもなかったんだな」
「……近藤くんは、さすがにそれは、デリカシー足りないんじゃないかな」
それとも男子って、デリカシー欠ける態度がデフォルトなのかな。一周目も二周目も、ほとんど男子と向き合ったことのない私は、どうにも男子のことがよくわからないままだった。
結局持って帰って、スマホで検索をかけながら桑の実でジャムをつくることにした。先生に聞いたら、別に展示品として見せるものだから試食のことは考えなくていいよということなので、味は度外視で日持ち優先と、砂糖をドバドバと入れながらアクをすくいつつ桑の実を煮る。
隣の鍋で空き瓶を熱湯で殺菌しながら、ジャムの味見をした。
「あっま」
手伝ってくれたんだから、近藤くんにも味見して欲しいけど、これはさすがに甘過ぎないかな。これだけで試食させるのは申し訳なくって、ホットケーキミックスの元をバターと混ぜて焼いただけのスコーンも添えておくことにした。
そういえば。
女子同士で友チョコを送り合ったり、お菓子をつくって差し入れし合ったりしたことはあっても、男子に試食という名目で手作り菓子を持っていくのは初めてだ。
……近藤くんは悪い人ではないのかもしれないけど、やっぱり体育会系の特有の空気が付きまとっているから苦手だ。そもそも園芸部の活動日じゃない限りは会わないんだもの。明日は剣道部の練習はあっても、園芸部の活動日じゃないのに、なに張り切ってるんだろう私は。
そうは思ったものの、いつも手伝ってくれているお礼だ。
私はそう言い訳して、タッパにスコーンを、煮沸の終わった空き瓶にジャムを入れて、明日持っていく準備をすることにした。
……思えば私、他のクラスに行ったこともないから、どんな顔で差し入れすればいいのかも、全然わからないや。
今更になって気恥ずかしくなったけれど、日頃の感謝と自分に言い訳して、タッパを桜柄の風呂敷で包んだのだ。
****
DクラスとEクラスは隣同士にも関わらず、案外接点がない。
合同授業で一緒に授業を受けることもあるんだけれど、選択科目で一緒のものを取っていなかったら案外絡むことがない。おまけに男女だったら体育だって一緒にはならないし。
私は手を合わせて恵美ちゃんについてきてもらいながら、Eクラスの教室の扉から中を覗き込んでいた。
「いた? 剣道部の人」
「いない……もしかして、まだ朝練なのかな」
「かもしんないねえ。しかしまあ……いつの間にいい感じになったの。その、近藤くんとやらと」
……本当に、そんなんじゃないんだったら。
すぐに惚れた腫れたに結びつけようとする恵美ちゃんに、私は首をぶんぶんぶんと振る。
「ただお世話になってるから。あと私、ひとりで部活やってるのいつも手伝ってくれるから」
「最初はさんざん怖がってたのに、変われば変わるもんだよねえ……ああ、私もこういう甘酸っぱいのがいいなあ」
「なあに、彼氏ともう倦怠期に入ったの?」
前の周でも今の周でも、恵美ちゃんは特に彼氏と別れることはなかったと思うけど。私はそう思いながら廊下で近藤くんを見ないかと視線をさまよわせていたら、恵美ちゃんは「違う違う」と手を振った。
「あたしじゃなくってさあ。うちの部。ひとりやたらめったらモテるのがいるの。ラブコメマンガの主人公みたいな奴」
「……ええ?」
その言葉に、私は声が上擦る。
私の声に「別に大丈夫だよ、他の部には迷惑かけてないみたいだしさ。クラスではどうだか知らないけど」と恵美ちゃんが笑って言う。
「なんでだろうねえ。特に顔がいいって訳じゃないけど、素行がいいのかな。ちょっと悩んでる子の相談乗っていたら、いつの間にやら惚れられてたっていうのを繰り返しててねえ。そいつ好きな女子で硬直状態なの。こんな状態で誰かひとり出し抜いて告白したら、一気に気まずくなるからできないって感じで、端から見てても変な緊張感漂ってる」
その状況にものすごく心当たりがあるから、私は内心「やっぱり」とも「またか」とも思いながら、ただ「そうなんだ」と曖昧に笑った。
……また、篠山くん。モテまくっているんだ。
前のときを思い出して、私はそっと溜息をついた。
大丈夫、ここでは私と彼は赤の他人なんだから。今後も会うことはないんだから、勝手に心配したりしない。変な嫉妬を起こしたりしない。
……まだなにもしてない人を「気持ち悪い」なんて思ったりしない。また喉を苦酸っぱいものがせり上がってきそうなのを必死で堪えていたら。
「佐久馬?」
「あ……おはよう!」
汗のにおいを漂わせて、近藤くんがやってきた。スポーツモヒカンの短い髪が、ペタンと額に張り付いてしまっている。私は急いで荷物を取り出した。
「あの、これ……!」
「……なにこれ」
「昨日採った桑の実でジャムつくったから、その試食! 文化祭の展示品だから、痛んじゃいけないってものすっごく甘くつくったから、そこにあるスコーンと一緒に食べて!」
「お? おう……」
普段はいかつい顔をしている近藤くんの顔が、珍しく崩れている。
あれ、甘い物苦手だった? だとしたら失敗したなあ、ちゃんと聞いておけばよかった。私は思わず「食べられる?」と聞いたら、だんだんと近藤くんの顔が火照ってきたのに気付いた。
「……俺、女子から食いもんもらうの初めて。ありがと。大事に食べる」
そう言って私の差し出したものを本当に壊れ物を扱うように受け取ってくれた。
その反応に、今度は私のほうが顔を赤くする番だった。
私だって、男子に差し入れ渡すの初めてだよ。普段近藤くん、もっと嫌そうな反応するのに、こんなときだけこんな顔するなんて……!
なにか言わないとと思って、顔を真っ赤にしたまま「その風呂敷とタッパは食べ終わったら返してね!」とだけ言っておいた。
教室に戻るとき、一部始終を見ていた恵美ちゃんにさんざんからかわれたのは言うまでもない話だ。
「いやあ、青春だねえ」
「……そんなんじゃ、ないよ」
少しだけふわふわと気持ちが舞い上がりそうになるけれど、それと同時に鉛を飲み込んだように気分が沈む。
こんな気持ちになったことが、一度だけある。
でもそれはたった一日で、最悪な結末を迎えてしまった。
もうあんな気持ちは味わいたくないな。
そう思ったら、今の気持ちに蓋をして、見なかったことにしてしまったほうが痛くなさそうだ。
もう絶対に、二度目のチャンスなんてやってこない。あんなに痛い思いは、もうしたくない。
中間テストが終わったら、一気に窓に日差しが強く差し込んでくるようになる。
今年は空梅雨で、もっとじめじめすると思っていたのが嘘のようで、毎日毎日暑い。天気予報だと、今年は蝉は土の中でほとんど熱で死んでしまって出てこないとか、気温が高過ぎてそもそも鳴かないとか、いろんなことを言っている。
制服が冬服から夏服に切り替わった頃、私の部活の格好もジャージから半袖の体操服と短パンに切り替わっていた。
鬼瓦先生から「昼に水やりしたら、畑が煮沸されてしまうから、なるべく日差しの低い内に」と教えてくれたので、前日になるべく家事を済ませてから、早めに登校して、水を一生懸命畑にやっていた。
校庭からはどこかの部活のランニングのかけ声。私はホースに手をやっているときだけは涼を取ることができた。
そういえば。中間テストが終わってから、あんまり近藤くんは園芸部の部活には顔を出さなくなった。最初はあれだけ嫌がっていたのに、気付いたらずっとあの大きな人と一緒に土いじりをしていた。私には重過ぎる土や肥料も軽々と運んでくれていたけれど、今は本当に見なくなってしまったなあ。
鬼瓦先生になんの気なしに聞いてみたら、あっさりと教えてくれた。
「ああ、近藤くんね。ようやく部の試合に出ることになったから」
「そうなんですか……?」
「もうすぐ県大会だからね」
そうなのか、と私はぼんやりと思う。
運動部とはほとんどクラスでも話をしないから、県大会がいつとか、インターハイがいつとか、そんなことまで私はちっとも知らなかった。
私自身も部活の日以外は真っ直ぐスーパーまで行って買い物をしているから、運動部の見学なんてしたことがない。
その日の部活が終わったあと、普段だったらかけ声が怖くって絶対に自主的に足を運ばない剣道場まで、なんの気なしに足が向いていた。運動部の独特の空気が、文化系女子にはちょっと怖過ぎる。
邪魔にならないようにと、夏だから開けっぱなしになっている剣道場の戸から覗いてみると、皆が皆、胴着の上に防具を被って、竹刀を激しく打ち合っているのが見えた。
私にはどの人がどれだけ強いのかがわからない。
ただ大きな声を上げて、互いを威嚇している様。竹刀を結んだ途端に、互いの竹刀をさばきはじめる動きの俊敏さ。ときどき見せる打ち込みの激しさ。
どれもこれも、そこそこ距離の近い場所から見るのははじめてで、汗のにおいの濃さも忘れて、ただポカンと口を開けて見ていた。
やがて、打ち合いが終わったあと、皆が銘々防具を取りはじめる。防具を取った途端に、より一層汗のにおいが強くなったような気がする。皆が皆、端に寄せてあるペットボトルを傾けはじめたとき、やがてひとり、こちらにドタドタと近付いてきたのに、私は思わず固まっていた。
大柄な近藤くんが、少し驚いた顔してやってきたのだ。
「お前……今日部活は?」
「きょ、今日の作業は終わったから……近藤くんは?」
「打ち合いの練習も終わったし、もうちょっとしたら着替えて帰る。あー……先生からなにか言われたのか?」
「ち、違うよ……ただ、最近近藤くん見ないから、部活大変なのかなと思って……」
言っていて、だんだんと恥ずかしくなってきた。
……別に私と近藤くんは、園芸場で一緒に作業するだけの仲であり、それ以上でもそれ以下でもない。クラスメイトですら、ないんだから。
近藤くんは少しだけ困った顔をしながら、手持ちのペットボトルを傾ける。
「んー……じゃあ、一緒に帰るか? そろそろ日が傾いてきたし」
「いや、いいよ。普段からこれくらいの時間だったらひとりで帰ってるし」
今日はまだご飯の準備は揃っていたから、他に買い足すものもなかったはずだと、冷蔵庫の中を思い浮かべる。それに近藤くんはますます眉を潜ませる。
「……いや、ちゃんと送らせろよ」
そう言って、「暑いけど、ここでちゃんと待ってろよ!!」と言い残して、そのまま去って行ってしまったのに、私はぽかんとしていた。
恵美ちゃんはさっさと帰って、今頃は彼氏とファミレスデートをしているはずだ。
だから、こういうときに周りに誤解されたくないからと逃げ帰るのが正解なのか、このまんま好意に甘えて送ってもらうために待つのが正解なのか、アドバイスが欲しくっても全然聞ける相手なんていなかったんだ。
他の剣道部の人たちも、身長が大柄な人から私とそこまで変わらない人までいても、どの人も私よりも体格はがっちりとしているし、別に特別細い訳じゃない私でも細く見えるような気がする。
ときどきこちらに好奇心でちらちらと見てくる、着替え終わったらしい剣道部の人たちにビクビクしていたら、「佐久馬!」と声をかけられて、私はびくり、と髪の毛を逆立てる。
制服に着替えた近藤くんが、汗で額に前髪を貼り付けたまま、こちらにズカズカと寄ってきたのだ。
「帰るぞ」
「え、あ。はい」
なんだろう、こんなに物々しい下校。初めてなんだけれど。
自転車登校らしい近藤くんは、鞄と一緒に竹刀袋を背負い、なにげに私のほうを見ると、くいっと前籠を指差した。
「そこ。鞄入れていいから」
「えっ?」
「ほら、いいから入れる」
「あ、はい」
私がいそいそと近藤くんに言われるがまま鞄を籠に入れたら、そのままスタスタと歩きはじめてしまった。
近藤くんと私はコンパスの差があるせいで、私は必死で着いていかないと追いつけない。それに近藤くんは少しだけ意外そうな顔をしてこちらに振り返った。
「……もしかして、お前足が遅いの?」
私の足が遅いんじゃなくって、私と近藤くんだと足の長さが違うの!
そう声をかけたかったけれど、萎縮してしまって上手く抗議の声が出なく、私は「ごめんなさい」と謝っていった。
近藤くんは少しだけ自転車にブレーキをかけて、こちらのほうに振り返る。
「別に、言ってくれりゃ遅く歩くのに」
「そんな、鞄入れてくれてるのに」
「別にそんなこと感謝するとこじゃなくね?」
この人、優しいのか優しくないのか全然わからないなあ。
私は少しだけ歩みが遅くなった近藤くんの隣を、テクテクと歩く。
まだ空は高い。やっぱり、今日みたいな日は私ひとりで帰っても大丈夫だったんじゃないかなとぼんやりと思う。
「なあ、佐久馬。お前日曜日暇?」
「えっと」
頭にぱっと出たのは、スーパーの特売日だった。その日はお母さんも休みだから、車を出してもらって大量に調味料とか日持ちする食料とか買っておくのだ。
なんて。言ってもわからないよねえ。私は無難に「買い物」と言うと、近藤くんは「そっかあ」とだけ言った。
あれ。私は目を瞬かせながら、近藤くんを見た。
「なにかあったの?」
「……なんもねえ」
「あの、私。また怒らせるようなこと」
「あのなあ、たしかにお前、見ててすっげえイライラすることあるけど」
また怒気を孕んだ声を出すのに、私は肩を強ばらせる。それに気付いたのか、近藤くんは少しだけ気まずそうにふいっと顔を逸らした。
「……いや、忙しいんだったら別にいい」
「ええ? うん」
そのまま、ふたりとも特に会話が弾むこともなく、うちのマンションまで帰ってしまった。私は鞄を取り、「ありがとう、送ってくれて」とお礼を言ったら、近藤くんはぶっきらぼうに「おう」とだけ言って、そのまま自転車に跨がって帰って行ってしまった。
……元来た方向へ。
私はそれを、ポカンとして見ていた。
もしかしなくっても、家、逆方向だったんじゃ。申し訳ない気分とむずむずした気分が迫り上がってくるけれど、同時に胃液が上がってきたのを、どうにか堰き止めた。
……近藤くんは、口が悪いし態度も悪いけど、多分いい人なんだ。
だから、私みたいなよくわからない人間に優しくしなくってもいいのに。そう思いながら、彼を背にして、マンションへと入っていった。
****
「それ、応援に来て欲しかったんじゃないの?」
休み時間に昨日のことを、かいつまんで話したら、あっさりと奈都子ちゃんにそう指摘されてしまった。応援って……剣道の?
私がわからないという顔をしているせいか、奈都子ちゃんはポテチを食べながら話を続ける。
「うん、だって日曜日は剣道部、県大会だったんじゃないかな。近藤が団体戦に出るのか個人戦に出るのか知らないけど、どっちかに出るのが決まったから応援して欲しかったんじゃないの?」
「え……でも、私。剣道全然わからないんだけど……!?」
「いや、そりゃそうだろうけど」
奈都子ちゃんが助けを求めるように恵美ちゃんのほうに顔を向けると、恵美ちゃんはそのまま私にがばっと抱きついてきた。
「よかったじゃない! 上手くいけば彼氏ゲットだよ!」
「いや……でも、そういうのって、よくないんじゃ」
「なにがよ?」
「だってさ……近藤くん。本当に剣道好きで。顧問のせいで園芸部の手伝いとかさせられたりするの、すっごく嫌なくらい剣道好きなのに、浮ついた気持ちで見に行くのは、失礼なんじゃないかな……」
最初に泣かされたことは、今でも怖かったと思うけど。実際に近藤くんは背が高いし、言動がぶっきらぼうだし、女子の扱い本当にわかってないなって思うけど。
好きなことを一生懸命好きでいるのは、私も羨ましいなと思う。私にはそういうなにかに打ち込むって情熱、ちっともないから。
嫌なものは嫌って言えって、自分のことじゃないのに怒ってくれるのも、多分いい人だからだと思う。
私がそう思ったことを口にしてみたら、奈都子ちゃんはぽろっと指先からポテチを袋に落とし、暑い中抱きついてくる恵美ちゃんが、そのまま私の背中をバシバシと叩いてきた。
「そこまで思ってるんだったら、なおのこと行ってあげたほうがいいよっ!」
「え……でも。私が行ったら失礼なんじゃ……」
「うーん、あたしが彼氏とデートスポットのひとつとして野次馬に行くんだったら失礼だと思うけど、近藤が頑張ってるのを知ってるあんたが見に行くのは、ちっとも失礼なことじゃないと思うな!」
「そう、なのかな……」
剣道部の部活の応援って、なにか持ってったほうがいいんだろうか。それは近藤くんに聞けば教えてくれるのかな。私はぼんやりと近藤くんのことを頭に思い浮かべてみた。
悪い人ではないんだと思う。ううん。むしろ優しい人だと、最近になって特にそう思っている。
でも。
頭に浮かんでくるのは、どうしても篠山くんと瀬利先輩のキスシーンだ。
そのシーンを思い出すたびに、喉を苦酸っぱい味のものが突き上げてきて、それを必死で飲み下してなかったことにしてしまう。きっと今の私は、眉間に皺を寄せた変な顔をしていることだろう。
……もうこれは終わった話だし、私は既に死んでいるんだから、その世界の話にどうやっても介入なんかできない、どうしようもない話だ。
ふわふわとしたものが浮かんでくるけど、それをどうしても押し留めてしまう。怖い。フラれてしまうほうがまだマシだった。私の恋心を簡単に踏み潰されてしまう、それが一番怖い。
その日、私は園芸部に鬼瓦先生に謝って早めに家に帰ることにした。買い物に行かないといけないから。
本当だったら、近藤くんと少しだけ話がしたかったけれど、稽古中の人に声をかけるのも忍びない。私は剣道場のほうを一瞥してから、さっさと帰ろうとしたとき。
「佐久馬」
声をかけられて、私はビクン、と肩を跳ねさせた。振り返ったら、胴着姿の近藤くんがいた。多分走り込み中だったんだろう。少し息が上がっているようだった。
「こん、にちは」
「……あー、もう怒鳴ったりしないって。さすがに毎日急いで帰ってるのを見たら、なんかあるんだろうってことくらいはわかるし」
「ごめん……」
「そんなに怖がるなって」
私がビクビクしている中、近藤くんはガリガリとうなじを引っ掻いたあと、もう一度私のほうに視線を戻した。
「あのさ、いっつも忙しそうにしてるけど、日曜はやっぱり忙しいか?」
「えっと……土日だったら、親も休みだから大丈夫だと思う」
「あれ? 前に買い物って言ってたけど」
「うち、共働きだから。だから普段の家事は全部私がやってるし、週末は買い出しに行ってるから……さすがにそれだけじゃ全部賄えないから、平日でも買い物に行くけど」
そう伝えたら、少しだけびっくりしたように目を見開いたあと、「あー……すまん」と唸り声を上げられてしまった。
「どうして?」
「あー……うん。そんなに急いで帰らないといけないのかって、思ってなかったから。あー……すまん。でもそれだったらなおのこと、休みを潰す訳には」
「私、剣道のルールとか、全然わからないけど、見に行っても大丈夫なの?」
そう言ったら、またも近藤くんは目を見開いたあと、こちらにもう一度声をかけてきた。
「マジで?」
「えっ?」
「マジで見に来てくれんの? あー……よかった。別に審判の言葉聞いとけばだいたいわかるから、ルールはそんなに問題ないと思う」
「そうなの? えっと。なにか持っていったほうがいいの?」
私の言葉に、近藤くんは目をパチクリとさせていた。私は言葉を続ける。
「えっと差し入れ。他の先輩さんたちの邪魔にならなかったら、だけど……」
「アイス。アイスだったら入る。安いのでいい。アイス」
アイスだったら、ドラッグストアのポイントとクーポンを使えば、人数分買ってもそこまで高くないかな。普段から買い出しに行っているドラッグストアのポイントを頭に浮かべながら、私は頷いた。
「わかった。邪魔にならないよう、見に行く」
「おう。じゃ」
そう言って近藤くんは、ぶっきらぼうに背を見せて去って行ってしまった。でも。気のせいかすれ違いざまに見上げた耳が赤かったような気がする。
私は家に帰る前にスーパーとドラッグストアをはしごして、買い物していった。ここしばらくのご飯の材料を買い足していたところで、私は鶏肉が安いことに気が付いた。
……多分剣道の試合では、傷むものを出さないようにってことで、手作り品は駄目なんだろうけど。平日の昼ご飯だったらどうなんだろう。私は鶏肉の値段をちらっと見てから、一枚余分に買っていった。
今晩のおかずとして、漬け汁に漬けたひと口大の鶏肉を、米粉の衣を付けてジュワッと揚げる。二回揚げてから、多めにつくったぶんを冷ましておく。
体育会系男子に唐揚げって、安直過ぎるのかな。そう思ったけれど、私は近藤くんの好きなものをなにも知らない。
ただふわふわしてたいだけだったら、もうなにも考えずにただ眺めていればいい。傷付きたくないんだったら、もうなにもしなかったらいい。
でも。私は彼の赤い耳が、脳裏から離れなかった。
早く前の記憶が掻き消えてしまえばいいのに。
私はそう思いながら、片手鍋で味噌汁をつくりはじめる。
記憶に残っているキスシーン。あれが未だに引っかかっている。どうにか押し込めようとしても、私がふわふわとした気持ちになった途端に出てきてしまう。怖いし、思い出したくないし、誰にも説明できない記憶だ。
まだ、ただふわふわとした気持ちを楽しみたいだけ。まだ、どうこうなりたいなんて微塵にも思っていない。
想うことさえ気持ち悪くなってしまうのなら、私には前の記憶なんて必要ない。
****
次の日、私はいつものように早めにやってきて、園芸場の草木に水をあげていた。そろそろ日差しがきつくなってきたから、朝に加えて夕方も水やりをしないといけなくなるだろう。
私がホースを細く持って水をあげているところで、「おはよう、今日も早いな」と声をかけられた。近藤くんも胴着姿で、既に汗のにおいがするんだから、充分早起きだ。
「おはよう。もう大会が近いんだから、先生だって園芸部の手伝い、許してくれるんでしょう?」
「いや、そりゃそうだけどさ」
そう言ってこちらのほうを見てきた。
私も近藤くんも、そんなに言葉数がない。沈黙が降りて、その中でホースから水が飛ぶ音だけが響いている。
「あの、近藤くん。唐揚げ好き?」
「はあっ?」
あまりにも脈絡なさ過ぎる言葉に、近藤くんは声を裏返して反応を返してくれた。そうだよね、私だって会話の前後と全く関係ない話だと思うもの。だいたいの土がしっかりと湿ったのを確認してから、ようやく水を止めてホースを立てかける。
「昨日、肉が安かったから、唐揚げつくり過ぎちゃったの。ええっと、友達に配るのも、嫌がられそうだし……」
多分恵美ちゃんも奈都子ちゃんも、私がタッパに詰めてきた唐揚げを見たら、すぐに食べてくれるとは思うけど。
私がたどたどしく並べる言葉に、近藤くんはしばらくポカンと黙り込んだあと、「おう」と頷いた。えっ、これって……。
「食う」
「あっ、ありがとう……っ」
「いや、俺。女子からその。食い物もらうの、初めてで……」
そう言ってしどろもどろになっている近藤くんに、私は笑った。
「桑の実ジャムは駄目だった?」
「いや、あれは。まあ……美味かった。うん、楽しみ」
「片言になってるよ」
さんざん笑ったけれど、私だって恥ずかしい。
言い訳並べて取っておいたタッパを近藤くんに渡したあと、剣道部の試合の時間と場所の確認を取ってから、私たちは別れた。
心臓がうるさい。ジャムだったらまだ文化祭のための試食だと言い訳ができたけれど、唐揚げだったら言い訳が全然できない。男子が好きそうという理由だけでつくって、それを渡したのなんて。近藤くんにはつくり過ぎたなんて嘘ついたけれど、こんなの端から見たら下心なんて見え見えだもの。
ああ、情緒不安定だ。まさか言えないじゃない。
言う気はないけれど、好きでいさせてくださいなんて。好意がそのまんま通じてしまわなくってよかった。本当によかった。私はそう思いながら、教室へと帰っていった。
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お父さんとお母さんには「友達の部活の応援に行きたい」と言ったら、拍子抜けするほどあっさりと「行っておいで」と言われてしまった。
「普段由良には家事やってもらってるし、土日くらい遊んできなさい」
そう言われて、お母さんが車を出して途中まで送ってくれた。
剣道の県大会は県立の体育館を貸し切って行われるものらしい。
クーラーボックスにアイスをいっぱい入れて持っていって体育館に入ったとき、四つのブロックに分かれて、そこで大会の準備が行われているのが見えた。
団体戦と個人戦。ふたつのブロックで団体戦が、もうふたつのブロックで個人戦が行われるらしい。女子と男子はそれぞれ別の体育館らしくって、ここでは男子しか見つからなかった。もっとも、胴着着て防具付けちゃったら、端からだと男女の区別なんて付けようがないけれど。
私がきょろきょろとうちの学校を探していたら、「佐久馬さん?」と声をかけられた。鬼瓦先生だ。それに私はぺこりと頭を下げる。
「こんにちは! あの、差し入れを持ってきたんですけど……」
「ああ、ちょうど今から試合始まるから、こっちで見ておいで」
「ええ? いいんですか?」
「この辺りはうちの生徒たちが固まってるから、問題ないよ」
そう鬼瓦先生が言うので、ちらっと見る。
なるほど、胴着や防具は付けてないシャツと短パン姿だけれど、たしかにスポーツバッグを持って座っているのはうちの学校の男子らしい。試合には参加しない子たちなのかな。
私は邪魔にならないように座って、下を見た。
下ではうちの学校の団体戦が。向こうでは個人戦が見える。
皆がそれぞれお辞儀をしているのを見たとき、ふいに個人戦の男子がひとり、うちのほうに振り返ったことに気付いた。防具にはうちの学校の名前が入っている。そして、竹刀を持っていないほうの手を挙げたのだ。
あれ、もしかして……。
鬼瓦先生はのんびりと口を開いた。
「近藤も調子に乗っているから。ちゃんと見てないと怪我するのに」
「えっ……! 防具付けていても、ですか?」
「竹刀は割れやすくできているから、ちゃんと防具に当たれば怪我はしないけど、打ち所が悪いと誰だって怪我するよ」
「えっ……!」
そんな当たり前なことすら知らなかった私は、おっかなびっくり近藤くんの試合を凝視した。
審判の人が旗を挙げたのだから、試合がはじまったのだろう。
皆が皆、気合いの入った声を上げながら、なかなか打ち合いがはじまらないのを見ている。
「あのう、竹刀振らないんですか? さっきからずっと声を上げながら回ってますけど……」
「剣道はね、間合いを見る競技だから」
鬼瓦先生がゆったりと解説してくれるのを聞きながら、私は近藤くんを見ていた。ここからだと少し遠いけれど、互いが睨み合いながら、ぐるぐると回っているのが見える。
やがて、相手側のほうが大きく打ち込んできた。それを近藤くんが受け止める。もっと打ち合うのかと思ったけれど、何回か鍔競り合いをしたあと、またもぐるぐると周りはじめてしまった。
「あの、このまま打たないんですか? ええっと、面とか胴とか」
聞きかじりの言葉を言うと、鬼瓦先生は軽く首を振る。
「剣道は三本勝負だから、先に決め技を二本決めたほうが勝ちなんだよ」
「ええっと……?」
「さっきの鍔競り合いで、もうちょっとでどちらかが打ち込みそうになった。だからまた間合いを取ったんだよ。ここからじゃわかりにくいかもしれないけど、互いに相手の次の行動を読み合って、今は勝機がないとわかったから、もう一度間合いを空けたんだよ。でももうそろそろ勝負は決まるよ」
「そうなんですか?」
鬼瓦先生の言葉に、まだ勝敗がわかってない中、ふいに空調の風が吹いた。この辺りも熱気や湿気がこもっていてムンムンしているから、その風がありがたかった。
そのとき。近藤くんが動いた。彼の大きな突きが、相手の胸を客席にも聞こえるほど大きな音を立てて打ったのだ。途端に、白旗が近藤くんのほうに上がった。
「わっ!」
「うん、見事な胸打ちだね」
「すごい!」
わかってないなりに、今の近藤くんの技がすごかったことだけはわかった。結構間を空けていたはずなのに、技が決まったのはあっという間だったから。
私が思わずパチパチと手を叩いている中、他の部員たちがやんややんやと喝采している中、鬼瓦さんは隣に座っている私にしか聞こえない程度の声でつぶやく。
「園芸部活中も、近藤もしょっちゅう機嫌悪くってピリピリしてただろ」
「ええっと……そんなことないです」
「別に怒ってないから、誤魔化さなくってもいいよ。。勝負事になったらどうしても喧嘩っ早い子が集まるから、空気を抜くために園芸場に連れて行ってるけど。あれも最初は同級生だけだったらともかく、上級生とまで折り合いが悪かったからねえ。そんな態度ばかり取るんじゃ、とてもじゃないけど団体戦には出せないし、だからといって個人戦で他校の生徒とまで揉めてしまっても困るし、大丈夫かねえと心配してたけど。佐久馬のおかげで大分マシになったねえ」
「え、私……ですか?」
思えば。たしかに近藤くんは最初、好きでもない園芸部の手伝いで終始機嫌が悪かった。私も他に入れる部がないから辞めることもできないし、ずっと部活中はピリピリしていたと思う。
私はただ、怖くて勝手に泣いただけで、近藤くんのためになにかしたことなんてなかったと思うけど。
ただただ首を傾げている中、鬼瓦先生はゆったりと笑う。怖い顔も、笑えば存外優しく見える。
「若いっていいねえ」
そう締めくくられるけれど、本当に心当たりがないものだから、そうなのかなとしか思えなかった。
結果、近藤くんは一度は打ち返されてしまったものの、また取り戻したから、二対一で勝ち上がり。次の試合まで少し休憩したところで、私はようやく選手の皆にアイスを配りに出かけることにした。
うちの学校、たしかに運動部は強いらしく、剣道部もご多分に漏れず強い。団体戦も次の試合へとコマを進めたのに、私は怖々とクーラーボックスを抱えて挨拶に行った。
「お、お疲れ様です……!」
「あれ、一年の子……だよね?」
防具を取って、噴き出てくる汗をタオルで拭っている先輩は、たしかに前に剣道場で見た先輩のうちのひとりだったと思う。私がときどき近藤くんを見に行っていたから、顔を覚えられていたらしい。
私がアイスを配りたい旨を伝えたら、先輩はすぐに「お前らー、一年から差し入れだぞー!!」と大声で言い「あざーっす!!」と頭を下げられるものだから、私はビクビク震えながら、クーラーボックスを開けてアイスを取ってもらった。
私はアイスをひとつ持って近藤くんを探すと、近藤くんも防具を取ってペットボトルを傾けているところだった。私はひょいとパッケージごとアイスを差し出す。
「お疲れ様。あの、私。ルール全然わからないけど、すごかった」
「えー。ルールわかんないのにすごいってなんだよ」
「ルールわかんなくってもすごいって見てて思ったんだよ」
「ああ、サンキュ。アイスもな。ありがと」
そう言いながらパッケージをめくってアイスに齧り付いた。近付いてみると本当にこの辺りは湿気がむんむんしているし、たしかに冷たいアイスが余計においしく感じるのかもしれない。
私も湿気でパタパタと手を振っていたら、近藤くんがひょいと私が配ったアイスを差し出してきた。まだ少ししか囓っていない。
「ここ無茶苦茶暑いのに、お前の分ないだろ」
「いや、いいよ。私も別に、近藤くんの応援に来ただけだから」
「あのなあ。甲子園での高校野球でだって、観客も選手もバタバタ倒れてんだろ? 熱中症ってマジで怖いんだからな。ちゃんと水分摂っとけ、室内だからって油断すんな」
「え、でも……」
「ほら」
またもずいっとアイスを差し出されて、私はたじろぐ。
これって間接キスになるんじゃ……。友達同士でだったら平気でペットボトルの飲みっこだってできるけれど、男子と間接キスなんてしたことがない。
ただ、近藤くんが眉間に皺を寄せて「ほらっ」となおも差し出してくるし、熱気のせいでアイスも溶けかけているのを見たら、さっさとひと口食べて返さないと、近藤くんが食べられなくなっちゃうと、慌ててひと口もらうしかなくなったのだ。
シャクッとひと口囓ると、冷たさが喉を通っていく。本当に、暑い場所で食べるアイスはおいしい。
「ありがと……もう残りは近藤くんが食べちゃって」
私がそう言って近藤くんを見上げると、いつかのときと同じく、耳まで真っ赤に染まっているのが見えた。
……まさか、近藤くん。本気で間接キスだって気付いてなかったんじゃ。
こちらのほうを、先輩たちが生暖かい視線を向けてくるのがつらい。さっさと観客席のほうに戻ったほうがよさそう。
「そ、それじゃ。私もそろそろ、戻るから……」
「おい、佐久馬」
「はっ、はいっ……!」
私が脱兎しようとする前に、近藤くんはぶっきらぼうに言う。
「……絶対に優勝するから、見とけ」
「う、うんっ」
なにこれ。なにこれこの少年漫画みたいなのは。
私がパッケージを回収してそのまま観客席まで戻るまでの間、ヒューヒューと口笛が飛び、近藤くんは恥ずかしかったのか、単純に次の試合の順番が近いのか、すぽっと防具を被って顔を見えなくしてしまった。
気恥ずかしい中、私は試合に挑む近藤くんを見た。
鬼瓦先生の解説のおかげで、どうにか試合の流れもわかってきた。おかげでどこで声援を上げればいいのか、どこで拍手をすればいいのかもわかってきて、心の底から剣道の試合を楽しむことができた。
結果として、うちの学校は県大会優勝。近藤くんも個人戦を優勝し、インターハイにまで進めることができたのだ。
なんだろう、これ。すごい。有言実行だなんて。優勝旗が渡されるのを眺めながら、私は観客席でずっと手を叩いていた。
ようやく帰る用意をはじめたところで、私はようやく近藤くんに声をかけることができた。
「近藤くん! 優勝おめでとう! あの、すごかった! 本当に、すごかった!」
「おう、サンキュ。でもお前、ルール全然わかんないとか言ってただろ」
「鬼瓦先生が教えてくれたからわかったよ! でも、本当すごくって!」
「お前ぜんっぜん語彙ねえなあ」
「なんだろう、感激していると、言葉が本当に全然出てこなくって……!」
我ながらあまりにも頭の悪過ぎる感想だったけれど、近藤くんはまたも照れたように頬を引っ掻いて明後日の方向を向いていた。
「いや、お前が見に来てくれたのに、下手な試合はできねえし……まあ、佐久馬はマジでルールわかってないから、俺が下手な試合してもわかんねえかもしれないけど」
「か、勝ち負けはわかるよっ! 審判さんたちが旗上げるし!」
「いやそうなんだけどさ」
近藤くんはようやくこちらに視線を合わせて、にんまりと笑った。
まるで大型犬が牙を剥いたような、獰猛な笑みだったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
「ありがとな」
「……うん」
私はそのお礼に、何度も馬鹿みたいに首を縦に振っていた。
いつも、ふわふわしていたら、キスシーンが頭に浮かんで、吐き気がこみ上げてくるのに。初めて、キスシーンが脳裏に瞬くことも、吐き気が喉を迫り上がってくることもなかった。
県大会を見に行ってから、私と近藤くんの関係は少し変わったように思う。
近藤くんはインターハイの稽古もあるのに、朝と夕方の水やりは手伝ってくれるようになったのだ。
さすがに近藤くんは部活のない日じゃなかったら家に送ってくれないけれど、ときどき一緒に帰って、私がスーパーやドラッグストアで買い出しするのに付き合ってくれるようになった。
買い物に一緒に行くたびに、私は買い出しメモを見ながら籠にひょいひょいと物を入れていくのを、近藤くんは驚いた顔をして見てくる。
「お前……普段からこんなことやってんのか?」
「ええっと、うん」
夏場はどうしてもなんでもかんでも傷みやすいから、まとめ買いしても傷んで駄目になってしまうことが多い。だからこまめに買い足していくしかないんだけど、近藤くんは本気でそういう買い出しがわからなかったらしい。
私が一生懸命100円引きシールの貼られているパンや牛乳、セールになっているお肉を選んでいるのを、驚いた顔で見ていた。
「これで学校行けてるのか?」
「行ってるじゃない。うちは親が共働きだから、どうしても平日の家事は私に回ってきちゃうからさ」
「はー……」
「別に土日は暇だから、そこまで驚かなくっても」
「なんというか、佐久馬ってすごいな」
そう近藤くんがしみじみと言うので、私はキョトンとしてしまった。
「どうして?」
「いや、うちは親父は警察で働いてるし、じいさんも警察学校で剣道やってるから、男は剣道やるっていうので全部回ってんだよな。お袋がこんなに買ってるとか、思ってもなかったわ」
「うーんと」
私は逆に、近藤くんに全部悟らせないで家事全般をこなしているお母様のほうがすごいんじゃ、と思った。だって運動したあとの男の人って、恐ろしいくらいに食べるし、エンゲル係数は全然馬鹿にならないんじゃ、とわかってしまうから。
ないものねだりと言ってしまえばそれまでだけど、人のすごいところや自分の家のすごいところなんて、他人から見ないと案外わかんないもんだよね。
「近藤くんも試合や稽古があるから難しいかもしれないけど、たまにはお母さんのスーパーの買い出しに付き合って、重いものを持ってあげたらいいんじゃない?」
「……そんな簡単なことでいいのか?」
「うーんと。私はときどき近藤くんが私の買い物袋を持ってくれているので、助かってます。お米と野菜と牛乳が切れたときは、ひとりで泣きそうになりながら袋を持ってたから、ひとつでも持ってくれたら嬉しいし、多分近藤くんのお母さんもそう思うんじゃないかな」
「ふーん、そっか」
実際私は近藤くんが自転車に荷物を積んでくれるおかげで、泣きそうになりながら買い物をしなくっても済んでいるし、充分助かっている。
ふたりでそうしゃべりながら帰っていると、着信音が響いた。私のスマホじゃない。ちらっと見ると、近藤くんが「ワリィ」と言ってからスポーツバッグからスマホを取り出した。
「もしもし……えっ、ごめん、もう一度言って」
なにか話しはじめたのに、私はきょとんとする。重い荷物は全部近藤くんの自転車の籠に入れさせてもらっているし、私がここで聞いてていい内容なのかな。そう思って待っていたら、「じゃあな」と言ってからスマホを消した。
「どうかしたの?」
「うーん……なんか部の備品買って来てって言われたんだよ。明後日でいいらしいけど」
「備品って?」
剣道部の備品ってなんなんだろうなと、私は暢気に思っていたら、近藤くんは「面倒くせぇ……」とガリガリと頭を引っ掻きながら教えてくれた。
「ラインテープ。ほら、この間の試合のときも床に貼ってただろ? あれ」
「へえ……あれってわざわざ貼り替えるものだったんだ」
「長いこと貼ってたら床がベタベタになるから、定期的に貼り替えてんだよ。それを買ってこいって。あとスポドリの粉末」
「ふーん」
普段からペットボトル飲んでるなと思ってたら、皆でスポーツドリンクの粉末を溶かして飲んでいたのか。でもそりゃそうだよね。真夏に剣道場に胴着姿で稽古してたら、いくら戸を全開に開けてたとしても、暑いもんは暑い。
もうすぐインターハイなんだしねえと、私は勝手に頷いて、ふと気付く。
明後日は土曜日だ。親がふたりとも揃って家にいるから、私も自由が利く。
「買い物に付き合おうか?」
「えっ」
あからさまにうろたえた声を上げた近藤くんに、私はきょとんとする。
単純に、私は買い物用クーポンをスマホにいっぱい取ってるから、それ使って買ったら、部費を使うにしても安く上がるんじゃないかと思っただけだったんだけど。
私がわかってない顔をしている中、近藤くんは「お前、ほんっとうそういう奴だよな」と言って、ぷいっとそっぽを向いて歩き出してしまった。最近は私に気を遣ってかゆっくり歩いていたのに、ズカズカと歩いて行ってしまうものだから、私は小走りで追いかけるしかない。
「あの、なんでっ!?」
「お前なあ、なんでいっつもそうなんだよ!」
「あの、私近藤くんを怒らせるようなこと言った!?」
「言ってねえ知らねえ」
ふたりでギャーギャー言い合いながら、ようやく私は気が付いた。
学校が休みなときに出会う。前は剣道部の皆に顧問の鬼瓦先生が一緒だったから、そんな意識はこれっぽっちもなかったけれど。
ふたりっきりで会うんだったらデートだ。
遅れて、私の顔が熱を持った。
****
買い物に行く約束をした日。
SNSで最近流行りの服をチェックする。
前は剣道部の試合だからと、あんまり服のことは意識していなかったけれど、今回は違う。
剣道部の買い出しなんだから、それっぽく言い訳できるように。でも普段着てるようなラフ過ぎる格好は絶対に駄目でしょ。
夏場は量販店で買ったTシャツに、量販店で買ったジーンズというごくごくありふれた格好をしているけれど、それで出かけたらあまりにもデートっぽくない。これじゃ近所のスーパーに買い出しの格好と変わらない。
いや、デートじゃないんだから、デートっぽい格好しなくってもいいのかな。買い出しの格好でも充分という心の声も聞こえるけれど、それじゃ嫌と乙女心が許さない。
……いやいやちょっと待って。そもそも私は近藤くんとデートをしたいの? したくないの?
そもそも、これをデートとは思っていないんじゃ、近藤くんは……。普段の言動を考えれば充分にありえそうだ。でも。
一緒に買い出しに行こうと言ったときの近藤くんの反応を見れば、むしろ気付かなかった私のほうが悪いんじゃとも思えてくる。いやいや、そっちのほうが自意識過剰過ぎる気もするし。うーん、どうなんだろう、これ?
考えれば考えるほど訳がわからなくなり、結局は買ってもらったガウチョパンツに量販店のちょっとだけ高めなTシャツという、いつもよりもちょっとだけおしゃれという無難な格好になってしまった。
これ、いいのかな。私はそれを洗面所の鏡の前でくるくると回って見つめる。
本当だったら化粧とかすればいいんだろうけれど、私は化粧道具なんて持ってない。せめてもと持ち歩いているリップグロスだけ塗る。汗対策として、花の匂いのするデオトラントパウダーを全身にふりかけてから、私は待ち合わせの場所に出かけていった。
買い出しに出かけるスポーツ用品店の入っているショッピングモール前。私はそこへ自転車を走らせていたら、チリンチリンとベルが鳴って、何気なく振り返る。
「よっ、今から行くのか?」
近藤くんだった。有名スポーツメーカーのロゴの入ったTシャツにジャージ素材のハーフパンツ。大きなスニーカーは靴底が少し丸まっている。私服の近藤くんも本当に近藤くんだなと、私は思わず笑ってしまった。
「うん。てっきり私のほうが早いと思ったんだけど」
「いや、あちぃだろ。暑いとすぐ熱中症になって倒れんだよなあ」
「ああ……」
近藤くんの言葉に私は納得した。
この人は口が悪いだけで、優しいんだろうな。それとも、私がいいように取り過ぎてるんだろうか。ふたりで自転車を走らせながら、ショッピングモールの駐輪場に自転車を停めると、目的のスポーツ用品店に入った。
スポーツのことは私にはちんぷんかんぷんだったけれど、近藤くんは楽しげにあれこれと見て回っている。私はわからないなりに、ちらちらとスポーツウェアを眺めていた。
「あっ、これお前にいいんじゃねえか?」
「はい?」
結構高いなあとゴルフウェアを眺めていたところで、近藤くんが声を弾ませてなにかを持ってくる。持ってきたのは大量の軍手だった。って、なんで!?
「もうすぐ園芸部も夏の作業やんだろ。そのときに持ってたらどうだ?」
「えっ? そうなの?」
「おーい、しっかりしろ、園芸部。なんで俺のほうが園芸部のスケジュールに詳しいんだよ」
そりゃ、園芸部を仕切っているのが実質剣道部の顧問だからだよとは、本人もわかっていることだろうから言えなかった。
私が大量の軍手……本当にセールしているみたいで、10個をセットで破格なお値段となってる……を持たされながら首を捻っていたら、近藤くんがガリガリと頭を引っ掻いた。
「園芸部って、文化祭で配るために、苗を育てるんだってさ。で、育てるのがちょうど今頃って奴。重労働だし部員が全然来ねえから、剣道部の一年も駆り出されて作業すんだよ。これでわかったか?」
「う、うん……わかった。でもあれ? 園芸部って、秋の文化祭のとき、私ひとりで準備すればいいの?」
そもそもやる気のない顧問に、見たことない先輩たちという体たらくで、どうして部として残っているのかわからないという部だ。なにを展示するのかだって、ほとんど知らない。せいぜい私が展示用の桑の実ジャムをつくったくらいだ。
それで、近藤くんは「そこもかよ」と呆れたような顔をしてみせた。
「園芸部、いっつも幽霊部員ばっかりだけど、三人四人はなんとか普通に来てるから文化祭の準備もそれなりにはできるんだってさ。今年みたいにアクティブ部員がひとりしかいないほうが珍しいって、うちの顧問が言ってた」
「そうだよね。私もあんまり活動ない部じゃないと入れなかったんだけど」
「その割には結構部に顔出してるほうだと思うけどなあ、佐久馬は。まあ、そんな訳だから、文化祭は園芸部と剣道部で合同でやるんだとさ。剣道部も、大会のせいであんまり大がかりな準備はできないから、園芸部の出し物に便乗するというか、顧問がやりたいことやる」
だろうね。鬼瓦先生の謎の園芸愛を思い返し、私は頷いた。
とりあえず近藤くんの目的の品に、私は軍手を買って、出て行った。あとはクーポンを持っているドラッグストアに行けば買い物は終わりなんだけど。ふたりでドラッグストアへの道へ向かっていると。
ピコンピコンと音楽ゲームの音に、私は思わず音の方角を見る。
「佐久馬?」
「いや、ときどき遊んでいる音楽ゲームに、新曲入ってるなあと」
あんまり友達と遊べないから、土日に憂さ晴らしにひとりでゲームセンターに行って、音楽ゲームをすることはよくある。お小遣いが足りて、テスト前限定だけれど。
近藤くんはそれをひょいと見る。私はそれに「わっ」と言った。
「金はあるの?」
「え?」
「ゲームする金。あ、これはふたりプレイできるんだな」
ゲーム機に近付くと、さっさとひとり分の硬貨は入れてしまった。
「ほら、やりたいんだろ?」
「う、うん!」
私も慌てて財布から硬貨を取り出すと、自分の分を入れる。
「これってどうすりゃいいんだ?」
そう言って不思議そうにゲーム画面を見ているので、私は初心者向けの音楽を探して、それを打ち込んだ。
たちまちプレイスタートし、軽快な電子音が響きはじめた。
「ええっと、赤いラインわかるかな? あそこに来た規定の色のボタンを叩くの」
「ふうん。あれ、三つとか同時に来たけど」
「三つ同時に押すの。こう!」
私が手を伸ばして三つ同時に押すのに、近藤くんも「なるほど」と納得しながら押しはじめる。
この音楽ゲームは割と得意なんだけれど、人に教えながらだとなかなか思い通りのスコアは取れない。対して、初心者モードで初心者向けの音楽だったとはいえど、近藤くんは順調にゲームのコツを掴んでいった。
最終的にはふたりでピタンピタンと押せるようになったんだから、ゲームってすごい。
「結構肩とか張るなあ、これ」
「力入れ過ぎだよ。もっと力入れなくっても入力できるよ?」
「そんなもんか? でもこういうゲーム、あんまやったことないんだよなあ……佐久馬すっげえわ」
「そんなこと……」
「お前なあ、褒めてもすぐ謙遜するし、怒鳴るとすぐ謝るし。自分のこと卑下し過ぎ。もっと上から目線でも大丈夫だって」
近藤くんから見たら、そうなんだなあ。私。
彼はやけに自信満々だし、すぐ文句は言うし人に当たったりするけど、間違ってると判断したことにはちゃんと謝罪する。
いい人、なんだよなあ……。
私はそう思いながら、スコアをちらっと見てから「買い物に行く?」と促した。
デートの作法なんてわからない。もしかしたら、近藤くんからしてみたら、ただ同級生と遊びに来た感覚なのかもしれないけれど。
この時間が続けばいいなあ……。そう思ったときだった。
「もう、光太ってばいっつもそんなんだから!」
聞き覚えのある声に、私は固まった。
私たちの遊んでいた音楽ゲームの裏には、クレーンゲームがある。クレーンゲーム越しに見える女の子の集団には見覚えがある。
あの子たち、全員天文部だ。ちらっと見た限り、恵美ちゃんがいないのは、彼女は彼氏とデートだからだろう。甲高い声を上げているのは、天文部の中でも特に可愛い同学年の女の子だ。たしか……島谷さん。
その女の子集団の中で、ひとりだけ男の子が見える。当然か。アクティブな男子の天文部員は篠山くんしかいないはずなんだから。「光太」と呼ばれた彼の顔はここからだと見られないけど、困ったように口を尖らせているような口ぶりだ。
「そうは言ってもさあ。セールなんだし。だから次は量販店な?」
「磨けば光るのにそんなことばっかり言って!」
「ここもうちょっといい服あるでしょ!?」
「お前ら俺の財布にちっとも優しくないなあ!?」
「あっはっはっは。光太郎、お前ほーんと所帯じみてんなっ! いい嫁さんになれるぞ!」
「茶化さないでくださいよ~」
庶民的で庶民的な反応ばかり示す篠山くんに、女の子たちは当然ながらブーイングする。それを豪快に笑い飛ばしているのは、瀬利先輩だろう。こちらからも黒いTシャツでジーンズっていう普通の格好にも関わらず、スタイルがいいばかりにちらちらと皆が見とれてしまう彼女が見てとれた。
あまりにも覚えのある光景だ。天文部では、力仕事を篠山くんがやって、その周りを女の子が取り囲んでいるという光景が日常的になっていた。
女だらけに男がひとり。普通はなにかとやっかまれそうだけれど、瀬利先輩をはじめとして、女子のアクが強過ぎるせいで、誰も表だっては羨ましがらなかった、日常的な光景。
……少し前の私は、その中にいたはずだった。
何度も何度も頭の隅に追いやったのに、今日は本人たちが少し近くにいるせいで、今まで以上にリアルにその光景を思い返してしまう。
気付いたら、私の体は強ばっていた。
……逃げないと。そう思っているのに、体はピクリとも動かない。今の彼は私のことを知らないんだから、素知らぬ顔して通り過ぎればいい。頭ではわかっているのに、クレーンゲーム一台向こうに彼がいるとわかったら、怖くって動けなくなっていた。
「……おい、佐久馬?」
その声で、私は一気に現実に引き戻された。それでも、体は強ばって動けず、ただプルプルとしながら、近藤くんを見上げていた。
まさか今回は一度も会ったことのない人を本気で怖がって動けなくなっているなんて、言える訳もなく、ただ逃げ出したいけれど体が動けないでいる。
近藤くんは顔をしかめると、私が凝視しているクレーンゲーム機のほうを見て、女の子集団に目を留める。
「あれって、うちの学校の奴らか? 誰か、会いたくない奴でもいんの?」
そのひと言に、私は必死で首を縦に振った。
声帯まで強ばってしまって、声がまともに出てくれない。気持ち悪くって吐きそうで、えずきそうになるのをどうにか必死で堪えている。
そのとき、近藤くんがぐいっと私の手を掴んだ。彼の手は私よりも大きくってグローブみたいだ。おまけに、剣道やってるせいかボコボコの豆ばかり当たっている。
私が手に感心が移っている中、近藤くんはあからさまに顔をしかめた。
「佐久馬、お前マジで大丈夫か? 手が無茶苦茶冷たいぞ」
それで私は近藤くんに手を引かれるまま、ゲームセンターを後にした。ゲームセンターからフードコートまで行ったところで、ようやく手を離してもらったけれど、私の唇がプルプルと震えて歯が勝手にカチカチと鳴る。今は夏で暑いはずなのに、気のせいかひどく肌寒い。
「……佐久馬、お前大丈夫か? あいつら誰だ?」
そう聞かれ、私はたじろぐ。
あの子たちとは同じ部活だったから知っていたけれど、クラスも小中も違うから、天文部以外に接点がない。今の私は天文部じゃないから、怖がっている理由なんて説明ができない。
だから私はぶんぶんと首を横に振るしかできなかった。でも私の反応があからさまにおかしかっただろう。さすがに近藤くんも見逃してくれなかった。
「隠すな。お前マジですっげえ顔してるから、なんもない訳ねえだろ」
そう言われても。どうやって説明すればいいんだろう。
視線をさまよわせている私の目を、近藤くんはじっと見ている……彼は誠実な人だ。これだけ心配してくれているのに、なんの説明がないのは心苦しい。
私は困り果てた末に、「前にね」とだけ前置きしてから、言葉を探しはじめた。いくらなんでも、本当のことを一から十まで言っても納得してもらえないけれど、嘘をついても見逃してもらえるとは思えなかった。
だから、嘘ではないけれど本当でもない話をして、お茶を濁すしかできなかった。
「……好きな人がいたんだ。その人のことが好きだったけど、その人、女の子に人気でね。いっつも女の子に取り囲まれている人だった……だから私、すぐに諦めちゃったんだよね。仲のいい友達として、ずっと一緒にいれたらいいなって、そう思ってた」
聞いている近藤くんは仏頂面だった。まるでなにかに耐えているような表情で、私は胸がシクシクと痛むのを感じていた。
近藤くんはなにも悪くない。「今の」篠山くんはそもそも私を知らない。だから、そんな顔する必要なんてこれっぽっちもないのにと思わずにはいられなかった。
「でも皆が勝手にひとり諦めふたり諦め、気付いたら好きな人の周りに誰もいなくなったの。友達として一緒にいた私以外いなくなったから、もしかしたら今だったら言えるかもしれないって思ったの」
口にしてみると、なんて身勝手な話だとも思う。
気持ちなんて、一日や二日で変わるものじゃない。好きになってもらう努力をしたのかどうかは、今の私には思い出せない。ただ、友達としての距離感を保つ、ときめいても気付かないふりをする努力という、不毛な努力ばかり繰り返していた気がする。
自分の保身が第一な時点で、そこまで好きじゃなかったのかなとも記憶をかすめる。打算ばっかりなんだもの。
でも、ならどうしてずっと勝手に傷付き続けてるんだろう。今の私は彼とは他人で、彼は私の存在自体知らないはずだから、とっくの昔に悩む必要なんかなくなっているというのに。
近藤くんは私が思い出して、ときどき吐きそうになるたびに、そっと背中をさすってくれた。胸が冷えて、寒くて仕方なくなったときに、絶妙なタイミングでさすってくれるから、どうにか呼吸ができた。
「……告白したけど。その人、私の告白した数分後には、誰か別の人とキスをしていた。それからなの。モテる人を見ると、途端に吐き気がしたり、気持ち悪くなったりするようになったの……我ながら気持ち悪い話だと思う。変なこと聞かせてごめんね」
そう言って無理して笑う。
はあ、終わった。そう思ってしまう自分がいた。
こんなに自分勝手なことばっかり言ってたら、いくら近藤くんがいい人でも、呆れてしまってもしょうがないだろう。ううん、女子の汚い部分を見せたんだから幻滅されてもしょうがない。
近藤くんが「はあ……」と溜息をついた。
やっぱり。そうどこかで諦めが付いたとき、近藤くんは不愛想に口を開いた。
「それ、全然笑うとこじゃねえだろ。どう考えてもお前が告白した奴が悪い。なんでお前だけが一方的に悪いみたいになってんだよ。お前、自分のこと被虐し過ぎ」
意外過ぎる言葉に、私はしばし目をパチパチと瞬かせる。
「え……だって。今はいない人だよ?」
「なんというかさあ。お前はお前で、勝手に自分は傷付かないポジションに居座るってその態度は気に食わねえけど、なあなあで済ませておいしいところ取りすんのも、結局は傷付きたくないからだけだろ。お前が告白したあともよその女にちょっかい出してるそいつも相当気に食わねえ」
そうばっさりと切り捨てたことに、私は拍子抜けして、目を再びパチパチとさせた。そして大きな手で、私の手を握ってきた。
まだ私の掌には体温が戻ってきてないのを、まるで揉み解すようにして柔らかく力を込めてくる。近藤くんの手は温かくて、すっかり冷え切ってしまっている私の手には心地いい。
私の手を揉み解しながら、近藤くんは気遣わし気な目をする。
「ここまでトラウマになってんのに、なんでお前が謝るんだよ。そっちのほうがおかしいだろ」
「だって……いつまで経っても忘れられないから……私、自分のことしつこいって、そればっかり」
「なんだよ、忘れられないくらいひどいことした奴が悪いに決まってんだろ。俺だってしつこい性格だから、嫌いなセンセから言われたことなんていつまで経っても忘れないし、いつか絶対生徒の前でズラ引っぺがしてやるとか思ってんからな?」
そう言ってきたことに、私は思わず噴き出した。生活指導の先生の中には、カツラだと噂されている先生がいるせいで、自然と頭に浮かんできてしまう。
「なんで、いきなりカツラの話になるの……!」
「いや、俺もしつこいなあと自己分析しただけで」
「全然。近藤くんは全然しつこくないよ……! むしろ健全過ぎて……」
さっきまで落ち込んで、催していた吐き気も治まり、全然体温の戻らない掌にも、ようやく体温が戻ってきた。それに気付いたのか、近藤くんは何度も何度も私の指先を揉み込んでから、ようやく手を離した。
「おっし、ようやく笑ったな、佐久馬も」
「うん……ありがとう、近藤くん」
「別に。お前がうじうじしてんのは、なんか惜しいと思っただけだし。それにさ」
そう言って近藤くんはふいっと顔を逸らした。また彼の耳が赤くなっているのに、私はあれ、と目に留めていたら、ぽつんと近藤くんが呟いた。
「……別にさ、お前が手ひどい失敗したのって、別に悪くねえと思うんだよな」
「……打算って思わないの?」
「もっと友達囲って相手追い詰めるとか、SNSでひどい目に合ったとか言って拡散させるとか、相手に仕返しする方法なんていくらでもあんだろ。でもお前はそんなことしてないんだろ? 痛いのが嫌って、そんなもん当たり前じゃねえのか? 武道だってまず習うのは受け身だし」
近藤くんの言葉に、私はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。
彼は不愛想だし、無神経だし、悪いところだっていくらでも挙げられるけれど。
なにかに対して一生懸命言葉を繋げることができるのは、素敵なことだなとぼんやりと思った。
近藤くんは、「なんか、臭いこと言ったよな」と誤魔化すように頬を引っ掻いてから、フードコートの入り口のほうに視線を向けた。開いたばかりのフードコートは、まだ人の数もまばらだ。
「もうちょっとしたら混みはじめるけど、今だったら席取れるだろ。そろそろなんか食うか?」
「うん。なに食べよっか?」
「腹減ってるから、カツ丼かなんか食えねえかなあ」
ふたりでフードコートを見回して、結局は近藤くんはカツ丼の特盛り、私はカツ丼の並盛りを頼んで、並んで食べた。
フードコートも日々レベルが上がっているせいか、お店のようにサクサクでおいしいとんかつを味わえ、ふたりで並んで食べた。
ドラッグストアで買い物してから、ふたりで適当にショッピングモールを見て回った。
帰りに自転車を駐輪場まで取りに行くとき、山田くんに「あのさ、佐久馬」と言われ、私は振り返った。
「……お前のさ、トラウマ。どうにかなるといいな」
一瞬意図がわからず、私は目を瞬かせながら、「うん」と頷いた。私の間抜けな反応に、近藤くんが一瞬顔をしかめたけれど、もう次の瞬間には自転車を跨いでいたから、もう表情の確認なんてできなかった。
なんでそんなこと近藤くんが聞くんだろう。
一瞬だけ、自分にとって都合のいい話が頭を掠めたけれど、それに私は真っ先に「NO」を突きつけていた。
……私が思っているぶんには、なんの問題もない。でもあっちも好きだって思うのは、どうかしている。
ずっとズキズキと胸が痛いのは、私がわずかにも期待してしまったからだ。篠山くんは私のことを好きだと思い込もうとしたからだ。
好きになるのは勝手だ。私の自由だ。でも。
期待しちゃいけない。好きだと思っちゃいけない。近藤くんに勝手に期待して、勝手に傷付いて、また近藤くんに迷惑なんてかけちゃ駄目だ。だって。
私の恋はいつだって身勝手なんだもの。そんな気持ちを近藤くんに向けちゃいけない。
蝉の鳴き声がぐわんぐわんとこだましている。
それを耳にしながら、掃除も終わって閑散とした教室で恵美ちゃんに涙目で訴えていた。
窓を全開にしても、クーラーの埃っぽい匂いはちっとも取れない。私の訴えに、恵美ちゃんは困ったような声を上げた。……実際に困らせてしまったんだろう。
「あのさあ、そこまで思ってるんだったらさあ、ちゃんと告白したほうがいいよ。ほら、今さ、部の中無茶苦茶空気悪いじゃない。争奪戦? 皆が皆、互いの動きを見てカバディしてるみたいな感じでギスギスしてさ」
「……私はさ、別に。篠山くんに告白しても失うものってないんだよ。だって、もしフラれてもそのまま部活に顔を出さなかったら、別に会わないし。同じクラスでもないし。でもさ、私がフラれたのを見たらさ、他の子が告白する気になると思う?」
「うーん……それなんだよねえ……」
私は自分が泣きながら恵美ちゃんに必死で訴えている言葉を、ただ傍観していた。
これって私が死ぬ前のときのこと……だよね。たしか、篠山くんと瀬利先輩が付き合ってるんじゃないかって噂が流れたときだったと思う。
元々幽霊部員が多かった部なのに、篠山くん目当てで入部する子が増えていたのが一転、彼が既に付き合っているという噂のせいで、一斉退部したんだったか。
この間、近藤くんと一緒にゲーセンに行ったとき。篠山くんの周りにいた女の子たちのうちの何人かも、そのときに辞めたんじゃなかったかな。
私は当時、園芸部の存在を知らなかった上に、活動の緩い部じゃなかったら困るからと、部を辞めることもできず、ただ恵美ちゃんに泣きついてどうしようどうしようと愚痴をこぼしていた気がする。
そんな中、ガラッと戸が開いた。話をしていた瀬利先輩だ。白いセーラー服のリボンタイは取ってしまい、自由になった胸元からはチラチラと谷間が見えるのに、私たちはそっと目を逸らした。
わかりやすく恵美ちゃんが顔をしかめたのは、恵美ちゃんがあからさまに女を武器に使ってくるタイプが嫌いだからだろう。
「よっす、恵美に由良。いま大丈夫か?」
私と恵美ちゃんは思わず顔を見合わせると、私よりも先に恵美ちゃんが表情をポーカーフェイスにしてから口を開いた。
「なんですか? 今日は部活なかったですよね?」
彼女のあからさまな棘をスルーして、瀬利先輩は続ける。
「うーん、じゃなかったら逃げられるかなと思ってさ。いやさあ、うちの部。今人がいないじゃん? でもあたしもそろそろ引退しないと駄目だしさあ。こりゃまずいなあと思って」
「はあ……」
恵美ちゃんが乾いた返事をする中、私はおずおずと口を開いた。
「あの……今、部に人は?」
「色男がへーんな噂流れてるせいかさあ、部に人がいないせいで、文化祭の準備が全然はかどんなくって困ってんだよねえ。部から文化祭の実行委員会にふたりくらい出さないと駄目なのに、人がいなさ過ぎてそれもできないしさあ。だから戻ってきてくれない?」
「それ、身勝手だって思いません? だって篠山のあれって、あいつの自業自得じゃないですか。部の空気だって悪いしっ」
瀬利先輩のマイペースな言葉に、当然ながら恵美ちゃんは噛み付いた。そもそも噂の元凶は瀬利先輩で、彼女からも篠山くんからも否定の言葉が聞けないから、怒ったり泣いたりして部に人が来なくなってしまったんだから。
……私は、辞めてしまった子たちのことを責めることは、どうしてもできなかった。事情がなかったら、私だって同じことをしていたと思うから。本当なら、恵美ちゃんみたいに怒るべきところなんだ、身勝手だとか、無責任だとかって。
でも。私は篠山くんの家庭の事情を知っていた。
彼の家は母子家庭で、うちの共働きと同じく、家事全般は彼がやっていたはずだから、今の部の現状じゃ彼に負担がかかり過ぎてるんじゃと思ってしまったのだ。
いくら土日には家族がいるからって、土日に全部の家事を回すのは無理だよね。
友達のよしみというのが半分、部に来ないせいで負担が一気に篠山くんにかかっているという罪悪感が半分。
……ここで部に戻ったら、少しは篠山くんが感謝してくれるかもしれないという下心がほんのちょっぴり。
「あの……篠山くん。今はどうですか?」
「ちょっと、やめときなってば由良!」
恵美ちゃんが止めるのも聞かずに、気付いたらこの質問が喉をついて出ていた。
それに瀬利先輩が目をくりくりとさせる。
「おっ、戻ってきてくれる気になったか、由良?」
「えっと……文化祭の準備に、教室の準備をするのがふたり、実行委員会に出向するのがふたりで、最低四人いれば、部は回るんですよね?」
「回る回る。うちはプラネタリウムだから、暗幕張りさえすればそれで作業は終わるし。部の展示の準備はふたりで事足りるし、出向メンバーさえ揃ったら文化祭もなんとかなるよ」
瀬利先輩のその言葉に、私は恵美ちゃんをじっと見た。
恵美ちゃんは瀬利先輩のことを本気で苦手視しているし、今回の篠山くんとの件で完全に敵視してしまっていた。彼女は彼氏がいるぶんだけ身持ちが固く、交際のことをはっきりとしない人間は皆不誠実認定してしまうのだ。……つまりは、恵美ちゃんは私が篠山くんに気があるのに反対な訳で。
恵美ちゃんは私の目に、ぶんぶんと首を振る。
「あたし嫌だよ。わざわざ友達がいいように利用されるのを横で見るの」
「……お願い、私のわがままだよ。一緒に部に戻ろう?」
「……あいつ、人の好意を平気で踏みにじる奴だよ? ひどい奴だよ? 本当にいいの?」
「いいよ。これは全部私のわがままなんだから、篠山くんは関係ない」
「あんたのわがままは篠山のせいだってのに……わかったよ、戻ればいいんでしょ」
「ありがとう……っ!」
私は恵美ちゃんに抱き着いて「暑い……!」の悲鳴を聞いていた。
それを眺めながら、私は頭が痛くなっていた。
なんて友達甲斐の人間なんだろう、私は。
恵美ちゃんは何度も何度も、嫌われるの覚悟で本気で止めてくれていた。なのにふわふわしていた私は、ただ篠山くんに頼られたいというそれだけで、一度距離を取ろうと思っていたのに戻ってしまったんだから、本当に質の悪い大馬鹿だ。
勝手に期待して、勝手に裏切られたと思って……勝手に事故で死んじゃった。
そんな私のドロドロしている部分を、近藤くんは知らない。
話せる部分はかろうじて話したけれど、私と篠山くんのことに関しては、どうしても私が死ぬまでの話まで語らないといけなくって、言える訳がなかった。そもそも、やり直しているなんてこと、どうやって説明できるっていうの。
だんだんと視界がぼやけてきたのは、これが夢だからだろう。ううん、ここまではっきりしているんだから、これはただ私の記憶を再生しただけなのかも。
****
窓の外からは、蝉の鳴き声がこだましている。
私はタオルケットに顔を埋めながら、ぼんやりとさっきまで見ていた夢を思い返していた。
……なんであんな夢見ちゃったんだろう。もう戻れない夢だっていうのに。今の私のことを、篠山くんも瀬利先輩も知らないはずだ。
そもそも。このふたりが付き合っているって噂が流れはじめたのは九月だったような……。私が泣きながら恵美ちゃんに相談したのは、たしか九月の半ばだったはず。
ふたりが付き合っていたのか付き合っていなかったのかは、結局わからないままだった。
今も付き合っているのかは定かではない。
天文部幽霊部員の恵美ちゃんによれば「天文部にいるなんでモテているのかわからない」男子には、今も特定の彼女がいないらしい。
でも篠山くんのことだ。周りにいっつも女の子がいるんだ。なによりも押しの強い瀬利先輩がいるんだから、今は付き合っていなくても、ふたりが付き合い出すのも時間の問題だろう。
……ううん、今の私には全然ふたりのことなんて関係ないのに。私は首を振りながら、ようやく起き上がる。
夏休みに入ったから、少しだけ寝坊はできるけれど、やることは変わらない。
洗濯物を急いで片付けたら、学校に行かないと。園芸場の水やりをしないといけないし。
さっさと着替えると、洗濯機を倍速でかけ、その間にトーストとインスタントコーヒーの簡単な朝ご飯を済ませる。手早く洗濯物を干すと、そのまま学校へと飛び出していった。
夏休みになったら、さすがに登下校路も学校も静かなもんだ。この中でも登校しているのは、大会前の運動部くらいだろう。
剣道部はたしか、明後日からインターハイの会場に現地入りすると言っていて、今日が学校でする最後の稽古の日だと近藤くんが言ってたな。
園芸場に来てみたら、鬼瓦先生が育てた畑が艶々とし、夏野菜もたっぷりと実っている。これ採らなくってもいいのかな。私はそう思いながら水道のホースを取ると、蛇口を捻りはじめる。これを採る採らないの権限って私にはないものね。
私はそう思いながら、水を畑に撒きはじめる。葉っぱに水をかけてはいけない。あんまり日差しが強いときには絶対に水をやっちゃいけない。鬼瓦先生に何度も何度も口酸っぱく言われた通りに水をあげているとき、剣道場から竹刀と竹刀がぶつかり合う音が響いてきた。
剣道部の稽古も、明々後日からはじまる試合に向けての総仕上げなんだろう。いつもよりもその音は激しい気がする。私はそう思いながら耳を澄ませていたとき。
「佐久馬?」
そう声をかけられ、驚いてびっくりして振り返る。
さっきまで稽古をしていたんだろう。むわりと汗のにおいを漂わせている近藤くんだ。胴着姿で首にタオルを引っかけていた。
「おはよう。練習お疲れ様」
「おう。明後日には行くから」
「何度も聞いてるよ、それは」
「なあ」
私はいつものぶっきらぼうな近藤くんの言葉に相槌を打っていたら、ぽつんと声をかけてくる。
思わず近藤くんを見ると、この間のショッピングモールのときと同じように、罰の悪い顔をして、明後日の方向を見ていた。
彼はちゃんとしゃべらないといけないときは視線を逸らさない。逸らしているときは、大概罰が悪いからだ。
「……俺、優勝してくるから。もし優勝してきたら、言いたいことがあるんだけど」
そう言われて、私は固まる。
ホースを持つ力が水流に負け、たちまち私は顔に思いっきり水流をかぶってしまった。
「おい、佐久馬……!?」
「ご、ごめんなさい……! 思わず呆けて……!」
「ああ、タオルこれしかねえし……」
「別にいいよ! 水やり終わったらすぐに家に帰るから!」
私はぶんぶんぶんと首を振って、水しぶきを飛ばす。
あまりにもお約束が過ぎる言葉に、私は近藤くんが言い出したことの意図がわからなかった。
「なんで?」
ぽろりと間抜けな言葉が漏れていた。
「……この間、買い出しに行ってからずっと考えてた。お前、すっげえフラれ方したせいで、卑屈になってるからどうすりゃいいのか」
「フラれてないよ。私が勝手に勘違いしただけだから」
「いや勘違いで吐き気するほど追いつめられるってアリか? ……いや、それはどっちでもいいんだよ。俺が嫌なんだよ。訳のわからん奴がずっとお前ん中にいるのが」
そうきっぱりと言われて、私は思わず黙り込んだ。
私だって、もう記憶全部失くして、イチからやり直せたらいいなとは思ってた。もう痛い思いなんかしたくない。自分のドロドロした部分と嫌というほど向き合うなんて、気分が悪くって嫌だった。
私の中には未だに篠山くんが住み着いていて、何度忘れようとしても、なにかの拍子に彼の気配を感じて、気持ちが死ぬ前に引きずり戻されてしまう。
私は、近藤くんをちらっと見た。凝視する度胸は、どうしても湧かなかった。
「あの、私」
「なんだよ」
「いいところ、ないよ? すぐ落ち込むし、落ち込んだらズンドコまで落ち込むし、人の好意を素直に信じられないひねくれ者だし、特に美人でも可愛くもないし……」
口にしてみればしてみるほどに、情けなくなってくる。どうして近藤くんがこんな私に声をかけてきたのか、本気でわからないからだ。
でも。
「うるせえ」
そのひと言で私の言葉を遮ったのも、近藤くんだった。
「うるせえ、いくらお前でも、これ以上自虐辞めろよ!? 本気で怒るぞ!」
「もう怒ってるじゃない!」
「これは怒ってんじゃねえよ、叱ってんだよ。ああん、もう。……とにかく、覚えとけ。お前、俺が優勝するよう、家で祈っとけ」
告白するぞってあれだけわかりやすく言っているのに、こんなに上から目線の言葉なんてあるのかな。
私はどうしようと思いながら近藤くんを見ていたけれど、彼は顔を真っ赤にして、「ふん」と鼻息を立てるものだから、本当に勝つ気なんだなということはよくわかった。
「……うん、返事考えとく」
「おう」
言いたいことだけさんざん言って、そのまま近藤くんは剣道場へと帰っていった。
残していった汗のにおいを嗅ぎながら、蝉時雨を一身に浴びる。
私が彼に告白したのは、二年生の夏合宿だった。今は一年の夏で、部だって、状況だって、人間関係だって、全然違う。
もう、いいんじゃないかな。少しだけそう思う。
私は私を、そろそろ甘やかしてもいいんじゃないかな。近藤くんみたいな人、もう会えないと思う。
なりたくて卑屈になったわけじゃないけど、そんな私がいいって言ってくれる人、次はいつ会えるかわからないんだもの。
一通り水やりを終え、ようやく蛇口をひねってホースを片付けたとき。
私は蛇口の下になにかが転がっていることに気付いた。
「え……?」
丸いそれは、青く光っていた。縁日とかでよく見るゴムボールかなと思って拾い上げて、気が付いた。
これ、天文部のオブジェ……文化祭のときに、やる気のない天文部がそれっぽく見えるようにと太陽系をつくって展示するときに使う、海王星のオブジェだ。
私はがばっと頭上を見上げる。校舎裏にある園芸場は、天文部のある旧校舎……だったと思う。
まだ文化祭の時期じゃないのに、準備して出さないのに、これが落ちてるなんておかしい。
なにか一瞬ヒヤリとしたものが胸に走るような気がしたけど、それにぐっと耐えた。
……考え過ぎだ。私はセーラー服の胸元を掴みながら、一度拾ったオブジェをその場に戻した。
これを拾って天文部に届ける度胸はなかったし、そもそも天文部は夏休み中は全面的に活動自体中止していたはずだ。合宿はあったけど、恵美ちゃんからは参加の話は聞いていない。あんまり参加人数少ない合宿だったら中止になるんじゃないかな。
できる限り自分に都合のいい筋道を思い浮かべて、私はすぐにその場を立ち去った。