虫のジリジリと鳴く音が、いやに大きく聞こえる。合宿場裏は、昼間に見たら見晴らしがよくって綺麗だったのに、今は灯りひとつ落ちてなくって闇そのものだ。
それでも、私は今は自分の心臓の音を落ち着けようと、深く息を吸い込むので精一杯だった。
「佐久馬、話って?」
目の前で体操服の男子がきょとんとした顔でこちらを見ている。
目つきは悪いし、体は少しひょろひょろしているけれど、私はその悪い目つきで人のいろんなものを見ていることを知っている。
彼はいろんなことに気を回せる人で、口が悪いけど誰よりも優しいことを知っている。笑った顔が年不相応に幼いことを知っている。野外炊飯のとき、びっくりするほどおいしいカレーをつくった手先の器用さを知っている。
だからこそ、今日言おうと思っていた。
「……わた、し、篠山くんのことが、好き、です……」
人生初の告白なのに、私はしどろもどろになって、少女漫画のようにきっぱりとした告白はできず、ぱさぱさの声でしおしおの告白をすることしかできなかった。
途端に、篠山くんは「ぷはっ!」と笑い出した。
ゲラゲラゲラゲラと笑い出す彼に、私もまたきょとんとする。
「あ、あの……私、駄目……だった……?」
「いや、佐久馬。お前やっと言ったな!」
「ええ……?」
「ずっとこっちを見てそわそわそわそわしてたから、いつ言うんだろう。待ってないと駄目なのかって思ってた!」
「あの……?」
私の好意なんて、筒抜けだったんだ……。
篠山くんがあまりにも腹抱えて笑うものだから、私はちらちらと合宿場のほうを気にした。誰か気付いて、こちらの話を立ち聞きしたりしないかなと。もし立ち聞きされてからかわれでもしたら……死んでしまうかもしれない。
でも。篠山くんは返事をしてくれる訳でもなく、ひとしきり笑ったあと、私の頭をぽんと撫でてきた。
普通に考えたらセクハラだし、多分彼以外に撫でられたら嫌な顔しかしないと思う。でも彼はいつも女子との距離感はおかしくって、こちらが照れないように必死で逃げても逃げてもこの距離感なのだから、もう諦めてしまった。
「よろしくな」
そう目を細めて言われたら、私は「う、うん……」と返事をしてしまった。
あの、これって返事は保留なんでしょうか。駄目だったんでしょうか。OKだったんでしょうか。満面の笑みで人のことを撫で続ける篠山くんに、私はいまいち聞きづらくて抗議をすることができなかった。
****
天文部の天体観測合宿は、三日間曇りの空振りに終わり、明日になったら地元に帰ってしまう。
もし星空の下で告白なんてシチュエーションだったら、きっと恥ずかし過ぎて実行できなかったと思うけど、ずっと曇りだからかえって恥ずかしくない。告白するなら今だと思って、夕食のあとにこっそりと篠山くんを呼び出して告白したんだけれど。
私は篠山くんと「それじゃあ、ちゃんと部屋に戻れよ」と女子の部屋まで送り届けてもらい、私は頷いて帰ってきてしまった。
合宿場の女子部屋では、女子がトランプのダウトで盛り上がっていた。
「ダウト!」
「ざんねーんでした!」
ちょうど「ダウト」だと言ったカードは合っていたから、そのままたんまりと手札をいただいてしまった恵美ちゃんが顔を上げる。
「あ、お帰り。どうだった?」
「えっと、わかんない」
「わかんないって」
恵美ちゃんはダウトの中止を後輩たちに言うと、後輩たちはぶうぶう文句を言いながらも自分たちで手札を集めて第なんラウンドに戻っていった。
抜け出した恵美ちゃんは、私のほうに寄ってきた。
後輩たちが盛り上がっている中、私たちは距離を空けて窓際で話をはじめる。
「篠山、どうだったの?」
「……よろしくって言われたの」
「好きってちゃんと言ったんだよね?」
「うん、言ったよ。全然格好よく言えなかったけど」
「篠山もねえ、あいつ天然タラシだからなあ……これってどっちだろうねえ」
そう言いながら、ちらちらと後輩たちのほうを見た。
篠山くんは、特段イケメンって訳じゃないけど、何故かモテた。彼と付き合いたいって子は、私だけじゃなくって、後輩たちにもいるし、噂では引退した先輩たちの中でもいるらしい。
ちなみに恵美ちゃんは既に他校の彼氏がいるから、篠山くんの天然タラシに当てられることがなかった。私も知っている中学時代から付き合っている彼はいい人だから、よっぽどのことがない限りは別れないと思う。
そう。
私は「よろしく」って言われたけど、「好きです」の答えではないと思う。
だって私、「付き合ってください」なんて言ってないんだもの。初めて告白したへっぴり腰の私が、「好きです、どうか付き合ってください」なんて言えないよ。
篠山くんは、あれ。どういう意味で言ったんだろうなあ……。
少しだけ緊張が緩んだら、なんだかお腹が空いてきた。皆で野外炊飯でつくったご飯を食べたあとだっていうのに。
私は財布を持ってくると、恵美ちゃんに言う。
「ちょっと自販機までジュース買ってくるよ」
「えっ! じゃああたしも! 後輩たちのも聞いてあげて」
「うん」
私はダウトから大富豪に遊びを変えていた子たちにひと声かけると、それぞれの注文をスマホに打ち込んで出て行った。
合宿場の廊下は大分静かになっている。男子部屋のほうは一日目二日目と枕投げ大会が激し過ぎて女子部屋まで聞こえていたんだけど、静まりかえっているのは二日間はしゃぎ過ぎて疲れたんだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら自販機のほうまで足を運んだとき。
「俺、佐久馬に告白されたんです」
……篠山くんの声が聞こえた。
え、誰と? 私は思わず自販機コーナーの壁に隠れて、耳をそばだてた。堂々と通り過ぎればいいのに、何故かそうしちゃいけない気がしていた。
篠山くん、誰と話をしているんだろう。
「へえ……由良がねえ」
そう楽しげに篠山くんの相手が返すのに、私は心臓がヒュンと跳ね上がるのを感じた。
その声……。
艶がある声は、とても二歳しか離れてないとは思えない。瀬利先輩の声だった。
天文部のOGの先輩が、学校で借りているバスだけじゃ足りない部員を合宿場まで送ってくれたのだ。瀬利先輩は私たちとは違う部屋で寝泊まりしていた。
瀬利先輩は一年生のときから、やたらめったら篠山くんにちょっかいをかけていたのを知っている。
染めてない黒くて真っ直ぐな長い髪。切れ長の釣り目に肉厚な唇。爪はマニキュアを塗ってもいないのに磨き抜かれて、髪を手櫛で梳く仕草すら色香を放っている。綺麗で色っぽくって、それでいて掴み所がないミステリアス。制服を着ていた頃合いからそんな人だったのが、高校を卒業して大学生になった途端、制服で抑え込んでいたいろんなオーラが放出され、今だったら誰もが振り向くような極上の美人となってしまった。
元々綺麗だった人が化粧をして、ライダースーツみたいな体のラインが出るような服を着たらどうなるのか、日の目を見るよりも明らかだった。
そんな綺麗な人だったら、引く手あまたなのに、卒業した今になっても篠山くんにちょっかいをかけてくる。なんで今更合宿に参加したんだろう。そう鉛を飲み込んだような嫌な気分になったことも、告白を急いだ理由だった。
篠山くんが、瀬利先輩に取られちゃう。もう卒業した人なのに、もう高校生じゃないのに、勝手に来ないで。
私は胸に冷たさが広がるのを必死で抑え込みながら、ふたりの会話の立ち聞きを続けていた。悪いことなんてしてないんだから堂々と行けばいいのに、私にはふたりの間に入れる度胸がなかった。度胸は、先程の告白で全部使い果たしてしまった。
「あの子、可愛いでしょ。光太郎」
「……そりゃまあ」
「付き合っちゃえばいいじゃん」
「……あのですね」
ふたりの会話が、中途半端に途切れてしまった。
え?
私は不安になって、思わず自販機コーナーに一歩踏み出してしまい、人生最大の後悔をしてしまう。
目の前の光景が、信じられなかった。
篠山くんの乾いた唇が、瀬利先輩の綺麗にルージュの差された唇と、ぴったりと重なっている。目の前で唇が動いている。まるで軟体動物みたいだ。
唇の奥が、ちらりと見えた途端に、喉の奥にグラグラと熱いものが迫り上がってくるのに気付いた。胸には、冷たいものが広がっているっていうのに。
「き……」
私が逃げようと思った途端に、間違って壁に足を打ち付けてしまった。途端に篠山くんは、瀬利先輩から唇を離して、こちらに振り返った。
「……おい、佐久馬!?」
「気持ち悪い……っ!!」
篠山くんが声をかけてくるのも無視して、私はでたらめに走っていた。
財布がジャージのポケットから零れたのも、スマホを部屋に忘れてきたのも、私は構っている余裕がなかった。
私には意気地がない。意気地のない私が必死に勇気を集めて、告白したその日のうちにこれだ。
嫌なら断ってくれればよかったのに。付き合ってるなら付き合ってると言ってくれればよかったのに。
中途半端に優しくして、中途半端な答えを出して、中途半端に期待をさせて。
……誰にでも優しいってことは、誰に対しても優しくないことと同じだって誰かが言っていた言葉を、初めて実感を伴って思い至った。
無茶苦茶に走っていたら、気付いたら合宿場を飛び出して、なにかに頭をぶつけたことに気付いた。私は思いっきり打ち付けた頭に手を当ててしゃがみ込む。
「いったぁ……これってなんだっけ?」
暗くって目が利かず、私はまじまじとぶつかったなにかを見た。
どうも看板らしい。なにかが書いてあるみたいだけど、まだ夜目が利かずに見えない。昼間に見かけたときになんて書いてあったか。
……はあ、いきなり無茶苦茶なことを言って合宿場を飛び出してしまったから、戻るのが恥ずかしい。頭が冷えるまでここにいようか。私はしゃがみ込んだまま、ぶつけてぽっこりとできたたんこぶが引くのを待っていたら。
「佐久馬……!」
今、一番聞きたくない声を耳にしてしまった。私はびくっと肩を跳ねさせ、後ずさりする。もうふたりでイチャイチャしてたんだから、私のことなんて放っておいてくれたらよかったのに。
篠山くんは看板の近くでしゃがみ込んでいる私に気付かないらしく、スマホのライトを照らしながらあちこちを見てる。
「由良!?」
そう言いながら、さっきまで熱いキスを交わしていた瀬利先輩も必死になって探してくれている。その姿に、私は思わずえずいた。
……気持ち悪い。
心配をかけてしまっていると頭ではわかっているのに、どうしてもさっき見たときに感じた生理的嫌悪が先に来る。喉を不愉快な熱が迫り上がってきて、とうとう口の中が酸っぱく苦くなってくる。
私が思わず屈み込んで吐いているところで、音が響いたのか、こちらのほうに足音が聞こえてきたのに、必死で靴で土をかけて臭いを消した。いくらフラれたからって、こんな臭いをまとって会いたい相手じゃない。
「佐久馬、こんなところにいたのか」
「……来ないで」
「危ないって、早く合宿場に戻ろう? なあ?」
……だから、なんでそんなに優しいんだ。
理不尽だとわかってはいても、だんだんと怒りがこみ上げてくる。
誰にだってそうやって優しくして、人間的にいいところがいっぱいで……だから、フラれたばかりの人間はこんなにみじめな思いになるのに。
そんな顔は瀬利先輩に見せればいいことで、私に見せていい顔じゃない。
自分でもこんなのはフラれた腹いせだとわかっていたけれど、思わず手で砂をかいて、それを篠山くんにぶん投げていた。辺りに砂が舞う。
「ゲホッ……お前なあ、なにをそんなに意固地になってんだよ!?」
「もう放っておいて! あなたが追いかけていいのは私じゃないし、ここで優しくされても私が小さい人間だって思い知るだけだし、もう来ないで!!」
あなたなんか、大っ嫌い。
そうまくし立てようと、ようやく立ち上がったところで。
足下がグラッとしたことに気付いた。
あれ?
「おい佐久馬、だから危ないって!」
慌てた篠山くんが私の手を取ろうとしたけれど、もう遅かった。
私の足下は完全に崩れ、そのまま私は重力に体が引っ張られていく。
闇に落ちていく恐怖は、あっという間だった。
──思い出した。さっきの看板、昼間に見たとき【この先、足下が危険】って書いてたような。
それが、私が最後に頭に閃いたことだった。
****
リリリリリリリリリリリリ……
けたたましい目覚まし時計を思わず叩いて消して、私は伸びをした。
……あれ? 私はさっきまでのことを思い返して、枕に顔を埋める。
私は、夏合宿に行っていたような。天体観測する予定だったのに、全日曇りで空ぶって、仕方がないから合宿場でトランプばっかりやってて……篠山くんに告白したけど、その日のうちの彼が瀬利先輩と熱烈的なキスをしているところを見てしまった。
喉の奥にまたも迫り上がってくる苦酸っぱいものを必死で抑えていたけれど、私はますます首を捻ってしまう。
でも……私あのあとで混乱して合宿場を飛び出して、そのまま崖から落ちた……よね?
夜間に崖から落ちたんじゃ、まず助からないと思う。でも私、なんで生きてるんだろう……。
そもそもおかしいと思ったのは、ここは合宿場ではなくって、私の部屋なのだ。
ベッドには長年使っている私の枕があるし、机の上にも教科書や参考書が立てかけてある、見慣れた私の部屋……のはずなんだけど。
私がますます顔をしかめていると、部屋をドンドンドンドンと大きくノックされる。
「ちょっと由良! 早く起きなさい! もう春休みは終わったでしょう!?」
「え……?」
なに言ってるの、お母さん。今は夏休み……でしょ?
でもそういえば。そこで私はようやく今着ている寝間着をつまんでみた。私の着ているのは量販店で買った長袖のルームウェアだった。夏に長袖なんて着てたら、冷房でも付けてない限りは暑くって着ていられる訳がない。おまけに夏にしては湿気てないし、むしろ肌寒い。
……ちょっと待って、なんで。なんで夏から春になっているの?
私が混乱している間に、お母さんがまたもドアをドンッと叩く。
「いい加減にしなさい! お母さんもうすぐ仕事に行くから! ちゃんと入学式に行くのよ!」
「えっ……!!」
そこでようやく私は飛び起きた。
ちょっと待って。
私は高校二年生……だったはず。でもなんで。なんで私、高校一年生になってるの……!?
それでも、私は今は自分の心臓の音を落ち着けようと、深く息を吸い込むので精一杯だった。
「佐久馬、話って?」
目の前で体操服の男子がきょとんとした顔でこちらを見ている。
目つきは悪いし、体は少しひょろひょろしているけれど、私はその悪い目つきで人のいろんなものを見ていることを知っている。
彼はいろんなことに気を回せる人で、口が悪いけど誰よりも優しいことを知っている。笑った顔が年不相応に幼いことを知っている。野外炊飯のとき、びっくりするほどおいしいカレーをつくった手先の器用さを知っている。
だからこそ、今日言おうと思っていた。
「……わた、し、篠山くんのことが、好き、です……」
人生初の告白なのに、私はしどろもどろになって、少女漫画のようにきっぱりとした告白はできず、ぱさぱさの声でしおしおの告白をすることしかできなかった。
途端に、篠山くんは「ぷはっ!」と笑い出した。
ゲラゲラゲラゲラと笑い出す彼に、私もまたきょとんとする。
「あ、あの……私、駄目……だった……?」
「いや、佐久馬。お前やっと言ったな!」
「ええ……?」
「ずっとこっちを見てそわそわそわそわしてたから、いつ言うんだろう。待ってないと駄目なのかって思ってた!」
「あの……?」
私の好意なんて、筒抜けだったんだ……。
篠山くんがあまりにも腹抱えて笑うものだから、私はちらちらと合宿場のほうを気にした。誰か気付いて、こちらの話を立ち聞きしたりしないかなと。もし立ち聞きされてからかわれでもしたら……死んでしまうかもしれない。
でも。篠山くんは返事をしてくれる訳でもなく、ひとしきり笑ったあと、私の頭をぽんと撫でてきた。
普通に考えたらセクハラだし、多分彼以外に撫でられたら嫌な顔しかしないと思う。でも彼はいつも女子との距離感はおかしくって、こちらが照れないように必死で逃げても逃げてもこの距離感なのだから、もう諦めてしまった。
「よろしくな」
そう目を細めて言われたら、私は「う、うん……」と返事をしてしまった。
あの、これって返事は保留なんでしょうか。駄目だったんでしょうか。OKだったんでしょうか。満面の笑みで人のことを撫で続ける篠山くんに、私はいまいち聞きづらくて抗議をすることができなかった。
****
天文部の天体観測合宿は、三日間曇りの空振りに終わり、明日になったら地元に帰ってしまう。
もし星空の下で告白なんてシチュエーションだったら、きっと恥ずかし過ぎて実行できなかったと思うけど、ずっと曇りだからかえって恥ずかしくない。告白するなら今だと思って、夕食のあとにこっそりと篠山くんを呼び出して告白したんだけれど。
私は篠山くんと「それじゃあ、ちゃんと部屋に戻れよ」と女子の部屋まで送り届けてもらい、私は頷いて帰ってきてしまった。
合宿場の女子部屋では、女子がトランプのダウトで盛り上がっていた。
「ダウト!」
「ざんねーんでした!」
ちょうど「ダウト」だと言ったカードは合っていたから、そのままたんまりと手札をいただいてしまった恵美ちゃんが顔を上げる。
「あ、お帰り。どうだった?」
「えっと、わかんない」
「わかんないって」
恵美ちゃんはダウトの中止を後輩たちに言うと、後輩たちはぶうぶう文句を言いながらも自分たちで手札を集めて第なんラウンドに戻っていった。
抜け出した恵美ちゃんは、私のほうに寄ってきた。
後輩たちが盛り上がっている中、私たちは距離を空けて窓際で話をはじめる。
「篠山、どうだったの?」
「……よろしくって言われたの」
「好きってちゃんと言ったんだよね?」
「うん、言ったよ。全然格好よく言えなかったけど」
「篠山もねえ、あいつ天然タラシだからなあ……これってどっちだろうねえ」
そう言いながら、ちらちらと後輩たちのほうを見た。
篠山くんは、特段イケメンって訳じゃないけど、何故かモテた。彼と付き合いたいって子は、私だけじゃなくって、後輩たちにもいるし、噂では引退した先輩たちの中でもいるらしい。
ちなみに恵美ちゃんは既に他校の彼氏がいるから、篠山くんの天然タラシに当てられることがなかった。私も知っている中学時代から付き合っている彼はいい人だから、よっぽどのことがない限りは別れないと思う。
そう。
私は「よろしく」って言われたけど、「好きです」の答えではないと思う。
だって私、「付き合ってください」なんて言ってないんだもの。初めて告白したへっぴり腰の私が、「好きです、どうか付き合ってください」なんて言えないよ。
篠山くんは、あれ。どういう意味で言ったんだろうなあ……。
少しだけ緊張が緩んだら、なんだかお腹が空いてきた。皆で野外炊飯でつくったご飯を食べたあとだっていうのに。
私は財布を持ってくると、恵美ちゃんに言う。
「ちょっと自販機までジュース買ってくるよ」
「えっ! じゃああたしも! 後輩たちのも聞いてあげて」
「うん」
私はダウトから大富豪に遊びを変えていた子たちにひと声かけると、それぞれの注文をスマホに打ち込んで出て行った。
合宿場の廊下は大分静かになっている。男子部屋のほうは一日目二日目と枕投げ大会が激し過ぎて女子部屋まで聞こえていたんだけど、静まりかえっているのは二日間はしゃぎ過ぎて疲れたんだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら自販機のほうまで足を運んだとき。
「俺、佐久馬に告白されたんです」
……篠山くんの声が聞こえた。
え、誰と? 私は思わず自販機コーナーの壁に隠れて、耳をそばだてた。堂々と通り過ぎればいいのに、何故かそうしちゃいけない気がしていた。
篠山くん、誰と話をしているんだろう。
「へえ……由良がねえ」
そう楽しげに篠山くんの相手が返すのに、私は心臓がヒュンと跳ね上がるのを感じた。
その声……。
艶がある声は、とても二歳しか離れてないとは思えない。瀬利先輩の声だった。
天文部のOGの先輩が、学校で借りているバスだけじゃ足りない部員を合宿場まで送ってくれたのだ。瀬利先輩は私たちとは違う部屋で寝泊まりしていた。
瀬利先輩は一年生のときから、やたらめったら篠山くんにちょっかいをかけていたのを知っている。
染めてない黒くて真っ直ぐな長い髪。切れ長の釣り目に肉厚な唇。爪はマニキュアを塗ってもいないのに磨き抜かれて、髪を手櫛で梳く仕草すら色香を放っている。綺麗で色っぽくって、それでいて掴み所がないミステリアス。制服を着ていた頃合いからそんな人だったのが、高校を卒業して大学生になった途端、制服で抑え込んでいたいろんなオーラが放出され、今だったら誰もが振り向くような極上の美人となってしまった。
元々綺麗だった人が化粧をして、ライダースーツみたいな体のラインが出るような服を着たらどうなるのか、日の目を見るよりも明らかだった。
そんな綺麗な人だったら、引く手あまたなのに、卒業した今になっても篠山くんにちょっかいをかけてくる。なんで今更合宿に参加したんだろう。そう鉛を飲み込んだような嫌な気分になったことも、告白を急いだ理由だった。
篠山くんが、瀬利先輩に取られちゃう。もう卒業した人なのに、もう高校生じゃないのに、勝手に来ないで。
私は胸に冷たさが広がるのを必死で抑え込みながら、ふたりの会話の立ち聞きを続けていた。悪いことなんてしてないんだから堂々と行けばいいのに、私にはふたりの間に入れる度胸がなかった。度胸は、先程の告白で全部使い果たしてしまった。
「あの子、可愛いでしょ。光太郎」
「……そりゃまあ」
「付き合っちゃえばいいじゃん」
「……あのですね」
ふたりの会話が、中途半端に途切れてしまった。
え?
私は不安になって、思わず自販機コーナーに一歩踏み出してしまい、人生最大の後悔をしてしまう。
目の前の光景が、信じられなかった。
篠山くんの乾いた唇が、瀬利先輩の綺麗にルージュの差された唇と、ぴったりと重なっている。目の前で唇が動いている。まるで軟体動物みたいだ。
唇の奥が、ちらりと見えた途端に、喉の奥にグラグラと熱いものが迫り上がってくるのに気付いた。胸には、冷たいものが広がっているっていうのに。
「き……」
私が逃げようと思った途端に、間違って壁に足を打ち付けてしまった。途端に篠山くんは、瀬利先輩から唇を離して、こちらに振り返った。
「……おい、佐久馬!?」
「気持ち悪い……っ!!」
篠山くんが声をかけてくるのも無視して、私はでたらめに走っていた。
財布がジャージのポケットから零れたのも、スマホを部屋に忘れてきたのも、私は構っている余裕がなかった。
私には意気地がない。意気地のない私が必死に勇気を集めて、告白したその日のうちにこれだ。
嫌なら断ってくれればよかったのに。付き合ってるなら付き合ってると言ってくれればよかったのに。
中途半端に優しくして、中途半端な答えを出して、中途半端に期待をさせて。
……誰にでも優しいってことは、誰に対しても優しくないことと同じだって誰かが言っていた言葉を、初めて実感を伴って思い至った。
無茶苦茶に走っていたら、気付いたら合宿場を飛び出して、なにかに頭をぶつけたことに気付いた。私は思いっきり打ち付けた頭に手を当ててしゃがみ込む。
「いったぁ……これってなんだっけ?」
暗くって目が利かず、私はまじまじとぶつかったなにかを見た。
どうも看板らしい。なにかが書いてあるみたいだけど、まだ夜目が利かずに見えない。昼間に見かけたときになんて書いてあったか。
……はあ、いきなり無茶苦茶なことを言って合宿場を飛び出してしまったから、戻るのが恥ずかしい。頭が冷えるまでここにいようか。私はしゃがみ込んだまま、ぶつけてぽっこりとできたたんこぶが引くのを待っていたら。
「佐久馬……!」
今、一番聞きたくない声を耳にしてしまった。私はびくっと肩を跳ねさせ、後ずさりする。もうふたりでイチャイチャしてたんだから、私のことなんて放っておいてくれたらよかったのに。
篠山くんは看板の近くでしゃがみ込んでいる私に気付かないらしく、スマホのライトを照らしながらあちこちを見てる。
「由良!?」
そう言いながら、さっきまで熱いキスを交わしていた瀬利先輩も必死になって探してくれている。その姿に、私は思わずえずいた。
……気持ち悪い。
心配をかけてしまっていると頭ではわかっているのに、どうしてもさっき見たときに感じた生理的嫌悪が先に来る。喉を不愉快な熱が迫り上がってきて、とうとう口の中が酸っぱく苦くなってくる。
私が思わず屈み込んで吐いているところで、音が響いたのか、こちらのほうに足音が聞こえてきたのに、必死で靴で土をかけて臭いを消した。いくらフラれたからって、こんな臭いをまとって会いたい相手じゃない。
「佐久馬、こんなところにいたのか」
「……来ないで」
「危ないって、早く合宿場に戻ろう? なあ?」
……だから、なんでそんなに優しいんだ。
理不尽だとわかってはいても、だんだんと怒りがこみ上げてくる。
誰にだってそうやって優しくして、人間的にいいところがいっぱいで……だから、フラれたばかりの人間はこんなにみじめな思いになるのに。
そんな顔は瀬利先輩に見せればいいことで、私に見せていい顔じゃない。
自分でもこんなのはフラれた腹いせだとわかっていたけれど、思わず手で砂をかいて、それを篠山くんにぶん投げていた。辺りに砂が舞う。
「ゲホッ……お前なあ、なにをそんなに意固地になってんだよ!?」
「もう放っておいて! あなたが追いかけていいのは私じゃないし、ここで優しくされても私が小さい人間だって思い知るだけだし、もう来ないで!!」
あなたなんか、大っ嫌い。
そうまくし立てようと、ようやく立ち上がったところで。
足下がグラッとしたことに気付いた。
あれ?
「おい佐久馬、だから危ないって!」
慌てた篠山くんが私の手を取ろうとしたけれど、もう遅かった。
私の足下は完全に崩れ、そのまま私は重力に体が引っ張られていく。
闇に落ちていく恐怖は、あっという間だった。
──思い出した。さっきの看板、昼間に見たとき【この先、足下が危険】って書いてたような。
それが、私が最後に頭に閃いたことだった。
****
リリリリリリリリリリリリ……
けたたましい目覚まし時計を思わず叩いて消して、私は伸びをした。
……あれ? 私はさっきまでのことを思い返して、枕に顔を埋める。
私は、夏合宿に行っていたような。天体観測する予定だったのに、全日曇りで空ぶって、仕方がないから合宿場でトランプばっかりやってて……篠山くんに告白したけど、その日のうちの彼が瀬利先輩と熱烈的なキスをしているところを見てしまった。
喉の奥にまたも迫り上がってくる苦酸っぱいものを必死で抑えていたけれど、私はますます首を捻ってしまう。
でも……私あのあとで混乱して合宿場を飛び出して、そのまま崖から落ちた……よね?
夜間に崖から落ちたんじゃ、まず助からないと思う。でも私、なんで生きてるんだろう……。
そもそもおかしいと思ったのは、ここは合宿場ではなくって、私の部屋なのだ。
ベッドには長年使っている私の枕があるし、机の上にも教科書や参考書が立てかけてある、見慣れた私の部屋……のはずなんだけど。
私がますます顔をしかめていると、部屋をドンドンドンドンと大きくノックされる。
「ちょっと由良! 早く起きなさい! もう春休みは終わったでしょう!?」
「え……?」
なに言ってるの、お母さん。今は夏休み……でしょ?
でもそういえば。そこで私はようやく今着ている寝間着をつまんでみた。私の着ているのは量販店で買った長袖のルームウェアだった。夏に長袖なんて着てたら、冷房でも付けてない限りは暑くって着ていられる訳がない。おまけに夏にしては湿気てないし、むしろ肌寒い。
……ちょっと待って、なんで。なんで夏から春になっているの?
私が混乱している間に、お母さんがまたもドアをドンッと叩く。
「いい加減にしなさい! お母さんもうすぐ仕事に行くから! ちゃんと入学式に行くのよ!」
「えっ……!!」
そこでようやく私は飛び起きた。
ちょっと待って。
私は高校二年生……だったはず。でもなんで。なんで私、高校一年生になってるの……!?