栞は今日も玄関をすり抜け、僕の部屋をノックした。やあ、という呑気な声と共に、部屋の扉が開いた。

 まだ僕は気持ちの整理が済んでいない。大井と話した後、家に帰って、部屋で考えてみた。僕は栞に伝えるべきか、否かを。よくよく考えれば、付き合っているという設定になっているので、別に僕が告白をしたり、想いを伝えたりしなくても、いいのではないか、と思えてきた。伝えて、彼女を困らせるくらいならば、自分の心の中だけに留めておくのもありな気がした。
 それにあと数日で消えてしまう彼女への想いをこれ以上募らせたくもなかった。言葉にすれば、より気持ちは強くなってしまう、そんな気がした。

 今の僕は彼女に消えて欲しくない、そう思うようになってしまった。

 彼女は僕の気持ちなんていざ知らず、部屋をぐるぐると見回す。

「ねえねえ、アルバム用意してくれた?」
「アルバム?」
「忘れたの? 私のお願い」

 数日前まで記憶を遡ると、彼女とした約束が思い出された。僕が罰ゲームを回避したことで、彼女の言うことを一つ聞かなければならなくなった。そんな楽なものでいいのか、と思った記憶までちゃんと蘇ってきた。

「思い出した。ちょっと待って、多分そこにしまってるはずだから」

 僕は言って、立ち上がり、クローゼットを開いた。服も数着かかっているが、物置と呼んだ方が正しいのかもしれない。卒業アルバムをしまったであろう段ボール箱を見つけ、僕は取り出す。アルバム以外にも小学生の頃に制作した物が入っているため、持ち上げるには少々力が必要だった。貧弱な僕の腕で何とか段ボール箱を外に出すことができた。
 何年も放置されていたものなので、当然埃に包まれていた。軽く払い、段ボール箱を開いてみる。風鈴やソーラーカーが入っており、懐古する。目当てのアルバムは底に敷かれてあったので、一つ一つ中身を取り出していると、かなり部屋が散らかってしまった。後で片付けよう。

「どうぞ」

 栞は壊れ物を扱うかのように、優しく受け取った。

「見ていい?」
「ダメって言っても見るでしょ?」
「まあね。私のお願いだもん」 

 彼女は一ページ一ページ、丁寧にめくっている。

「この子、秋太くん?」
「そうだよ。よくわかったね。自分で言うのもなんだけど、かなり印象変わってるはずなのに」

 集合写真の中の僕を彼女は見つけた。そこには今では見せないであろう、全力で笑う僕がいた。別に笑顔を封印したわけではないけれど、あの頃よりは確実に笑う回数は減ったな、と思う。そんな僕を見つけてくれたことに、少し心が踊ってしまう。

「やっぱり、そうだったんだ」

 栞は誰に言うでもなく、小さく呟いた。

 どういう意味だろう? 彼女は何か含みのある言い方をした。
 
 僕が考えていると、ページをめくる彼女の手が止まった。どうやら個人写真のページで止まっているようだった。

「秋太くんは何組だったの?」
「三組だったと思う」

 確か小学校の頃のクラスは全部で、四クラスあったと記憶している。

 一組で止まっていた手が、動き出した。二組のページを飛ばし、三組のページを開いたことがわかった。

(あずま)......?」

 彼女は不思議そうに訊ねた。

「離婚したことで、苗字変わったんだよね。佐竹ってのは、母さんの旧姓」

 僕が言うと、栞はアルバムを閉じた。清々しい表情だった。加えて、やりきったような、達成感に満ちた表情だ。

 どうしてそんな表情をするのか理解できず、彼女が何か喋り始めるのを待った。

「君だったんだ」

 彼女は言った。どういうこと? と訊ねる僕に微笑み、彼女は持ってきていたカバンから一枚の写真を取り出す。

 その写真には、優しそうなご両親の間に挟まれ、病院のベッドで笑う少女がいた。僕はその子を知っていた。

「見覚えあるかな?」

 彼女は不安そうに訊いた。僕が忘れている可能性が充分にあったから。

「あるよ......でもどうして栞がそれを?」
「だって、これ私だもん。生前の私の写真だよ」

 生前の栞を僕は一度も見たことがなかった。彼女は一度も生きてる間の話をしなかった。僕が訊かなかったこともあるけれど、彼女自身も避けていたように思える。

 僕に見せてくれた写真に写っていた少女は、初恋の相手だった。

 僕の初恋の相手は栞だった? 受け入れなければならない事実を僕は、魚のホネが喉に刺さっているかのように上手く飲み込むことができなかった。

「ごめんね。混乱してるよね」
「うん。まだ頭が追いついてないみたい。栞はその......知ってたの? 僕と出会ったときから、小学生の頃話したことがある男の子だってことを」
「ううん。知らなかったよ。見た目も大人っぽくなってたし、名前は同じだったけど、苗字が違ったから別人だと思ってた」
「じゃあどうして、気づいたの?」
「旅行で初恋の話してくれたよね? 状況がすごく私にそっくりだったし、もしかして、って思ったの。秋太くんのご両親が離婚していることも思い出して、苗字が変わったんじゃないかなって。最終確認と思って、今日アルバムを見せてもらったんだよ」

 だから彼女はあんなお願いをしたのか。別にああいう形でお願いされなくても、僕は見せただろうけど。

「じゃあ、栞を認識できる唯一の人物に僕が選ばれたのも、偶然じゃなかったんだ......」
「うん。必然だったと思う」
「そうか......」

 ずっとわからなかった。どうして僕が選ばれたのか。
 その理由がわかってきたというのに、僕の気持ちはなぜか晴れ晴れしなかった。きっと衝撃の方が大きくて、どうすればいいのかわからなくなっていた。

「私にとって秋太くんの存在は大きかったの。元気をもらえた。私の病室でマジックを見せてくれたこと、覚えてる?」
「そんなことあったっけ?」
「あったよ。無邪気そうに笑う、足を怪我した君に笑わせてもらった。私、小さい頃からあんな生活してたんだ。どうして、私だけがこんな目に遭うんだーって毎日神様を恨んだよ。小学生なんて外で遊んだりしたい時期でしょ? それができない私は生きてるのが苦痛だったんだよ。楽しくなかった。そんなときに、君が現れて、数日の間だったけど、私は生きてると、楽しいこともあるんだって初めて思ったの。君がいなくなってからも、私は最後まで死にたいなんて思わなくなった。ポジティブでいられるきっかけを作ってくれたんだよ」
「僕はそんなすごいやつじゃないよ......」

 彼女の中の僕は美化されすぎだ。

「秋太くんの意見は聞いてません。私の中ではヒーローみたいなものだよ。私は救われたんだから」

 僕を見る彼女の目は、今まで見てきたどんな目よりも優しかった。

「私はずっとありがとう、を言いたかった。でも、言えずに死んじゃったんだ。それも生前の悔いだったかなぁ。うってつけの人物を神様は選んでくれたっぽいね」

 彼女は一呼吸置き、口を開く。

「ありがとう」

 僕に彼女を救ったという意識はない。救いたいから、彼女の病室に足を運んだわけではない。善意で行ったわけではなく、僕はただ話したいとか、会いたいとか、それくらいの気持ちで行っただけだと思う。
 そんな僕は彼女からの感謝をどう受け取ればいいのだろう。欲に忠実だっただけなんだ。初恋だったから。それが結果的に、彼女を救うことになっただけだ。

 それに僕が好きになってしまった人が、初恋の相手だったことに関しても、消化しきれていない。今は別に初恋に未練があるわけではなかったけれど、事実を知ってしまうと、色々思案してしまう。

 考えがまとまらない。整理できていない。話が行ったり来たりしている。冷静に──なることはできなかった。

「秋太くんは優しいから、助けたって意識はないって思ってたりする? それで、自分には感謝される義理はないとか思ってる?」

 彼女はつい見入ってしまうほどの大きな目で、僕を見た。目を合わせると、心の中を覗かれているような感覚に陥る。
 彼女にそういった能力は備わっていなくとも、僕の考えてることを言い当てたのは傍から見てもわかるくらい、顔に出てしまっていたのだと思う。

「僕は君が考えるほど、優しい人間じゃない。前にも言ったけど、初恋だったんだ。だから、ただ会いたくて、行っただけなんだと思う」

 さっきまで考えていたことをそのまま伝えた。十年も前の心情を正確に思い出すのは不可能だけれど、好きだったという気持ちだけは覚えている。

「君は意外と譲らないところあるよね。モテないよ?」
「余計なお世話だよ」
「前にも言ったと思うけど、評価っていうのは自分で決めるものじゃないと思うよ? 他人から思われていることが正しい評価なんだよ。きっと」

 自己評価なんて言葉があるけれど、あてにならないことが多い。彼女の言う通り、自分の評価は他人に決めてもらうものというのに、僕は妙に納得してしまった。数日前に言われたときと同じように。

 ニコッと微笑んだ彼女は、続けた。

「私は秋太くんに感謝してるし、それに関して秋太くんがどう思っていようが自由だよ。でも、私が君に抱いてる感謝の気持ちは受け取って欲しいな」
「......どういたしてまして。で、いいのかな?」
「それでいいんだよ。本当にありがとう」

 僕はどこを見ればいいんだろう。彼女を直視できない。気恥ずかしさで、僕はいっぱいになる。

「あとね、もう一つ言いたいことがあるんだ」

 視線を戻した。先ほどまでの晴れやかな表情とは打って変わって、少し寂しそうな、物憂げな表情をしていた。あまり聞きたくない内容であることを覚った。
 それでも僕に拒否する権利はなく、彼女は口を開いた。

「別れよっか。私たち」

 衝撃を受けたはずなのに、電流が走ったような、そんな感覚とは違った。彼女が発した言葉の意味を少しずつ、一つずつ、理解しようとする。けれど、脳のスペックが急激に落ちてしまったのか、短い言葉を理解するのにかなりの時間を要した。

 僕はやっとのことで、「どうして?」とお腹から声が出ていないのが丸わかりな声を発した。

「それは......」
「嫌いになった?」
「......そうだよ。だから、私はもう来ない」

 彼女は僕の隣に置いてある、アルバムに視線を向けながら、言った。

 どうして今にも泣きそうな、辛そうな顔をしながら言うんだよ。

「約三週間。私は本当に嬉しかった。彼女として扱ってもらえて。感謝してもしきれない」
「じゃあ......どうして?」
「嫌いにならなくちゃ、いけないから」
「だから、どうして!」

 声を荒げた。こんな態度をとってしまったのは、初めてだ。僕を嫌いにならなければならない理由が知りたい。彼女が現世に戻ってきたときから、決まっていたルールだったのか? 最後は嫌いになって別れろ、と。そういえば、彼女は三つルールがあると言っていた。そのうちの一つは、教えてもらえなかった。
 もしかしたら、そういうルールがあったから、彼女は僕が手伝いをしたくなくなる、と言ったのだろうか。行き場をなくした怒りが、ふつふつと湧いてくる。僕はこの怒りを誰に向けるの適切なのだろうか。

「ごめんね。ありがとう」

 彼女は言うと、踵を返し、ドアノブに手をかけた。ゆっくりと扉を開き、彼女は振り返らず、扉を閉めた。

 僕はその姿をぼんやりと、見つめることしかできなかった。たとえ、彼女を追いかけたとしても、絶対に捕まらない。彼女には能力があるから、撒かれるに決まっている。他人の家に上がりこまれでもしたら、僕はお手上げだ。彼女とこんな別れ方をしたくない、と望んでいるはずなのに、体は腰が抜けたように動けず、ただただ去る姿を目に焼き付ける以外に何もできなかった。

 何もできなかったけれど、彼女が嘘をついていることだけはわかった。
 去り際の彼女の左手の甲には、赤くなっている部分があった。白い手をしているため、とてもよく目立っていた。彼女は話しているとき、常に右手で左手を覆っていた。そのときは気づかなかったけれど、赤くなっているのを見て、彼女が嘘を言ったことに気づけた。

 僕のことを嫌いになった、と彼女は言った。たった三週間だけど、彼女のことを色々知れた。彼女は平気な顔で他人を傷つけられるような人間ではない。自分の腕を傷つけることで、耐えていたのだと思った。

 彼女の消えた後の部屋は閑散としていた。考えたいことはいくつもある。あるけれど、ちょっと疲れた。僕はベッドに倒れこむように、横になった。まだ昼間だと言うのに、疲労からか眠気が襲ってきた。いつの間にか怒りは消えていて、僕はすぐに眠りに落ちた。


 栞と出会って、二十四日目。彼女が僕の前から姿を消して、三日目。
 昨日、彼女を捜した。全身を汗で濡らしながら、彼女がいそうな場所を訪れた。どれだけ捜しても見つからなかった。あんな別れ方をしたのだから、彼女の方から姿を見せてくれる可能性はかなり低いだろう。しかし、僕が彼女を見つけられる可能性もこれまた低い。

 彼女がいなくなってからの数日、頭を冷やすいい期間となった。

 栞が初恋の相手だったことは驚いたし、動揺した。けれど、今の僕にはそんなことどうでも良かった。過去の彼女が初恋の相手だと知っても、僕の気持ちは変わらなかった。今の彼女のことを好きになった。だからそれをちゃんと伝えたかった。初恋の相手だと知ったから、好きになったのではなくて、今の栞を見て、好きになったのだと。
 
 やはり今でも十年前のことは正確に思い出すことができないけれど、きっと彼女を好きになったのは僕の目を見て、楽しそうに話を聞いてくれたからなんじゃないかと思った。大きなぱっちりとした目で彼女はよく僕を見る。人の性質はそう簡単に変わらない。十年前から彼女はそういうコミュニケーションのとり方をしていたのではないだろうか。
 家族団欒をする機会はほとんどなかったし、ちゃんと僕のことを見て、話してくれている存在は栞が初めてだったのかもしれない。全て推測なので、もしかしたら、綺麗な容姿に惹かれただけなのかもしれないけど。

 彼女の手伝いを始めた頃のことも思い出してみた。どうして、見知らぬ彼女のことを助ける気になったのか。僕自身もずっと疑問だった。彼女が可愛いとか、可哀想とか、そういった感情以外に何かきっかけがあったんじゃないか、そう思っていたのだ。それが何だったのか今までわからなかった。
 今、少しわかった気がした。僕は彼女と会って、もっと話したい。もっと色んなことを知りたい。そんな風に思っている。きっと僕は彼女に興味があったのだ。恋愛的な意味ではなくて、成仏しきれず、現世に戻ってきてしまうくらい、生に執着を持っていた彼女のことが気になったのだ。

 僕が死んでも、おそらく彼女のようにはならないだろう。すぐに別の生物に生まれ変わったりするのだと思う。だから僕にないものを持っていた彼女に興味が湧いたのだと何となく思った。
 彼女の生前の生き方を見れば、納得がいった。彼女は普通の生活を知らなかった。だから、たまに常識から外れた発言をしたり、行動をしたりしていた。同世代の人が学校へ行って、勉強をしている間、彼女は病気と闘っていた。病室かもしれないし、彼女の実家だったかもしれない。

 彼女がいなくなっても、悶々と考え続けるあたり、本当に好きになってしまったんだと、再度自覚する。

 でも、僕から彼女に会う方法がない。このまま、八月の終わりを待つしかないのか......。

 熱気に満ちた室内を換気しようと、窓を開けた。涼しいとは言い難いが、それなりに気持ちのいい風が部屋に吹き込んできた。うるさいセミの鳴き声も風に乗せられて部屋に入ってくる。
 夏は冬と比べると、騒がしい季節だ。夜になれば、鈴虫が鳴いていたりもする。暑さにも辟易してしまう季節だけれど、僕は嫌いじゃなかった。正確には、嫌いではなくなった。

 夏がうるさいのは、多くの生き物が生きている証拠。生を一番感じることができる季節だから。生きてるからこそ、うるさいとか、暑いとか、嫌いとか、好きとか、色んな思いを巡らすことができる。生と死の間にいるような、彼女の存在が僕を変えた。

 そんな彼女にどうすれば、会えるのか。あんな悲しい終わり方をしないで済むのか。ずっと考えているけれど、いい案が出ない。

 熱中症にならないように、飲み物を取りに行こうと、一階へ下りることにした。リビングへ入ると、いつも通り母さんがドラマを見ていた。その横を通り、冷蔵庫を開け、お茶を一杯飲む。目的を達成したので、リビングを出ようとしたときに、話しかけられた。

「お祭りに行ったりしないの?」
「祭り?」

 母さんは立ち上がり、チラシの束から一枚抜き出し、僕に見せてくれた。となり町の祭りの宣伝だった。花火もあるらしい。

「明後日なんだ......」
「あんた、知らなかったの? そういうの若い子は好きなんじゃないの」

 母さんは僕と栞の状況を知らない。数日前の僕らなら二人で行っていたはずだ。でも、今は誘う手段もないのだ。

 いや、誘うことはできる。これも可能性は低い。低いけれど、今まで考えたどの案よりも可能性が高い気がする。

「教えてくれてありがと。祭り行くことにする」
「はいよー」

 母さんはドラマを再開した。僕は礼を行った後、自室に急いで戻った。祭り会場の最寄駅までの電車をすぐに調べた。候補の中から、乗る電車を決めた。混まないように、少し早めの電車にしよう。
 次にスマホを開き、僕は栞にメッセージを送った。

『明後日の十七時半にいつもの駅で待ってる 花火が観たい』と送った。

 いつもの駅というのは、僕たちが少し遠出をするときに用いる、僕の家から一番近い駅だ。
 
 以前に、花火を観たい、と言っていたことを思い出した。僕も栞と行きたい。

 しかし、彼女がこのメッセージを見る保証はない。彼女がもう僕との思い出を断ち切るために、スマホを捨てている可能性だってある。Wi-Fi環境下にいるとも限らない。見ても、無視するかもしれない。状況は厳しいけれど、これが最後のチャンスだと思った。

 僕は期待と不安が入り混じる心持ちで、明後日になるのを待った。