いつもの大学、いつものバイト、いつもの帰り道。人類史が辿ってきた争いの歴史を顧みればこの普遍に続く平和がいかに大切なものか理解できるが、普遍な平和はいわば平凡だ。平々凡々だと何度も繰り返して言いたくもなる。
たいして取り柄もない、才能もない私が過ごす日常は退屈で何の彩もない。まるで戦後の白黒写真のようなものだ。どうせ色が付けられないなら意味がないと、私の服装も黒っぽい地味なコーデになってしまっている。化粧だって時間とお金のかからない簡単なものしか使っていない。
 私自身の過去を顧みても、甦ってくる思い出はどれもモノクロの写真だけ。でもアニメや漫画だけは今なお光り輝いていた。漫画は常に私に理想を見せてくれて、アニメでは憧れを見つけられる。それが同時に現実の私を暗くしているのはわかっている。
 だがこれが私だ。今さら変わろうとは思わない。
 宣誓! 私はこれまでの自分をすべて肯定し、それに反する陽キャ・リア充を一切否定することを、ここに誓います!
 日課である最低な陰キャ宣誓をしたところで、今日も今日とてバイトの帰りに近くのスーパーへと足を運んだ。
スーパーの陽気なオリジナルソングを口ずさみながらカゴを持って惣菜コーナーへと真っ直ぐ向かっていく。2割り引きの惣菜を選んでカゴに入れると、他の陳列棚には見向きもせずにまっすぐレジに並ぶ。私は昔からスイーツやお菓子といったものに興味がなかったことが幸いして、大学に入ってからの一人暮らしでは食費が浮いて助かっている。
「1272円になります。カードはお持ちですか?」
「あ、大丈夫です」
 何度も通ってるのだからカードはないとわかってほしいものだが、レジのお姉さんからすれば何度も通うんだったらカードを作れよって気持ちなんだろう。それといい加減に「あ」を付けるのは止めろって思ってるのだろう。
 私はパッパと手早く食材をレジ袋に入れて駅チカのアパートへと帰る。駅だけでなく大学へ行くにも徒歩7分と立地が良いため、このアパートには一人暮らしの大学生が多く住んでいる。
エントランスホールの自動扉を解錠しようとポケットからカギを取り出していると、ちょうど扉の向こう側から同じく大学生のカップルがやって来た。
 私がカギを使うまでもなく自動扉は開く。
「でね、またネックレス貰ってるんよ。ちょっとさすがに早すぎん?」
「まあ確かに。三か月でネックレスなら一年目には指輪になる勢いだろうな」
「いやいや、あの二人は一年も続かんよ。前の彼氏だってなんだかんだ半年も持たんかったし」
 聞きたくもないのに大声で話されると会話が聞こえてきてしまう。
 私にはまるで気づいていないかのように、ジェルの香りが強い彼氏と関西弁を隠す気のない茶髪の彼女はエントランスホールを抜けていく。そうですかそうですか。陽の者は陰には見向きもしませんか。
 僻みと分かっていながらリアルを充実させているカップルの幸せそうな後ろ姿を恨めしく睨みつけたあと、自分の部屋へと帰った。
「あぁ~」
 だらしのない声を出しながら荷物を下ろすと、流れるように部屋の電気をつけてそのままベッドにダイブイン。柔らかなベッドはスプリングの音をたてながら私を迎え入れてくれた。
 まったくさっきの若者たちと来たら……。
 枕に顔を埋め、泡のように浮かんでくる先ほどすれ違ったカップルへの恨みを発散する。
 対象はさっきのカップルだけではない。季節は秋になりしばらく経過したが、現実でもSNS上でもクリスマスに合わせて付き合い始める、もしくは当日に告白するために相手の外堀を埋めてポイントを稼ぐ輩が目立ちだした。お前たちは冬眠する前に食糧を貯め込むクマか。だがクマとは違ってクリスマスの夜に寝ることはないのだろうと想像すると、余計にはらわたが煮え繰り返る。
 とはいえ奴らリア充は1人でクリスマスも越せないような人類でも最弱の存在。私なら1人でも某ランドを一日中楽しめることができるのだ。フハハハハ。
 虚しい高笑いが秋空に響き渡る。
 いいもん。私には彼氏がいなくても推しがいるんだもん。寂しくなんてないんだもん。
 寂しくなんてないもん、略してサビモンが出たところで私は身体をゆっくりと起こして大学の生協で購入したラップトップパソコンをカバンから取り出した。電源を付けてカタカタと操作すると、画面にダウンロードした推しのシチュエーションボイスのファイルが現れる。
 このためだけにネットで買った高性能のヘッドフォンを付けると、再生ボタンをクリックした。
『おかえり。ずっと待ってたよ』
 優しい低音ボイスが鼓膜を震わせる。それに合わせて私の身体も疼くように身体をよじった。やはり帰宅第一声はこの声に限る。
 この声は私が推している騎士系Vtuberの黒岸ナイトという、雑談・実況配信をしている男性ライバーだ。多くのVtuberを擁している大きな事務所に所属しており、配信歴は二年弱だがチャンネル登録者数は50万人を突破している。
 多くの女性ファンはナイト様と呼んでおり、私は初回配信を偶然見てから一瞬にしてナイト様の虜になってしまった。シチュエーションボイスはもちろんのこと、グッズも欠かさず買いそろえている。さらにスーパーチャットと呼ばれる配信者に送る投げ銭は定期的にナイト様へ送っている。
 そんな古参のファンである私が選ぶ最もお気に入りのシチュエーションボイスを再生する。リア充の光によって傷ついてしまった私をナイト様に癒やして貰うのだ。
『もう大丈夫ですよ。私が助けに来ました』
 それは囚われの姫を騎士であるナイト様が助けに来るというシチュエーションで、リスナーは命がけで助けに来たナイト様と甘々な会話をすることができる。
 より愉しむために目を閉じてナイト様とのシチュエーションを想像する。
 ----私は姫。敵国の地下に幽閉されており、もう助かることはないと諦めて大粒の涙を流す。そのとき、地下室の扉を開けられる。そこに私の幼馴染で国家騎士のナイト様……もといナイトが私を助けに来た。
「ナイト? あなた、どうしてこんなところに?」
 次のボイスに合わせて予定調和されたセリフを述べる。
『どうして助けたのか、ですか? そんなの私が騎士だからに決まって……いや、それだけでないことなど、とっくにお見通しですよね……』
 地下室ではっきりとナイトの顔は見えないが、その頬は紅潮しているようだった。凛々しい眉も困ったように垂れている。
 吐息の混じった悩ましげな声に頭も心も壊されてしまう。普段は強気で話すだけにこうして困惑したり下手に回っていると私の中で嗜虐心というか好きな子に対する乙女心のようなものが生まれてくる。
「ナイト……。言いたいことがあるなら、はっきりと言ってちょうだい」
 心を鬼にしてナイトに意地悪をする。ナイトは覚悟を決め、逞しい手で私の両手を握った。
『一生あなたを守らせてください。騎士ではなく、一人の男として』
 キャー! 
 雄叫びならぬ雌叫びをあげてベッドの上でもだえ苦しむ。妄想から現実に帰ってきても耳にはナイト様の言葉が反芻してトキメキが止まらない。セリフを覚えるほど何度も繰り返し聞いたボイスだが、いつ聞いても新鮮な気持ちで聞くことができる。
 私は行き場のない叫びを子供のころから持っている某ランドのぬいぐるみを力いっぱい抱きしめることで代替する。ぬいぐるみは身体が「く」の字に曲がり、魂が宿っていたなら苦痛の叫びをあげていただろう。もちろんぬいぐるみだから黙って私の胸で抱かれてくれているのだが。
 そのまま悶絶してぬいぐるみとじゃれ続け、遂には力尽きてベッドの上の干物となった。だるい身体でゴロゴロと転がって眠気とも無気力とも違う、なんとも言えない退屈に苛まれる。
 最近は暇つぶし異世界転生もののアニメを多く見ていたが、それももう見飽きた。漫画を読もうにももう何十回と繰り返し読んで無いようも覚えてしまった作品ばかり。かといって大学の課題をやる気力はない。
「ナイト様……」
 物憂げに推しの名前を叫ぶ。
 私はそのままパソコンを操作してインターネットを開いた。カタカタとタイピングをして開いたサイトはVtuber好きが集まる掲示板サイトで、大手事務所に所属するVtuberから個人で活動をしているVtuberまで網羅してある。ここを利用する人たちはグッズやイベントの情報を共有したり、最近勢いのあるVtuberをまとめたりしている。
 暇な時間はここでサーフィンをするのが日課になっており、今日はナイト様の配信について書いてあるスレを開いた。

【朗報】 黒岸ナイト、実写配信
2021/11/4(木)12:30:54.19
 今日の7時から料理配信。
 最近は他の人たちも実写の手元配信多いから助かる
 
2021/11/4(木)12:46:42.09
 ただ料理配信だと調理器具で顔が反射しそうで怖いっていうのはある

2021/11/4(木)12:48:39.46
 なんならナイトは多少の顔バレはウェルカムっていう感じはする。「え?顔映ってた?イケメンだったでしょww」とかいってそう 

2021/11/4(木)13:05:48.01
 めっちゃ想像できたわw

2021/11/4(木)13:17:40.89
 というか男で料理配信とかめずらしいよね。しかもお菓子作りって難易度高そう

2021/11/4(木)13:34:19.21
 ナイト様はSNSでもお菓子の画像あげてるから簡単そう

2021/11/4(木)13:36:29.06
 視聴者層が女性多いのはわかるけどもう少し男性向けのコンテンツをやって欲しい気もする。雑談とかは見てるけど料理配信はさすがにみないわ

 などと様々なコメントが見受けられる。このサイトではアンチコメントがあまり流れないため、安心して読み進めることができるのだ
ダラダラと他のVtuberについて書いているスレも開いて時間を潰していく。そして遂に、ポケットのスマホがブルブルと震えた。
 キタ!
 隣人迷惑になるから心の中で大声を出し、急いでスマホのロックを外す。画面を横にして準備は万端。通知が来てからこの間僅かに2秒! 流れるように私はナイト様の配信を開いた。
 ちなみに私が通知をオンにしているのはナイト様の配信だけのため、携帯がブルっとするときはナイト様が私を呼んでいる時だけなのだ。
 スマホからはいつ聞いても耳馴染みのよいオリジナルソングが流れ、デフォルメされた甲冑の騎士が白馬に乗って画面の端から端をずっと往復している。これは配信が始まるまでの待機画面で、これがあるため通知が来ても私のように急いで配信を開ける必要はないのだ。
 とはいえ、私のような上級者になれば通知が来ればすぐに向かうし待機画面でもすることはある。
 スマホを縦にすると流れるようにコメントを打ち込む。
「待ってました!」
 待機画面のコメントはライバーも見ていることが多いため、こういったコメントは積極的に打ち込んでいくべきなのだ。現に同志たちの「こんばんは!」や「楽しみ!」といったコメントが流れていく。
『皆さん、こんばんは』
 待機画面が終わるとともに画面の端に黒髪をなびかせた甲冑姿のキャラクターの立ち絵が登場した。
『王族護衛騎士VTuberの黒岸ナイトです。さっそくだけど今日は、久々の料理配信でもしていこうかと思います』
 はぁぁ……ナイト様ぁ……。
 いつもと同じ低音ボイスに思わずため息が漏れてしまう。どこか威圧的な雰囲気を醸し出しながらふと見せる甘く優しい声。さらに中性的な見た目は私の心を完全に掌握している。
 ナイト様は今でこそ登録者数が50万人を突破しているが、二年前の初配信はもはや伝説となっている。
 全身甲冑姿の立ち絵で登場し、そのまま20分近く自己紹介を続けていたのだ。私は偶然その初配信を見ていたのだが、その時点でナイト様の声には心を奪われるものがあった。
 そしてナイト様の『暑くなったな』の一言で甲冑のヘルメットを脱いだ瞬間、紅顔の美少年が現れ私を含めた視聴者たちは一瞬にしてナイト様の虜になってしまった。どうしてもナイト様の見た目から女性ファンの方が多いが、ワードセンスやオープンな性格から男性ファンも少なくない。さきほど掲示板でもあったようなプロレスと呼ばれるような雑談配信は男女共に人気がある。
 今はデビュー当時と同じヘルメットだけを脱いだ甲冑姿だが、私の一番の推し衣装は訓練服と呼ばれるラフな薄着だ。鎖骨が見えるほど胸元が緩く、豪壮な甲冑に隠れた細くたおやかな身体を見た私は歓喜のあまり隣人に怒られるほど叫び声をあげてしまうほどだった。
『前にもちょっと言ったけど、今日はチョコクッキーを作っていきます。今はチョコレートを湯煎する準備をしているので、もうちょっとだけここで雑談しておきます。……湯煎してから配信しろって? いやいや、ちょっとでも早くみんなと会いたかったんだよ』
コメントと会話しながらナイト様は楽しそうに笑っている。それだけで耳が幸せだ。
 私も参加しなくては、とスマホでコメントを打ち込む。
「私も、会いたかったよ」
 コメントの流れが速すぎてナイト様は私のコメントを拾ってくれなかったが、それでも私は十分満ち足りた気分になっていた。読まれるか読まれないかは関係なく、ただ形でもナイト様に思いを告げられただけで万々歳なのだ。……とはいえ心のどこかに承認欲求というものがあって定期的にその鬱憤を晴らさなければいけないのも事実。
 月例の金額分はまだ使っていないので、日ごろの感謝の思いも込めてナイト様にスーパーチャット、略してスパチャを送る。しかも12000円で赤スパと呼ばれる高級なスパチャだ。
「いつも応援しています」
 シンプルな文言ではあるが愛を伝えるにはこれだけで十分なのだ。スパチャは値段に応じて打ち込める文字数が変わり、赤スパの場合は270文字以上打ち込むことが可能なのだが、文字が多くてもナイト様が読み上げるのが大変なため数時間にわたる雑談配信でもない限り長文スパチャは私の中で送らないように心掛けている。
『お、”一応仮名”さん。赤スパありがとうございます! いつもありがとうございます!』
 何度も赤スパを投げることでナイト様に名前を覚えてもらえるにまで至った私の努力! 学生の身分だと月に一回くらいしか赤スパを投げることはできないが、自分の私腹を肥やすくらいならナイト様に献上した方が100倍マシだ。
『じゃあそろそろいい感じみたいだし、料理配信の方へ移っていこうかな』
 そして画面が切り替わり、ナイト様の台所の映像に切り替わる。まな板を俯瞰した映像に、ゴム手袋をつけたナイト様の手が現れた。
 ナイト様の手は画面に向かって手を振っている。
『みんな見えてる?』
 ナイト様の問いかけにコメント欄では「みえてるよ」「みえてる!」と統率されたコメントが流れていく。
『見えてる……っぽいね。それじゃあ早速だけど始めていきます!』
 ナイト様は慣れた手つきで 食材や食器を紹介していく。
『とりあえずさっきも言った通り、今日はチョコレートクッキーを作っていきます。型はハートとダイヤの二つにしようかな。それともう一つ、大きな型のクッキーを作ってやってみたいことがあるんだよね』
 小さな三角形のビニールに入った色とりどりなクリームがお皿に乗って登場した。
『えー、これを使ってね、今日はアイシングに挑戦していこうと思います!』 
「アイ……シング……?」
 聞き覚えのない単語に頭を捻る。しかしコメント欄では「ホントに?!」や「アイシングできるの?」といったアイシングを知る視聴者のコメントが流れていた。
『知らない人のために教えると、このいろんな色のクリームを使ってクッキーの上とかにキャラやデコレーションをしていくことです」
 なんとも女子力の高い言葉の羅列に絶句してしまう。私は身体を起こして部屋を見渡し、レジ袋に入ったお惣菜や脱ぎ捨てられた部屋着の有様に絶句する。
 嘘、私の女子力低すぎ……!
 コメント欄でも私と同じようにナイト様の女子力に圧倒された人たちがコメントをしていた。どうして世の中には女子よりも女子力に優れた男子がいるのか。これならいっそのこと可愛いモノを作れる力とか呼んでほしいものだ。
『それじゃあ早速作っていこうかな』
 ナイト様はバターや卵、薄力粉を入れて混ぜていく。その間もずっとコメント欄と話を続けており、楽しそうに笑っている。
『お菓子作りだけでなく料理するときは定期的にボウルや調理道具の水気は取らないといけないんだよ。結構手間がかかるけど、ちょっとした水滴でお菓子ってボロボロになっちゃったりするからね』
 豆知識を話しながらもお菓子を作る手は止まらない。コメントを見ているであろう時も手は食材を混ぜる手を止めておらず、ナイト様の女子力というか主婦力がいかに高いのかということが伺える。それに対して私は……。
 食べようと思って買ってきたお惣菜にも手を付けず、私は「すごすぎ……」とコメントで打ち込んだ。
『えっと……”アイシングでどんな絵を描くんですか”。あれ、まだ言ってなかったっけ?』
 ナイト様はコメント欄からアイシングについての質問を拾った。
『普段からアイシングは練習しているから、ちょっと難易度高めのものにチャレンジしようかなって思ってて。それでいつも言ってるようにピンクタイガーが好きだからさ、全身は無理でもピンクタイガーの顔を作るつもりです』
 ピンクタイガーというのは千葉にある某ランドのキャラクターの一人で、他のマウスやクマさんと比べるとマイナーキャラである。しかしどういうわけかナイト様は異常にそのピンクタイガーに嵌っており、事あるごとに配信で話している。ナイト様曰く、クマさんに雑に扱われている時のリアクションがツボらしい。
 私もナイト様がピンクタイガーが好きと聞いて、ネットでキーホルダーを買いカバンに付けている。
『よし、じゃあ型をとっていくか』
 作業はつつがなく進んでクッキーの型をとる段階まで来る。ナイト様は用意した型を持ち、蛇口の下まで移動させて水を出した。
 勢いよく飛び出た水が型に当たり、その水滴がカメラのレンズにまで飛び散った。画面の殆どが水滴で覆われてナイト様の手元が見えなくなってしまう。
『これ型抜きが結構難しくて、割と今でも失敗することが多いんだよね』
 ナイト様はカメラの水滴には気づかずに雑談と作業を続ける。
 私はコメントで「水滴!」と打ち込んで送信する。他の人たちも私と同じように送っており、コメント欄が「水滴」や「見えないよ〜」といった内容で埋め尽くされた。
『水滴?』
 コメントに気づいたナイト様はしばらく黙ったのち、
『ああ、カメラに飛び散ったのか。ごめんごめん、今すぐ拭くね』
 とティッシュでカメラのレンズを拭き始めた。手とティシュが覆いかぶさってカメラは真っ暗になる。
『これで大丈夫かな?』
 レンズはすっかり綺麗になっており、はっきりと手元が見れる。私は「大丈夫だよ」と答えようとスマホの画面をタッチした瞬間、画面の端に映るあるものに気づいた。
「―――!」
 私は思わず息をのんだ。
 そこにはレンズを拭くときに使ったであろうポケットティッシュが置かれていた。一見すると何の変哲もないポケットティッシュだが、中にはどこかの国の民族衣装のように色鮮やかな変わった柄のカードが入っていた。
「これって……」
 スマホを手放すと急いで洗面所へと走った。洗面所の戸棚を開け、化粧水やカミソリといった美容品群の中にあるポケットティッシュを取り上げる。
 その中にはナイト様と似たような色鮮やかな奇妙な柄のカードが入っている。
 私はそのカードを取り出し、裏面を見た。そこには私が通っている大学の名前と、今年度の学園祭の文字が入っている。
 私はそのカードを持ったままスマホの元へと戻り、ナイト様の画面を見る。
『それじゃあ型を取っていくよ』
 ナイト様はクッキーの生地をハート型にくりぬいており、さっきのポケットティッシュはもう写っていなかった。
 私は動画のアーカイブ機能を使って時間を巻き戻し、カメラのレンズに水滴がついたところまで戻った。
『これで大丈夫かな?』
 ナイト様の手がカメラから離れ、画面の端に色鮮やかな奇妙な柄のポケットティッシュが現れた。私はすぐに一時停止を押し、持っている自分のポケットティッシュと見比べる。
「やっぱりそうだ……」
 画像が微妙にブレているためナイト様のポケットティッシュのカードの柄を鮮明に見ることはできないが、私のカードとよく似ている。
 これは先月行われた私の通う大学での学園祭で貰ったものだ。私の大学の学園祭では、学生にのみ特別なポケットティッシュが渡される。ポケットティッシュには色鮮やかな柄のカードが入っており、その柄は一つ一つ似てはいるものの微妙に違っている。自分と同じ柄のカードは自分ともう一つだけあり、同じカードを持っている人を探して運営に行けば豪華賞品が貰えるという企画が行われていた。
「どうしてナイト様が……?」
 このカードを持っているということは、ナイト様が大学の関係者という可能性が高い。いや、このポケットティッシュは学生証を提示しないと貰えなかったため、ナイト様は私と同じ大学の学生なのでは……?
 そのとき、私の心の中で何かが芽生えた。
 翌日。私は生者を探すゾンビか、はたまた彷徨い続けるキョンシーの如く大学のキャンパスを右往左往、縦横無尽で歩き続けた。昨日の夜はなかなか寝付けず、寝不足で視界も曖昧だが体力の続く限り私は大学内の散策をかれこれ三時間以上行っていた。
 私の目的はただ一つ、ナイト様がこの大学に通っているのかを確かめるということだ。
 そのためなら手段と時間は問わない。あらかじめナイト様に関する身バレ記事をネットで漁り、証拠になりそうなものはすべて把握している。
 そもそも私はVtuberの中身に関しては一線を引いており、身バレ記事までには手を出すことはなかった。ある種の訓戒として私の心にとどめていたのだが、こんな形でそれを破ることになるのは誠に遺憾でしかない。
 言い訳をしながらも、私は内なる真理追及欲求という名の好奇心に逆らうことはできなかったことは事実だ。別に会ってどうこうしたいというわけではなく、これはただの好奇心だ。そう、ただの好奇心でしかない。
 とはいえ闇雲に探してもやはり成果はなかなか得られない。
 調べ上げた情報によるとナイト様は一年ほど前からときどき飲酒配信をしており、それ以前はお酒に関することは一切話していなかったのでナイト様は21歳の可能性が高い。ナイト様が学生だと思われる発言は過去にも何度がしており、「高校のリア友には話したけど今の友達にはまだVtuberをやっていると話していない」や、リスナーに学歴を聞かれて「学歴についてはまだ免許未皆伝ですね(笑)」と言っていたことがあり、直接的な言い回しではないものの大学生で間違いないのではないかと言われている。
 ナイト様は他にも自分が一人っ子であることも公開していたため、あのカードがナイト様ではなく家族の誰かがこの大学の学生であるということもない。
 いくつものサイトをネットサーフィンしたが、さすがに素顔に関する情報はなかった。そのため、私は幾度となく聞き続けたナイト様の声を頼りに本人を探すしかないのだ。
 私は聴覚を研ぎ澄ませながらキャンパスを進むが、誰もが声を発しながら歩いているわけではないためすれ違う男性すべてを確認することはできない。一人で音楽を聴きながら歩いている学生や、グループ内の後ろの方で一言も喋っていない人を見ると、こっそり後を追いかけて喋るタイミングを見計らうしかなかった。
 だが当然、こんな方法では効率が悪すぎる。何しろナイト様が浪人で大学に入ったことも考慮すると、一年生から三年生までの男子学生を合わせたおよそ1500人以上の中から見つけ出すしかないのだ。そもそも今日、この大学に来ているとも限らない。
「疲れた……」
 寝不足と歩きすぎたことでもう身体は悲鳴を上げていた。
「そうだ……!」
 どこかで休憩しようとしたとき、ちょうど名案が思い浮かぶ。
 私は大学に併設されているカフェテリアにまで移動した。最大で300人を収容できる大きさで、まだ昼前にもかかわらず半分近くの席に学生が座っている。そして学園祭のとき、ティッシュが配られた場所もこのカフェテリアだった。
 もしナイト様がここの学生ならこのカフェテリアを利用するはずだ。休憩がてらナイト様を探すことができるため、一石二鳥である。
 たとえ何日何ヶ月かかろうともここでナイト様を見つけるという決意のもと、カフェテリアの真ん中の席に腰を下ろした。そして例の如く耳を澄ましてナイト様の声を聴き分ける。
「でもあのドラマってさあ……」
「いや今年のマンチェスターは無理だよ」
「俺のインターン意識高い系ばっか……」
「明日の合コンのことだけど」
 あちらこちらの席で雑談やら文句やら愚痴やら、人目を憚らず猥談までする輩もいる。雑多なノイズは耳に入れないように努めるが、一度会話を聞いてしまえばその後まで聞こうとしてしまう。
 うるさい!ちょっと静かにして!
 と人目もはばからずに叫びたい。私が聴きたいのはナイト様のお声だけなのだからと片っ端から文句を言って怒りたいが、そこは”私”。
 椅子に座って体を小さくしたまま、じっとナイト様の声が聞こえるまで待つことしかできなかった。だが不思議なもので、その瞬間は唐突にやって来る。
 真っ暗闇を照らす一筋の光のように、幾度となく鼓膜と私の心を震わせた、逞しさと優しさ、剛と柔。相反するものをすべてを受け入れるかのような寛大さすら感じさせるその声が、ネット越しではないリアルの空気を振動して私の耳へと届いた。話している内容までは聞こえなかったが、声は間違いなくナイト様のものだ。
 顔を上げると、カフェテリアの入り口から四人組の男子学生が入ってきているところだった。あの学生たちの中にナイト様がいるはずなのだが、口元まで見ることができずに四人のうち誰かが分からない。
「テラスの方開いてっかな」
 学生の一人がそう言って、私の近くの席にカバンを置いた。
「どうだろうな。俺が見にいこうか?」
「そうだな。じゃあ黒田はひとまずこの席とっといてくれよ」
 三人の学生はそう言って席から離れていった。三人とも喋ったが、その声はナイト様とは似ても似つかない。
 となると……。
 私は席に一人残された男子学生を横目で盗み見る。長い足を組み、綺麗な黒髪には一部メッシュが入っている。スマホを触りながら頬杖を突くその様子は優雅さを醸し出していた。
 正直、心の中ではナイト様の本人の姿がイケメンだということに期待は持っていなかった。そもそも私が恋しているのはナイト様という理想であって、現実にナイト様を動かして喋っている人ではないからだ。だがしかし、目の前にいるこの男子学生はまるでナイト様の立ち絵をそのまま実写化したようなイケメンである。
 私が本当に好きなのはVtuberとしての黒岸ナイトのはずなのに、こうして近くにナイト様が近くにいると鼓動は胸を突き破るほど高鳴っている。
 いやいや、まだこの人がナイト様だと決まったわけではない。どうにかしてこの人の声を確認しなければ……!
 モヤモヤした感情を抱えつつも隣をチラリと横目で確認すると、ナイト様が私の方を向いていた。慌てて顔を逸らす。
 心臓がずっとバクバクと鳴り続け、気を紛らわすようにカバンの中を探る素振りをした。
「すみません、それって……」
 男子学生が席を立ち、誰かに話しかける。その声は紛れもない、ナイト様本人だった。
 あまりの衝撃にナイト様が話しかけている相手が私だということに気づくのに時間がかかってしまった。
「あ、は、ひゃい!」
 声が裏返って変な声が出てしまう。頭に血が上って耳まで熱くなっている感覚がより恥ずかしくなる。変な声を出して勝手に照れているような女にもナイト様は微笑んで気にせず話を続けてくれた。
「そのキーホルダー、ひょっとしてピンクタイガー?」
 ナイト様が指さしているのは私のカバンについているピンクタイガーのキーホルダーだった。昨日もアイシングで作っていた通り、ナイト様はピンクタイガーの大ファンである。私はしばらくカバンにつけったぱなしだったため、ついつい外してくることを忘れていた。もしかしたら私がナイト様のリスナーだとバレてしまうかもしれない。そんな不安で私はキーホルダーを掴んで隠した。
「ごめんね。ちょっと聞きたいんだけど、それってどこで買ったの?」
 食いつくように尋ねるナイト様。私は目を合わせないように小さく答えた。
「えっと……。海外の方のサイトで買いました」
「海外、その手があったか……!」
 ナイト様は膝を打ってやられた、という顔をした。
「いや、俺も公式サイトはくまなくチェックしているんだけどさ、このキャラってなかなかグッズがないじゃん。だから見覚えのないキーホルダー付けててビックリしたんだよ」
「ほとんどが他のキャラと一緒に写ってるものばかりですからね……」
「そうそう。単体となるとやっぱり人気がないからなぁ」
 こうして話してみると、やはり目の前の彼が黒岸ナイトだと確信を持った。声質はもちろん、口調からでもナイト様独特の母音の伸ばし方がある。
「ところでさ」
 ナイト様の身体が近づき、私の心臓はより一層跳ね上がる。
「その海外のサイトっていうの教えてくれない? 俺もそのキーホルダー欲しいからさ」
「は……はい、大丈夫ですよ」
 震える手でカバンの中からスマホを取り出した。
スマホを付けるといきなり画面にナイト様の中身について調べたサイトが開いてしまった。ナイト様に話しかけられたときとはまた別の心臓の高鳴りが響き、私は慌ててタスクを切った。だがナイト様の方は私の画面には全く見ておらず、私のカバンに付いたキーホルダーを子供のようにキラキラした目で触っていた。
 ナイト様は私の視線に気づいたのか、すぐにキーホルダーから手を離す。
「あ、すみません! 勝手に触っちゃって」
「いえ、……大丈夫ですよ」
 平静を装うが、絶対にこのキーホルダーは家宝にしようと心に決めた。
 検索エンジンに英語でポチポチと打ち込むと、海外の公式サイトまでたどり着く。そのサイトを開いてナイト様に見せた。
「これです。海外だからキーホルダーより送料の方が高くなっちゃうんですけどね」
「へえ。ちょっと、いいですか?」
 ナイト様は私のスマホに触れて角度を調整すると、自分のスマホに手打ちでURLを打ち込んでいく。その際にナイト様の暖かい指が私の手の甲に少しだけ触れ、そのたびにドギマギと胸が高鳴る。
 もうここまでくるとさっきまでの焦りや照れよりも高揚感の方が勝り、はっきりと目の前の男性の顔を見ることができた。肌は女の子のように白くきめ細かいが、肩幅は広く服の上から見ても筋肉質だと分かる。質の良い革のジャケットを着てジーパンを履いているためスタイルの良さが際立っているのだ。
 軽くワックスで整えた黒い髪。立ち絵のナイト様のように艶やかな長い髪ではないが、ツーブロックで爽やかな見た目はまた違った格好良さだった。だが鼻筋の高さや唇の薄さ、睫毛の長い大きな瞳からは立ち絵と同じ中性的な甘美さを感じ取れた。
「ホントだ。送料かなり高いな……」
 そう呟くと喉ぼとけが艶めかしく動き、細くも凹凸のある首筋に見惚れてしまう。
「なるほど、こうするのか……。ありがとう、助かったよ! えっと……」
「あ、市岡です」
「市岡さんね。俺は黒田です」
「黒田さん……」
 下の名前も聞いてみたいが、それはさすがにおこがましいだろうか。変に聞いて引かれてしまっても困るし、ここでがめつくすれば私が黒岸ナイトのリスナーだとバレてしまうかもしれない。いや、でもナイト様の本名も気になるし……。
 心の中で葛藤している間に、話は次の話題へと流れた。
「海外のサイトにも詳しいみたいだけど、ひょっとして国際学部?」
「文学部です。でも英語は専門で取っているのである程度得意なんですよ」
「そうなんだ。俺は経済学部なんだけど、英語なんて高校以来まったく触ってないよ。さっきのサイトでも書いてあること一切分からなかったから」
「でもさっきなるほどって……」
「あれは……なんか癖みたいなものかな。ホラ、たまにあるじゃん。よくわからないけど『なるほど!』って言っちゃうみたいな」
「そんなのないですよ」
 思わず笑ってしまう。日々の配信のコメントで鍛えあげた相槌で会話も弾み、黒田くんも楽しそうに白い歯を見せて笑っていた。
 和やかにカフェテリアの一席で話している男女。これはもう周りから見れば付き合っていると思われてもいいのではないだろうか。いくら人付き合いが乏しい私でも今の私と黒田くんとの距離感が縮まっていることには気づいていた。
 今なら言えるかもしれない。『もっとピンクタイガーについて話したいので、連絡先交換しませんか?』と尋ねるだけでいい。確かにいきなりかもしれないが、それでもチャンスはあるはずだ。
 言うぞ言うぞ、とスマホを強く握りしめる。
「あれ? 何やってんだよ、黒田」
 そのとき、食べ物を持ってきた黒田くんの友人たちが席に戻って来た。髪の毛を金色に染めた遊び人風な学生が私と黒田くんを交互に見つめる。
 私の方を見つめる目にはどこか覚えがあった。何でお前が、というような疑問と不満を混ぜたような色をしてる。その湿った瞳で見られると、私は古傷が痛むかのように何も言えなくなる。
「テラスの方開いてたからそっちの方行こうぜ」
 もう一人のの派手な格好をした学生がやってきて、黒田くんと金髪の学生を催促した。
「おう。じゃあ行こうぜ、黒田」
「うん。ごめんね、市岡さん。サイト教えてくれてありがとう」
 そう言って黒田くんが私から離れていく。
「あ……いえ」
 私は呼び止めることもできず、ただスマホを握りしめたまま黒田くんの背中を見つめた。
「え? なに、黒田って意外とああいうのがタイプだったりすんの?」 
 遠くの方で黒田くんに金髪の友人が話しかける声が聞こえる。本人は小声で話しているつもりなのだろうが、本人が思っている以上に声は大きく耳を澄まさなくてもはっきりと会話の内容が聞こえてきてしまう。
 ”ああいうの”?
 ゲシュタルト崩壊でも起こしたかのように頭の中でアとイとウとノが散り散りになって飛び交う。
「別にそんなんじゃないよ。俺はただ――」
 黒田くんがその質問に答え終わる前に、私は荷物をまとめて逃げるようにカフェテリアを後にした。
 私は足の感覚が一切なく、歩いているのか止まっているのかも分からなくなっていた。なんなら足の裏にキャタピラーでもついていて私は直立不動のまま前に進んでいるのではないだろうか。
 ぐにゃりと捻じ曲がった視界は貧血の時より何倍もの不快感を募らせる。壁に手をついて深いため息をついた。これほどにまで私はしんどいアピールを全開で放っているというのに、すれ違うスーツ姿の紳士方は私には目もくれずまっすぐ街道を進んでいく。いや、目もくれずというのは嘘だ。私を一瞥した後、何もなかったかのようにすぐ目を逸らしているのだ。
 それなら私だってアンタたちから目を背けてやる。道路とは反対方向を見ると、そこには真っ白なマネキンが派手なファッションを着ているショーウィンドウが目に留まる。赤や白い華々しい服装に身を包み、顔のないマネキンは堂々と胸を張ってポーズをとっている。
 そしてそのショーウィンドウには真っ黒な服に身を包んだ、情けない顔をした女性が映っていた。というか、私だった。。 
 救いを求めるようにショーウィンドウに近づき、窓にガラスに手を付けた。近づきすぎたせいで私の姿は真っ黒な影になり、私の姿は反射しなくなる。不意に店の中から私を覗き見る店員と目が合った。店員もマネキンのようにオシャレで可愛らしい服装をしていた。
 私を見つめる瞳はやがて疑問から不快に変わり、私は耐えられずにショーウィンドウから離れるように逃げる。だがどこに行っても人の目はしつこく私の見た目を嘗め回し、ある人は忌避をしてある人は無関心を示す。
「そんな目で、私を見ないでよ……」
 気が付けば私は走り出していた。あれほど感覚がマヒしていた足は名馬のごとく大地を力強く踏みしめ、脱兎のごとく一心不乱に突き進んでいた。
 無差別に地面に突き立てられたビル群の隙間を縫って進み、私を認めようとしない有象無象の大衆たちを押しのけて猛進し、大都会を後にした。
 どこかもわからずに私は走り続ける。両足が攣りそうになりながらも万里の長城を駆け抜け、名もなき街道を走り抜け、とにかく今から逃げたかった。
 気が付けば私の地元についていて、そこには私を見下ろすようなコンクリートの建物も鬱蒼とした人間の大群もいない。私は汗も全く掻いておらず、息も全く荒れていない。だから家に帰ることはせず、まっすぐ私の通っていた高校まで足を運んだ。
「制服着てくるの忘れた……」
 そう思って自分の服を見下ろすと、私は紺色のセーラー服に真っ黒なローファーを履いていた。気分は清々しく、花壇に植えられたバンジーの花を少女漫画のごとく私の背景に溶け込んでいく。カラーにすればバンジーは十人十色の花言葉が生まれ、冒頭カラーなら赤バンジーで確定。アバンギャルドなコマ割りで初心な少年を惑わし、ウィスパーボイスで語る心理描写は男子禁制の乙女心。分かってほしいけど裸の心は見せたくない、単純な男には氷山の一角だけを見て乙女心を理解してほしいという無理難題。でも仕方ないでしょ、女の子なんだモン。略してノコモンが登場したところで校舎を駆け上がる。
 壁ドン、顎クイ、間接キス、バックハグ、ポケット繋ぎ、不意パシャ、何でもござれの胸キュン仕草。妄想乙の痛々しい女、妄想乙女と蔑まれようとも私がいるのは華の高校生活。モラトリアムの海で浮かんでピンク色の夢を見てもまだ許される歳ではないか。
 ルンルンスキップで階段を上って教室へと向かう。元気よく教室の扉を開けて挨拶をしようとした瞬間、教室の中にいる一人の女性に気が付いた。彼女はスカート丈を上げて胸元のリボンは解いて肌が露出している。ナチュラルメイクで肌をきれいに見せ、エクステに淡いピンク色の口紅までつけている。私の記憶にはこんなばっちりメイクを決めてクラスの中心になっていた女の子はいなかったはずだ。だが、どういうわけかその女の子の顔には見覚えがあった。というか、私だった。
 頭から理解という概念そのものが欠落した。最速で建築したモンサンミッシェルは事も無げにアトランティスの遺物になり果て、枯れ尾花が擬態した悪魔の手だと分かった際には魑魅も魍魎も恐怖へと帰納する。
「なんで私がここにいるか分かる?」
 気が付けば綺麗な私は私の目の前で小賢しく笑っていた。
「もしかして変わると思った? 残念でした。過去に戻ろうとも妄想の中だろうとも、あなたに華のある人生は送れない。だってあなたにお花は似合わないでしょ」
 綺麗な私は私の背景から満開に咲いたパンジーの花を払いのけた。
「ふざけないでよ……」
 激情に委ねたままはだけた胸元に掴みかかる。
「やぁん、怖い!」
 なんとも甲高くふにゃふにゃな声で綺麗な私は私の手から逃れる。刹那に獲物を狙う虎のように私の睨みつけ唸るような低い声を出す。
「どう? あなたにはこんな可愛い素振りができないでしょ?」
「そんなぶりっ子みたいなマネ、出来るわけないでしょ」
「でもぉ、バカな男はぁ、こんな風にネコを被った女の子の方が好きなんだにゃ?」
 にゃ?にゃ?と手をネコの手のように曲げて小突いてくる。その手をうざったく払いのけて同じように睨みつけた。
「そんな演技で騙されるような男の人と付き合いたくなんてないもの。もっと私が恋愛したいのは――」
「真面目でイケメンで浮気をしない男でどこか奥手そうだけどいざというときは強引に抱きしめてほしくてちゃんと自分を愛してくれている人、かにゃ?」
 真っ黒な猫耳と優雅に揺れるしっぽを付けて、鈴をチャリンと鳴らした。
「馬鹿じゃないの。真面目なだけだとつまらないし、髪型と服装を変えればある程度は格好良くなる。浮気の一つも出来ないような競争率の低い男と付き合っても仕方ない。奥手な男は一生奥手だし、その年になってもまだ『愛』なんて身体がむず痒くなることいってるの? いい加減に恋愛は打算と性欲で成り立っていることに気づきなさいよ」
 ぬるぬると背後に忍び寄り、私の耳元で香水のにおいをまき散らしながら甘く囁く。
「大事なのは虚勢を張ることなのよ。だから私たちは化粧をするの。『美しさ』という虚勢を張り、その虚勢がバレる『恐れ』を隠すために化粧という道具はピッタリなの。でもあなたは化粧ではなく、ネットで隠したのよ。数ミリの液晶と目に見えないWi-Fiは化粧の代替品」
 ポケットからスマホを取り出す。画面に映る私は大学のカフェテリアに座っており、隣には黒田くんが爽やかに笑っている。
「変わるチャンスはいくらでもあったはずよ。でも、あなたは一度も変わらなかった」
 スマホをスクロールすると、高校受験をしている私の姿があった。さらにスクロールをすると高校に入学したの時の私。高校の学園祭の時の私。大学入学時の私。去年の私、先月の私、昨日の私、そしてカフェテリアに座る私がいた。
「それを妄想の中だけでも高校に戻って華の高校生をやり直す? 随分と頭の中がお花畑のようだけど、その花はそろそろすべて刈り取った方がいいわよ。あなたにはそのお花畑を維持できるほどの経済力も人材もそろえられないでしょ」
 蒙きを啓くは天啓の如く、狂気を孕むも私を形容したのは事実。愛は資格の問題。公衆の面前で晒した天秤にて測るは比重ではなく価値の差分。不義を犯した円卓の騎士に酷似した、などとは雄獅子の傲慢、所持を許されるのは彼の騎士を束ねた獅子の魂を持つ騎士王だけだろう。なんてことはない、私は姫君ではなく白馬に乗った精悍な騎士に憧れを抱く村娘Dだったのだ。
「さあ、そろそろ夢は醒める時間よ。自分の行いを顧みてみるといいわ。一応仮名の市岡芽依ちゃん」
 私は私に押し倒され、昏い闇に飲まれていくかのように深い淵の中へと落ちていった。
 締め切ったカーテンから僅かに零れる夕日がわずかな光源。だが淡いオレンジ色の光は灯りと呼ぶには値しない。浴びたとてノスタルジーと眠気を誘うだけで、今の私にとってはそれで虚無感と劣等感を抱かせる忌むべき光である。
 私は薄く目を開けて永い悪夢から醒めたことを確認する。いったいどんな夢を見ていたのかは思い出せないが、汗だくになるほど気持ちが悪かったことは確かだ。足だって何キロ走って来たのかわからないほど重い。
 なんなら夢どころかカフェテリアからどうやってこの部屋まで戻って来たのかすら覚えていない。あまりにもナイト様の光と金髪の学生に向けられた侮蔑の眼差しが印象的過ぎて、それ以外のことがすべて霞んでしまっている。
 私は気怠るくベッドに倒れこんだまま、蒸れた髪の匂いが染みついた枕に顔をうずめた。手探りでカバンからスマホを取り出してブルーライトの眩しい光に目を細めながら昨日も見ていた掲示板サイトを開いた。
 特に理由は無いが、この行動はもはや日課になっている。するとそこには珍しくコメント数が伸びているスレを見つけた。
 そのスレではナイト様と同じ事務所に所属するVtuber、比翼つばさ。通称「ツバ姉」に関する内容を話していた。比翼つばさについては詳しくは知らないが、ゲーム配信を中心に活動していると聞いている。
 なぜそこまで議論が発展しているのか、親指だけを動かしてページを見ていく。

2021/11/5(金)17:30:08.17
 昨日のツバ姉の配信は視聴者に壊された
 
2021/11/5(金)17:30:42.09
 見てないな。何があったの。

2021/11/5(金)17:31:30.56
 視聴者参加型のゲームで参加した視聴者がgmだった。
・ゲーム内チャットで好き勝手話す
・やたらとツバ姉のゲーム画面に映りこむ
・一回遊んだら自主的に部屋から抜けないといけないのに一人だけ残り続けた
 これが30分以上続く
 
2021/11/5(金)17:32:47.28
 まじかよ。ツバ姉も大変だな

2021/11/5(金)17:34:02.88
 ツバ姉は笑って許そうとしてたけどコメ欄は大荒れしてたよ

2021/11/5(金)17:34:31.92
 最近はマジでああいう視聴者増えた気がする

2021/11/5(金)17:35:20.02
 本人は面白いと思ってるのが余計にタチ悪い。ぜったい中高のガキだろ。

2021/11/5(金)17:35:59.55
 ホントそれ。俺たちはツバ姉を見たいのであって視聴者は別にどうでもいいんだよ

2021/11/5(金)17:36:48.31
 似たようなことだけどスパチャでも目立とうとするやついるよな。変な名前使ったり長文のメッセージ送ったり

2021/11/5(金)17:37:39.06
 それは名前を憶えてほしいとかじゃなくて?

2021/11/5(金)17:38:51.54
 変なことして覚えてもらおうとかやってること炎上商法だよ。純粋に楽しんでる側からしたら迷惑でしかない

2021/11/5(金)17:40:11.80
 中には本当にセンスある人もいるけどそういう人はタイミングとか空気が読めてる人だけ

2021/11/5(金)17:40:29.62
 結局は自我を持つなってことだよ。俺たちバチャ豚は黙って金払って見るだけでいいんだから

 スレはまだ続く雰囲気だったが、私は耐えきれずにスマホの画面を切った。
「自我を持つな……そうだよね」
 全く持ってつくづく余すことなくその通り異論はない。
 私はナイト様に対して自我を持ってしまっていた。ストーカーのような真似をしてナイト様にも話しかけられて。勝手に一人で舞い上がっていた。
 私はナイト様のことが好きだ。
 低く優しげな声も虚ろ気な表情も的を得たワードセンスもすべて好きだ。これは恋といっても過言ではない。単なる「好き」だという単純な感情表現では表せないほど私のナイト様へ抱く思いは重く複雑なものになってしまった。
 だがそれは自我だ。
 視聴者が持ってはいけない感情である。
「バカバカしい」
 私は自分に向かって罵倒をする。そしてポケットティッシュから変わった柄の入ったカードを取り出して、それをビリビリに破り捨てた。まだ少しでも縋るような私の未練を完全に断ち切る。
 もし私がどこかで私自身を変えられていたなら、もしかしたらナイト様と恋人になれる未来があったのかもしれない。だがその場合、私はきっとVtuber黒岸ナイトの存在は知らなかったのだろう。
 またしても私は妄想をしてしまう。イケイケの大学生活を送り、偶然出会ったイケメンが実はVtuberをしていた。最初は友達から始まるもVtuber活動をすることに理解を持った私は黒田くんを支えながら付き合うことになる。学園祭も一緒にまわり、ピンクタイガーのグッズを買いに千葉まで行く。そんな幸せな世界線があったのかもしれない。
 甘い戯言は大概に、私は私が歩んできた退屈で灰色な現実へと戻ってきた。
 スマホに通知が来てナイト様の配信が始まる。
 通知を開くといつものナイト様をデフォルメしたキャラが白馬に乗って右往左往している。その画面を見つめながら私はベッドで横になる。
「あれ……?」
 なぜかスマホの画面が淀んでいる。指先で画面をこするが、相変わらず淀んだままでナイト様のキャラの輪郭までもはっきりとしない。
 そのとき目尻から耳元まで何か生温かいものがなぞった。
「あ……」
 画面がゆがんでいるのではなく、私の目に涙が溜まっていた。これくらい気づけよと呆れたくなるが、私自身どうして泣いているのかも分からなかった。
「情けないなぁ……」
 涙を拭っても次々と大粒の雫が涙腺からあふれだしてくる。自分の身体だというのに我慢ができないなんて、まるでお漏らしをしてしまう子供と同じだ。
『皆さんごきげんよう。アイドル系Vtuberの黒岸ナイトです。今日は……』
 待機画面が終わってナイト様の配信が始まる。私は涙を無理やり手で押さえて栓をすると、しっかりナイト様へと向き直る。
 ファンとしてナイト様の配信はしっかりと見なければいけない。
「いつも、応援しています」
 スーパーチャットにコメントを載せて視聴者としての言葉を送った。

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