ゲルダたちは『学校』で、人間の暮らしに役立つ先進技術について学んでいた。
医療の発達がどれほど多くの人に幸福をもたらしたかを、たくさんの実例を挙げて『先生』が解説する。
生まれつき心臓に疾患を持っていた赤ちゃんは、保育ケースの中で今にも死にそうだった。
次の画面ではやんちゃな少年に成長し、家族と一緒に二十一世紀風のキャンプを楽しんでいた。本物の虹鱒《にじます》を釣り、光り輝く自然の湖水で泳ぎ、樹木に吊ったハンモックの上で兄弟と肩を組んで笑っていた。
事故で失明した五歳の女の子はうつろな目で宙を見ていた。
二年後の映像では街の学校に向かって動く歩道《オートウォーク》の上でスキップをしていた。教室の場面に切り替わり、大勢の子どもの前でディスプレイに映し出される文章を読みあげた。青い目をきらきらさせた女の子は、先生に褒められて照れ臭そうに微笑んだ。
ひどい火傷を負った若い女性は、新しい皮膚を得て美しい花嫁になった。家族や友人の祝福を受けて真珠のように光り輝いていた。
人工透析を受けていた母親は、充実した表情で子どもたちの世話に追われていた。いくら走っても疲れない体で、わんぱく盛りの三人の男の子を抱きしめていた。
たくさんの美しい笑顔が画面の中に溢れていた。
「失った機能を回復するための移植技術は、めざましい進歩を遂げてきました。手術用ロボットやクローンの普及など、周辺技術の発達がそれらを支えています」
アンドロイドの『先生』は、最後にいつもの言葉で『授業』を締めくくった。
「人の役に立つことは、とても幸せなことです」
小さなメッセージに気づいたカイが南側のゲートが壊れていることを知ったのは、四月の終わりのことだった。
カイと同室だった赤い髪が『施設』を去った日。中庭の無人ヘリを見なくて済むように壁際の席で本を眺めていて、明るい場所では見つけられないかすかな書き込みを目にしたのだった。
雨や地下水を飲み水に変える自動浄水施設が外にあり、ゲートはその施設に不具合が生じた時のための、ずっと昔の通用口だった。ドローン型の修理機器が主流の現在、ゲートはずいぶん長い間、使われていなかった。
使わないゲートの管理プログラムは自動的に削除されると聞いたから、ゲートは今、管理の上では壁と同じように扱われているのかもしれない。
二日続いた雨が止むと、カイとゲルダはグリーンアイを誘ってゲートを抜けた。
「三年ぶりに髪を切ったから、首の後ろがすうすうするね」
キョロキョロと森を見回しながらグリーンアイが言い、少年のように短くなったゲルダとグリーンアイの髪をしげしげと眺めてから、カイは「よく似合ってるよ」と褒めてくれた。
カイの髪も短くなった。
絵本の王子様のような長い金色の髪は、もうそこにない。ゲルダは少し寂かった。
三年に一度、ゲルダたちはみんな髪を切る。それは最初から決まっていることだ。切った髪は、『神様のギフト』として病気の治療で髪を失った人たちの医療用ウィッグになった。髪を提供するのは『施設』の子どもたちの役目の一つだった。
ヒトを育てるのにはとてもお金がかかるし、困っている人の役に立つことは大切で尊いことだから。
ゲルダたちはなんの疑問を持つこともなく、自分の体の一部である髪を差し出した。
藪をかき分け、下草を踏んで森の中を進んだ。
カイが見つけた道には、ところどころ木の枝の先にスプーンやフォークが結びつけられていた。カイ自身が結んだものもあるが、以前から結ばれていたものもある。古びた紐を指さして、カイがそう教えた。
河原に着くと、グリーンアイは流れる水にじっと見入っていた。
川の流れは緩やかで、対岸までは『施設』の中庭を二つ横切る程度の距離があった。渡れない距離ではないのかもしれない。けれど、一度も泳いだことのないゲルダたちは、川を渡ろうとは思わなかった。
渡ったところでその先に続くのは深い森ばかりだ。
どこかへ行きたいとか、あるいは行けるとか、思っているわけでもなかった。
「外は、広いんだね」
グリーンアイは深い息を吐いた。
小石の中から緑色の硝子片を探してきたカイが、グリーンアイにそれを渡した。
「きみの目の色と似てる」
グリーンアイは硝子の欠片を握りしめ、抱きしめるように胸の前で両手を重ねた。
雨の雫を残した木々の葉が陽に輝き、川面で光が跳ねていた。水の音と、それに混じって遠くに聞こえる鳥の声にしばらく耳を澄ませる。
「ありがとう。来てよかった……」
それから数日後、六月の終わりにグリーンアイは『施設』を去った。
カイとゲルダは森の隅の唐檜の根元に緑色の欠片を埋めた。
八月、カイとゲルダは汗を流しながら森の中を歩いた。
むせ返るような命の息吹があたりに満ちていた。森に生きるたくさんの命。野生の命が、深く濃く息づいていた。
動物に遭遇することはほとんどなかったが、虫さされや草木によるかぶれ、怪我などには十分注意が必要だった。
週に一度、ゲルダたちは健康診断を受けている。そこで不審な点が見つかれば、調査ロボットがやってくる。その結果、ゲートの不具合が管理者に知られてしまうかもしれない。
何度も行き来するうちに、藪の中に道ができた。下草を踏み分けた部分に、かつて踏み固められた古い道があるのも見つけた。
ゲルダたちの前にも誰かが森へ行ったのだ。
ゲルダたちの後にも誰かが行くかもしれない。その誰かのために、ゲートの秘密を守りたかった。
どこかへ行きたかったわけではなかった。
けれど、ゲルダはカイの手を握って川まで往復することが楽しかった。
苦しいほどの森の匂い。土と木々が発する湿った空気を吸い込んで、カイの後ろを歩く。それだけで嬉しかった。
短くなった後で、また少し伸びはじめた金色の髪と、いつの間にか広くなった背中を追いかけた。
指の長い大きな手がゲルダの手を包んでいた。
王子様に似た中性的な美しさは長い髪と一緒に失われ、代わりにゲルダとは違う大きな体と強い力を持った男の子に、いつの間にかカイは変わっていた。
小さな岸辺で裸足になって、大きさの違う足を向かい合わせて水に浸す。緑色の苔に覆われた石の上を、両手を繋いで、おそるおそる横に歩いた。
「冷たいね」
「うん。でも、気持ちいい」
頭の上から太陽が熱を落とす。
ぱしゃんと飛沫が上がる。
飛沫は光の欠片になって、息をする間もなく砕けて散った。
夜、一人になった部屋でゲルダは白い天井を見つめた。
カイはどうして森に行こうと思ったのだろう。
レッドヘアが去った四月の終わりに、壊れたゲートを見つけたカイ。
一人の部屋で考えるのは、最近、カイのことばかりだ。
育児アンドロイドがベビー用の運搬ケースを医療ロボットのアームに載せると、中に寝ていた赤ちゃんが泣き始めた。弱く泣き続ける赤ちゃんを胴体の箱の中に固定して、医療ロボットは無人ヘリの格納部に入っていった。
八月は、生後半年の赤ちゃんが『施設』を去った。赤ちゃんを乗せた無人ヘリは大きなプロペラを回して夏の空に飛び立っていった。
図書室の窓から、ゲルダはそれを見ていた。
ヘリが見えなくなると、抱えていた絵本を開いて、みすぼらしい姿になった王子を見つめた。
レッドヘアグリーンアイは幸せになっただろうか。
振り向くと、カイが立っていた。
ゲルダの手から『幸福な王子』を静かに取って机に置き、「森へ行こう」と言った。
真夏の昼間。
日は高く、森の中は苦しいほどの草いきれと樹木の匂いで溢れていた。
額から汗が流れる。カイの背中に白いシャツが張り付く。
河原に着いてもカイは立ち止まらなかった。ゲルダの手を引いて、まっすぐ川の中に入ってゆく。
「カイ……」
足が竦んでゲルダの動きが止まる。
強い力に引かれて、よろよろと数歩だけ前へ出た。水に浸かり、白いワンピースの裾が濡れる。
「冷たい」
小さな抗議の声を上げても、カイは止まらない。ゲルダの手を掴んだまま、バシャバシャと水を蹴って深い場所まで進んでゆく。
緩やかに見えた川の流れは、入ってみると強い力で二人を押し流そうとした。川底の石に足を滑らせ、何度も転びそうになりながら川の中央付近まで行った。
全身が濡れて、服が体に張り付いた。
やがてゲルダの背が立たなくなるほど川は深くなった。つま先を伸ばしても口の中に水が入ってくる。
「カイ……、息が……」
「おいで」
長い腕に抱き寄せられ、カイにしがみついた。カイの首に腕を回して耳元で聞いた。
「どこへ行くの?」
カイは答えず、さらに先へと進もうとする。
向こう岸まであと半分。
けれど、そこから一、二歩進んだところで、水の深さはカイの背丈を越えた。緩く弧を描く川の流れは外側のほうが速く、手前よりも奥のほうが水位はずっと深かった。
カイの頭が沈んで足元が揺らぐ。
「カイ……」
流される。
そう思った瞬間、ゲルダはとっさにカイに回していた腕をほどいた。カイの体から自分の体が離れる。離れた体は簡単に流れに飲み込まれた。
「ゲルダ!」
ゲルダの手をカイが強く掴んだ。掴んだまま、カイが深く水に沈んだ。
「カイ……!」
ゲルダの体の脇を水が勢いよく流れてゆく。沈んだまま、カイは流れに逆らうように強くゲルダの手を引いて、少しずつだが、元の岸辺に戻っていった。
足がつくところまで来ると、ゲルダがカイの手を引いた。
カイの頭が水の中から現れる。大きく息を吸い、吐いて、しばらく荒い呼吸を繰り返す。それから、カイはゲルダをきつく抱きしめた。
「カイ……、怖いの?」
「違う」
カイは首を振った。
「眠っている間に全部終わる。だから、怖いわけじゃない」
そう言って首を振った。
「じゃあ、どうして? どこへ行こうとしたの?」
「わからない」
カイの目から涙が零れ落ちた。
ゲルダの目からも涙が溢れた。
わからない、と言ったカイの気持ちが、どうにかなってしまいそうな心が、ゲルダにはわかる気がした。
どこかへ行きたいわけではない。
逃げたいわけでもない。
ただ、もうこれでカイに会えなくなるのだと思うとゲルダは悲しくなる。
カイの背中に腕を回すと、カイはいっそう強くゲルダを抱きしめた。骨が軋むほどきつく抱き合って、水の中に沈んだ。
沈んだまま唇を重ねた。
「カイ……」
ぷかりと顔を出して、カイの名を呼んだ。
「ゲルダ……」
何度も唇を重ね、互いの体を求めて水の中でもがいた。岸に戻り、濡れた服のまま石の上に倒れた。
ゲルダは何も持っていない。カイにあげられるものは何もない。
温かい肌と、涙。
ゲルダの体が自分のものだったら、今、ここで、全部カイにあげてしまいたかった。
けれどこの体はゲルダのものではない。
カイの体もカイのものではない。
石の上に横たわったゲルダを見下ろして、カイは泣いた。
「忘れない。ゲルダの瞳の色も髪の色も、ずっと……」
カイ……。
この気持ちは何?
涙と同じ。悲しいのに温かい。
カイという名前は本当の名前ではなかった。
ゲルダの名前も本当の名前ではない。
子どもの頃、文字を覚えた時に読んだ『雪の女王』という絵本。その中の男の子と女の子の名前を、互いの呼び名にしたのだった。
『僕の心がどこかに消えてしまったら、ゲルダが探しに来てね』
小さなカイが言った。
『私の心はカイが探しに来てね』
約束だよと笑い合った。
ゲルダは一人で壊れたゲートの外に出て、唐檜の根元の黒い石と青い硝子の欠片を拾った。
黒い石をカイは持って行かなかった。
きっと途中で取られてしまうから。そう言ってゲルダの手のひらに載せた。
『青い欠片と一緒にどこかに隠して』
ゲルダは頷いて、それを唐檜の根元に戻しておいた。今、それを拾ったのだ。
十月の終わりにカイは『施設』を去った。二ヶ月に一度飛来する無人ヘリに乗って、森の外側にある医療機関に運ばれていった。
H2120C5M
それがカイの正式名称。
冷たい土を踏みしめて、ゲルダは川に向かった。
カイと過ごした小さな岸辺に二つの宝物を返す。
大小の石に紛れて、小石と欠片は、少し目を離しただけで、どこにあるのかわからなくなった。
「H2120C6F」
機械の音声に呼ばれて、ゲルダは無人のヘリが待つ中庭に出た。
十二月の終わり。今年最後の『集荷』のために、医療ロボットがゲルダの体を確認する。スキャンの中身はゲルダの前にあるディスプレイに表示された。
目は六十五歳の老婦人に。
腎臓は三十五歳の女性に。
肝臓は五十歳の男性に。
表示されるレシピエントの情報をゲルダは黙って見ていた。『神様のギフト』を受け取り、健康と幸福な人生を取り戻すたくさんの人たち。
どうか幸せになってほしい。ゲルダの体をあますところなく分配して。
心臓は十六歳の少年に。金色の髪の青い目をした男の子。少しだけカイに似ている。
ゲルダの子宮を受け取るのは十八歳の女の子だった。子どもを産み『親』になることを許されたオリジナルの女の子。
大腸や小腸や皮膚や骨、全部大切に使われる。
綿密な移植計画。
促されて手のひらを開いた。何も持っていないことを確認し、医療ロボットはゲルダと自分自身をヘリに格納した。
座席の正面に周囲の様子を映したディスプレイがあった。雪に覆われた森がその一つに見えた。機体が浮き上がり、白い森が眼下に遠ざかってゆく。
口に当てたマスクからガスが流れ込んでくると、ゲルダの意識が曖昧になった。
遠くなる意識の中でゲルダは思う。
ゲルダたちの体は、最初から全部ほかの人のものだった。ゲルダたちはそのために『造られた』のだから、それで構わなかった。
人の役に立つことは、とても幸せなことだ。
けれど……。
カイに会えなくなるのが悲しいと思うこの心は誰のものだろう。
『僕の心がどこかに消えてしまったら、ゲルダが探しに来てね』
カイ……。
『忘れない。ゲルダの瞳の色も髪の色も、ずっと……』
了
最後までお読みいただきありがとうございました。