プロローグ

 キミと僕の悲恋かくれんぼ。
 雷鳴の様な叫びに、甘い陶酔にも似た言葉が時間の柵から解き放たれて行く。流れ落ちて、その時代に飲み込まれ染み込んでいけばキミは僕を忘れられるのだろうか。今度こそ。いつの日か。
 うねるのに、淀むのに、刻んでも、キミは忘れないのか。
 ただ、愛しく思う。それが蛇のように足元から絡み、全身に這いあげってくる呪いであっても。
キミは笑った。
「幸せになる瞬間、キミを思い出して苦しんでしまうの」



 奇しくも、今日は吉日。晴天の空の下、教会からは幸せその鐘の音が響き渡る。キミが笑う理由も苦しむ理由も、僕にはまだ分からなかった。悲劇はまだ、足に絡まってもいなかったのだから。
「キミが死ぬ瞬間、惜しく思うの間違いではないのか」
 乾いた言葉が、嘘で作った笑顔から零れる。それの繰り返しなんだ。どうせ。
 晴天だった空から、キミの涙が降り出す。
 今回もまた駄目だとキミは諦めるのか。
 たった一夜の逢瀬が、今も僕たちを絡み、何度でも逢わせる。
 離れたくないとお互いを求めあい、お互いの背中に手を回し、何度もその背中にしがみついた。
絡みつくキミの長い髪が、堪らなく愛おしかった。吸いつくような滑らかな肌が、僕を離さない。しっとり濡れた唇は俺を名残惜しげに離さない。
 雨が降る。心に染み込んで、溶けていく雨が降る。



 真っ白のウエディングドレス。マリアベールは、薄く淡くドレスも顔も全て覆い尽くし、その純白の上から微かに浮かび上がらせていく。繊細に作られたレースは、アンティーク。何カ月も式場に通い、結局どうしても着たいというものが見つからず、全てオーダーメイド。式場も、人気の洋館を貸し切り、食事も引き出物も最高級、若者には肉中心だが伊勢海老のグラタンが食べたいという新郎側の祖父母たちには特別に生け作りまで用意する徹底ぶり。
ブーケは、莫大な持込料が掛かるのにも関わらず、有名なフラワーデザイナーに手掛けて貰ったらしい。僕は見せても貰えなかった。
 洋館のすぐ隣にある教会では、幸せの鐘が響き渡り今日の主役たちを出迎えている。教会には既に親戚に友人達、仕事場の上司たちと100人近い縁者が二人の登場を今か今かと、瞳を輝かせて待ち望んでいた。
「新婦の弟様、弟様は居られますか?」
 教会で、カメラマンとして走りまわっていた僕に、洋館から走って来たスーツの女性が声をかけてきた。
 慌てた様子で、僕が弟だと顔を見て気付いたのか、すぐに扉の後ろへ引っ張って行く。スタッフの対応としては、些か乱暴な扱いだった。
一眼レフのカメラで、客を撮るように頼まれて朝から走りまわって疲れていたのでその扱いはとても不服だった。
「どうしたんですか?」
「新婦様が」
 スタッフの女性は、辺りを見渡しながら慎重に、小さな声で言う。
「ウエディングドレスのままクローゼットに立て篭もってしまわれて」
「姉がですか!?」
 思わず数メートル飛び上がってしまいそうになって、両足に力を込める。なんとか踏ん張ったが、よろめいてしまった。
「あんなに、式に拘ってドレスもオーダーメイドして、もう皆が教会で待っているのに?」
「はい。ただただ、弟を連れて来て欲しいとクローゼットから叫ぶだけでして、私たちではもう対応が出来ません」
「わ、わかりました。すぐに向かいます。あの新郎の義兄は?」
「ショックでソファに倒れ込んで居ります」
 優しくて熊のように大きな図体のくせに、小心者で頼りがいがない。姉の趣味は良く分からないが、それでも二人が幸せならば、僕はそれで良かった。心から応援していたのに。
古い洋館は、明治の初めに作られた曰くつきの建物だ。
 この地の華族が住んでいた屋敷で、煉瓦作りの趣のある大きな建物で、庭には川が流れ、数歩程度の小さなアーチ型の橋がいくつも掛っている。門を入ってすぐの噴水は、天使が持った壺から水が溢れ、煉瓦作りの壁に蔓を伸ばして所々に花が咲いている。
 入ってすぐの広場から、目の前の階段を登り、二階へ上がる。壁にはいくつもの肖像画が飾られており、袴姿の少女と軍服を着た若い少年の将校の二人の肖像画はよく見える位置に飾っている。
この階段の20段上がってすぐの踊り場で、この家の娘であった少女が、戦争へ行くと報告した婚約者に縋りつき止めたと言われている。戦争へ行く彼を思い、彼は残していく彼女を思い、その気持ちは永遠に語り継がれる。
 なので此処で式を挙げると、永遠の愛が誓えるらしい。
うちの姉も予約が一杯だったので婚約してから今日の日が来るまで、一年以上待たされた。それぐらい思い入れのあるこの場所で、なぜ姉は今、不服を訴えているのだろうか。馬鹿馬鹿しくて笑いが込み上げてくる。たった一瞬で思い出すのならば、僕の何年のも間我慢してきた思いが水の泡になっていくのだから。
踊り場も、応接間の食事の用意も、姉の希望通りだ。踊り場へ上がると、大きな鏡が壁に貼られていて、目の前に広がる屋敷全体の様子が映りだされ、触ると吸いこまれてしまいそうだ。
「弟様、急いで下さい」
「あ、ああ。すいません」
 ぼうっと鏡を見ていた僕に、焦った荒々しい言葉をぶつける。なのに俺はもう既に諦めていた。よく知った姉だから言える。
 この結婚はきっと白紙になるだろう。
鏡に映った情けない顔の僕も言っていた。元から垂れ目で、やる気のなさそうな顔立ちで、運動しても筋肉が付きにくく細身のせいか、スーツを着てもやる気が感じられず、義兄以上に頼りがいがなかった。鏡の中で、その僕も情けない、泣き出しそうな顔で笑う。「惜しくなったか」と。
「松坂さま、松坂さま」
 開かないクローゼットを必死で叩きながらスタッフの沈痛な声が聞こえてくる。
部屋に入ると、大きな化粧台と、お色直し用のピンクの薔薇が散りばめられたマーメイドドレス、大きな窓、そして困惑した二人のスタッフがお通夜のように静まり返った部屋に居た。
「姉さん?」
「名前で呼んで!」
 ヒステリックに叫ぶ姉をややうんざりげに溜息を吐きながら、ゆっくりと名前を呼ぶ。
「千姫(ちあき)、出てこいよ」
「嫌よ、嫌。もう十分でしょう? お願いだから皆出て行って」
 クローゼットの扉の下からは、白いウエディングドレスが見える。そんなに広いクローゼットではないらしい。多分だけど、着ている服とカバンやらしか入れない程度だろう。一度も入ったことが無い部屋なのに、何故かそれはすぐに理解出来た。
「急になんです。先ほどまではにこにこと笑っておいででした」
「雨が少しだけ窓に垂れて――それからいきなり立ち上がってクローゼットの中へ」
「すいません。いつも雨が降ると機嫌が悪くなるんです。後は僕が話します」
 スタッフの二人は、時計を何度も気にしながら、部屋から出て行く。
 もう始まる時間だ。ここは貸し切りだし二次会もするから、時間がずれても多少なら融通が効くのだけは幸いだった。
雨がしとしとと濡れる。溢れだした、零れ落ちた時間の隙間から雨が降り出して、二人の間に小さな水たまりができていく。
「思い出したの」
「何を?」
「雨が止んだら、貴方は私を捨ててしまう」
「貴方じゃなくて、名前を呼んでよ」
 こんなに感情の起伏が激しい人では無かったのに。
音楽の教師として高校でずっと働いていたし、切れ長の大きな瞳に薔薇色のぷっくりと誘うように大きな唇。誰もが振り返るような、綺麗な姉は僕の自慢だった。
「秀一、私ね、思いだしたのよ」
「何? 父さんと母さんが事故で死んだあの日?」
「違う。貴方と私の馬鹿みたいなかくれんぼ」
 クローゼットから出て来ない彼女は、嗚咽交じりで泣いている。外の、空の天気と同じように。
「秀一」
「ん?」
「私、雨の日はいつも機嫌が悪くなったりしないわよ」
「そうだっけ?」
 軽く流そうとした僕に対し、千姫は黙った。その沈黙は、全てを悟ってしまったんのだろうか。
「一体、いつの話をしているの?」
「いつの話?」
 今度は僕が首を傾げなければいけない番だった。
「思い出したの、昔昔の御伽話を」
 千姫の退屈な時間旅行が始める。
僕は一眼レフを首から御下ろして、スタッフが並べていた三段ボックスの化粧道具を蹴飛ばしてそこに置いた。そのまま、煙草に火と付けて、小さく煙を吐きだした。煙草の煙は愛おしくて好きだ。苦い思い出を蘇らせてくれる。
「で、いつの話?」
 僕が静かに聞くと、千姫は語りだした。
「貴方が初めて私を捨てた、あの戦いの日」



悲恋一

 この運命を作った、始まりの話。
 時代を思い出すのは、香りだと思う。
雨は香りを流してしまうから。その香りは、六種の薫物の中でも一番夏を感じさせる荷葉(かよう)の薫りだった。蓮の香りをイメージでき、彼女の涼しげな笑顔を強く思い出す。
その香りをかき消したのは、海の泡だった。キスして、抱きしめて、自分のものにしてしまいたかった。安っぽい愛の言葉を囁いたとしても、君は僕を拒絶するから。
 僕は射貫く、 君は笑う。
「昔昔、私は衰退しつつはあるが、栄華を極めた名家の美しいお姫様だった」
 千姫の話しに耳を傾ける。その香りが脳裏に浮かんできて、僕は『彼』になりきっていた。自分は、君の一門に戦で負けた弱い一門の、大した位のない武将だ。そんなキミと僕は恋人同士だった。今とは考えられないぐらいだが僕がキミに毎日毎日毎日、キミがうんざりするまでアプローチしたからなんだけど。
 長く艶やかな髪が、絹音と共にするすると流れて行くのを僕は恋い焦がれた。美しい文で、僕を労わりつつもキミは優しく僕の好意を受け取ってくれた。
繁栄する君の一族に、流浪に近い、身を隠し生活する主に仕える僕。恥ずかしくなるぐらい僕とキミには、壁があった。
 けれど、僕はキミに相応しくなりたいから頑張って、せめて武将として強くありたいと、弓の修行を毎日した。キミのおかげさ。いつの間にか、主に認めてもらえる程に素晴らしい弓の名人になっていたんだ。
 そして、僕は正式にキミにプロポーズした。けれど、身分違いに、二人の一門は憎みあっていたんだよ。日本版のロミオとジュリエットみたいだよね。
 屋敷中の灯りを消して、僕はキミに会いに行った。屋敷の一番奥の部屋だ。灯りは月明かりを頼るだけ。それでも僕はキミの薫りですぐに見つけた。キミもすぐに僕の匂いを気づいてくれたよね。
「貴方の白檀の薫りは、私の胸を染めてしまいます」
 健気にそう僕に寄りそうキミと僕は、その月明かりも雲で隠れてしまった夜、結ばれた。雨がしとしとと降りだして、僕と貴方の甘く痛む声をかき消してくれた。着物を割ると、キミの薫りはより一層濃く僕の鼻を掠めて、甘く僕を捉えて離さなかった。
 僕も離れたくなかった。キミの髪が、僕の身体に絡むのが堪らなく胸を締め付ける。
キミの髪が、寝床に広がり柔らかく美しく僕を包み込んでくれる。
 一つになった瞬間、快楽よりもこのまま溶け込んで二人で一人として生きたかった。
痛みさえも甘く吸いこまれていく。
「貴方の身体の一部になりたい」
 健気なキミのその言葉は、いつまでも僕の心に染み込んでいる。心の一番奥まで、雨と一緒に流れ落ちてきたんだから。
だがキミの返事を貰う前に、キミと僕の一門は、戦を始めてしまった……。
 キミにプロポーズしてから、長い年月が経った。
時代は移り代わり、君の繁栄する一族が衰退し、――僕の主がキミの名家を滅ぼそうとしていた。
滅びるのは時間の問題だった。だから、僕は主に精一杯の忠誠を尽くし、懇願した。
「私の好きな姫だけは助けて下さい」
 僕の主は、頷いて約束してくれた。武士は一度した約束は破らない、芯が厚い男の中の男だからさ。だから、キミの一族を戦で何度も破り、海上に追い詰めても、胸なんて痛まなかったよ。
海上に逃げた君の一門と、主達の最後の戦は忘れる事なんてきっと出来ない。
何時間も睨み合いを続けていた。僕は必死にキミが乗っている船を探していた。緊張する人々に、静かに波打つ音だけが響いていた。
 どちらから攻撃を仕掛けるか、両者は無言で絶好の機会を伺っていた。
「あの時キミを裏切らなかったら、僕のものになってくれただろうか」
 運命はそこで上手に終わってくれていただろうか。離さないで、キスをして、強く強く抱きしめて、自分のものに出来ていたならば―……。
 両軍が息を飲み、見つめた先には、小舟が。
波間に小舟が揺蕩う。まるで、女の心情を現しているかの様に。小舟の上には、美しい葉桜が散りばめられた十二単を身に纏い、煌めく扇で顔を隠した女の姿があった。
女は憂いた仕草で後ろに飾られた扇の的を示した。
「姫! 」
男が、小舟に向かって叫んだ。その叫びに気がついた女は、扇から顔を覗かせる。
女の顔は、誰もが息を呑む程に美しく、誰もが息を呑む程に切なく涙を流していた。
「射てば戦は始まり、私は海の藻屑となるでしょう」
「姫! 僕は」
「戦をとるか、廃れた一族の女をとるか、貴方が決めて下さいな」
 男の声は女に響かなかった。響かない男の声を、女は一瞥し、扇で顔を隠してしまった。