えろいことするために巨乳美少女奴隷を買ったはずが、お師匠さまと慕われて思った通りにいかなくなる話

「えへへ……お姉ちゃんと、今日は妖精さんとも一緒……なんだかちょっと楽しいね」

 お風呂から上がり、夕食を終え、今は就寝の時間。
 風呂場で約束した通り、私たちは同じベッドで横になっていた。

 薄明かりの中、アモルは私とリザを交互に見て、はにかむように笑う。
 私を姉と慕ってくれる彼女が幸せそうにしていると、私まで頬が緩んでくる。

「そうだね。私も、リザと一緒に寝るのは初めてだから少し新鮮な気分だよ」
「そう、なの? でも、お姉ちゃんと妖精さんって、昔からの知り合いさん……なんだよね?」
「うん。リザは私の魔法の師匠なんだ。五年前に出会って……うん。三年くらい前までは、ずっと一緒にいたね」
「……お姉ちゃんと妖精さんって、実は仲が悪かったり……?」
「あはは、そんなことはないよ。でもまあ、あの頃の私とリザが、今とは全然違う関係だったことは確かかな」
「そっか……ちょっと複雑、なんだね。でも今は仲良しさん、なんだよね?」
「うん。私はそう思ってるよ」
「……妖精さんは……?」
「なんでお前が不安そうにしてんのさ。ワタシも今はハロのことが大好きだよ。こうしてワタシがこの家に来たのだって、ずっとハロを探してたからだし」

 ベッドの端に腰かけたリザがそう答えると、アモルは嬉しそうに両手を合わせた。

「じゃあやっぱり、妖精さんはわたしとお揃いだね」
「お揃い? なにが?」
「わたしもお姉ちゃんのこと、大好きだから。ほら、妖精さんと同じ」

 ……なんか照れくさいんですが。
 いや嬉しいよ。もちろん嬉しいんだけどね……。
 恥ずかしいので、できればそういう話は私がいないところでしていただけると……。

「お前はなんでもお揃いにしたがるね……ワタシなんかと同じなのがそんなに嬉しいの?」

 二人が仲良く話している最中、羞恥心から熱くなった顔を隠すように下半分を布団の中にうずめる。
 そんな私の横で、リザはニコニコするアモルに呆れたように肩をすくめた。

「うん。うまく言えないけど……その人がわたしと同じ気持ちなんだって思うと、なんだか胸がポカポカするの。妖精さんはしない?」
「あいにくだけどワタシにはわかんない感覚だね。自分は自分、他人は他人だ。その溝は絶対に埋まらない」
「……そっか……」
「……けどまあ。だからって、お前のことが嫌いってわけじゃないよ。人と人は違う。けど、人が人を思うことは勝手だろ。お前がワタシと同じだって思いたいなら、別にそれでもいいよ。ワタシはそれを否定したりはしない」
「……! そっかぁ。えへへ……」

 一瞬悲しそうに眉尻を下げたアモルだったが、続けて添えられたリザの一言で、一転して幸せそうな笑みを取り戻した。
 リザはなんか回りくどいこと言ってるが、要は『それでアモルが幸せならワタシもそれを尊重する』って言ってるだけである。あいかわらず素直じゃない。

 笑みをこぼすアモルへとリザが送る、呆れたようでいて、決してうざったくは感じていないだろう柔らかな視線は、さながら孫を見守るおばあちゃんのようだ。
 ……この例え方はリザが悲しみそうなので口には出さないように気をつけよう。

「じゃ、そろそろ寝ようか。明かり消しちゃうけど大丈夫?」
「うん。わたしは平気だよ」
「……ん? あれ? 寝るって、本当にこのまま寝ちゃうの?」
「え? うん。そのつもりだけど……」

 普通に寝ようと提案しただけなのに、なぜかリザは意外そうに目をパチパチさせている。

「もしかして、リザはまだ眠くなかったり?」
「や、寝ようと思えば寝られるけど……うーん? ハロもアモルも、それでいいの?」
「うん。夜ふかしは体に悪いからね」

 まあ本音を言うと私は別に夜ふかしくらい気にしないのだが、アモルへの悪影響は無視できない。
 私が起きていたらアモルもちゃんと眠れないかもしれないし、もしそうして私が夜ふかししたせいでアモルが体調を崩してしまったら、私は彼女の姉失格だ。
 私の真似をしてアモルが夜ふかしするようになっても大変だしね。

「わたしも……お姉ちゃんと一緒のお布団に入ると、温かくて……いつもすぐねむく、なっちゃって……もうおきてられない、かも」

 軽く目をこすりながら、ほんの少しろれつが回っていない口調でアモルが言う。
 視線もどこかぼやっとしていて、一度目を閉じてしまえば、すぐにでも寝てしまいそうな感じだ。

 リザはそんな私たちの答えを聞くと、顎に手を添えて沈黙した。

「……もしかして二人はいつもこんな感じ?」
「うん、そうだけど……」
「……ふーん。なんだ、そっか。わかった。ならいいよ、明かり消しても」
「そう……? じゃあ、消しちゃうからね?」

 念のため再確認すると、リザはこくりと頷いた。

 なんだかいろいろ考えてたみたいだったけど……もしかして、もっとお話したかったとか?
 なにせリザがこの家に来て、まだたった一日だ。
 リザはずっと私を探してくれたみたいだし、積もる話があったに違いない。

 だとしたら、ちょっと悪いことしちゃったかな……。
 でも大丈夫だ。これからはリザも一緒に暮らすんだし、話ならいつだって、いくらでもできる。
 また明日、二人で思う存分話をしよう。

 そんなことをつらつらと考えながら、私はベッドサイドランプを消した。

「おねえちゃん……ようせいさん……おやすみ……なさい……」
「おやすみ、アモル」
「……おやすみ」

 部屋の中が真っ暗になって少し経つと、アモルが静かに寝息を立て始める。
 ランプは消したが、わずかに月明かりが差し込んでいるので、すぐ隣にいるアモルの顔くらいなら見ることができた。
 気持ちよさそうに眠る彼女の寝顔を眺めていると、私も自然と頬が緩んでくる。

「ふわぁぁ……」

 段々とやってきた睡魔に身を任せるようにして、私も瞼を閉じた。
 心地良い温もりに包まれながら、少しずつ意識を手放していく。

 ……。
 …………。

「…………ロ………ハ………ロ……」

 ………………ん……。
 ……ん、んん?

「……リザ……?」

 眠りに落ちる寸前、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた気がして、ぼーっと薄目を開ける。
 案の定、声の主はリザだったらしく、私の目の前にフヨフヨと浮いていた。
 消したはずのベッドサイドランプもいつの間にか再びつけられていて、リザの姿を照らしている。

「ふふ、目が覚めた? アモルはともかく、ハロが寝るのはまだ早いよ」
「まだ早い、って……リザ……どうしたの……? やっぱり、もっと話がしたかった……?」

 眠気がひどく、跡切れ跡切れの言葉になってしまう。

 リザはまるで、これからなにか楽しいことでも始まるような、気分良さそうな表情をしていた。

「そうだね。ハロとしたい話ならたくさんあるよ。今もワタシがこうして自分の意志で生きてるのは、ハロがいるからだもん。だから、ハロのことならなんでも知りたい」
「ん……それなら、明日……いっぱい付き合って、あげるから……とりあえず今は……寝かせて……」
「ダーメ。期待だけさせておいて直前でお預けだなんて、酷な話だと思わない?」
「それは……悪かったと……思ってる、けど……」
「ふふ。思うだけじゃダメ。そんなのじゃ満足できない。ハロにはちゃんと、期待させただけの責任を取ってもらわないとね」
「責任……? なにを……ん? ……んんん?」

 眠くて気づくのが遅れてしまったが、なにかが布団の中で這いずり回る気配がする……。
 そんな疑問を抱いた直後、その這いずっていたなにかが突如私の体に襲いかかってきた。

「ひゃっ!?」

 それは私に抵抗の隙を与える暇もなく、瞬く間に私を拘束した。
 服越しに感じる私を縛りつけたその存在の感触は、明らかに人間のそれじゃない。
 蛇のように細長く、柔らかく、それでいてぬめりがあり、わずかに湿っている。

 怖気が走る感覚に一気に目が覚めた。

「な、なにが……!?」

 纏わりつかれているせいでうまく体が動かないが、首と視線を動かすことくらいはできた。
 そうして急いで布団の中を覗いてみれば、その正体も自ずと視界に入ってくる。

 触手だ。
 黒光りするヌメヌメとした細い触手が、私の全身に服の上から纏わりついている。

「な、なんっ、なに、これ……い、生き物!?」
「生き物じゃないよ。ハロならすぐわかると思ったけど、まだ寝ぼけてるみたいだね。それはワタシの魔法……ゴーレムの応用みたいなものかな。遠隔で自由に操作できるの。こんな風にね」
「っ、ちょ、ちょっと待っ……く、くすぐった……」

 触手の先端で手のひらをくすぐられる。
 すぐにでも振り払いたかったが、うまく体に力が入らない。
 そもそも私の身体能力は貧弱なので、こうして拘束された時点で大体アウトだ。
 あの日、屋根の上でシィナに好きだと告白された日だって、私はまったく抵抗できなかった。

「これがハロの体の感触なんだ……柔らかくて気持ちいい……いつまでも触ってたくなるね」
「リ、リザ……?」

 リザは恍惚と上気した顔で、自分の頬に手を当てている。

「ふふっ……それとワタシの感覚はリンクしてるの。だから今ハロがどんな状態か、ワタシには手に取るようにわかるよ。少し震えてる……こんなので怖がっちゃうなんて、ハロは可愛いなぁ」
「な、なんでこんなこと……」
「だって、一緒に寝るってそういうことじゃないの? アモルは小さいけど成熟した淫魔で、その子と毎日一緒に寝てるってことは……ふふ。毎晩二人で淫らに乱れてるとしか思えないでしょ?」
「ち、ちがっ……! アモルとはそういう関係じゃ……! ひぁっ!?」

 今度は足先をくすぐられる。
 思わず体をよじらせる私を見下ろして、リザは楽しげに口の端を吊り上げた。

「知ってるよ。さっき聞いたもん。でも、少なくともワタシはそのつもりで来たんだし……そのぶんの責任は取ってもらわなきゃ」
「そんなことっ、言われても……」
「大丈夫だよ、痛いことはなにもしない。ちゃんと気持ちよくしてあげるから……ふふ」

 触手が本格的に動き出す。私の体の輪郭を確かめるかのごとく、服の上を這いずり回る。

「んっ、く……」

 く、くすぐったい。くすぐったいけど……これくらいなら耐えられる。

 すぅ、はぁ。すぅ、はぁー……。
 大丈夫。落ちつけ……落ちつくんだ私。意識を集中させて、魔法を使うんだ。

 知識はともかく、単純な魔法の実力なら私の方が上だ。
 今朝、庭で戦った時のように、私がリザの魔法を掌握してしまえば、この触手は機能を停止する。
 そうなればリザは私になにもできない。

 そう思い、いざ魔法を使おうとした。
 しかしその直後、異変に気づく。

「あ、あれ……?」

 魔力がうまく練れない。魔法が使えない。

「あ。言い忘れてたけど、その触手には魔力の流れを阻害する機能をつけておいたから。純粋な魔法使いにとっては天敵だよ」
「え」
「まあそのぶん脆いし弱いしノロマだし、寝込みでも襲われない限りはこんなのに捕まるはずないけどね」

 まさに寝込みを襲われた今となっては手遅れでしかない発言だった。
 呆然とする私に、リザはまるでイタズラが成功した子どものようにくすりと笑みをこぼす。

「じゃあそろそろ……次に移るね?」
「つ、次? ……っ!? ま、待って……」

 手先と足先を除き、これまで衣服の上から私に触れてきていた触手が、裾や袖口から中に侵入してくる。

 裾から入ってきた方は、私のお腹にぐるりと巻きついて、感触を確かめるように伸縮を繰り返す。
 袖口の方は、私の体の末端から私の体を上ってきた。
 足首。ふくらはぎ。太ももと。私の体のあらゆる部位の感触をくまなく確かめようとするかのごとく、少しずつ少しずつよじ登ってくる。

「な、なんでこんな……変な、動き方っ……ぅ、んん……!」

 見れば、リザはなにかに集中するように目を閉じながら、顔を紅潮させていた。

 リザは言っていた。この触手とリザの感覚はリンクしていると。
 この魔法はおそらく、妖精としての小さい体ではこういったことに臨めないリザが、わざわざこういった時のために用意した専用の魔法だ。
 だからきっとこの触手は、リザの手や指にも等しいものなのだろう。
 このいやらしい動きも、リザがこんな風にして私に触れたいと、そう思っているからこその動きなんだ。

「リ、ザ……」
「誰かに触れたり、触れられたり……そういうのって気色悪くてたまらなかったけど……ふふ。好きな人が相手だと、こんなに気持ちいいんだね」

 ――ハロのことならなんでも知りたい。
 その言葉に嘘偽りはなかったらしい。
 這いずるほかにも、触手の先端で太ももやお腹をつついたり、腋を撫で回してきたり。いろんなことを試してくる。

 そんな風に触手に好き勝手にされる感触は、じっとりと湿った舌に舐められているかのようでもあった。
 いや、あるいは実際にそれと相違ないことなのかもしれない。
 手や指というだけじゃない。この触手……特に先端。これはきっと、リザにとっての舌でもある。
 もしかしたら触覚だけじゃなくて、味覚や嗅覚まで共有している可能性だってある。

 そう思うと、途端に羞恥心が湧き上がってくる。いや無論、元から恥ずかしいのだが、もっとずっとそれ以上にだ。

「ぁっ……はぅ、ん……」

 むず痒く、もどかしい。それなのに体は勝手に反応して、熱くなっていってしまう。

 うぅ……と、隣でアモルが寝てるのに……。

 必死に声を抑えながら、チラリと、すぐそばにいるアモルを見やる。
 彼女はこの騒ぎで目を覚ましたりはしていないみたいで、今も心地良さそうな寝顔をこちらに向けていた。
 こんな恥ずかしい姿、アモルにだけは絶対に見せられない。

「リ、リザぁ……お願いだから、もうやめて……」

 魔法を封じられている時点で私になすすべはない。
 アモルを起こさないよう控えめな声で、ただ必死に懇願する。

「でもハロ、こういうの嫌いじゃないよね? 昔ワタシと一緒にいた頃も、たまにワタシがいない時に一人でこっそりえっちなことしてたことあったし」
「っ……!? そ、そんなことは……」
「まあ近くにいたんだけどね。姿見せると過剰に反応してめんどくさそうだったから適当に知らんぷりしてたけど」
「……あ、あぅ……」

 まさか見られていたとは思っておらず、こっ恥ずかしさサッと目をそらす。

「それにさ、あの獣人の小娘……シィナだっけ? あの子が居眠りしてる時も一人でドキドキしてたよね。ふふ、ワタシ知ってるよ。ハロって女の子が好きなんだよね?」
「そ、それはっ……!」
「隠さなくても大丈夫だよ。ワタシはそういうのに偏見ないし。むしろ、妖精として生まれたことをこれほど後悔したことはないかなぁ。人間でもエルフでも獣人でも……もしハロと同じ体格の人類として生まれてこれたなら、もっと直接ハロと交わることができたのにね……」

 リザは本当に残念そうに肩を落とす。

「だからね、そのぶんワタシがいっぱいハロを気持ちよくしてあげられたらなって思ってるの。人間じゃ絶対にできないようなやり方で……こんな風に、魔法を駆使してね」
「そ、その気持ちは嬉しいけど……こ、こういうのは本来、合意があってやるべきことで……」
「……じゃあハロは、ワタシとこういうことするのは、嫌なの……?」

 触手の動きが止まる。
 見ればリザは、とても不安そうな私の顔を覗き込んできた。

 ここでハッキリと拒絶する態度を見せれば、きっとリザは二度とこういうことはしてこなくなる。
 でも、明らかに私を好いてくれている彼女を傷つけるだろう言葉を、私はどうしても言うことができなかった。

「その…………い、今は……隣にアモルが、寝てる、から……」

 代わりに出てきたのは、まるでアモルがこの場にいなければ大丈夫とでも捉えかねないような、情けない言い訳だった。

 それを聞いたリザは、目をパチパチと瞬かせる。

「……フフ、アハハッ! そっかそっか……じゃあ、起こさないよう静かにやらないとね」
「そ、そういう問題じゃ……!」

 拒絶せず、曖昧な返事をしてしまったからだろう。リザは意地悪く自分の唇に手を当てた。
 それからふと、なにか思いついたかのように「あ」と声を上げる。

「そういえば、ハロってエルフだったよね? エルフは耳が弱いって聞いたことあったっけ……じゃーあ」
「ま、待って、それだけは」
「やだ。待たない」
「っ、ひぁぁぁぁああぁぁっ!」

 今度は触手じゃなく、私に近寄ってきたリザ本体に耳を舐められた。
 体の芯を駆け回るような猛烈な快楽の刺激に、隣にアモルがいるのにも構わず甲高い声を上げてしまう。

「わっ!?」

 これにはさすがにリザも驚いたらしく、少しビクッとして私の耳から離れた。
 私も正気に戻ると、すぐさまアモルの方に視線を向けるが、幸いアモルはぐっすり眠ったままだった。密かにほっとする。

「……ハロ、本当に耳が敏感なんだね」
「はぁ、はぁー……そ、そうだよ……み、耳は本当に、ダメだから……もう、終わりに……」

 さっきから触手にあちこちまさぐられているし、耳まで触れられてしまって、もう息も絶え絶えだ。
 そんな私を眺め、リザは少し悩むように視線をさまよわせる。

「うーん……ほんとのこと言うとね、ちょっとだけ意地悪して終わりにしよっかなって思ってたんだ。けど、もうハロ結構出来上がっちゃってるみたいだし……そんな顔向けられちゃったらなぁ」
「そんな顔……?」
「涙目で、顔も真っ赤で……我慢してるけど、気持ちよさが抑えきれないっていう顔してる」
「き、気持ちよくなんか……」
「そうなの? ふーん、まだ気持ちよくなってくれてないんだ。じゃあ……もうちょっとだけ続けちゃおっかな?」
「そ、そんな……っ、リ、リザ、そこは……!?」

 太ももの上を這い回っていた触手が、さらに上へと上り始め、下着を剥ぎ取ろうとしてきていた。
 お腹に巻きついていた触手もだ。私の控えめな膨らみを包み込もうとしてくる。

「ダメ……そ、それはっ……りざぁ……!」

 目をギュッと閉じて、これから訪れるだろう刺激に耐えようとする私を、リザはくすくすと笑った。

「ふふ、まるで処女みたいな反応だね。大丈夫だよハロ。さっきも言ったようにワタシ、ハロを傷つけたいわけじゃないから。ただ、気持ちよくしてあげたいだけ。だから安心して身を委ねて……ね?」
「そんなこと、んっ、言われても……だ、第一、処女みたいって……だって私、処女だし……」
「……? …………え、あれ? ……そうなの?」

 あと一歩で私を蹂躙するというところで、触手の動きがピタリと止まる。
 リザは心の底から驚いたように目を見開いていた。

「そ、そうだよ……他の人とそういうこと……したことない……」
「……で、でもハロ、ワタシと初めて会った時、裸だったよね? しかも森の中で……絶対攫われて、隙を見て逃げてきた感じの境遇かと……」
「全然違う……」
「……じゃあ、この家の他の子たちとも、こういうことしてないの?」
「してない……一回も……」
「……あー……そっかー……それは……うん。確かに、初めてがこれはさすがに……」
「お願いリザ……これ以上は、やめて……」
「…………う、うん」

 触手がスゥーッと、空気中に溶けるように消えていく。
 同時に、魔力も正常に動かせるようになるが……すでに掌握すべき魔法は取り消されているので、今更戻ったところでという感じだ。

「すぅー……はぁー……」

 熱くなった体を落ちつかせるように、何度か深呼吸をする。

「ふぅ……リザ」

 ある程度火照りが収まってからリザの方を向くと、彼女はしょんぼりと頭を下げた。

「ごめんね、ハロ……てっきりワタシ、ハロは経験あると思ってて……嫌がってるのも、そういうフリなのかなって……」
「いや……うん。それはいいんだけど……リザ、無理矢理はよくないよ」
「ごめんなさい……」

 私がしっかりと注意すれば、リザは言い訳することなく謝罪した。
 もっと強く言うべきなのかもしれないが、自分自身のしたことをきちんと悪いことと認識し、気を落としている彼女を見ていると、どうにも気が削がれてしまう。

「……えっと……もうこういうことはしないでね?」
「うん……もうしない。ハロは嫌がることは絶対。約束する」
「そっか。ならいいんだけど……」
「……」
「……」

 ……気まずい。
 あんなことがあったので、当然と言えば当然なのだが……。

 そしてその気まずい沈黙には、私より先にリザの方が耐えられなかったらしい。
 彼女はこの部屋の入口の扉を一瞥すると、フワリと私から離れる。

「本当にごめんね、ハロ……ワタシ、別のとこで寝るね……」
「えっ。や、そこまでしなくても大丈夫だよ……?」
「でもワタシがいたらハロ、不安で寝れないでしょ? また同じようなことされるかもって……」

 ハロに嫌われたかも……。
 すっかり意気消沈したリザが、そんなことさえ思ってしまっているだろうことは想像にかたくなかった。

 もしここでリザをこのまま行かせたら、彼女は一晩中自分を責め続けるかもしれない。
 そんなことはさすがに望んでない。
 だから私はリザを励ますためにも、気まずい空気を振り払うように笑顔を浮かべた。

「リザはもうしないって約束してくれたんだから、そこは気にしてないよ。それよりほら、今度こそ本当に一緒の布団で寝てほしいな。アモルは……ううん。アモルだけじゃなくて、私だってずっと楽しみにしてたんだから」
「ハロ……」
「ね? ……ダメ?」

 さきほど触手で体をまさぐられている最中、やめてと懇願した時はまったく聞く耳を持ってもらえなかったが、今度はちゃんと届いてくれたようだ。
 私に背中を向けていたリザは再びこちらに振り向くと、ゴシゴシと目元を拭って、花が咲くような笑みを浮かべた。

「えへへ……しょうがないなぁ。でもね、ハロ。そういう期待させるようなこと、あんまり気軽に言っちゃダメなんだからね? じゃないと、いつかまた今回みたいに誰かに襲われちゃうよ」
「へっ? ……う、うん。気をつけるよ……」

 期待させるようなこと、というものがどういうものなのか具体性に欠けていたが……襲われることに関しては、アモルに夜這いされたりシィナに押し倒されたりと経験があったので、神妙に頷いておいた。

 リザはベッドサイドランプを消すと、今度こそ三人で一緒に寝るべく、私の横の布団の中に潜り込んできた。
 ちなみにアモルは私を真ん中としてリザとは逆側で寝ているので、いわば両手に花の状態だ。

 暗闇の中、リザと視線が合うと、彼女は少し照れくさそうに笑った。
 さきほどまでと違い今度は本当にただ一緒に寝るだけなのに、リザがこんなに初々しい反応なのは、彼女自身、こうして誰かと寝床をともにするのは初めてだからなのだろう。

 かつて私が彼女に魔法を教わっていた頃も、私に対してさえ、彼女は一度だって無防備な姿を見せたことはなかった。
 物理的、そして精神的な干渉を防ぐ見えない障壁を常に展開し、誰に自分を近づけることもなかった。
 そんな彼女が、すっかり警戒を緩め、近づくことを許している。
 それは相手が私だからなのか、それとも彼女自身が変わったからなのか。
 いずれにせよ、リザが私に心を許してくれていることは確かで、それは私にとって喜ばしいことだった。

「……ねえ、ハロ。もう寝ちゃった……?」
「……ん。まだ起きてるよ」

 部屋の中に時計の音だけが響くようになって数分ほど経った頃、リザがぽつりと呟く。
 閉じていた瞼を薄く開けてみると、リザが少し悲しそうな表情で私を見上げていた。

「……どうしたの?」
「覚えてる? ……ワタシさ、言ったよね。自分がハロと一緒にいたいって思ってることに気づいたから、ハロを探してたって」
「うん。言ってたね」

 今朝、フィリアに朝食後の後片付けを引き受けてもらって、二人だけの時間を作ってくれたもらった時にリザが話してくれたことの一つだ。

「本当はね、それだけじゃないの。本当は、どうしても……あなたにただ、こうして謝りたかった」
「謝る? 私に? ……なにを?」
「あの日……あの日、ワタシはあなたにワタシの全部を背負わせた。苦痛を、絶望を、運命を……あなた一人に押しつけてしまった。そのことをずっと、謝りたかったの……」

 あの日……?
 リザが私になにかを背負わせた日、となると……初めて会った日のことかな?

 リザと初めて会った日、彼女に魔法を習うと決めた際に彼女は私に言った。
 いつの日か魔法を極めることが叶ったなら、ワタシという存在を終わらせろ、と。

 あの時は、その意味も意図も理解できなかった。まだリザが不死の呪いに苛まれていることを知らなかったんだ。
 ただ、なにもわからないにせよ、私に魔法を習わないなんて選択肢はなかった。そんな選択の先には、野垂れ死ぬ未来しかないことはわかりきっていたから。
 だから私はリザのその要求を飲むことに決めた。約束をしたんだ。

 会ったばかりだった私に、半ば強制とも言える形で重荷を背負わせたことを、リザはずっと気にしていたのかもしれない。

「……リザ、少し触るね」
「へ……? ……うん。ハロならいいよ」

 リザに手を伸ばして、指の先で、そっと彼女の頭を撫でる。

「ハロ……?」
「私はね、リザに出会えたことを後悔したことなんて一度もないよ。リザに出会えたおかげで、私はいつだって一人じゃなかった。毎日が楽しかった。寂しくなかった。辛くなかった」
「……ハロ……」
「今の私がいるのも、こうして笑えてるのも、全部リザがいてくれたからなんだ。リザがいなければよかったなんて思ったこと一度もない。だからさ、リザはなにも気にしなくたっていいんだ。もしも気にしちゃうんだとしても、私は何度だってリザを許すよ」
「……」
「リザ。君は目一杯幸せになっていいんだよ。これまでずっと誰よりも苦しんできたぶん、これからは笑って過ごそう」
「……甘いね、ハロは。あいかわらず甘い。脆くて……弱くて……気を許してる相手には、いつだって隙だらけだ」
「えっと……もしかして、罵倒されてる……?」
「ううん、褒めてるの。その甘さが、脆さが、弱さが……いつかのワタシには到底認められなかったはずのそれが、今はとっても温かく感じるから」

 リザは自分の頭の上にあった私の指に手を伸ばすと、愛おしむように自分の両手で抱えた。
 そしてそのまま、静かに瞼を閉じる。

「おやすみ、リザ。また明日」
「うん。おやすみ、ハロ……いつの日か、この身が滅ぶまで……ううん。この身が滅んだって、今度こそ、ずっとずっと一緒にいるからね」

 呟くようにそう言ってしばらくすると、リザも寝息を立て始めた。
 一万年も生きているとは思えない、可愛らしい、幼子のように無垢な寝顔だった。

「……いい加減私も寝ないとね」

 これ以上夜ふかししていたら寝不足になってしまうかもしれない。
 そう思いつつ、瞼を閉じる。

 安心できる温もりに包まれているからだろう。睡魔はすぐにやってくる。
 そうして私もまた、アモルとリザと同じように眠りに落ちていった。
 今日も今日とて早く起きてしまった私ことフィリアは、屋敷の庭で朝練を行っていました。
 まだ日の出には少し早いですが、東の空はすでに白み始めているので、お日さまが顔を見せてくださるのも時間の問題と言ったところです。

「……アイシクルランス!」

 そんな肌寒い空気の中、光を反射して煌めく氷の槍が一直線に突き進み、その直線状に設置された土の塊を穿ちます。

「なるほど、ここはこういう構造になって……では、ここをこうしたら……」

 私は今放ったばかりの魔法の術式に、自分で少しだけ手を加えてみます。

 少し前までは闇雲に魔法の鍛錬を続けていただけでしたが、リームザードさんから魔術師としてのあり方と、術式の最適化について教わって以来、こんな風に魔法について考える時間が増えていました。
 こう、見るべき場所が変わったと言いますか……すでに使いこなしたと思い込んでいた魔法にもまだまだ学ぶべきものがたくさんあると、そう気づくことができたんです。

 術式の構造や役割、それぞれの相性。
 より素早く、より正確に魔法を使うことではなくて……新たな魔法を創り出すことや、既存の魔法を書き換えることに重点を置いた思考。

 魔法に対するこの視点の差異が、リームザードさんが言っていた魔法使いと魔術師の違いなんでしょうか?
 だとしたら、これが……今見えているこの景色こそが、魔術師の……お師匠さまがいつも見ている世界。

 えへへ……もちろん私はまだまだ未熟なので、お師匠さまやリームザードさんと比べたら見えている範囲も理解度も全然でしょうし……魔法だって、私が手を加えた程度のものなんて子どもの落書きにも等しいものなのかもしれませんが……。
 一歩ずつでも確実にお師匠さまに近づいている。その実感は、なににも耐えがたい喜びをもたらしてくれるようでした。

「……よーし! できました! もう一度……アイシクルランス!」

 浮かれた気分のまま、私は再度魔法を生み出します。

 アイシクルランス。お師匠さまいわく、中級魔法の基本とされるランス系統魔法の一つだそうです。
 威力、速度、難易度、使いやすさ等々。ランス系統魔法はいろんなものが程よくまとまっていて、冒険者の方にはよく愛用されているとおっしゃっていました。
 そのぶん術式の完成度も非常に高く、参考にすべき部分がたくさんあります。

 今回はその術式を敢えて一部分だけ書き換えてみて、術式の変化による挙動の変化を細かく確認してみようとしたのですが……。

「……あれ?」

 氷の槍自体は生み出すことができたのですが、それが発射されることはありませんでした。
 ただ空中に留まったまま、冷気だけを発し続けています。

 ……えっと……これはどういう……?

「……あっ! ま、まさか私、術式を繋げ忘れて……?」

 こう、部品を外して新しい替えの部品を用意したはいいものの、用意するだけして取り付けていなかったというか……。
 本体の隣にちょこんと部品が置いてあるイメージです。

 ど、どうやらお師匠さまのことを考えていたせいで気が緩んでしまっていたみたいです……。

「も、もしかしなくてもまずいですよね? これ……」

 氷の槍が放つ冷気は留まるところを知らず、それどころかどんどん周囲の温度を下げていきます。
 感じる魔力も強くなるばかりで収まる気配がありません。
 このままだと魔力の膨張に耐え切れず、氷の槍が爆発するだろうことは火を見るよりも明らかでした。

 お師匠さまならこの状態からでも制御し直せるのでしょうが、まだ術式への理解の浅い私ではそんなことは到底無理です。
 早く逃げなきゃ大怪我しちゃいます……!

「あっ!?」

 ――ドテンッ!
 急いでこの場を離れようとした私でしたが、焦っていたせいで足がもつれて転んでしまいました。

 う、うぅ……最近はあまりドジをしなくなったと、実は密かに自信を持っていたのですが……残念ながらそう簡単におっちょこちょいは直らないみたいです……。

 もう逃げるのは間に合いません。
 魔力の膨張が限界にまで達した氷の槍がひび割れ始めたのを見て、私は咄嗟に頭をかばいました。

「なにしてんのお前……」
「あ……」

 どこか聞き覚えがある、きつい口調の割にずいぶんと可愛らしい声。

 それが風鈴のように鳴り響いた途端、半透明な魔力の障壁が現れ、氷の槍の四方を一瞬で包み込みました。
 直後に障壁の中で氷の槍が爆発しますが、障壁はビクともせず、砕け散った氷の破片がパラパラと箱の中を舞っていました。

 声が聞こえた方向に振り返ってみれば、小さな妖精の少女が腰に手を当てながら、呆れた顔で私を見下ろしています。
 やっぱり彼女が私を助けてくれたみたいです。

「た、助かりました……ありがとうございます、リームザードさん」

 立ち上がった私は礼儀として、ペコリと頭を下げます。
 それに対しリームザードさんは、いつものようにフンと鼻を鳴らします。

「礼なんかいいよ別に。お前が怪我するとハロが悲しむからしかたなく守ってやっただけ。お前を思って助けたわけじゃないから、勘違いすんなよな」
「そ、そうですか」

 あいかわらずですね、この人は……。

 セリフだけ聞くと照れ隠しで否定しているようにも受け取れますが、嫌そうに顔を顰めているところから察するに本心なのでしょう。
 もしこれが私ではなくてお師匠さまだったなら『ハロのためなんだから当然だよ! ワタシがいる限りハロにはかすり傷一つ負わせないからね!』と褒めてほしそうな甘々な声ですり寄るのでしょうが……うーん……。

「えっと……リームザードさんはこんな朝早くからどうしたんですか? 確か、お師匠さまとアモルちゃんと寝ていたはずじゃ……」

 正直なところ、私とリームザードさんとの相性はあまりよくないと自覚しているのですが、かと言ってこのまま黙っているというのも性に合いません。
 ひとまずは気になったことを聞いてみることにします。

 お師匠さまと一緒に寝る……はっきり言って、羨ましい限りです。
 一緒に寝るということはつまり、お師匠さまの汗が染み込んだお布団の中で、お師匠さまの温もりを直に感じながら、お師匠さまの香りに包まれて一夜を過ごせるということなんですから。

 距離だってきっと、お互いの吐息が当たりそうなほど近くで……お師匠さまのあの絹のような髪の匂いだって嗅ぎ放題で……。
 ちょっと悪い子になって夜更かししたりなんかしちゃえば、お師匠さまの無防備な寝顔だって見放題に違いありません。

 うぅ、私もお師匠さまと一緒のお布団で寝たいです……。

「……いや、その物欲しそうな顔はなんだよ。別にどうもこうもないよ。単にワタシがあんまり深く眠るタイプじゃないってだけ。昨日だってお前とはこのくらいの時間に会っただろ」
「あ、言われてみればそうでしたね」

 フードで顔を隠した、見るからに怪しい不審者が突如としてやってきたのは記憶に新しいです。

「それに、昨晩は思ってたより早く寝ることになっちゃったし……目が覚めるのも早かったんだ」
「思ってたより早く……? 夜更かしでもするつもりだったんですか?」
「まーそんな感じ。結局しなかったけどね」

 ふむ。なるほど……私と同じで、リームザードさんもお師匠さまの愛らしい寝顔を盗み見ようとしていたと。
 お師匠さまを譲るつもりは毛頭ありませんが、そこに関しては気が合いそうです。

 リームザードさんは軽くため息をつくと、少しだけ羨むように私を眺めました。

「あーあ。ワタシもお前くらい大きかったらよかったのになぁ。そしたらハロだって、もっと積極的になってくれたかもしれないのに」
「大きく……もしかして胸の話ですか? 私はリームザードさんくらい控えめな方が良いと思いますよ」
「…………誰が胸の話なんて言ったんだよ。身長に決まってるだろ。メス牛」
「だからその呼び方はやめてくださいって言ってるじゃないですか!」

 ペタペタと自分の胸を確かめながらジト目で悪口を言うリームザードさんに、私もガルルルと怒った番犬のごとく言い返します。

 そりゃあ私だって、自分の体が人と比べると少しはしたない自覚はありますけど……いくらなんでもメス牛は酷すぎます!
 胸だって、大きくなりたくて大きくなったわけでもないんです。
 むしろ正直言ってちょっと邪魔です。
 ただでさえ私はおっちょこちょいなのに、無駄に肉がついてしまった胸のせいで、うまく足元が見えなくて余計に転びやすくなっちゃったんですから。

 私としては、やっぱり慎ましい胸が理想的だと思っています。
 そう、たとえばそれはお師匠さまような……。

 お師匠さまのお胸が誇る、服の上をスラリと流れる美しくなだらかな傾斜は、お師匠さまのクールな雰囲気に見事に合致しています。
 一見するとほとんど膨らみがないようにも見えますが、服の脱ぐとあらわになる小さなお椀が、お師匠さまが確かに年頃の少女であることを主張します。
 普段あまり意識することがないぶん、手のひらで包み込んでしまいたくなる不思議な魅力があるのも特徴ですね!
 細い肢体にぷっくりと浮き上がっていて……まるで洋菓子のように柔らかく、とろけるように甘いことは想像にかたくありません。
 まだ直接お目にかかったことはありませんが、その先端の美味しそうなさくらんぼを口に含んだりなんかしたら、普段凛としたお師匠さまもその時ばかりは一人の女の子として可愛らしく喘いで……はぁ、はぁ……じゅるり……。

「――い、おーい! 無視すんな、おーい!」
「……はっ!?」

 リームザードさんの声がかすかに聞こえて、私はふと我に帰ります。
 あ、危なかったです……妄想の中と言えど、お師匠さまがあまりにも愛らしすぎて……思わず我を失うところでした。

 見れば、リームザードさんが訝しげに私を覗き込んでいます。

「え、えぇと……す、すみません。ついボーッとしちゃってました」
「……はぁ。どうせハロのこと考えてたんでしょ。見るからに気持ち悪い顔してたし」
「気持ち悪い顔!?」
「うん。まるで欲情したゴブ……」

 言いかけて、リームザードさんがサッと自分で自分の口を塞ぎます。

「あー……さ、さすがにこれは酷いか……じゃなくて、えぇと、そう。発情期の獣みたいな感じだったね。すっごくお盛んな」

 ま、待ってください。今なにか誤魔化しましたよね?
 ゴブ……? ゴブってなんですか? その続きになにを言おうとしたんですか!? 常日頃から口が悪いリームザードさんが口を噤むほどの表現ってなんですかっ!?
 というか発情期の獣も普通に酷いです! 少なくとも女の子に言って良い言葉じゃありません!

「き、気のせいです! 私はお師匠さまのことをそんなえっちな目では見てません! その……お師匠さまのことは確かに慕ってはいますが、それはあくまで師弟として尊敬しているという意味であって」
「それ、ハロの前でも同じこと言えんの? もしハロがお前のことがそういう意味で好きだって告白してきても?」
「うっ……」

 ぽわわーん、と、想像上の(イマジナリー)お師匠さまが私の頭の中に現れます。
 そのお師匠さまは、いじらしくもじもじとしながらチラチラと私を盗み見てきていて、ふと私と目が合うと、恥じらうように顔を真っ赤に染めて俯かせます。
 もうその時点でいっそ押し倒してしまいたいくらい可愛らしいのですが、そのお師匠さまはいざ覚悟を決めるように大きく息をつくと、私の服の裾をギュッと摘みながら不安そうな上目遣いで私を見上げてきました。

『フィリア……私、ずっとフィリアのことが――』

「あぁあああああああっ!」
「!?」

 ガンガンと地面に頭を打ちつけて想像上……もとい、妄想上のお師匠さまを必死にかき消します。

 ダメですダメです! 不敬です!
 お師匠さまのことをえっちな目で見ていない……というのは確かに真っ赤な嘘でしたが! 屋敷に私一人だけの時や、お師匠さまが寝静まった後なんかに、その……よく、じゃなくて! た、たまに! たまに一人でしたりしてるのは認めますが!
 それはあくまで記憶にあるお師匠さまのお姿や声を思い出しながらです!
 妄想上のお師匠さまに、私の願望に当てはめて私が言ってほしいことを言わせたり、してほしいことをしてもらうだなんて、万死に値します!
 そういうのは実際にお師匠さまと結ばれてからです……! わかりましたか? 私!

「はぁ、はぁ……ふぅ。落ちつきました……」
「……」

 すっくと立ち上がると、じんじんと痛む額に回復魔法をかけておきます。
 傷はすぐに塞がりましたが、垂れてしまった血は消えません。鼻の近くまで垂れてきてしまっていて、少し鉄の匂いがします。あとで顔を洗わないとですね。
 そろそろお師匠さまも起きてくる頃合いでしょうし、お師匠さまの部屋にも向かわないとです。

 ……あ、そういえばリームザードさんとお話中なんでした。
 視線を戻してみると、リームザードさんは明らかに引いた様子で私を見つめていました。

「……ハロ、誰ともしたことないって言ってたけど……よく今まで無事だったな……」
「……? すみません。声が小さくて、あまりよく……なんて言ったんですか?」
「ううん。別に。なんていうか……お前、本当にハロのこと好きなんだね」

 なんだか不思議と、だいぶオブラートに包まれた気がするような……。
 いえ、気のせいですね。普通のことしか言ってませんしね。

 私はコクリと勢いよく頷きます。

「もちろんです! だってお師匠さまは、私が欲しかった全部をくれましたから」
「全部、ね」
「はい! 本物の家族と同じように受け入れてくれて、空回りしてばかりだった努力を認めてくれて、時には甘やかしたり、私を思って叱ってくれたり……お師匠さまに出会ったあの日から私、毎日が幸せで。本当に、私の全部が変わったんです」
「……そう」

 もしもあの日、お師匠さまに出会えなかったなら、きっと今頃、私は別の誰かの奴隷になっていたのでしょう。
 お金持ちの貴族か、商人か。もしかしたらお師匠さまと同じ魔術師の方だったりするかもしれませんが……私は、お師匠さまがいないその世界で笑っている自分の姿が、どうしてもうまく想像できません。
 それは私を買うだろう人が酷い人だから、というわけではありません。私の中でお師匠さまの存在があまりにも大きすぎて、別の誰かを当てはめようなんて気が一切起きないんです。

 お師匠さま以外の誰かなんて考えられない。お師匠さまが良い。いえ……お師匠さまじゃないと嫌だ。
 だって私はお師匠さまのことが、本当に心の底から好きなんですから。

 そんなありのままの気持ちで笑いかけると、リームザードさんは静かに瞼を閉じました。
 その反応を私が不思議がっていると、リームザードさんは再び目を開いて、意を決したように私を見つめてきます。

「お前、こんな朝早くからどうしたってワタシに言ってたよな」
「……? はい。言いましたけど……確か、深く寝るタイプじゃないからって」
「それは本当だけど全部じゃない。元々お前には……いや、お前とシィナとアモルには、ハロには内緒で少し話しておきたいことがあってね」
「話しておきたいことですか? それって……」
「昨日もこの庭で言っただろ――ハロがずっと抱えてる苦しみと、絶望についてだ」
「っ……」
「お前はそれを知らなきゃいけない」

 お師匠さまの苦しみ。昨日この庭でリームザードさんとお師匠さまのやり取りを見てから、ずっと気になっていたこと。
 リームザードさんの真剣な表情を見て、私はゴクリと唾を飲み込むのでした。
「――それじゃあ行ってくるね。フィリアもシィナもアモルも、それからリザも。皆仲良く、喧嘩しないようにね」

 玄関から出ていくお師匠さまを四人で見送ります。

 なんでもお師匠さまは今日、冒険者ギルドにご用事があるそうです。
 お師匠さまが冒険者として活動する日は大抵いつもシィナちゃんが一緒ですが、今日はシィナちゃんはお留守番です。
 というのも、今日は冒険者としてのお仕事が目的ではないからです。
 お師匠さまいわく、ギルドマスターのソパーダさんのお仕事の手伝いと、今後についての話し合いがあるのだとか。

 アモルちゃんの件について冒険者ギルドに報告した結果がどうなったかは私も耳に挟んでいます。
 淫魔のような危険度の高い魔物でも使役することが可能であると証明して、規則と法を書き換える……それを目指すことが、アモルちゃんを見逃してもらうためにソパーダさんから出された条件の一つ。
 ソパーダさんとの今後についての話し合いというのは、その目標を果たす上での、より具体的な方策についてでしょう。
 元々はソパーダさんから出された条件ではありますが、これを達成することができればアモルちゃんが気兼ねなく外を出歩けるようになる事情もあって、お師匠さまもやる気充分と言った感じでした。

 アモルちゃんの件では、まだまだ未熟な私に手伝えることはほとんどありませんが……心の中で応援することだけは忘れません。
 お師匠さまがお忙しい時は率先して屋敷の家事を担当したりもして、私にできる最大限のサポートもしていきたい所存です。
 アモルちゃんのためにも頑張ってくださいね、お師匠さま!

「……行ったかな」

 お師匠さまが見えなくなった辺りで、リームザードさんがポツリと漏らしました。
 その一言で、私たちの間に少しだけ緊張が走ります。

「じゃ、少し場所を移動しようか。落ちついて話ができるところ……食堂でいいか。ついてきて」

 シィナちゃんもアモルちゃんも、すでにリームザードさんから話は聞いているのでしょう。
 皆、疑問を呈することなく、素直にリームザードさんに従います。

 ――あの早朝、リームザードさんとお話をした日から、すでに数日が経っていました。
 お師匠さまが抱えている苦しみというものがなんなのかについては、まだなにも聞いていません。
 リームザードさんいわく、話すなら私たち三人同時に話したいとのことで、お師匠さまが家を空ける日を待っている状態でした。
 リームザードさんはどうにも、お師匠さまに内緒で話をしたいみたいでしたし……お師匠さまがいらっしゃる時にお師匠さまに気づかれず四人で集まるのは無理がありましたから。
 そうして待ち続けて数日が経ち、今日ようやくお師匠さまがお出かけになられたというわけです。

「さて……」

 私たちがそれぞれ定位置に腰かけると、リームザードさんはぐるりと私たち三人を見回しました。
 シィナちゃんもアモルちゃんも、やっぱりどことなく緊張した面持ちです。
 たぶん私も同じ表情をしているんだろうなと思います。

 なにせこれからリームザードさんが話すのは、私たち三人の誰も知らない、お師匠さまの苦しみについてです。
 私たちの誰も知らないということは、当然、お師匠さまが誰にも話していないという意味でもあって……それはつまり、お師匠さまの秘密と同義です。
 もしかしたら単に話す機会がなかっただけという可能性もありますが……本当にただそれだけだったなら、リームザードさんがこんなにも神妙に語るはずがありません。

 私たちにさえ隠している、お師匠さまの秘密……。
 まさにそれが暴かれるという場で、緊張しないはずがありませんでした。

「本題に入る前に、ちょっと確認しておきたいんだけどさ」

 リームザードさんが、まるで見定めるように私たち三人を見つめます。

「お前たちはハロのこと、好き?」

 その答えは考えるまでもなく決まっていました。

「もちろんです。お師匠さまのためなら、私はなんだってできます」
「……ん。ハロちゃ、は……わたしの……たいせつで……とくべつな、ひと……」
「わたしも、お姉ちゃんと一緒だといつも胸が温かくて、心地良くて……いつまでも一緒にいたいなって、そう思うの」

 私たちのことを知っているリームザードさんは、私たちがどう答えるかも初めからわかっていたのでしょう。
 リームザードさんはこくりと頷くと、「なら」と目を鋭く細めます。

「なら、もしもそんな好意のすべてが、あの子にとっての重荷になっているんだとしたら……お前たちはどうする?」
「好意が重荷に……ですか?」
「そうだ。お前が笑うだけで、あの子が苦しむ。幸せだと伝えるだけで、自分の胸の痛みに膝をつく。ただお前がそばにいるだけで、どうしようもなく悲しくて、寂しくて、泣きたくなる……お前たちの存在があの子にそんな絶望を与え続けているのだとしたら、お前たちは、どうする?」
「……」

 言っていることの意味が、あまり理解できませんでした。

 私たちがお師匠さまの重荷になる……?
 どういうことなんでしょうか……。

 私は今まで私なりに、お師匠さまのことを見てきたつもりです。
 シィナちゃんがここに来て、アモルちゃんとも一緒に暮らすようになって、そしてリームザードさんもお師匠さまのもとに戻ってきて。
 屋敷の中が賑やかになるたび、お師匠さまは笑顔が増えて、以前よりも楽しげに過ごすようになっていました。
 お師匠にその自覚はないのかもしれませんが……お師匠さまのことが好きで、ずっと見続けてきた私にはわかりやすすぎる変化でした。

 きっとお師匠さまは、私たちのことを本当の家族のように思ってくれています。
 私が奴隷であることを気にするようなことを言うと、お師匠さまはよく家族だと言ってくれましたし……妹のような存在であるアモルちゃんへの甘やかし方を見ても、それは明らかです。

 それなのに、私たちの存在がお師匠さまの重荷になる……?

 その仮定を具体的に想像ができず、私は答えに窮してしまいます。
 それはシィナちゃんやアモルちゃんも同じようでした。困惑した様子で黙り込んでいます。

 そんな私たちを一望すると、リームザードさんは小さくため息をつきました。

「ま、そうなるよね……でもね、それが真実なんだ。今はそうじゃなくても、あの子はいつかそうなる運命にある。いずれ必ず、お前たちが与えた幸福のぶんだけあの子は絶望する」
「それは……どういう意味でしょうか? いずれ必ずって、いったいどうしてそんなことに……」

 出会ったばかりだった頃なら、なにをわけのわからないことを、と理解を拒んでいたかもしれません。
 しかしリームザードさんがお師匠さまと旧知の仲であると判明し、私たちと同様、お師匠さまを好いていることもわかった今、そんな彼女が語るお師匠さまの話を頭ごなしに否定することはできませんでした。

「それがあの子の背負った宿命だからだよ。安心しなよ。時間はたっぷりあるんだ。煙に巻いたりはしない。ちゃんと全部話すさ」

 お師匠さまのことだからでしょうか。私は、自分でも気づかないうちに急かすような視線を向けてしまっていたようでした。
 どこか言い聞かせるようなリームザードさんの口調からそれを自覚し、私は一旦、息を吐いて心を落ちつかせることに努めます。
 それで完全に肩の力が抜けたわけではありませんでしたが……落ちついて話を聞けるくらいには鎮められたはずです。

 私が平常心を取り戻した頃を見計らって、リームザードさんが続けます。

「とは言え、全部を話すとなると、まずはワタシの昔話を聞いてもらう必要があるけどね」
「えっと、リームザードさんの昔話……ですか? それがお師匠さまの苦しみと、なにか関係があるんでしょうか」
「大ありだよ。ま、もとをたどれば全部ワタシのせいなのさ。自分の昔のことを話すなんて、本当はあんまり気は進まないけど……今のあの子を理解してもらうには、それが一番手っ取り早い」

 少し遠い目で虚空を見つめて、リームザードさんは机の上にあぐらをかいて座ります。
 ついにリームザードさんがお師匠さまの話を始めることもあって、私も無意識に姿勢を正してしまっていました。

「じゃ、話すよ。まずは、ワタシの過去……一万年以上前、ワタシがこの世に生まれ落ちてから、あの子に出会うまでの話をね」

 い、一万年ですか。
 思った以上に昔でしたが……その話がお師匠さまの苦しみに関わってくるというなら、聞き逃すわけにはいきません。

 お師匠さまが私を暗闇の底から引っ張り上げてくれたように、今度は私がお師匠さまの助けになりたい。
 シィナちゃんもアモルちゃんも、きっと同じ気持ちだったでしょう。

 そうして私たちは、リームザードさんの話に耳を傾けるのでした。





 永遠。悠久。不滅。
 いつの時代も人が望む、愚かな夢。
 死への信仰と恐怖が生み出した、醜い渇望。
 ()の、絶望の象徴。

 この世に生まれ落ちたその時から、私は世界の異端だった。

 仲間たちと、髪の色が違った。
 皆は陽光の差す景色に似合う明色ばかりだったのに、私のそれは毛先に近づくにつれ、希望のない真夜中のような暗色に染まっていた。
 仲間たちと、目の色が違った。
 左目は皆と同じ自然的な緑色なのに、右目は膿んで腐った傷口のような赤紫だった。
 仲間たちと、感じるものが違った。
 皆が笑うようなことで笑えなかった。皆が悲しむようなことで悲しめなかった。他人の感情がうまく理解できない。

 そしてそんな異端な私を、仲間たちは当然のように排斥した。

 醜い。不吉。気色悪い。あんなのは仲間じゃない。
 どこか知らないところで、消えてほしい。死んでほしい。

 仲間たちのそんな自分のへ陰口を、何度耳にしたことだろう。
 けれど幸か不幸か、私はそれを辛いとも不快だとも思わなかった。

 知らなかったからだ。なにも。
 愛される喜びも、愛することで満たされる感覚も。味わったことがないから知らなかった。
 まるで自分だけがこの世界で浮いているかのように、感覚が希薄で現実味がない。

 そんな私は仲間たちの目には相当に薄気味悪く映ったらしい。
 誰も彼も決して私に近づこうとはせず、私はいつも一人で、離れたところから皆を眺めていた。

 そんな毎日が変わったキッカケは、一人の妖精の子が私がいる木の上に迷い込んできたことだった。

『ねえ、あなた。あなたのお名前はなんて言うの?』

 他の子たちとのかくれんぼの最中だというその子は、私のことをまるで知らないようだった。
 その時はただ名前を教え合うだけだったが、それからというもの、彼女は頻繁に私のところを訪ねてきた。

『■■ちゃんは、こうして誰かと触れ合いたいだけなんだね』

 私のことを知りたいという彼女に、私が普段していること――ただボーッと皆を眺めていることを話すと、彼女はそんなことを言いながら私の手を握った。

 不思議な感覚だった。
 誰かに触れるなんて初めての経験で、私は自分が戸惑いを覚えていることに気がついた。

『……あなたのては……どうして、こんなに……あたたかいの?』
『当たり前だよ。生きてるんだもん』
『……いきてる、から……?』

 私は、覚えていない。彼女の顔も、声も、温もりも。その時抱いた感情も。
 だけどこのやり取りだけは、どうしてかまだ記憶に残っている。

『■■ちゃんの手も温かいよ。私と同じ』
『……おなじ……わたしと、あなたが……?』
『うん、同じ。他の皆は、自分たちとあなたは違うんだって言うけど……私はそうは思わないなー』

 顔を、上げる。

『一人ぼっちが寂しいなら、私が■■ちゃんの友達になってあげるね!』

 ……ああ、そうだった。
 私は彼女のことを、自分の意思で忘れることを選んだんだったか。

『あつ、い……熱い、よ……』
『誰か……誰か、助けてぇ……』
『ァ……ァア……み………水……水、をォ……』

 気がついた時、私が住んでいた妖精の里は業火に包まれていた。
 阿鼻叫喚。翅が焼け落ち、地に落ちて、虫のように地面を這う。
 人間たちが口々に語る、地獄の世界の具現のようだ。
 喉を焼かれ、叫びすらまともに上げられず、肌が爛れた腕をどことも知れぬ方へと伸ばしたまま、誰もが等しく死に絶えていく。

 あの時は確か、力を授けた人間たちに反逆されたんだったか。
 あの頃の人間は、まだまともに魔法を使うことができなかった。魔法が自在に使える妖精は人間にとって信仰の対象で、調子に乗ったバカな妖精どもは、人間たちに魔法の力を与えていた。
 そしてその結果が、このザマだ。
 自然の力を借りる妖精と違い、人間は己の中にある魔力を直接的に力に変換することができる。
 魔法を武力として行使する上では、妖精よりも人間の方が出力が大きかった。強かったんだ。
 それを知った人間が反旗を翻し、妖精が持っていた叡智を奪うために蹂躙した。

 皆、死んだ。私を醜いと蔑んだ妖精も。私を仲間じゃないと拒絶した妖精も。
 そして私もまた、全身を炎に食い殺され、その一生を終える――はずだった。

『……いき、てる……?』

 すべてが真っ黒に焦げて消え去った里の端っこで、私は再び目覚めた。
 喉が焼かれ、呼吸が困難になって、それで気を失ったはずなのに。問題なく呼吸ができた。
 それどころか、焼けた肌も肉も、翅も、傷ついたはずのすべてが何事もなかったかのように元に戻っている。

 これが私が、自分自身が不死の存在だと気づくことになったキッカケだった。
 だけどその時はまだなにもわからなくて、混乱の最中、私が最初にしたことは、私以外に生き残った妖精がいるかどうかの確認だった。

『あの、こは……□□□、ちゃんは――――』

 ……その後のことは、よく覚えていない。
 昔のことすぎて忘れてしまったのか。あるいはこれも、自分で忘れることを選んだのかもしれない。

 あまりに永く生きていると、気づくんだ。
 記憶なんて重荷にしかならない。生きるうえで邪魔なんだって。
 だって、嫌な記憶ばかり頭に残る。良い記憶があったとしたって、それも最後は苦痛に変わる。

 私はあの子からすべてをもらった。楽しさを。幸せを。温もりを。
 でもそれと同じだけ、私は知ってしまった。
 失うことの痛みと苦しみ。そしてそれは今や、際限なく私を蝕んでいく。

 まるで呪いのようだと思った。
 楽しければ楽しかったほど、苦痛が増す。
 幸福であれば幸福であったほど、過ぎ去った日々を思う苦悩に心が耐え切れなくなっていく。
 好きだった人の笑顔を思い返すたび、胸を締めつけられる悲しみに支配される。
 なにもなかった頃はなんにも感じることなんてなかったのに。
 私にこんな感情を教えた彼女が、いつの日か憎らしく感じるようになった。

 私は、こんな苦しみ続ける毎日をいつまでも繰り返し続けるくらいなら、なにもかも忘れてしまった方がマシだと思った。
 好きだった人の名前も、声も、笑顔も。好きだったという思いも含めて全部なくしてしまえば、もう二度と苦しむこともない。
 簡単に楽になれる。そして苦しみから解放されたその先では、きっと楽しいことだけが続いていくはずだ。

『できた。これでやっと、私は……』

 魔法について研究を続け、私はやがて、自分の頭を弄り回して記憶を消去する魔法を作り上げた。
 これは、この先の永遠を生き続けるための処世術。

 あれから何百年と生き続けた私は、自分が不死であることに気がついていた。
 全身を炎で焼かれようと、刃で首を撥ね飛ばされようと、串刺しにされて皮を剥がされようと、肉片一つ残さず消し飛ばされようと。
 私は死なない。再生する。この世界から、私という存在が消えることは決してない。
 呪われていたんだ。この世に生まれた、その瞬間から。
 結局、私を異端と呼び、蔑んだあいつらの言う通りだったというわけだ。
 私は確かに、あいつらとは違った。あの子とは違った。少しも同じなんかじゃなかった。
 私に仲間なんていない。私と同じ時間を過ごせる存在など誰一人としていない。
 誰と触れ合おうと、誰と気持ちを通じ合わせようと、どこまでいっても永遠に一人きり。
 不吉で醜く気味が悪い。親しい人すら滅ぼす異端の存在。
 それが、私だ。

『アハ、アハハ、アハハハハッ!』

 不必要な記憶と思いを消し去って、ワタシ(・・・)はとにかく好き勝手に生きた。
 まるで羽毛の体が軽かった。頭もだ。
 なにも辛くない。苦しくない。
 あの子と過ごした日々が頭をよぎることもなければ、悪夢にうなされることもない。
 やろうと思えば、なんだってできる気がした。
 これこそがワタシの望んだ世界。
 気分がよかった。最高だった。

 世界中を巡って、異端なりに生きることを目一杯楽しんだ。
 ……そう。楽しんだ。
 楽しもうと、した。

『アハハッ! アハ、ハ……ハ……』

 ……どうしてかワタシは、どこでなにをしても心を震わせることができなくなっていた。
 笑みは止まらないのに、心はいつだってポッカリと穴が空いたように空虚で。
 感じているはずの楽しさは、偽物のように現実味がない。
 その感覚は、年月を経れば経るほどに顕著になっていく。

 おかしい。おかしい。おかしい。
 どうしてこんなにも、なにもかもつまらないんだ?
 ワタシはワタシを縛る、すべてのしがらみから解放されたはずなのに。
 楽しいことだけが続いていくはずだったのに。

 魔法が不完全だったのか?
 そんなはずはない。だって現に、ワタシはなにも感じていない。
 そう、なにも。なにも……感じない。
 なにをしても。あの子のことを思い返そうとも。
 あの子と出会う前、かつて、一人ぼっちだった頃のように。

 魔法は、正常だ。

『……』

 この世に生まれてから二千年が過ぎると、私は笑みをこぼすこともなくなっていた。
 自分の心を誤魔化す偽りの快楽に浸ることもなくなって、再び、ワタシの心に苦痛が到来する。
 それは、生きるということへの堪え切れないほど激しい嫌悪。
 どれだけその感情の記憶を魔法で消し去ろうと、気づけばそれはワタシの中にある。

 死にたい。消えたい。もう終わりにしたい。
 この数百年で、いったい何度そう願ったことだろう。
 でも、その願いが叶うことは決してない。

 だってワタシは、他のやつらとは違うから。世界の理から外れた異端だから。
 自分の意志で生きることも死ぬことも、この不死の呪いが決して許さない。

 辛くて何度自分で自分の首を絞めたかわからない。
 少しでも苦しみから逃れたくて、薬で脳を満たした回数だって一度や二度じゃない。

 気が狂いそうだった。

 艱難辛苦。立ちはだかる壁や坂、苦しみを乗り越えて克服することで、人は成長する。
 だが乗り越えることすらできない平坦な道を無限に歩み続けることは、どうなんだ?
 ワタシがこの苦痛を覚える意味は? この苦しみの先になにかあるのか?

 こんなになってまで、ワタシが生きなきゃいけない理由は……なんだ?

『どうかお願いします。あの村を、あなたさまの手で……』

 ある日ワタシは、人間の村の一つを焼き払った。
 流行り病だ。村に充満したそれはすでに取り返しようがなく、他の村に伝染する前に焼き尽くしてほしいと頼まれた。
 だから焼いてやった。まだ生きていたやつらも死んでいたやつらも区別なく。
 あの日、地獄の業火がワタシの故郷を焼き尽くしたように。

『酷い……どうして……どうしてこんなに酷いことを』

 すべてが手遅れになった後、村を救おうと必死だったらしい聖職者の女が喚いていた。

『頼まれたからだよ。別にいいだろ。しょせん遅いか早いかの違いでしかないんだから』
『遅いか、早いか……? 本気で……本気でそう言っているのですか?』
『むしろ早いだけよかったんじゃないの? 早ければ早いだけ余計に苦しまずに済むんだし。その方があの村のやつらにとっても、幸福だろ』

 どうせ、生きることは苦しむことでしかないんだから。
 でも死ねば苦しくない。悲しくない。なにも感じない。
 なにも感じないことを、嫌だと思うこともない。

 この世に存在しないこと。それ以上に幸せなことなんてない。

『あなたは……あなたはもはや、人ではありません。そのようなことを軽々と、平然と言ってしまえるあなたは……』
『当たり前だろ。ワタシはお前らとは違う。異端だ。生まれた時からね』
『いいえ、かつては同じだったはずです。たとえ今は歪み果ててしまっていようと、あなたには村人たちの幸福を思うだけの心がある……あなた自身が、そう口にした』
『……』
『どうか思い出してください。誰かの幸福を思えるなら、あなたにもいたはずでしょう。あなたの幸福を願ってくれる誰かが……一緒にいたいと願った誰かが。その心を思い出すことができれば、あなたもきっともう一度――』

 黙れ。
 うるせぇんだよ。鬱陶しいんだよ。

 ワタシの幸せを願ってくれるやつがいたからなんだ。
 二度と会えないやつを思うことになんの意味があるって言うんだ。

 嫌いだ。嫌いだ。全部、嫌いだ。
 食べることが嫌いだ。今を生きてる連中と同じことをしてると思うだけで、吐き気がする。
 眠ることが嫌いだ。目が覚めるたび、鳥のさえずりを聞くたび、苛立ちが募る。目の前に広がる輝かしい景色すべてを壊したくなる。
 呼吸することが嫌いだ。自分が生きていることを実感して、気が狂いそうになる。今すぐにでも自分の喉を掻き切って死にたくなる。

 どうして? どうしてだ?
 産まれたての赤子のように、幾度となく心が叫ぶ。

 どうしてワタシは、こんなになってまで生きなきゃいけないんだ?

 死にたいのに死ねない。終わりたいのに終われない。
 異端だから。呪われているから。
 頭をグチャグチャに潰そうが内臓を全部引きずり出そうが体をバラバラに引き裂こうが、生きることをやめられない。

 どうしてこんなことになった?
 あの子のことを忘れてしまったからか? あの子と出会ってしまったからか? 誰かと触れ合うことを望んだからか?
 それともワタシが、生まれるべきじゃなかったからか?

 こんなことなら……。

 ……こんなことなら、ワタシは、生まれてなんてこなければよかった。

『クソ……あと一歩。あと一歩のはずなのに……』

 死ぬためにあらゆる方法を試し、ワタシがたどりついた結論は魔導を極めることだった。
 魔法ともっとも身近な妖精という種として、直感的に理解している部分もあったのだと思う。
 ワタシを殺し得る方法があるとすれば、おそらくこれしかない。

 だけど残念なことに、ワタシには魔法の才能がほとんどなかった。

 長く生きているから、他のやつらとは比べ物にならないくらいの練度と知識はある。
 妖精の種としての弱点もすでに克服済みで、魔法の出力も自在に操れる。
 不死の呪いを逆に利用することで、無限の生命力を莫大な魔力として変換し、他の追随を許さない絶大な力を行使することもできた。

 けれどしょせんそれだけだ。
 魔導への理解において、ワタシの歩みは牛歩のようだった。
 それでも時間だけはあったので五千年かけて研究を続けてきたが、それもついに行き詰まってしまう。

 なにか、壁がある。知識や練度、出力だけでは決して超えられない壁が。
 この壁を越えることができれば、不死の呪いにさえ干渉できる予感がある。
 だけど何千年と研究してきた身だからこそ、嫌でも理解できてしまう。

 ワタシではこれを越えられない。決定的に足りないものがある。
 それが具体的になにかはわからない。
 才能がないからか。それとも、心とか言うやつが欠けているせいか。

 いずれにせよ、次にやるべきことは決まっていた。

『ふーん。悪くない才能だね。よし、今回はお前にしよう』

 ワタシが培ってきた魔導を才能がある他人に授け、ワタシに代わって壁を越えさせる。
 ワタシでは越えることが不可能な以上、嫌いだろうとなんだろうと、他のやつに頼るしかない。

 しかしそれもそう簡単にうまくいくものではなかった。
 ワタシと他のやつらとでは、寿命が違いすぎるからだ。
 いくらワタシより才能があろうと、何千年と魔法を研究したワタシと比べたら、誰もかれも赤子のようなものだ。
 ワタシが立っている場所が遠すぎるんだろう。
 皆、ワタシと同じ領域に至る前に死んでしまう。誰もワタシのいる場所に到達できない。

 そんな彼らには、まるでワタシが神の領域にいるように見えたようだ。
 いつしかワタシは人々から《全》と呼ばれるようになっていた。
 魔導のすべてを知る者。あらゆる自然現象を統べる者。ゆえに、《全》。
 まったくもってくだらないと思った。崇め、讃え、信奉する。それは理解の放棄と同義だ。
 やつらには、ワタシの前に広がる壁が見えていない。

 もっと優れた才能でなければダメだ。その時代で突出した、唯一無二の才能でなければ。
 一〇年に一人の天才。一〇〇年に一人の天才。そう言った存在を探し、拾い、魔導を授ける。

 ……けれど、賢者と呼ばれるようになったほどのやつでも結局、最期までワタシの領域にさえ至ることは叶わなかった。

 次第に、ワタシの心を諦観が覆い始める。
 もしかして誰も、この壁を越えることはできないんじゃないか?
 ワタシがやってきたことなんて全部無駄な足掻きに過ぎなくて、ワタシを終わらせることなんて、誰にも……。

 諦めることができず、惰性で弟子を取り続けてはいたけれど、結果は全部同じだった。

 ……もしも魔法がダメだとしたら、もう一度、一から不死の存在を殺す方法を探す羽目になる。
 そうなれば、ワタシはまた何千年と手がかりもなく彷徨うことになるだろう。
 いや、何千年とかけて手がかりを見つけられるなら、まだマシだ。
 もしかしたらなにも見つけることができず、今まで生きた以上の……それこそ、本当に永遠の時間を過ごさなければいけなくなるかもしれない。

 不安が焦燥を生む。焦燥が絶望へ変わっていく。
 ワタシは結局、この呪いから逃れることはできないのかと。
 そんな風に思いかけた頃だった。

 彼女を。ワタシを殺し得ると確信する、星のように眩い才能を見つけたのは。

『この炎は……あなたは、いったい……』
『――お前、ワタシに魔法を習うといいよ。ちなみに拒否権はないから。嫌でも習え』

 巨大な芋虫の魔物に襲われていたそいつを助けて、ワタシは開口一番にそう告げた。

 そいつはなんとも奇妙なやつだった。
 耳が長いところを見るに種族はエルフで、性別は女。体格からして歳の頃は一〇くらいで、およそ少女と呼ぶべき年齢。
 それだけならまだいいが、問題なのは、彼女がいたのが森の奥、魔物が闊歩する危険地域だったことだ。
 これだけ魔法の才能があるのだから魔法で切り抜けてきたのかと思いきや、魔物どころか、そもそも魔力の操り方すら知らない始末。
 しかも服を着ておらず、あちこちが擦り傷だらけだった。
 奴隷の子として産まれ、歪に育ってきたのか。あるいは頭でも打って半端に記憶を失ったか。
 およそ常識と呼ぶべきものが不自然に欠けた彼女は、まるで別の世界から落ちてきた世界の迷い子のようで。

 名前を望んできたそいつに――ワタシは『ハロ』と名付けた。
 ――リームザードさんの口から語られる彼女自身の過去は、私の想像を絶するものでした。

 リームザードさんがそれなりに長い時間を生きていることは、私も知っていました。
 以前お師匠さまの二つ名についての由来を調べた際に、それが《全》と呼ばれる妖精……つまりはリームザードさんにあることと、その実在がおよそ千年以上前から確認されていること。
 そんなことを、冒険者ギルドのギルドマスターであるソパーダさんから聞いてましたから。

 けれど私はどうやら、長く生きるということの意味をあまりにも軽く考えすぎてしまっていたみたいでした。
 リームザードさんがお師匠さまに出会うまでに歩んできた軌跡には、希望や幸福なんて呼べるようなものは何一つとしてなくて……まるで深く暗い海の底で溺れもがき苦しみ続けてきたかのように、あまりにも痛ましく、おぞましい。

 ……私は今、幸せです。
 お師匠さまという大好きな人がいて、その人も私のことを大切にしてくれていて、当たり前のように一緒に過ごせている。
 お師匠さまが笑うと、私も自然と笑顔になる。

 だからこうも思います。
 この先もずっと一緒にいられますように。この日々がいつまでも続きますように。
 願わくば、どうか永遠に。

 ……でもやっぱり、そんな風に思ってしまう理由は、今が幸せだからに過ぎないんです。

 少しだけ、思い出してみます。
 それはまだお師匠さまに出会う前の、幸せになる前の私のこと。
 ……いつ誰の奴隷になるかもわからない暗い牢屋の中、ただ虚空を見つめ続けていた日々のこと。

 お母さんに私を見てもらいたくて、ずっと頑張ってきたのに。なんの感慨もないかのように奴隷として売られてしまって。
 生きる意味も見失い、喪失と絶望に打ちひしがれていたあの時間が……もしも永遠に続いてしまうのだとしたら?

 一度は体験した日々ですから。少し想像するだけでも、自分が感じるだろうことは予想がつきます。
 きっと私は、こう思うのでしょう。

 ……死にたい。もう終わりたい。
 なにも見たくない。聞きたくない。感じたくない。

 そんな風に思って……でも、もしも私の命がリームザードさんと同じ永遠のものだったとしたら、その願いだけは絶対に叶わない……んですよね。
 泣いても。叫んでも。嘆いても。どうにもならなくて諦めたって。
 変わらない。死ねない。終わらない。
 真っ暗な牢屋の中で、私はいつまでも一人ぼっちで……。

 ……私のこれは、しょせんは想像に過ぎません。
 けれどリームザードさんは、私が今思い浮かべた以上の苦しみを実際にその身で味わってきたのでしょう。
 それも人間の一生を何百と積み上げなくては到達できないほどの気が遠くなる時間を、終わりも見えないまま。

 今日という日に至るまで、いったいどれほど心をすり減らしたことでしょう。
 どれほど死を渇望し、その救いに焦がれたことでしょう。
 いったいどれほど……孤独という病に蝕まれたことでしょう。

 お師匠さまはそんな荒んだリームザードさんと出会って、どうしたのでしょうか。
 以前、お師匠さまからリームザードさんと出会った当時の話を聞いた際には、お師匠さまはリームザードさんの望みを叶えてあげられなかった……約束を果たせなかったとおっしゃっていました。
 しかしただ単に約束を果たせなかっただけだとしたら、あのリームザードさんがあそこまでお師匠さまに懐くとは思えません。
 おそらく他になにかがあったとは思うのですが……。

「出会ったばかりのあの子は本当に危なっかしくてね。危険な森の中だって言うのにとにかく警戒が散漫でさ」

 私が考え事をしてる間に、リームザードさんはお師匠さまと出会ってからの思い出を語り始めます。
 ついさきほど、彼女自身のことを話していた時は、思い出したくもないことを語るような、どこかつまらなさそうな仏頂面でしたが、今は少しばかりの喜色が滲んでいました。

「そこかしこを不注意にうろついたり、見た目が弱そうなだけの凶悪な魔物にフラフラ近づいてったり。少し目を離したら次の瞬間には死んでるんじゃないかって、もう気が気じゃなかったよ」
「ハロちゃ……むかしはそんな……むけいかい、だったんだ……」
「昔はっていうか、今もね。それなりにマシにはなったみたいだけど、あいかわらず油断が多いよあの子は」

 リームザードさんは呆れたように肩をすくめます。

「危険地帯をうろつく時なんかはさすがに警戒するようになったけどね。自分と同じ人型の生き物……とりわけ身内と認識したやつにはとにかく隙だらけだ。あと、小さな子どもなんかにもね。そいつらが裏切ったりだとか、欺いてきたりだとか、そう言ったことを考えもしない」
「……うん。確かにお姉ちゃんに魅了をかけるの、すごく簡単だったかも」

 アモルちゃんが言っているのは、アモルちゃんがこの家に来たばかりだった頃の出来事でしょう。
 その時はまだアモルちゃんが淫魔だとわかっていなくて……不意打ちで、お師匠さまはアモルちゃんの魅了の力にかかってしまったそうです。
 私はその場面に出くわすことはありませんでしたが、お師匠さまが襲われそうになったと後々になってから聞いて、知らないうちにお師匠さまを失っていたかもしれないと、ちょっと取り乱しちゃった覚えがあります。
 でも、そのおかげでお師匠さまも私を意識してくれていたことを知ることもできたので……えへへ。そこまで悪いことばかりでもなかったですね。

 と、私に思いの丈を告げる可愛らしいお師匠さまを思い出して私が内心密かにニヤついていると、アモルちゃんが「あっ」と訂正するように首を横に振りました。

「ううん……だった、じゃないかも。今も……わたしがただの子どもじゃなくて、成熟した淫魔だったと知った後でも……魔法の開発のためにわたしに魅了をかけてほしいって、頼ってもらえたから」
「……はあ。あいかわらずだね、あの子は。アモルに少しでも魔が差したりしたら、好き勝手されちゃってもおかしくないってのに」
「うん。わたしもちょっとだけ……お姉ちゃんが心配になっちゃった」

 ……お師匠さま……アモルちゃんがここまで言うくらいですから、本当にまったくの無警戒だったんでしょうね……。
 なんだか私までお師匠さまが心配になってきちゃいました。
 もちろん、気を許した相手にはそんな風に無防備になってしまうところも、お師匠さまの数あるキュートチャームポイントの一つではありますが……。

「でもね。そんなお姉ちゃんだったから、わたしのことを心から信じてくれてるんだって伝わってきて……すっごく胸がポカポカして……わたし、嬉しかった」

 胸の前に手を当てたまま、アモルちゃんはリームザードさんを見つめます。

「少しだけだけど……わたしね。妖精さんのこと、わかるの。わたしも妖精さんと同じで、産まれた時から皆と違ってて……それがわかった時、皆から仲間って認めてもらえくなっちゃったから」
「同じ……ね。今のワタシの話を聞いて、それでもお前はワタシとお前が同じって言うんだ?」
「うん。わたしと妖精さんは、きっと同じ。あ……そっか。だからわたし、妖精さんを一目見た時から、仲良くなりたいってずっと思ってたのかな」

 嬉しいことに気がついたように、アモルちゃんが顔を綻ばせます。

「同じだから……なんとなくわかるの。自分じゃどうしようもないことで一人ぼっちにされて……毎日が辛くて嫌なことばっかりだと、期待することに疲れてきちゃう。皆と違うからしかたない。異端だからしかたない、って。そんな風に最初から全部諦めて……自分から、一人になろうとしちゃう。本当は一人なんか嫌で……誰かを愛したいのに。誰かに、愛してもらいたいのに……」
「……お前はそうだったんだね」
「うん。わたしも……そうだったの」

 アモルちゃんは、あくまで自分とリームザードさんが同じだという姿勢を崩しません。
 それはアモルちゃんが自分とリームザードさんは同じだと、心の底から信じているからなのでしょう。

 リームザードさんは、そんなアモルちゃんの言葉を拒絶も否定もしませんでした。
 ただ黙ったまま、ジッとアモルちゃんを見つめ返します。

「そんなわたしに……諦めて、もう求めてすらいなかったわたしに……お姉ちゃんは、寄り添ってくれた。わたし、お姉ちゃんを傷つけちゃうようなことだっていっぱいしちゃったのに、お姉ちゃんを悲しませて、泣かせたりもしちゃったのに……そんなわたしを見捨てたりしないで……お姉ちゃんは、わたしが欲しかったものをくれた。妖精さんも……同じ、だったんでしょ?」
「……」
「お姉ちゃんは、妖精さんが言ってたみたいに……わたしや妖精さんみたいな小さな子には、すごく甘いから。妖精さんがどんなにきつく当たったって、お姉ちゃんなら笑ってそばにいてくれたはずだって……わたし、そう思う。それがきっと、妖精さんは……」
「……はぁ」

 語り続けるアモルちゃんのまっすぐな瞳に、リームザードさんは観念したように肩をすくめました。
 自分は異端だと。誰とも違うのだと。
 かつてはそう嘯いていたはずのリームザードさんも、アモルちゃんの純粋さの前ではどうやら形無しのようです。

「そうだね……ワタシはあの子を絶対に死なせるわけにはいかなかったから、ほとんど四六時中一緒にいたけど……お前の言う通り、あの子はワタシと一緒にいる間、いつも楽しそうに笑ってた」
「えへへ……やっぱり」
「……守るのも、魔法を教えるのも、他のどんなことだって。ワタシがあの子にしてやってたことはすべて、ワタシのためだ。ワタシが死ぬため。いつの日かあの子に終わらせてもらうため。それは絶対に、あの子のためなんかじゃなかった。だってのに、あの子は……いつもありがとう、って。全部知ってるくせに。ワタシがハロをなんとも思ってないことなんて重々承知のはずなのに。無邪気に、無鉄砲に……いつだって」

 それはさながら懐かしむようで、愛おしむようで。
 まるで我が子を慈しむかのように、リームザードさんは微笑みを浮かべます。

「他人なんか鬱陶しいだけだったはずなのに、いつしかあの子がそばにいるのが当たり前になってた。一人の時に感じてた不安や苛立ちが……あの子の近くにいる間だけは、和らぐようだった」

 しかしそこまで語ったところで、リームザードさんの顔に暗い影が差しました。

「……でもさ。だからこそ……だからこそ、あの日。あの子がワタシを終わらせる魔法を完成させたと言って、それをワタシに行使した、あの日……ワタシはあの子から逃げ出してしまった」

 それは私がリームザードさんについてお師匠さまから聞いていた話と、ほとんど一致していました。
 お師匠さまいわく、リームザードさんはお師匠さまを見限って、どこかへ行ってしまったと。
 リームザードさんの話を聞く限りですと、別に見限ったわけではなさそうですが……リームザードさんが一度お師匠さまの前からいなくなってしまったこと自体は間違いないみたいですし、おそらくは二人の間でなにか誤解があったのだと思われます。

 いえ、それにしても……。

「逃げ出した……ですか? えぇと……それはつまり、直前で死ぬのが怖くなって、逃げ出しちゃった……と?」
「はぁ?」

 その場合、リームザードさんは口で死にたいと言っていただけのはた迷惑な人になってしまいますが……。

 幸いと言うべきか、その憶測は間違っていたみたいです。
 リームザードさんは私にジトッとした不満そうな目を向けてきました。

「そんなわけないでしょ……第一、逃げちゃったのは直前じゃないし。あの子がワタシに魔法を行使したって言ったでしょ。逃げちゃったのはその後」
「後、ですか? ですが後になってしまうと、そもそもリームザードさんはここにはいないはずでは……」
「はぁ? ……あー」

 ふと、リームザードさんはなにか間違いに気がついたように頭を掻きました。

「いや……そっか。お前、どうやらあの日のワタシと同じ勘違いをしてるみたいだね」
「同じ勘違い……? どういうことですか?」
「あの子が作り出したワタシを終わらせる魔法は、今のお前が想像してるみたいな『不死の存在を殺す』ものじゃないんだ。あくまでワタシの中にある『不死の呪いを取り除く』だけのものだったってこと」

 ……なるほど。それは盲点でした。
 もしリームザードさんが不死の存在を殺し得る魔法を受けたのなら今ここにはいないだろうと思い、その前に逃げ出したのだと勝手に思い込んでしまいましたが……それならば辻褄は合います。

 リームザードさんは確かに、お師匠さまが作り出した不死を終わらせる魔法をその身に受けたのでしょう。
 そして一万年という長過ぎる歳月にわたって彼女を蝕んでいた不死の呪いは、完全に取り除かれた。

 しかしそうなると。

「ではリームザードさんは、どうしてお師匠さまから逃げ出してしまったのですか? 呪いがなくなったのなら……その、いつでも死ねるようになったわけですし。気兼ねなくお師匠さまと一緒にいられたはずだと思うのですが」

 死ぬだのなんだのと、縁起の良くないことはあまり言いたくありませんでしたが、それがリームザードさんの長年の悲願であったことは事実です。

 あの日のワタシと同じ勘違い、なんて言うくらいですから、当時のリームザードさんも自分がその魔法を受ければ死んでしまうものだと思っていたのでしょう。
 実際にはそうはならなかったわけですが……不死の存在を殺すことも、不死の呪いを取り除くことも、本質的な結果は同じはずです。

 違うことがあるとすれば、選択肢が提示されることでしょうか。
 すなわち、無限ではなくなった命でまだ生きてみるか。それとも、すぐにでも生を終えてしまうか。

 お師匠さまとまだ一緒にいたいなら、生きればいい。
 もうこれ以上生きることに疲れてしまったのなら……自ら命を絶ってしまえばいい。

 勝手な憶測ですが、私はリームザードさんなら前者を選ぶものだと思っていました。
 いえ……今この場にリームザードさんがいる以上は、最終的にはやはり生きることを選んだのでしょう。
 ですがリームザードさんの発言を鑑みるに、不死の呪いから解放された当時の彼女は、お師匠さまと一緒にいることは選ばずにお師匠さまの前から逃げ出してしまったようです。
 それはいったい、どうしてなのでしょう?

「……それは……」

 私の疑問に、リームザードさんはどうにも答えづらそうに目を背けます。
 誰にはばかることなく飾り気のない言葉を多く口にする彼女にしては珍しい、口ごもるような素振り。
 どこか後ろめたい気持ちを抱えているような、そんな態度に見えました。

「……怖かったんだ」

 数秒の沈黙を経て、ポツリとこぼれたのは、そんな言葉。

「怖かった……ですか? それは……不死でなくなった後も生きることが?」
「……半分は正解だね。ただ、死ねないから生きてる。それだけでしかなかったワタシにとって、自分の意志で生きることを選ぶってのは……すごく不安で、怖いことでさ」

 そう告白するリームザードさんの肩は、なにかに怯えるように震えていました。
 今はもう自分の意志で生きることを選んだ後なのでしょうが……それでもまだ、こうしてここで生きていることさえもリームザードさんにとっては不安でしかたがないことなのかもしれません。

「……けどさ」

 しかしリームザードさんはすぐに頭を振って、その震えを振り払います。

「そんな悩みは些細なことなんだよ。それだけならきっと、ワタシはあのままあの子と一緒にいることを選んでた。言ったでしょ? 半分は正解だ、って。あの日、ワタシがあの子の前から逃げ出しちゃった理由の残りの半分は、別にある。そしてそれこそが……あの子が抱える苦しみと絶望の正体なんだ」
「…………え。ちょ、ちょっと……待ってください。それは、まさか……い、いえでも……そんな、こと……」

 答えを目前にしたここに至って、私はある予想にたどりついてしまい、図らずも動揺してしまいます。

 この話をする直前、リームザードさんは言っていました。お師匠さまが抱える苦しみは、もとをたどればすべて自分のせいだと。
 それは裏を返せば、仮にリームザードさんがお師匠さまと出会わなければ、お師匠さまはその苦しみを背負わなかったということになる。

 長い人生の中でリームザードさんが味わってきた、リームザードさんだけの苦しみ。
 不死の呪いを取り除く魔法。それによって生じた、お師匠さまの苦しみ。
 かつてリームザードさんを蝕んでいた不死の呪いと、それに纏わる壮絶な過去。本来であれば話したくもないだろうはずのそれを、なぜ彼女はわざわざ私たちに明かしたのか。
 ずっと抱いていた死にたいという思いが霞んでしまうくらい、お師匠さまと一緒にいる時間が好きだったはずなのに。そんなお師匠さまから逃げ出してしまうほど、リームザードさんが強い恐怖を抱いた理由――。

 本題であるここに至るまでにリームザードさんがばら撒いた、数々の断片的な情報が頭の中を巡ります。
 それらが一つに繋がる答えは――おそらく、ただ一つだけです。

 違うと否定してほしい。縋るような目を向ける私へと、しかしリームザードさんは力なく首を横に振りました。

「……そうだよ。全部、お前の想像通りだ」
「そ、んな……では、お師匠……さまは……」

 愕然とするしかない私の横で、シィナちゃんとアモルちゃんは未だピンとこない様子で首を傾げています。
 そんな彼女たちにも理解してもらうべく、リームザードさんは、私が一足先にたどりついてしまった残酷な真実を告げます。

「――ワタシを蝕んでいた不死の呪いは今、あの子の……ハロの中にある」
「…………え?」
「ど、どういう……こと?」

 二人の動揺は、至極当然のものです。
 リームザードさんは一つずつ、当時の出来事を紐解いていきます。

「簡単な話だよ。あの子がワタシに行使した、不死の呪いを取り除く魔法……それは確かにワタシの中から不死の呪いを消し去った。だけどそれはあくまで、ワタシの中から追い出すだけのものだったんだよ。不死の呪いを完全に消滅させられたわけじゃない……」
「……私、は」

 その続きは、私が自然と口にしていました。
 震える唇が、認めたくない真実を紡いでいきます。

「お師匠さまがリームザードさんを、殺さなかったのは……わざわざ呪いだけを取り除くなんて遠回りな手段を取ったのは、母親のように慕っていたリームザードさんを手にかけることがどうしてもできなかったからだと……思ってました。でも……それだけじゃなかったんです。たとえお師匠さまの魔法の才能を持ってしても、不死の存在を殺すことはできなかった……」
「そうだ。だからあの子は決断して……そして作り上げた。こんなワタシのために……ワタシの中にある不死の呪いを、自分自身に移し替えてしまう魔法を。不死の呪いを完璧に消し去ることはできなくても、干渉できるだけの才能はあったから。ううん、あってしまったから」

 シィナちゃんもアモルちゃんも、言葉を失っています。
 いえ……私もそれは、同じです。現実をまだ、受け入れきれていない。

 そんな私たちに、リームザードさんは畳み掛けるように言います。

「お前たちはさ、少しも疑問には思わなかった? あの子が弟子を取ることが。まだ二十代にもなってないくらい若いのに。しかもその弟子ってのは、フィリア……エルフである自分より寿命が短い人間だ。変な話でしょ? 自分よりも先立つだろうやつに自分の後を継がせようだなんて」

 言われてみれば確かに、それは疑問を覚えるべき事柄だったのかもしれません。
 今までそんな簡単なことにさえ気づけなかったのは、きっと……お師匠さまがくれる数々の優しさと温かさに、私が浮かれていたから。

「あの子はさ、恐ろしかったんだ。これから先、不死になった自分が歩むことになる絶望の軌跡が。大切だったはずの人が皆、自分を置き去りにしていなくなって……なにもかもが色褪せた世界で、いつか一人きりになる。その未来に悩んで、恐怖して……そうして選んだんだよ。かつてのワタシと同じ選択を。選んで、そして願った。他の誰かに……お前に。いつかこの苦しみから自分を救ってほしいと」
「っ……」
「不死の存在を殺す。自分にはできなかったことでも、他の誰かなら。もしかしたらこの子なら……ってさ。バカげた話でしょ。そいつが自分より遥かに劣る才能しか持ってないことなんて、わかりきってるだろうに……それでもきっと、諦めきれなかったんだ。いや、それしか縋るものがなかったって言うべきかな」
「お……お師匠さまは、そんなこと……私に一度も……」
「言うわけないだろ。一度はあの子に背を向けて逃げ出したワタシを笑顔で迎えてくれたような甘いあの子が、そんな重荷を背負わせるようなこと」

 矛盾していました。
 救いを求めていたはずなのに。そのために弟子を取ろうと思い立ったはずなのに……その弟子に、望むはずのことを言わないだなんて。

 でも聞くまでもなく、わかっていました。そんなことは。
 リームザードさんの言う通り、わざわざ私を苦しませるだけのことをお師匠さまが言うはずがない。
 たとえ矛盾していようとも、そうしてしまうんです。お師匠さまは。

 初めて私がお師匠さまにお会いした日……お師匠さまは言っていました。
 一人が寂しくて、虚しくて、満たされないから、私を買ったと。
 そして私はそれに対し、言いました。私も一人だったからわかります、と。
 お師匠さまを抱きしめて、これからは私があなたのそばにいますと、そう言って笑った。

 だけど私は理解していなかった。お師匠さまが言う寂しさの理由を。虚しさのわけを。
 不死の呪い。永遠の孤独。
 誰もが自分より先立つ。大切な人に取り残され続けて、いつしか本当の自分を知る人が誰一人としていなくなって……世界で一人ぼっちになる。
 その苦しみを、絶望を、なにもわかっていなかった。
 それなのに軽い気持ちで、同じだと、言ってしまった。

 あの日、あの時、お師匠さまはありがとうとお礼を言って、笑ってくれました。
 でも……でも。
 もしかしたらお師匠さまは、本当はずっと……。

「……あの日。ワタシはあの子がワタシの呪いを肩代わりしたことを理解して……ワタシが味わった絶望を、いつかあの子も味わうことを知って。どうしようもなく怖くなったワタシは、逃げ出した。君と一緒にいたい……そう言って手を差し伸べてくれたあの子に、背を向けて……遠くへ遠くへ、誰の目も届かないところに逃げた」

 皆が陰鬱に口を閉ざしてしまった中、罪を告白するかのように、リームザードさんは言います。

「暗い闇の中で一人になって……ワタシはすぐに死んでしまおうと思った。元はと言えばそのためにあの子を育てたんだ。もう死ねるんだから、死にたいなら死ねばいい。死んでしまえば、こんな意味のわからない苦しみも、理解できないもどかしさも、後ろめたさも後悔も……全部なくなる。楽になれる。そう思って……」

 リームザードさんは、片手で自分の顔を覆うと自嘲気味に笑いました。

「……でもできなかった。どれだけ自分で自分を傷つけても、死ぬ直前になるといつも頭をよぎる。あの子が私にかけてくれた言葉が、笑顔が……あの子と過ごした時間が、いつだってワタシの心を惑わして……ワタシを生かしてきた」
「妖精さん……」
「何年もそんなことを続けてさ……それでやっと、気づいたんだ。ワタシはまだ、あの子と一緒にいたいって思ってるってこと。平和ボケしたあの子と過ごす時間が、大好きだったんだって……あの子のことを、愛してたんだ、って。アハハ、今更だよね……でもその時初めて、ワタシもこの世界に生きてるんだって実感した。あの子にもとに戻ろうって思えたんだ」

 ……かつての私とは違い、リームザードさんは理解しているのでしょう。
 お師匠さまが言っていた寂しさの理由を。虚しさのわけを。
 その苦痛がどれほど深いものなのか、彼女だけが本当の意味で知っている。
 なにせその絶望は、元々はリームザードさんのものだったんですから。
 そして押しつけるようにして逃げてしまったそれと向き合うために、彼女はお師匠さまのところに戻ってきた。

「なにをされるのも覚悟の上だった。あの子はワタシのためにあんなことをしてくれたのに、ワタシはそんなあの子の思いに見て見ぬふりして、身勝手に逃げたんだから。恨まれてもしょうがない。それどころか、本来ならあの子のそばにいる資格すらない。どんな酷いことされたって……受け入れる、つもりだったんだけどね」
「お姉ちゃんは……そんなことしないよ」
「うん。やっぱりあの子は甘いよ。あいかわらず、甘かった。こんなワタシを許してくれるどころか……中途半端に呪いに対処したことでワタシを苦しめてたんじゃないかって。変な勘違いして、ずっと待っててくれてたんだから。本当に甘くて、愚かで……なによりも愛おしい」

 これがワタシのすべてだと、リームザードさんは彼女自身の話を打ち切りました。

 そして今度は、まっすぐに私を見据えてきます。
 決意が宿った瞳に気圧されて……私は一瞬、ビクリと肩を震わせてしまいました。

「フィリア。お前は言ったね。ワタシと最初に会ったあの時、受け入れるはずもない提案をくれてやった際に。魔法の腕で、いつかあの子に並び立てるようになる。もし未来が見えていて、届かないとわかっていても諦めない。そんなことを」
「……はい。言い、ました……」
「今ならわかるだろ。ワタシがあの後に怒った意味が。足りないんだよ(・・・・・・・)、それじゃあ。並び立つだけじゃ無意味だ。届かないなら無価値だ。そんな程度の思いじゃ、あの子の絶望の一片たりとも救えやしない」
「わ、私は……」

 お師匠さまと過ごしたいくつもの日々が脳裏を駆け巡ります。
 その多くで、お師匠さまは笑っています。私のことを気にかけて、微笑んでくださっていました。
 いえ、私だけではありません。
 シィナちゃん、アモルちゃん。お師匠さまはいつだって、他の誰かのことを気にかけて……本当に苦しいのは、辛いのは、自分だったはずなのに。

 お師匠さま……お師匠さまは、どう思っていらしたのですか?
 いつか絶対に一人になる。そばにいる大切な人は皆、自分よりも先立ってしまって、ただ一人取り残される。
 誰も寄り添えず、誰も理解できず。いつしか本当の自分を知る人は誰一人としていなくなる。
 そんな不安と焦燥の中で……救いを求めたはずの相手が、心から満たされた温い気持ちで魔法の修行に臨んでいる。そんな姿を見るのは……。

「もう一度言ってやる。フィリア、お前じゃハロを救えない。自己満足に浸る今のお前がどれだけ努力したところで、たどりつく果てなんてたかが知れてる」
「……」
「そして二度目だ。今度はフィリアだけじゃなくて、お前たち全員に言おうか。本来ならワタシに、こんなこと言う資格はないけれど……」

 リームザードさんは私たちを見回して、睨みつけるようにして言い放ちました。

「あの子の絶望に向き合う覚悟がないなら、あの子のもとを去れ。お前たちが向ける好意という名の重圧が、あの子の心を押しつぶす前に」

 ……もしもこれで私たちがいなくなって、お師匠さまが怒ってしまったとしても、リームザードさんは覚悟の上なのでしょう。
 お師匠さまに嫌われて、拒絶されて。もしかすれば、もう一緒にいられなくなるのだとしても。
 それがいつかの未来のお師匠さまの苦しみを和らげることに繋がるなら。リームザードさんは文字通りなんだってする。
 そうじゃなきゃ、私がリームザードさんと最初に遭遇したあの日、お師匠さまが大切にしているだろうはずの弟子の私を容赦なく殺そうとなんてしなかったはずです。
 もしも本当に殺してしまった後、自分がお師匠さまにどう思われるかなんて……そんなことにも思い至らないほど、リームザードさんはバカではありません。

 なにがあろうと。誰が相手だろうと。どんなことが待ち受けていようと。
 いつかその身が朽ち果てるその時まで、自分のすべてをお師匠さまのために捧げる。
 きっとそれこそが、リームザードさんが自分の意志で生きると決めた理由であり、お師匠さまが抱く苦しみに向き合うための覚悟なんです。

 ……私は……。
 私は情けないことに……答えを出せずにいました。

 お師匠さまが今まで向けてくれた笑顔が。かけてくれた言葉が。お師匠さまの絶望に裏打ちされたものだったとしたら。
 幸せになったぶんだけ、取り残される苦痛に耐えきれなくなるのだとしたら。
 私と過ごした時間と思い出が……いずれ、お師匠さまの心を絞め続ける鎖になってしまうのだとしたら。

 私は……いったい、どうすればいいのでしょうか。
 ……教えてください、お師匠さま……。
 リームザードさんが話したお師匠さまの秘密と真実に、誰もが口を閉ざしてしまっていました。

 ――不死の呪い。
 自らの意志によってすら決して死ぬことができず、ただ一人取り残され続ける、この世の理を外れた力。

 もとをたどればリームザードさんのせいだと言えば、確かにその通りなのでしょう。
 だけどリームザードさんだって、望んでお師匠さまにその呪いを押しつけたわけじゃありません。
 なにかを望んだとすれば……それはお師匠さまの方です。

 リームザードさんと出会って、リームザードさんと過ごす時間を大切に感じて。
 リームザードさんの絶望と苦痛を、どうにかしてあげたいと願って。
 そのために魔法の修行を頑張り続けて……一歩届かなかった末に、それでもと葛藤して。
 その道の先で味わうことになる絶望も苦痛も全部承知の上で、自分自身を犠牲にする道を選んだ。

 お師匠さまが自分の意志で選んだことなら、私にリームザードさんを責める権利はありません。
 もとはと言えば私だって、リームザードさんと同じようにお師匠さまに救われた身なんですから。

「……話せるだけのことは話したよ。後の判断は、お前たちに任せる」

 重苦しい沈黙が支配する場に、芯の通った凛とした声が響きます。
 ふと見れば、リームザードさんが机の上から飛び立つところでした。

「あの子がお前たちを受け入れるって決めてるなら、これ以上のことは、お前たちを認めたくないっていうワタシのエゴにしかならないからね」
「よ、妖精さん……どこか、行っちゃうの?」
「安心しなよ。単に自分の部屋に戻るだけ。ここにいると余計な口出ししちゃいそうだし……ワタシに影響されて出した答えなんて、なんの価値もないでしょ?」

 リームザードさん自身、なにも知らずにのほほんとしていた私たちに、なにか思うところがあっただろうことは想像にかたくありません。
 でも同時に彼女自身もまた、もとをたどれば全部自分のせいだという後ろめたさもある。
 この先の私たちの選択に口出しする権利はない。リームザードさんはそう感じているようでした。

「それと今日のこと、別にハロに話してくれてもいいから。それでワタシがあの子にどう思われたって、どんな風に罵られたって、ワタシは受け入れるつもり」
「妖精さん……」
「……じゃあね。お前らがどうするのかは知らないけど……その選択が、あの子を傷つけないことだけ祈ってるよ」

 それだけ言い残すと、リームザードさんは返事も聞くことなく、ピューッと飛んで去っていきました。

 ……たぶんですが、彼女なりに気を遣ってくださった部分もあるのでしょう。
 なにせこれは当事者であったリームザードさんが、何年も悩んだ末にようやく答えを出せた事柄なんです。
 同じように思い悩む時間が必要だ。そういう思いもあって、私たちだけにしてくれたのでしょう。
 リームザードさんは、あいかわらず素直じゃありません。

 リームザードさんがいなくなったことで、部屋の中に再び重い沈黙が降りました。

「ハロ、ちゃん……」

 呟くような声の主は、シィナちゃんでした。

 無表情なことが多いシィナちゃんも、今回ばかりは一目でわかるほどに悲しみをあらわにしていました。
 眉尻を少し下げ、猫耳はペタンとへたり込んで、尻尾も元気なく垂れ下がっています。

 ……口数が少なく、表情の変化も乏しい。他人から見て感情がわかりづらい。
 そんなシィナちゃんですが、その閉ざされた内面が誰からでもわかるタイミングが一つだけあります。
 それは、お師匠さまと一緒にいる時です。

 シィナちゃんはお師匠さまを見つけるや否や、いつも猫耳や尻尾を上機嫌にピンと立たせて、一目散に近づいていきます。
 特にご機嫌な時なんかは、お師匠さまに抱きついてスリスリと頬を寄せ合わせてたりすることもあります。
 普段の生活の中で、どこかボーッとしている彼女の視線を追ってみれば、その先にはいつもお師匠さまがいます。
 どこか他人から誤解されやすい一面があるシィナちゃんですが、その一方で、お師匠さまが大好きであることだけは誰が見ても簡単にわかることでした。

 けれどだからこそ……そんな大好きな人が一人で苦しみ続けていた現実に、彼女は深く思い悩んでしまっていたようでした。

「……お姉ちゃん」

 所在なさげに縮こまったアモルちゃんの眼は、不安に揺れていました。

 アモルちゃんはお師匠さまのことを、お姉ちゃんと呼んで慕っています。
 そう呼び始めたのはおそらく、アモルちゃん自身が誰かとの強い繋がりを求めていたからなんだと思います。
 家族や仲間に拒絶され、誰にも愛されずに育ってしまったからこそ、愛情に飢えていたんです。
 昔、私もお母さんに愛してもらいたくて必死でしたから、わかるんです。

 誰かを愛したい。誰かに愛されたい……。
 そう願うアモルちゃんにとって、愛したぶんだけ愛する人に苦痛を与えるかもしれないという現実は、辛く酷なものであることは想像にかたくありません。

「……わたし、ね……」

 不意にポツリと、アモルちゃんがこぼします。
 涙ぐんだ、苦しそうな声でした。

「お姉ちゃんが、わたしのために新しい魔法を作ってくれてた時……約束、したの」
「……どのような約束ですか?」
「……お姉ちゃんと……死ぬまでずっと、一緒にいたいって……」

 ――私はどこにも行かないよ。約束する。フィリアが望むなら、いつまでだって一緒さ。

 いつかお師匠さまにかけていただいた言葉が私の頭をよぎりました。
 アモルちゃんとお師匠さまと交わしたものと同じ約束。シィナちゃんがこの家に初めて来る直前に、お師匠さまと交わしたものです。

 見ればシィナちゃんも、私と同じように目を見開いていました。
 見ていましたから、私は知っています。
 私と同じ日の夜に、シィナちゃんも私たちと同じ約束を交わしていました。

 アモルちゃんは、今にも泣きそうな顔をクシャリと歪めました。

「お姉ちゃんの中には、やっぱり今も不死の呪いっていうのがあって……妖精さんが言ってたみたいに、自分が苦しいのを全部承知で……わたしたちを受け入れてくれてるっていうなら……あの、約束は……」
「――――」

 私たちは同じ約束を交わしました。
 お師匠さまと、死ぬまで一緒にいる――死ぬまで? お師匠さまは、どうやったって死ねないのに?
 いつか絶対、一人になるのに?

「……わたし……わた、し。あんな約束……しなきゃよかった……わたしに縛りつける、みたいな……あんな……呪い、みたいな……」

 呪い――リームザードさんがお師匠さまに押しつけてしまったものと、同じ。

「わたしの、せいで……結局、お姉ちゃんを傷つけて……悲しませて……泣かせちゃう、だけなら……最初から、わたしなんか……お姉ちゃんの妹になんて……ならなきゃ……」
「っ、それは違います! お師匠さまはアモルちゃんのこと、本当の妹のように大事に思ってますっ! それだけは……それだけは、絶対に否定しちゃいけません……!」

 どうしても聞き捨てならなくて、思わず声を上げてしまいます。

「で、でも……」
「アモルちゃんのことが大切だったから……っ、たとえ苦しくても、一緒にいたいと思ったから……! お師匠さまは……約束してくれたんです。だからそれだけは……お師匠さまの思いだけは、お願いですから、否定しないでください……」

 アモルちゃんに向けて言ったことのはずなのに、その言葉は、自分自身にも突き刺さるかのようでした。
 大切だったから。苦しくても一緒にいたいと思ったから。だから、約束してくれた。
 シィナちゃんとも、アモルちゃんとも……私とも。

「…………ごめん、なさい」
「……いえ……私こそ、すみません……」

 ……時間が、必要でした。心の整理をする時間が。
 三度沈黙が降りた部屋の中、お互いほとんど言葉を交わさずに視線だけを交わすと、自然と私たちは散り散りになりました。

「……お師匠さま……」

 いったいこの先、どうすればいいのか。
 どんなに考えても答えを見つけられず、私はフラフラと家の中を彷徨っていました。

 気がつけば、私は自分の部屋の真ん中に一人で佇んでいました。
 窓の外はどんよりと曇っていて、いつの間にやら土砂降りの雨まで降り始めている。
 カーテンが締め切られていて、部屋の中は、月も星も見えない夜のように暗かった。
 まるで先の見えない闇の中を彷徨っているような気分に陥って、私はガクンと床に膝をつきました。

 顔を上げる気力もなく、俯いたまま、お師匠さまと過ごした日々に思いを馳せます。
 
 リームザードさんとの約束を守れなかったと後悔していた弱々しいお師匠さま。
 一緒にいたい。声を聞きたい。触れてみたい。そう思って私を買ったのだと告白した、恥ずかしそうでいて、どこか怯えたようなお師匠さま。
 熱を出した際、私にできることならなんでもすると告げた時に、一人にしてほしいと答えた儚げなお師匠さま。
 朝起きた時の、無防備なお師匠さま。一緒に台所に立つ、身近で家庭的なお師匠さま。
 読書に勤しむ楽しげな横顔のお師匠さま。魔導書を書いている時の真剣なお師匠さま。

 思えばお師匠さまと出会ったその日から、私はいつもお師匠さまのことばかり見ていました。
 お師匠さまがいたから、毎日が楽しかった。お師匠さまがいたから、いつだって笑っていられた。
 お師匠さまがお留守の時だって、日が暮れた後に帰ってくるお師匠さまのことを思えば、今日も一日頑張ろうと思えました。
 もう、お師匠さまがいない生活なんて考えられない。
 ましてやお師匠さまのそばを離れるだなんて、それだけは絶対に考えられないことでした。

 ……だったら、たとえどんな結末になろうと構わず、お師匠さまのそばにいる?
 いつかお師匠さまが苦しむ定めでも、そこから目を背けて知らんぷりをして、私だけ幸せなまま一生を終える?

 ……ダメです!
 そんなこと、できるはずがありません……。

 だってもしも私が不死で、いつかお師匠さまがいなくなって、私一人だけ永遠に取り残される定めだとしたら……私はきっと、その先を耐え切れない。
 それと同じ苦痛を大好きなお師匠さまに無責任に押しつけるだなんて、そんな残酷な未来、私は選べません。

 けれどだとしたら……私は、どうすればいいんでしょうか?
 お師匠さまのそばを離れるのも、一緒にいて苦しませてしまうのも嫌だなんて。
 こんなの、どちらかを選ばないといけないのに選べないワガママ。あれも嫌だこれも嫌だと、どうにもならないことを認められない、子どもじみた癇癪です。

 ……お師匠さまは、私が真実を知ればこんな風に思い悩んでしまうことをわかっていたんでしょう。
 だからなにも言わなかった。なにも教えてくれなかった……お師匠さまは、いつだって私たちに優しいから。
 でもお師匠さまが私たちに隠していたこれは、今までのどんな温かなものとも違う、とても残酷な優しさでした。

 お師匠さまと一緒に居続けるか。お師匠さまのそばを、自ら離れるか。
 ……お師匠さまがいない、生活……。

「…………お母さん」

 無理にでも想像しようとして頭に浮かんできたのは、お師匠さまと出会うよりも前の私でした。

 物心ついた時から、私の家には私とお母さんの二人だけでした。
 たった二人の家族。けれど、お母さんに愛された記憶はありません。
 頭を撫でてもらえたことも、手を繋いでもらえたことも、ご飯を作ってもらえたことも。
 お母さんは私を一人で家に置き去りにして、毎日のように一人でどこかへお出かけしていました。
 餓死だけはしないようにと机の上に残された最低限のお金だけが、お母さんがくれた唯一のものでした。

 私とお母さんは、いつも違うものを見ていました。

 私が見ていたのは、村で過ごす幸せそうな家族の姿。
 他の子どもたちが自分の両親と楽しそうにしている姿を見るたびに、憧れの感情が私の心を焼きました。
 私もお母さんに愛してほしかった。見てもらいたかった。あんな風に頭を撫でてもらって、手を繋いでほしかった。

 お母さんが見ていたのは、知らない男の人。
 時折村の中で見かけるたびにいつも違う男の人と歩いていて、恍惚とした笑顔を浮かべたお母さんの視線は、いつだって隣に立つその人に釘付けでした。
 お母さんがなにをしているのかは当時の私にはわかりませんでしたが、どこか遠く、行ってはいけない場所にいることだけは、子供心ながらに理解していました。

 私のお母さんは最低な人だと、村の中でも疎んでいる人は多かったです。
 一人ぼっちの私に村の人はいつだって親切にしてくれて、お母さんの代わりにいろんなものをくれました。
 私がお母さんに見てもらいたくて、娘だって認めてもらいたくて、がむしゃらに頑張ることができたのも、村の人たちが私のために勉強の道具を貸してくれたりしたからです。

 もしかしたらそのまま、お母さんと離れ離れになってしまった方がよかったのかもしれません。
 だけど私は、その道を選べませんでした。
 どんなに村の人たちが優しくしてくれても、私はお母さんと一緒にいたかった。

 幸せな家族に憧れがあったのも理由の一つですが、それだけじゃありません。
 お母さんに愛されたいと思うたびに、幻のような光景が私の脳裏をよぎるんです。
 一人ではなにもできないくらい小さく、幼い私が、お母さんの優しい腕の中に包まれる夢。
 私を見つめるお母さんの視線は慈しみに満ちていて、見たことがない幸せそうな笑顔を浮かべていた。
 お母さんに愛してもらえた記憶なんて一つとしてない。だけどそんな幸せな夢が、いつまでも消えてくれなかった。

 一度だけ、村の人が言っているのを聞いたことがあります。
 お母さんは、昔はああじゃなかったんだって。
 私が産まれたばかりの頃はお母さんは私のこともきちんと愛していて、お父さんと二人で子育ての勉強をいっぱいしてたんだって。
 だけど私の物心つく前、私のお父さんだった人が野盗に殺されてから、お母さんは変わってしまった。
 もうどこにもいない夫の影を求めるみたいに、いろんな男の人と肌を重ねるようになった。

 お母さんは、間違いなく最低な人です。
 無責任に子育てを放棄するに飽き足らず、たった一人の娘を奴隷商に売り飛ばした。
 救いようがない、天罰を受けて当然の人です。

 ……でも、もし。
 もし私のお父さんが野盗に襲われることなんてなくて、今もまだ生きていたなら。
 私もお母さんも、普通の生活を送れていたんじゃないかって思うんです。
 夢としか思えない、あの心から幸せな微笑みを浮かべたお母さんが、私が産まれた時に浮かべてくれた笑顔なんだとしたら。
 顔も覚えていないお父さんと一緒に、三人で、いつか憧れた家族みたいに過ごせたんじゃないかって。

 それとももしかしたら、私一人でもできたんでしょうか。
 お師匠さまが私を救ってくれたように、私にも、お母さんを救うことが……。
 私が見ていたのは、いつも別の家族だった。楽しそうな家族の姿に憧れて、ああなりたいと願った。
 でもそれは裏を返せば、お母さんを見ていないことと同じだったんじゃないかって思うんです。
 私は、お母さんが本当に見ているものを理解しようとしなかった。
 私はただ、私と同じように一人ぼっちで苦しんでいたお母さんに……押しつけるみたいに、身勝手に、愛してほしいと願っただけ。
 知らない男の人と歩いていたお母さんが見ていたものが、本当は隣に立つその男の人なんかじゃなくて……亡くなったお父さんの面影なんだって、そんな簡単なことにも気づけなかった。
 あなたなんか私の娘じゃない。そんな風にお母さんに拒絶されるのが怖くて、お母さんの気持ちと向き合うことから逃げていたんです。

 本当に大好きな人に出会えた今だからこそ、私は少しだけ、お母さんの気持ちが理解できる気がしました。
 大切な人を失う辛さ。失ったものを求める渇いた心。どんなに代わりのものを詰め込もうとしたって、決して埋まらない虚ろな穴。

 ……もちろん、だからと言って私を捨てたことを許せるわけではありません。
 金属でできた手枷と足枷の氷のように冷たい感触は……一生、私の心に染みついたままです。

 けれど、もう恨んではいませんでした。
 たとえその関係の末路がどうあれ、お母さんと過ごした日々の果てで、こうしてお師匠さまと巡り会えたことは事実なんです。
 あのまま一生を村の中で終えていたら、私はお師匠さまに出会うことすらできなかった。

 だから……もういいんです。
 お母さんと本当の家族になることはできなかったけど、あの頃欲しかったものはもう、私の手の中にあるから。

 ――気になるようなら、そうだな……自分を奴隷だと考えるのをやめるといい。私たちはこれからは家族だ。

「……お師匠さま……」

 身勝手な願いだった。お母さんに捨てられたその瞬間に、叶う可能性なんて潰えたはずの夢だった。
 いつか見た幸せな家族の姿。それとは少し違ったかもしれないけれど……お師匠さまは、私の手を握って、頭を撫でて、優しく笑いかけてくれた。
 愛情がこもった温かいご馳走を毎日振る舞ってくれた。
 私がずっとずっと欲しかったものを、これでもかっていうくらい、両手いっぱいにくれた。

 ……大好きなんです。
 私が嬉しそうにすると、お師匠さまは笑ってくれる。お師匠さまが嬉しそうだと、私も笑顔になる。

 離れたくなんかない。失いたくもない。
 たとえワガママでも、身勝手でも、子どもじみた癇癪でも……。
 もしこれが、自己満足に過ぎないのかもしれなくても……。

 私はお師匠さまの隣にいたい。笑い合って、最期のその瞬間まで一緒に生きていきたい。
 私とお師匠さまの繋がりを、いつかの私とお母さんみたいな、虚しくて悲しい結末にはしたくない。
 お師匠さまに、幸せになってほしい。

 そのためなら……私はもう、大切な人と向き合うことから恐れない。

「……お昼ご飯、食べそびれちゃってましたね」

 気づかないうちに、ずいぶんと長い間悩んでしまっていたようです。
 ふと見れば窓の外の雨はとっくに止んでいました。
 カーテンの隙間から見える晴れ始めた空の向こうでは、夕日が鮮やかに輝いています。

 こんな時間まで一人でボーっとし続けてしまっていたことに少し苦笑いをして、私はようやく立ち上がると、私は自分の部屋を出ました。
 お師匠さまは、まだ帰ってきていないようです。
 いつもなら残念がるところですが、今だけはちょうどよかったです。
 お師匠さまが帰ってくる前に、どうしてもしておきたいことがありましたから。

 ――コンコン。

「……入っていいよ」
「リームザードさん。あなたにお願いがあります」

 リームザードさんは、私には覚悟が足りないとおっしゃっていました。

 ですが、もう違います。私は必ずお師匠さまとの約束を叶える。
 死ぬまで一緒にいるっていうあの約束が、この先ずっとお師匠さまを縛りつける呪いだって言うなら……私がこの手で祝福に変えてみせます。

 もう、お師匠さまに追いつくだなんて言わない。届かないかもしれなくても諦めないなんて言わない。
 胸を張ってお師匠さまと生きていけるように、私は絶対に、その先を目指すんだ。

「――……そっか。いいよ。お前がそこまでやるっていうなら、ワタシも手を貸してやる」

 私のお願いの内容を聞いて、リームザードさんは初めて、お師匠さま以外に微笑んでくれたのでした。
「それではハロさん。今日はいろいろとお疲れさまでした」

 冒険者ギルドの出入口前。鮮やかな夕日が照らす表通りの一角で、私は冒険者ギルドの受付嬢であるチェルシーと別れの挨拶を交わしていた。
 どうして冒険者ギルドの中ではなくて外で受付嬢と話しているのかと言えば、なんてことはない。
 今はもう仕事終わりで、私は今日、彼女と同じギルド職員として一緒に汗を流して働いていたからだ。

 元はと言えば私は今回、アモルの件について今後の立ち回りをソパーダと相談するために冒険者ギルドに訪れた。
 ただ、さすがにその一件だけで一日を使い切るほどの時間は消費しない。
 話し合い自体は午前中のうちに早々に終わって、その後は対価の一環として、臨時の職員として冒険者ギルドのためにこき使われていたのだった。

 まあ、こき使われていたなんて言っちゃうと印象がちょっと悪いかもしれないが……『アモルが気兼ねなく外を出歩けるようにしたい』なんてワガママを言って力を貸してもらっているのは私の方だ。
 これくらいの雑用なら対価としては全然安いくらいだし、小遣い稼ぎでちょこちょこ自分で魔導書を書いたりしている私にとってデスクワークは苦でもない。

 ……まあその、重めの書類の束を持ち運ぶ際に、ちょっと冒険者にあるまじき非力さを見せちゃったりもしちゃったが……危うく転びそうにもなったが……。
 それをキッカケにギルドの人たちと少し仲良くなることもできたので、プラマイゼロだと思いたい。

「うん、チェルシーもお疲れさま。今日の昼間は結構な大雨だったし、足元には気をつけて帰るんだよ」
「ふふ、お気遣いありがとうございます。ハロさんも、次はもう支えてあげられませんから、転ばないように気をつけてくださいねー」

 転ばないようにというのは、書類の束を運ぶ際の一件があったからこその返しだろう。
 パタパタと走り去りながら振り返り気味に悪戯っ子のように楽しげな笑みを見せてくる彼女に、気恥ずかしさからカァーと顔が熱くなってしまう。

 ……あの微笑みにやられちゃった冒険者の人も多いんだろうなぁ。
 普段からフィリアたちと接していなかったら私も危なかったかもしれない……。

「……私も帰ろうか」

 冒険者ギルドに踵を返し、一人で家路につく。

 今日、私はリザが家にやってきてから初めて彼女のそばを離れた。
 ただ、それはあくまでリザがフィリアたちにもう危害を加える気がないと確信できたからしていることだ。
 だからそれが帰路を急ぐ理由にはなり得なくて、私は「皆は今日はなにして過ごしたのかなぁ」と呑気に考えながら、ゆっくりと帰路を歩いていた。

「ちゃんと皆と仲良くできてるかなぁ。リザ」

 リザはあの性格なので他人にはどうしてもツンツンとしがちだが、フィリアたちのことは実はそこまで嫌いじゃないんじゃないかと私は睨んでいる。
 フィリアとはちょっと険悪な感じだけど、変に意地悪とかはしないし。なんならフィリアが料理で包丁を使ったりとかで少し危ないことをしている時なんかは、腕が当たってしまいそうな位置にあったコップを魔法でこっそりと離したりとかもしていた。
 無論、リザは礼を言われたいからしたわけじゃないとばかりにフィリアからそっぽを向いてそのことを黙っていたが。私はちゃんと見てたよ。

 アモルとの関係は特に良好と言える。
 アモル自身、リザと仲良くなりたいという思いが強いみたいで、リザを見つけると積極的に近づいて挨拶してる姿をよく見かける。
 リザもリザで近づいてくるアモルを突き放したりすることはなく、鬱陶しがったりもしていない。挨拶も普通に返している。
 リザからしてみれば誰かからああして親しげに接してくれること自体新鮮で、案外まんざらでもないんじゃなかろうか。
 残念ながらリザが自分からアモルに近づいていくところはまだ見たことはないが、リザは近くにアモルがいる時はさり気なくそちらに目を向けて、危ない目に遭わないか見てくれている節がある。
 アモルもそういうリザの些細な思いやりもちゃんと感じ取れる子だし、二人の相性はかなりいいと言えるだろう。

 唯一、シィナとは一見関わりが薄そうな印象がある。シィナはあんまり会話が得意な方じゃないし、リザも自分から友好的に話しかけるタイプじゃない。
 ただ、以前シィナの部屋のドアがちょこっとだけ空いてた時に、シィナに勉強を教えてる場面が見えたことがあったので、決して仲が悪いというわけではないはずだ。
 リザってあれで結構面倒見が良いしね。私より前にもいろんな人に魔法を教えたりしてきたからか、なにかを教えることに関しては随一と言っていい。
 それに、リザなら変にシィナを怖がるようなことも絶対にないしね。シィナにとって、リザは貴重な友人の一人になってくれるはずだ。

「案外、四人で仲良く遊んだりしてたかもね」

 ……っていうのはさすがに冗談だけど。
 いつかはそうなったらいいなーと思っている。
 種族の違いがあるから外で遊ぶとかは難しいかもしれないが、ボードゲームを囲んだりするくらいはできるはずだ。
 人生ゲームとかね。この世界にはない娯楽だから自作しないといけないけど、この世界に合わせた内容を考えながら作ってみるのも面白そうだ。

 そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、いつの間にか家の前に到着していた。
 この扉を開ければ、きっといつも通りフィリアが当たり前のように待ち構えていて「おかえりなさい、お師匠さま」と出迎えてくれるのだろう。

「ふふ……ただいまー」

 知らず知らずのうちに笑みをこぼしてしまいながら、私は玄関の扉を開けた。

「……あれ?」

 しかしそこに私が予想していた景色は広がっていなかった。
 シーン……と、私の声だけが虚しく玄関の空間に鳴り響く。

 ……なにかおかしいぞ……?
 フィリアがいないのもそうだが、彼女だけじゃない。
 いつもなら私がこうして「ただいま」って声を上げれば、シィナが自分の部屋から飛び出してきて、「おか……えり」って耳をピコピコさせながら言ってくれるのに。
 アモルだって、寂しかった気持ちを目一杯に伝えるみたいに駆け寄って抱きついてきてくれるのに……。

 誰も来てくれない。それどころか、明かりをつけ忘れたみたいに廊下も部屋も真っ暗だ。

「……寝てるだけとかだったらいいんだけど……」

 皆でお昼寝してて、今の今まで寝ていたとか。それだったら逆に微笑ましい。

 いずれにしても、誰も来てくれないのはちょっと不安になる。できることなら早めに誰かと顔を合わせて安心しておきたい。
 私はそれとなく周囲に気を配りつつ、皆を探して家の中を歩き始めた。

 食堂には誰もいないみたいだ。
 お風呂場も、誰かが入っている形跡はない。お手洗いもだ。
 なら自分の部屋にでもいるのかなと、とりあえずまずはフィリアの部屋を訪ねてみることにした。

「……あれ? 私の部屋、空いてる……」

 フィリアの部屋に向かう途中、出かける時は閉じておいたはずの自分の部屋の扉がわずかに開いているのを見て、私は足を止めた。

 ……中に誰かいるのかな?

 一番可能性が高いのはアモルだろうか。
 アモルにも自分の部屋は与えてあるが、彼女はどうにも私の部屋の方が好きみたいだから。
 夜は毎日一緒に寝てるし、疲れたアモルが私のベッドで寝ていても不思議じゃない。
 今日は帰りも少し遅くなっちゃったしね。

 もし寝ているなら起こさないようにと、物音を立てないよう気をつけながら、そっと扉の隙間を覗いてみた。

「フィリア……?」

 しかしそうして覗いた先に見えたのは、私の予想に反してフィリアだった。
 明かりもつけず、窓際で黄昏れるように佇んでいる。

 ちょうど私に背を向けている格好だったが、私が名前を呟いたことでフィリアもこちらに気がついたらしい。
 ゆっくりと振り向いたフィリアの顔は、なぜかはわからないがとても真剣味に満ちているように見えた。

「お師匠さま……おかえりなさいです」
「た、ただいま……?」

 落ちついた様子でそれだけ言うフィリアを前にして、私の中の違和感が強まった。

 やっぱりなにかおかしい……いつものフィリアなら、主人を前にした子犬みたいに元気ハツラツに言ってくれるはず……。
 こんな風に静かに出迎えられたことなんて今まで一度もなかった。

「その……フィリア、どうかしたの? いつもと様子が違うように見えるけど……」
「……」
「……」

 …………。

 ……いや、なにこの沈黙は……?
 雰囲気に押されて私もつい黙り込んでしまったが、私まだ全然状況が把握できてないんだが……。
 様子が違うことを否定しないところを見るに、なにかあったのは間違いないんだと思う。

 けど……うーん。踏み込んでしていいのかなぁ、これ。
 話そうとしないってことは、聞かれたくないことなのかもしれないし……。

 ……うん。よし。とりあえず、今は話題を別の方向に逸らそう。

「と、ところでフィリア。フィリアはシィナたちがどこにいるか知らない? ここに来るまでどこにも見なくてさ。家の様子がいつもと違う感じだから心配っていうか……もしかして皆で出かけてたりとか?」
「シィナちゃんたちは、自分の部屋に籠もってます。私と同じで……きっと、たくさん考えなきゃいけないことがあるんだと思います」
「そ、そうなんだ? えっと……部屋にいるなら……うん。大丈夫かな……」
「……」
「……」

 ……いや、だからなんなのこの沈黙は……。
 普段だったらこんな頻繁に会話が途切れることなんてないのに、今だけはなにか妙な雰囲気が漂っていた。
 そしてその原因は、間違いなくフィリアにある。

 見たところフィリアは、別に私とこうして話すこと自体を拒絶しているわけではない……と、思われる。
 変わったところがあるとすれば、ただひたすらに私を見つめてきている点だ。まるで私の内心を読み取ろうとするかのように、ジーッと私の一挙手一投足を観察してきている。
 なにか変なところでもあるのかなと、思わず身だしなみを気にしてしまうくらいには一途な視線だった。

 彼女はたぶん、なにか私に話したいことがあるんだろう。こうして私の部屋にいたのだって、きっとこの場所で私と落ちついて話をしたかったからだ。
 もっとも、それなのになぜか黙りこくったままだから、私も困惑を隠せないのだが……。

「お師匠さま……」
「……どうかしたの? フィリア」

 そんなことを思っていたら、フィリアの私の名前を呟きながら距離を詰めてきた。
 手を伸ばせば触れられるほどの距離だ。私の方が背が低いので、私がフィリアの顔を見上げる形となる。

 ……フィリア、少し大きくなったかな。
 初めて会った時と比べて、ほんの少しだが身長差が広がっているような気がする。
 毎日三食きちんと食べて、健康的な生活を送れているからだろう。

 ちなみに身長だけじゃなくて胸もまだまだ育ち盛りらしい。
 尋常でない迫力とボリューム。ついチラチラと見てしまう魅惑的な魔力に、ふとした仕草で揺れた時の圧倒的すぎる視線の吸引力……。
 これでまだ成長の余地を残しているというのだから、成長期とはかくも恐ろしい……。

 うーん……私もこれから少しは大きくなるのかなぁ。
 自分の胸の大きさなんてどうでもいいと言えばどうでもいいけど、フィリアはもちろんのこと、シィナも実は結構あるからね。同じ屋根の下で過ごす身近な間柄として思うところがないわけじゃない。
 こう、私だってもうちょっとくらい大きくてもいいんじゃない? っていうか……。
 毎日ちゃんと牛乳でも飲んでれば大きくなってくれるのかな……?

「お師匠さま。お師匠さまは私のこと……シィナちゃんやアモルちゃん、リームザードさんのこと……皆のことを、どう思っていますか?」
「へ? 皆のこと?」

 唐突に投げかけられた質問に、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。
 これがもしフィリア個人のことをどう思っているか、なんて聞かれていたら告白を期待してしまっていたかもしれないが、今はそういう空気ではなさそうだ。
 神妙そうなフィリアの表情を見るに、彼女は真剣に私の真意を問いただそうとしているように感じた。
 だから私もちゃんと真面目に答えることにする。

「皆と過ごす時間はもちろん大好きだよ。ほら。フィリアには話したけど、私って天涯孤独みたいなものだからね。昔はリザが一緒だったけど、一度リザと別れてからフィリアと会うまではほとんどずっと一人だったし……やっぱりたぶん、ちょっと寂しかったんだと思う」
「……」
「フィリアと出会ったキッカケは、私の身勝手な欲望からだったけどさ。こうしてフィリアと出会えて、一緒に暮らすようになって……私は寂しくなくなった。シィナやアモルも来て、家の中がどんどん賑やかになって、毎日が楽しくなった。もう会えないって諦めてたリザだって帰ってきてくれた」

 私は自分の胸に手を当てながら、帰ってきた瞬間のことを想起する。

「さっきだってね、玄関でただいまって言っても誰も来てくれなかったから……なんていうか、ちょっぴり不安になっちゃったんだ。だからここでフィリアを見つけた時、実はすごく安心したんだよ。大切な人と二度と会えなくなるのは本当に寂しいことだから」
「今は……寂しくはないんですか?」
「うん、今は大丈夫。ほら。前にフィリア約束してくれたでしょ? その……私といつまでも一緒にいたい、って」
「っ……」
「いろいろあったし、もしかしたらフィリアはもう忘れちゃってるかもしれないけど、私あれがすごく嬉しくてさ。あんな風に好意をまっすぐに伝えてもらえたのは初めてだったから」
「……お師匠さま……」
「だから私、もう寂しくないよ。フィリアや皆のことを思えば、どこにいても……って、あはは。ちょっと恥ずかしいこと言っちゃってるかもね。私」

 熱くなった顔を隠すように背けて、頬を掻く。
 今のフィリア、なんとなく落ち込んだ様子だったから、元気を出してほしくて変なことまで言っちゃったかもしれない。

「……って、あれ? フィ、フィリア?」

 あんなことを言ってしまった手前もう一度顔を見るのが恥ずかしくて、それとなく視線を反らし続けていたが、チラリと目をやるとフィリアの瞳が潤んでいた。

「だ、大丈夫? ど、どこか痛いの? なにかあったなら力になるから、遠慮なくなんでも……」
「大丈夫、です……」
「だ、大丈夫って言っても……」
「大丈夫、です……! だって、一番苦しいのは……辛いのは、お師匠さまのはずですから……」
「え? わ、私?」

 いや、別に私は苦しくも辛くもないよ……?

 フィリアは私からこれ以上追求されることを拒むように、ゴシゴシと乱暴に目元を擦る。
 それからペコリ、と。なぜか申しわけなさそうに頭を下げた。

「……ごめんなさい、お師匠さま」
「へ? えっと、な、なにが?」
「実は今日……私たちはリームザードさんから、お師匠さまに無断で秘密を聞きました。お師匠さまがずっと、私たちに隠していたことを……」
「私が隠してたこと? それって……」

 な、なんのことだ……?
 私が皆にしている最大の隠し事となると、元は異世界から来たってことくらいだけど……それはリザにも言ったことがない。
 もちろんリザならなにか勘づいててもおかしくはないが、この前の私への夜這い未遂の時のリザの反応的に、たぶんリザもそこまでは気づいてないんじゃないかと思う。
 私という存在の不自然さに違和感くらいは抱いているとは思うけど……。

 というか異世界云々くらい、聞かれたら普通に答えるんだけどね。
 まず聞かれないから言ってないだけで、フィリアたちになら話してもいいと思っている。

 とにかく、フィリアが言っている隠し事は私の出自に関してではない。
 しかしそうなると、リザが知っている私の秘密っていったいなんだ……?

 見当もつかず首を傾げる私に、フィリアが意を決したように答えを告げた。

「はい。お師匠さまが、リームザードさんから不死の呪いを受け継いでいることを……です」
「へ? ……ああ、そういうことか」

 合点がいった私は、なるほどと頷いた。
 確かにリザが知っていてフィリアたちが知らないこととなると、それになるか。

 腑に落ちたかのような反応を見せる私に、フィリアは少し暗い表情で確認を取ってくる。

「やっぱり……本当のこと、なんですよね」
「……そうだね。リザがフィリアたちに話したことは全部、本当のことだよ」

 リザはおそらく自分の過去をフィリアたちに話したのだろう。
 リザの過去。つまり、リザがかつて不老不死の呪いをもって産まれてきたということ。
 彼女はそれのせいで、想像も絶するほどの長すぎる年月を苦しみながら生きてきた。
 いや、生かされ続けてきた。どんなに死にたくても死ねず、呪いの力によって。
 他者を拒絶しがちなリザがわざわざ私に魔法を教えてくれたのだって、そんな自分を殺してくれる才能を私に期待していたからだった。
 そしてそんな彼女を救うために、私は彼女の中にあった呪いを私の中に移植した。

 っていうかこれ、私の秘密っていうかリザの秘密だけどね。
 リザの今までの人生の根幹に関わるそれを私が勝手に話すわけにはいかないと思ったから、以前フィリアにリザとの出会いを話した時もその辺はボカした言い方をしておいたのだ。
 リザが話してもいいと思ったなら、私も特に隠す理由はない。

「どうして……どうしてお師匠さまは、リームザードさんから呪いを受け継ごうと思ったのですか?」
「うーん……リザを安心させたかったから、かなぁ」
「安心……ですか?」

 私は目を閉じて、リザと過ごした日々を思い返す。
 まだリザの中に呪いがあった当時はリザは私にも厳しい態度を取ることが多くて、仲が良いとは口が裂けても言えなかった。

 同情も慰めもいらない。誰の干渉もいらない。誰にも理解なんかされたくない。
 そんな風に世の中のなにもかもを拒絶する彼女が、私にはとっても寂しそうに見えた。

「……フィリアも聞いたんでしょ? リザはさ、呪いのせいでずっと一人ぼっちだったんだよ。誰も彼女に寄り添えない。彼女の心を理解できない。誰かと繋がってもすぐに途切れて、また一人になる。そんなことを数え切れないほど繰り返して……リザは無遠慮に他人を拒絶するような攻撃的な言動が目立つけど、それだってきっと、永遠の孤独に耐えるための彼女なりの手段だったんだ。誰とも繋がらなければ、失う痛みを味わわずに済むから」
「……そう、ですね。私もそう、感じました。リームザードさんもたぶん……最初はきっと、私たちと同じだったはずです。苦しくて辛くて、でも自分一人じゃどうしようもなくて……誰かに、助けてほしくて……」

 もちろん、リザに直接こんなこと言ったところでリザは絶対に認めようとはしないだろうけど。
 リザはそういう意地っ張りな子だ。

「リザは自分を終わらせてくれる存在を求めて、私を拾った。拒んでいたはずの繋がりを作ってまでね。彼女は私に期待してくれてたけど……それでもやっぱり、本当はずっと不安だったはずだ。もしこの子が自分を殺せなかったら……そもそもこの呪いをどうにかすること自体が不可能なんじゃないか、ってさ。だけどそれを認めてしまったら、きっとリザはもう……」
「……だからそんなリームザードさんを、安心させてあげるために……?」
「うん。呪いそのものを消し去る目処は立ってなかったけど、移すだけなら当時の私でもできそうだったからね。自分の中にあった方が研究も楽だし。先にリザの中からだけでも呪いを消し去って、安心させてあげたかったんだ」

 ただ、そのせいでリザは私の前からいなくなっちゃったが……。
 不安と苦痛の種だったとは言え、ずっと自分の中にあったものが突然なくなれば怖くもなる。
 そんなリザの気持ちを私がわかっていなかったせいで、私とリザは一度離れ離れになってしまった。

 だけど今は帰ってきてくれたので、もうなにも後悔はない。
 リザと一緒にいたいというあの時の願いは、すでに叶っている。

「当時のお師匠さま……ってことは」

 ここでフィリアは、弾かれたように顔を上げた。

「あ、あの……! もしかして今はもう、不老不死の呪いそのものを消し去るだけの魔法はできているのですか……!?」
「あー……いや、実はそれが全然進んでなくてね……自分の中に移してみて強く感じたけど、これは魔法だとか能力だとか、そういう類のものじゃないんだ。世界そのものの法則、概念と言うか……残念ながら、未だに消滅の目処は立ってないよ」
「……そう……ですよね。だからこそお師匠さまは、私に……」
「うん? なんでそこでフィリアの名前が……」

 私が疑問を呈するより早く、フィリアは決意を新たにしたように表情を引き締めて、再び私に頭を下げた。

「ごめんなさい、お師匠さま。私は今までお師匠さまの優しさに甘えてきました」
「……え? なんのこと?」
「お師匠さまが私に本当に願っていたことに気づこうともしないで、届かなくてもいいなんて妥協して、諦めなければそれでいいなんて言い訳をして……でも、これからは違いますから。もう二度とあんな情けないことは言いません」
「えぇ? あの……ごめんフィリア。ちょっとなんのこと言ってるかわかんない……」

 私がフィリアに願っていたことってなんだ……?
 ま、まさか……実は弟子が云々とか言い訳で、本当はただ可愛い女の子とにゃんにゃんしたい一心でフィリアを買ったことを言ってる……?
 か、叶えてくれるなら是非もないけど……あ、あの……こ、こんなに急だと、その、心の準備が……。

「とぼけなくてもいいんです」
「ひゃいっ!?」

 突然フィリアが私の手を両手で包み込むようにして握ってきて、(よこしま)なことを考えていた私は緊張で肩を跳ねさせた。
 こ、ここで!? いきなり!? と戦慄したように体を固くする私の前で、フィリアは私の手を大事そうにギュッと胸に抱きかかえる。

 む、胸に手が当たって……や、柔らか……幸せ……。

「誤魔化さなくていいんです、お師匠さま……もう全部、わかってますから。お師匠さまが私のことを思って、ずっと言わなかったことも……お師匠さまが私に対して、本当に望んでいたことも……」
「じゃ、じゃあやっぱり……」

 ゴクリと生唾を飲み込む私に、フィリアはコクリと頷いて、その答えを告げた。

「――はい。いつかのリザさんと同じように、自分の中の呪いを消してくれることを願って私を弟子にしたことも……私はもう、全部わかってるんです」
「や、やっぱりそう…………ん?」

 そう、私は呪いを消すためにフィリアを……?
 ん……んん? んんんんん?????

「私に重荷を背負わせたくなくて……でも本当はずっと苦しかったんですよね……ずっとずっと、怖かったんですよね。もしこのままいつまでも、この呪いを消し去る方法が見つからなかったら、って……でも、もう大丈夫です。私が必ず、そんな呪いの苦しみからお師匠さまを救ってみせますから」
「苦し……え? 呪……えっ!?」

 ど、どういう……なんで急に……あ、もしかしてそういう感じの空気だった!? 今!
 これからにゃんにゃんする甘酸っぱい感じじゃなくて、もっとこう、シリアスな感じの!?

 あ……ま、まさか、フィリアがさっきから落ち込んでたのもこれが理由だったり……?
 私が不死の呪いに苦しんでると思って、ずっと心を痛めてくれてたってことか……!?

 それはちょっと……まずいのでは……?

「並ぶだけじゃ終わりません。いつか絶対にお師匠さまを越える魔術師になって……私がお師匠さまを、不死の呪いから解放してみせます」

 もう立ち止まらない。大切なお師匠さまを必ず自分が救ってみせる。そんな決意をあらわにするように、フィリアは力強く宣言する。

 た、確かに、自分で意識したことはなかったが、客観的に見たら私は自己犠牲的な精神の持ち主になるのか……。
 いやでも、私がこうして呪いに対して楽観的でいられるだけの理由はきちんとあるのだ。

「ま、待ってフィリア! その、フィリアはたぶん一つ勘違いをしてる!」
「勘違い、ですか?」
「そう! 私は別にこの呪いが苦痛だなんて思ってない! だってこの呪いには抜け道があるんだ!」
「抜け道……ですか?」

 このままだと取り返しがつかないことになる。
 そんな予感がした私は、フィリアがまだ気がついていないだろう、私が楽観的になれるだけの理由を早急に伝えることにした。

「そのさ。リザから呪いを受け継いだことについて話した時、言ったでしょ? 消し去る目処は立ってないけど、移すだけならできたって。それはつまりさ、他人から私に移すだけじゃなくて、私から他の人に移すこともできるってことなんだ」
「あ……」
「さすがに虫とかに移すのは無理だけど……私はその気になれば、いつだってこの呪いを手放せるんだよ。だから私はこの呪いが苦痛だなんて思ったことはない。本当に苦しいんだったら……誰かに押しつけて、私だけは助かることができるんだから」

 我ながら最低なことを言っているのはわかっていたが、フィリアの勘違いを正すにはこう言うしかない。
 これ以上フィリアに私のことで気に病ませるわけにはいかないし、私でさえ未だどうにもできていない無理難題をフィリアに背負わせられるはずもない。

「……嘘です」

 誰かに押しつけるだなんて、言い方が言い方だ。それも、私以外には一切の対処が不可能なような凶悪な代物を。
 私としてはフィリアに手酷く非難されることも覚悟で口にしたつもりだったが、フィリアはそんな私をどうしてか、とても優しげな瞳で見下ろしてきた。

「う、嘘なんかじゃ」
「いいえ、嘘です。だってお師匠さまには、そんなこと絶対にできませんから」
「できないって……私の魔法の腕はフィリアも知ってるでしょ? 私ならそれくらい」
「違います。腕がどうこうの話じゃないんです。だってお師匠さま、想像してみてください。今はお師匠さまの中にある不老不死の呪い……たとえばそれを、私の中に移すことを」

 不老不死の呪いを、フィリアに移す?
 ……いや、ダメだ。そんなことできるはずがない。

 私だったら、いつだって、誰にでも、この呪いを押しつけられる。逃げ道があるおかげで苦痛を感じずに呪いと付き合っていける。
 でもフィリアは違う。フィリアにこの呪いを移すということは、リザと同じ苦しみを彼女に与えることと同義だ。
 リザがどれだけ苦しみながら生きてきたかなんて、彼女の弟子である私が一番よく知っていることだ。
 それをフィリアに押しつけるなんて……。

「そんなことできない。きっとお師匠さまは自分の中にある呪いを誰かに移そうとした時……それと同じことを何度だって思ってしまうはずです」
「っ……フィ、フィリア……」

 なにも返事をしていないはずなのに、フィリアはまるで私の心が読めているみたいに優しく語りかけてくる。

「私なら大丈夫だから。私ならいつでもこの苦しみから逃れられるから。私なら、私なら……そんな風に全部抱え込んで……そしてきっといつかお師匠さまも、一人ぼっちになる……お師匠さまは優しいですから」
「それは……買いかぶり過ぎだよ。私はそんな心優しいやつじゃない」

 フィリアのことだって元々は体目的で買ったんだ。シィナのことも最初の頃は誤解して、遠ざけようとしてた。
 アモルを助けることにしたのも、しょせんは同情心からだ。
 いつかのリザの時だってそう。リザは誰よりも死を渇望していたのに、私は自分が彼女と一緒にいたいだけの思いで身勝手に生を望んだ。

 だけどそんな風に思う私を、フィリアは優しく抱きしめてきた。
 人肌の温もりと柔らかさが私の全身を包み込む。

「好きです、お師匠さま」
「……へっ!?」
「お師匠さまの優しげな微笑みが好きです。お師匠さまの凛々しい声が好きです。お師匠さまの透き通るような髪が好きです。お師匠さまの小さくて可憐なところが好きです。お師匠さまの安心する匂いが好きです。お師匠さまとこうして過ごす時間が好きです……」
「あ、あぅ……その……そ、そんな急にいっぱい、言われても……」
「そんな風にすぐに恥ずかしがって縮こまっちゃう可愛らしいところも、大好きです」
「ひぅ……」

 な、なんなの、この突然の好き好き褒め殺しタイムは……。
 も、もちろん嬉しい。嬉しいし、フィリアの胸がマシュマロメロン様で天国でもあるけど……ま、まだ本題が終わってない……。

 不安で顔を上げる私に、フィリアは安心させるように優しげに微笑んでくる。

「大丈夫ですから。安心してください、お師匠さま。私は絶対にお師匠さまを越えられます。そのためにリームザードさんにお願いもしたんですよ」
「リ、リザに? いったいなにを……?」
「個別で魔法の修行をつけてもらえるように、です。ごめんなさいお師匠さま……私はお師匠さまの弟子なのに、勝手なことをして……でもお師匠さまを越えるためには、必要なことだと思いましたから」
「確かにリザは私より教えるのは上手い、けど……あのね、フィリア。そこまで頑張らなくたって私は」
「ダメです。私、もう決めましたから。お師匠さまが選んでくれた弟子として、お師匠さまが最初に望んだことを私が果たすって。そのためなら私は、どこまでだって頑張り続けられます」
「……最初に、望んだこと……」

 こうしてフィリアの温もりに包まれていると実感できる。
 フィリアは本当に、心から私のことを思ってくれている。
 欲しかったものをくれた大好きな人の力になりたい。その人に幸せになってほしい。
 ただその一心で自分にできることを必死に考えて、自分の人生さえ賭けようとしてくれている。

 それがわかってしまうからこそ、私の内に罪悪感がふつふつと湧き上がってくる。
 だって私がフィリアに最初に望んだことは、そんなことじゃない。
 ずっと言えなかった。や、以前にも同じようにフィリアに告白された際に、ボカしたような言い方で伝えたことはあったけど……ハッキリとその意図を口にできたわけじゃなかった。
 きちんと意味が伝わっていない可能性は考えないでもなかったが、無意識に目を背けていた。

 だけどもうダメだ。ただの勘違いで、これ以上フィリアに重荷を背負わせるわけにはいかない。
 だから……今度こそちゃんと言おう。本当のことを全部、フィリアに。

「……ごめん。違うんだよフィリア。私がフィリアに望んだことは、そんなんじゃないんだ」
「……お師匠さま?」
「本当はさ、魔法がなんだとかどうでもよかったんだ。弟子にだってするつもりはなくて……」

 ギュッ、と瞼を瞑る。

「あの日。初めてフィリアと出会った、あの日。私がフィリアを買おうと思った理由は……わ、私が最初に望んでたことは……」

 意を決した私は……絞り出すように、それを告げた。

「ただ、フィリアみたいな子に……む、むりやり……えっちなことが、したかったんだ……!」
 言ってしまった……。

 奴隷を買うと決めた私の思い。フィリアと初めて出会った時に感じた正直な気持ちを打ち明けてしまった私だったが、私の胸の中は不思議な解放感に満ちていた。
 その理由には心当たりがある。
 尊敬できるお師匠さま。優しくて温かい人。邪な気持ちなんて欠片も持っていない、清廉潔白な心の持ち主。
 フィリアが私に向けてくれる眼には、過大評価がすぎる私がいつだって反射して映っていて、私もその期待に応えなければと、心のどこかで必死に背伸びをしていた気がする。
 その背伸びを、取り繕うために被っていた仮面を、私は今、自ら投げ捨てたのだ。

 無論、恐怖はある。このことがキッカケで、フィリアに嫌われてしまうんじゃないかって。
 いや……私が嫌われるだけなら、全然いいか。
 私はフィリアにそうされてもしかたがないくらいの酷い嘘をつき続けてきちゃったんだから、フィリアからの罵倒や侮蔑は甘んじて受け入れるべきだ。

 私が本当に恐怖しているのは、フィリアが絶望して塞ぎ込んでしまうことだった。
 ずっと振り向いてほしかった母親に奴隷として売られ、生きる理由を見失っていた彼女は、私との出会いを経て生きるための活力を取り戻した。
 自惚れとは思わない。フィリアにとって私は、自分を救ってくれた恩人で……だからこそ私は、そんなフィリアの期待を裏切るまいと背伸びをしてきたんだから。
 その私が、本当は邪で卑猥なことばかり考えているばかりか、自分をずっと騙してきたクズ野郎だと知って、フィリアがどう感じるか。

 また初めて会った頃の彼女みたいに、光のない眼に戻ってしまうかもしれない。
 見ているこっちも楽しい気持ちになるような、あの天真爛漫な笑顔が、もう見られなくなってしまうかもしれない。
 ただそれだけが、私は本当に怖かった。

「……」
「……」

 フィリアからの返事は、ない。
 解放感と恐怖とがない交ぜになって自分の気持ちの整理をつけられずに目を瞑ったままでいた私だったが、二〇秒も経てば、さすがに疑問が強くなってくる。
 フィリアは今、いったいどんな顔をしているんだろう? と。

 疑念と不安、そして好奇心に負けた私は、恐る恐る瞼を開ける。
 するとそこには私が想像していた唾棄すべきものを見下ろすフィリアの姿はなく、彼女はまるで呆気に取られたようにポカンとした少し間抜けな表情を晒していた。

 普段の私なら絶対に言わないだろうことを突然言われたせいで、受け入れられていないんだろう。もしかしたら聞き間違いだとでも思われているのかもしれない。
 そう思った私は、私の本気を伝えるようにフィリアの手を自分の両手で握り込むと、真っ赤に染まり切った顔でもう一度絞り出すように告げた。

「ほ、本当なんだ……! わ、私はその、ふぃ、フィリアのこと……い、いつもえっちな目で見てて……ふぃ、フィリアとそういうことしたいって、お、思っちゃってて……!」
「……」
「わ、私っ、体は女の子だけど……お、女の子が好きなんだっ! だ、だからフィリアのことも、ずっとそういう目で、見てて……だから、えっと……わ、わたしは、フィリアのことを……」

 う、うぅ。
 だ、ダメだ……緊張と羞恥で思考がぐるぐるして、言いたいことが全然まとまらない……。

 ただそれでも、私の頑張りは無駄というわけではなかったらしい。
 懸命に訴える私の姿を見て正気を取り戻したらしいフィリアは、思わずと言った具合にポツリと零す。

「か、可愛いです……お師匠さま」
「……へ?」

 か、可愛い? え……こ、この状況でその感想が出るの?
 言うべきこと間違えてない……?
 もっとこう、最低です! とか、見損ないました! とか……い、いろいろあると思うけど……?

 困惑する私だったが、そんな私を尻目に、フィリアはまるで堪え切れないという風に笑みをこぼす。

「すごいです……こ、こんなお師匠さま、今まで見たことありません。い、いつも大人びてて、一線を引いてるお師匠さまが……じ、自分の中の全部を曝け出して、こんなにいじらしく私に……えへ、えへへ、えへへへへ……」
「……あ、あの……」

 突如として一人で不気味に笑い始めたフィリアの反応に、私はちょっと引き気味だった。
 た、確かにフィリアの天真爛漫な笑顔が見られなくなるかもしれないのが怖いとは言ったけど……これはなんか違う気がするぞ……?
 なんていうか、ちょっと身の危険を感じるような……。

 い、いや! 怖気づいてる場合か!
 きっとフィリアは私が言っていることが冗談かなにかだと思ってるんだ。
 だってそうじゃなきゃ、こんな反応するはずがない!

「フ、フィリア! わ、私は本気で……!」
「えへへ……大丈夫です、お師匠さま。全部わかってますから」
「わ、わかってるって……」

 フィリアが私のことをわかってると言う時は大体あんまりわかってくれてない時だ。
 今回もきっとそうだ。絶対になにか勘違いしてる。
 でも今回ばかりは見て見ぬふりをするわけにはいかないんだ。
 私のことを心から思ってくれたフィリアに報いるために、私も本当のことをちゃんと伝えなきゃいけない。

「冗談なんかじゃないんだ! 私がフィリアを買ったのは、弟子にするためなんかじゃなくて……ましてや、私の呪いを取り除いてもらうためなんかじゃ……!」

 理解してもらおうと必死になる私を、フィリアは愛おしそうに見つめる。

「ではお師匠さま。あの日……初めて私がお師匠さまとお会いしたあの日、私のことを家族だと呼んでくれたことも、嘘でしたか?」
「そ、そんなことない! 初めて会った時から、フィリアは私の家族だ!」
「手を繋いでくれたことも。頭を撫でてくれたことも。私に向けてくれた、たくさんの優しさも……いつまでも一緒だって約束してくれたことも。全部が全部、嘘だったんですか?」
「それは……」

 ようやくフィリアの言いたいことが理解できた私だったが、フィリアに後ろめたい気持ちを抱いている私は、それを容易に認めることはできなかった。
 そんな私の後押しをするように、フィリアは優しげに微笑んだ。

「もしもお師匠さまが言うように、始まりが嘘だったとしても……お師匠さまが私にくれた温もりは、絶対に嘘なんかじゃありません。私にはわかるんです。だって私はお師匠さまの一番弟子ですから」
「フィリア……」
「それにお師匠さま。知ってますか? 人が嘘をつく理由」
「嘘をつく理由……?」

 意味がわからず首を傾げる私に、フィリアは告げる。

「思いを叶えるためです」
「思いを……」
「楽しみたい。喜びたい。あれが欲しい。これが欲しい……大切な人に笑顔にいてほしい。大切な人に、幸せになってほしい」
「……」
「嘘をついて、抱え込んで、傷ついて……嘘をつくから、人はすれ違ってしまいます。もしかしたら勘違いして、変な方向に話が進んじゃうことだってあるかもしれません。でも嘘があるから誰かを思うことができるんだって、私はそうも思うんです」
「……それは真理かもしれないけど、綺麗事だね。誰かを傷つける嘘が、この世にはありふれてる」
「でも、私は嬉しかったです。だって私がまた笑うことができたのは、お師匠さまが私にもう一度頑張る理由をくれたおかげなんです。お師匠さまの嘘から始まった優しさが、私を暗い闇の底から引き上げてくれた」
「私が傷つきたくなかっただけだよ。せっかく笑顔になってくれたフィリアが、また暗い顔を戻るのを私が見たくなかったんだ」
「ふふ。きっとそれが、誰かを思うってことなんだと思います」

 懺悔する罪人と修道女のようだった。
 私はただ、フィリアに本当のことを言わなきゃと思っただけで、こんな風に気を遣わせるつもりはなかったんだけどな……。
 でも不思議と、悪い気分ではなかった。

「はあ……参ったね。私、フィリアに嫌われる覚悟で告白したのに……」
「むっ。私がお師匠さまを嫌うなんて天と地がひっくり返ってもありえません! いくらお師匠さまでも、私のお師匠さまへの気持ちを軽んじるなら怒っちゃいますよ!」
「え、あ……ご、ごめんね、フィリア」
「ふふん。わかってくれたならいいんです」

 どうしてかフィリアは今までになく上機嫌に見えた。
 私が初めて自分の心の奥底まで曝け出したのが、そんなに嬉しかったのだろうか。
 何度も言うように、私としては嫌われたってしかたがないと思っていたのに。
 背伸びをやめ、等身大の私を見せたところで、フィリアにとって私は尊敬できるお師匠さまのままだったらしい。
 なんだか肩の荷が下りた気分だった。

「……もし最初のお師匠さまに私を弟子にするつもりがなかったとしても、もう私はお師匠さまの弟子なんです。だから弟子として、お師匠さまができなかったことを叶えたい。この思いは変わりません」
「……わかったよ、フィリア。でもそんな重荷、いつだって投げ出してくれていいんだからね? 私は平気なんだから」
「もう、お師匠さま! お師匠さまが甘いのは知ってますが、甘やかしていい時とダメな時があるんです! ここは師匠らしく全部わかったような感じで『信じてる』って言ってくれた方が、弟子的には嬉しいんですよ!」
「お、おぅ……わ、わかった。その……信じてるからね、フィリア」
「えへへ……はい!」

 呪いがいつでも別の誰かに譲渡できること。それに加え、私の本音を伝えても気が変わらないのであれば、なにを言ったところでフィリアを止めるのは不可能だろう。
 フィリアって一見従順なように見えて、こうと一度決めたら絶対に曲げないからね……強情というか頑固というか。
 もちろんそれはフィリアの悪いところじゃなくて、良いところなんだけどね。

「……と、ところで、お師匠さま」
「ん? どうかしたのかい?」

 ありのままの私で接しても、フィリアが私を嫌うことはないとわかったからだろうか。
 どこか胸が軽くなったような心境の私は、軽い調子で問い返す。

 一方でフィリアの方はと言えば、なぜか少し期待に満ちたような目をしていた。

「さ、さっきの……私とその、えっちなことがしたいって……ほ、本当、なんですよね?」
「……え。う、うん……その、慕ってた相手にそんなこと思われてただなんて、気持ち悪いって感じちゃうかもだけど……」
「そんなこと思うはずありませんっ!!!」

 !?

 大声とともに一瞬にして距離を詰めてきたフィリアに、私は驚愕の声すら上げることもできずに固まった。
 鼻と鼻が触れ合うほどの至近距離で見るフィリアの目は、どうしてか明らかに血走っている。

「はぁ……はぁ……お、お師匠さまが私のことを……えへ、えへへ……えへへへへへへ」

 し、しかもなんか、どことなく息が荒いような……?

 お、おかしい。なぜか悪寒を感じる。私の本能が今すぐ逃げろと叫んでいる。
 でもなんで? 目の前にいるのは、少し私に褒められただけで無邪気に跳び回っちゃうような、あの純真無垢なフィリアだぞ?
 逃げる必要性なんてどこにも……。

「フィ……フィリア……?」
「お、お師匠さまがその気なら……ふへ。わ、私も……我慢しなくて、いいんですよね……? こ、このままお師匠さまを、食べちゃっても……」
「た、食べ……え? いやあの……フィ、フィリアっ……?」

 咄嗟に後ずさろうとしたが、いつの間にか肩をがっしりと掴まれていた。
 フィリアに腕力で遥かに劣る私が振り払うことができようはずもなく、どんどんフィリアの顔が近づいてくる。
 フィリアが私になにをするつもりなのかは想像がついたが、なぜ急にこんな行動に出たのか、突然のことすぎて理解が追いつかなかった。

「……それとも……私じゃダメ、ですか?」
「っ……そんな、こと……」

 どこか不安そうに瞳を震わせるフィリアを見て、私はささやかな抵抗すら放棄してしまう。
 だって、そうなのだ。私だって、フィリアとこういうことをする妄想をしたことがないと言えば嘘になる。
 初めて会った時から今に至るまで、ずっと私はフィリアとこういうことがしたいって思ってて……その隠していた自分の気持ちを、私はさっきフィリアに打ち明けた。
 そしてそんな私へのフィリアからの返答が、きっとこれなんだ。

「――――」

 唇が重なる。
 半ば強引に迫ってきた一方で、意外にもそのキスは物柔らかなものだった。
 まるで壊れ物にそっと触れるような、優しく甘い接吻。

 フィリアにはいささか申しわけないが、私は誰かとこうして口づけを交わすことは初めてじゃない。
 一度目はアモルと。二度目はシィナと。
 でもフィリアとのそれは、二人と交わしたどちらとも違った。
 快楽と快感でなにもかも蕩けさせて虜にする淫靡なアモルとも、貪るように精一杯思いの丈を注いでくる情熱的なシィナとも、違う。
 フィリアとのそれは、触れ合う唇と舌を通して互いに混ざって溶けてしまうような、交わす相手と一つになる甘美の味わいだった。

「ぷはっ……フィリア……」
「えへへ……キス、しちゃいました。お師匠さまと……」

 フィリアの頬は、その興奮を表すかのように紅潮している。

「私、ずっとこうしたかった……」

 感慨深そうに、フィリアは自分の唇に指を当てる。

 フィリアも私と同じ気持ちだった――。
 そのことに驚いて私が目を見開く間に、再びフィリアが唇を押しつけてきた。
 しかも今度はそれだけじゃ終わらない。接吻を交わしたまま、近くにあったベッドにさりげなく移動すると、私をその縁に座らせたのだ。
 そして唇を離すととも、私の両手の手首を掴んで、彼女は私を優しくベッドに押し倒す。

「あ……フィ、フィリア……こ、このまま……しちゃう、の……?」
「ダメ、ですか?」
「えと、あの……お、お風呂、まだ入ってないし……汗くさい、かも……」
「ふふ、大丈夫です。お師匠さまはいつだって良い匂いですから」
「そ、それはそれで恥ずかしいんだけど……!?」

 私が明確な拒絶を示さない限り、フィリアが引くことはなさそうだった。
 さっきからずっと私の手首もベッドの上に押さえられたままだし、いつになく強引だ。
 我慢できない。どうしても今、お師匠さまとここでしたい。
 そんな思いが透けて見えるようだった。

 私は今までフィリアのことを無邪気で純粋無垢な子だと思っていたけれど……案外最初から、フィリアも結構えっちな子だったのかもしれない。
 ただ私と同じように、ずっと背伸びをしていただけで。

「お師匠さまが本当に嫌なら、無理強いはしません。でも、もしそうじゃないなら……」
「……う、うぅ……」

 嫌だなんて言えるはずない。
 ただ、その……こ、この体勢は……どう見ても私が襲われる側ですよね……?

 このままフィリアとそういうことをする流れになったら、私はきっと攻めじゃなくて、受けに回される。
 それが嫌だったから、今まで私は頑張ってきたのに。主導権を握れるように手を尽くしてきたのに。
 ……そのはずだったのに。

 あなたが好き。あなたに触れたい。あなたと交わりたい。
 あなたが欲しくてしかたがない。

 そんな風に、必死になって私を求めるフィリアを見ていると……なんだかとても愛おしくて。
 それでもいいかな、なんて。
 そんな風に、思えてしまったのだ。

 あっ、い、今だけは! 今だけは、だけどね!
 せ、攻めに回ることを諦めたわけじゃないぞ!

「ふふ……ほら、答えてください。お師匠さま。私、お師匠さまの口から、直接答えが聞きたいです」

 ……うぅ。フィリアは意地悪だ。
 フィリアなら私の反応で、答えなんてとっくにわかりきっているだろうに。

 でも、言わなきゃ……フィリアが聞きたいって言うなら……。
 フィリアが……私を、求めてくれるなら。

「…………いい、よ。フィリアなら……私のこと、好きにしても……」

 絞り出すように、か細く、小さな声。
 けれどその一言は確かにフィリアの耳には届いたらしくて、彼女はたがが外れたかのように、私に覆いかぶさってきた。

「お師匠さま……」
「……来て、フィリア――」

 ――その夜は、とても甘美で、忘れられない長い夜になった。
 チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 昨日まで降っていた大雨が嘘のような快晴だった。
 平和な一日の訪れを予感させる穏やかな朝の空気の中、窓から差し込む柔らかな朝日が寝起きでまだ重たい私の瞼の奥を刺激して、脳に刺激を与えてくる。

 段々と頭が覚醒してきた私は、ゆっくりと上半身を起こすと、その視線を自分の隣に向けた。
 幸か不幸か、そこには誰もいない。
 どうやらベッドの中にいるのは私だけのようだ。
 ついでに部屋の中を見渡して、今この部屋にいるのが私一人ということが確認できたら、私はおぼろげな記憶を掘り返すようにボーッと天井を見上げた。
 そして、昨夜の情景が脳裏に浮かんだ次の瞬間――私はガバッと勢いよく毛布をかぶって、盛大に悶えた。

「――うぁぁあぁぁー……! うぅ……バカッ! バカバカバカバカバカバカッ! 私のバカ! あぅぅ……私は、私はなんで、あんなことを……!」

 バタバタと足を動かす。
 顔が熱い。鏡なんか見なくても、耳まで真っ赤になってしまっているのがわかった。

 目を閉じれば……いや別に目を閉じなくたって、鮮明に思い出すことができる。
 昨夜の出来事は、私にとってそれほどまでに大きかった。

 ずっと隠していた本音をフィリアに告げて、フィリアにそれを受け入れてもらえて……フィリアとキスをして。
 ずっと攻めの立場にこだわっていたはずなのに、私が欲しいと懸命に訴えるフィリアの熱っぽい顔を見ていたら、受けでもいいかな、なんて思ってしまって。
 それから……それから私は、フィリアにたくさん……。

「……でも……可愛かったな、フィリア……」

 幼い頃から母親に愛してもらえなかった彼女は、きっと常に愛情に飢えているんだろう。
 それは普段の言動からもなんとなく窺えたし、情事でもそれは変わらなかった。
 たどたどしくも、もっと、もっとと。際限なく私を求めてくる。
 そんなフィリアとの行為は、彼女が今まで溜め込んできた感情をすべて吐き出すかのように激しくて……。
 ……うん。まあその、激しすぎて途中から自分がなにをしているのかもよくわかってなかったけど……とにかく、どうしようもないくらい気持ちよかったことだけは覚えている。
 体は私より大きいのに、まるで子どもみたいに甘えたがりで……赤ちゃんみたいに夢中になって、私のあちこちに吸いついてきた。

 ぽうっ、と熱を持った思考のまま、私はペタリと、自分の胸に両手で触れる。
 少し力を込めてみれば、ふにょんと柔らかい感触とともに、わずかな膨らみに指先が沈み込む。

 ……うーん……。
 やっぱりまだまだ小さいというか、発展途上というか……。
 当然ながらフィリアとは比べるべくもない。シィナと比較しても、私の方が小さいだろう。
 さすがにアモルやリザには勝てるけど、私より一回り以上も背丈が低い二人に勝ち誇ったところで虚しいだけだ。リザに至ってはフィギュアサイズだし。

 ……こんな小さい胸で、フィリア、ちゃんと満足してくれたのかな……。

「~~っ!! 違う違う違う! そうじゃないぞ私! どうして受けに甘んじたことをよしとしてるんだっ!」

 ブンブンと頭を振って、昨夜の甘い余韻に支配されている思考を追い払う。

 昨夜の私は、その……なにかがおかしかった!
 本当の私をフィリアに受け入れてもらえたのが嬉しかったせいか、フィリアのことをすごく愛おしく感じてしまって、ついつい場の空気に流されてしまったんだ!
 もちろん、あの時の気持ちが全部気の迷い……ってわけではないけど……。
 フィリアが私を求めてくれたあの時、逆に私がフィリアを押し倒すことだって、やろうと思えばできたし!
 ただどうしてかその、体の奥の方が疼いて胸がキュンキュンして、思うように体が動かなかっただけで……!

 そう、あれは絶対にいつもの私じゃなかった! なにかがおかしかった!
 だってそうじゃなきゃ、あんな……あんな……うぅぅ……。

 ……あんな初心な女の子みたいな反応……私がするわけないもん……。

「つ、次……! 次こそは、私が主導権を握る! 絶対……!」

 決意を新たに、私はベッドから飛び出した。

 ……まあ次とは言ったものの、次がいつまたあるかわからないけど。
 フィリアと二人だけだった頃はともかくとして、今はシィナにアモル、リザもいる。
 三人にばれないようにフィリアとまた……その、えっちなことをするのは、正直だいぶ厳しい。
 わざわざそういうことしますって宣言するわけにもいかないし。
 そんなことしたらただの変態だ。

 乱れた寝間着から普通の服装に着替えたら、私は部屋を出る。

「フィリアは……台所かな」

 同じベッドで寝たはずなのに、起きた時に横にフィリアがいなかったことを鑑みるに、たぶん朝食を作ってくれているんだろう。
 昨夜はその、だいぶ激しかったし……疲れのせいか、私はいつもより起きるのが遅くなってしまったから。

 台所が近づくにつれ、私の予想通り、朝食を作る音が聞こえてきた。

「……さて」

 台所の方に行く前に、一旦身だしなみを整えて、おかしなところがないか確認する。
 ……よ、よし……いくぞ!

「こほん! ……お、おはよう。フィリア」
「あ、お師匠さま……はい、えっと……え、えへへ。おはようございます……」

 角からひょっこりと顔を出して挨拶をすると、ちょうど料理中だったフィリアがこちらに振り向いた。
 恥ずかしげに頬を染めて、たどたどしい口調で返事をする彼女を見て、思わず胸がドキッとする。
 ついつい昨夜の情景が脳裏に浮かんでしまい、私は慌てて首を振って振り払った。

「……」
「……」

 ……うぅ……。
 なんだろう……フィリアって、こんなに可愛かったっけ……?
 いや、もちろん普段からフィリアは可愛いけど!
 なんだか以前より一段と可愛く見えるっていうか……。

「……しちゃい、ましたね……私たち……」

 頬を染め、どこか艶っぽい声でフィリアが照れくさそうに呟く。
 それを見ただけで私の心臓が大きく高鳴ったが、私は平静を取り繕うように咳払いをして、彼女の言葉に同意するように小さく首肯した。

「そう、だね。しちゃった……ね」

 二人して頬を紅潮させ、モジモジと恥じらうように下を向く。
 私もフィリアも、興奮していた昨夜はいろいろと積極的だったけど……こうして落ちついてから向き合うと、なにを話すにも気恥ずかしさが勝ってしまう。
 なにせ私とフィリアは、一日二日と言った短い間柄じゃない。
 何か月も一緒に暮らしてきた家族にも等しい相手だ。
 そんな近しい相手と、つい昨晩、私たちは体を重ねた。

 意識すればするほど顔が熱くなる思いだったが、いつまでもこんな気まずい空気のままなのはよろしくない。
 多少無理にでも話題を変えるべく、私は努めて明るい声音で口を開いた。

「フィ、フィリア!」
「は、はいっ!」
「あっ、いや、えぇと……ちょ、朝食の具合はどんな感じ? 手伝った方がいいかな……?」

 やっぱりなんだかんだで気恥ずかしさは抜けない。
 それでもなんとかいつも通りに振舞おうとする私の努力を汲むように、フィリアもぎこちなく言葉を返す。

「は、はい……えっと、そうですね。朝食の方はもうすぐ作り終わるので、お師匠さまの手を借りなくとも大丈夫だと思います」
「そっか……その、ごめんね。起きるのが遅くなって」
「い、いえっ! 元はと言えば私のせいなので、お師匠さまは気になさらないでください! お師匠さまは息も絶え絶えだったのに、私ったらあんなにはしゃいじゃって……あっ」
「……」

 話題を変えようとしていたはずが昨夜のことに戻ってきてしまい、フィリアは「しまった!」と言いたげに声を上げる。
 耳まで真っ赤に染め上げて俯く私と、オロオロと狼狽えるフィリアの間で、再び気まずい沈黙が流れる。

 ……い、いたたまれない……。

「そ……そうです! 朝食のことは私に任せていただいて大丈夫なので、お師匠さまはシィナちゃんたちを起こしてきてもらってもいいですかっ?」

 自分のミスは自分で挽回する! そう言わんばかりにフィリアが勢いよく提案する。

「シィナちゃんたち、昨晩はなにも食べていないはずなので……きっと皆、お腹が空いてると思うんです」
「そっか……シィナとアモルも、フィリアが昨日話してくれたことは知ってるんだよね?」

 フィリアが昨日話してくれたこと。
 すなわち、リザがこの世に誕生した時から患っていた不老不死の呪いのことと、それにまつわる苦痛の軌跡。
 そしてリザをそんな不死の苦しみから解放するために、私がその呪いをリザから私の中へと移したことだ。

 私の確認に、フィリアは神妙に頷きを返す。

「はい、知っています。私はただ魔法を極める覚悟を固めればいいだけでしたけど……道が示されていた私と違って、お二人は悩むことがたくさんあったはずですから。どうかお師匠さまに、直接声をかけていただいてほしいんです」

 うーん……私のことなんか、そんな気にしないでくれていいんだけど……。

 シィナもアモルも……もちろんフィリアや、リザだって。今までたくさん辛い思いをしてきたんだから。
 私のことなんか気にしないで、ただこの家で楽しく過ごせてもらえたらそれだけでいいのに。

 だけどそうやって話も聞かず突っぱねてしまうのは、私を思ってくれる彼女たちの気持ちを袖にすることと同じことだ。
 本当に皆のことを思うなら、昨晩フィリアと話し合ったように、シィナたちともまっすぐ向き合わなきゃ……か。

「わかったよ、フィリア。私、ちょっと行ってくる」
「ふふっ。はい、行ってあげてください! たくさんおいしいご飯を作って待ってますから!」

 大げさなくらい手を振るフィリアに送り出されて、私は台所を出る。
 廊下を歩いてまず向かった先は、シィナの部屋だ。

 扉の前に立ったら、深呼吸を一つ。
 それからノックしようと手を上げて――。

「あ」
「あ……(あ……ハロちゃ……)」

 コンコンと叩く寸前でガチャリと扉が開かれて、ちょうど出てこようとしたシィナとばったり出くわした。
 私と目が合うなり、シィナの猫耳が嬉しそうにピョコンと跳ねる。
 だけどその後すぐになにかを思い出したかのように、しなしなぁ……と萎んでしまった。
 朝一番に私と会えたことを反射的に喜びかけたが、昨日のリザの話を思い出して落ち込んでしまった……って感じだ。

「おはよう、シィナ」
「……う、ん……おは、よう……(う、うん。おはよう、ハロちゃん)」

 普段ならここで間髪入れずに肌が触れ合うくらいまで寄ってきて、スリスリと猫のように頬や顎を擦りつけて甘えてくるところなのだが……今日は残念ながらお預けみたいだ。

 開かれた部屋の扉を隔てて、立ち尽くしたまま互いの視線が交錯する。
 よく見るとシィナの目の下は若干だが隈ができていて、猫耳や尻尾の毛も少しだけ逆立っていた。
 きっと私のことで、一晩中悩んでくれていたんだろう。
 不安にさせてしまったことを申しわけなく感じると同時に、それだけ私が彼女に思われているのだと思うと、不誠実かもしれないが少々頬が緩んでしまった。

「……(あ……ハロちゃん、今ちょっとだけ笑った……可愛い……)」

 話をするために来たのは良いものの、いざこうして向き合うとなにから切り出せばいいかわからず、どうにも言葉が出てこなかった。
 シィナも同じ気持ちなのか、お互いに無言のまま、すでに十秒以上の時が経過している。

「……(……はっ!? い、いけないいけないっ。いつまでハロちゃんに見惚れてるの、わたし! なんでかわからないけど、いつもよりハロちゃんが色っぽく見えてドキドキしちゃうからって……そんなことより、今は先に話さなきゃいけないことがあるでしょ!)」

 沈黙を不思議と気まずいとは感じないのは、昔と違って、今の私にはシィナの優しさが理解できているからなのか。

 とは言え、いつまでもこうして見つめ合っているだけでは話が進まない。
 意を決して話を切り出そうとしたのだが、それより一瞬早くシィナが口を開いた。

「ハ、ハロちゃ……!(ハ、ハロちゃん……わ、わたし、ハロちゃんと話したいことがあるの!)」
「シィナ……うん。私に伝えたいことがあるなら、ちゃんと聞くよ」

 扉の沓摺を超えて私の方に一歩踏み出してきたシィナに、私は逃げずに向き合う。
 シィナは初めこそモジモジと下を向いていたが、勇気を振り絞るように顔を上げると、私の目をまっすぐに見つめてきた。

「ハロ、ちゃん……が、ふし、っていうの、は……ほんと……?(昨日、リームザードちゃんからハロちゃんが不死の呪いを受け継いだって聞いたけど……本当、なの?)」
「うん、本当だよ」

 私が肯定すると、シィナは少し元気がなさそうに猫耳を伏せた。

「……ふしに、ついて……ずっと、かんがえてた……の。でも、わたし……うまく、そうぞう……できな、かった(わたしね……ハロちゃんが不老不死だって聞かされて、それがどういうものなのかって、いっぱい考えようとしてみたんだけど……わたしあんまり頭が良くないから、うまく想像できなかったの……)」
「……そっか」

 不死がどういうものなのか想像がつかない――。
 正直、それは当人である私も同じ感想だ。
 いくら不老不死だって言っても、私はまだそこまで長く生きてるわけでもない。
 リザからその苦しみについて幾度も聞いていたから、それが相当に過酷なものであるという認識はあるけど……。
 自分がこれからリザと同じ道をたどるかもしれないという実感が、そこまで明確にあるわけじゃなかった。

「だから……わたしなり、に……かんがえて、みたの。もし、また……ひとり、ぼっちに……なったら、って……(だからね、わたしなりに考えてみたの。もしハロちゃんが先にどこかにいっちゃって、わたし一人だけが残されたら、わたしはどんな風に感じるのかな……って)」
「それは……」

 今の私は、シィナが人との繋がりをとても大切にしていることを知っている。
 いつも私の力になってくれて、私のことを好きだと言ってくれて。
 アモルとも仲良くなろうと努力して、アモルがソパーダに斬りかかられた時もシィナは身を挺して守ってくれた。
 この家に来たばかりの頃のリザにフィリアが危うく殺されそうになった時にも、必死にフィリアを守ると同時にとても怒っていたとフィリアに聞いた。
 そしてその怒った相手のリザとだって、仲直りしてからは友達のように接しようとしていることを知っている。

 そんなシィナが、自分が一人ぼっちになった時のことを想像することは、とても辛かっただろうと容易に想像がついた。

「ひとりは……くらくて……さびし、かった。つらくて……くるし、くて……(ハロちゃんがいなくなって、ほんのちょっとでも自分一人だけになった時のことを考えると、すごく暗くて寂しかったの……どうしようもないくらい辛くて、苦しくて……)」
「シィナ……」
「……でも……ハロちゃ、と……であわなければ、なんて……それだけ、は……ぜったい、おもわなかった(でも、でもね。わたし、何度繰り返し想像しても、ハロちゃんと出会わなければよかっただなんて、それだけは思わなかったよ)」

 ほんの少し目を見開いて硬直する私の手を、シィナがギュッと握る。
 温かく包み込むような、優しい手つきだ。

「ハロちゃ、と……すごした、ひび……ぜんぶ……わたしの、だいじな、たからもの……だから(私にとってハロちゃんと過ごした日々は、全部かけがえのない宝物で……思い出すだけで笑顔になれるような、幸せの記憶で溢れてたから)」
「宝物……か」
「ハロちゃん、と……であえた、こと……わたし……こうかい、なんて……ぜったい、しない(たとえこの先なにがあっても、わたしは絶対ハロちゃんと出会えたことを後悔なんてしないよ)」

 私の手を握る温もりを通して、シィナの気持ちが伝わってくるようだった。

「だから……わたし、ハロちゃ、にも……おなじよう、に……おもって、もらえるよう……がんばる(だからわたし、ハロちゃんにも同じように思ってもらえるよう頑張りたい)」

 伏せられていた彼女の猫耳はいつの間にか元気を取り戻して、ピコピコと跳ねている。
 彼女のやる気を表すかのような、そんな何気ない仕草がとても愛おしく感じて、私の頬に思わず笑みがこぼれる。

「私にとってももう宝物だよ。シィナとこうして出会えたこと、私もこの先なにがあっても後悔なんかしない」
「ううん……だめ。まだ、だめ……なの。ひとりの、さびしさ……ぜんぶ、けしちゃう、くらい……わたし、が……ハロちゃんの、こと……しあわせに、するの(ううん。ダメだよハロちゃん。まだダメ。いつかハロちゃんが私のことを思い出す時、いつだって笑顔になれるように……もっと、もーっと! 私がハロちゃんのこと、幸せにしてあげたいの)」
「ふふっ。そっか。私、今よりもっと幸せになれるんだ。なんだか想像もつかないや」

 でも、と私はシィナを見返す。

「それでシィナは幸せになれるのかい? 私の幸せを考えてくれるのは嬉しいけど、私はシィナにも同じくらい幸せになってほしいよ」
「……へいき、だよ。だって、わたしは……(えへへ……それなら全然大丈夫だよ。だってわたしは――)」

 胸の前に手を置いて、どこか嬉しそうにしながらシィナは言う。

「ハロちゃんの、ことが……せかいで、いちばん……だいすき、だから……(ハロちゃんのことが、世界で一番大好きだから)」
「――――」
「すきな、ひとが……うれし、そうだと……わたしも、おなじくらい……うれしくなる……の…………えへへ……(知ってる? ハロちゃん。好きな人が嬉しそうにしてるとね、自分も同じくらい嬉しくなれるんだよ? えへへ……)」

 綺麗だった。
 今まで一度だって見たことがない、花が咲くような満面の笑みに目が奪われる。

 私もシィナのことが好きだよ、とか。私も同じ気持ちだよ、とか。
 気の利いた返事でもできればよかったのに、どうしてか言葉が出てこない。
 見惚れるとはこういうことを言うのだろうか。
 ほんの一言でもなにか言ってしまえば、目の前にある美しい光景が崩れてしまう気がして、言葉を発しようという気にもなれなかった。
 この時間がずっと続いてほしい。
 無意識のうちにそう願ってしまうくらい、初めて見たシィナの心からの笑顔は綺麗で、可愛らしくて、どうしようもないくらい魅力的だったんだ。

 言いたいことを言い切ることができたからか、シィナは満足そうに頷くと、スッと私に体を寄せてきた。
 そしていつものように、スリスリと自分と私の頬をすり合わせる。
 まるで大好きな主人に甘える猫のように――まるで大好きな恋人に甘える、ただの女の子のように。
 照れくさそうに、幸せそうに、彼女は私に抱きついて離れようとしない。

 ……思えば私の初恋は、シィナだったんだっけ。
 シィナに声をかけることにした始まりが、今と同じように彼女に見惚れたことが理由で。
 話しているうちにどんどん好きになっていってしまって……それが私の初恋になった。
 その後すぐに恐怖を植え付けられてすっかり玉砕してしまったのだが、今はもう、あの時感じた印象のすべてが誤解であることを私は知っている。

 あの日、シィナに感じた気持ちが私の中に蘇ってくる。
 友達でもいいからそばにいたい。もっといっぱい話をして、一緒に街を歩いたりしてみたい。
 そうだ。私はシィナに恋をしたあの日、いつかこの子の笑顔が見てみたいって、そう思ってたんだ。

 シィナの笑顔は、本当に綺麗だった。
 たとえこの先どれだけ長い時を生きようとも、忘れようがないくらいに。

「……シィナ。私も、シィナのことが――」

 と、そこまで言いかけたところで、私はシィナがどこか訝しげに鼻をスンスンと動かしていることに気がついた。
 私が言いかけた言葉が耳に入らないくらい、なにかが気にかかっているようだった。
 表情もさきほどの満面の笑みとは打って変わって普段通りの無表情に戻っており、それもどこか不満そうにも見える。

「えっと……シィナ? どうかしたの?」
「……(……)」

 しばらく沈黙した後、彼女は私の耳元に自分の口を近づけると、ボソリと静かに呟いた。

「…………ほかの……おんなの……においが、する(なんか……フィリアちゃんの匂いがする。しかも、すごく濃い……)」

 ひえっ。

「……(ここまで濃い匂い、ちょっと抱きつくくらいじゃ絶対移らないよね……? なんでこんなに色濃く残って……むー。今ここにいるのはわたしとハロちゃんだけで、今はわたしのハロちゃんなのに……)」
「えっとぉ……そ、そのぉ……」

 や、やばい……この状況は、本当にやばい……。

 そうだ……昨夜はフィリアに半ば強引に迫られて、フィリアのことで頭がいっぱいになっちゃったせいですっかり頭からすっぽ抜けてしまっていたが、私はそもそもシィナから告白を受けていたんだ。
 ただ好きだって言われただけで、特に返事を要求されたわけでもなかったけど……だからって放置したままにしていいはずがない。
 そもそも返事を要求されなかったのは、たぶん私が答えを出すまで待つ的な意味合いだったはずだ。
 なのに、その返事の答えを出す前に、私はあろうことか他の女の子と行為に及んでしまった。

 うん、最低だ。まごうことなきクズだ。
 しかもフィリアと行為に及んでしまった一番の理由が『場の空気に流された』であることがとんでもなく最低度合いを加速させている。

 どうしよう……私、シィナに刺されても文句言えない……。

 い、いや、シィナがそういうことする子じゃないっていうのは今の私ならもちろんわかってるけど! でも正直これ私を刺す権利あるよシィナは!
 フィリアとはえっちなことをしちゃっただけで、まだ付き合ってるとかではないけど……苦しすぎる言い逃れだ。
 告白の返事もまだなのに、他の子と行為に及んでる時点で普通に論外である。

「シィナ……その……じ、実は――」
「――お姉ちゃん!」

 私に向けてくれているシィナの好意に報いるため、意を決して真実を告げようとした瞬間、甲高く私を呼ぶ声とともに小さな影が私に突っ込んできた。
 すんでのところでシィナを離して小さな影を抱きとめた私は、その衝撃を若干受け止めきれずにその場でたたらを踏む。

「アモル……」

 危ないから廊下は走っちゃいけないよ、と注意しようかとも思ったけれど、人恋しそうに私のお腹に顔を埋めるアモルを見てしまったら、その気も失せてしまった。
 髪はボサボサで、肌もカサカサとしており、シィナと同様に昨晩はあまり眠れなかっただろうことは一目でわかった。

 ふとシィナの方を見れば、彼女は私とアモルの邪魔にならないように一歩引いていた。
 彼女なりに気を遣ってくれたみたいだ。
 私は心の中でシィナにお礼を言うとともに、後で必ずシィナにフィリアとのことを話すと誓って、その場に膝をついてアモルと視線を合わせるのだった。
「お姉ちゃん……わたし……」

 私と視線が合ってすぐに、アモルはくしゃりと顔を歪ませた。
 瞳にはジワリと涙が浮かんでおり、今にも泣き出しそうになっている。

「大丈夫。落ちついて、アモル。私はどこにも行かないよ。ほら、好きなだけ抱きついてくれていいから」
「うん……!」

 私の言葉を聞いて安心したのか、アモルはさらにギュッと強く私に抱きついてきた。
 私はそれに応えるようにして、アモルの背中に腕を回して、あやすように背中をポンポンと叩く。

 そのまま私の胸に顔を埋めてグスグスと鼻を鳴らしていたものの、しばらくすると落ちついてきたようで、私の胸から離れて私を見上げた。

「お姉ちゃん……あのね、あのね」
「ゆっくりでいいから。落ちついて話してみて?」

 私の問いかけに小さくコクリと首肯したアモルは、再び私の胸に顔を埋めたあと、ポツリポツリと話し始めた。

「わたしね。妖精さんから……お姉ちゃんが、不死だって聞いたの」
「うん」
「わたしはまだ全然生きてないから、不死のことはよくわからないけど……妖精さんは……一人ぼっちだった頃のこと、話してくれた妖精さんは……すごく辛そうで……寂しそう、だったの」
「……寂しそう、か」
「だから昨日の夜は……頑張って、一人で寝てみたんだ」

 仲間たちから迫害され、日も当たらない地下に押し込められて育ったアモルの精神は幼く、今もどこか不安定な部分がある。
 そんな彼女が人並みの幸せや愛情を感じられるようにと、アモルがこの家に来てからというもの、私は毎晩のようにアモルと同じ布団で眠っていた。
 だからアモルが私の部屋を訪ねずに一人で寝ることを選んだのは、今回が初めてのことだった。

「そうしたら……わたし、夢を見た」
「夢?」
「お姉ちゃんと出会ってからの全部が……夢だったって言う、夢」

 アモルは堪えるように自分の服の裾を握りしめる。

「わたしは今も、あの地下の暗い部屋にいて……誰にも愛されずに、一人ぼっちで過ごしてる。そんな冷たい毎日が現実で……」
「……アモル……」
「お姉ちゃんと会う前のわたしなら……一人ぼっちが当たり前のわたしだったら、平気だった。でも……今のわたしには、あんなの……」

 そこまで告げたところで、ついにアモルの目尻に溜まっていた涙が決壊し、ポロポロと頬を伝い始める。
 私はアモルを抱きしめて、ポンポンと背中を軽く叩いてあげた。

「大丈夫。私はどこにも行かないよ。約束したでしょ? アモルが望む限り、ずっと一緒だって」
「うん……うん。わかってるの。お姉ちゃんと出会ってからのこと、夢じゃない。お姉ちゃんはきっと約束を果たしてくれるって。わたしはもう、一人ぼっちになんてならない……でも……でも。お姉ちゃんは、違う……」
「違う?」
「お姉ちゃんは……いつか絶対、一人ぼっちになっちゃう。わたしと過ごした毎日が、いつか夢になっちゃう……」

 ……そっか。
 アモルがこんなにも苦しそうにしてるのは、悪夢が怖かったからじゃない。
 その悪夢が大好きな人の……私の現実になってしまうことが、たまらなく怖いんだ。

「わたし……あんな気持ち、お姉ちゃんに味わってほしくない。いつの日か、わたしがお姉ちゃんのそばにいられなくなっちゃうかもしれなくても……わたしと過ごした日々が、夢になっちゃうかもしれなくても……その先でお姉ちゃんに、一人ぼっちになってほしくない」
「アモル……」
「だから……決めたの」

 アモルは私の手を愛おしそうに包み込むと、屈託のない微笑みを浮かべた。

「わたし――お姉ちゃんと結婚する」
「そっか、けっこ……へ? け、結婚?」
「お姉ちゃんと結婚して、いっぱい子ども作る」

 …………!?!?!?

「いっぱい子ども作って……皆で仲良く暮らすの。それでね、いつかその子たちにも誰かを愛することを知ってもらって、その子たちにも子どもができて、もっと賑やかになって……わたしは不死じゃないから、ずっとはお姉ちゃんと一緒にはいられないけど。でも、そんな未来がずっと続いていけば、お姉ちゃんが一人になることもないでしょ?」
「けっこ……こど……ちょ……ちょっと待って!」

 理解が追いつかない……け、結婚? しかも……こどもぉ!?
 なにを言っているのかはわかるが、なにを言っているのかわからない……いや私がなにを言っているんだ!?
 お、落ちつけ。落ちつくんだ私。
 落ちついて、ちゃんとアモルの話を聞くんだ。

「アモル、自分がなに言ってるのかわかってるの……?」
「うん。わかってるよ? 結婚は、その人と一生を添い遂げること……でしょ?」
「た、確かに間違ってないけど……あのね、アモル。結婚は、好きな人同士でやることなんだ。だから私じゃなくて、アモルが将来心から好きになった人と……」
「……お姉ちゃんは……わたしのこと、好きじゃないの?」
「えっ!? それはその……もちろん好き、だけど……」
「よかったぁ……えへへ。わたしもお姉ちゃんのこと大好きだもん。だからわたし、お姉ちゃんと結婚できるよ」

 うぐぅっ……。
 ダメだ……どうしてもアモルに強く言えない私の悪いところが出ている……。
 でも今回ばっかりは押し切られちゃダメだ。アモルの一生に関わる大事なことなんだから。

 私は一回、二回と軽く深呼吸をすると、真面目な表情でアモルに向き合った。

「……お姉ちゃん?」
「アモル。私を好きだって言ってくれるアモルの気持ちは嬉しい。でもね、アモルはまだ子どもだ。人生のパートナーを決めるにはいくらなんでも早すぎるよ」
「むー……わたし、子どもじゃないよ。ちゃんと成熟した淫魔だもん」
「子どもだよ。だってアモルはまだ一度だって誰かに恋したことないでしょ?」
「……お姉ちゃんのことは好きだよ?」
「そんな簡単な感情じゃないんだ。恋っていうのはね、世界が色づいたように胸がときめいて、その人以外のことを考えられなくなるくらい夢中になって……でもね、とっても盲目的で自分本位な気持ちなんだ」
「誰かを好きになることが、自分本位なの?」

 アモルは心底理解できないという顔をしている。

「アモルはさ、もしも私がアモルの知らない人と親しくしてたら、どう思う?」
「どうって……お姉ちゃんの魅力を他の人にも知ってもらえて、嬉しい?」

 アモルは本当に私のことを自慢のお姉ちゃんだと思ってくれているようだ。
 嬉しい、誇らしいと告げる親愛に満ちた瞳には、一点の陰りもない。

「ふふ……そっか。じゃあ、そうだね。もしも、私がアモル以外の人と結婚したら?」
「え? うーん……その人がちゃんとお姉ちゃんのこと幸せにしてくれるなら……わたし、祝福するよ」

 ニッコリと花が咲いたようなアモルの笑みが、その返答が本心からのものだと容易に証明していた。
 私は一度瞼を閉じて息を吐くと、再びアモルの目を見据えた。

「ねえ、アモル。普通はね、もしもその人に恋をしてるなら、そんな簡単には割り切れないものなんだよ」
「割り切れない?」
「大好きなその人を独り占めしたい。自分だけを見てほしい……その人が誰かと結婚して幸せになるのだとしても、その相手が自分以外じゃ絶対に嫌だ」
「でも、そんな風に思ってたら、大好きな人を困らせちゃうだけだよ……?」
「関係ないんだ、そんなこと。困らせちゃうとか、傷つけちゃうとか……わかってても止められない。どうしようもなく張り裂けそうなくらい胸が痛んで、耐え切れない」
「……恋ってもっと、素敵なものだと思ってた」
「素敵だよ。でもそれと同じだけ、振り回されがちなんだ」

 しょんぼりと顔を伏せるアモルの頭に手を伸ばし、優しく撫でる。

「アモルは、好きになった人の幸せを心から願える愛情深い子だ。だけどまだ恋を知らない。結婚もね、恋と同じで……ううん。恋以上に素敵であると同時に、同じだけ重くて大事なことなんだ。それこそ、その人のその先の一生の全部を決めちゃうくらいに」
「……」

 アモルは考え込むように黙り込んで下を向いていた。
 初めこそ自分は子どもじゃないと頬を膨らませていたアモルだけど、今は真剣に私の言葉を受け止めてくれているようだった。
 しばらくして、彼女の頭を撫でる私の手に自分の手を重ねると、ポツリと呟くようにアモルは言う。

「……じゃあ、もし……もしわたしが恋を知って、大人になって……それでもまだ、お姉ちゃんと結婚したいって思ってたら……その時はお姉ちゃん、わたしと結婚してくれる?」
「……そうだね。その時は、私も真剣な気持ちでアモルと向き合うよ」

 アモルが成熟した淫魔だということは私もわかっている。
 それでも私が彼女を子ども扱いしてしまうのは、彼女の体が幼いから……というのももちろんあるけれど、一番はやっぱりその精神性が幼いからだ。
 いつかアモルが成長して、本当の意味で大人になって、それでも私を好きだと言ってくれるなら……うん。
 その時は子ども扱いも妹扱いもしないで、私も腹を決めて、一人の女の子としてアモルを見てみよう。

「約束、だよ」

 そう言って小指を差し出すアモルの姿は、まるで天使のように可憐で……。
 思わずボーッと見惚れてしまった私はハッと我に返り、慌ててアモルの小指に自分のそれを絡めるのだった。

「……はなし……おわ、り?(そ、その……二人とも、話は終わった……?)」
「あ、シィナ。うん、終わったよ」

 私とアモルの話し合いが一段落ついた辺りで、シィナがトテトテと近づいてきた。
 アモルの結婚発言が衝撃的過ぎてすっかり忘れてしまっていたが……そうだった。ここにはシィナもいるんだった。
 ……あれ? でもそれってつまり、シィナもさっきのアモルの結婚発言を聞いてたってことじゃ……?

「…………(け、結婚……約束……うぅ。アモルちゃん、すごく素直って言うか……だ、大胆。わたしもアモルちゃんに負けてられないっ……けど……結婚……ハロちゃんと、結婚……う、うぅぅぅぅ……ど、どうしよう。想像するだけで、恥ずかしすぎて顔が熱くなっちゃう……)」


 私の前に佇むシィナはいつも通りの無言の無表情だが……どことなく耳が赤く、耳も尻尾もそわそわとしているように見える。
 もしもこれが彼女と出会ったばかりの頃の私だったなら、気のせいの一言で片づけていたかもしれないけど……ふふふ。今の私は一味違うぞ。
 わかる! シィナの今の気持ちが手を取るようにわかるぞ!

 シィナは今、私とアモルの会話を聞いて感情を昂らせている。
 そしてその感情の正体とは……間違いなく怒り!
 私の告白への返事もまだなのに、私の目の前で別の人と結婚の約束をするなんて言語道断!
 そんな風に怒り狂っているシィナの内心が、手に取るようにわかる!
 
 さて、それがわかったうえで……うん。
 そのー……私はどんな言い訳をすれば……じゃない!
 どどど、どういう風に事情を説明すればいいんだ……?
 どのようにすれば私は彼女に刺されずに済むのでしょうかっ!?

「ところで、お姉ちゃん」

 私が内心冷や汗ダラッダラに流しながら、一言も発さない完全激おこモード(推定)のシィナと向かい合っていると、不意にアモルが私の服を引っ張った。
 助け舟を期待し、思わず目を輝かせた私に対し、アモルは可愛らしく小首を傾げて無邪気な疑問を投げかけた。

「お姉ちゃん、フィリアちゃんとえっちしたの?」
「!?」
「!?(!?)」

 爆弾だった。
 助け舟が泥船だったとか、そんなちゃちなレベルじゃない。
 飛び込んだ船そのものが火薬で作られた爆弾船だったかのごとく、それはもうとんでもない爆弾だった。

「あ、あも、アモル!? い、いったいなにを言って……」

 私はあからさまに焦り散らかしてしまいながらもどうにかこうにか否定しようとしたが、そんなものではアモルの無垢な好奇心は誤魔化せない。
 つま先立ちをし、私の首元に顔を寄せ、スンスンと鼻を鳴らしたアモルは、やっぱりと言いたげに頷いた。

「この匂い、知ってるよわたし。仲間たちと一緒だった頃、住処はいっつもこういう匂いだったもん」
「い、いや、あの……」
「フィリアちゃんはお姉ちゃんのこと、ほんっとーに大好きなんだね! お姉ちゃんも、そんなフィリアちゃんの気持ちを受け入れてる……フィリアちゃんも、お姉ちゃんと結婚したいのかなぁ? それじゃあ、いつかわたしがお姉ちゃんと結婚したら……その時は、フィリアちゃんもわたしの家族になるのかな?」

 この世界では重婚は普通に受け入れられている。
 加えて、アモルは淫魔だ。
 暮らしてきた環境的にも、性質的にも、重婚に抵抗はないのだろう。

「えへへ。わたし、フィリアちゃんにおめでとうって言ってくるね!」
「あっ! アモ……」

 爆弾だけを残し、颯爽と駆けていってしまったアモルに、助けを求める私の儚い願いは届かなかった。
 アモルの背に向かって伸ばしていた手を下ろし、恐る恐るシィナの方に振り返ると……。

「…………(え、えっち……えっち!? えっちって、あのえっち? ハロちゃんとフィリアちゃんが、えっち……あ、あぅあぅあぅあぅ……!)」

 彼女は私を射殺さんばかりに睨みつけてきていた。
 その身はもはや気のせいで済ますなんてできないほどわなわなと震えており、彼女が今、激しい憤怒に支配されているだろうことは火を見るよりも明らかだった。

 終わった……私のエルフ生、どうやらここまでのようです……。

「…………(先を越されちゃったの、悔しいのに……嫌なのに……えっちなことしてるハロちゃんのこと想像すると、わたし……あぅぅぅっ……!)」


 一歩、二歩とシィナが近づいてくる。
 さながら有罪判決を待つ重罪人の気分だった。

「(わ、わたしのこれは妄想だけど……でも、ハロちゃんがえっちなことしたのはほんとのことで……きっとその、え、えっちな声もいっぱい上げてて……!」

 ついにシィナが私の目の前で立ち止まる。
 刺されるのか、ぶん殴られるのか。それとも罵倒されるのか。あるいは……その、む、無理矢理されたりとかしちゃうのか。
 どうなるかはわからないが、シィナからの告白の返事もせず、不義理なことばかりしてしまった私に抵抗する権利なんてない。
 覚悟を決め、瞼を閉じてシィナからの裁きを待つ。

「…………(は、恥ずかしいけど、顔がいっぱい熱いけど……! でも……でも! わ、わたしも……わたしも、ハロちゃんと……! うぅー……い、いけ……いっちゃえ、わたし! えいっ!!!)
「……へ?」

 しかしいつまで経っても私を襲うはずの痛みはなく、代わりに感じたのは手首を掴まれる感覚と……手のひらに伝わる、柔らかい感触だった。
 マシュマロのようでいて、もっとずっと柔らかい、温かく弾力のあるなにか。
 それがなんなのかを確かめるべく、恐る恐る目を開くと……そこにはギュッと瞼を閉じながら私の手を掴み、自身の胸に押し当てているシィナの姿があった。

「シ、シィナ……?」
「……っ! つ、つづきは……また、こんどっ……!(その、あの……つ、続きはまた今度……ね! ハロちゃん!)」

 昂る感情が抑えられないかのごとく、シィナの猫耳がピンと立つ。
 そしてバッと勢いよく手を離したシィナは、真っ赤に染まった顔を俯かせ、そのまま踵を返して走り去って行ってしまった。

「し、シィナ!?」

 呼び止めても止まる気配はなく、そうこうしているうちに、あっという間にその姿は消えてしまった。

 一人取り残された私は呆然と立ち尽くしたまま、シィナを引き留めようとして空を切った手のひらを見つめる。
 それからさっきの感触を思い出すように、にぎにぎと……。

「……ハッ!?」

 な、なにを余韻に浸ってるんだ私は! 確かに柔らかくて気持ちよかったけど!
 今回、悪いのは完全に私の方だ。本当は謝らなきゃいけなかったのに、結局なにも言えなかった。
 許してもらえるかはわからないけど、次……そう、次こそはちゃんと謝ろう!

「……次……」

 ――つ、つづきは……また、こんどっ……!

「……」

 去り際の彼女の言葉を思い出してしまい、思わず自分の頬が熱くなるのを感じる。
 続きってつまり……そういうことだよね?
 シィナと、その……え、えっちなことを……。

「っ……! い、今は深く考えないようにしよう……」

 フィリアが朝食を作って待ってくれているんだ。
 あんまり待たせちゃうとせっかくの朝食が冷めちゃうし、とにかく今は、皆を食卓に呼ぶことを考えないと。

 アモルはフィリアの方に走っていったし、シィナも踵を返した先は食堂の方だった。
 となると、残るは……。

「……よし」

 二人と別れた場所から少し歩いた先にある扉の前で立ち止まる。
 軽くノックをして名前を呼んでも反応がないことを確認すると、私は「入るよ」と声を上げながら、リザの部屋の扉を開くのだった。