「――それじゃあ行ってくるね。フィリアもシィナもアモルも、それからリザも。皆仲良く、喧嘩しないようにね」

 玄関から出ていくお師匠さまを四人で見送ります。

 なんでもお師匠さまは今日、冒険者ギルドにご用事があるそうです。
 お師匠さまが冒険者として活動する日は大抵いつもシィナちゃんが一緒ですが、今日はシィナちゃんはお留守番です。
 というのも、今日は冒険者としてのお仕事が目的ではないからです。
 お師匠さまいわく、ギルドマスターのソパーダさんのお仕事の手伝いと、今後についての話し合いがあるのだとか。

 アモルちゃんの件について冒険者ギルドに報告した結果がどうなったかは私も耳に挟んでいます。
 淫魔のような危険度の高い魔物でも使役することが可能であると証明して、規則と法を書き換える……それを目指すことが、アモルちゃんを見逃してもらうためにソパーダさんから出された条件の一つ。
 ソパーダさんとの今後についての話し合いというのは、その目標を果たす上での、より具体的な方策についてでしょう。
 元々はソパーダさんから出された条件ではありますが、これを達成することができればアモルちゃんが気兼ねなく外を出歩けるようになる事情もあって、お師匠さまもやる気充分と言った感じでした。

 アモルちゃんの件では、まだまだ未熟な私に手伝えることはほとんどありませんが……心の中で応援することだけは忘れません。
 お師匠さまがお忙しい時は率先して屋敷の家事を担当したりもして、私にできる最大限のサポートもしていきたい所存です。
 アモルちゃんのためにも頑張ってくださいね、お師匠さま!

「……行ったかな」

 お師匠さまが見えなくなった辺りで、リームザードさんがポツリと漏らしました。
 その一言で、私たちの間に少しだけ緊張が走ります。

「じゃ、少し場所を移動しようか。落ちついて話ができるところ……食堂でいいか。ついてきて」

 シィナちゃんもアモルちゃんも、すでにリームザードさんから話は聞いているのでしょう。
 皆、疑問を呈することなく、素直にリームザードさんに従います。

 ――あの早朝、リームザードさんとお話をした日から、すでに数日が経っていました。
 お師匠さまが抱えている苦しみというものがなんなのかについては、まだなにも聞いていません。
 リームザードさんいわく、話すなら私たち三人同時に話したいとのことで、お師匠さまが家を空ける日を待っている状態でした。
 リームザードさんはどうにも、お師匠さまに内緒で話をしたいみたいでしたし……お師匠さまがいらっしゃる時にお師匠さまに気づかれず四人で集まるのは無理がありましたから。
 そうして待ち続けて数日が経ち、今日ようやくお師匠さまがお出かけになられたというわけです。

「さて……」

 私たちがそれぞれ定位置に腰かけると、リームザードさんはぐるりと私たち三人を見回しました。
 シィナちゃんもアモルちゃんも、やっぱりどことなく緊張した面持ちです。
 たぶん私も同じ表情をしているんだろうなと思います。

 なにせこれからリームザードさんが話すのは、私たち三人の誰も知らない、お師匠さまの苦しみについてです。
 私たちの誰も知らないということは、当然、お師匠さまが誰にも話していないという意味でもあって……それはつまり、お師匠さまの秘密と同義です。
 もしかしたら単に話す機会がなかっただけという可能性もありますが……本当にただそれだけだったなら、リームザードさんがこんなにも神妙に語るはずがありません。

 私たちにさえ隠している、お師匠さまの秘密……。
 まさにそれが暴かれるという場で、緊張しないはずがありませんでした。

「本題に入る前に、ちょっと確認しておきたいんだけどさ」

 リームザードさんが、まるで見定めるように私たち三人を見つめます。

「お前たちはハロのこと、好き?」

 その答えは考えるまでもなく決まっていました。

「もちろんです。お師匠さまのためなら、私はなんだってできます」
「……ん。ハロちゃ、は……わたしの……たいせつで……とくべつな、ひと……」
「わたしも、お姉ちゃんと一緒だといつも胸が温かくて、心地良くて……いつまでも一緒にいたいなって、そう思うの」

 私たちのことを知っているリームザードさんは、私たちがどう答えるかも初めからわかっていたのでしょう。
 リームザードさんはこくりと頷くと、「なら」と目を鋭く細めます。

「なら、もしもそんな好意のすべてが、あの子にとっての重荷になっているんだとしたら……お前たちはどうする?」
「好意が重荷に……ですか?」
「そうだ。お前が笑うだけで、あの子が苦しむ。幸せだと伝えるだけで、自分の胸の痛みに膝をつく。ただお前がそばにいるだけで、どうしようもなく悲しくて、寂しくて、泣きたくなる……お前たちの存在があの子にそんな絶望を与え続けているのだとしたら、お前たちは、どうする?」
「……」

 言っていることの意味が、あまり理解できませんでした。

 私たちがお師匠さまの重荷になる……?
 どういうことなんでしょうか……。

 私は今まで私なりに、お師匠さまのことを見てきたつもりです。
 シィナちゃんがここに来て、アモルちゃんとも一緒に暮らすようになって、そしてリームザードさんもお師匠さまのもとに戻ってきて。
 屋敷の中が賑やかになるたび、お師匠さまは笑顔が増えて、以前よりも楽しげに過ごすようになっていました。
 お師匠にその自覚はないのかもしれませんが……お師匠さまのことが好きで、ずっと見続けてきた私にはわかりやすすぎる変化でした。

 きっとお師匠さまは、私たちのことを本当の家族のように思ってくれています。
 私が奴隷であることを気にするようなことを言うと、お師匠さまはよく家族だと言ってくれましたし……妹のような存在であるアモルちゃんへの甘やかし方を見ても、それは明らかです。

 それなのに、私たちの存在がお師匠さまの重荷になる……?

 その仮定を具体的に想像ができず、私は答えに窮してしまいます。
 それはシィナちゃんやアモルちゃんも同じようでした。困惑した様子で黙り込んでいます。

 そんな私たちを一望すると、リームザードさんは小さくため息をつきました。

「ま、そうなるよね……でもね、それが真実なんだ。今はそうじゃなくても、あの子はいつかそうなる運命にある。いずれ必ず、お前たちが与えた幸福のぶんだけあの子は絶望する」
「それは……どういう意味でしょうか? いずれ必ずって、いったいどうしてそんなことに……」

 出会ったばかりだった頃なら、なにをわけのわからないことを、と理解を拒んでいたかもしれません。
 しかしリームザードさんがお師匠さまと旧知の仲であると判明し、私たちと同様、お師匠さまを好いていることもわかった今、そんな彼女が語るお師匠さまの話を頭ごなしに否定することはできませんでした。

「それがあの子の背負った宿命だからだよ。安心しなよ。時間はたっぷりあるんだ。煙に巻いたりはしない。ちゃんと全部話すさ」

 お師匠さまのことだからでしょうか。私は、自分でも気づかないうちに急かすような視線を向けてしまっていたようでした。
 どこか言い聞かせるようなリームザードさんの口調からそれを自覚し、私は一旦、息を吐いて心を落ちつかせることに努めます。
 それで完全に肩の力が抜けたわけではありませんでしたが……落ちついて話を聞けるくらいには鎮められたはずです。

 私が平常心を取り戻した頃を見計らって、リームザードさんが続けます。

「とは言え、全部を話すとなると、まずはワタシの昔話を聞いてもらう必要があるけどね」
「えっと、リームザードさんの昔話……ですか? それがお師匠さまの苦しみと、なにか関係があるんでしょうか」
「大ありだよ。ま、もとをたどれば全部ワタシのせいなのさ。自分の昔のことを話すなんて、本当はあんまり気は進まないけど……今のあの子を理解してもらうには、それが一番手っ取り早い」

 少し遠い目で虚空を見つめて、リームザードさんは机の上にあぐらをかいて座ります。
 ついにリームザードさんがお師匠さまの話を始めることもあって、私も無意識に姿勢を正してしまっていました。

「じゃ、話すよ。まずは、ワタシの過去……一万年以上前、ワタシがこの世に生まれ落ちてから、あの子に出会うまでの話をね」

 い、一万年ですか。
 思った以上に昔でしたが……その話がお師匠さまの苦しみに関わってくるというなら、聞き逃すわけにはいきません。

 お師匠さまが私を暗闇の底から引っ張り上げてくれたように、今度は私がお師匠さまの助けになりたい。
 シィナちゃんもアモルちゃんも、きっと同じ気持ちだったでしょう。

 そうして私たちは、リームザードさんの話に耳を傾けるのでした。





 永遠。悠久。不滅。
 いつの時代も人が望む、愚かな夢。
 死への信仰と恐怖が生み出した、醜い渇望。
 ()の、絶望の象徴。

 この世に生まれ落ちたその時から、私は世界の異端だった。

 仲間たちと、髪の色が違った。
 皆は陽光の差す景色に似合う明色ばかりだったのに、私のそれは毛先に近づくにつれ、希望のない真夜中のような暗色に染まっていた。
 仲間たちと、目の色が違った。
 左目は皆と同じ自然的な緑色なのに、右目は膿んで腐った傷口のような赤紫だった。
 仲間たちと、感じるものが違った。
 皆が笑うようなことで笑えなかった。皆が悲しむようなことで悲しめなかった。他人の感情がうまく理解できない。

 そしてそんな異端な私を、仲間たちは当然のように排斥した。

 醜い。不吉。気色悪い。あんなのは仲間じゃない。
 どこか知らないところで、消えてほしい。死んでほしい。

 仲間たちのそんな自分のへ陰口を、何度耳にしたことだろう。
 けれど幸か不幸か、私はそれを辛いとも不快だとも思わなかった。

 知らなかったからだ。なにも。
 愛される喜びも、愛することで満たされる感覚も。味わったことがないから知らなかった。
 まるで自分だけがこの世界で浮いているかのように、感覚が希薄で現実味がない。

 そんな私は仲間たちの目には相当に薄気味悪く映ったらしい。
 誰も彼も決して私に近づこうとはせず、私はいつも一人で、離れたところから皆を眺めていた。

 そんな毎日が変わったキッカケは、一人の妖精の子が私がいる木の上に迷い込んできたことだった。

『ねえ、あなた。あなたのお名前はなんて言うの?』

 他の子たちとのかくれんぼの最中だというその子は、私のことをまるで知らないようだった。
 その時はただ名前を教え合うだけだったが、それからというもの、彼女は頻繁に私のところを訪ねてきた。

『■■ちゃんは、こうして誰かと触れ合いたいだけなんだね』

 私のことを知りたいという彼女に、私が普段していること――ただボーッと皆を眺めていることを話すと、彼女はそんなことを言いながら私の手を握った。

 不思議な感覚だった。
 誰かに触れるなんて初めての経験で、私は自分が戸惑いを覚えていることに気がついた。

『……あなたのては……どうして、こんなに……あたたかいの?』
『当たり前だよ。生きてるんだもん』
『……いきてる、から……?』

 私は、覚えていない。彼女の顔も、声も、温もりも。その時抱いた感情も。
 だけどこのやり取りだけは、どうしてかまだ記憶に残っている。

『■■ちゃんの手も温かいよ。私と同じ』
『……おなじ……わたしと、あなたが……?』
『うん、同じ。他の皆は、自分たちとあなたは違うんだって言うけど……私はそうは思わないなー』

 顔を、上げる。

『一人ぼっちが寂しいなら、私が■■ちゃんの友達になってあげるね!』

 ……ああ、そうだった。
 私は彼女のことを、自分の意思で忘れることを選んだんだったか。

『あつ、い……熱い、よ……』
『誰か……誰か、助けてぇ……』
『ァ……ァア……み………水……水、をォ……』

 気がついた時、私が住んでいた妖精の里は業火に包まれていた。
 阿鼻叫喚。翅が焼け落ち、地に落ちて、虫のように地面を這う。
 人間たちが口々に語る、地獄の世界の具現のようだ。
 喉を焼かれ、叫びすらまともに上げられず、肌が爛れた腕をどことも知れぬ方へと伸ばしたまま、誰もが等しく死に絶えていく。

 あの時は確か、力を授けた人間たちに反逆されたんだったか。
 あの頃の人間は、まだまともに魔法を使うことができなかった。魔法が自在に使える妖精は人間にとって信仰の対象で、調子に乗ったバカな妖精どもは、人間たちに魔法の力を与えていた。
 そしてその結果が、このザマだ。
 自然の力を借りる妖精と違い、人間は己の中にある魔力を直接的に力に変換することができる。
 魔法を武力として行使する上では、妖精よりも人間の方が出力が大きかった。強かったんだ。
 それを知った人間が反旗を翻し、妖精が持っていた叡智を奪うために蹂躙した。

 皆、死んだ。私を醜いと蔑んだ妖精も。私を仲間じゃないと拒絶した妖精も。
 そして私もまた、全身を炎に食い殺され、その一生を終える――はずだった。

『……いき、てる……?』

 すべてが真っ黒に焦げて消え去った里の端っこで、私は再び目覚めた。
 喉が焼かれ、呼吸が困難になって、それで気を失ったはずなのに。問題なく呼吸ができた。
 それどころか、焼けた肌も肉も、翅も、傷ついたはずのすべてが何事もなかったかのように元に戻っている。

 これが私が、自分自身が不死の存在だと気づくことになったキッカケだった。
 だけどその時はまだなにもわからなくて、混乱の最中、私が最初にしたことは、私以外に生き残った妖精がいるかどうかの確認だった。

『あの、こは……□□□、ちゃんは――――』

 ……その後のことは、よく覚えていない。
 昔のことすぎて忘れてしまったのか。あるいはこれも、自分で忘れることを選んだのかもしれない。

 あまりに永く生きていると、気づくんだ。
 記憶なんて重荷にしかならない。生きるうえで邪魔なんだって。
 だって、嫌な記憶ばかり頭に残る。良い記憶があったとしたって、それも最後は苦痛に変わる。

 私はあの子からすべてをもらった。楽しさを。幸せを。温もりを。
 でもそれと同じだけ、私は知ってしまった。
 失うことの痛みと苦しみ。そしてそれは今や、際限なく私を蝕んでいく。

 まるで呪いのようだと思った。
 楽しければ楽しかったほど、苦痛が増す。
 幸福であれば幸福であったほど、過ぎ去った日々を思う苦悩に心が耐え切れなくなっていく。
 好きだった人の笑顔を思い返すたび、胸を締めつけられる悲しみに支配される。
 なにもなかった頃はなんにも感じることなんてなかったのに。
 私にこんな感情を教えた彼女が、いつの日か憎らしく感じるようになった。

 私は、こんな苦しみ続ける毎日をいつまでも繰り返し続けるくらいなら、なにもかも忘れてしまった方がマシだと思った。
 好きだった人の名前も、声も、笑顔も。好きだったという思いも含めて全部なくしてしまえば、もう二度と苦しむこともない。
 簡単に楽になれる。そして苦しみから解放されたその先では、きっと楽しいことだけが続いていくはずだ。

『できた。これでやっと、私は……』

 魔法について研究を続け、私はやがて、自分の頭を弄り回して記憶を消去する魔法を作り上げた。
 これは、この先の永遠を生き続けるための処世術。

 あれから何百年と生き続けた私は、自分が不死であることに気がついていた。
 全身を炎で焼かれようと、刃で首を撥ね飛ばされようと、串刺しにされて皮を剥がされようと、肉片一つ残さず消し飛ばされようと。
 私は死なない。再生する。この世界から、私という存在が消えることは決してない。
 呪われていたんだ。この世に生まれた、その瞬間から。
 結局、私を異端と呼び、蔑んだあいつらの言う通りだったというわけだ。
 私は確かに、あいつらとは違った。あの子とは違った。少しも同じなんかじゃなかった。
 私に仲間なんていない。私と同じ時間を過ごせる存在など誰一人としていない。
 誰と触れ合おうと、誰と気持ちを通じ合わせようと、どこまでいっても永遠に一人きり。
 不吉で醜く気味が悪い。親しい人すら滅ぼす異端の存在。
 それが、私だ。

『アハ、アハハ、アハハハハッ!』

 不必要な記憶と思いを消し去って、ワタシ(・・・)はとにかく好き勝手に生きた。
 まるで羽毛の体が軽かった。頭もだ。
 なにも辛くない。苦しくない。
 あの子と過ごした日々が頭をよぎることもなければ、悪夢にうなされることもない。
 やろうと思えば、なんだってできる気がした。
 これこそがワタシの望んだ世界。
 気分がよかった。最高だった。

 世界中を巡って、異端なりに生きることを目一杯楽しんだ。
 ……そう。楽しんだ。
 楽しもうと、した。

『アハハッ! アハ、ハ……ハ……』

 ……どうしてかワタシは、どこでなにをしても心を震わせることができなくなっていた。
 笑みは止まらないのに、心はいつだってポッカリと穴が空いたように空虚で。
 感じているはずの楽しさは、偽物のように現実味がない。
 その感覚は、年月を経れば経るほどに顕著になっていく。

 おかしい。おかしい。おかしい。
 どうしてこんなにも、なにもかもつまらないんだ?
 ワタシはワタシを縛る、すべてのしがらみから解放されたはずなのに。
 楽しいことだけが続いていくはずだったのに。

 魔法が不完全だったのか?
 そんなはずはない。だって現に、ワタシはなにも感じていない。
 そう、なにも。なにも……感じない。
 なにをしても。あの子のことを思い返そうとも。
 あの子と出会う前、かつて、一人ぼっちだった頃のように。

 魔法は、正常だ。

『……』

 この世に生まれてから二千年が過ぎると、私は笑みをこぼすこともなくなっていた。
 自分の心を誤魔化す偽りの快楽に浸ることもなくなって、再び、ワタシの心に苦痛が到来する。
 それは、生きるということへの堪え切れないほど激しい嫌悪。
 どれだけその感情の記憶を魔法で消し去ろうと、気づけばそれはワタシの中にある。

 死にたい。消えたい。もう終わりにしたい。
 この数百年で、いったい何度そう願ったことだろう。
 でも、その願いが叶うことは決してない。

 だってワタシは、他のやつらとは違うから。世界の理から外れた異端だから。
 自分の意志で生きることも死ぬことも、この不死の呪いが決して許さない。

 辛くて何度自分で自分の首を絞めたかわからない。
 少しでも苦しみから逃れたくて、薬で脳を満たした回数だって一度や二度じゃない。

 気が狂いそうだった。

 艱難辛苦。立ちはだかる壁や坂、苦しみを乗り越えて克服することで、人は成長する。
 だが乗り越えることすらできない平坦な道を無限に歩み続けることは、どうなんだ?
 ワタシがこの苦痛を覚える意味は? この苦しみの先になにかあるのか?

 こんなになってまで、ワタシが生きなきゃいけない理由は……なんだ?

『どうかお願いします。あの村を、あなたさまの手で……』

 ある日ワタシは、人間の村の一つを焼き払った。
 流行り病だ。村に充満したそれはすでに取り返しようがなく、他の村に伝染する前に焼き尽くしてほしいと頼まれた。
 だから焼いてやった。まだ生きていたやつらも死んでいたやつらも区別なく。
 あの日、地獄の業火がワタシの故郷を焼き尽くしたように。

『酷い……どうして……どうしてこんなに酷いことを』

 すべてが手遅れになった後、村を救おうと必死だったらしい聖職者の女が喚いていた。

『頼まれたからだよ。別にいいだろ。しょせん遅いか早いかの違いでしかないんだから』
『遅いか、早いか……? 本気で……本気でそう言っているのですか?』
『むしろ早いだけよかったんじゃないの? 早ければ早いだけ余計に苦しまずに済むんだし。その方があの村のやつらにとっても、幸福だろ』

 どうせ、生きることは苦しむことでしかないんだから。
 でも死ねば苦しくない。悲しくない。なにも感じない。
 なにも感じないことを、嫌だと思うこともない。

 この世に存在しないこと。それ以上に幸せなことなんてない。

『あなたは……あなたはもはや、人ではありません。そのようなことを軽々と、平然と言ってしまえるあなたは……』
『当たり前だろ。ワタシはお前らとは違う。異端だ。生まれた時からね』
『いいえ、かつては同じだったはずです。たとえ今は歪み果ててしまっていようと、あなたには村人たちの幸福を思うだけの心がある……あなた自身が、そう口にした』
『……』
『どうか思い出してください。誰かの幸福を思えるなら、あなたにもいたはずでしょう。あなたの幸福を願ってくれる誰かが……一緒にいたいと願った誰かが。その心を思い出すことができれば、あなたもきっともう一度――』

 黙れ。
 うるせぇんだよ。鬱陶しいんだよ。

 ワタシの幸せを願ってくれるやつがいたからなんだ。
 二度と会えないやつを思うことになんの意味があるって言うんだ。

 嫌いだ。嫌いだ。全部、嫌いだ。
 食べることが嫌いだ。今を生きてる連中と同じことをしてると思うだけで、吐き気がする。
 眠ることが嫌いだ。目が覚めるたび、鳥のさえずりを聞くたび、苛立ちが募る。目の前に広がる輝かしい景色すべてを壊したくなる。
 呼吸することが嫌いだ。自分が生きていることを実感して、気が狂いそうになる。今すぐにでも自分の喉を掻き切って死にたくなる。

 どうして? どうしてだ?
 産まれたての赤子のように、幾度となく心が叫ぶ。

 どうしてワタシは、こんなになってまで生きなきゃいけないんだ?

 死にたいのに死ねない。終わりたいのに終われない。
 異端だから。呪われているから。
 頭をグチャグチャに潰そうが内臓を全部引きずり出そうが体をバラバラに引き裂こうが、生きることをやめられない。

 どうしてこんなことになった?
 あの子のことを忘れてしまったからか? あの子と出会ってしまったからか? 誰かと触れ合うことを望んだからか?
 それともワタシが、生まれるべきじゃなかったからか?

 こんなことなら……。

 ……こんなことなら、ワタシは、生まれてなんてこなければよかった。

『クソ……あと一歩。あと一歩のはずなのに……』

 死ぬためにあらゆる方法を試し、ワタシがたどりついた結論は魔導を極めることだった。
 魔法ともっとも身近な妖精という種として、直感的に理解している部分もあったのだと思う。
 ワタシを殺し得る方法があるとすれば、おそらくこれしかない。

 だけど残念なことに、ワタシには魔法の才能がほとんどなかった。

 長く生きているから、他のやつらとは比べ物にならないくらいの練度と知識はある。
 妖精の種としての弱点もすでに克服済みで、魔法の出力も自在に操れる。
 不死の呪いを逆に利用することで、無限の生命力を莫大な魔力として変換し、他の追随を許さない絶大な力を行使することもできた。

 けれどしょせんそれだけだ。
 魔導への理解において、ワタシの歩みは牛歩のようだった。
 それでも時間だけはあったので五千年かけて研究を続けてきたが、それもついに行き詰まってしまう。

 なにか、壁がある。知識や練度、出力だけでは決して超えられない壁が。
 この壁を越えることができれば、不死の呪いにさえ干渉できる予感がある。
 だけど何千年と研究してきた身だからこそ、嫌でも理解できてしまう。

 ワタシではこれを越えられない。決定的に足りないものがある。
 それが具体的になにかはわからない。
 才能がないからか。それとも、心とか言うやつが欠けているせいか。

 いずれにせよ、次にやるべきことは決まっていた。

『ふーん。悪くない才能だね。よし、今回はお前にしよう』

 ワタシが培ってきた魔導を才能がある他人に授け、ワタシに代わって壁を越えさせる。
 ワタシでは越えることが不可能な以上、嫌いだろうとなんだろうと、他のやつに頼るしかない。

 しかしそれもそう簡単にうまくいくものではなかった。
 ワタシと他のやつらとでは、寿命が違いすぎるからだ。
 いくらワタシより才能があろうと、何千年と魔法を研究したワタシと比べたら、誰もかれも赤子のようなものだ。
 ワタシが立っている場所が遠すぎるんだろう。
 皆、ワタシと同じ領域に至る前に死んでしまう。誰もワタシのいる場所に到達できない。

 そんな彼らには、まるでワタシが神の領域にいるように見えたようだ。
 いつしかワタシは人々から《全》と呼ばれるようになっていた。
 魔導のすべてを知る者。あらゆる自然現象を統べる者。ゆえに、《全》。
 まったくもってくだらないと思った。崇め、讃え、信奉する。それは理解の放棄と同義だ。
 やつらには、ワタシの前に広がる壁が見えていない。

 もっと優れた才能でなければダメだ。その時代で突出した、唯一無二の才能でなければ。
 一〇年に一人の天才。一〇〇年に一人の天才。そう言った存在を探し、拾い、魔導を授ける。

 ……けれど、賢者と呼ばれるようになったほどのやつでも結局、最期までワタシの領域にさえ至ることは叶わなかった。

 次第に、ワタシの心を諦観が覆い始める。
 もしかして誰も、この壁を越えることはできないんじゃないか?
 ワタシがやってきたことなんて全部無駄な足掻きに過ぎなくて、ワタシを終わらせることなんて、誰にも……。

 諦めることができず、惰性で弟子を取り続けてはいたけれど、結果は全部同じだった。

 ……もしも魔法がダメだとしたら、もう一度、一から不死の存在を殺す方法を探す羽目になる。
 そうなれば、ワタシはまた何千年と手がかりもなく彷徨うことになるだろう。
 いや、何千年とかけて手がかりを見つけられるなら、まだマシだ。
 もしかしたらなにも見つけることができず、今まで生きた以上の……それこそ、本当に永遠の時間を過ごさなければいけなくなるかもしれない。

 不安が焦燥を生む。焦燥が絶望へ変わっていく。
 ワタシは結局、この呪いから逃れることはできないのかと。
 そんな風に思いかけた頃だった。

 彼女を。ワタシを殺し得ると確信する、星のように眩い才能を見つけたのは。

『この炎は……あなたは、いったい……』
『――お前、ワタシに魔法を習うといいよ。ちなみに拒否権はないから。嫌でも習え』

 巨大な芋虫の魔物に襲われていたそいつを助けて、ワタシは開口一番にそう告げた。

 そいつはなんとも奇妙なやつだった。
 耳が長いところを見るに種族はエルフで、性別は女。体格からして歳の頃は一〇くらいで、およそ少女と呼ぶべき年齢。
 それだけならまだいいが、問題なのは、彼女がいたのが森の奥、魔物が闊歩する危険地域だったことだ。
 これだけ魔法の才能があるのだから魔法で切り抜けてきたのかと思いきや、魔物どころか、そもそも魔力の操り方すら知らない始末。
 しかも服を着ておらず、あちこちが擦り傷だらけだった。
 奴隷の子として産まれ、歪に育ってきたのか。あるいは頭でも打って半端に記憶を失ったか。
 およそ常識と呼ぶべきものが不自然に欠けた彼女は、まるで別の世界から落ちてきた世界の迷い子のようで。

 名前を望んできたそいつに――ワタシは『ハロ』と名付けた。