チュンチュンと、どこか聞き心地の良い小鳥の鳴き声が屋根の上から聞こえてきます。
 お師匠さまのお屋敷は侵入者を撃退するよう、防犯用の魔法で敷地が常に覆われていますが、ああいう無害な小動物には発動しないようになっているようです。

 その鳴き声と、かすかに白んだ東の空が、一日の始まりを告げていました。

「ファイアボルト! ファイアボルト!」

 そんな早朝に、私は屋敷の庭で自主訓練をしていました。
 いえ、自主訓練ではないですね。ファイアボルトくらいなら、すでに手足のように使いこなせます。
 これくらいはジョギングみたいなものです。

 お師匠さまやシィナちゃん、アモルちゃんと比べて、私はいつも一番最初に目を覚まします。
 ですが今日はいつも以上に朝早く目覚めすぎてしまったので、こうして外で軽い運動をしていました。

 ファイアボルト。ただ小さな火の球を放つ、それだけの魔法。
 それなりに魔法を習い、下級魔法をマスターしたとお師匠さまから太鼓判を押された今の私にとっては、こんなものはいくら使ったところでなんの上達にも繋がりませんが……私はすべての魔法の中で、この魔法が一番好きでした。
 なんて言ったって、これはお師匠さまが一番初めに私に教えてくれた魔法ですから。

 きっと多くの魔法使いの方が私と同じで、これを一番最初に習得したのでしょうが……それでも、これが思い出の魔法であることに違いはありません。

「ファイアボルトっ! ファイアボルトー! ……えへ、えへへ……お師匠さま、お師匠さまぁー」

 最初こそ、初めてお師匠さまに教わった時のように、手を突き出して手のひらから発射していたのですが、お師匠さまのことを考えているとどんどん気持ちが高揚してきてしまいました。
 徐々に教科書通りの魔法の使い方を外れて、自由にのびのびと魔法を動かすようになっていました。

 ふんふんと鼻歌を歌いながら、魔法名も唱えずに指先から極小の火球をいくつも生み出して。
 くるくると踊りながら、大小入り乱れる無数の火球を同じように体の周りで回転させます。

 すべての火球が他の火球と衝突しないように。すべての火球が私の制御を離れないように。

 お師匠さまは心配性ですから、最初は多くの魔法を覚えることではなくて、こうした魔力と魔法のコントロールを重点的に教えてくださいました。
 お師匠さまいわく、身の丈に合わない魔法を無理矢理発動しようとした結果、魔法が発動しないどころか暴走してしまい、その影響が自分に及んで大怪我をする……というような不慮の事故が、魔法を身につける過程ではよくあるそうです。

 そうならないために、まずは精密操作を身につけること。いきなり分不相応な魔法には手を出さず、段階を上げて習得する魔法のレベルを上げていくこと。
 そして、魔法を特別な力として捉えるのではなくて、当たり前の現象として認識し、自分の身体の一部のように思うこと――。

 言うのは簡単ですが、お師匠さまに才能を認めていただけた私でも、ここまでのものにするには結構な努力を要しました。
 具体的には二ヶ月くらいですね……たった一つの課題を達成するだけで、かなりの時間がかかってしまいました。
 しかも手足のように扱えるのはまだ下級魔法までで、中級魔法は全然です。

 お師匠さまのお背中は、まだまだ遠いですね……。
 いつの日か追いつけるように、精進あるのみです!

「これで、最後ですっ!」

 すべての火球を回転させながら、思いっ切り空に打ち上げます。
 螺旋を描いたそれらは少しずつ中心へと収束し、やがて一点にて交わると、私の頭上遠くで花開くような爆発を披露しました。

 もちろん、音が小さくなるように威力は控えています。
 お師匠さまもシィナちゃんもアモルちゃんも、皆まだ寝てらっしゃいますからね。こんなことで起こしてしまっては申しわけないです。

「ふぅ……良い運動になりました」

 下級魔法と言えど、ここまで多くの火球を同時に精密に操るのは結構神経を使いました。
 額を流れる汗を拭って、一息つきます。

 さて、朝の運動はここまでにしましょうか。
 そろそろお師匠さまがお目覚めになる頃合いなので、少し休んだらお出迎えに行かないといけません。

 お師匠さまはアモルちゃんがこの家に来てからは、いつもアモルちゃんと一緒に寝ています。
 お師匠さまのお部屋とは別にアモルちゃんのお部屋もきちんとあるのですが、アモルちゃんがそちらで寝ているところを見たことがありません……。

 お師匠さま、アモルちゃんにはかなり甘いんですよね……。
 アモルちゃんからのおねだりなら、どんな内容でも大抵二つ返事で了承しちゃいます。

 でも今は、その理由も少しだけわかる気がしました。

 私は、昨日聞いたお師匠さまの昔の話を思い出します。
 そこでお師匠さまは、自分が記憶喪失みたいなものだと言っていました。
 気がついた時には森の中に一人でいた、と。
 つまりお師匠さまには、血が繋がった家族が誰もいないんです。

 たぶんお師匠さまは、嬉しいんだと思います。 
 アモルちゃんがお師匠さまのことを、お姉ちゃん、って本当の家族みたいに呼んでくれることが。
 だから本当の妹に接するみたいに、ついつい甘やかしちゃうんでしょうね。

 甘やかしてることについては、自覚がないのかもしれませんが……。

 ……私もまだもっと子どもだったら、アモルちゃんと同じように自然にお師匠さまと一緒のお布団に入れたのでしょうか……。
 ……お師匠さまのお布団……あぁ、きっと良い匂いがするんでしょうね……。

「いつかきっと私も……えへ、えへへ、えへへへ……」

 いつか私がお師匠さまがいつかいなくなっちゃうんじゃって不安になって、お師匠さまのお部屋を尋ねた時、お師匠さまは言ってくださいました。
 フィリアが――私が欲しくて、私に触れたいと思ったから、私を買ったんだって。
 それはつまり……私の勘違いでなければ、一目惚れ……ということですよね?

 私も、同じです。
 お師匠さまが好きです。他の誰よりも好きです。大好きです。愛してます。
 ……私とお師匠さまの気持ちは、通じ合ってるんです。

 だったら、いつかきっと私も、お師匠さまと同じお布団で寝られる日が来るはずです。
 それもアモルちゃんみたいに家族としてではなく……こ、恋人として……。

 そ、そしてその時はきっと、私はお師匠さまとあんなことやこんなことを……。

 …………あれ? あんなことやこんなこと?

「……あっ! そういえば私、シィナちゃんがお師匠さまにしたことについてまだ聞いてませんでした!?」

 大事なことを忘れてしまっていました! そうでした、もうすでに先を越されてるかもしれないんでしたっ!

 ぐ、ぐぬぬ……口数が少ないシィナちゃんのことですから、単に言葉が足りてないだけで額面通りの意味ではない気もしますが……本当に強敵です。いっぺんたりとも油断できません。
 今日シィナちゃんと二人っきりになった機会があったら……いえ、機会を作ったら、すぐにでも聞き出さなくては!

「今日はシィナちゃんを起こしに行く役目を私が担当して……そうです、その時に必ず聞き出しましょう!」

 まずはお師匠さまのお部屋を尋ねて、一緒に朝食を作って、その後でシィナちゃんに……!

 もう休憩はじゅうぶんできましたので、私は庭から踵を返しました。
 逸る気持ちのまま、お屋敷の中へ戻ろうとします。

 ――しかしそんな折、屋敷の方に向かって誰か人影が歩いてくるのが見えて、私は足を止めてしまいました。

「……? あ、あれ……? えっと……知らない方、ですよね……?」

 このお屋敷の敷地は、防犯用の魔法で覆われています。
 その魔法の効果がある限り、お師匠さまが魔力の波長を登録した方以外は、お師匠さまの許可なくこの屋敷に侵入することは不可能なはずです。
 特にこんな早朝ともなると、それこそ私やお師匠さま、シィナちゃんやアモルちゃん、あとは小動物くらいしかいないはずなのですが……。

 屋敷に近づいてくる人影は大きな黒いローブに全身を包み、フードも深くかぶっていて、肌の一切が窺えませんでした。
 あれがお師匠さまやシィナちゃん、アモルちゃんだということはないと思います。
 お師匠さまもシィナちゃんもアモルちゃんも、皆まだお屋敷の中で寝ていますから。
 皆が寝静まった後に一人で外出していたとかなら話は別ですが……そんな用事があるなんてこと、私はなに一つ聞いていません。

 仮にもし、お師匠さまたち以外の方がこのお屋敷の敷地内に入ろうとするのなら、お師匠さまの魔法をかいくぐるほどの卓越した魔法の腕がなければ不可能なはずです。
 単にお師匠さまが作った魔法に不備があったと考えることもできますが、それだけはありえないと確信を持って言えました。
 私やシィナちゃん、アモルちゃんを守るためにお師匠さまが管理している魔法が、そんな不完全な代物のはずがありません。

 ……だとしたら、まさか……本当に、あの方はお師匠さまに匹敵するほどの魔法の力を持って……?

「と、止まってください!」

 最悪の可能性を想像してしまった私は、すぐにでも応戦できる姿勢で構えながら、近づいてくる人影――侵入者に警告しました。
 今まで侵入者の方はまるで私のことなど気にも留めていないかのようにまっすぐお屋敷の方へと向かっていましたが、ここで初めて足を止め、私の方に顔を向けます。

 こうして正面から向かい合っても、その方の顔を覗き見ることはできませんでした。
 フードの中は真っ暗な闇で覆われていて、顔の下半分さえ見えません。おそらくは魔法で隠しているのでしょう。
 なんだか少し不気味です……。

「あ、あなたは誰ですか? お師匠さまのお知り合いの方ですか? それとも……し、侵入者の方ですか?」
「……お師匠さま……?」

 返ってきた声の音程は、あまりにも歪でした。人間の声としてはあまりにも不自然な、記号のような音。
 フードの中と同じように、声そのものも魔法で加工されている。そんな感覚がしました。

 フードと言い、声と言い、まるで自身の正体を悟らせないようにしているかのような魔法の使い方……。
 そして、あなたは誰か、という問いへの答えにはまるでなっていなかった侵入者の方の返しに、私はさらに警戒心を上げていきます。

「ハロ・ハロリ・ハローハロリンネさまのことです。ここはお師匠さまのお屋敷です……まさか知らないで入ってきたわけじゃないですよね?」
「……ハロ……そうか、お師匠……あの子は……ううん。あの子も、結局はそれを選んだんだね……」

 独り言を呟きながら顔を俯かせるその仕草からは、どうしようもないことへの諦観のようなものが漂っているようにも見えました。

 ……や、やはりお師匠のお知り合いの方なんでしょうか?
 だけどお師匠さまの防犯の魔法に登録されているのは、今屋敷で暮らしている四人だけのはずです。
 以前お師匠さまから直接聞いたので、それは間違いありません。

 疑問符を浮かべる私を、侵入者の方は飄々と品定めでもするように見つめてきます。
 顔は見えないので、見られている気がするという表現の方が正しそうですが……。

「……あの子が直々に見込んだ弟子……だったら少しだけ、試してみようか……」

 侵入者の方の唐突に片手を上げる仕草を目にし、私は半ば反射で魔力を練り上げました。

「ファイアボルト」
「っ、ファイアボルト!」

 突然侵入者の方が放ってきた火球と、咄嗟に私が放った火球が激突します。
 拮抗は一瞬。ぶつかり合った火球はどちらも砕け、火花を散らして散っていきました。

「い、いきなりなにをするんですか!」

 あ、危なかったです……!
 もし反応が遅れていたら……考えたくもありません。

「ふぅん……悪くない術式だ。基礎はしっかりしてるみたいだね。じゃあ次は……」

 できれば平和的話し合いを所望したかったのですが、侵入者の方は抗議する私の声がまるで聞こえていないかのように続けて腕を振るいます。
 するとさらに多くの火球が瞬きのうちに生成され、それらが角度と緩急をつけて四方八方から襲いかかってきました。

 いきなり攻撃してきた辺りからわかってはいましたが、私の話を聞くつもりはまったくないようです……。
 ですがどんなに量が多かろうと、下級魔法であれば、お師匠さまからマスターしたと太鼓判を押された私は負けません……!

 私も同じだけの火球を生み出して、侵入者の方が繰り出した火球の軌道を見切り、その進行方向を塞ぐように飛ばして全部の火球を相殺します。
 侵入者の方は飛び散った無数の火花を眺めると、へえ、と息を漏らしました。

「なるほどね、精密操作の練度もなかなかだ。あの子の方針かな? 見た感じ、このぶんだとせいぜい魔法を学び始めて五年ってところか。途中からあの子に師事するようになったんだろうけど……でもまあはっきり言って、こんな程度じゃまだまだあの子の弟子を名乗るには不足がすぎる」
「五年……? バカにしないでください! 魔法はまだ習い始めて四ヶ月くらいです! それに途中からじゃありません! 私の師匠は、最初からずっとお師匠さまだけです!」
「……はぁ? 四ヶ月?」
「あなたが誰かはわかりませんが……こんな風にお師匠さまを傷つけるおつもりなら、容赦はできません! 覚悟してください!」
「……四ヶ月、四ヶ月か。あの子の気配に気を取られて、正直よく見てなかったけど……へえ、これは……確かになかなかの逸材だね。一〇〇〇年に一人と言ったところか……あの子と同じ時代で、よくもまあこれだけの才が眠って――」
「アイシクルランス!」

 お師匠さまに教えていただいた氷の槍を放つ中級魔法で、今度はこちらから攻撃を仕掛けます。
 狙いは足下です。少々怪我をさせてしまうかもしれませんが、相手は不法侵入者の方ですので、多少は致し方ありません!

 しかしそんな私の気遣いなど無用だとばかりに、私の氷の槍は侵入者の方が何気なく放った同一の魔法で撃ち落とされてしまいました。
 空中で氷が砕け、粉々に破片が散って、パラパラと綺羅びやかにこの場に舞い降りてきます。

 驚愕だったのは、私が魔法名を唱えて全力で発動したのに対し、あちらは無言の後出しにもかかわらず、まったく同じ威力だったことでした。

 魔法における魔法陣、詠唱、そして魔法名は、魔法を発動するための補助具のようなものです。究極的に言えば、魔法を発動することに必ずしもそれらの予備動作は必要はありません。
 ですがそれらを使わない場合は当然、そのぶん魔法の難易度は飛躍的に上昇していきます。
 魔法陣も詠唱も魔法名もすべて用いないのであれば、その魔法を安定して発動させるなど至難の業です。

 一応、下級魔法であれば私も予備動作なしで発動することはできますが……。
 中級魔法をあんな一瞬で、後出しで、しかもわざわざ同じ威力になるよう調整して撃ち出すなんて、少なくとも今の私には絶対に不可能な所業でした。

「わかったでしょ? お前なら、今ので」

 密かに戦慄する私に、そんな内心を見透かしたかのように侵入者の方が語りかけてきます。

「……なにがですか」
「わざわざ言わなきゃわかんない? だったら言ってあげるよ。お前じゃワタシには敵わない。天地がひっくり返ろうともね。それだけの差がお前とワタシにはある」

 ……なにも言い返せませんでした。
 そんな私に、絶対の優位性を誇示するかのように侵入者の方が両腕を広げます。

「才能っていうのはね、磨かなきゃ意味も価値もないんだよ。ワタシが見てきたやつの中にも、自分の才にも気づけず、いたずらに上位者に消費され、飢えて朽ちて死にかけてるやつはごまんといた。まったくお前ら人類は『見る目』というやつがない。呆れるほどにね」

 くだらないとばかりに、侵入者の方が首を左右に振ります。

「で……それってさ、お前もそうだったでしょ。それだけの魔法の才能を持って産まれたっていうのに、まだその程度の魔法の腕。あの子に見つけてもらうまではくすぶってたと見える。あの子のもとで、ほんの数ヶ月でそれなりには磨かれたようだけど……それでもまだ、ワタシにとっては赤子のようなものだ。そんなんじゃワタシには敵わないよ」

 才能の原石だろうと、今はまだそこらに転がる石ころとなんら変わらない、なにをしたところで、今のお前じゃ敵いはしない。
 応戦する姿勢を崩さない私に、彼女は抗うのは無駄だとでも言うように、再度突きつけるように言います。

 それはハッタリでもなんでもなく、真実だと感じました。
 この方が何者かはわかりませんが、お師匠さまが作った魔法を突破してきていることは間違いないんです。

 おそらくはお師匠さまと同等か、及ばないまでも限りなく近い実力と技術を持つ、完成された生粋の魔術師。
 まだ中級魔法を習得途中の未熟な私では、客観的に見て敵わないのは道理です。

 でも……。

「それでも……私が引く理由にはなりません! お師匠さまとそのお屋敷をお守りするのは、弟子である私の使命です! たとえあなたを倒すことができなくても、騒ぎを聞きつけたお師匠さまかシィナちゃんが来るまでは耐えしのいでみせます……!」
「……はぁ。わかってないなぁ……」

 自分を鼓舞する意味も込めて放った私の宣言に、侵入者の方はため息とともに肩をすくめました。

「言ったぞワタシは。お前は赤子だ。吹けば飛ぶ塵芥だ。踏めば死ぬ小虫だ。そんなものをひねりつぶすのに、時間なんていりゃしない」
「だとしてもです!」
「ふん、生意気だなぁ小娘が……だったらそんな愚かなお前に、ワタシが良い提案をしてあげる」
「提案……?」
「そう、提案。簡潔に言えば、ワタシの言う条件を一つ飲めば、お優しいワタシがお前を見逃してやろうっていうね」
「……」
「せっかく生きてるんだ。お前だって、こんなところで死にたくはないでしょ?」
「……その条件とは?」

 聞き返しはしましたが、たとえどんな条件でも、その提案を私は聞き入れるつもりはありませんでした。
 ただ、こうして会話をしている間は、侵入者の方の注意を私に引きつけ、効果的に時間稼ぎをすることができます。
 力の差が明白な以上は、できるだけ会話を長引かせるのが吉なはずです。

 それに、その条件とやらを聞き出すことで、この侵入者の方の目的の一片でも知ることができるかもしれない。
 そんな思いで、私は話の続きを促しました。

 しかし次に提示されたその条件は、わかってはいましたが、私にとっては到底受け入れがたいものでした。

「あの子の、ハロのもとを去れ」
「っ……」
「一〇〇〇年に一人……ああ、まったく素晴らしい才能だね。それは人類の至宝と言って差し支えないほどのものだ。でもね、あの子は違うんだ。あの子はそんな程度(・・・・・)で収まる器じゃない。あの子はただ一人……この世の果てにさえ手が届くと思わせるほどの、どの時代の誰にも持ち得ない、星のごとき眩い光を持っている」

 まるで焦がれるかのように、侵入者の方が空へと手を掲げます。

「このくだらない壊れかけの世界で、なにかを美しいと感じたのは、あれが始めてだった。伸ばしても、伸ばしても……いくら人が星に手を伸ばしても届きはしないように、誰にも届き得ない遠い場所に、あの子は立っていた」
「……」
「お前には魔法の才能がある。あの子を除けば、おそらくこの時代で最高のね。でも、そんなものは関係がないの。たとえこの先どれだけ努力を重ねようと、しょせん人の枠に収まってるお前ごときじゃ……どうせ一緒にいたって、あの子の力になんてなれはしない。お前が今やってることはね、全部無駄なの。全部が全部、無意味で無価値。さっさと去った方がお前のためだよ」
「っ……! ふざけないでくださいっ!」

 私はお師匠さまと過ごしてきた思い出を侮辱されているかのような憤りを覚えていました。
 どんなことでも、お師匠さまと過ごした日々であれば、私はいつでも思い返せます。

 お師匠さまは言ってくださいました。
 お母さんに捨てられて、生きるための希望すら見つからなかった私に、私には私だけの価値があるって。

 お師匠さまは言ってくださいました。
 本当は魔法の才能なんか関係なくて……ただ私がほしいと思ったから、一緒にいたいと思ったから、私を選んでくれたんだって。

 お師匠さまと出会えたから、私はまた笑えるようになって。
 お師匠さまと出会えたから、私は初めて温かいご飯の味を知ることができて……。
 他にもたくさん、お師匠さまにはいろんなものをもらいました。

 まだほんの数ヶ月の付き合いでしかありませんが、私にとってお師匠さまは世界で一番大好きな人です。
 この人のためになら、私はなんだってできる。そう思えるほど大切な人なんです。

 そんなかけがえのない人との思い出を今、なにも知らない、顔を見せようともしない赤の他人に踏みにじられている。

 時間稼ぎをしないといけないことはわかっています。
 それでも溢れ出る激情を前に、未熟な私は心を制御することができませんでした。

「お師匠さまとの才能の差がなんだって言うんですか! そんなこと関係ありません! 誰になんと言われようと、私はお師匠さまのただ一人の一番弟子で、家族です! ずっと一緒にいます……! 魔法の腕だって、あなたの言う通り届かないかもしれませんが……いつかお師匠さまの隣に並び立てるようになる努力だけは、絶対に怠りませんっ!」
「……ずっと一緒? ……並び立てるようになる?」
「はい……! 約束しましたから……お師匠さまと、死ぬまで一緒にいるって! それに私、無駄な努力なんて慣れっこです。お師匠さまに追いつくためなら、たとえ未来が見えていて届かないとわかっていたって、絶対に諦めません!」
「……」

 私の覚悟を聞いた侵入者の方は、どこか呆けたように立ち尽くしていました。
 この方がなにを考えているかは、わかりません。ですが、なにを言われようと私は自分の意志を曲げるつもりはありません……!
 私は懸命に侵入者の方を睨み続けます。

 そしてそのまま、数秒の時が流れます。
 すると、侵入者の方は次第にプルプルと肩を震わせ……なにやらブツブツと、私が言ったことの断片を復唱し始めました。

「……約束……死ぬまで一緒に……追いつく……届かないと、わかっていても……? ……ハ、ハハ、アハハ、アハハハハハハハッ!」
「っ、な、なにがおかしいんですか!」
「アハ、アハ、アハハッ! なんだお前。なんなんだお前。なんだそれ、なんだそれッ。アハハハハ!」

 突如として、侵入者の方が狂ったように笑い出します。
 それから私のさきほどの睨みに睨み返すように、ギロリと、鋭い視線が向けられた感覚がしました。

「あぁ……お前はなにもわかっちゃいない。死ぬまで一緒にいるだって? 届かなくたって諦めないだって? アハハッ。あのね……そんな陳腐な決意には、なんの価値もないんだよ。なにも知らないんだねお前は。あの子がお前に求めたのは、そんなものなんかじゃあない」
「……あなたが、お師匠さまのなにを知ってるっていうんですか」
「知ってるよ。お前よりはずっと知ってる。あの子の愚かしいほどの甘さも、あの子が抱える……果てのない苦しみと絶望も。だから、言ってやる」

 そこでようやく私は気づきました。
 侵入者の方の声に、身を焦がさんばかりの怒気が込められていることに。
 今あの方が、私と同等以上の質量を持つ憤怒で、その身を震わせていることに。

 侮辱されたのも、否定されたのも私のはずなのに、なにに対してそんなにも怒り狂っているのか、私にはまるで理解が及びませんでした。
 そんな風に困惑する私へと人差し指を突きつけて、変えようのない真実を告げるがごとく、侵入者の方は言い放ちます。

お前じゃハロを(・・・・・・・)救えない(・・・・)。少なくとも、そんな自己満足に浸っている間は絶対に」
「す、救う? お師匠さまを……? ど、どういうことですか……?」
「……わからないならいいよ。わかる必要もない。どうせお前はこれまで、耳を傾けようともしていなかったんだろうから。必死に助けを乞うあの子の、言葉にならない嘆きの声に……」

 侵入者の方はユラリと脱力し、ローブをはためかせます。

 怒り、だけじゃありませんでした。
 今の言葉には、悲痛、後悔、罪の意識……いろんな負の感情が込められていたと、直感的にそう感じました。
 そしてそれらは決して偽物なんかじゃありません。

 ……本当に、なんなんでしょうこの方は……。
 当初はお師匠さまを一方で知っているだけの見知らぬ魔法使いの方かと思っていましたが、それにしてはお師匠さまのことを親しみを込めて呼んで、語っている気がします。
 それこそ、まるで旧知の仲であったかのように。

 で、でも……そんなことはありえません! ありえない……はずです。
 お師匠さまは言っていました。仲が良かったと言える知り合いはシィナちゃんと、お師匠さまのお師匠さまだけだって。
 可能性があるとすればお師匠さまのお師匠さまですが……その方は手のひらサイズの妖精さんみたいですし、今ここにいる侵入者の方は肌は一切見えませんがローブが普通の人と同じサイズです。聞いていた特徴とは合致しません。

 わ、わかりません。この方が何者なのか。なにが目的なのか……。

「……ふう」

 ふと、侵入者の方が自分を落ちつかせるように息をつきました。
 互いに怒りをぶつけ合っていたはずなのに、いつの間にか、奇妙な静寂が私たちの間に訪れていました。

 侵入者の方は空を仰ぐと、さきほどまでの激情が嘘であるかのように、静かに呟き始めます。

「ああ、まったく……なんでワタシこんなことを……まさか、期待? ……ああ、そうか。あの子が見初めた人間だからって、無為な期待をしすぎたのか……ワタシらしくもない。あの子にさえ叶えられなかったことが、他の誰かにできるはずもないのにね……」
「な、なにを言って……」
「ああ、お前。もういいよ」

 侵入者の方が何気なく、再び私に手を向けてきました。
 あまりにも自然な動作に、一瞬反応が遅れてしまいます。

 そしてその一瞬が命取りになるとは、その瞬間の私には到底思いもしないことでした。

「死ね」
「――え」

 気がつけば人一人を包み込めるほど巨大な雷撃が、私の目前に迫っていました。

 一目見ただけで、理解できました。打つ手がない。
 魔法が速すぎて、躱せない。躱さずに迎撃しようにも、間に合わない。間に合ったとしても、これは今までとは魔法の規模が違う。
 今目の前にあるこれは、私が習得している程度の魔法ではどうにもならない威力だと、一瞬で理解できるほどのもので。

 当たれば死ぬ。全身が電撃で焼け焦げて、肉の一片すら残さずに、灰になって果てる。
 走馬灯すらなく。死ぬことを嫌だと思う感情すら置き去りにして……あっけない死の光景だけが、私の頭をよぎったのでした。

「――フィ、リアちゃ!」

 ……咄嗟にシィナちゃんが駆けつけてくれていなければ、その未来は間違いなく現実のものとなっていたことでしょう。

 いつもは結構なお寝坊さんなシィナちゃんですが、騒ぎを聞きつけて目を覚まし、急いで駆けつけてくれたようでした。

 玄関の方から、たった一足で私の前に飛び込んできた彼女が、空中で身を捻らせながら両手に持った剣を振るい、私一人では避けようのなかった終わりの未来を斬り裂きます。
 粉々に散った雷撃は私の左右と頭上を抜けていき、背後の木々に直撃し、激しく燃え上がらせました。

 シィナちゃんは飛び込んできた時の勢いでそのまま少し遠くに着地してしまいましたが、すぐに戻ってくると、私を守るようにして立ちふさがりました。

「シ、シィナちゃん……あ、ありがとうございます……」

 シィナちゃんが来てくれなければ死んでいたという実感が、一拍置いて私を襲い、ヘナヘナと崩れ落ちてしまいます。
 それなりに魔法は使えますが、あいにく戦いなんてものとは縁がなかった私は、あれだけで足がすくんで動けなくなってしまいました。
 いくら立ち上がろうとしても、立ち上がれません。

 うぅ、情けないです……。

 シィナちゃんはそんな私をチラリと一瞥した後、いつになく真剣な眼で侵入者の方に向き合いました。

 剣を構え、尻尾もピンと立っていて、完全に臨戦態勢。
 どことなく……いえ、心の底から激怒している。そんな印象も受けました。

「なんだ、お前。邪魔すんなよな」
「…………じょうきょう、は……よく、わからない……けど」

 あいかわらず、まるでこちらを見下すように憮然と立ち尽くす侵入者の方へ向かって、シィナちゃんがグッと両足に力を入れます。

「とりあえず……たおす。はなしは……それから」

 ドンッ! と、地面が抉れるほどの踏み込みで、シィナちゃんが凄まじい速度の突撃をかましました。
 瞬きの間に接近したシィナちゃんに、しかし侵入者の方も、なんら慌てることなく対応をします。

 剣を振るおうとしたシィナちゃんの足元の地面を、無詠唱の土の魔法でわずかに揺らし。
 バランスが崩れて一瞬生じたシィナちゃんの隙を、火の魔法で容赦なく攻める。

 シィナちゃんの方が明らかに動きは速いのに、脳と直結し反射しているかのような一切の予備動作なしの魔法がその差を埋めていました。

 だけどシィナちゃんも負けていません。
 無理な体勢からでも剣を引き戻して火炎を斬り裂いて、そのせいでさらに重心がめちゃくちゃになって倒れそうになったところ、片手で逆立ちをして死角からの蹴りで侵入者の方を蹴り飛ばします。

「……? いまの、かんしょく、は……?」
「ちっ、面倒だなぁ」

 吹き飛ばされた侵入者の方が後ずさりながら、愚痴るかのようにこぼします。

 Sランク冒険者であるシィナちゃんと、お師匠さまに匹敵するかもしれないほどの魔法使い。
 人類最高峰の力を持つ二人の戦いが今、始まっていたのでした。