「……」
街と街を繋ぐ舗装された道路の脇を、フヨフヨと飛んで進む。
時折、馬車や冒険者と思しきやつらが通りかかるけれど、ワタシの存在に気づいた素振りはない。
誰もかれも、まるでワタシが存在しないかのように、一瞥も視線を寄越すことなく通り過ぎていく。
その通りかかるやつらを、煩わしいと思いつつも、ワタシは逐一観察した。
いない。いない。
……いない。
「……あれ?」
「ん? どうかしたか?」
「……なにもいない? うーん……気のせいだったみたい。気にしないで」
ワタシが注意を向けた時、反応を示したやつがいた。
魔力の感知能力が高いのか、第六感が優れているのか。
杖を持っているから前者か。
たまに、こうしてワタシの気配に感づくやつはいる。
感知能力が高いエルフや、第六感に優れた獣人の場合が多いが、人間のような特筆すべき個性を持たない輩も、たまにこうしてワタシの存在に気づく。
そういうやつは得てして才能がある。
ワタシの存在に違和感を持った、あの魔法使いっぽいやつも、見たところまだまだ未熟ではあるが、いずれ一流と呼ばれる程度の実力は身につけるだろう。
世間一般で言うところの、将来有望というやつだ。
……あの子に比べたら……いや。
あの子とは、比べることすらおこがましい陳腐な才能に過ぎないが。
「……」
あちらはなにかしら違和感を覚えたようだったが、ワタシとしては別に興味も関心もなかったので、そのまま近くを飛んで行って過ぎ去る。
しばらくそうして人間観察しながら進んでいたが、残念ながら、ワタシが探していた人物は見当たらなかった。
まあ、わかっていたことだ。
あの子は戦うのが嫌いだった。生き物を殺すことも。血を見ることも。
初めて魔物を殺した時でさえ、顔を真っ青にして吐いていたくらいだ。
脆く、弱く……争いで溢れたこの世界には似つかわしくない、まったくもって脆弱極まりない精神。
そんなあの子が、積極的に冒険者活動なんてするはずがない。
もし、あの子がいるとしたら……。
「……やっぱり、あの街か」
道路の先にある、少し大きな街を遠目に見て、一人呟く。
……うん。そうだ。この魔力、この波動……間違いない。
遠くからでも感じ取れるこれは、紛れもなくあの子のものだ。
やっと、見つけた。
「今、会いに行くからね」
あの日離れ離れになってしまってから、もう数年ほど時が経ってしまっている。
ワタシにとっては大した時間ではないけれど、あの子にとってはきっとそうではない。
あの子は今、どんな風になっているだろう。少しは背も伸びて、成長してるのかな。
……しっかりしてるように見えて見通しが甘いところが多々あるから、騙されて奴隷にでもされてないか心配だ。
別れる間際くらいには多少はマシになっていたけど、出会った当初は四六時中ワタシが守ってやらなければ、今にも死んでしまいそうなくらい危なっかしくて……当時は本当にめんどくさかった。
あくまで当時は、だけれど。
昔のことを思い返して、自然と笑みがこぼれる。
なんにせよ、もしあの子自身の意思以外で奴隷になんかされてしまっていたら、街ごと焼き尽くしてあの子を連れ出すだけだ。
この世界に、あの子以外に価値あるものなんてないんだから。唯一価値あるあの子を害するなら、そんなものは滅んでいい。
「フフ、フフフ、アハハハ……!」
翅を羽ばたかせ、魔力の粒子を撒き散らしながら、くるりくるりとその場で回る。
もしもたとえ犯され、汚され、廃人になっていたって……ワタシはいつまでもそばにいてあげるからね。
忘れたいと願うなら、ワタシが全部忘れさせてあげる。
汚されたことが苦痛だったら、そんなこと気にならなくなるくらい、ワタシがぐちゃぐちゃに汚し直してあげる。
いつかすべてが嫌になったなら、ワタシが世界を滅ぼしてあげるからね。
あなたがワタシを解放してくれたあの日から、ワタシはあなただけのものだもの。
あなたのためなら、ワタシはなんだってしてあげられるの。
だからね……フフ。待っててね……ハロ。
「――お師匠さまの二つ名の由来……ですか?」
「……ん」
それは、ある晴れた日のことでした。
いつものように外で魔法の修行をしていると、シィナちゃんが私のところにやってきて、そんなことを聞いてきました。
魔法の修行を中断し、私が聞き返すと、シィナちゃんは短い返事とともにこくりと頷きます。
「確か、お師匠さまの二つ名と言うと……《至全の魔術師》、でしたよね?」
以前小耳に挟んだ呼び名を挙げてみます。
至全の魔術師と書いて、シュプリームウィザード……お師匠さまに与えられた二つ名だけあって、とても凛々しくかっこいいです!
「そう……それ」
なにか知らない? と言いたげに、シィナちゃんが私を見つめてきます。
おそらく、お師匠さまの弟子である私であれば知っていると思って、こうして聞きに来てくれたのでしょう。
そんなシィナちゃんの期待を裏切ってしまうのは少々心苦しかったのですが、私はフルフルと首を横に振りました。
「ごめんなさいシィナちゃん。お師匠さまがそう呼ばれていることは知ってますが、それ以上のことは私も……」
「……そう……」
ほんのちょっとだけ猫耳と尻尾がシュンと垂れ下がります。
落ち込んでいる彼女を見て、こう思ってしまうのはちょっと後ろめたいのですが……正直、ちょっと微笑ましいです。
どうやらシィナちゃんは、獣人としての耳や尻尾に感情の機微が現れることが多いようでした。
出会ったばかりの頃はここまで露骨ではなかった気がするので、おそらくこの家で暮らすうちに少しずつ……と言った感じのように思います。
シィナちゃんはいつも感情が抜け落ちたかのような無表情で、真っ赤に染まった目もちょっと怖い感じで……あんな風になってしまうくらい、相当な辛い経験をしてきただろうことは容易に想像がつきます。
そんなシィナちゃんでも、徐々に普通の感情を取り戻していっているのだと思うと、私も自分のことのように嬉しいです。
シィナちゃんとはお師匠さまの気持ちを取り合う、いわゆるライバルではありますが……私を家族と呼んでくれるように、シィナちゃんも、私にとっては家族ですから。
「そうですね……お師匠さまに直接聞いてみるのはいかがでしょう? お師匠さまの二つ名なんですから、お師匠さまなら当然知ってるはずです!」
「…………」
「……えっと、シィナちゃん?」
名案……というよりは、当たり前の意見ですね。
私がそれを口にすると、どうしてかシィナちゃんは答えに窮したように口ごもりました。
その反応を私が不思議に思っていると、シィナちゃんは軽く周りを見回した後、少し声を潜めるようにして言いました。
「……ハロ、ちゃ……は、じぶんの、ふたつ、な……あんまり、すきじゃ、ない……みたい、だから」
「そうなんですか?」
「……でも……もしか、したら……べつの、りゆうも……あるかも……しれな、くて。だから……フィリアちゃ、に……」
シィナちゃんは、あんまりおしゃべりが得意じゃありません。おそらく、これまでまともな人付き合いができないような過酷な環境にいたのでしょう。
たどたどしく、少し要領を得ない回答でしたが……なんとなく、言いたいことは伝わってきました。
要は、お師匠さまに気を遣わせてしまうかもしれないから、お師匠さまには内緒で知りたいみたいです。
だからお師匠さまじゃなくて、シィナちゃんの知り合いの中でお師匠さまの次に知っている可能性が高いであろう私に聞きにきたんですね。
同時に、さっきシィナちゃんが周りを見渡していたのも、お師匠さまが近くにいないか確認していたのだということに気づきます。
以前であれば、お師匠さまに付きっきりで修行を見てもらったりもしていましたが……最近のお師匠さまは忙しいことが多く、軽く指示をもらう程度で私一人で魔法の修行を行うことも少なくありません。
今日もそういう日でした。今、近くにお師匠さまはいません。
「んー……そうですね。シィナちゃん、今日はこの後って時間ありますか?」
「この、あと? ……きょう、は……ひま」
「じゃあ、一緒にお出かけしませんか?」
「おでか、け?」
シィナちゃんの猫耳が、ピコーン、と反応を示します。
「はい! お師匠さまの二つ名の謎に迫るため、二人で情報収集です!」
「……じょうほう、しゅうしゅう」
一見淡白そうな反応とは裏腹に、実際には興味津々のようで、尻尾がピンと立っています。
「でも、しゅぎょう、は……いいの?」
「大丈夫ですよ。元々お師匠さまからは、今朝教えて頂いた内容が終わったら自由時間にしていいと言われてまして、それに関してはもう終わっていますから」
お師匠さまに師事し始めた当初は、慣れないうちは危険だということで簡単な下級魔法しか教えてもらえませんでしたが、最近では中級以上の魔法も教えていただいています。
ただ、中級以上の、特に攻撃魔法の練習となると、やはり少なからず危険が存在することもあって、こういったお師匠さまが直接見れない時には簡単なことしか教えてもらえません。
今朝お師匠さまに教えていただいた内容も、修行を始めて数十分程度で習得が終わってしまって、現在は教わったことの反復練習をしていたところでした。
本当に簡単な内容だったので、一日でも早くお師匠さまに近づきたい身としては、ちょっとだけ不満だったのですが……私を心配しているからこそのことだと思うと、ちょっとだけ嬉しくなってしまいます。
「そういうわけなので、少し早めに切り上げるくらいなら大丈夫ですよ」
「……そっか。じゃあ、おでか、け……いい?」
「もちろんです!」
思えば、こうして自発的に外に出ることは初めてのように思います。
元々、外出の許可はもらっていましたが……お師匠さまと一緒に買い物などに出かける以外は、魔法の修行や勉強ばかりしていました。
お師匠さまは魔法の修行をしてはいけない日を決めたりと、私が頑張りすぎないようにといつも気を遣ってくださっています。
それもこれも、以前私が別の理由で顔を赤くしてしまったところを、無理のしすぎで熱を出したとお師匠さまに勘違いさせてしまったことが原因なのですが……。
……いつも心配してくれるお師匠さまのために、こうして定期的に自分の時間を作ってみることも、もしかしたら大事なことなのかもしれませんね。
というわけで、街中です!
いつもであればお師匠さまと一緒に来ていたところですが、今日はシィナちゃんとです!
お師匠さまには外出する前にその旨を伝えておきましたが、その時のお師匠さまは少し目を瞬かせた後に、「いってらっしゃい」と微笑みながら言ってくださいました。
そんなお師匠さまを見て、不覚にも胸の奥がキュンとしてしまいました。
うぅ、ここのところお師匠さまが可愛く見えてしかたありません……いえ、お師匠さまは元々私が見てきた中で一番美しく可愛らしいお方なのですが!
以前、お師匠さまを失っていたかもしれない不安感から、お師匠さまの私へのお気持ちを確認させていただいた時の経験も相まっているのでしょう。
あれ以来、お師匠さまへのお気持ちがどんどん溢れてきて、とどまることを知りません。
油断すると、つい理性のタガが外れそうになってしまいます……。
これではいけません! お師匠さまの弟子として、その肩書きにふさわしくないような言動はできる限り慎まなくては……!
特に、お師匠さまの前ではより一層注意を払わなければいけないでしょう。
お師匠さまの前で万が一にでもはしたない真似をしてしまわないよう、今一度気を引き締めなくてはいけません。
「……フィリア、ちゃ……?」
「あっ、すみませんシィナちゃん。ちょっとボーッとしてしまっていました」
お師匠さまのことを考えていると、シィナちゃんから少し心配そうな目で見られてしまいました。
お師匠さまへの思いから緩んでしまっていた顔と気持ちを引き締めて、私はシィナちゃんに向き直ります。
「まずは目的を整理しましょう。今日の目的は、お師匠さまの二つ名の謎に迫ること! 具体的には、お師匠さまの二つ名である《至全の魔術師》の由来と……至全という言葉の意味がよくわからないので、その意味を知ることです」
「ん……」
シィナちゃんがこくりと頷きます。
「そして、情報収集の基本は聞き込み調査ですっ!」
「ききこみ……?」
「はい、聞き込みですっ。二つ名というものは他の人に名づけられたもののはずですから、聞き込みを続けていけばいつかは真実にたどりつけるはずです」
「……なる、ほど…………でも……ききこみ……」
なにやらシィナちゃんが同じ単語を呟きます。
シィナちゃんはあまり人付き合いが得意な方ではないですから、少し不安なのかもしれません。
もしもここにいるのがお師匠さまなら、瞬く間にシィナちゃんを安心させてみせるのでしょう。
そして私はそんなお師匠さまの一番弟子です。
シィナちゃんのためにも、そしてお師匠さまに近づくためにも! ここはお師匠さまのもとで努力を重ねた私の成長の見せ所でしょう!
「大丈夫です、シィナちゃん。私に任せてください!」
――ぶるんっ!
シィナちゃんを安心させるべく、私は自分の胸を力強く叩いてみせました!
私の自信満々な言動に驚いたのか、シィナちゃんが一瞬目を見開きます。
「以前私はお師匠さまと一緒に、ふわふわのパンがどこかに売っていないか一緒に探して回った経験があります! その時のお師匠さまの教えがあれば、今日の目的も絶対に達成できるはずです!」
「…………」
「……? シィナちゃん?」
「あ……う、ん……フィリアちゃ、のこと……たよりに、してる……」
ハッとしたシィナちゃんが、慌てたように答えます。
少し動揺しているような、放心気味のような……。
視線も私の顔よりもちょっと下に向いてますし……いったいどうしたんでしょう。ちょっと様子がおかしいです。
うーん……やはりお師匠さまではなく、私だからでしょうか……。
お師匠さまと比べると頼りないことは自覚しています。
魔法以外のことでもお師匠さまに近づけるよう、もっと精進しないといけませんね……。
「…………」
ふと気がつくと、シィナちゃんがなにかを確かめるように自分の胸に手を当てていました。
……どうしたんでしょう?
「えっと、シィナちゃん? どうかしましたか?」
「っ、べ、べつに……なんでも、ない……なんで、も……」
「……?」
どことなく取り繕っているみたいにも見えましたが……シィナちゃんの反応はわかりづらいので、なんとも言えませんね。
なにかを誤魔化しているにしても、その内容に見当がつきません。
なのでたぶん私の気のせいなのでしょう。
「では、行きましょうかシィナちゃん。早速聞き込み開始です!」
「……ん」
屋敷の敷地外に出る時はいつもお師匠さまと一緒でしたから、シィナちゃんと並んで街を歩くというのが、ちょっとだけ新鮮です。
過ぎゆく街並みも、ほんの少し違って見える気がしました。
えへへ……いつもお師匠さまとご一緒の時は、お師匠さまの凛々しい横顔を盗み見てしまっていましたから。
もしかしたら、存外周りの景色があまり見えていなかったのかもしれませんね。
こころなしか、なんだか街の人たちがいつもより距離を取ってこちらを遠慮がちに伺っている気がします。
中には急に踵を返して走り出す人なんかもいたのですが……どうしたんでしょうね。なにか忘れ物でもしちゃったんでしょうか?
もしかしたら街の人たちって、おっちょこちょいな人が多いのかもしれません。
ふふ、なんだか親近感が湧きます。私もそうなので気持ちはよくわかるんです……!
……あっ! ヒソヒソと内緒話みたいなことをしてる奥さまがたを発見しました!
きっと噂話をしてるに違いありません! あのような情報通の方々なら、お師匠さまの二つ名の由来もご存知かもしれません!
これは是非お話を伺わなくては!
「すみませーん! ちょっとよろしいでしょうかっ」
「ぇ」
一瞬、シィナちゃんが戸惑った声を上げた気もしましたが……シィナちゃんは人と話すのが苦手ですからね。
大丈夫です。私に任せてください、シィナちゃん。
私はお師匠さまではないので、言葉だけではシィナちゃんを完全に安心させることはできないかもしれませんが、ならば行動で示してみせます!
「な……なにかしら?」
私が近寄ると、お一人が聞き返してくれました。
さて、会話の基本は挨拶です。質問の前に、まずは挨拶! これが大事です!
「こんにちは、私はフィリアと言いますっ。突然話しかけて、驚かせてしまったならごめんなさい」
「え、ええ、こんにちは、フィリアちゃん。驚いてはいないから大丈夫よ。それで、その……どうかしたのかしら?」
「実は、少しお聞きしたいことがあるんです。ご迷惑のこととは思うのですが、お答えいただくことはできませんか……? もちろん、忙しいようでしたら大丈夫です!」
「……」
私の話を聞いてくれていた奥さまは、他の奥さまと戸惑いがちに目線を合わせた後、コクリと頷いてくれました。
「大丈夫よ。少しだけなら……」
「本当ですかっ? ありがとうございます! では、これは私の魔法のお師匠さまに当たる一人のある冒険者の方の二つ名なのですが――」
お師匠さまのことと、お師匠さまの二つ名、そしてその由来を知っている人を探していることを伝えます。
奥さまは他の奥さまにも確認した後、申しわけなさそうに首を横に振りました。
「ごめんなさい。そのかたがこの街を中心に活動してらっしゃることは知っているけど、由来までは私たちも……」
「そうですか……」
「力になれなくてごめんなさいね、フィリアちゃん」
「いえいえ、お答えいただけただけでじゅうぶん助かってますから」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。そのかたの二つ名の由来、見つかるといいわね」
「はいっ。ご親切にありがとうございました!」
ペコリと頭を下げてから、シィナちゃんの方に戻ります。
シィナちゃんは少し離れたところで、小さく口を開けていました。
これは、呆けている……んでしょうか? なんていうか、ポカン、って感じです。
「……フィリア、ちゃ……すごい、ね……」
「そうですか? 頼りになるように見えたなら嬉しいですっ」
「……ん。みえた……フィリア、ちゃ、は……たよりに、なる。すごく」
シィナちゃんが、どこか尊敬にも近い眼差しで私を見上げてくれます。
えへへ、なんだかちょっとむずがゆいですね。
でも、ああしてお話を聞くことができたのは、私一人の成果じゃありません。
「シィナちゃんも、ありがとうございます」
「……? わたし……なにも、してない」
「そんなことありません。ずっと私のこと、後ろで見ていてくれましたから」
たまにお師匠さまがシィナちゃんにしているように、シィナちゃんの頭を撫でます。
「実を言うと、私、大人の人がちょっと怖いんです。昔はそうでもなかったんですけど……奴隷になってからは、いろんな大人の人から物を見られるような目で見られてきましたから。たぶん、そのせいなんでしょうね……」
「フィリア、ちゃ、って……そういえば……ハロちゃん、の……どれい、だったっけ」
「はい。でも、お師匠さまから酷い扱いをされたことなんて一度もありませんよ。お師匠さまは私のことを、いつだって家族の一人として扱ってくれますから」
……でももし酷いことされたとしても、お師匠さまになら……えへ、えへへへ……。
必死に悪ぶろうとするお師匠さま……可愛いです。食べちゃいたいです……。
「……えっと……フィリア、ちゃ……?」
「はっ!? じゅるっ、んん! ご、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃったみたいです。あはは……」
いけませんいけません、よだれまで出ちゃってました……!
ブンブンと頭を振って全力で妄想を振り払います!
うぅ、慎まなくちゃいけないって考えたばかりなのに……こんなはしたない姿、お師匠さまには絶対見せられません。
シィナちゃんから少し不思議そうな眼で見られてしまいましたが、軽く咳払いをして誤魔化しました。
「と、とにかくですね。そういうわけなので、ああいう風に話しかけるのって実は少し怖かったんです。でもシィナちゃんがいてくれたおかげで、勇気を持つことができました。だから……ありがとうございます、シィナちゃん」
「……」
思えば、今まで私がお師匠さまとご一緒の時以外は外に出ようとすら思わなかったのも、一人で大人の人に会おうとすることを無意識に避けていたからなのかもしれません。
私とお師匠さまは定期的に二人で食材の買い出しに出かけますが、そういう時だって手分けなどはせず、お師匠さまはいつだって私の目の届くところにいてくださいました。
……もしかしたら。
いえ、きっとお師匠さまは、私が大人の人を怖がっていることを察して、気を遣ってくださっていたんだと思います。
やっぱり、私なんてまだまだです。
魔法も、それ以外のことも、お師匠さまには全然及びません。
だから頑張らなくちゃいけません。
もっともっと頑張って、いつかお師匠さまの隣に立っても恥ずかしくないような、いつかそんな立派な大人の女性になるんです!
「フィリアちゃ、は……やっぱり……すごい、ね」
「そう、ですか? 結局私一人じゃなにもできなかったので、そう改めて褒められるほどではないと思うのですが……」
今回大人の人に話しかけることができたのだって、さきほど言った通り、シィナちゃんが一緒にいてくれたからです。
一人だったなら、たぶん話しかけようとすら思いませんでした。
だけどシィナちゃんはふるふると首を静かに振ると、真剣な眼差しで私を見上げました。
「フィリアちゃん、は……すごい。それは、ぜったい。だから……わたし、も……がんばら、なきゃ」
シィナちゃんが、胸の前でグッと握り拳を作ります。
それから周囲を見渡すと、ちょうどお客さんが立ち去った、一つの露店に目を留めました。
「……いってくる」
通りを横切って、シィナちゃんが堂々とその露店の方へと向かいます。
「……シィナちゃん」
人と話すのが苦手なシィナちゃんが自ら聞き込みに動いた――。
相当の覚悟があったことは、容易に想像がつきました。
こちらに向けられた小さくも雄大な背中は、ここで待ってて、と暗に私に伝えてきていました。
……わかりました、シィナちゃん。それほどの覚悟があるのなら、私も余計なお節介を焼いたりはしません。
苦手を克服せんとするシィナちゃんの勇姿、ここで見守らせていただきます。
大丈夫です。シィナちゃんならきっとうまくやれます……!
応援してますからね、シィナちゃん!
「…………」
「げ、元気出してくださいシィナちゃん……」
トボトボと力ない足取りのシィナちゃんを慰めます。
猫耳も尻尾も、ぺたーん……と垂れ下がりきっていて、見るからに元気がありません。
何事にも動じないシィナちゃんがこれほどわかりやすく落ち込んでいるとなると、相当な落ち込み具合です……。
こうなってしまった原因はわかっています。
私はついさきほどの、シィナちゃんが奮起して露店商の方へ向かっていった時のことを振り返ります。
『……ねえ……』
『はいはい、いらっしゃいませー! なにか気になる品、でも…………えっ……』
『……こ、こんにち……は。えと……き、ききたいこと……ある。じかん、いい……?』
いいですいいです! 頑張ってますシィナちゃん! まずは挨拶! きちんとしてます!
その調子でお師匠さまの二つ名のこともお聞きしてしまいましょう!
……と、この時の私はのんきにそんなことを考えてましたね……。
『……あ、あの…………』
『……ブ、ブブ……《鮮血狂い》さま……?』
『え……あっ。ち、ちがっ……くない、けど……』
『……』
『……』
……そこから先は名状しがたい状況でした。
露店商の方が突然顔を真っ青にしてプルプル震え始めたかと思うと、口から泡を吹いて気絶して……。
本格的な騒ぎになってしまう前に、シィナちゃんの手を引いてあの場を離れたのは正解だったように思います。
露店商の方は気絶させた状態のまま放置してきてしまいましたが……あの場にいた他の人たちにどうにかしてもらうしかありませんね……。
――《鮮血狂い》。
それが、シィナちゃんの冒険者としての二つ名だそうです。
なんでも、血しぶきを浴びながら猟奇的な笑顔で魔物を惨殺していた姿からついた二つ名……とのことです。
……シィナちゃんに直接聞くのははばかられたので、情報収集と称し、シィナちゃんのそばを一時的に離れた際に、通りかかった方にお師匠さまの二つ名のことと一緒にこっそりお聞きしておきました。
もちろん、そんな噂話だけでは信じない人もいるでしょう。
でも、血しぶきを浴びながら魔物を討伐していた噂が本当なら、冒険者としての仕事を終えて帰ってきたシィナちゃんは全身血まみれのはずです。
きっとその姿を何度も街の方々に見られてしまったのでしょう。
それが数々の恐ろしい噂の裏づけを取る形になってしまって、徐々に街の人々からも避けられるようになってしまった……きっとそんな感じだと思います。
「…………はぁ……」
ひとまずシィナちゃんの心を落ちつけるのが先決だと思い、ちょうどよく視界に入った噴水の縁での休憩を提案しました。
水の音は心を癒やす効果があるそうなので、これでシィナちゃんも立ち直ってくれればと期待していたのですが……あまり効き目はないようで、シィナちゃんが何度目かともわからないため息をつきます。
「……わたし……そんなに、こわいのかな……」
シィナちゃんが噴水の方に少し体を傾けて、水面に映る自分の顔を覗きます。
時折自分の頬を引っ張ったり、普段から見開きがちな瞼を下げて、目つきを柔らかくしようとしてみたり……どうすれば怖く見えないか模索しているようでした。
「シィナちゃん……」
なにか私に、シィナちゃんにしてあげられることはないでしょうか……。
シィナちゃんは頑張ってます。
お師匠さまと出会う前のシィナちゃんが、どんなに冷徹で冷酷な子だったとしても……今のシィナちゃんは、そんな自分の残虐性と向き合いながら、一歩ずつ前に進もうとしています。
そうでなければ、露店商の方に自分から話しかけようとなんてしなかったはずです。
ただ言葉で励ます以外にできることがないかと考えていると、ふと、噴水の向こう側にある雑貨屋に目が留まりました。
ああいうお店には、小物を買うためにお師匠さまと一緒に何度か買い物に訪れていました。
そして私は、そんなお店のカウンターの向こうの棚の中に、ある物が飾られていたことを思い出します。
「……ちょっとここで待っていてください、シィナちゃん」
「フィリア、ちゃ……?」
腰にくくりつけてきていた巾着袋にきちんとお金が入っていることを確認すると、噴水の縁を離れて一人で雑貨屋に入ります。
何度かお師匠さまと訪れた雑貨屋とは違うお店だったので、同じ物があるか心配でしたが、幸いにも売られていたようでした。
かなり値が張りますが……少しでもシィナちゃんの力になれる可能性があるなら安いものです。
これまでお師匠さまから頂いてきたお小遣いのうち、持ってきていたぶんのほとんどを一気に使っちゃいます。
買い物を終えたらすぐにシィナちゃんのところに戻ります。
「お待たせしました、シィナちゃん」
「おか、えり……なに、かってきた、の……?」
「それは後からのお楽しみです。まずは、そうですね……シィナちゃん、少しの間だけ背中を向けてもらってもいいですか?」
「……? ……わかっ、た……」
特に理由を問うこともせず、素直に体を反転してくれます。
そんなシィナちゃんに「少しほどきますね」と一声だけかけて、彼女のツインテールをほどきました。
そして、それらを再度結い直していきます。
「……できました! 見てみてください!」
「……みつあみ?」
「はい、三つ編みですっ。お師匠さまの髪を結って差し上げたくて、密かに勉強してたんです。あとは……これです!」
買ってきた物を渡すと、シィナちゃんは目をパチパチと瞬かせました。
「……メガ、ネ?」
「はい、メガネです。どうぞかけてみてください」
戸惑いつつも、シィナちゃんは私の言う通りにしてくれました。
「うんうん、いいですね。思った通り似合ってます」
私のその言葉に、シィナちゃんも噴水の水面を見下ろして、そこに映る自分の姿を確認します。
すると、シィナちゃんは少しむず痒そうに身じろぎしました。
「……なんだ、か……ふそうおうに、みえる……」
「そんなことありませんよ。ちゃんと可愛いです!」
「でも……わた、し……ほかの、メガネかけてる、すごいひとたち……みたいに……あたま、よくない」
「オシャレなんだからいいんです! さ、シィナちゃん、ついてきてください!」
「え。ど、どこに……」
シィナちゃんの手を引いて、人通りが多い大通りの方へ移動します。
いくら体のいい言葉を並べたところで、一時しのぎの慰めにしかなりません。
実際に証明してこそ、シィナちゃんも本当の意味で自信を持てるようになるはずです!
「すみません! ちょっとよろしいでしょうか?」
早速、近くを通りかかった女の方に駆け寄ります。
どうやらお師匠さまやシィナちゃんと同じ冒険者の方のようで、巨大な斧と、急所と思しき箇所を守る金属製の鎧を身につけています。
その方は声をかけた私の方を見やると、怪訝そうに眉をひそめました。
「なんだい? あんた。依頼ならギルドを通してもらいたいんだけど」
「依頼ではないのですが、聞きたいことがあるんです。少しお時間いただくことはできませんか?」
「はぁ? 聞きたいこと? そんなもん他のやつに……んんっ?」
最初はそっけない反応だった冒険者の方ですが、私の後ろにさり気なく隠れていたシィナちゃんを見つけると、徐々に顔を引きつらせていきました。
「あ、あんた……まさか、《鮮血狂い》……?」
わなわなと唇を震わせながら、冒険者の方が戦慄したように疑問を吐き出します。
こんな少し怖そうな人もこのように声を震わせてしまう辺り、シィナちゃんの知名度は良くも悪くも、やはり相当なものなのでしょうね。
やっぱり……と、シィナちゃんが諦めるように下を向きかけたのが視界の端に見えました。
でも、シィナちゃん! 諦めるのはまだ早いです!
私は素早くシィナちゃんの後ろに回ると、その両肩に手を置いて、自慢の妹を紹介するかのように笑ってみせました。
「はい! こちらは《鮮血狂い》こと、私の家族のシィナちゃんです!」
「か、家族……? あんたが、《鮮血狂い》の……?」
「はいっ。一緒に住んでるんですが、今日は一緒にお出かけしてまして……見てみてください、この三つ編みとメガネ! シィナちゃん、今日はいつもとちょっと違うオシャレをしてるんですよ! 可愛いと思いませんか?」
「…………か、可愛いんじゃないか?」
「ですよね! 可愛いですよね!」
と、私と冒険者の方が会話をしている間、私の後ろに隠れていたはずが突然前に押し出されたシィナちゃんは、少し混乱したように視線を右往左往させていました。
そして自分が会話の中心になっている不安を押し隠すように、所在なさげに私の服の裾を後ろ手で握ります。
その引っ込み思案な仕草からは、噂のような残虐性など欠片も見受けられません。
ちょっと内気な、ただの一人の女の子です。
そんなシィナちゃんの反応に少し虚を突かれたように、冒険者の方が目を瞬かせます。
それから、少し気まずそうに頭をかきました。
「えぇと……それで、聞きたいことっていうのは……?」
「答えていただけるんですか?」
「ま、まぁ、少しだけなら……」
「ありがとうございます!」
私はシィナちゃんの背中をポンと押して、小声でささやきました。
「それじゃあシィナちゃん。あとはお願いしますね」
「……!? わ、わたし……?」
「大丈夫です、私がついてますから」
「…………わ、わかっ、た……やって、みる……」
シィナちゃんが勇気を振り絞るように一歩前に出ます。
「……その……ハ、ハロちゃ、の……ふたつ、な……の……ゆらい、しりたくて……な、なにか、しらない……?」
「っ……ハロちゃって誰のことだ……?」
「……しゅ、しゅぷりーむうぃざーど、って……よばれてる、エルフの、Sランクの……」
「ああ……あんたがご執心だって噂の、あの……」
「……? ごしゅうしん……?」
「ああいやなんでもないっ! そ、そうだな、二つ名の由来か……悪いがあたしは知らないな……あたしはあくまで戦士だ。魔法使いの冒険者なら知ってるかもしれないが……」
「……そう……」
シィナちゃんが、じっと冒険者の方を見つめます。
「…………な、なんだ? 他にもなにかあるのか?」
「……その……」
「……」
「……こ……こたえて、くれて……ありがと……」
「へ……? ……あ、ああ」
それだけ言うと、シィナちゃんは冒険者の方に背中を向け、急いで私の後ろに隠れました。
シィナちゃん、メガネは頭が良い人だけがつけてるものだと思ってたみたいですし……慣れないオシャレをしてる状態で知らない人と面と向かって話すのが、少し恥ずかしかったのかもしれません。
なんだかちょっと微笑ましいです。
「……なんというか……今まで《鮮血狂い》のこと、少し誤解していたのかもしれないな」
冒険者の方もそんなシィナちゃんを見て、肩の力が抜けたようでした。
この様子なら、もうシィナちゃんのことを冷酷非道な殺戮者だなんて思ってはいなさそうです。
今後はシィナちゃんのことを、一人の女の子として見てくれることでしょう。
思わず笑みをこぼしてしまいながら、私はペコリと頭を下げました。
「それじゃあ、私たちはそろそろ行きますね。私からも、答えていただいてありがとうでした!」
「ああ。あたしにとっても悪くない時間だった。調べ物、うまくいくことを祈ってるよ……じゃあね」
ヒラヒラとクールに手を振りながら、冒険者の方は去っていきました。
最初はちょっと怖い人かとも思いましたが、割と気の良い人でしたね。
冒険者の方を見送った後、私はくるりとシィナちゃんの方に振り返りました。
「シィナちゃん、やりましたね! 聞き込み成功です! ほら、どうですか? ちょっとオシャレしてみるだけでも、シィナちゃんだって私やお師匠さま以外とも、ああやって普通の女の子みたいにちゃんとお話できるんですよ!」
「……ふつうの……おんなの、こ、みたいに……」
「はい!」
「……」
「……シィナちゃん? ……シィナちゃん!?」
無表情のまま、シィナちゃんが突然ポロポロと泣き出しちゃいました!?
えっ、どうしたんですかっ? どこかぶつけちゃったんですか!?
わ、私、回復魔法はまだ正式には習ってないので、以前お師匠さまに使っていただいたものを見様見真似するくらいしかできないのですが……!?
「ち……ちがう、の……うれ、しくて……」
「う、嬉しいですか……?」
私がオロオロと慌てていると、シィナちゃんが首を横に振りながら感慨深そうに言いました。
「ずっと、みんなに……しろいめで、みられて……さけられ、て。こんなわたし、なんて……ハロちゃ、いがい、とは……ふつうのおんなのこみたいに、いきるのは……むりなんだって……あきらめてた、から……」
「シ、シィナちゃん……」
「……こんな、かんたんな、ことで……かわれる、なんて……」
「そ、それは違いますよ、シィナちゃん。さっきはオシャレしてみるだけでと言いましたが……あくまでそれはきっかけです。この結果は、シィナちゃんが今まで頑張ってきたからです」
「フィリア、ちゃ……」
シィナちゃんのメガネを取ってあげて、持ってきていたハンカチでシィナちゃんの涙を拭います。
シィナちゃんを励ますのには成功したみたいですが、成功しすぎちゃったみたいですね……。
とにかく今は、この場を離れるのが先決でしょう。
ここ大通りなので、結構人の視線が集まっちゃってます……。
シィナちゃんの手を引いて、さきほどの噴水のところまで戻ります。
その頃には、シィナちゃんも泣き止んでいました。
「……ありが、とう……フィリア、ちゃ……」
水の音が持つ心を癒やす効果が、今度はちゃんと働いてくれていたようでした。
落ちついたシィナちゃんが、ほんのわずかに顔をほころばせます。
かすかとは言え、シィナちゃんが笑っているところを見るのは初めてでした。
小さな蕾が花開いたかのような微笑みに、自然と私の頬も緩みます。
私はお師匠さま一筋ですので見惚れることはありませんが……冷酷な噂ばかりだったシィナちゃんにお師匠さまが手を差し伸べた理由も、少しわかった気がしました。
お師匠さまは……笑顔を忘れてしまったシィナちゃんの、笑った顔が見たかったんですね。
「これくらい当然です。家族ですから」
「……かぞく」
「はい、家族です」
きっとお師匠さまならこう言うはずです。
無論、私も同じ気持ちです!
「……ハロちゃん、が……フィリアちゃ、を……だいじに、おもう……りゆう。わかった……きがする」
シィナちゃんはどこか嬉しそうに……それでいて恥じ入るように、顔を俯かせました。
「……わたし……じぶんが、はずかしい……」
「恥ずかしい、ですか?」
「……ん。フィリアちゃ、に、ないしょで……ハロちゃん、に……あんなこと、して……」
「……え。私に内緒で、お師匠さまに……あ、あんなこと……?」
「そう……あんなことや……こんなこと、しちゃって」
「あ、あんなことやこんなことっ!? え、な、なんですか……? ど、どういうことなんです……!?」
「……それは……」
「そ、それは……?」
「…………あ」
そこでシィナちゃんが、なにかに気づいたように顔を上げます。
その視線の先には、冒険者ギルドが存在する方向を指し示す看板が立っていました。
それをしばらく見つめていたかと思うと、突如シィナちゃんが立ち上がります。
「そう、だ……ハロちゃの、ふたつなの、ゆらい……ぜったいしってる、ひと……おもい、だした」
「え。お、お師匠さまの二つ名の由来を、絶対知ってる人……? あの……今はそんなことより、シィナちゃんがお師匠さまにしたということの説明を」
「いこう、フィリアちゃん……! こんどこそ、わたしが……フィリアちゃん、の……やくに、たつ……!」
「えっ、えっあのっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいシィナちゃん!? まだ話は――」
今度はシィナちゃんが私の手を引いて歩き出します。
まだ聞きたいことがあったので引き留めようとしたのですが……ダメですこれ! シィナちゃん力強すぎです!
というか差がありすぎて、そもそも私が抵抗してることにすらシィナちゃん気づいてません!
え、なんですかっ? シィナちゃんがお師匠さまにしたことってなんなんですか!?
あんなことやこんなことってなんだったんですかっ!?
まるで話を聞かないシィナちゃんに手を引かれ、あれよこれよという間に冒険者ギルドの前にたどりつきます。
そして私がさきほどのことを問い直すよりも早く、シィナちゃんは意気揚々と入り口の扉を開け放ったのでした。
冒険者ギルドの入り口の扉をくぐると、シィナちゃんは私の手を握ったまま、ずんずんと奥の方に歩いていきます。
危険な噂が尽きないシィナちゃんが突如として来訪したからか、建物内の喧騒が一気に静まり返っていましたが、シィナちゃんは一切気にする様子を見せません。
うぅ、やっぱりシィナちゃんは冒険者の間でもかなり有名みたいですね。
こんなに注目が集まっているとなると、シィナちゃんがお師匠さまにしてしまったというあんなことやこんなことについて掘り返してお聞きするのは避けた方がよさそうです……。
その、もしあんなことやこんなことが私の想像通りだったとしたら、お師匠さまの名誉が……。
……も、もちろん私が想像してるようなことじゃない可能性は全然あるんですが!
……どんなことを想像しているかは、秘密です……。
「……こん、にち……は……!」
「こ、こんにちは……?」
迷いのない足取りで窓口までやってくると、シィナちゃんは「まずは挨拶!」とばかりに受付嬢さんに気合がこもった挨拶を繰り出します。
この受付嬢さんはシィナちゃんと接するのも慣れているのか、少々戸惑った様子はあれど、怯えている気配はありません。
「あの、本日はどのようなご用件で……」
「……ギルド、マスター……」
「ギルドマスター……? ギルドマスターになにかご用事ですか?」
「……ん。そう……ギルド、マスターと……めんかい? ……したい」
め、面会? ここのギルドマスターさんとですかっ?
あ。もしかしてシィナちゃんが言ってたお師匠さまの二つ名の由来を絶対に知ってる人って、そのギルドマスターの方のことだったんでしょうか。
冒険者ギルドの責任者の方ともなれば、確かに知ってるでしょうけど……こんな個人的な理由で会うのは不可能ではないですか……?
それともシィナちゃんには、なにかギルドマスターほどの偉い人と面会にこぎつけることができる秘策が……?
「面会ですか……? でしたら、ギルドマスターにお伝えする内容について先に軽く伺いたく思いますがよろしいでしょうか」
「さきに……?」
「はい。ギルドマスターは多忙な身ですので、重要な案件でない限りは面会の許可を出すことはできません」
「…………そう、なんだ……」
「はい……そうなんです」
「……」
「……」
……気まずい沈黙が二人の間に流れます。
シィナちゃん、やっぱりノープランだったんですね……。
「……それで、えぇと、本日はどのような理由でギルドマスターとご面会の希望を……」
「……あの……その…………え、えと…………」
半ば勢いでここまで来たシィナちゃんも、さすがにお師匠さまの二つ名の由来を知りたいという理由だけで面会できるとは思っていないようです。
なにか良い建前がないかと必死に思考をかき回しているようでしたが、残念ながら打開策は思いつかないようでした。
「……とくに……りゆうは……」
「では、申しわけありませんが、許可を出すことはできませんね……」
「……そう……」
あぅ……。
シィナちゃん、また落ち込んでしまいました……せっかく元気になってくれたのに……。
猫耳と尻尾が一緒に垂れ下がって、ショボボボーン……という感じです。
ギルドマスターさんとなんとか話せれば元気を取り戻すことはできると思いますが、冒険者ギルドは今まで関わりがない場所でしたし、私も特に案は思いつきません。
私のためにと張り切って連れてきてくれたシィナちゃんの気持ちを思うと心苦しいですが、やはりギルドマスターさんに会うのは諦めた方がよさそうです……。
これ以上受付嬢さんのお仕事の邪魔をするわけにもいきません。
私はシィナちゃんに、冒険者ギルドを立ち去ることを提案しようとしました。
「なんだ、妙に静かだな。なにかあったか?」
そんな時、疑問の声とともに窓口の奥の方から職員の一人と思しき方が姿を現しました。
とても凛々しい雰囲気を纏った女性の方です。
左目に痛々しい裂傷の跡が残っているのが印象的で、生気のない虚ろな瞳孔が瞼の間から垣間見えました。
ですが、もう片方の目には確かな光が宿っています。
射抜くかのごときその視線は、強く鋭く、まるで刃のような印象を受けます。
「あ、ギルドマスター。お疲れさまです」
どうやらこの方がシィナちゃんが会おうとしていたギルドマスターご本人のようでした。
シィナちゃんの対応をしていた受付嬢さんが、気軽な様子で挨拶を投げかけます。
「ああ、貴様もな。それで、なにかあったのか? チェルシー」
「なにかあったというほどのことではないのですが……その、シィナさんが……」
「あれがどうした。また依頼先で問題でも起こしたか? 以前問題を起こしてからは、討伐依頼以外はほぼ受けられなくなっていたはずだが……まったく、Sランクは問題児ばかりで困るな」
そんなことを言いながらこちらに近づいてきたギルドマスターさんは、窓口の仕切りの影で隠れていたシィナちゃんの存在にようやく気がついたようでした。
「ん? あぁ、なんだ。直接来ていたのか。ならば、この静けさは貴様が原因か」
「……ギルド……マスター……」
シィナちゃんの猫耳が、ピコーン! と起き上がります。
ギルドマスターを見つめるシィナちゃんの視線にどこか期待の感情が込められている気がするのは気のせいではないでしょう。
……それはそうとシィナちゃん、当たり前のように問題児扱いされてたのですが、そこはスルーなんですね……。
とりあえず、その問題児の中にお師匠さまが含まれていないことを祈っておきましょう……。
「シィナさん、ギルドマスターと面会がしたいそうなんです」
「ほう? なにか重要な案件か?」
「いえ、特に理由はないそうで、断っていたところでした」
「……個人的な用事か。仕事中の相手にそんな都合が通るはずもないのだがな。あいかわらず貴様は常識が欠けているようだ」
こ、今度は非常識扱いを……。
これにはさしものシィナちゃんも、再び猫耳をヘナヘナとしおれさせてしまいます。
「まあいい。ちょうど休憩にしようと思っていたところだ。話があるなら聞こうじゃないか」
ピッコーンッ!
シィナちゃんの猫耳が跳ねるように反応を示します!
「よろしいのですか?」
「構わん。いい加減、《鮮血狂い》が来るたびにギルドがこんな空気になることにも対処せねばならん。私がこいつと何事もなく話している姿でも見せておけば、周囲のやつらの態度も多少は改善されるだろう」
「ギルドマスターは、自分の都合で人を傷つける方には容赦ないですからね。談笑している姿を見せることで、シィナさんがそのような人ではないと他の方々にも知らせられるというわけですか」
「そういうことだ……談笑と呼べるまでいくかはわからんがな。そこのテーブルで話をする。なにか問題が発生したなら呼びに来い」
「わかりました。後で三人ぶんのお飲み物をお持ちしますね」
「気が利くな」
「いえいえ、いつもお世話になっていますから」
受付嬢さん――チェルシーさんと言うみたいです――との会話を終えると、ギルドマスターさんはシィナちゃんと私に向き直りました。
「今言った通りだ。ここではチェルシーたちの仕事の邪魔になるからな。そこのテーブルで話を聞く。行くぞ」
「は、はい」
シィナちゃんは堂々と頷き、私は少し緊張しながら返事をします。
無意識のうちにシィナちゃんの手をギュッと握ってしまっていました。
ああして正面から見据えられると、ちょっと怖い感じです……なんとなく、悪い人ではないことはわかりますが……。
ギルドマスターさんにテーブルに案内され、促されるままに私とシィナちゃんは席につきます。
それからすぐにチェルシーさんがやってきて、三人分のお飲み物を置いていってくださいました。
「さて、初対面の者もいる。まずは自己紹介でもしておこうか」
チェルシーさんが立ち去ると、ギルドマスターさんがそう切り出しました。
「私の名はソパーダ・スード。このギルド支部のギルドマスターだ。かつてはそこの《鮮血狂い》と同様、冒険者をやっていた。よろしく頼む」
「は、はい。私はお師匠さま……じゃなくて、ハロ・ハロリ・ハローハロリンネの弟子のフィリアと言います。よろしくお願いします、ソパーダさん」
「ほう、やつの弟子か。それがやつを伴わず、《鮮血狂い》と肩を並べての来訪とは……さて、どんな理由で尋ねてきたか気になるものだな」
ソパーダさんは私たちの用事がお師匠さまに関係するものであると、すでに当たりをつけていたようでした。
木のコップを口に運びながら、私とシィナちゃんに話を切り出すことを促してきます。
私はシィナちゃんと視線を合わせて、こくりと頷き合いました。
「私たち、お師匠さまの二つ名の由来について気になって調べていたんです。でも、ここに来るまで何人かにお聞きしたんですが、誰も知らなくて……」
「……ギルドマスター、なら……しってる、と……おもった……」
「ふむ……なるほどな。冒険者ギルドが認めている二つ名であれば、当然そこのトップは由来を知っている。単純かつ明快な答えだ」
私たちの用件を把握したソパーダさんは、木のコップを机の上に戻して片肘をつきます。
「貴様たちの期待通り、やつの二つ名である《至全の魔術師》の由来であれば私が知っている」
「本当ですかっ?」
「ああ。もっとも魔法を専門とする者であれば、その二つ名を耳にしただけでも、ある程度は勘づくだろうがな」
二つ名を耳にしただけで勘づく……?
どういうことでしょう。私はまだお師匠さまから魔法を教わって数ヶ月くらいなので、全然わかりません……。
「やつがそう呼ばれるようになったのは、かつて発令されたある緊急依頼がきっかけだった」
私が頭の上に疑問符を浮かべていると、ソパーダさんが期待に応えるように説明を始めてくれました。
「その依頼とは、長き眠りから目覚めた強大な古竜、『鉄塵竜』の討伐だ。そいつは約半径一キロの金属類を自在に操る力を持っていてな……それらを武器や防具として扱う肉体派の冒険者にとって天敵とも呼べる存在だった」
「それ、しってる……ハロちゃ、が……げんわく、まほう? ……で、とうばつ、したって……」
「そうだ。かの脅威を討伐するため、多くの魔法使いの冒険者が集ったが……実質的には、やつがたった一人でその脅威を討伐してしまった。半径一キロより外側からの幻惑魔法などという、はっきり言って理解不能な所業でな……」
半径一キロの金属を操る……規模が大きすぎてよくわかりませんが、とても強そうです。
でもそんな強い古竜さんをたった一人で倒しちゃうなんて、さすがはお師匠さまですね!
「えっと……つまり、その魔法がものすごくすごかったから、お師匠さまは《至全の魔術師》と呼ばれるようになったということでいいんでしょうか?」
「それもあるが、それだけではない。一番の理由は、やつがその魔法を素手で発動していたことだ」
「……? それって普通じゃないんですか?」
「普通なものか。魔法を使う者は皆、本格的な魔法行使には杖や魔導書を必要とする。媒体としてな。常識だ」
じ、常識なんですか。知りませんでした……。
私、昔はただの村娘で魔法とは縁がありませんでしたし、いつもお師匠さま素手で魔法を使ってましたし、てっきりそういうものなのかと……。
「慣れた魔法、体に合った魔法であれば素手で使うことも可能だ。私もいくつか使える魔法はある。だが、それもごくわずか……そもそもあのように素手で魔法を扱うのは、本来は妖精族の魔法の使い方だ」
「妖精族ですか? それって……あの伝説の?」
昔、村にやってくる吟遊詩人さんが語るお話で聞いたことがありました。
なんでも言い伝えによると、かつて人類に魔法の恵みと奇跡を最初にもたらした種族が妖精族なんだそうです。
今はずいぶんと数を減らして、人目を逃れるように森の奥深くに隠れてしまっているそうなんですが……。
一説では、エルフの里で匿われているという話もあります。
私の確認に、ソパーダさんは頷きで返しました。
「妖精族は、肉体そのものが高い魔力伝導率を持つ。言うなれば肉体そのものが媒体なんだ。だから杖や魔導書に頼らず、その身一つで魔法を自在に行使することができる。自身ばかりか、自然の魔力まで使ってな」
「な、なんだかすごそうです」
「だがそのぶん、魔法の出力は人類と比べて遥かに劣るとされている。川の水ほどの魔力を使えるが、それをこの小さなコップ程度しか汲めないと言えばわかりやすいか」
ソパーダさんは言いながら、木のコップを軽く揺らして見せました。
無尽蔵と言えるほどの魔力がありますが、それを一気に使うようなことはできないということですね。
「そしてその妖精族の中に、ある異端の妖精が存在する」
「異端の妖精……ですか?」
「その妖精は、各地の伝承、伝説、おとぎ話、そして遥か昔を記した歴史の書物において、少なくとも千年以上前から実在が確認されている。その存在は常にその時代の魔法を極めた者の影にあり、その者に魔導の真髄を授けたとされ……一部の文献においては、《全》と謳われる者」
お師匠さまの二つ名の由来について、ついに核心に触れた気がしました。
私はゴクリと生唾を飲み込みます。
「かの妖精は本来妖精族が持つはずの魔力出力の上限を持たないとされている。そして貴様の師匠であるやつの魔法の使い方と、規格外の魔法……やつの姿を見た誰かが言った。あれはかの《全》の妖精に魔導のすべてを授けられた、今代最高の魔術師――《至全の魔術師》ではないかと」
「……それが、お師匠さまの二つ名の由来……」
「そうだ。やつの二つ名とは、いわばやつの師を指し示したもの。そしてやつがこの時代において最高の魔術師であることを証明する、唯一無二の称号だ」
お師匠さまの、お師匠さま――。
伝説の妖精族。その中でもさらに古来より伝わる、異端の妖精。《全》と謳われる者。
……よくわかりませんが、なんだかとってもすごそうです。
でも……その妖精さんは、常にその時代の魔法を極めた人のそばにいたんですよね?
だとしたら、どうして今、お師匠さまのそばにはいらっしゃらないんでしょう。
……なんだかちょっとだけ、そんなことが気になりました。
「……ふぅ」
赤みを帯びた夕暮れの明かりが窓から差し込み、部屋の中を照らしていた。
ずっと座っていたせいで、ちょっと腰が痛い。
結構な時間でもあるから、そろそろ夕食を作り始めないと食べる時間まで遅くなってしまう。
だけど後もう少しだからと、私は今一度心の中で奮起する。
――冒険者ギルドのギルドマスターことソパーダ・スードから出された、アモルを匿うことに協力してもらうことへの対価は三つだ。
一つが隷属契約の魔法の改良と寄贈、一つが魔物調教師の免許の取得、そして最後の一つが、今以上に冒険者ギルドに貢献しソパーダの仕事に協力すること。
魔物調教師の免許の取得は専門知識の勉強が必要になるから、そんなに早くは達成できない。ソパーダの仕事を手伝うことも継続的に払う対価であるので、すぐに終わらせるようなことは不可能である。
だけど三つのうちの一つ、隷属契約の魔法の改良に関しては、今の段階でも終わらせることは十二分に可能だ。
そんなこんなで、今日は朝からずっと新たな魔法の開発に勤しんでいた。
いつもならこんな魔法開発なんて滅多にしない、魔術師としては不真面目に分類される私ではあるが、私を姉と慕ってくれるアモルのためとなれば話は別である。
こんなにも真剣に魔法と向き合ったのはずいぶんと久しぶりな気がする。
私の師匠に当たるあの子との約束を果たそうと私なりに一所懸命だった、あの頃以来かもしれない。
「よし……それじゃあアモル、あともう一度だけお願いしていいかな」
魔導書に書き込んでいた手を止めて、隣に用意したイスに座っていたアモルに話しかける。
アモルは読んでいた絵本から私に視線を移すと、申しわけなさそうに絵本の背表紙で目元より下を隠した。
「また……いいの? ……しても」
「むしろ私の方からお願いしてるんだよ。アモルの力が必要なんだ。頼めるかな」
「……わかった。お姉ちゃんが望むなら……」
アモルは絵本を膝の上に置くと、その妖艶に微睡んだ眼で私を見つめた。
「いくよ? ……『あなたは、わたしの虜になる』」
「っ……」
「『あなたの体はわたしのもの。あなたの心はわたしのもの。あなたの魂はわたしのもの。あなたはもうわたしに逆らえない』」
アモルの魔眼の効果が発揮され、私は体の自由がきかなくなる。
だけどすぐにアモルは「『自分の意思で好きに動いてもいいよ』」と私の動きの抑制をなくしてくれる。
「よし、解析……」
魔眼にかかった時の感覚、そして命令を下された際の体内の術式の変化を魔法で集中して観測し、分析する。
今回の魔法の開発には、こんな感じでアモルにも協力してもらっていた。
なにを隠そうアモルの正体は……いや隠さないといけないんだけど、この子は淫魔だ。
精神を支配する隷属の魔法ともなれば、淫魔の十八番に当たる。
アモルはあまり魔法に詳しくないみたいだけど……その身が誇る適性の高さゆえか、アモルは精神に干渉する魔法についてならば、その術式の不備や非効率さに目ざとく気づくことができた。
もちろん私でも見抜くことはできるけど、単純に人手が二倍になるのはとても助かる。
さまざまな精神干渉系の魔法を記した魔導書をもとに、便利そうな術式を洗い出すことを手伝ってもらったりしていた。
そしてなによりも、アモルが保有するこの『魅了の魔眼』だ。
魔法と同様に術式を用いてはいるものの、これは厳密には魔法ではない、私が特性と呼んでいる類の力だ。
この特性というものは非常に厄介な代物で、魔法で完全な再現をすることができない。
だけどやはり術式という、魔法と同じ術理を用いているという点に間違いはなかった。
こうして自分で受けてみて術式の仕組みを直接確かめることで、参考にできる部分は大いにある。
「うん……なるほど。やっぱりこういう手順で……ありがとうアモル。これで魔法を完成させられそうだ」
「……」
「……アモル?」
少し、アモルの様子がおかしい。
不思議に思って彼女の方を向くと、彼女は私と視線を合わせることを恐れるように目線を斜め下にそらした。
だけどその一方で、離れたくないというように彼女の手は私の服の袖を摘んでいる。
「どうかした? アモル。大丈夫、私はどこにも行かないよ」
アモルがどうしてこんな反応をするのかまるでわからなかったものだから、内心ちょっと慌てながら、私の袖を摘むアモルの手を両手で包み込む。
アモルはそれで少しだけ安心してくれたのか、おずおずと口を開いた。
「お、お姉ちゃんは……その……こわく、ないの……?」
「えっと……怖い? なにがだい?」
質問の意図を理解できなかった私は首を傾げる。
「だから、えと……わ、わたしの魔眼……かかってるのに……わたしが魔力を込めて、なにか言うだけで……今のお姉ちゃん、少しもわたしに逆らえないのに……」
「え? ああ、そのことか……うん。別に怖くないよ」
「ど、どうして……? またわたし、お姉ちゃんに無理矢理ひどいこと、して……お姉ちゃんを……な、泣かせちゃうかも、しれないんだよ……?」
初めて会った日の夜にしでかしてしまったことを、アモルはまだ気にしていたようだ。
怯えたように涙目でそんなことを言うアモルに、私は思わずクスリと笑ってしまった。
「アモルはそんなことしないよ。私はアモルがそういう子だって知ってるから」
「……で、でも……」
「大丈夫だよ。アモルがどんな力を持ってたって、私はアモルを捨てたりなんかしない。アモルは私の妹なんだ。お姉ちゃんっていうのは、皆妹のことが大好きなんだよ」
ずいぶんと適当なことを言ってしまっている自覚はあったが、アモルを安心させるためならこれくらい言い切った方が効果的だろう。
私がアモルを抱き寄せると、アモルはさらにジワリと瞳を潤ませる。
堪え切れなくなったように私の胸の中に顔を埋めたアモルの背中を、よしよしと撫でてあげた。
人類とはまったく違う価値観の中で、ずっと仲間たちから蔑まれて生きてきたアモルの傷は深い。
捨てられるかも、と不安になる気持ちは、ふとした拍子でどうしても湧いてしまうんだろう。
「……おねえちゃんのむねのなか……すごく、きもちいいね。あったかくて……とっても、やわらかい」
「うーん、そうかな……? 私、あんまり体温高い方じゃないよ。胸もそんなに大きくないから、結構固いと思うけど……」
「んーん……そんなことない。わたし……ここ、すき。せかいでいちばん、すき……」
「ふふ、そっか。私もアモルのこと大好きだよ。世界で一番大切な妹だ。好きなだけ、甘えていいからね」
「うん……」
グリグリと頭を押しつけて、可愛らしく甘えてくる。少しだけくすぐったい。
「わたし……ずっと、ずっとおねえちゃんといっしょにいたい。しぬまで、ずっと……」
「一緒だよ。私なんかでいいなら、アモルが望む限り、ずっと」
「……えへ、へ……」
しばらくそうしてあやしてあげていると、胸の中からスースーと彼女の寝息が聞こえ始めた。
今日は一日中付き合ってもらっていたし、ずいぶんと疲れちゃってたみたいだ。
安心したように可愛らしい寝顔を見せるアモルに、私も自然と頬が緩む。
私はアモルが持っていた絵本を机の上に置くと、彼女を私のベッドに横たえて、そっと上から布団をかけた。
さて……あと少しだ。
アモルが起きる頃にはご飯を作り終えておきたいし、ちゃっちゃと書き上げちゃおうか。
机の前に戻ると、再びペンを持ち、気合いを入れて魔導書に向き直る。
アモルのおかげでここまでだいぶ効率的に進められたこともあり、スラスラと筆が進んでいった。
「……ふぅ。終わった……」
最後の一ページも無事に書き終えて、私はようやく完成した魔導書を閉じ、ペンを机の上に置いた。
朝からずっと続けていた作業がやっと終了し、肩の力が抜けたこともあって、なんだかドッと疲れが押し寄せてくる。
凝り固まった体をほぐすように、両腕を伸ばして伸びをする。
心地の良い独特の脱力感に包まれて、ちょっとばかり眠くなってきてしまったが、まだ寝るわけにはいかないので、軽く頭を振ってどうにか眠気を振り払う。
「……ん?」
少し休んだら夕食を作ろうと、背もたれに体を預け、アモルの幸せそうな寝姿を眺めて和んでいると、ノック音が部屋の中に響いた。
「入っていいよ」
「失礼します、お師匠さま」
ギィ、と扉を開けて、フィリアが部屋に入ってくる。
「帰ってたんだね。おかえり、フィリア」
「はい。ただいまです、お師匠さま」
いつもはもっと元気いっぱいなフィリアだが、寝ているアモルに配慮したのか、ちょっと控えめな声量の返答だ。
しかしその笑顔はいつも通りニコニコと、太陽のように眩しかった。
「フィリアは、今日はシィナと出かけてたんだよね。どうだった? 楽しかったかい?」
「はい、とても楽しかったです。今まで以上にシィナちゃんのことも知れて……帰り道の途中で、また一緒に出かける約束もしちゃいました」
「ふふ、そっか。それはいいね。二人の仲が良いと私も嬉しいよ」
いつも明るいせいで忘れがちになるけど、フィリアは奴隷だ。
半年ほどの間買い手がつかず、いろんな人たちに商品として見られてきた。そんな経験もあってか、彼女は心なしか他人を無意識に怖がる節があった。
今まで私が一緒の時以外は一度も街に出ようとはしなかったし、まだ人のことが怖いんだろうと心配していたんだけど……このぶんだと、もう心配する必要はなさそうだ。
「お師匠さまは今日はアモルちゃんと一緒だったんですね」
「ああ。アモルには、魔法を作るのを手伝ってもらってたんだ」
「魔法を……アモルちゃんとですか?」
「ギルドマスターに提示されたアモルのことを黙認する条件の一つに、隷属契約の魔法の改良があってね。アモルは淫魔だからそういう魔法には高い適性があるし、淫魔が持つ魔眼はこれ以上ない参考資料だから、少し協力してもらってたんだよ」
「なるほど、そうだったんですね……ギルドマスターからの……」
不意に考え込むようにしてフィリアが黙り込む。
「……? フィリア? どうかしたのかい?」
「あっ。いえ……その……」
「……おいで、フィリア」
悩みというほどではないが、なにか気がかりなことがある、と言った雰囲気。
私は微笑みながらフィリアに手招きをして、隣に座るように促した。
隣に腰かけたフィリアは、最初こそなにも言わずチラチラと私の様子を窺うだけだったが、やがて決心したように私に向き直った。
「あの……お師匠さまのお師匠さまって、どんな方だったんですか?」
「私の師匠? えっと……それは、魔法の?」
予想もしていなかった内容の質問に、私はパチパチと目を瞬かせた。
「はい。その、今日はシィナちゃんと一緒にお師匠さまの二つ名の由来について調べていて……冒険者ギルドのギルドマスター、ソパーダさんに聞いたんです。お師匠さまの二つ名は、お師匠さまのお師匠さまを元にしてるものだって」
「え……」
私の二つ名? それってあれ? あの《至全の魔術師》とかいう、なんかすごそうなんだけど意味はよくわからんやつ?
それの由来が、私の師匠……? どういうことなの……?
「各地の伝承や文献で《全》と謳われる、異端の妖精さん……それがお師匠さまのお師匠さまで、その通り名がお師匠さまの二つ名の元になってるんですよね?」
「…………」
そ、そうだったの? 私の魔法の師匠が妖精っていうのはあってるけど……。
で、でも知らんぞ私そんな話。あの子なに? 他の人たちからは《全》とか呼ばれてたの?
そんな話、私あの子からはなんにも聞いてなかったんだけど?
「……えっと、違うんですか? お師匠さま」
「え。い、いや……あ、合ってる。合ってるよ、うん……よくわかったねそんなこと……」
ここで正直に知らなかったと答えると師匠としての威厳やらなんやらがどこかへ行ってしまいそうだったので、全力で知ったかぶる。
あの子のことではない可能性もわずかながらあったが、まああの子を指していると思って間違いないだろう。
あの子が教えてくれなかった理由も簡単に推察できる。
あの子、他人に全然興味ないし。他人からどう呼ばれてるかとか毛ほども興味ないしどうでもよかったんだろう。
そっか……全ってなんだよってずっと思ってたけど、あの子のことだったのか……。
……あの子も結構恥ずかしい通り名つけられてたんだなぁ。
「お師匠さま。私、シィナちゃんから聞いちゃったんです……お師匠さま、自分の二つ名のことを言及された時、どこか憂うような顔をしてたって……」
「そ……そうだったっけ?」
「はい。お師匠さまはきっとその時……お師匠さまのお師匠さまのことを考えていらしたんですよね? だから、そんな表情を……」
ま、待って待って。ついていけてない。状況についていけてない。それいつの話?
シィナが一緒にいて、最近二つ名について言及されたタイミングと言うと……あ、もしかしてこの前ギルドマスターに会いに行った時のこと?
いやあれ、『全ってなんなのかよくわからないのにそこを褒められても』って微妙な気持ちになってただけだよ?
特に深い意味はなかったんだけど……。
……というかもしかして、それが理由で私の二つ名のこととかギルドマスターに聞きに行ってたの?
完全に勘違いだし、なんかちょっと申しわけない感じが……。
「お師匠さまは以前、シィナちゃん以外に仲の良かった方がもう一人いるって言ってらっしゃいましたよね。その方とは、今は少しすれ違ってしまっている、って……」
「あ、ああ……言ったね」
「それは、お師匠さまのお師匠さまのことで合っていますか?」
どこか神妙な眼差しで、フィリアが私を見つめてくる。
質問という体を取ってはいるが、彼女の声音はもはや確信の色を帯びている。
なんか私の知らない新事実が判明したりして、ちょっと混乱していたが……話の流れは大体掴めてきた。
つまるところフィリアが私の魔法の師匠について聞いてきたのは、私のことを心配してくれたから、というわけだ。
「……ふふ」
「お師匠さま……?」
一度深呼吸をして、心を落ちつかせる。
少し勘違いされてしまっていたようだけれど……うん。
私のことを心配してくれたのは、素直に嬉しかった。
「うん。合ってるよ。まさしくそのすれ違ってしまった子が、私の魔法の師匠だ」
「……お師匠さま。どうか、聞かせていただけませんか? そのお師匠さまのお師匠さま……大師匠さまのこと」
「……そうだね。あの子のことを誰かに話すのは初めてだから、うまく話せないかもしれないけど……わかった。フィリアが望むなら、話そうか。私とあの子の間にあったことを」
私のことを思ってくれたフィリアの懇願は無下にはできない。
フィリアの方から、ゴクリ、と生唾を飲み込む音が聞こえた。
瞼を閉じ、思い出に浸るように思い出す。
いつも不機嫌そうに口を尖らせた、まるで傍若無人が服を着て歩いているようだった女の子のこと。
その子と過ごした、二人だけの騒がしかった毎日を。
「……あれは今から、五年前のことだったかな――――」
「その頃の私はね、まだ今みたいな魔法の力なんて持ってなかったんだ。ううん……魔法だけじゃないか。知識も、常識も、魔物の存在も、この世界のことを当時の私はまだなにも知らなかった」
「この世界? なにもって……お師匠さま、記憶喪失だったんですか?」
「まあ、そんなものかな。気がついたら、どことも知らない森の中にいたんだ。右も左もわからない状態でね。それが私という存在の始まりだった」
本当に気がついたら森の中にいたものだから、唖然と立ち尽くしていたことを覚えている。
なぜか体が耳が長い少女のものになっていたことも混乱に拍車をかけた。
しかもなんか、一糸まとわぬ姿だったし……。
念のために言っておくが、えっちなことはなにもしてないぞ。そんなこと考えられるような状況じゃなかったし。
……嘘です。ちょっとだけお胸モミモミしました。はい。
転生のことと体が変わっていたことを伏せて、当時の状況をフィリアに説明する。
「あの子と出会ったのは、その森の中であてもなく彷徨っていた時だったよ」
衣服や履き物の一つもなく、人の手が入っていない森の中を歩き回るのはとにかくきつかった。
裸足で踏みしめた土の感触に、時折、地を這う小虫のそれが交じる。小石や小枝もチクチクと足裏を刺激して、それらの破片が刺さることだってあった。
背の高い草が露出した肌を撫でてくるせいで、肌が切れたり赤く腫れたり。
そうして肉体的にも精神的にも疲労が蓄積し、もう散々だと思っていた矢先に、泣きっ面に蜂のごとく私は巨大な芋虫の魔物に遭遇した。
今でこそ私はSランクの冒険者に認められるほどの魔法の腕を身につけている。
だが当然ながら、当時の私は魔法の魔の字も知らなかった。
魔法が使えない私なんて、ただの非力な小娘と変わらない。
私を見つけ、木々をなぎ倒しながら突っ込んでくるそいつを前にして、私は足が竦んで動けなかった。
そんな私の前に現れたのが、彼女だった。
「突然、空から尋常じゃない業火が降り注いできたんだ」
その業火はまるで意思を持っているかのように私を避け、巨大芋虫だけを容赦なく焼き尽くした。
その業火と、瞬く間に灰になる芋虫を呆然と眺めていると、ふと、とても小さな少女が空から舞い降りてきた。
ここで言うとても小さなという表現は、子どものように小柄で幼いという意味ではない。
文字通り、手のひらで持ち上げてしまえるんじゃないかというくらい、その子は本当に小さかった。
『――お前、ワタシに魔法を習うといいよ。ちなみに拒否権はないから。嫌でも習え』
それが彼女の第一声だった。
見知らぬ場所。見知らぬ体。見知らぬ生き物。見知らぬ力。見知らぬ世界。
そしてそこに差し伸べられた、見知らぬ誰かの救いの手。
その手を取る選択が、どんな未来へ繋がっているかはわからない。だが一方で、その手を拒絶した私に未来がないことはわかりきっている。
まさしく彼女の言う通り、拒否権なんてあってないようなものだった。
私は、彼女の手を取った。
そしてその日から、私は彼女の弟子になったんだ。
「それから私は、毎日あの子に魔法の修行をつけてもらったな」
あの子は人里が存在する方向を把握していたようだったが、当初はそこへ行くことを許可してくれなかった。
その理由としては、私がこの世界のことをなにも知らなかったことが大きい。
あの子の目的は、私に魔法を極めさせることにあった。
もしも常識のない私が意図せず問題を起こし、騙されて不自由な身になったり、悲惨な目に遭って精神を壊したり、無惨に死んでしまったりしたなら、その目的は果たせなくなる。
それを彼女は嫌がったのだ。
だから私はあの子と一緒にいる間の時間のほとんどを、彼女と出会った森の中で生きてきた。
そこでなら魔物の生態にさえ注意を払っていれば、他の面倒事に巻き込まれる心配もない。人目をはばかることなく、存分に魔法を使うこともできた。
当然、その間の生活に必要なことも全部魔法でこなした。
魔法で危機を察知し、魔法で傷を癒やし、魔法で食料を確保し、魔法でそれらを加工して調理し、魔法で体を清めて、魔法で結界を張って外敵から身を守りつつ、これまた魔法で体を温めながら眠りにつく――。
そんな環境の中で過ごすことで、私の魔法の腕はメキメキと上がっていったものだった。
「あの子はね、私の名付け親でもあるんだ。ハロ・ハロリ・ハローハロリンネって、結構ヘンテコな名前だろう? なんでそんな名前なのかって言うと、名前を欲した私にあの子が雑につけたからなんだ」
「え、えぇ……? あの……お師匠さまはその方と仲が良かった、んですよね?」
「んー……フィリアには仲が良かったって言ったけど、実はそうでもなかったというか……私はあの子のことが結構好きだったけど、あの子はたぶん私のことなんてどうとも思ってなかったからね……」
「そうなんですか……? なんだかちょっと寂しいですね……」
「ふふ、そうでもないさ。そんなあの子だったからこそ、私も気兼ねなく一緒にいられたんだ。それに、あの子はとても心配性でね。私が危なっかしくていつ死ぬかわからないからって、四六時中そばにいてくれた」
朝起きる時も、食事を摂る時も、魔法の修行をしている間も、水浴びする時や夜に寝る時だって、いつだって彼女は私のそばにいた。
加えて、彼女は人類のことをずいぶんと脆い生き物だと認識していたらしく、その心配性にも度が過ぎている部分が散見された。
『……おい待てお前。ちょっとそこ寝ろ。修行? 中止! そんなのもういいから! 早くそこ寝ろ!』
たとえば、魔法の余波で土埃が舞った際、ちょっと咳き込んでしまっただけで深刻な病気の可能性を疑われ、彼女の魔法で精密検査を受けることになってしまったり。
『なにやってんのさ……ただでさえ危なっかしくて目が離せないってのに、こんなので死んじゃったらやってらんないよ。はぁ……』
木の根に足を引っ掛けて転びかけたところを即座に風の魔法で助けられ、万が一頭を打ったら死ぬかもしれないんだから足元に気をつけろとため息つきで説教されたり。
『ちょっと待って。その芋大きすぎでしょ。もっと細かく切ってから食べて。はあ? これくらい別に平気? 口答えすんな! もういいワタシが切る!』
食事の最中、喉に詰まらせたりしないようによく噛んで食えとか言われた時には「この子私のお母さんかな?」なんて思ったりしたものだ。ちなみに芋は微塵切りにされた。
一人ぼっちで見知らぬ世界に放り出された身だったけれど、そんな日々の中にいて、不安や寂しさを感じる暇なんてなかった。
あの子は私のことなんてきっと好いてくれてはいなかったし、「虫唾が走る」とか鬱陶しげに一蹴されるのは目に見えていたので、直接告げることはなかったけど……。
私は心からあの子に感謝していたし、いつだって裏表なく自分に正直な彼女を尊敬していた。
だからこそより一層、私が叶えてあげたいと思った。
あの子や、あの子が今まで魔法を教えてきた誰もが到達し得なかったという、身を引き裂かんばかりのあの子の悲願と渇望を。
「……でも私には、あの子の望みを叶えてあげることはできなかった」
「できなかった、って……よくわかりませんが、その方は魔法を極めたお師匠さまになにかをしてほしかったんですよね? お師匠さまでも無理だったんですか……?」
「そうだね……できなかった。あの子の手を取った日に、約束したのに……私にはどうしても、できなかったんだ」
私にとって彼女は命の恩人で、尊敬してる人で、大切な友人で――この世界での、母親のような人だった。
だからこそできなかった。叶えたいと思う以上に、叶えたくないと思ってしまった。
だってそれを叶えてしまったら、彼女は私のそばからいなくなってしまうとわかっていたから。
これからも一緒にいたい、と。
正直にそう告げた時の、彼女の愕然とした顔が忘れられない。
「……全部、私が悪いんだ。約束を破った私のせいなんだよ。あの子は約束を果たせられなかった私を見限って、どこかへ行ってしまった。私の望みも、あの子の望みも……結局、どちらも叶うことはなかった」
「お師匠さま……」
「……ふふ、昔の話だよ。そんな顔しないで、フィリア。私はもう二度とあの子に会えることはないだろうけど、あの子と過ごした日々は本当に楽しかったんだ。だから今も笑顔で思い出せる。それにね。私は、あの子は今も元気に生きているって、そう信じてるんだよ」
眉尻を下げ、私なんかよりもよっぽど悲しそうな顔をしていたフィリアの頭を撫でる。
正直、私より背が高いフィリアをこんな風に撫でるのはちょっとばかり恥ずかしいのだが、以前誤ってシィナにするようにフィリアの頭を撫でてしまった際は存外嬉しそうだったので、それを思い出しながら手を動かした。
フィリアはしばらくの間、私の手のひらの感触に浸るように目を瞑って黙っていたが、次第にその瞼を開くと、まっすぐに私を見つめてきた。
「……お師匠さま。覚えてますか? シィナちゃんが初めてこの家に来た日にした、約束のこと」
「シィナが来た日? というと……」
「私が望むなら、いつまでだって一緒だって……お師匠さま、そう言ってくださいましたよね」
「ああ、そういえば言ったね」
そのすぐ後にシィナとも同じ約束をした気がする。なんならさっきアモルとも。
「お師匠さま。私はいつまでも一緒にいます。絶対にどこにも行きません。なにがあっても、ずっと……死ぬまで」
「フィリア……」
「えへへ……やっぱりその、重いでしょうか? こんな気持ちは……」
「ううん、嬉しいよ。フィリアは本当に、いつだって私のことを思ってくれるね」
いやほんと、なんでフィリアって私なんかのことこんなに慕ってくれてるんだろうね。
一緒にいますって言いながら私の手を包み込んでくれた時、なんかこう、胸がキュンとしちゃったよ。
こんな純粋な子に性奴隷的なあれこれをさせようとしてた鬼畜野郎がいるみたいですよ?
ハロって言うんですけどね……。
「さて……そろそろ夕食の支度をしないとね。最近はこの家にも人が増えてきたから作り甲斐があるよ」
「お手伝いいたします!」
「ふふ。いつもありがとうね、フィリア」
元はと言えば、えろいことするためにフィリアを買ったはずだった。
それなのに私は今に至るまで、なんだかんだ師弟という関係に甘えてきてしまっていた。
思えばそれは、私とあの子の関係を、今のフィリアとの関係に重ねてしまっていたからなのかもしれない。
私は無意識のうちに、私を師匠と慕ってくれるこの子にとって、かつての私にとってのあの子のようになりたいと、心のどこかで思ってしまっていたのだろう。
うんうん……そうだ。きっとそうに違いない。
告白だってされたくせに、この期に及んで未だにフィリアに手を出せていないのも、間違いなくそのせいだ。
私がヘタレだからだとか、決してそういうわけではないのである。
すべてはこの悲しき過去が原因なのだ!
やはり私はヘタレなどではない……!
これだけは真実を伝えたかった次第だ! うむ!
チュンチュンと、どこか聞き心地の良い小鳥の鳴き声が屋根の上から聞こえてきます。
お師匠さまのお屋敷は侵入者を撃退するよう、防犯用の魔法で敷地が常に覆われていますが、ああいう無害な小動物には発動しないようになっているようです。
その鳴き声と、かすかに白んだ東の空が、一日の始まりを告げていました。
「ファイアボルト! ファイアボルト!」
そんな早朝に、私は屋敷の庭で自主訓練をしていました。
いえ、自主訓練ではないですね。ファイアボルトくらいなら、すでに手足のように使いこなせます。
これくらいはジョギングみたいなものです。
お師匠さまやシィナちゃん、アモルちゃんと比べて、私はいつも一番最初に目を覚まします。
ですが今日はいつも以上に朝早く目覚めすぎてしまったので、こうして外で軽い運動をしていました。
ファイアボルト。ただ小さな火の球を放つ、それだけの魔法。
それなりに魔法を習い、下級魔法をマスターしたとお師匠さまから太鼓判を押された今の私にとっては、こんなものはいくら使ったところでなんの上達にも繋がりませんが……私はすべての魔法の中で、この魔法が一番好きでした。
なんて言ったって、これはお師匠さまが一番初めに私に教えてくれた魔法ですから。
きっと多くの魔法使いの方が私と同じで、これを一番最初に習得したのでしょうが……それでも、これが思い出の魔法であることに違いはありません。
「ファイアボルトっ! ファイアボルトー! ……えへ、えへへ……お師匠さま、お師匠さまぁー」
最初こそ、初めてお師匠さまに教わった時のように、手を突き出して手のひらから発射していたのですが、お師匠さまのことを考えているとどんどん気持ちが高揚してきてしまいました。
徐々に教科書通りの魔法の使い方を外れて、自由にのびのびと魔法を動かすようになっていました。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、魔法名も唱えずに指先から極小の火球をいくつも生み出して。
くるくると踊りながら、大小入り乱れる無数の火球を同じように体の周りで回転させます。
すべての火球が他の火球と衝突しないように。すべての火球が私の制御を離れないように。
お師匠さまは心配性ですから、最初は多くの魔法を覚えることではなくて、こうした魔力と魔法のコントロールを重点的に教えてくださいました。
お師匠さまいわく、身の丈に合わない魔法を無理矢理発動しようとした結果、魔法が発動しないどころか暴走してしまい、その影響が自分に及んで大怪我をする……というような不慮の事故が、魔法を身につける過程ではよくあるそうです。
そうならないために、まずは精密操作を身につけること。いきなり分不相応な魔法には手を出さず、段階を上げて習得する魔法のレベルを上げていくこと。
そして、魔法を特別な力として捉えるのではなくて、当たり前の現象として認識し、自分の身体の一部のように思うこと――。
言うのは簡単ですが、お師匠さまに才能を認めていただけた私でも、ここまでのものにするには結構な努力を要しました。
具体的には二ヶ月くらいですね……たった一つの課題を達成するだけで、かなりの時間がかかってしまいました。
しかも手足のように扱えるのはまだ下級魔法までで、中級魔法は全然です。
お師匠さまのお背中は、まだまだ遠いですね……。
いつの日か追いつけるように、精進あるのみです!
「これで、最後ですっ!」
すべての火球を回転させながら、思いっ切り空に打ち上げます。
螺旋を描いたそれらは少しずつ中心へと収束し、やがて一点にて交わると、私の頭上遠くで花開くような爆発を披露しました。
もちろん、音が小さくなるように威力は控えています。
お師匠さまもシィナちゃんもアモルちゃんも、皆まだ寝てらっしゃいますからね。こんなことで起こしてしまっては申しわけないです。
「ふぅ……良い運動になりました」
下級魔法と言えど、ここまで多くの火球を同時に精密に操るのは結構神経を使いました。
額を流れる汗を拭って、一息つきます。
さて、朝の運動はここまでにしましょうか。
そろそろお師匠さまがお目覚めになる頃合いなので、少し休んだらお出迎えに行かないといけません。
お師匠さまはアモルちゃんがこの家に来てからは、いつもアモルちゃんと一緒に寝ています。
お師匠さまのお部屋とは別にアモルちゃんのお部屋もきちんとあるのですが、アモルちゃんがそちらで寝ているところを見たことがありません……。
お師匠さま、アモルちゃんにはかなり甘いんですよね……。
アモルちゃんからのおねだりなら、どんな内容でも大抵二つ返事で了承しちゃいます。
でも今は、その理由も少しだけわかる気がしました。
私は、昨日聞いたお師匠さまの昔の話を思い出します。
そこでお師匠さまは、自分が記憶喪失みたいなものだと言っていました。
気がついた時には森の中に一人でいた、と。
つまりお師匠さまには、血が繋がった家族が誰もいないんです。
たぶんお師匠さまは、嬉しいんだと思います。
アモルちゃんがお師匠さまのことを、お姉ちゃん、って本当の家族みたいに呼んでくれることが。
だから本当の妹に接するみたいに、ついつい甘やかしちゃうんでしょうね。
甘やかしてることについては、自覚がないのかもしれませんが……。
……私もまだもっと子どもだったら、アモルちゃんと同じように自然にお師匠さまと一緒のお布団に入れたのでしょうか……。
……お師匠さまのお布団……あぁ、きっと良い匂いがするんでしょうね……。
「いつかきっと私も……えへ、えへへ、えへへへ……」
いつか私がお師匠さまがいつかいなくなっちゃうんじゃって不安になって、お師匠さまのお部屋を尋ねた時、お師匠さまは言ってくださいました。
フィリアが――私が欲しくて、私に触れたいと思ったから、私を買ったんだって。
それはつまり……私の勘違いでなければ、一目惚れ……ということですよね?
私も、同じです。
お師匠さまが好きです。他の誰よりも好きです。大好きです。愛してます。
……私とお師匠さまの気持ちは、通じ合ってるんです。
だったら、いつかきっと私も、お師匠さまと同じお布団で寝られる日が来るはずです。
それもアモルちゃんみたいに家族としてではなく……こ、恋人として……。
そ、そしてその時はきっと、私はお師匠さまとあんなことやこんなことを……。
…………あれ? あんなことやこんなこと?
「……あっ! そういえば私、シィナちゃんがお師匠さまにしたことについてまだ聞いてませんでした!?」
大事なことを忘れてしまっていました! そうでした、もうすでに先を越されてるかもしれないんでしたっ!
ぐ、ぐぬぬ……口数が少ないシィナちゃんのことですから、単に言葉が足りてないだけで額面通りの意味ではない気もしますが……本当に強敵です。いっぺんたりとも油断できません。
今日シィナちゃんと二人っきりになった機会があったら……いえ、機会を作ったら、すぐにでも聞き出さなくては!
「今日はシィナちゃんを起こしに行く役目を私が担当して……そうです、その時に必ず聞き出しましょう!」
まずはお師匠さまのお部屋を尋ねて、一緒に朝食を作って、その後でシィナちゃんに……!
もう休憩はじゅうぶんできましたので、私は庭から踵を返しました。
逸る気持ちのまま、お屋敷の中へ戻ろうとします。
――しかしそんな折、屋敷の方に向かって誰か人影が歩いてくるのが見えて、私は足を止めてしまいました。
「……? あ、あれ……? えっと……知らない方、ですよね……?」
このお屋敷の敷地は、防犯用の魔法で覆われています。
その魔法の効果がある限り、お師匠さまが魔力の波長を登録した方以外は、お師匠さまの許可なくこの屋敷に侵入することは不可能なはずです。
特にこんな早朝ともなると、それこそ私やお師匠さま、シィナちゃんやアモルちゃん、あとは小動物くらいしかいないはずなのですが……。
屋敷に近づいてくる人影は大きな黒いローブに全身を包み、フードも深くかぶっていて、肌の一切が窺えませんでした。
あれがお師匠さまやシィナちゃん、アモルちゃんだということはないと思います。
お師匠さまもシィナちゃんもアモルちゃんも、皆まだお屋敷の中で寝ていますから。
皆が寝静まった後に一人で外出していたとかなら話は別ですが……そんな用事があるなんてこと、私はなに一つ聞いていません。
仮にもし、お師匠さまたち以外の方がこのお屋敷の敷地内に入ろうとするのなら、お師匠さまの魔法をかいくぐるほどの卓越した魔法の腕がなければ不可能なはずです。
単にお師匠さまが作った魔法に不備があったと考えることもできますが、それだけはありえないと確信を持って言えました。
私やシィナちゃん、アモルちゃんを守るためにお師匠さまが管理している魔法が、そんな不完全な代物のはずがありません。
……だとしたら、まさか……本当に、あの方はお師匠さまに匹敵するほどの魔法の力を持って……?
「と、止まってください!」
最悪の可能性を想像してしまった私は、すぐにでも応戦できる姿勢で構えながら、近づいてくる人影――侵入者に警告しました。
今まで侵入者の方はまるで私のことなど気にも留めていないかのようにまっすぐお屋敷の方へと向かっていましたが、ここで初めて足を止め、私の方に顔を向けます。
こうして正面から向かい合っても、その方の顔を覗き見ることはできませんでした。
フードの中は真っ暗な闇で覆われていて、顔の下半分さえ見えません。おそらくは魔法で隠しているのでしょう。
なんだか少し不気味です……。
「あ、あなたは誰ですか? お師匠さまのお知り合いの方ですか? それとも……し、侵入者の方ですか?」
「……お師匠さま……?」
返ってきた声の音程は、あまりにも歪でした。人間の声としてはあまりにも不自然な、記号のような音。
フードの中と同じように、声そのものも魔法で加工されている。そんな感覚がしました。
フードと言い、声と言い、まるで自身の正体を悟らせないようにしているかのような魔法の使い方……。
そして、あなたは誰か、という問いへの答えにはまるでなっていなかった侵入者の方の返しに、私はさらに警戒心を上げていきます。
「ハロ・ハロリ・ハローハロリンネさまのことです。ここはお師匠さまのお屋敷です……まさか知らないで入ってきたわけじゃないですよね?」
「……ハロ……そうか、お師匠……あの子は……ううん。あの子も、結局はそれを選んだんだね……」
独り言を呟きながら顔を俯かせるその仕草からは、どうしようもないことへの諦観のようなものが漂っているようにも見えました。
……や、やはりお師匠のお知り合いの方なんでしょうか?
だけどお師匠さまの防犯の魔法に登録されているのは、今屋敷で暮らしている四人だけのはずです。
以前お師匠さまから直接聞いたので、それは間違いありません。
疑問符を浮かべる私を、侵入者の方は飄々と品定めでもするように見つめてきます。
顔は見えないので、見られている気がするという表現の方が正しそうですが……。
「……あの子が直々に見込んだ弟子……だったら少しだけ、試してみようか……」
侵入者の方の唐突に片手を上げる仕草を目にし、私は半ば反射で魔力を練り上げました。
「ファイアボルト」
「っ、ファイアボルト!」
突然侵入者の方が放ってきた火球と、咄嗟に私が放った火球が激突します。
拮抗は一瞬。ぶつかり合った火球はどちらも砕け、火花を散らして散っていきました。
「い、いきなりなにをするんですか!」
あ、危なかったです……!
もし反応が遅れていたら……考えたくもありません。
「ふぅん……悪くない術式だ。基礎はしっかりしてるみたいだね。じゃあ次は……」
できれば平和的話し合いを所望したかったのですが、侵入者の方は抗議する私の声がまるで聞こえていないかのように続けて腕を振るいます。
するとさらに多くの火球が瞬きのうちに生成され、それらが角度と緩急をつけて四方八方から襲いかかってきました。
いきなり攻撃してきた辺りからわかってはいましたが、私の話を聞くつもりはまったくないようです……。
ですがどんなに量が多かろうと、下級魔法であれば、お師匠さまからマスターしたと太鼓判を押された私は負けません……!
私も同じだけの火球を生み出して、侵入者の方が繰り出した火球の軌道を見切り、その進行方向を塞ぐように飛ばして全部の火球を相殺します。
侵入者の方は飛び散った無数の火花を眺めると、へえ、と息を漏らしました。
「なるほどね、精密操作の練度もなかなかだ。あの子の方針かな? 見た感じ、このぶんだとせいぜい魔法を学び始めて五年ってところか。途中からあの子に師事するようになったんだろうけど……でもまあはっきり言って、こんな程度じゃまだまだあの子の弟子を名乗るには不足がすぎる」
「五年……? バカにしないでください! 魔法はまだ習い始めて四ヶ月くらいです! それに途中からじゃありません! 私の師匠は、最初からずっとお師匠さまだけです!」
「……はぁ? 四ヶ月?」
「あなたが誰かはわかりませんが……こんな風にお師匠さまを傷つけるおつもりなら、容赦はできません! 覚悟してください!」
「……四ヶ月、四ヶ月か。あの子の気配に気を取られて、正直よく見てなかったけど……へえ、これは……確かになかなかの逸材だね。一〇〇〇年に一人と言ったところか……あの子と同じ時代で、よくもまあこれだけの才が眠って――」
「アイシクルランス!」
お師匠さまに教えていただいた氷の槍を放つ中級魔法で、今度はこちらから攻撃を仕掛けます。
狙いは足下です。少々怪我をさせてしまうかもしれませんが、相手は不法侵入者の方ですので、多少は致し方ありません!
しかしそんな私の気遣いなど無用だとばかりに、私の氷の槍は侵入者の方が何気なく放った同一の魔法で撃ち落とされてしまいました。
空中で氷が砕け、粉々に破片が散って、パラパラと綺羅びやかにこの場に舞い降りてきます。
驚愕だったのは、私が魔法名を唱えて全力で発動したのに対し、あちらは無言の後出しにもかかわらず、まったく同じ威力だったことでした。
魔法における魔法陣、詠唱、そして魔法名は、魔法を発動するための補助具のようなものです。究極的に言えば、魔法を発動することに必ずしもそれらの予備動作は必要はありません。
ですがそれらを使わない場合は当然、そのぶん魔法の難易度は飛躍的に上昇していきます。
魔法陣も詠唱も魔法名もすべて用いないのであれば、その魔法を安定して発動させるなど至難の業です。
一応、下級魔法であれば私も予備動作なしで発動することはできますが……。
中級魔法をあんな一瞬で、後出しで、しかもわざわざ同じ威力になるよう調整して撃ち出すなんて、少なくとも今の私には絶対に不可能な所業でした。
「わかったでしょ? お前なら、今ので」
密かに戦慄する私に、そんな内心を見透かしたかのように侵入者の方が語りかけてきます。
「……なにがですか」
「わざわざ言わなきゃわかんない? だったら言ってあげるよ。お前じゃワタシには敵わない。天地がひっくり返ろうともね。それだけの差がお前とワタシにはある」
……なにも言い返せませんでした。
そんな私に、絶対の優位性を誇示するかのように侵入者の方が両腕を広げます。
「才能っていうのはね、磨かなきゃ意味も価値もないんだよ。ワタシが見てきたやつの中にも、自分の才にも気づけず、いたずらに上位者に消費され、飢えて朽ちて死にかけてるやつはごまんといた。まったくお前ら人類は『見る目』というやつがない。呆れるほどにね」
くだらないとばかりに、侵入者の方が首を左右に振ります。
「で……それってさ、お前もそうだったでしょ。それだけの魔法の才能を持って産まれたっていうのに、まだその程度の魔法の腕。あの子に見つけてもらうまではくすぶってたと見える。あの子のもとで、ほんの数ヶ月でそれなりには磨かれたようだけど……それでもまだ、ワタシにとっては赤子のようなものだ。そんなんじゃワタシには敵わないよ」
才能の原石だろうと、今はまだそこらに転がる石ころとなんら変わらない、なにをしたところで、今のお前じゃ敵いはしない。
応戦する姿勢を崩さない私に、彼女は抗うのは無駄だとでも言うように、再度突きつけるように言います。
それはハッタリでもなんでもなく、真実だと感じました。
この方が何者かはわかりませんが、お師匠さまが作った魔法を突破してきていることは間違いないんです。
おそらくはお師匠さまと同等か、及ばないまでも限りなく近い実力と技術を持つ、完成された生粋の魔術師。
まだ中級魔法を習得途中の未熟な私では、客観的に見て敵わないのは道理です。
でも……。
「それでも……私が引く理由にはなりません! お師匠さまとそのお屋敷をお守りするのは、弟子である私の使命です! たとえあなたを倒すことができなくても、騒ぎを聞きつけたお師匠さまかシィナちゃんが来るまでは耐えしのいでみせます……!」
「……はぁ。わかってないなぁ……」
自分を鼓舞する意味も込めて放った私の宣言に、侵入者の方はため息とともに肩をすくめました。
「言ったぞワタシは。お前は赤子だ。吹けば飛ぶ塵芥だ。踏めば死ぬ小虫だ。そんなものをひねりつぶすのに、時間なんていりゃしない」
「だとしてもです!」
「ふん、生意気だなぁ小娘が……だったらそんな愚かなお前に、ワタシが良い提案をしてあげる」
「提案……?」
「そう、提案。簡潔に言えば、ワタシの言う条件を一つ飲めば、お優しいワタシがお前を見逃してやろうっていうね」
「……」
「せっかく生きてるんだ。お前だって、こんなところで死にたくはないでしょ?」
「……その条件とは?」
聞き返しはしましたが、たとえどんな条件でも、その提案を私は聞き入れるつもりはありませんでした。
ただ、こうして会話をしている間は、侵入者の方の注意を私に引きつけ、効果的に時間稼ぎをすることができます。
力の差が明白な以上は、できるだけ会話を長引かせるのが吉なはずです。
それに、その条件とやらを聞き出すことで、この侵入者の方の目的の一片でも知ることができるかもしれない。
そんな思いで、私は話の続きを促しました。
しかし次に提示されたその条件は、わかってはいましたが、私にとっては到底受け入れがたいものでした。
「あの子の、ハロのもとを去れ」
「っ……」
「一〇〇〇年に一人……ああ、まったく素晴らしい才能だね。それは人類の至宝と言って差し支えないほどのものだ。でもね、あの子は違うんだ。あの子はそんな程度で収まる器じゃない。あの子はただ一人……この世の果てにさえ手が届くと思わせるほどの、どの時代の誰にも持ち得ない、星のごとき眩い光を持っている」
まるで焦がれるかのように、侵入者の方が空へと手を掲げます。
「このくだらない壊れかけの世界で、なにかを美しいと感じたのは、あれが始めてだった。伸ばしても、伸ばしても……いくら人が星に手を伸ばしても届きはしないように、誰にも届き得ない遠い場所に、あの子は立っていた」
「……」
「お前には魔法の才能がある。あの子を除けば、おそらくこの時代で最高のね。でも、そんなものは関係がないの。たとえこの先どれだけ努力を重ねようと、しょせん人の枠に収まってるお前ごときじゃ……どうせ一緒にいたって、あの子の力になんてなれはしない。お前が今やってることはね、全部無駄なの。全部が全部、無意味で無価値。さっさと去った方がお前のためだよ」
「っ……! ふざけないでくださいっ!」
私はお師匠さまと過ごしてきた思い出を侮辱されているかのような憤りを覚えていました。
どんなことでも、お師匠さまと過ごした日々であれば、私はいつでも思い返せます。
お師匠さまは言ってくださいました。
お母さんに捨てられて、生きるための希望すら見つからなかった私に、私には私だけの価値があるって。
お師匠さまは言ってくださいました。
本当は魔法の才能なんか関係なくて……ただ私がほしいと思ったから、一緒にいたいと思ったから、私を選んでくれたんだって。
お師匠さまと出会えたから、私はまた笑えるようになって。
お師匠さまと出会えたから、私は初めて温かいご飯の味を知ることができて……。
他にもたくさん、お師匠さまにはいろんなものをもらいました。
まだほんの数ヶ月の付き合いでしかありませんが、私にとってお師匠さまは世界で一番大好きな人です。
この人のためになら、私はなんだってできる。そう思えるほど大切な人なんです。
そんなかけがえのない人との思い出を今、なにも知らない、顔を見せようともしない赤の他人に踏みにじられている。
時間稼ぎをしないといけないことはわかっています。
それでも溢れ出る激情を前に、未熟な私は心を制御することができませんでした。
「お師匠さまとの才能の差がなんだって言うんですか! そんなこと関係ありません! 誰になんと言われようと、私はお師匠さまのただ一人の一番弟子で、家族です! ずっと一緒にいます……! 魔法の腕だって、あなたの言う通り届かないかもしれませんが……いつかお師匠さまの隣に並び立てるようになる努力だけは、絶対に怠りませんっ!」
「……ずっと一緒? ……並び立てるようになる?」
「はい……! 約束しましたから……お師匠さまと、死ぬまで一緒にいるって! それに私、無駄な努力なんて慣れっこです。お師匠さまに追いつくためなら、たとえ未来が見えていて届かないとわかっていたって、絶対に諦めません!」
「……」
私の覚悟を聞いた侵入者の方は、どこか呆けたように立ち尽くしていました。
この方がなにを考えているかは、わかりません。ですが、なにを言われようと私は自分の意志を曲げるつもりはありません……!
私は懸命に侵入者の方を睨み続けます。
そしてそのまま、数秒の時が流れます。
すると、侵入者の方は次第にプルプルと肩を震わせ……なにやらブツブツと、私が言ったことの断片を復唱し始めました。
「……約束……死ぬまで一緒に……追いつく……届かないと、わかっていても……? ……ハ、ハハ、アハハ、アハハハハハハハッ!」
「っ、な、なにがおかしいんですか!」
「アハ、アハ、アハハッ! なんだお前。なんなんだお前。なんだそれ、なんだそれッ。アハハハハ!」
突如として、侵入者の方が狂ったように笑い出します。
それから私のさきほどの睨みに睨み返すように、ギロリと、鋭い視線が向けられた感覚がしました。
「あぁ……お前はなにもわかっちゃいない。死ぬまで一緒にいるだって? 届かなくたって諦めないだって? アハハッ。あのね……そんな陳腐な決意には、なんの価値もないんだよ。なにも知らないんだねお前は。あの子がお前に求めたのは、そんなものなんかじゃあない」
「……あなたが、お師匠さまのなにを知ってるっていうんですか」
「知ってるよ。お前よりはずっと知ってる。あの子の愚かしいほどの甘さも、あの子が抱える……果てのない苦しみと絶望も。だから、言ってやる」
そこでようやく私は気づきました。
侵入者の方の声に、身を焦がさんばかりの怒気が込められていることに。
今あの方が、私と同等以上の質量を持つ憤怒で、その身を震わせていることに。
侮辱されたのも、否定されたのも私のはずなのに、なにに対してそんなにも怒り狂っているのか、私にはまるで理解が及びませんでした。
そんな風に困惑する私へと人差し指を突きつけて、変えようのない真実を告げるがごとく、侵入者の方は言い放ちます。
「お前じゃハロを救えない。少なくとも、そんな自己満足に浸っている間は絶対に」
「す、救う? お師匠さまを……? ど、どういうことですか……?」
「……わからないならいいよ。わかる必要もない。どうせお前はこれまで、耳を傾けようともしていなかったんだろうから。必死に助けを乞うあの子の、言葉にならない嘆きの声に……」
侵入者の方はユラリと脱力し、ローブをはためかせます。
怒り、だけじゃありませんでした。
今の言葉には、悲痛、後悔、罪の意識……いろんな負の感情が込められていたと、直感的にそう感じました。
そしてそれらは決して偽物なんかじゃありません。
……本当に、なんなんでしょうこの方は……。
当初はお師匠さまを一方で知っているだけの見知らぬ魔法使いの方かと思っていましたが、それにしてはお師匠さまのことを親しみを込めて呼んで、語っている気がします。
それこそ、まるで旧知の仲であったかのように。
で、でも……そんなことはありえません! ありえない……はずです。
お師匠さまは言っていました。仲が良かったと言える知り合いはシィナちゃんと、お師匠さまのお師匠さまだけだって。
可能性があるとすればお師匠さまのお師匠さまですが……その方は手のひらサイズの妖精さんみたいですし、今ここにいる侵入者の方は肌は一切見えませんがローブが普通の人と同じサイズです。聞いていた特徴とは合致しません。
わ、わかりません。この方が何者なのか。なにが目的なのか……。
「……ふう」
ふと、侵入者の方が自分を落ちつかせるように息をつきました。
互いに怒りをぶつけ合っていたはずなのに、いつの間にか、奇妙な静寂が私たちの間に訪れていました。
侵入者の方は空を仰ぐと、さきほどまでの激情が嘘であるかのように、静かに呟き始めます。
「ああ、まったく……なんでワタシこんなことを……まさか、期待? ……ああ、そうか。あの子が見初めた人間だからって、無為な期待をしすぎたのか……ワタシらしくもない。あの子にさえ叶えられなかったことが、他の誰かにできるはずもないのにね……」
「な、なにを言って……」
「ああ、お前。もういいよ」
侵入者の方が何気なく、再び私に手を向けてきました。
あまりにも自然な動作に、一瞬反応が遅れてしまいます。
そしてその一瞬が命取りになるとは、その瞬間の私には到底思いもしないことでした。
「死ね」
「――え」
気がつけば人一人を包み込めるほど巨大な雷撃が、私の目前に迫っていました。
一目見ただけで、理解できました。打つ手がない。
魔法が速すぎて、躱せない。躱さずに迎撃しようにも、間に合わない。間に合ったとしても、これは今までとは魔法の規模が違う。
今目の前にあるこれは、私が習得している程度の魔法ではどうにもならない威力だと、一瞬で理解できるほどのもので。
当たれば死ぬ。全身が電撃で焼け焦げて、肉の一片すら残さずに、灰になって果てる。
走馬灯すらなく。死ぬことを嫌だと思う感情すら置き去りにして……あっけない死の光景だけが、私の頭をよぎったのでした。
「――フィ、リアちゃ!」
……咄嗟にシィナちゃんが駆けつけてくれていなければ、その未来は間違いなく現実のものとなっていたことでしょう。
いつもは結構なお寝坊さんなシィナちゃんですが、騒ぎを聞きつけて目を覚まし、急いで駆けつけてくれたようでした。
玄関の方から、たった一足で私の前に飛び込んできた彼女が、空中で身を捻らせながら両手に持った剣を振るい、私一人では避けようのなかった終わりの未来を斬り裂きます。
粉々に散った雷撃は私の左右と頭上を抜けていき、背後の木々に直撃し、激しく燃え上がらせました。
シィナちゃんは飛び込んできた時の勢いでそのまま少し遠くに着地してしまいましたが、すぐに戻ってくると、私を守るようにして立ちふさがりました。
「シ、シィナちゃん……あ、ありがとうございます……」
シィナちゃんが来てくれなければ死んでいたという実感が、一拍置いて私を襲い、ヘナヘナと崩れ落ちてしまいます。
それなりに魔法は使えますが、あいにく戦いなんてものとは縁がなかった私は、あれだけで足がすくんで動けなくなってしまいました。
いくら立ち上がろうとしても、立ち上がれません。
うぅ、情けないです……。
シィナちゃんはそんな私をチラリと一瞥した後、いつになく真剣な眼で侵入者の方に向き合いました。
剣を構え、尻尾もピンと立っていて、完全に臨戦態勢。
どことなく……いえ、心の底から激怒している。そんな印象も受けました。
「なんだ、お前。邪魔すんなよな」
「…………じょうきょう、は……よく、わからない……けど」
あいかわらず、まるでこちらを見下すように憮然と立ち尽くす侵入者の方へ向かって、シィナちゃんがグッと両足に力を入れます。
「とりあえず……たおす。はなしは……それから」
ドンッ! と、地面が抉れるほどの踏み込みで、シィナちゃんが凄まじい速度の突撃をかましました。
瞬きの間に接近したシィナちゃんに、しかし侵入者の方も、なんら慌てることなく対応をします。
剣を振るおうとしたシィナちゃんの足元の地面を、無詠唱の土の魔法でわずかに揺らし。
バランスが崩れて一瞬生じたシィナちゃんの隙を、火の魔法で容赦なく攻める。
シィナちゃんの方が明らかに動きは速いのに、脳と直結し反射しているかのような一切の予備動作なしの魔法がその差を埋めていました。
だけどシィナちゃんも負けていません。
無理な体勢からでも剣を引き戻して火炎を斬り裂いて、そのせいでさらに重心がめちゃくちゃになって倒れそうになったところ、片手で逆立ちをして死角からの蹴りで侵入者の方を蹴り飛ばします。
「……? いまの、かんしょく、は……?」
「ちっ、面倒だなぁ」
吹き飛ばされた侵入者の方が後ずさりながら、愚痴るかのようにこぼします。
Sランク冒険者であるシィナちゃんと、お師匠さまに匹敵するかもしれないほどの魔法使い。
人類最高峰の力を持つ二人の戦いが今、始まっていたのでした。
戦士と魔法使いの決闘では、戦士の方が圧倒的に有利だと聞いたことがありました。
それは戦士の方が強いからだという単純な話ではなく、得手不得手と相性の問題だそうです。
そもそもの話、魔法使いという存在は一人での戦いにまったく向いていません。
ただ己の肉体を動かすだけで十全に力を発揮できる戦士と異なり、魔法使いは力を発揮するために魔法の構築に意識を割く必要があります。
一秒一瞬の判断が生死を分ける戦場で、別のことに意識を集中させる――それは本来、自殺にも等しい行為だそうです。
私は戦いの経験なんてありませんが、魔法を習い始めてから、その意味が少し理解できるようになりました。
魔法の構築は、針の穴に糸を通すようなものなんです。
目の前に自分の命を奪わんとするものがいる。一瞬でも注意を外せば、刃が、鏃が、己の喉に向かって飛んでくるかもしれない。
そんな危険と恐怖の中、普段通り冷静に、手元にある針の穴に糸を通す。そんなことは確かに、できるわけがありません。
……そう。できるわけがない、はずなのに。
「ハッ。突っ込むことしかできないの? お前」
「っ……!」
フードで顔を隠した侵入者の方は、それをいとも容易くこなしていました。
視覚的に捉えづらい真空の刃で牽制し、広範囲に炎を撒き散らすことでシィナちゃんの動きを制限し。
大地を操ることで足場の状態を常に変化させ、思うように戦えないようにして。
それに加え、さらに大地を凍らせることで、踏ん張ることができず滑りやすくなるリスクを与える。
そしてそれらに攻めあぐね、もしもシィナちゃんが動きを止めるようなことがあれば、尋常でない破壊力が込められた雷撃が一瞬にしてシィナちゃんを襲います。
結局シィナちゃんが侵入者の方に接近できたのは、最初の一回限りでした。
それ以降はずっと、この数多の魔法の奔流に押されて近づけずにいます。
私とファイアボルトやアイシクルランスを撃ち合っていた時とは、まるで迫力が違いました。
あれは侵入者の方にとっては本当に遊び程度でしかなかったんでしょう。
風、炎、土、氷、雷――。
多彩なそれらを自在かつ無数に行使し、シィナちゃんを圧倒する今の侵入者の方の姿は、まるでこの世すべての自然現象をその身に従えているかのようでした。
「うっ……!?」
シィナちゃんの全身を、突如として閃光が包み込みます。
炎が生み出す陽炎と、凍った歪んだ大地、宙を舞う氷の破片。それらを利用し、侵入者の方はシィナちゃんに悟らせないように罠を張っていました。
光の魔法によって作り出した光を多方向から反射し屈折させ、今シィナちゃんが立っている場所に集中させるという、それだけの罠。
ただの光ですから、それ自体に攻撃する力はありません。
けれど一箇所にのみ集った光の量はあまりにも莫大で、まさしく閃光と呼ぶべき眩しさに晒されたシィナちゃんは目を見開いて硬直し、激しく動揺していました。
「どれだけすばしっこくたって、光の速さには敵わない……これでしばらくはなにも見えないでしょ?」
シィナちゃんの動揺の原因は、目がやられて見えなくなってしまったことでした。
閃光を浴びたことを境にして、目に見えてシィナちゃんの動きが鈍ります。
さきほどまで余裕を持って躱せていたはずの攻撃が肌を掠るようになり、あらゆる魔法の奔流の中、それでも攻め入る隙を探していたはずが、避けることに専念せざるを得なくなります。
そしてそのせいで、侵入者の方に『余裕』が生まれてしまいました。
これまで侵入者の方は、隙の少ない予備動作なしの魔法か、魔法名のみを唱える魔法しか使っていませんでした。
いえ……正確には、それしか使えなかったんでしょう。
シィナちゃんの放つ気迫。そして隙あらば攻め入らんとする獣じみた虎視眈々さが生み出す、呼吸さえ慎重に行わなければならないと思わせるような圧迫感。
強力な魔法を使わんと戦場から少しでも意識をそらしてしまえば、その際に生じた隙をシィナちゃんが必ず突いてくるという確信があったんです。
一見してみれば侵入者の方が圧倒しているようでしたが、シィナちゃんもシィナちゃんで、その存在感のみで侵入者の方の強力な魔法の発動を封じていたんです。
しかし今、侵入者の方はその枷から解き放たれてしまいました。
「――■■■■、■■■■■、■■■■■■■」
「っ……!? な、なんですか……これ……」
――詠唱。
数々の自然現象の魔法でシィナちゃんへの牽制を続けながら、侵入者の方が同時進行で詠唱を唱え始めます。
たった一節、その詠唱を耳にしただけで、全身の毛がゾクリと逆立ちました。
使用された言語も、魔力の編み方も、折り重なった術式の仕組みも。
そのすべてが私の知識の埒外にある。今の私では、どれだけ背伸びしても届かない場所にある。
あれほど魔法に熟達した方が、詠唱を経由しなければ発動できない魔法――。
完成した時、どれほどの規模の現象を引き起こすのか、まったく想像がつきません。
「■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■」
「くっ、ぅ……!」
シィナちゃんも直感的にその危険性を察知したのか、詠唱を阻止しようと無理にでも突っ込もうとしていましたが、魔法の奔流を前に足止めされてしまっていました。
意識を詠唱に集中させているからか、魔法の奔流は、さきほどまでと比べれば目に見えて弱まっています。
魔法の威力や量はもちろん、コントロールや軌道も単調で、普段のシィナちゃんなら難なく対応していたことでしょう。
ですが今のシィナちゃんは、目が見えていません。それに加えて、侵入者の方が繰り出す魔法の奔流はシィナちゃんを仕留めることではなく、妨害を最優先にした使い方に変わってきていました。
これでは間に合わない。
シィナちゃんが視覚を取り戻し、詠唱を阻止するよりも先に、詠唱の方が完了してしまう。
「……私は……」
私は、戦いのことなんてなにもわかりません。
わかるのはしょせん魔法のことだけで、その魔法だって、あの侵入者の方には遠く及びません。
だけど……。
「頑張ってください、シィナちゃん!」
「っ……フィリア、ちゃ……」
私が力いっぱい声を張り上げると、シィナちゃんが驚いたようにこちらに顔を向けました。
まだシィナちゃんは、ほとんど目が見えていないはずです。ただ、私の声に反応しただけでしょう。
こんなこと、なんの意味もないかもしれない。
それでも私は、今の私にできることを精一杯……シィナちゃんを信じて、応援することに全力を尽くします。
「……そう……だった。ともだち……ずっと、ほしかった……わたし、の……たいせつ、な……」
シィナちゃんは自分に迫った魔法を斬り払うと、腰を低く構えて、その身に魔力を滾らせました。
ビリビリと、空気が震えているような感覚がしました。
一目見ただけで伝わってくる、凄まじい集中力。
「……わた、しが……まもる……!」
――ダンッ!
シィナちゃんが力強く宣言した次の瞬間、シィナちゃんの姿が一瞬にしてかき消えました。
右を見ても左を見ても、どこにもその姿はありません。
ただ偶然、視界を覆うように影が差した時に反射的に空を見上げたことで、シィナちゃんが高く跳躍していたことに気づきました。
「シィナちゃん……!」
見ていた限り、シィナちゃんが攻め入ることができなかったもっとも大きな要因は、足場がとても不安定なことでした。
侵入者の方が常に大地を流動させ、さらには凍らせてくるものだから、ほんの少しでも足元の動きの加減を間違えてしまえば命取りになる状況下に置かれていたんです。
だから、最初の時のように単純に距離を詰める戦法が使えなかった。そんなことをしてしまえば、魔法の奔流に飲まれるのみならず、不安定な着地の瞬間を必ず狙われてしまうから。
だけど空中なら、その制約はありません。
……ですがその一方で、至極当然なことですが、空中には足場が存在していません。
空中ではただ落下に身を任せるしかできず、攻撃を躱すことすらできない。
そんな場所に身を投げるのは、本来であれば、歪んだ凍った大地を駆けるよりも遥かに危険なことです。
無論、そんな隙だらけのシィナちゃんを侵入者の方が見逃すはずがありませんでした。
無数の魔法の奔流が上空に向け、一斉に放たれます。
けれど、その無数の魔法のたった一つですら、シィナちゃんに当たることはありませんでした。
「これ、ならっ……!」
「っ……空中に、足場を……? そんな魔法、どこで……」
空中に足場を作り、跳躍。体を反転させ、さらにもう一度足場を作り、また跳躍。
シィナちゃんはそれを残像が残るほどの速度で、幾度となく繰り返します。
少し前のように大地や重力に縛られず、高速でジグザグと三次元的に空中を横断するシィナちゃんを捉えるのは、いかに侵入者の方と言えど困難なようでした。
まるで、稲妻。文字通り、自由自在に空を走って跳び回るそれの軌道は予測することはおろか、目で動きを捉えることもできず、侵入者の方の魔法が当たったように見えたとしても、それはすべてシィナちゃんの残像でしかありませんでした。
そんなシィナちゃんの姿を眺め、侵入者の方はなにかに気づいたように呟きます。
「その魔法の術式は……まさか、あの子が手掛けた……ちっ!」
シィナちゃんはまだ視覚が戻っていないはずです。
なのにあれだけ高速で動き回りながら、侵入者の方の位置を正確に把握しているようでした。
その手段と理由はおそらく、ずば抜けた第六感です。
本来曖昧な直感に過ぎないそれを視覚の代わりとして当てはめ、その身を動かす判断の大部分を委ねている。
一歩間違えば相手の攻撃に向かって一直線に突っ込んでしまいかねない、正気の沙汰ではない所業でしたが、シィナちゃんは迷うことなく自分自身の感覚を信じ切っていました。
「クソが……」
侵入者の方は最初こそシィナちゃんを捉えようと躍起になっていましたが、それが不可能なことを察すると、すぐに捉えることを諦め、詠唱を完了させることを優先し始めます。
「■■、■■■■■■■■」
もちろんシィナちゃんがそんな隙を見逃すはずもなく、空中に作り出した足場を蹴って急接近します。
「■■■。■■■■」
「これ、で……! ……っ!?」
「こ、これは……?」
シィナちゃんの剣が侵入者の方を斬り裂いた……かのように見えました。
ですがその刀身はスルリと侵入者の方の体をすり抜け、侵入者の方の体は泡沫のように消えてしまいます。
「げ、幻影の魔法ですかっ……?」
いったいいつからそんなものを仕込んでいたのかと思考を巡らせて……おそらく、閃光でシィナちゃんの視覚を封じた直後だと思い当たります。
シィナちゃんがもっとも動揺し、侵入者の方から完全に意識を外したタイミングが、そこだけだったからです。
視覚の剥奪と、幻影による保険。最初からその二段構えで、詠唱が完了するまでの時間稼ぎをするつもりだったんです。
「■■■■■■■■■■■■」
詠唱が聞こえたのは、少し離れた林の手前でした。
私も魔法使いの端くれですから、内容は理解できずとも直感でわかりました。詠唱はもう、最終段階に入っています。
次の一節で、詠唱が終わる――。
今のシィナちゃんの位置からでは、おそらくギリギリ間に合いません。
シィナちゃんは何度か魔法を斬り裂いていましたが……今まさに完成しようとしているこの魔法をどうにかするのは、まず不可能でしょう。
津波、地震、噴火。たった一人、身一つでそんなものに対応できるはずがないように……これはきっとそういった、災害を引き起こす類の魔法です。
このままじゃ、私たちは二人とも……。
――いつもありがとうね、フィリア。
「っ、そうです……私は……!」
約束をしました。お師匠さまと、ずっと一緒にいるって。
その約束を、こんなところで違えるわけにはいきません!
お師匠さまとの約束を思い出した途端、ふっと、急に脳が冴え渡る感覚がしました。
視界から、色が消えていきます。それからすぐに音も消えて、匂いもなにも感じなくなって、自分だけが世界から切り離されたかのような錯覚に陥りました。
深く深く、沈んでいく。それはなんというか、決して不安を覚えるような感覚ではなくて……たった一人、自分という存在だけがあるその場所で、自分の魔力の流れだけが鮮明に感じ取れました。
今なら、なんだってできそうな気がしました。
そうです。たとえお師匠さまに及ばないかもしれなくても、この身はお師匠さまが見初めてくれた魔法の才能の塊です。
なら……一度この目で見た魔法を再現するくらい、私にだってできるはずです。
今、この場面で必要な魔法。
一瞬にして届くくらい素早く。それでいて威力を兼ね備え、防御を強制する魔法。
――シィナちゃんが来る直前に、あの侵入者の方が私を殺そうと放った、雷撃の魔法。
「■■■■、■■■■■■■■■! 顕現せよ、『外界、っ!?」
シィナちゃんとの戦いの中でも何度か使っていましたから、その仕組みを理解するだけの時間はじゅうぶんありました。
これまで私が使ったことがないレベルで強大な魔法だったので、実のところ発動できるかどうかは賭けに近いものでした。
発動できたところで、下手をすれば魔法が暴走し、自分自身が焼き焦がされていたかもしれません。
それでも正しく雷撃を放つことができたのは、あの深く沈んでいくような不可思議な感覚と……お師匠さまのおかげです。
お師匠さまは魔法の暴走という危険を最小限にするために、これまでずっと精密操作を重視して魔法を教えてくれていましたから。
侵入者の方は未熟ではありませんから、避けることも防ぐこともできなかった私と違い、当たる直前で咄嗟に障壁を展開して防いでいました。
私一人だったなら、ただ防がれて終わりなだけの無意味な一撃だったでしょう。
でも今は、この一瞬の時間稼ぎが勝敗を分けるに足るものでした。
私の横を、赤い稲妻が走り抜けます。
「ちぃっ! 『外界より――っ!」
「お、そい……!」
私が稼いだほんの一瞬で侵入者の方との距離を詰めたシィナちゃんが、一気に剣を振り抜きます。
今度は、幻影ではありません。
シィナちゃんが繰り出した一撃は確かに侵入者の方の喉を捉え、その首から上を斬り飛ばしました。
それによって、今まさに発動しようとしていた魔法と侵入者の方の繋がりが絶たれ、集っていた魔力が急激に霧散します。
さらに一歩遅れてシィナちゃんが駆け抜けた時の風圧で風が吹き荒れて、私の髪をかき上げました。
……静寂。
飛ばされた侵入者の方の首がボトンと地面に落ちる音がして、ようやく私はハッとしました。
「……え、えっと……シィナちゃん……こ、殺しちゃったんですか?」
た、確かにあの状況では、中途半端な一撃ではこちらが危なかったので、それしか手はなかったのはわかっているのですが……。
私がオロオロと問いかけると、剣を振り抜いた時の姿勢のままだったシィナちゃんは落ちついた様子で剣を下ろして、首から上を失った侵入者の方へと振り向きます。
侵入者の方はシィナちゃんに斬られた直後から完全に動きが停止し、倒れる気配もありません。
や、やっぱり死んじゃってます……よね?
首を斬られて死なない人なんているはずないですし……。
……でも、なんというか……どこか死に方が不自然なような……?
い、いえ、人が死んだところなんて見たことはないので、確かなことは言えないのですが……。
その言いようのない感覚は、私だけでなくシィナちゃんも感じているようでした。
むしろ直接侵入者の方を仕留めたこともあって、シィナちゃんの方がその違和感の正体をきちんと理解しているようでした。
「……ううん……ちがう。これ……たぶん、ひとじゃ……ない」
「え? それはどういう……」
シィナちゃんの言葉の意味について聞き出そうとした瞬間、バチン、と、まるで再起動するような音が侵入者の方の体から発せられました。
「あっ、シ、シィナちゃん!」
「わっ……!?」
動きを停止していたはずの侵入者の方の体が、突如として全方位に雷撃を撒き散らし始めます。
シィナちゃんは堪らずその場を離れると、私を庇うように私の前に立ちました。
「……やってくれたね」
雷撃が収まると、首から上を失ったはずの侵入者の方からそんな声が放たれます。
よく見れば、その斬られた首の断面からは血が出ていませんでした。
いえ、それどころか……そこから窺えるものは骨や肉と言った人体なんてものではなく、水晶のような鉱石でした。
少し離れた位置に落ちた頭の方も、それは同様です。フードが外れ、むき出しになった頭は、半透明な紫の水晶で作られていました。
こ、これは……。
「ゴ……ゴーレムですか……?」
「ああ? あぁ……本来の姿を晒すと、私は目立つんだ。これは人間どもに混じって活動するために手ずから作った、問題なく魔法を使えるようにした私の傀儡……だったってのに。ちっ、せっかく貴重な素材使って作ったおもちゃをおしゃかにしやがって……」
自分は悪くないとばかりにイライラと呟く侵入者の方を見て、私もちょっとムッとしてしまいました。
「それは、あなたが私とシィナちゃんを殺そうとするからです。私たちはなにも悪くありません」
「ハッ。あの子を苦しめる癌に過ぎないくせに、よくもまあいけしゃあしゃあと言えるね」
「っ、あなたの言っていることはずっとめちゃくちゃです! これっぽっちも意味がわかりません……! ちゃんと私たちにわかるように話してください!」
――あの子が抱える……果てのない苦しみと絶望も。
――お前じゃハロを救えない。
――必死に助けを乞うあの子の、言葉にならない嘆きの声に……。
最初からずっとそうです。この方の言っていることは、支離滅裂で脈絡がない。
お師匠さまが孤独で苦しんでいたことはもちろん私も知っています。
お師匠さまは奴隷だった私をお買いになった日に、その理由について、魔法の才能を見初めたからだけでなく……寂しかったから、とおっしゃっていましたから。
でも今は、私だけじゃなくてシィナちゃんやアモルちゃんだって、お師匠さまと一緒に暮らしています。
お師匠さまはもう一人じゃありません。私たちが、絶対に一人にしません。
なのにこの方はそれを……まるでそれこそがお師匠さまの苦しみだと、私たちのことを癌だと言っている。
わかりません。侵入者の方が言っていることは、やっぱり支離滅裂です……!
私たちといる時にお師匠さまが浮かべてくれる笑顔を思い出し、必死に睨みつける私を見て、けれど侵入者の方はバカにするように鼻を鳴らしました。
「言っても無意味だし、お前じゃ無理だよ」
変わらない。なにも教えず、突き放すような言動。
まるで自分の方がずっとお師匠さまのことをわかっているとでも言わんばかりの態度に、私の中にどんどん怒りが蓄積していきます。
「そんなの、やってみなくちゃわからないじゃないですか!」
「わかるんだよ。お前は言っただろ。あの子と死ぬまで一緒にいるって。あの子に並び立つ、って。それがもうダメなんだ。それじゃあ意味がない」
「なにを……!」
「いい加減わかれよ。お前のそれは自己満足なんだ。本当にあの子のことを思うのなら、お前は――」
不意に、侵入者の方の言葉が止まりました。
首から上がないのでよくわかりませんが、その視線は私よりも後ろへと向けられているような気がしました。
「…………ハロ……」
「お師匠、さま?」
侵入者の方の呆然とした呟きに思わず振り向くと、アモルちゃんを傍らに連れたお師匠さまが、ゆっくりとこちらに歩いてきていました。
「……外が騒がしいから来てみたけど……これは、どういう状況かな」
お師匠さまの纏う空気が、いつもと違いました。
いつもはなんというか、緑豊かな自然に流れる風のような穏やかな雰囲気なのですが……今のお師匠さまは、曇天の下、嵐の前に吹いている強風のようでした。
この変化にはシィナちゃんも少し驚いたように目をパチパチとさせていましたから、きっと普段冒険者として活動する時ですら、お師匠さまはこのような雰囲気にはならないのでしょう。
「シィナ。フィリアとアモルをお願い」
「……うん」
お師匠さまはアモルちゃんを私に預けると、私たちの前に立ちました。
お師匠さまと侵入者の方が、一対一で対峙します。
「あ、あの……大丈夫……?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。心配してくれてありがとうございます、アモルちゃん」
私と傷だらけなシィナちゃんを見て、不安そうにするアモルちゃんの頭を撫でてあげます。
それから、私たちはお師匠さまの邪魔にならないよう、私とシィナちゃんを連れて少し離れた位置に移動しました。
「……アハ、アハハ……うん、うん。大きくなったね、ハロ……」
「……」
侵入者の方はお師匠さまと向き合ってしばらくすると、ぽつり、ぽつりと、感慨深いものがあるように呟きました。
お師匠さまは、なんの反応も示しません。
「……ねえ、ハロ。あの子たちはさ……あなたの、なに?」
そこでようやく、お師匠さまは口を開きます。
「家族だよ。血の繋がりはないけど……私なんかのことを慕ってくれる、大切な家族だ」
「……でもあの子たちは、あなたの苦しみを理解してないよ。あなたが本当に望んでいることを知らない。あなたがどれだけそれに身をやつし、焦がれてきたのか……」
お師匠さまはなにか心当たりがあるのか、口を噤んで神妙な面持ちで侵入者の方を見つめています。
「それでも、家族と呼ぶの? あなたの真実を知ったら、離れて行ってしまうかもしれないのに……そんなものが、あなたにとって本当に大切なものなの?」
「……そうかもね。私は嘘つきだ。本当の私を知ったら、幻滅されて……皆、私なんか見限って、どこかへ行ってしまうかもしれない」
「なら……」
「それでも、それは全部私の罪だ。悪いのは嘘をついてきた私で、フィリアもシィナもアモルも、誰も悪くない。だから私はあの子たちが私を慕ってくれる限り、あの子たちのことを家族と呼ぶし、絶対に守る。誰にも傷つけさせない」
……侵入者の方が言っていたことは……デタラメじゃ、なかったんでしょうか。
お師匠さまの返答には嘘偽りない感情が込められていて、お師匠さまが感じている葛藤がひしひしと伝わってくるようでした。
「……そっか。アハハ……あいかわらずバカだね。けど、それがあなたの選択だって言うなら……ワタシは……」
「あなたが何者なのかは知らない。だけど、フィリアたちを傷つけた報いは受けてもらう」
「……うん。そうだね……あなたの大切なものを、壊そうとしたんだもん。けじめは、つけなくちゃいけないよね……」
侵入者の方が、腕をお師匠さまの方へと向けました。
「■■■■、■■■■■、■■■■■■■」
「……古代魔法か」
お師匠さまは、動きません。
次々と紡がれる詠唱を、その場に立ったまま黙って聞いていました。
「お師匠さま……!」
「大丈夫。見てて、フィリア。魔法使い同士の勝負なら、私はこの世界の誰にだって負けないから」
私の方に振り向いて、そう言って浮かべたお師匠さまの微笑みには、なんの気負いもありませんでした。
自分が勝つと、そう確信している。
あの侵入者の方の強さを知っているだけに、思わず不安で声を上げてしまいましたが……そのお師匠さまの笑顔を見ると、不思議と心が落ちついてきました。
「私の魔法は、あの子に教わったものだ。あの子にもらった名前に、泥を塗るわけにもいかないしね」
「……■■■■、■■■■■■■■■」
詠唱が完了すると、莫大な魔力が現象として形を為そうと侵入者の方に集いました。
周囲の温度が急激に上昇し、侵入者の方がかざした腕の前に円環の炎が出現し、その中心に三つの花弁が咲き誇ります。
ですがやはり、お師匠さまは一切動じません。さあ撃ってみろとばかりに、魔法の発動を見守っています。
「顕現せよ、『外界より来る貪食なる焔』」
次の瞬間、その花弁の中央から尋常でない規模の爆炎が発生しました。
お師匠さまも、この庭も、お師匠さまの屋敷も、すべてを覆い尽くして余りあるほどの業火でした。
言うなればそれは、世界を喰らう炎。炎の形をした巨大な生物が、貪欲に大口を開けて私たちを食べようとしていました。
触れうるものを区別なく焼き払う。そんな生命にとっての絶大な脅威に対し……お師匠さまは、まるで火の粉でも払うように軽く腕を凪ぎました。
そしてそれだけで、爆炎は押し止められてしまいました。
お師匠さまより後ろへ炎が到達することはなく、私たちはもちろん、庭も家も原型を保っています。
「術式掌握」
続けてお師匠さまが呟いたその一言で、あらゆるものを焼き尽くさんばかりだった炎が急激に縮小していきます。
なおも広がって規模を大きくし、炎を押し止めるお師匠さまの力さえ飲み込まんとしていた炎の熱が呆気なく収束し、お師匠さまの手元に燃え盛る真っ赤な球体が生まれました。
その球体を、お師匠さまはスッと侵入者の方へと押し出します。
「ほら、全部返すよ。『外界より来る貪食なる焔』」
「っ――」
次の瞬間、一箇所に収縮したエネルギーが再度解き放たれ、数多の命を焼き尽くさんと猛る爆炎が今度は侵入者の方に向かって放たれました。
これは元々、侵入者の方がわざわざ詠唱までして発動した魔法です。
苦労して時間をかけて作り上げたはずのそれを、こんな数秒でそっくりそのまま返されては為すすべもなく、侵入者の方はその炎に呆気なく飲み込まれてしまいました。
しかもお師匠さまは爆炎の影響が余計な範囲に及ばないよう、侵入者の方を覆うように瞬時に半円状の障壁を展開していました。
障壁の中で熱量が閉じ込められて、さらに火力は上がっていたことでしょう。
「これが……お師匠さまの本気……」
術式の掌握。魔法の強奪。それも、こんな特大規模の魔法を……。
お師匠さまが、魔法使い同士での勝負なら絶対に負けないと豪語したことも頷けました。
相手が作り出した魔法の術式に介入し、こうして簡単に奪ってしまえるのなら……確かにお師匠さまに敵う魔法使いなんて、誰もいるはずがありません。
侵入者の方はお師匠さまの魔法の才能を、星のごとき眩い光だとおっしゃっていました。
手を伸ばしても伸ばしても、届かない。星のように遠い場所に立っている。そういう才能なのだと。
その片鱗を今、垣間見た気分でした。
炎が収まると、お師匠さまは障壁を解除します。
障壁で包まれていた空間は、当然ですが跡形もありません。
地面は溶け、すべては灰燼と化し、あるものは凄まじい熱の残骸だけです。
侵入者の方のゴーレムの肉体も、一欠片すら残っていませんでした。
「終わった……んですか?」
「……っ、いや、まだ……!」
お師匠さまがなにかに気づいたように振り向きました。
その視線の先にあったのは、最初にシィナちゃんが斬り飛ばした、侵入者の方の首から上に当たる水晶の塊です。
頭だけは離れた場所に飛んでいたので、あれだけは障壁の中に閉じ込められず、爆炎の影響を免れていました。
その頭だった水晶に、バキン、と罅が生じます。
私たちが見守る中、亀裂は見る見る間に広がっていき、数秒のうちに砕け散りました。
なにも見えませんでしたが……その水晶の中からなにかが飛び出てきたことを、私は感覚的に察知しました。
シィナちゃんもそこになにかの存在を感じたようで目を凝らすようにして、なにもない空間をじっと見つめています。
その存在を最初に捉えることができたのは、魔眼という特殊な目を持っていたアモルちゃんでした。
「……妖精、さん?」
「え? よ、妖精……? 妖精が、そこにいるんですか? ……じゃ、じゃあまさか……あの方は……」
驚愕で動きが固まっていたお師匠さまへと、見えないなにかが近づいていきます。
お師匠さまに近づくにつれ、徐々にその姿は鮮明に、そして色がついていきました。
手のひらで包み込んでしまいそうなほど、あまりにも小さな体躯。
小さな花びらが点在しているかのような、幻想的で美しい翅。
肩や脇が露出したフリフリとした衣装は、まさに物語に出てくるような妖精と言った風貌です。
しかしその一方で、髪と瞳が元来の妖精のイメージを覆す異様な雰囲気を醸し出していました。
髪は主には夕日のようなオレンジ色なのですが、毛先に近づくにつれ、まるで夜の訪れを現すかのように深紫色に変わっています。
瞳も同様で、左目は自然を体現した美しい緑色をしているのに対し、右目は禍々しさを思わせる赤紫に染まっていました。
異質。異端。
かつて人に魔法という叡智をもたらした妖精という存在でありながら、どこか危うく……人々に滅びをもたらしかねないような、不吉な空気を纏っていました。
「き、みは……」
「アハ、アハハ!」
その妖精は、お師匠さまが自分の存在を正しく認識したことを確認すると、嬉しそうに満面の笑みを浮かべました。
「はい、どーん!」
翅を羽ばたかせ、無邪気な掛け声とともに、ポフッとお師匠さまの胸に飛び込んだ妖精の少女は、なにかを期待するようにお師匠さまを見上げます。
お師匠さまは、未だ信じられないと言った様子で目を見開きながらも……それに応えるように、おずおずと口を開いて言いました。
「し、師匠……?」
「えへ、えへへ、えへへへー! そうだよー! 久しぶりだね、ハロー!」
お師匠さまの服の襟を掴み、空中で足をパタパタとさせてじゃれつくその姿は……少し前までの傲慢な立ち振る舞いとは、似ても似つかないものでした。
こ、この方が……お師匠さまの、お師匠さま……?
あまりの性格の変容についていけず、私はちょっとポカンとしてしまいます。
なぜかお師匠さままで困惑したように目を瞬かせている気もしましたが……さすがにそれは気のせいでしょう。
お師匠さまのお師匠さまと思しき妖精の少女からは、もうさきほどまでの敵意は感じませんでした。
ひとまず事態は収まったみたいでしたが……まだまだ波乱は始まったばかりだと、東の空に昇り始めたお日さまが告げていたのでした……。
……時は早朝。
僭越ながら、この屋敷の主をやらせてもらっている私ことハロ。
私の奴隷兼弟子のフィリア。居候のシィナに、この家で匿っているアモル。
そこへさらに新たにやってきた一人の少女を交えた食事の席は、なんとも言いがたい重苦しい空気に包まれていた。
「ハロ、ハロっ。これおいしいね! もしかしてハロが作ったの?」
重苦しい空気になっている原因は言うまでもなく、新たにやってきた五人目の少女である。
全長二〇センチもない超小柄な体格に、花びらを散りばめたような煌めく翅。
神秘的な美しさと禍々しさを両立する二色入り交じる髪と目が、どこか異色な雰囲気を醸し出す。
いわく、異端の妖精。いわく、《全》と謳われる者。
かつて私に魔導のすべてを授けてくれた、私の魔法の師匠でもある。
そんな彼女は今現在、机の上に並べられた料理をとても気分良さそうに頬張りながら、ニコニコと無邪気な笑顔を私に向けてきていた。
そんな彼女だけに注視するならば、重苦しい空気は毛ほども感じられないのだが……。
「ハロー?」
「へ? あ、ああ……うん、私が作ったよ。なんの変哲もない野菜スープだけど、そんなにおいしいかな……?」
「うん!」
彼女は元気な返事とともに少々大げさなほど大きく首を縦に振ると、そっと胸の前に手を当てた。
「味覚なんてとうの昔になくなってたと思ってたけど……ハロが作ってくれたこれは、なんだかすっごく温かくて体に染み渡るようなの! ハロの優しさが詰まってるなぁって感じる!」
「そ、そっか……まあスープだから、温かいのは当然だと思うけど……」
ちなみに、体格が体格なので、彼女の前に用意されているものはすべて小皿だ。
私やフィリア、シィナやアモルがパン一つ食べているのに対して、彼女の小皿に置かれているのはパンの切れ端一つだけ。他の料理も同様で、いくつかの小皿にそれぞれほんの少量だけが盛りつけられている。
数値にすると、ほんの十分の一程度だろうか。しかしたったそれだけでも、超小柄な妖精という種族たる彼女にとっては、私たちと同等の量になり得るのだ。
しかしながら、彼女の大きさに合わせたスプーンやフォークなどはさすがに用意できなかったので、彼女は魔法を駆使して料理を口元まで運んでいる。
彼女がスープの上に浮かぶ野菜に指を向ければ、それがフワフワと浮いて、スープの水滴一つ零すことなくスイーッと彼女の元まで飛んでいく。
妖精は元々、翅を介した魔法でほぼ常に浮いている種族だ。低出力の重力の魔法と、その細かい制御は彼女たちの十八番と言える。
もっとも、この子なら重力の魔法に限らず、上級魔法程度までなら詠唱も魔法陣も魔法名も唱えず、正確かつ綿密な制御で同時にいくつでも扱ってみせるだろうけれど。
「ふんふーん。もぐもぐ」
……さて。
重苦しい空気を作り出している元凶でありながら、そんなものは知らんとばかりに料理に向かう妖精の少女に向けられる視線は、実に多種多様だった。
まずフィリア。天真爛漫な彼女にしては非常に珍しく、敵視とはいかないまでも、警戒と若干の反感が入り乱れる複雑な感情を抱いているように見える。
次にシィナ。いつもなら耳をピコピコさせながら黙々と大量の食事を食べているところ、今回は他の皆とそう変わらないペースで、チラチラと気になるような視線を妖精の彼女に送っている。
そしてアモル。アモルに関しては妖精の少女にそのものというよりも、彼女を取り巻く異質な空気感に萎縮してしまっている感じだ。口数が非常に少なく、とにかく不安そうに私たち全員を見渡している。
最後に、私。
「えへへー、ハロー。せっかくだし、あーんしてあげよっか。あーん」
「あ、あーん?」
「うん! 人族って、そうやって大好きな人に食べさせてもらうのが好きなんでしょ! ワタシもやってあげたいなーって!」
「いや、それは……」
「……うぅ。もしかしてハロ、ワタシのこと嫌いなの……?」
急にしょんぼりとし始めたものだから、私は慌てて首を横に振った。
「き、嫌いじゃないっ。嫌いじゃないけど……」
「じゃあ好きなんだね! えへへ、ワタシもハロのこと大好きだよー! お揃いだね!」
「う、うん……そ、そうだね……?」
妖精の少女は机の上で少し浮くと、上機嫌にクルクルと回る。
そんな彼女に私が向ける感情は、困惑一択であった。
いや、だってさ、おかしいんだもん……。
こんな好意むき出しで迫ってくる妖精の子なんて、私知らない……。
私の記憶が確かなら、あの子はもっと傍若無人で、常に不機嫌そうに口を尖らせてて、いつだって他人のこと見下してて人の話なんて全然聞かなくて、誰が自分をどう思ってるかなんて心底どうでもよくて、こんな媚びるような声は絶対にしないし女の子とは思えないくらい口が悪い……。
そんな感じの、とにかく手がつけられない子だったはずだ。
それがなんだ。
私のこと尊重するみたいに料理を褒め、私と会話することが楽しいかのように頬を緩めて、私がどう思ってるかなんてことを気にして、彼氏にベタ惚れな女の子みたいに甘々にとろけた声を出して……。
おかしい……こんな好き好きオーラ全開で近寄ってきてくれる妖精の子なんて、私知らない……。
「それじゃ……うーんしょ、うーんしょ……! ……はい、ハロ。お口開けてー。ワタシが食べさせてあげるから」
自分で食べる時にしていたように魔法で直接持ち上げればいいはずなのに、師匠は全身を使って私のスプーンを持ち上げると、翅で飛びながら器用にスープを掬って、私の方に運んできた。
魔法で直接持ち上げたものを食べるのであれば、見た目的には浮いているものを食べるだけだったのでよかったのだが、こうして直接スプーンで差し出されてしまうと、気恥ずかしくて少しばかり躊躇してしまう。
やっぱりおかしい……変だ! 絶対変だ!
あーんなんていう他人に愛情を捧げるようなこと、私の知っているあの子なら絶対にしない……!
よしんばなんらかの超複雑的かつ怪奇的不可思議な事情でしなくちゃいけない事態に陥ったとしても、ものすっごいイライラした感じで心底だるそうに魔法で浮かせて口にぶち込むだけだったはず。
それが今はどうだ?
妖精である彼女にとっては相当重いだろうスプーンを、額に汗をにじませながら一所懸命に持ち上げて……こうして私がためらっている間にも機嫌が悪くなっていくなんてことはなく、むしろ『食べてくれないの……?』と悲しむように少しずつ眉尻が下がっていく。
そんな顔をする彼女を見ているのが心苦しく、羞恥心を押し殺して食べてみれば、彼女はとても嬉しそうに慈愛溢れた微笑みを浮かべる。
やっぱりおかしいぞ……なにかが、なにかがおかしい……。
見た目や特徴は私の記憶にあるあの子の姿と完全に一致しているのに、その仕草や口調はまるで別人だ。
数年前、彼女と別れる直前までは、確かに冷たく当たられていたはずなのに……。
この数年でなにがあったんだ……?
それともまさか、ただあの子の姿を真似てるだけの偽物とか……?
「次はどれ食べたいの? またワタシがあーんってしてあげる!」
「いや……その、私は……」
「っ……いい加減にしてください!」
このままだと、私が食べるぶん全部をこうしてあーんしてきそうだ。
さすがにそれは勘弁願いたかった私が物柔らかな感じの否定の言葉を探していると、不意にフィリアが抗議するようにガタンとイスを蹴って立ち上がった。
「庭でお師匠さまと会った時から、ずっとその調子で付き纏って……お師匠さまが困ってるじゃないですか! お師匠さまの意思を無視してそういうことをするのは、お師匠さまのためとは言えません!」
ガルルルル……!
人懐っこく、いつも私に駆け寄ってくる元気な子犬みたいな彼女が、吠えて威嚇するかのごとく妖精の少女を睨みつける。
それに対し妖精の少女は私に向けていた慈悲と喜び溢れる笑顔を瞬時に消すと、不機嫌さを隠すこともなくフィリアを睨み返した。
「はぁ? なにお前。嫉妬? 羨ましいからって変ないちゃもんつけないでよね」
「うらやま……!? ち、違います! 私はお師匠さまためを思って……!」
「誰かのためなんて、しょせん誰かを思う自分のためでしょ。目の前のことを我慢できないってだけの言い訳にハロを使うなよな。浅ましい」
お、おお……以前の師匠だ。
そうだよ、このなんでもかんでも見透かしたような態度で斜に構えた屁理屈並べて『はぁーホント人間ってのは愚か極まりないなぁー』みたいに人を見下して鼻を鳴らす感じが、私の記憶にある師匠なんだ!
懐かしい……あまりにも私の知ってるあの子と性格が違ったから、すわ偽物かと疑ってたけど、うむ。
このクソガキ感。間違いない……この子は紛うことなき私の師匠だ!
……ただ、そのー……できればもうちょっと仲良くしていただけると……。
「っ……だとしても、あなたがしていることは……!」
「あ、あの……!」
二人の言い合いがさらにヒートアップしようとしたところ、抗議するように声が上がる。
声を上げて二人を静止したのは、アモルだ。
一斉に視線が集まってアモルは居心地悪そうに縮こまるが、彼女はそれでも絞り出すように言う。
「その……お姉ちゃんが作ってくれたご飯……そんな風に食べてたら、きっとお姉ちゃんが悲しむから……」
「……アモルちゃん……」
「……」
アモルの一言は、二人にとっては冷水を浴びせられたに等しかったみたいだ。
フィリアは瞬時に落ちつきを取り戻し、軽く深呼吸をすると、静かに自分のイスに座り直した。
「そうですね……アモルちゃんの言う通りです。せっかくお師匠さまが作ってくれたお食事をこんな気持ちで食べるなんて、お師匠さまに失礼ですよね」
「うん……その、妖精さんも……」
「……ふん。別にワタシが騒ぎ立てたことじゃないけどね。でもまあ……ハロを嫌な気持ちにさせちゃうのはワタシとしても不本意だし。いいよ、お前の望む通りにしてあげる」
「ありがとう、妖精さん」
フィリアに注意された時と異なり素直に受け入れると、妖精の少女は自分の食事が並んだ方へいそいそと戻っていく。
どことなく、アモルにだけはほんのちょっとだけ対応が柔らかい感じだ。マジでちょっとだけど。
その理由は私にはわからないが……なにはともあれ、アモルのおかげで、ようやくまともに話ができそうな雰囲気になってきた。
きっと相当勇気を振り絞って声を上げてくれたんだろうし、アモルは後でいっぱい褒めてあげよう。
私は一度こほんと咳払いをして、皆の注目を集める。
「さて。遅くなっちゃったけど、そろそろフィリアたちにも紹介しなきゃね」
私に集まっている注目を誘導するように、妖精の少女に手を向ける。
「この子は私の昔の知り合いで、かつて私に魔法を一から教えてくれた私の師匠に当たる。見ての通り妖精族で、名前は……えぇと……」
……実を言うと、私はこの子から名前を教えてもらっていない。
いや、教えてもらっていないというか……どうにも、自分の名前なんてこの子自身さえそもそも覚えていないらしいのだ。
彼女の境遇を思えば、それもしかたがないとは思うけど……。
そんなこんなでどう紹介したものかと悩んでいると、妖精の少女がポツリと言った。
「リームザード。そう呼んで」
「……呼んでいいのかい?」
なにを隠そう、かつて師匠と呼んだところ、ものすっごく顔を顰めて嫌がられたことがあったのだ。
本人いわく『虫唾が走る』とのことらしい。呼び方に親しみを感じて鳥肌が立つとかなんとか。
あまりの嫌がりように、その後の私はしばらくの間しょぼぼーんとしていたものだ。
あの子とか彼女とか妖精の少女とか、私が妙に迂遠な表現で彼女を呼ぶことが多いのもそれが理由だったりする。
その昔、『じゃあなんて呼べばいいのかな?』と聞いたら『そもそも呼ぶな』と返されてしまったので、しかたがないのである……。
さしづめ、名前を呼べないあの子だ。
そんな彼女のことなので、師匠どころか自分の名前で呼ばれるだなんて、もはや忌み嫌うと表現していいほど嫌がりそうなものなのだが……。
「うん。特にハロには親しみを込めて、リザ、って呼んでほしいな」
人差し指で自分の顔を差しながら、にこーっ、と妖精の少女は言う。
え……だ、誰? 誰ですかあなた。
親しみを込めて……? 親しみって言ったの?
バカな……私の師匠がそんなこと言うはずがない……まさか偽物か……?
どこか期待するような視線に私が戦々恐々としていると、「次は私の番ですね」とフィリアが口を開いた。
「私は、お師匠さまの弟子のフィリアです。正直に言いますと、まだ少々納得いかない部分もあるのですが……ひとまずよろしくお願いします、リザさん」
「はぁぁぁぁぁー!? お前話聞いてた!? その呼び方はハロにしか許してないんだけど! お前ごときが勝手に呼ぶな! 虫唾が走る……!」
「えぇ……?」
あ、師匠だ。この『いや嫌がりすぎやろ……』って感じの嫌がりようは絶対に私の知ってる師匠だ。間違いない。
妖精の少女は目元をピクピクとさせながら、苛立ちのままにフィリアを睨みつけた。
「そもそも! 名前呼びを許可するだけでも譲歩してやってるっていうのに……! こともあろうにお前、ハロにだけ許した愛称を……!」
「し、ししょ……じゃなくて、リザ。ちょっと落ちついて……」
「……! も、もう一回! ハロ! 今のもう一回言って!」
このままだとせっかくアモルが良くしてくれた空気感が元に戻ってしまう。
それはさすがに見過ごすことができずに口を挟んだのだが……私が愛称で呼んだ瞬間、妖精の少女は即座に怒りを引っ込めて翻ると、キラキラとした眼差しで私を見上げてきた。
「えっと……リザ?」
「~~! えへ、えへ、えへへへ……そう、そうだよ。リザ……ワタシはリザだよ!」
「う、うん……?」
怒り心頭と言った様子から一転、はにかむように微笑んで、なんだかものすっごく嬉しそうだ。私の知ってる師匠とは真逆の反応である。
やっぱり偽物なんだろうか……。
「ふん……ハロに免じて今回は許してあげる。お前、次は絶対呼ぶなよな」
「お前じゃなくて、フィリアです。ちゃんと呼んでほしいなら、私のこともきちんと名前で呼んでください」
「お前に指図される筋合いは」
「リザ。私は、二人に仲良くしてもらえると嬉しい」
師匠――リザの言葉を遮って私が口を挟むと、彼女は少々葛藤するように沈黙する。
「……む、ぐぐ……はぁ。まあ、ハロが言うなら……よろしくしてあげないこともないよ。フィリア」
「……なんだかどういう人なのか少しわかってきた気がします。はい、よろしくお願いしますね。リームザードさん」
……うーむ……。
リザはなんというか、かつて私に当たっていた以上にフィリアへの態度が妙に刺々しい。
さっきはアモルのおかげで、そして今回は私が仲裁することでなんとかことなきを得たが、この二人はできるだけ二人きりにはしない方がよさそうだ。
いや、よさそうだというか……正直なところ、今のところ私はリザがこの屋敷にいる間はリザから目を離す気は毛頭なかった。
境遇的に致し方ない部分もあるけれど、彼女ははっきり言って倫理観が破綻している。
彼女の目には、虫も動物も魔物も人も、あらゆる生命が等価値にしか映らない。
等価値――彼女にとって、すなわちそれは無価値だ。
人が容易く虫を踏み潰すように、彼女もまた人を殺すことになんの感情も覚えない。
実際、私が知らない間に、リザはフィリアとシィナの二人を殺しかけていたという。
つい数時間前のことだ。激しい戦闘の音、そして尋常でない魔力の高まりを庭から感じたので駆けつけてみたら、フィリアとシィナがリザの作ったゴーレムと対峙していた。
魔法使いにとってシィナのような戦士は天敵なので、フィリアとシィナの二人で力を合わせて、どうにか勝利することはできていたみたいだったけど……あと一歩駆けつけるのが遅かったら、危なかったかもしれない。
なにせリザはまだ本気を出していなかった。
……あるいは、出せなくなってしまっているのかもしれないが。
ともかくそういうわけなので、リザは可能な限りそばに置いて監視しておきたい。
少なくとも、フィリアたちを殺さないと確信を持てるまでは。
フィリアもシィナもアモルも、私の大切な家族だ。誰一人失うわけにはいかない。
万全を期すのなら、リザを遠ざけるのが一番いいんだろうけど……。
彼女だって私にとっては命の恩人で、尊敬してる人で、大切な友人で、この世界での母親のような人だ。
たとえ彼女が私のことを本心ではどう思っていようとも、私が彼女に救われ、一緒にいた時間が楽しかったと感じた事実は変わらない。
「……わた、しは……シィナ。よろ……しく(な、なんだかすごく変わった子だなぁ……フィリアちゃんを殺そうとしてたし、油断はできないけど……もし仲良くできるなら、仲良くしたい、かな)」
「わ、わたしはアモル。よろしくね? 妖精さん」
フィリアに続き、シィナとアモルが自己紹介をする。
ちなみに二人に対するリザの反応は、フンと鼻を鳴らす。ただそれだけであった。
あの……なんかこの子、さっきから私とそれ以外への対応の差がひどいんですが……。
「えっと、リザ? 私とフィリアだけじゃなくて、シィナとアモルにもよろしくしてあげてね……?」
リザは再び葛藤するように黙り込んだが、その時間はフィリアの時よりは短かった。
私が注意したのが二度目だからか、それとも相手がフィリアじゃないからか。
「まあ、ハロがそう言うなら……よろしくしてあげないこともないよ。お前たち」
「……(う、うーん……ほ、ほんとに仲良くなれるのかなぁ……)」
「うん。よろしくね、妖精さん」
……フィリアたちからの反応は、アモル以外はなんとも前途多難と言ったところか。
フィリアとシィナに関しては、直接戦ったのだからしかたがないと言えばしかたがないのかもしれないけど……。
リザとフィリアたちを馴染ませる――。
その難題にしばらく頭を悩ませることになりそうで、どうしたものかと、私は密かにため息をつくのであった。