「……ん……」
パタン、と扉が閉まる音が聞こえた気がして、ほんのわずかに目が覚める。
ぼーっとした頭で、誰か来たのかな、なんて考えたけれど、扉の向こうで足音が遠ざかっていく気配がして、その逆だと気がついた。
その証拠に、昨晩一緒に寝たはずのお姉ちゃんが隣にいない。
きっとわたしよりも一足先に起きたお姉ちゃんが、わたしを起こさないよう静かに出て行ったんだろう。
「……」
最近、いつも寝る時はお姉ちゃんと一緒だから、起きた時にお姉ちゃんがいないと少し寂しい気持ちになる……。
でも、お姉ちゃんはわたしと違って、やらなきゃいけないことがいっぱいある。
そしてそんなお姉ちゃんのおかげで、わたしはここにいられるんだ。
寂しいけど、本当は毎日ずっと一緒にいたいけど……お姉ちゃんの邪魔になることだけはしたくない。
夜になればまたいっぱい甘えられるんだし、それまでの辛抱だ。
お姉ちゃんと比べたら大したことないけど、わたしもわたしがやるべきことを、ちゃんと果たさなきゃ。
「ふふ……」
寂しくて、胸がキュッてして苦しいのに……なんだか少し、笑みがこぼれる。
寂しいけど……嬉しい。嬉しいけど、寂しい。
ちょっと不思議な感覚だ。
これはきっと、この寂しいって気持ちが、お姉ちゃんと出会ってから初めて感じるようになった感情だからなんだろうなって思う。
「……んーっ……!」
お姉ちゃんが起きたのに、わたしもいつまでもゴロゴロしてるわけにはいかないって思って、ベッドから上半身を起こして伸びをする。
お姉ちゃんの温もりが残ったベッドを離れるのはちょっと名残惜しかったけど、寝間着から着替えるためにも、お姉ちゃんの部屋を後にして自分の部屋に向かう。
わたしがいつも着ているのは、お姉ちゃんの服と似た意匠のワンピースだ。
それ以外にもお姉ちゃんがわたしのために買ってくれた衣装はもっとあるけど、わたしの一番のお気に入りはこれだ。
これを着ていると、まるでお姉ちゃんの本物の妹になれたみたいで、少し温かい気持ちになれるから。
あんまり時間をかけていると、お姉ちゃんにわたしを探す手間を取らせてしまうので、着替えが終わったら食堂に足を向ける。
そういえば、一度お姉ちゃんには、普通の食べ物でも大丈夫なのか聞かれたことがあったっけ。
淫魔には、他の生物の体液を体内に摂取した際に、その精気を栄養へと変換できる体質がある。特にそれが人類種のもので、なおかつ興奮状態に分泌されたものであれば、最高の変換効率を誇る。
お姉ちゃんはそのことを知っていたんだろう。
確かに精気さえあれば、淫魔は他にはなにも食べなくても生きていける。だけど生きていく上で、必ずしも精気が必要というわけでもなかったりする。
それが淫魔にとって一番栄養があるというだけだ。
事実、外に出ることすら許されない出来損ないだったわたしは、精気なんて食べた経験は一度もなかった。
それを聞いたお姉ちゃんは、どこかホッとしたように息をついていた。
……もし定期的に食べなきゃいけないって言ってたら、お姉ちゃんはどうしてたのかな。
どこかから見繕ってきたのかな。それとも……お姉ちゃんの精気を、分けてくれたのかな。
お姉ちゃんに嘘をつくなんて言語道断なので、しょせんは意味のない妄想に過ぎないけれど。
なにはともあれ、仲間たちといた頃は、仲間たちが魅了して連れてきた人間がたまたま持っていた食料を部屋の中に乱雑に投げ入れられる程度だったから、こういうお食事の時間が、実はちょっと楽しみだったりする。
今日はまだお姉ちゃんに会えていないこともあって、早く会いたい気持ちから自然と早歩きになる。
「っ……」
でもそんな意気揚々としたわたしの足は、ある部屋の前で止まってしまった。
そこは、お姉ちゃんと同じSランクの冒険者だって言う、すごく怖い人の部屋だった。
「ぁ、ぅ……」
この家にはお姉ちゃん以外にも、わたしを除いて二人の人が住んでいる。
片方がフィリアって言う胸が大きい人で、もう片方が、このすごく怖い人……。
名前は、シィナって言うらしい。
この人のなにが怖いかって言うと……目だ。
まるで煉獄の底に住んでいる悪魔のごとき、血のように真っ赤な瞳。
その瞳孔がわたしを捉えると、途端に頭の中が真っ白に染まって、視界も一気に狭くなって……息すらも、うまくできなくなってしまう。
わたしなんかより、この人の方が魔眼を持ってるんじゃないかって疑っちゃうくらい、その眼はいつだって常軌を逸した壮絶な威圧感を放っている。
そんな風に感じちゃうのはわたしだけではないようで、つい先日お姉ちゃんと怖い人と街を歩いた時には、皆があのシィナって言う怖い人から距離を取っていた。
お姉ちゃんや、あの胸が大きい人なんかは平気そうにしてるけど……わたしはどんなに怖がらないように意識しても、あんな風にはなれなかった。
だってわたしは……初めて会った時、実際に一度あの人に殺されかけてるから。
あの時の恐怖の情景が鮮明に蘇る。
お姉ちゃんと初めて会ったあの日、わたしはお姉ちゃんにしたのと同じように、あの人のことも操ろうとした。
でもあの人は、見えるはずもないわたしの魔眼の力を容易く斬り裂いてしまったんだ。
至近距離からの、完全な不意打ちだったはずなのに。
……あの頃のわたしにとって、魔眼の力は絶対のものだった。
ううん。絶対のものじゃなきゃいけなかった。
仲間たちが死に、一人で生きていかなきゃいけなくなったわたしにとって、頼れる力はそれだけだったから。
でもあの人は、わたしが唯一の拠り所としていたその力を、簡単に引き裂いてしまったんだ。
その事実を受け入れられなかったわたしは、もう一度魔眼を使おうとして、だけどそれも斬り裂かれて――気がついた時にはわたしの首筋に刃が迫っていた。
その刃には一切の容赦も慈悲もなかった。
それどころか……殺気すらも。
呼吸と同じだ。いわば、歩いている中で意図せず小虫を踏み潰してしまうのと同じ。
生きているから呼吸を行う。歩けばなにかを踏みつける。至極当たり前で、感傷さえ浮かばないこと。
そう。あの人にとってわたしの命を断つことなんか、一欠片の関心もない行為だったんだ。
冷たく鋭い、濃密な死の気配。わたしが死ぬのは必然なのだと、本能が悟る。
底なしの奈落への入り口が唐突に開かれて、「助けて」の一言さえ口にすることも許されず、痛みさえ置き去りにして落ちていく――。
……お姉ちゃんが止めてくれなければ、わたしはあの時、間違いなく命を落としていた。
「はぁ……は、ぁ……」
その人の部屋の前にいることもあり、一度蘇った怖気が止まることはなく、どんどんわたしの心を蝕んでいく。
本当は思い出したくなんてないのに、何度も頭をよぎる。
呼吸は荒くなり、心臓がバクバクして、視界の端が白くなっていく。
逃げたい。泣き出したい。
今すぐこの場を離れて、お姉ちゃんに会いたい。抱きついて甘えたい――。
「っ、ダ、ダメ……! に、逃げちゃダメ……泣いちゃ、ダメ……!」
半ば反射的に踵を返しかけてしまったけれど、首をブンブンと横に振って、こぼれ落ちそうだった涙とともに、直前で堪えた。
逃げるのも泣くのも簡単だ。
確かにわたしはあの怖い人に殺されかけはしたけれど、それはあくまで、わたしが魔眼を使おうとしたからだ。
事実、これまでわたしはあの人を怖がった素振りを何度もしてきたはずなのに、わたしは一度も危害を加えられていない。
わたしがなにもしなければ、あの人もなにもしてこないんだ。
でもだからって、いつまでもこうして逃げて、怖がっててもいいわけじゃない。
……唐突だけど、わたしはお姉ちゃんが好きだ。
人間やエルフみたいな人類種には、好きな人同士でケッコンっていう契約を結ぶ文化があるみたいだけど、いつかお姉ちゃんとそんな風になれたらいいなって思うくらいには、お姉ちゃんのことがいっぱい好き。
でもわたしの好きと違って、お姉ちゃんの好きは、わたしだけのものじゃない。
お姉ちゃんは愛が深い人だから、きっとあの胸が大きい人のことも、目がすごく怖い人のことも、同じように大切に思ってる。
だから、わかるんだ。わたしとあの怖い人の仲がうまくいってないことを、お姉ちゃんが気にしてることも。
……昔からずっと、わたしは仲間たちから言われてた。
出来損ない、落ちこぼれ、役立たず。
お姉ちゃんは優しいから、それは違うって、仲間たちにはわたしの本当の価値が見えないだけだったって言ってくれる。
でもわたしは、お姉ちゃんには少し悪いけれど、仲間たちの言う通りだって思ってた。
だってわたしには、なんの取り柄もない。無知で、弱くて……わたしにできる程度のことは、他の誰にだってできる。
さらにはひどい思い違いで、お姉ちゃんを傷つけて、泣かせてしまったことだってあった。
でもお姉ちゃんは、そんなどうしようもないわたしを見捨てず、抱きしめて、許してくれた。
そればかりか、妹だって呼んでくれた。
わたしなんかがお姉ちゃんの妹でいいのかなって、怖くて、情けない気持ちでいっぱいだったけど、それ以上に、ずっとずっと嬉しかったんだ。
わたしなんかのことを妹だって認めてくれたお姉ちゃんのためにも、その肩書きに恥じない人になる努力だけは怠りたくない。
だからそのために……まずは、あの怖い人への恐怖を克服するんだ!
「……はぁー……ふぅー……」
扉の前で少し深呼吸をして、心を落ちつかせる。
お姉ちゃんがそばにいると、弱いわたしはどうしてもお姉ちゃんに甘えちゃうから、本当の意味で恐怖を克服することはできない。
きっと少し怖くなっただけで、半ば反射でいつもみたいにお姉ちゃんの背中に隠れちゃうと思う。
それじゃダメだ。意味がない。
わたし一人で……お姉ちゃんが近くにいない今みたいな状況でこそ、頑張らなくちゃ……!
「よ、よし……」
明日やろう、明後日やろうなんて言っていたらいつまでも達成できない。
頑張るなら、ちょうどお姉ちゃんが近くにいない今しかない。
意を決して、あの怖い人の部屋をノックする。
正直、心臓が痛いくらい鼓動を打っていて、その割に、真冬の吹雪の中にいるような寒気も感じてしまっているけれど……こ、これもお姉ちゃんにふさわしい妹になるため!
お姉ちゃんが大切に思ってる人なんだから、本当の意味で悪い人じゃないのは確かなんだ。
それにわたし個人としても、あの人にはどうしても言っておかなきゃいけないことがあった。
大丈夫……怖くない、怖くない……。
わたしに勇気をちょうだい、お姉ちゃん……!
…………。
「…………あ、あれ……?」
……どういうわけか、返事がない。
えっと……ノック、したはずだよね?
つい数十秒前の自分の行動を思い返して、うん、と頷く。
確かにノックはした。間違いない。
それなのに返事が来ない……ということは、つまり……?
そういえば、と思い出す。
そういえばあの怖い人は、いつもあの胸が大きい人と一緒に食堂に来てた気がする。
もしかしてだけど……あの怖い人って、朝が弱かったりするのかな……?
胸の大きい人がまだ起こしに来てないから、まだ起きてないとか?
……か、快適な睡眠を邪魔したからって、邪険に扱われたり、しないよね……?
「あ……う……」
あの怖い人への恐怖を克服しようとできるチャンスだと思って、つい勢いでノックしちゃったけど……かなりタイミングが悪かったのかもしれない。
わたしのノックで目覚めなかったなら、それはそれでいい。
けど、もし目を覚ましちゃってたら? そ、そのせいで、不機嫌になっちゃってたら……?
わ、わたし、どうなっちゃうの……?
し、死んじゃう? 殺されちゃうの……!?
プルプルと体が震え出す。
奮い立たせるように逃げちゃダメだと何度も自分に言い聞かせてきたけれど、過去の体験ではなく、ありえるかもしれない未来からもたらされた恐怖は次元が違った。
うぅぅ……お姉ちゃん、お姉ちゃんー……!
「あっ――」
恐怖を克服しようだなんて覚悟は呆気なく吹き飛んでしまって、あの怖い人の部屋の前から逃げ出そうとした。
でも足が竦んでしまっていたせいで、その一歩目で自分の足に足を引っかけてしまって転倒する。
床に頭をぶつけてしまって、クラクラと視界が揺れる。平衡感覚が失われて、うまく立てない。
それでも立ち上がろうと四苦八苦していたけれど、不意に部屋の扉の向こうから、なにかが近づいてくる足音が聞こえてきた。
どうやらわたしが転倒した時の物音で、あの怖い人が本当に目を覚ましてしまったみたいだった。
もう間に合わない。逃げ切れない――。
その事実をわたしの本能が悟って、あの日わたしの首に刃が迫ってきた時と同じ、絶望が心を支配する。
ガチャリ、と背後の扉が開かれる。
その音にわたしはビクッと肩を跳ねさせて、惨めに情けなく、床に横になったままうずくまった。
「……? ……!? ど、どういう……?」
……ああ……わたし、もうここで死んじゃうんだ……。
でも、心残りはない。
お姉ちゃんと会えた。いっぱい頭を撫でてもらえた。それだけでじゅうぶんなんだ。
お姉ちゃんの妹になれたことは、暗い地下で一人寂しく朽ちていく運命しかなかったわたしには、もったいないくらい幸せな奇跡で……。
……う、うぅ……。
……やっぱり、やだぁ! 死にたくない、死にたくない死にたくないっ、死にたくないよぉ!
わたし、もっとお姉ちゃんと一緒にいたい。出来損ないで落ちこぼれのわたしだけど、いつの日かお姉ちゃんに、さすが私の妹だねって、褒めてもらえるようになりたい!
こんなところで終わりたくない……!
「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさい! わ、わる、悪気があったんじゃ、ないんです……! 少しはな、話を、したかっただけで……ゆ、許して……ひっぐ、お、お願い……許して、ください……」
死にたくない。もっとお姉ちゃんと一緒にいたい。
その一心で、無様に額を床に擦りつけて、嗚咽を漏らしながら必死に懇願する。
涙で霞んだ視界越しに、あの怖い人の足が見える。わたしを見下ろしたまま、立ち尽くしているのがわかる。
「え、ぁ……ぅ…………ん、と…………」
……あの怖い人が、一歩ずつわたしに近づいてくる。
一瞬、本能的な恐怖から体が勝手に逃げ出そうとしてしまうが、ギリギリで衝動を抑え込んだ。
そもそも体が震え上がってうまく立てないし、立てたところで、この人から逃げ切れるはずがない。
大人しく、この人が下す審判を受け入れることが、生き残るための一番確率が高い方法なんだ。
そんな理屈で自分を無理矢理納得させて、ただ怯えながら時が過ぎることを待つ。
怖い人はそんなわたしの前で立ち止まると、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
なにをされるのかわからない不安と、極限まで高まった恐怖で、わたしは全力で目を瞑って縮こまった。
「――……だい……じょ、ぶ……?」
「……ふぇ……?」
わたしへと伸ばされた手がもたらしただろう感触に、わたしは思わず顔を上げる。
その感触を認識した直後は到底信じられなかったけど、こうして自分の目で見てしまうと、それが決して勘違いなんかじゃなかったことが理解できた。
わたしが実際に感じている通り、あの怖い人が――わたしの頭を撫でてくれていた。
撫で慣れていないのか、すっごくおっかなびっくりって感じだったけど、だからこそ不器用な思いやりが伝わってくるようだった。
な、なんで……? どうしてこの人が、わたしの頭を撫でてくれてるの?
睡眠の邪魔をしたわたしのこと、殺しに来たんじゃなかったの……?
「……けが……ない……?」
「へ……? ……ぁ……」
「…………たぶん……だい、じょぶ? ……ん。だい……じょぶ……」
答えられないわたしに代わって、彼女はわたしの体のあちこちを確認すると、安心したように頷いた。
まるでわたしを心配してくれているかのような仕草の数々に、こわばっていた心がほぐれていく。
「あ……あの……ど、どうして、わたしの頭、を……?」
「……ハロ、ちゃ……なら……きっと……こうする、から……」
「お姉ちゃん、なら……?」
「……ん……ハロ、ちゃ、は……わた、しと……はじめて、あったとき、も…………こう、やって……だい、じょぶって……だきしめて、くれた」
言いながら、彼女は床に這いつくばっていたわたしを抱き起こして、ギュッてしてくれた。
温、かい。
血が通った人であれば誰しもが持っている、人肌の温もり。当たり前の温かさ。
血も通ってないような冷たい人だと思い込んでいた相手からそんなものを感じてしまって、わたしはなにを言えばいいのかわからなくなってしまった。
「……いつも……こわ、がらせて…………ごめ……なさい」
「え、ぁ……」
どことなく申しわけなさそうに紡がれた言葉に対し、わたしはブンブンと首を横に振った。
「ぃ、いえっ! わ、わたしが……わたしが全部、わ、悪い、ので……」
「……ちが、う。わたし……が……あなた、を……きずつけた、せい……」
なんだかちょっと、シュンとしているように見える。
猫耳も少し垂れ下がって、元気がない。
謝ったり、落ち込んだり……この人はわたしのことなんて、道端で醜く生き足掻く小虫程度にしか思ってないと思ってたから、あまりに人間くさい――獣人だから、獣人くさいと言うべきなのかも?――反応に、こちらの方が戸惑ってしまう。
「……むかしから……ずっと、そう……みんな……こわ、がらせて……めいわく……かけて……こきょ、うも……おいだ、されて……」
「え……?」
故郷を、追い出された……?
「……ハロちゃ、に……あえ、なきゃ……ずっとひとり……だった……」
「……」
何事にも動じない、人の命をなんとも思ってないような冷徹な人。
初対面の時から勝手に抱いていたそのイメージが音を立てて崩れていく。
行くあても、帰る場所もない。真っ暗闇の道を、たった一人で歩いていかなきゃいけない、不安と孤独感。
知っている。だってわたしもそうだった。
仲間たちが全員殺されて、一人で逃げ出して……でも、それからどうしたらいいか、わからなかった。
この人の事情はよくわからないけど……おずおずとわたしを撫でてくれる彼女の手のひらから、伝わってくる。
あの不安感を、この人は、お姉ちゃんに会えるまでずっと味わってたんだ。
「……ハロ、ちゃ、は……わたしの……はじ、めての……とも、だち。ハロちゃ、だけが……わたしを……うけ、いれて……くれた」
「わ……わたしも、です。お姉ちゃんが、わたしを守るって……い、妹だって、言って、くれたから……安心、できて」
「……じゃあ……おな、じ」
「お、同じ……ですか?」
「ん……ハロちゃ、に……いばしょ……もらった。ハロちゃ……のことが、すき…………ほら……おな、じ……」
「……同じ……」
こうして少し話してみてわかったことだけど、この人はあんまりしゃべるのが得意じゃないみたいだ。
言葉はいつもとぎれとぎれで、きちんと話を聞こうとしなければ、彼女の意思を知ることは難しい。
そしてそれはたぶん、あんまり人と触れ合ってこなかったからじゃないかって思う。
わたしも地下で仲間たち以外とはまともに話したことがなかったら、正直言って、人と話すのはちょっと苦手だ。
だから、なんとなくわかるような気がした。
……同じ。そう、この人はわたしと同じなんだ。
誰も頼れず、誰も助けてくれない。それどころかすれ違う人たちは皆、わたしの正体を知れば殺そうとしてくるだろう敵で……。
嫌だ。死にたくない。愛されたい。殺さないで。酷いことしないで。
誰か、助けて――。
……溢れ返る思いの全部を押し殺して、生きるために魔眼を使った。
この人はたぶん、そんなわたしの、あり得たかもしれない未来だ。
違いなんて些細なことだ。わたしは魔眼を使い、この人は剣を振るった。ただ、生きたいがために。
幸い、わたしの場合は、ほんの数日程度でお姉ちゃんと会うことができた。救われることができた。
だけど……もしそうやってお姉ちゃんと会えず、一人ぼっちのままだったなら、わたしもこの人みたいになっていたかもしれない。
それは、何度も何度も愛されることを望んで、けれど叶わなくて、生きるためだけに魔眼を使い続けた果て。
この前お姉ちゃんに連れられて行った冒険者ギルドの偉い人は、言ってた。
意志を貫き通すためには、なにかを捨てなきゃいけない時が必ず訪れるって。
死にたくない――たとえ生きるための意味さえわからなかろうと、その思いを貫くためには、他の大切なものを捨てなきゃいけなくなるんだ。
元々なにも持ってないわたしに捨てられるものなんて、そう多くはない。もし捨てられるものがあるとしたら……それはきっと、自分自身。
死にたくない以外の、感情や願望。そのすべてを捨てて、いつか愛されることを諦めてしまったなら……わたしも、この怖い人みたいになってたんじゃないかって思う。
この怖い人と同じように、人の命を……ううん、命だけじゃない。
魔眼の力のことを思えば……命どころか、人の心さえなんでもないように踏みにじる、正真正銘の人が恐れる淫魔になってたんじゃないかって思う。
本で知って憧れたはずの愛なんか忘れてしまって、かつての仲間たちのように。
この怖い人はたぶん、そんな風にすべてを諦めた後で、ようやくお姉ちゃんと出会えたんだ。
「……あ、あの……あなたは、もしお姉ちゃんに会えなかったら、どうしてましたか……?」
「…………ここじゃない、どこか……ずっと、とおく…………しらない、ばしょに……いってた……かも」
ここじゃないどこか。ずっと遠く、知らない場所。
文字通り、遠い地方を指しているというわけではないだろう。もっと精神的な話だ。
今とはかけ離れた、正真正銘のバケモノになっていたかもしれない。そう伝えたいんだろうと思った。
わたしはさきほどの、この人の謝罪の言葉を思い出す。
――いつも怖がらせて、ごめんなさい。
この人はきっと悩んでる。
今まで自分がしてきたこと。自分が捨ててしまったもの。
そういうものと、お姉ちゃんがくれる温もりの間に板挟みになって、苦しんでるんだ。
あの日、わたしを殺そうとした瞬間のこの人が振るう剣には、確かに感情なんてものはなかった。
反射で剣を振るっちゃったとかなら話は変わってくるけど、反射で首を刈ろうとするとか普通に考えてありえないので、意図的かつ冷血にわたしを殺そうとしたことは間違いない。
あの時の怖い人は、まさしくバケモノだった。
でも今、こうしてわたしを抱きしめてくれるこの人からは、かすかな優しさの匂いがする。
少しずつ、拾い上げようとしてるんだ。
捨てて、忘れてしまったものを……もう一度取り戻して、やり直したいって思ってる。
だから、わたしの頭を撫でてくれたんだ。こうして、抱きしめてくれたんだ。
「…………シ、シィナ、さん」
この人は自分と向き合うことを恐れず、前に進もうとしてる。
それがわかった途端、わたしもいつまでも怖がって逃げてるわけにもいかないって思いが再び湧き上がってきて、勇気を持って彼女の名前を呼んだ。
気安く名前を呼ぶな、なんて怒鳴られるかもってビクビクしてたけど、シィナさんはなんてことないように小首を傾げて、続きを促してくれた。
「あの、えと……こ、この前は……ありがとう、ございます」
「……? ……おれい、いわれること……してない、けど……」
「そ、そのっ、冒険者ギルド……? に、わたしのためについてきてくれたって、お姉ちゃんから聞いて……そ、それにわたしのこと、そこの偉い人から守ってくれたから……お、お礼言わなきゃって、ずっと思ってて……」
「……ん……そっか……」
「そ、そうです……」
……か、会話が弾まない……。
こ、ここからどうすればいいんだろう? まだなにか、言った方がいいのかな……?
個人的に言わなきゃいけないって思ってたことは、ちゃんと言えた。でもそれ以降が続かない!
どうすればいいの? どうすればいいのっ!?
わたしが目と思考をグルグルさせていると、ポン、と頭の上に誰かの手の感触がした。
「……えらい、ね……」
「……ぁ……」
また、撫でてくれた。
よしよしと、壊れ物を扱うような手つき。
ふと彼女の顔を見上げると、よく見なければわからないくらいほんのわずかにだけれど、その頬が弧を描いていた。
それを目にした途端、この人に対しての恐怖が大きく和らいでいくのを感じた。
この人がかつて捨ててしまっただろう、この人本来の心に触れられた気がして、ポカポカって温かい気持ちになる。
「……そろそろ、ごはん……いかなきゃ」
不意にシィナさんが顔を上げて、食堂の方向を見やった。
直前に鼻をフンと小さく鳴らしていたので、獣人としての優れた嗅覚で、漂ってくる料理の匂いをキャッチしたんだろう。
「……さき、いってる……」
「ぇ……ま、待って!」
わたしを置いて先に行こうとするシィナさんを引き止める。
すでにわたしに背を向けていた彼女は、首だけを動かしてこちらに振り返ってきた。
「い、一緒に行っても、いいですか……?」
「……いいけど…………こわく、ないの?」
「だい、大丈夫です! 怖くないです!」
シィナさんはたぶん、シィナさんを怖がるわたしに気を遣って、一人で先に行ってしまおうとした。
でも、この人が心から冷血な性格をしてるわけじゃないことはもうわかったんだ。
大丈夫、もうなにも怖くない……!
「……ん、わかった。じゃあ……いっしょ、に――」
「ひっ」
シィナさんはわたしをじっと見つめた後、スッとわたしに手を差し出してくる。
が、彼女の急な動作に、体が勝手に悲鳴を上げてしまった。
「……」
「……ぁっ、ご、ごめんなさいごめんなさい! ま、まだ慣れなくて……だ、大丈夫ですから、あのっ……!」
表情は変わらないけど、どことなくショボーンと猫耳と猫尻尾を垂らしたシィナさんの姿に、途端に罪悪感が湧き上がってくる。
どうやら本能に刻まれた恐怖というものは、わたしが思っているほど簡単に克服できるものではなかったらしい。
だけど、前よりも怖く感じなくなったことは紛れもない事実なんだ。
わたしの方から誘ったのに、これ以上シィナさんに気を遣わせるわけにはいかない。
怯える心を無理にでも奮い立たせると、わたしは差し出してくれていた彼女の手を、恐怖を感じないくらい素早く握った。
「……だい、じょうぶ……?」
「だだい、だい、大丈夫、です……」
プルプル体が震えて全然大丈夫じゃないけれど、頑張って虚勢を張る。
シィナさんはそんなわたしを見下ろすと、また、わたしの頭の上に手を置いた。
シィナさんが触れてくる直前、また一瞬ビクッてしちゃったけど、彼女は気にしてないかのように、そのまま撫でてくれた。
「……いいこ……」
それだけ言うと、シィナさんはわたしの頭から手を離した。
「……いこっか」
「は、はい」
シィナさんに手を引かれて、一緒に食堂に向かう。
自分を怖がる相手も邪険にせず……今だって、わたしと歩幅を合わせてくれている。
やっぱり本当は優しい人なんだろう。
この人のことをお姉ちゃんが好きになっちゃうくらいなんだから、きっとそこは間違いない。
シィナさんのことは、まだちょっと怖いけど……同じ屋根の下で暮らしていく不安だけは、もうなくなっていた。
パタン、と扉が閉まる音が聞こえた気がして、ほんのわずかに目が覚める。
ぼーっとした頭で、誰か来たのかな、なんて考えたけれど、扉の向こうで足音が遠ざかっていく気配がして、その逆だと気がついた。
その証拠に、昨晩一緒に寝たはずのお姉ちゃんが隣にいない。
きっとわたしよりも一足先に起きたお姉ちゃんが、わたしを起こさないよう静かに出て行ったんだろう。
「……」
最近、いつも寝る時はお姉ちゃんと一緒だから、起きた時にお姉ちゃんがいないと少し寂しい気持ちになる……。
でも、お姉ちゃんはわたしと違って、やらなきゃいけないことがいっぱいある。
そしてそんなお姉ちゃんのおかげで、わたしはここにいられるんだ。
寂しいけど、本当は毎日ずっと一緒にいたいけど……お姉ちゃんの邪魔になることだけはしたくない。
夜になればまたいっぱい甘えられるんだし、それまでの辛抱だ。
お姉ちゃんと比べたら大したことないけど、わたしもわたしがやるべきことを、ちゃんと果たさなきゃ。
「ふふ……」
寂しくて、胸がキュッてして苦しいのに……なんだか少し、笑みがこぼれる。
寂しいけど……嬉しい。嬉しいけど、寂しい。
ちょっと不思議な感覚だ。
これはきっと、この寂しいって気持ちが、お姉ちゃんと出会ってから初めて感じるようになった感情だからなんだろうなって思う。
「……んーっ……!」
お姉ちゃんが起きたのに、わたしもいつまでもゴロゴロしてるわけにはいかないって思って、ベッドから上半身を起こして伸びをする。
お姉ちゃんの温もりが残ったベッドを離れるのはちょっと名残惜しかったけど、寝間着から着替えるためにも、お姉ちゃんの部屋を後にして自分の部屋に向かう。
わたしがいつも着ているのは、お姉ちゃんの服と似た意匠のワンピースだ。
それ以外にもお姉ちゃんがわたしのために買ってくれた衣装はもっとあるけど、わたしの一番のお気に入りはこれだ。
これを着ていると、まるでお姉ちゃんの本物の妹になれたみたいで、少し温かい気持ちになれるから。
あんまり時間をかけていると、お姉ちゃんにわたしを探す手間を取らせてしまうので、着替えが終わったら食堂に足を向ける。
そういえば、一度お姉ちゃんには、普通の食べ物でも大丈夫なのか聞かれたことがあったっけ。
淫魔には、他の生物の体液を体内に摂取した際に、その精気を栄養へと変換できる体質がある。特にそれが人類種のもので、なおかつ興奮状態に分泌されたものであれば、最高の変換効率を誇る。
お姉ちゃんはそのことを知っていたんだろう。
確かに精気さえあれば、淫魔は他にはなにも食べなくても生きていける。だけど生きていく上で、必ずしも精気が必要というわけでもなかったりする。
それが淫魔にとって一番栄養があるというだけだ。
事実、外に出ることすら許されない出来損ないだったわたしは、精気なんて食べた経験は一度もなかった。
それを聞いたお姉ちゃんは、どこかホッとしたように息をついていた。
……もし定期的に食べなきゃいけないって言ってたら、お姉ちゃんはどうしてたのかな。
どこかから見繕ってきたのかな。それとも……お姉ちゃんの精気を、分けてくれたのかな。
お姉ちゃんに嘘をつくなんて言語道断なので、しょせんは意味のない妄想に過ぎないけれど。
なにはともあれ、仲間たちといた頃は、仲間たちが魅了して連れてきた人間がたまたま持っていた食料を部屋の中に乱雑に投げ入れられる程度だったから、こういうお食事の時間が、実はちょっと楽しみだったりする。
今日はまだお姉ちゃんに会えていないこともあって、早く会いたい気持ちから自然と早歩きになる。
「っ……」
でもそんな意気揚々としたわたしの足は、ある部屋の前で止まってしまった。
そこは、お姉ちゃんと同じSランクの冒険者だって言う、すごく怖い人の部屋だった。
「ぁ、ぅ……」
この家にはお姉ちゃん以外にも、わたしを除いて二人の人が住んでいる。
片方がフィリアって言う胸が大きい人で、もう片方が、このすごく怖い人……。
名前は、シィナって言うらしい。
この人のなにが怖いかって言うと……目だ。
まるで煉獄の底に住んでいる悪魔のごとき、血のように真っ赤な瞳。
その瞳孔がわたしを捉えると、途端に頭の中が真っ白に染まって、視界も一気に狭くなって……息すらも、うまくできなくなってしまう。
わたしなんかより、この人の方が魔眼を持ってるんじゃないかって疑っちゃうくらい、その眼はいつだって常軌を逸した壮絶な威圧感を放っている。
そんな風に感じちゃうのはわたしだけではないようで、つい先日お姉ちゃんと怖い人と街を歩いた時には、皆があのシィナって言う怖い人から距離を取っていた。
お姉ちゃんや、あの胸が大きい人なんかは平気そうにしてるけど……わたしはどんなに怖がらないように意識しても、あんな風にはなれなかった。
だってわたしは……初めて会った時、実際に一度あの人に殺されかけてるから。
あの時の恐怖の情景が鮮明に蘇る。
お姉ちゃんと初めて会ったあの日、わたしはお姉ちゃんにしたのと同じように、あの人のことも操ろうとした。
でもあの人は、見えるはずもないわたしの魔眼の力を容易く斬り裂いてしまったんだ。
至近距離からの、完全な不意打ちだったはずなのに。
……あの頃のわたしにとって、魔眼の力は絶対のものだった。
ううん。絶対のものじゃなきゃいけなかった。
仲間たちが死に、一人で生きていかなきゃいけなくなったわたしにとって、頼れる力はそれだけだったから。
でもあの人は、わたしが唯一の拠り所としていたその力を、簡単に引き裂いてしまったんだ。
その事実を受け入れられなかったわたしは、もう一度魔眼を使おうとして、だけどそれも斬り裂かれて――気がついた時にはわたしの首筋に刃が迫っていた。
その刃には一切の容赦も慈悲もなかった。
それどころか……殺気すらも。
呼吸と同じだ。いわば、歩いている中で意図せず小虫を踏み潰してしまうのと同じ。
生きているから呼吸を行う。歩けばなにかを踏みつける。至極当たり前で、感傷さえ浮かばないこと。
そう。あの人にとってわたしの命を断つことなんか、一欠片の関心もない行為だったんだ。
冷たく鋭い、濃密な死の気配。わたしが死ぬのは必然なのだと、本能が悟る。
底なしの奈落への入り口が唐突に開かれて、「助けて」の一言さえ口にすることも許されず、痛みさえ置き去りにして落ちていく――。
……お姉ちゃんが止めてくれなければ、わたしはあの時、間違いなく命を落としていた。
「はぁ……は、ぁ……」
その人の部屋の前にいることもあり、一度蘇った怖気が止まることはなく、どんどんわたしの心を蝕んでいく。
本当は思い出したくなんてないのに、何度も頭をよぎる。
呼吸は荒くなり、心臓がバクバクして、視界の端が白くなっていく。
逃げたい。泣き出したい。
今すぐこの場を離れて、お姉ちゃんに会いたい。抱きついて甘えたい――。
「っ、ダ、ダメ……! に、逃げちゃダメ……泣いちゃ、ダメ……!」
半ば反射的に踵を返しかけてしまったけれど、首をブンブンと横に振って、こぼれ落ちそうだった涙とともに、直前で堪えた。
逃げるのも泣くのも簡単だ。
確かにわたしはあの怖い人に殺されかけはしたけれど、それはあくまで、わたしが魔眼を使おうとしたからだ。
事実、これまでわたしはあの人を怖がった素振りを何度もしてきたはずなのに、わたしは一度も危害を加えられていない。
わたしがなにもしなければ、あの人もなにもしてこないんだ。
でもだからって、いつまでもこうして逃げて、怖がっててもいいわけじゃない。
……唐突だけど、わたしはお姉ちゃんが好きだ。
人間やエルフみたいな人類種には、好きな人同士でケッコンっていう契約を結ぶ文化があるみたいだけど、いつかお姉ちゃんとそんな風になれたらいいなって思うくらいには、お姉ちゃんのことがいっぱい好き。
でもわたしの好きと違って、お姉ちゃんの好きは、わたしだけのものじゃない。
お姉ちゃんは愛が深い人だから、きっとあの胸が大きい人のことも、目がすごく怖い人のことも、同じように大切に思ってる。
だから、わかるんだ。わたしとあの怖い人の仲がうまくいってないことを、お姉ちゃんが気にしてることも。
……昔からずっと、わたしは仲間たちから言われてた。
出来損ない、落ちこぼれ、役立たず。
お姉ちゃんは優しいから、それは違うって、仲間たちにはわたしの本当の価値が見えないだけだったって言ってくれる。
でもわたしは、お姉ちゃんには少し悪いけれど、仲間たちの言う通りだって思ってた。
だってわたしには、なんの取り柄もない。無知で、弱くて……わたしにできる程度のことは、他の誰にだってできる。
さらにはひどい思い違いで、お姉ちゃんを傷つけて、泣かせてしまったことだってあった。
でもお姉ちゃんは、そんなどうしようもないわたしを見捨てず、抱きしめて、許してくれた。
そればかりか、妹だって呼んでくれた。
わたしなんかがお姉ちゃんの妹でいいのかなって、怖くて、情けない気持ちでいっぱいだったけど、それ以上に、ずっとずっと嬉しかったんだ。
わたしなんかのことを妹だって認めてくれたお姉ちゃんのためにも、その肩書きに恥じない人になる努力だけは怠りたくない。
だからそのために……まずは、あの怖い人への恐怖を克服するんだ!
「……はぁー……ふぅー……」
扉の前で少し深呼吸をして、心を落ちつかせる。
お姉ちゃんがそばにいると、弱いわたしはどうしてもお姉ちゃんに甘えちゃうから、本当の意味で恐怖を克服することはできない。
きっと少し怖くなっただけで、半ば反射でいつもみたいにお姉ちゃんの背中に隠れちゃうと思う。
それじゃダメだ。意味がない。
わたし一人で……お姉ちゃんが近くにいない今みたいな状況でこそ、頑張らなくちゃ……!
「よ、よし……」
明日やろう、明後日やろうなんて言っていたらいつまでも達成できない。
頑張るなら、ちょうどお姉ちゃんが近くにいない今しかない。
意を決して、あの怖い人の部屋をノックする。
正直、心臓が痛いくらい鼓動を打っていて、その割に、真冬の吹雪の中にいるような寒気も感じてしまっているけれど……こ、これもお姉ちゃんにふさわしい妹になるため!
お姉ちゃんが大切に思ってる人なんだから、本当の意味で悪い人じゃないのは確かなんだ。
それにわたし個人としても、あの人にはどうしても言っておかなきゃいけないことがあった。
大丈夫……怖くない、怖くない……。
わたしに勇気をちょうだい、お姉ちゃん……!
…………。
「…………あ、あれ……?」
……どういうわけか、返事がない。
えっと……ノック、したはずだよね?
つい数十秒前の自分の行動を思い返して、うん、と頷く。
確かにノックはした。間違いない。
それなのに返事が来ない……ということは、つまり……?
そういえば、と思い出す。
そういえばあの怖い人は、いつもあの胸が大きい人と一緒に食堂に来てた気がする。
もしかしてだけど……あの怖い人って、朝が弱かったりするのかな……?
胸の大きい人がまだ起こしに来てないから、まだ起きてないとか?
……か、快適な睡眠を邪魔したからって、邪険に扱われたり、しないよね……?
「あ……う……」
あの怖い人への恐怖を克服しようとできるチャンスだと思って、つい勢いでノックしちゃったけど……かなりタイミングが悪かったのかもしれない。
わたしのノックで目覚めなかったなら、それはそれでいい。
けど、もし目を覚ましちゃってたら? そ、そのせいで、不機嫌になっちゃってたら……?
わ、わたし、どうなっちゃうの……?
し、死んじゃう? 殺されちゃうの……!?
プルプルと体が震え出す。
奮い立たせるように逃げちゃダメだと何度も自分に言い聞かせてきたけれど、過去の体験ではなく、ありえるかもしれない未来からもたらされた恐怖は次元が違った。
うぅぅ……お姉ちゃん、お姉ちゃんー……!
「あっ――」
恐怖を克服しようだなんて覚悟は呆気なく吹き飛んでしまって、あの怖い人の部屋の前から逃げ出そうとした。
でも足が竦んでしまっていたせいで、その一歩目で自分の足に足を引っかけてしまって転倒する。
床に頭をぶつけてしまって、クラクラと視界が揺れる。平衡感覚が失われて、うまく立てない。
それでも立ち上がろうと四苦八苦していたけれど、不意に部屋の扉の向こうから、なにかが近づいてくる足音が聞こえてきた。
どうやらわたしが転倒した時の物音で、あの怖い人が本当に目を覚ましてしまったみたいだった。
もう間に合わない。逃げ切れない――。
その事実をわたしの本能が悟って、あの日わたしの首に刃が迫ってきた時と同じ、絶望が心を支配する。
ガチャリ、と背後の扉が開かれる。
その音にわたしはビクッと肩を跳ねさせて、惨めに情けなく、床に横になったままうずくまった。
「……? ……!? ど、どういう……?」
……ああ……わたし、もうここで死んじゃうんだ……。
でも、心残りはない。
お姉ちゃんと会えた。いっぱい頭を撫でてもらえた。それだけでじゅうぶんなんだ。
お姉ちゃんの妹になれたことは、暗い地下で一人寂しく朽ちていく運命しかなかったわたしには、もったいないくらい幸せな奇跡で……。
……う、うぅ……。
……やっぱり、やだぁ! 死にたくない、死にたくない死にたくないっ、死にたくないよぉ!
わたし、もっとお姉ちゃんと一緒にいたい。出来損ないで落ちこぼれのわたしだけど、いつの日かお姉ちゃんに、さすが私の妹だねって、褒めてもらえるようになりたい!
こんなところで終わりたくない……!
「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさい! わ、わる、悪気があったんじゃ、ないんです……! 少しはな、話を、したかっただけで……ゆ、許して……ひっぐ、お、お願い……許して、ください……」
死にたくない。もっとお姉ちゃんと一緒にいたい。
その一心で、無様に額を床に擦りつけて、嗚咽を漏らしながら必死に懇願する。
涙で霞んだ視界越しに、あの怖い人の足が見える。わたしを見下ろしたまま、立ち尽くしているのがわかる。
「え、ぁ……ぅ…………ん、と…………」
……あの怖い人が、一歩ずつわたしに近づいてくる。
一瞬、本能的な恐怖から体が勝手に逃げ出そうとしてしまうが、ギリギリで衝動を抑え込んだ。
そもそも体が震え上がってうまく立てないし、立てたところで、この人から逃げ切れるはずがない。
大人しく、この人が下す審判を受け入れることが、生き残るための一番確率が高い方法なんだ。
そんな理屈で自分を無理矢理納得させて、ただ怯えながら時が過ぎることを待つ。
怖い人はそんなわたしの前で立ち止まると、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
なにをされるのかわからない不安と、極限まで高まった恐怖で、わたしは全力で目を瞑って縮こまった。
「――……だい……じょ、ぶ……?」
「……ふぇ……?」
わたしへと伸ばされた手がもたらしただろう感触に、わたしは思わず顔を上げる。
その感触を認識した直後は到底信じられなかったけど、こうして自分の目で見てしまうと、それが決して勘違いなんかじゃなかったことが理解できた。
わたしが実際に感じている通り、あの怖い人が――わたしの頭を撫でてくれていた。
撫で慣れていないのか、すっごくおっかなびっくりって感じだったけど、だからこそ不器用な思いやりが伝わってくるようだった。
な、なんで……? どうしてこの人が、わたしの頭を撫でてくれてるの?
睡眠の邪魔をしたわたしのこと、殺しに来たんじゃなかったの……?
「……けが……ない……?」
「へ……? ……ぁ……」
「…………たぶん……だい、じょぶ? ……ん。だい……じょぶ……」
答えられないわたしに代わって、彼女はわたしの体のあちこちを確認すると、安心したように頷いた。
まるでわたしを心配してくれているかのような仕草の数々に、こわばっていた心がほぐれていく。
「あ……あの……ど、どうして、わたしの頭、を……?」
「……ハロ、ちゃ……なら……きっと……こうする、から……」
「お姉ちゃん、なら……?」
「……ん……ハロ、ちゃ、は……わた、しと……はじめて、あったとき、も…………こう、やって……だい、じょぶって……だきしめて、くれた」
言いながら、彼女は床に這いつくばっていたわたしを抱き起こして、ギュッてしてくれた。
温、かい。
血が通った人であれば誰しもが持っている、人肌の温もり。当たり前の温かさ。
血も通ってないような冷たい人だと思い込んでいた相手からそんなものを感じてしまって、わたしはなにを言えばいいのかわからなくなってしまった。
「……いつも……こわ、がらせて…………ごめ……なさい」
「え、ぁ……」
どことなく申しわけなさそうに紡がれた言葉に対し、わたしはブンブンと首を横に振った。
「ぃ、いえっ! わ、わたしが……わたしが全部、わ、悪い、ので……」
「……ちが、う。わたし……が……あなた、を……きずつけた、せい……」
なんだかちょっと、シュンとしているように見える。
猫耳も少し垂れ下がって、元気がない。
謝ったり、落ち込んだり……この人はわたしのことなんて、道端で醜く生き足掻く小虫程度にしか思ってないと思ってたから、あまりに人間くさい――獣人だから、獣人くさいと言うべきなのかも?――反応に、こちらの方が戸惑ってしまう。
「……むかしから……ずっと、そう……みんな……こわ、がらせて……めいわく……かけて……こきょ、うも……おいだ、されて……」
「え……?」
故郷を、追い出された……?
「……ハロちゃ、に……あえ、なきゃ……ずっとひとり……だった……」
「……」
何事にも動じない、人の命をなんとも思ってないような冷徹な人。
初対面の時から勝手に抱いていたそのイメージが音を立てて崩れていく。
行くあても、帰る場所もない。真っ暗闇の道を、たった一人で歩いていかなきゃいけない、不安と孤独感。
知っている。だってわたしもそうだった。
仲間たちが全員殺されて、一人で逃げ出して……でも、それからどうしたらいいか、わからなかった。
この人の事情はよくわからないけど……おずおずとわたしを撫でてくれる彼女の手のひらから、伝わってくる。
あの不安感を、この人は、お姉ちゃんに会えるまでずっと味わってたんだ。
「……ハロ、ちゃ、は……わたしの……はじ、めての……とも、だち。ハロちゃ、だけが……わたしを……うけ、いれて……くれた」
「わ……わたしも、です。お姉ちゃんが、わたしを守るって……い、妹だって、言って、くれたから……安心、できて」
「……じゃあ……おな、じ」
「お、同じ……ですか?」
「ん……ハロちゃ、に……いばしょ……もらった。ハロちゃ……のことが、すき…………ほら……おな、じ……」
「……同じ……」
こうして少し話してみてわかったことだけど、この人はあんまりしゃべるのが得意じゃないみたいだ。
言葉はいつもとぎれとぎれで、きちんと話を聞こうとしなければ、彼女の意思を知ることは難しい。
そしてそれはたぶん、あんまり人と触れ合ってこなかったからじゃないかって思う。
わたしも地下で仲間たち以外とはまともに話したことがなかったら、正直言って、人と話すのはちょっと苦手だ。
だから、なんとなくわかるような気がした。
……同じ。そう、この人はわたしと同じなんだ。
誰も頼れず、誰も助けてくれない。それどころかすれ違う人たちは皆、わたしの正体を知れば殺そうとしてくるだろう敵で……。
嫌だ。死にたくない。愛されたい。殺さないで。酷いことしないで。
誰か、助けて――。
……溢れ返る思いの全部を押し殺して、生きるために魔眼を使った。
この人はたぶん、そんなわたしの、あり得たかもしれない未来だ。
違いなんて些細なことだ。わたしは魔眼を使い、この人は剣を振るった。ただ、生きたいがために。
幸い、わたしの場合は、ほんの数日程度でお姉ちゃんと会うことができた。救われることができた。
だけど……もしそうやってお姉ちゃんと会えず、一人ぼっちのままだったなら、わたしもこの人みたいになっていたかもしれない。
それは、何度も何度も愛されることを望んで、けれど叶わなくて、生きるためだけに魔眼を使い続けた果て。
この前お姉ちゃんに連れられて行った冒険者ギルドの偉い人は、言ってた。
意志を貫き通すためには、なにかを捨てなきゃいけない時が必ず訪れるって。
死にたくない――たとえ生きるための意味さえわからなかろうと、その思いを貫くためには、他の大切なものを捨てなきゃいけなくなるんだ。
元々なにも持ってないわたしに捨てられるものなんて、そう多くはない。もし捨てられるものがあるとしたら……それはきっと、自分自身。
死にたくない以外の、感情や願望。そのすべてを捨てて、いつか愛されることを諦めてしまったなら……わたしも、この怖い人みたいになってたんじゃないかって思う。
この怖い人と同じように、人の命を……ううん、命だけじゃない。
魔眼の力のことを思えば……命どころか、人の心さえなんでもないように踏みにじる、正真正銘の人が恐れる淫魔になってたんじゃないかって思う。
本で知って憧れたはずの愛なんか忘れてしまって、かつての仲間たちのように。
この怖い人はたぶん、そんな風にすべてを諦めた後で、ようやくお姉ちゃんと出会えたんだ。
「……あ、あの……あなたは、もしお姉ちゃんに会えなかったら、どうしてましたか……?」
「…………ここじゃない、どこか……ずっと、とおく…………しらない、ばしょに……いってた……かも」
ここじゃないどこか。ずっと遠く、知らない場所。
文字通り、遠い地方を指しているというわけではないだろう。もっと精神的な話だ。
今とはかけ離れた、正真正銘のバケモノになっていたかもしれない。そう伝えたいんだろうと思った。
わたしはさきほどの、この人の謝罪の言葉を思い出す。
――いつも怖がらせて、ごめんなさい。
この人はきっと悩んでる。
今まで自分がしてきたこと。自分が捨ててしまったもの。
そういうものと、お姉ちゃんがくれる温もりの間に板挟みになって、苦しんでるんだ。
あの日、わたしを殺そうとした瞬間のこの人が振るう剣には、確かに感情なんてものはなかった。
反射で剣を振るっちゃったとかなら話は変わってくるけど、反射で首を刈ろうとするとか普通に考えてありえないので、意図的かつ冷血にわたしを殺そうとしたことは間違いない。
あの時の怖い人は、まさしくバケモノだった。
でも今、こうしてわたしを抱きしめてくれるこの人からは、かすかな優しさの匂いがする。
少しずつ、拾い上げようとしてるんだ。
捨てて、忘れてしまったものを……もう一度取り戻して、やり直したいって思ってる。
だから、わたしの頭を撫でてくれたんだ。こうして、抱きしめてくれたんだ。
「…………シ、シィナ、さん」
この人は自分と向き合うことを恐れず、前に進もうとしてる。
それがわかった途端、わたしもいつまでも怖がって逃げてるわけにもいかないって思いが再び湧き上がってきて、勇気を持って彼女の名前を呼んだ。
気安く名前を呼ぶな、なんて怒鳴られるかもってビクビクしてたけど、シィナさんはなんてことないように小首を傾げて、続きを促してくれた。
「あの、えと……こ、この前は……ありがとう、ございます」
「……? ……おれい、いわれること……してない、けど……」
「そ、そのっ、冒険者ギルド……? に、わたしのためについてきてくれたって、お姉ちゃんから聞いて……そ、それにわたしのこと、そこの偉い人から守ってくれたから……お、お礼言わなきゃって、ずっと思ってて……」
「……ん……そっか……」
「そ、そうです……」
……か、会話が弾まない……。
こ、ここからどうすればいいんだろう? まだなにか、言った方がいいのかな……?
個人的に言わなきゃいけないって思ってたことは、ちゃんと言えた。でもそれ以降が続かない!
どうすればいいの? どうすればいいのっ!?
わたしが目と思考をグルグルさせていると、ポン、と頭の上に誰かの手の感触がした。
「……えらい、ね……」
「……ぁ……」
また、撫でてくれた。
よしよしと、壊れ物を扱うような手つき。
ふと彼女の顔を見上げると、よく見なければわからないくらいほんのわずかにだけれど、その頬が弧を描いていた。
それを目にした途端、この人に対しての恐怖が大きく和らいでいくのを感じた。
この人がかつて捨ててしまっただろう、この人本来の心に触れられた気がして、ポカポカって温かい気持ちになる。
「……そろそろ、ごはん……いかなきゃ」
不意にシィナさんが顔を上げて、食堂の方向を見やった。
直前に鼻をフンと小さく鳴らしていたので、獣人としての優れた嗅覚で、漂ってくる料理の匂いをキャッチしたんだろう。
「……さき、いってる……」
「ぇ……ま、待って!」
わたしを置いて先に行こうとするシィナさんを引き止める。
すでにわたしに背を向けていた彼女は、首だけを動かしてこちらに振り返ってきた。
「い、一緒に行っても、いいですか……?」
「……いいけど…………こわく、ないの?」
「だい、大丈夫です! 怖くないです!」
シィナさんはたぶん、シィナさんを怖がるわたしに気を遣って、一人で先に行ってしまおうとした。
でも、この人が心から冷血な性格をしてるわけじゃないことはもうわかったんだ。
大丈夫、もうなにも怖くない……!
「……ん、わかった。じゃあ……いっしょ、に――」
「ひっ」
シィナさんはわたしをじっと見つめた後、スッとわたしに手を差し出してくる。
が、彼女の急な動作に、体が勝手に悲鳴を上げてしまった。
「……」
「……ぁっ、ご、ごめんなさいごめんなさい! ま、まだ慣れなくて……だ、大丈夫ですから、あのっ……!」
表情は変わらないけど、どことなくショボーンと猫耳と猫尻尾を垂らしたシィナさんの姿に、途端に罪悪感が湧き上がってくる。
どうやら本能に刻まれた恐怖というものは、わたしが思っているほど簡単に克服できるものではなかったらしい。
だけど、前よりも怖く感じなくなったことは紛れもない事実なんだ。
わたしの方から誘ったのに、これ以上シィナさんに気を遣わせるわけにはいかない。
怯える心を無理にでも奮い立たせると、わたしは差し出してくれていた彼女の手を、恐怖を感じないくらい素早く握った。
「……だい、じょうぶ……?」
「だだい、だい、大丈夫、です……」
プルプル体が震えて全然大丈夫じゃないけれど、頑張って虚勢を張る。
シィナさんはそんなわたしを見下ろすと、また、わたしの頭の上に手を置いた。
シィナさんが触れてくる直前、また一瞬ビクッてしちゃったけど、彼女は気にしてないかのように、そのまま撫でてくれた。
「……いいこ……」
それだけ言うと、シィナさんはわたしの頭から手を離した。
「……いこっか」
「は、はい」
シィナさんに手を引かれて、一緒に食堂に向かう。
自分を怖がる相手も邪険にせず……今だって、わたしと歩幅を合わせてくれている。
やっぱり本当は優しい人なんだろう。
この人のことをお姉ちゃんが好きになっちゃうくらいなんだから、きっとそこは間違いない。
シィナさんのことは、まだちょっと怖いけど……同じ屋根の下で暮らしていく不安だけは、もうなくなっていた。