えろいことするために巨乳美少女奴隷を買ったはずが、お師匠さまと慕われて思った通りにいかなくなる話

「……ふむ」

 窓の外では、激しい雷雨が轟々と鳴り響いている。
 いつもは一度眠ったら朝まで起きないものなのだが、あんまりの喧しさにすっかり目が覚めてしまった。

 フィリアはまだ起きていないようだ。
 そういえば、よくよく考えてみると私はフィリアより早く起きたことがないので、彼女がいつも何時に起きて何時にここに来ているのか知らない。
 いつ来るかわからないとなれば、下手なことはできない……。
 いや、別になにをするというわけでもないけど……。

 そんなこんなで、今は一人で読書に励んでいる最中だ。
 ここ最近は冒険者仕事で忙しかったが、空き時間では読書にふける時間が以前より増えたように思う。
 それというのも、ある作品にすっかりはまり込んでしまったのが理由だ。
 タイトルは、『オークと女騎士』。純愛物だ。

 ……えっちな本じゃないぞ?
 純愛物だ。
 ほんとだよ?

 まあ、題名的にさすがにそのまま読むのは体裁が悪いので、偽装用に幻惑の魔法をかけてあるが。
 フィリアも最近は魔法の腕を上げてきたが、まだまだ私には及びませんよ。ふふふ。

 この作品のあらすじを簡単に説明すると、オークの少年がある日住処に捕らえられてきた女騎士に一目惚れして、女騎士を連れて逃亡する話だ。
 初めは女騎士に毛嫌いされ、仲間からも裏切り者と追われながら、それでも必死に女騎士をかつての仲間たちから守ろうとする。
 最初は少年のことを嫌っていた女騎士も、そんなオークの少年の姿に少しずつ心を許し惹かれていく……と言った感じの、割と真っ当な純愛系。

 えっちな本だと期待して買ったはずが全然そんなでもなくて「騙された……!」とか最初憤慨してたわけでも全然ない。
 しかたなく読み進めたら普通にめちゃくちゃ面白くて引き込まれたとかそんなわけでもない。
 私は最初からこの作品に期待してたんだよ純愛物として。はい。

『ボクはきっと初めから間違った存在だったんだ』

 ぱらぱらとページを捲り、本を読み進める。
 物語も終盤。女騎士が住んでいた街までもうすぐというところで、オークの少年が女騎士に本音を話す場面だ。

『ニンゲンはいつも言う。「アイ」があるから大丈夫だって。「アイ」がないお前たちには屈しないって。ボクはずっと、その「アイ」っていうものがなんなのか知りたかった。それは本当に、あんな酷い目にあってまで信じられるくらい素晴らしいものなのかって……』
『アイ……』
『……キミはニンゲン。ボクはニンゲンの敵。初めから相容れない存在だ。でもボクは……』

 ここに至るまでに様々な苦難があって、すでに二人は打ち解けている。
 しかしオークの少年が言うように彼は人類の敵であり、人権などありはしない。たとえ彼自身がなにもしていないとしても、オークであるという時点で人類は少年の存在を決して許さない。
 もし仮に女騎士とともに街へ行こうものなら警備の者に即狩られてしまうだろう。

『……キミには、帰るべき場所がある。心配して待ってくれている人がいる。でも……ボクにはもう帰る場所はない。行くあてもない。かつて笑い合った仲間も、もういない。だから……キミに最後のお願いがあるんだ』
『……言ってみろ』
『ボクを、殺してほしい』

 と、ここで女騎士が息を呑むような描写が入る。

『ボクにも……ようやくわかったんだ。「アイ」がなんなのか。「アイ」が、どんなに優しくて温かい気持ちなのかって』
『お前は……本当にそれでいいのか?』
『……うん。もう、じゅうぶんだ。じゅうぶんなんだよ。この思いを抱えて死ねるのなら、後悔はない。キミの手にかかって死ぬのならなおさらだ』
『……なぜだ。お前なら、本当は最初からすべてわかっていたはずだ。あの巣から私を連れて逃げ出せば、近い未来に必ず自分が死ぬ運命に直面することになると。すべてを失う羽目になると。なのになぜ……』
『そんなの、簡単だ』

 オークの少年は笑う。

『キミを、愛してしまったから。ただそれだけだ』

「ふぅむ……」

 なるほど……ここで「アイ」の字が変化……これはつまり、ようやくオークくんが愛という感情を正しく理解したということか。
 最序盤からここまでずっと「アイ」の表記だったからなかなか感慨深いな……。

 しかしここからどうするんだろう。
 女騎士は本当にオークくんの望み通り、彼を殺してしまうのか……それとも……。

 うーむ……。

「……あの、お師匠さま」
「……え? あ」

 名前を呼ばれて、ふと顔を上げると、申しわけなさそうに私の顔を覗き込むフィリアの姿があった。
 どうやら読書に集中しすぎていてフィリアが来ていたことに気づけなかったらしい。

「ごめんなさい。せっかくのお楽しみに水を差してしまって……」
「それくらい気にしなくてもいいさ。フィリアはいつも私のために来てくれてるんだからね」
「……えへへ」
「おはよう、フィリア」
「はい、おはようございますっ!」

 声を上げて元気よく挨拶をする。
 そんなフィリアに微笑んで、栞を挟んで本を閉じ、立ち上がる。

 机の上に本を置いて、いつも通り朝食を作りに行こうとしたところで、フィリアが私を引き止めてきた。

「あの、お師匠さま。お着替えの方は……」
「ん、ああ。今日はちょっと早く目が覚めちゃったからね。見ての通り、もう着替えてある。いつもフィリアの手を煩わせて悪いと思ってたから」
「い、いえっ、私が好きにやっていることですから! でも……そう、ですか。今日はもう……お着替えは手伝わなくていいんですか……」

 なぜかしょんぼりと項垂れるフィリア。
 もしかして手伝いたかったのだろうか……。

 でも何度も言うように正直な話、毎朝あんな無防備に体を密着されるのって精神的に大分きついんだよ。
 至近距離だからフィリアの匂いがずっと鼻を刺激してくるし、豊かなお胸さまもすぐ目の前にあるし、時折体のどこかに当たったりもしてくる。
 そのくせフィリアは私が邪なことを考えているなんて欠片も考えていない無邪気でご機嫌な顔をしているものだから、背徳感のようなものが常に胸の中に燻っていて。

 役得であることは確かなんだけども、あんなのを毎日毎日繰り返され続けると、いい加減に欲求不満が溜まってくる。
 解消しようにも、いつも近くに誰かがいたり、誰かが来てもおかしくないような状況だったりして、そんな時間も全然ない。
 淫魔の液体薬を盛ろうとした時みたいに暴走しないよう自制するのが、ほんっとにもう大変なんですよ。

 あと……これは些細なことなんだけども、フィリアが選ぶ私の服っていつも妙に可愛らしいデザインをしているのだ。
 以前フィリアの服をオーダーメイドする際に一緒に作ってもらった衣装なのだが、これがまた無駄にフリフリしたりしていて……ああいう服は、少し苦手だ。

 そもそも、私が着飾ってもなぁ。
 シィナなら私の服もサイズが合うだろうし、今度フィリアの許可をもらってシィナにプレゼントしたりしてみようか。
 きっと似合う。

「……ん?」
「お師匠さま? どうかしましたか?」

 フィリアと部屋を出て、シィナを起こして。今は朝食の作り途中。
 不意に覚えた慣れない違和感に、調理の手を止める。
 初めはその正体がなんなのかわからなかったが……。

「……防犯機能の魔法が発動したのか」

 防犯機能の魔法はすべて私の存在と微弱なパスを繋ぐよう設定してある。
 どうやら今覚えたのは、その一つが途切れたことによる違和感のようだ。

「暴発ですか?」
「こんな激しい雷雨だしね。暴発してもおかしくない、けど……」

 そもそもとして、私は暴発が発生しないよう昨日のうちにすべての防犯魔法を整備しておいた。
 一応暴発する可能性がなくなったわけでもないのだが……なにかが引っかかる。

「ごめん、フィリア。私は少し外の様子を見てくるよ」
「だ、大丈夫ですかっ? こんな天気なのに……」
「ああ。水と風を受け流す魔法がある。万が一にも大事にはならないよ。大丈夫」
「……わかりました。朝食は私に任せてください」
「ありがとう、フィリア」

 台所を出て、玄関に向かう。
 外に出る前に、フィリアにも言った水と風を受け流す魔法を半径一メートルくらいの範囲に展開して、玄関の扉を開ける。
 扉の外では、凄まじい豪雨が荒れ狂っていた。
 空は暗く、まるで真夜中のよう。子どもくらいなら簡単に吹き飛ばされてしまいそうな暴風、そして不定期に鳴り響く雷の音が、外に出ることの危険さをこれでもかというくらい警告してくる。

 そんな雷雨の中に足を踏み出し、パスが途切れた防犯魔法の方へと向かっていく。
 門を開け、屋敷の外に。そこから塀をぐるりと回って。

「この辺のはずだけど……」

 暗くて視界が確保しづらい。明かりの魔法も一応展開してみるが、大量の雨水が邪魔をして、うまく遠くまで照らすことができない。

「……杞憂だったかな」

 もしかしたら暴発したのではなく、正しく動作したのではないかと思っていた。
 どういうことなのかと言うと、誰かが屋敷に入ろうとして防犯魔法に引っかかったのではないか、と。

 なにせこれだけの暴風が吹き荒れているのだ。
 たとえばの話、誰かが不注意に外に出てしまって、吹き飛ばされて運悪く屋敷の中に入り込もうとする形になり、防犯魔法に引っかかるなんて可能性もゼロではない。

 だけど誰も見当たらないし……やはり整備不良で、ただ暴発しただけだったのだろう。
 一人でそう納得して、敷地の中に戻ろうとする。

 そんな時だ。こつん、と、進もうとした足がなにかに当たったのは。
 そこでようやく、見えづらい遠くばかり注視していて近くの確認を疎かにしていたことに気づく。

 見下ろせば、そこには小さな人型が転がっていた。
 ボロボロのローブを纏い、顔もフードで隠しているから、男か女かは定かではない。
 ただわかることは、それが年端もいかない子どもであるということ。一〇歳にも満たないような、小さな体格の子ども。

 急いで状態を確認する。
 その時にフードの中が見えたが、どうやら女の子だったようだ。

 しかし控えめに言ってもあまり良い状態とは言えそうにない。
 一応脈はまだあった。だが意識はなく、体の末端は死人のように冷え切っている。
 息も絶え絶えと言った様子で、このまま放っておけば間違いなく近い未来に死に至るだろう。

 そしてなにより、防犯魔法の電気ショックを体に受けた形跡がある。

「見に来てよかった」

 回復魔法を行使し、まずは傷を治す。
 それからこの子が着ているローブの水気を魔法で払い、これまた魔法でローブに熱を付与して、でき得る限り体を温めるようにする。
 あとは持続的に効果を発揮し続ける状態回復系の魔法を行使して……。

 まだ、顔色は悪い。だがこれで窮地を脱することはできたはずだ。

「早くベッドに寝かせてあげないと」

 倒れているローブの少女を抱え、早足で屋敷の中に戻る。
 すると玄関前で待っていたらしいフィリアとシィナが私を出迎えた。

「お師匠さま。ご無事で……って、その子は……?」
「はぁ、はぁ……そ、外で倒れてたんだ。防犯の魔法、に……巻き込まれて、そのまま、はぁ……外、で……倒れてたみたいで……すぐ、ベッドに寝かせ、なきゃ……」

 だ、ダメだ……やっぱエルフはダメだ……貧弱すぎる。
 子ども一人抱えて玄関まで走るだけでこのざまだ。手がぷるぷる震えて、息は凄まじく荒い……。
 この体になってから、どれだけ運動しても体力がつかないのだ。
 特に力仕事はNGである。一分も経たず力尽きる……。

「……わたし、が……(わ、わたしが運ぶからハロちゃんは休んでて!)」

 近づいてきたシィナが両手を差し出してきて、すぐにその意図を察した。

「あ、ありがとうシィナ……私の、部屋の……ベッドまで、お願い……できるかな」

 そう言ってローブの少女を持たせると、シィナはこくりと頷いて、足早に廊下を歩いていった。

 こ、これでようやく休める……。
 気が抜けて、すとんっ、と床に座り込んだ。
 荒い息を繰り返して、少しずつ呼吸を整えていく。

 そんな私にフィリアが近づいてきて、そっと肩を支えてくれた。

「お疲れさまです、お師匠さま」
「ああ……ありがとう。私もシィナみたいに魔力の循環で身体能力を上げたりとかできれば、こんな風にはならないんだけどね……」
「お師匠さまでも使えないんですか?」
「適性がないんだ。これっぽっちもね」

 肩をすくめる。魔法の才能があるぶん、そちらでバランスを取っているのかもしれない。
 そろそろ体力も回復してきたというところで、フィリアに手を貸してもらって立ち上がった。

「さて、それじゃあ少し遅くなっちゃったけど朝食にしようか」
「はい!」

 フィリアと一緒に食堂に戻る。
 私が外に行こうとした時はまだ作り途中だったが、フィリアが残りを完成させてくれていたようで、すでにテーブルには三人分の料理が並べられていた。
 フィリアにお礼を言うと、嬉しそうに笑う。
 それからしばらくして戻ってきたシィナも加えると、いつものように三人で朝食を食べ始めた。
 屋敷の外で倒れていた、件の少女。今は私のベッドに横たわる彼女の様態を、今一度確認してみる。
 初めこそ意識不明の重体だったが、危険な状態はすでに脱し、今はもう大分よくなってきているようだ。
 けれど、まだ万全とは言いがたい体調だろう。
 回復魔法も万能ではない。物理的外傷を塞ぐことは得意だが、疲労の回復や精神の回復、エネルギーの補給、血の補給、病気の治療などなど。これらには、せいぜいが改善促進の効果しか得られない。
 今はひとまず安静にしていることが大切だ。

「……今日はフィリアとシィナと、ボードゲームでもして遊ぶつもりだったんだけどね」

 ベッドの横にイスを持ってきて、本を片手に腰を下ろす。

 起きた場合の事情説明や万が一の時のためにも誰かがそばにいる必要もある。
 ただ、あまり大人数で騒ぐと少女の体調に響くかもしれないので、今この場にはフィリアとシィナはいない。この部屋にいるのは私と、この少女だけだ。
 一応、この子が重体に陥った原因の一端は私にもある。なにせこの子には防犯用の電気ショックをその身に受けた形跡があった。それを仕掛けた当人である私が遊び呆けているわけにもいかないだろう。

「……そもそも、なんでこの子は外にいたのかな」

 作動した防犯魔法の周辺の様子を見に行った時は、不注意で外出してしまった誰かがこの屋敷まで誤って飛ばされてきた可能性を考慮していたものだが、しょせんは可能性だ。
 あるいは故意に屋敷に侵入を図った確率もゼロではない。たとえば、金目のものを目的にしていたりとか。

 ……もしかして、孤児だろうか?
 この世界には、そういう身寄りのない子どもはそれなりにいる。

 もとを辿れば私だって孤児のようなものだ。
 異世界からの来訪者。当然、親も兄弟もいなければ、住む家も身分を証明できるようなものもない。
 今でこそ魔法使い、それから冒険者として名を上げて悠々自適な生活を送ることができているが、一歩間違えばどんな人生になっていたかわかったものではない。

 もしかすればフィリアみたいに奴隷にでもなって、どこの誰ともわからない金持ちをご主人さまと呼んでいた可能性だってある。
 なんの力もないまま冒険者になって、最初の冒険でのたれ死んだりとか。
 親切な話に騙されて、人攫いの被害者になったりだとか。

 ……本当に、こんな私に魔法のすべてと生きる術を授けてくれた彼女(・・)には感謝してもしきれない思いだ。
 また会いたいなぁ。仲違いみたいなことになってしまって、もうずっとそれっきりだけど……どこかで元気にしてくれていたらいいな。

「って。今はこの子のことこの子のこと」

 自分で言うのもなんだが、Sランク冒険者は特別な存在だ。
 Sランクの魔物を単独で撃破できる能力を持つと判断された者だけが、その称号を得ることを許される。
 その名声は冒険者だけにとどまるものではない。私やシィナのように一箇所にとどまって活動している場合なんかは特に、その街の一般人にも名前が知れ渡る。
 つまり、この屋敷がSランク冒険者の《至全の魔術師》の家であるということは、この街の住民にとっては周知の事実であるはずなのだ。
 名のある魔法使いの家。少し考えれば、侵入防止の魔法が展開してあることなど簡単に予想がつく。そうでなくとも、侵入した痕跡を魔法で調べられれば、その正体を暴かれて一巻の終わりだ。

 それらのリスクをすべて無視し、侵入を図る……あまり賢い選択とは言えそうもない。
 まあ、見たところ子どもだから、そこまで考えが巡らなかっただけなのかもしれないけど。

 なんにしても、しょせんはどれも予想でしかないことだ。
 この子が目を覚ますまでは、はっきりしたことはまだなにも言えない。

 それまでは『オークと女騎士』の続きでも読んで、適当に暇を潰していよう。

「…………」

 普段なら掛け時計のわずかな秒針の音だけが響くところだが、屋敷の外を荒れ狂う嵐がそれをかき消している。
 どうやら今日の朝に外へ出た時よりも、さらに激しさが増しているようだ。
 こういう日は風で飛ばされてきたものが当たって窓が割れる危険があるが、あらかじめ魔法で固定、及び保護をしてあるので、その辺りは心配はない。

「……良い話だった」

 ぱたんっ、と『オークと女騎士』を閉じる。
 ぽつりとこぼれた感想はまぎれもない私の本心だ。

 いやぁ、本当に良い話だった……。
 一時はバッドエンドになるかとも危惧したものだが、ちゃんとハッピーエンドで終わってくれてよかった。
 それにしても、女騎士がまさか最後にあんな行動を取るとは……なんだか人類と魔物の関係の新たな可能性を見たような気がしたぜ。ふふふ。

 ……まあ、オークはさすがにどうかと思うが。
 ゴブリンもちょっと……。
 オーガも嫌だな。
 あとトロールも……うん。可能性なんてなかったんだ。
 でもスライムとは仲良くなれそうな気がする。私はまだ第二次スライム大作戦を諦めてないぞ。

「もうすぐお昼か」

 フィリアとシィナは、今頃なにをしているだろうか。
 フィリアには今日は魔法の訓練も勉強もしなくていいと言ってあるけど……。

 ……もしかして二人で仲良く遊んでたりするのかな?
 いや、うん。別にいいんだよ。ギスギスしているよりも、仲が良いに越したことはないし。
 でも、こう、なんというか……看病も兼ねてるからしかたないんだけど、私だけ除け者にされてる感が……。
 いや、混ざりたいとかじゃなくて。えっと…………ま、混ざりたいけど。混ざりたいんだけども、別の理由もあって。
 ……本当にあの二人、くっついたりしないよね?
 知らないうちに仲がものすごい進展してて、『実はもう付き合ってます』みたいな報告を受けたりしないよね?

 いや。いやいや。いやいやいや。いやいやいやいや。
 ありえないありえないありえない……いや、でも、私とくっつくよりはありえる気がする……。
 だって私なんて全然一途じゃなくて、フィリアとシィナの両方といちゃいちゃにゃんにゃんしたいとか平気で思ってるような浮気者のクズ野郎だ。
 こんなのに惚れるよりは、二人が惹かれ合う方がしっくりくる。

 フィリアなんて、いつだって私の役に立てることを探し続けていて、嫌な顔ひとつせず身の回りの世話をしてくれるような献身さがあって、放っておけばいつまでだって頑張り続けるような努力家で。
 私の言葉をまるで疑わず、なんの根拠もなくとも信じてくれるくらい素直で、純真無垢で。過去の辛い経験を理由に誰かに当たり散らしたりもせず、むしろ同じような経験がある誰かを救いたいと考えるような温かい心根の持ち主で。
 フィリアが隣で笑ってくれているだけで、毎日が鮮やかに色を変える。

 シィナなんて、きっと想像も絶するような過酷な人生を送ってきただろうに、その痛みや苦しみを決して誰にも見せない強さを持っている。
 彼女はずっと一人で生きてきた。だけどその強さは、たぶん弱さでもあって。
 おそらくは壮絶な過去によるものだろうが、シィナは少々心が病んでしまっている。《鮮血狂い》の二つ名の通り、必要以上に血しぶきを浴びながら魔物を惨殺する姿が良き例だろう。
 だけどそんなシィナでも、彼女自身が大切だと感じたものを傷つけることだけはしない。
 私と、きっと今はフィリアもその対象のはずだ。
 その不器用な弱さ(やさしさ)こそが、彼女の一番の魅力なんだ。

 ……う、うぅむ……考えれば考えるほど、やっぱり二人が結ばれた方がよっぽど幸せになれそうだな……。
 むしろ私いる?

「……覚悟だけはしておこう……」

 いつ付き合い始めた報告を受けても平静に対応できるよう、覚悟だけは……。
 かく、覚悟……覚悟、だけは……。

「…………ちょ、ちょっとだけ様子を見に行ってこようかな……」

 覚悟することと実際どうなっているかは話は別だ。別なのだ。
 覚悟が無駄になるなら、それに越したことはない……というか無駄になってほしい。

 こっそりフィリアとシィナの様子を見に行くために、私は、そうっと部屋の扉の前まで歩いていく。
 別に今、そうっとする必要はないと言われたらそうなのだが……あれだ。予行演習とかそんな感じなのだ。
 別に緊張してるわけではない。本当だ。

 ドアノブに手をかけて、それをひねる。
 その直後だった。その声が聞こえたのは。

「ぁ――――」

 少し離れた後ろの方から聞こえた、小さく呻くような声。
 フィリアでもシィナでも、もちろん私のものでもない。
 そもそもこの部屋には私と、あともう一人しかいないのだから、答えは考えずとも決まっていた。

 振り返ると、そこには私の予想通りの光景があった。
 私のベッドに横たわっていた件の少女がほんのわずかに瞼を開けて、ぼんやりと天井を見上げている。

「……気がついたかい?」

 廊下に出ることを中断して、声をかけながらベッドの方に戻った。
 初め、少女はただ音に反応しただけと言った具合に焦点の定まらない瞳を私の方に向けてきたが、少しずつそこに理性の光が灯っていく。
 そして数秒後、彼女は突如目を見開くと、弾かれたように起き上がった。

「だっ、誰っ?」

 壁を背に、かけられていた布団を盾のようにして、明らかに怯えた様子で私を見据えてくる。
 誰? という質問は私のセリフでもあるのだが、彼女の警戒を解すためにも先に名乗った方がよさそうだ。

「私はハロだ。ハロ・ハロリ・ハローハロリンネ。魔法使いさ」

 そう告げると、少女は訝しげな表情をする。

「はろ、はろり、はろー、はろ……なに、その変な名前。初めて聞いた」
「まあ、そうだね。へんてこだってことは自覚しているよ。なんというか、これは私に魔法を教えてくれた師匠がくれた名前でね……」

 ――名前? あー、ハロでいいんじゃない? 呼びやすいし。
 ――不満なの? なら、ハロ・ハロリ・ハローハロリンネね。
 ――ミドルネームもラストネームもあるんだから文句言わない。豪華でいいじゃん。

 思い返してみると、ほんとろくな名付け方されなかった……。

「……でもまあ、甚だ不本意ではあるけど、私にとっては一応大切な名前さ」
「…………ごめん、なさい」

 小さな声で、ぽつりと呟く。

「ん。気にしなくてもいいさ。変な名前だってことは本当だ」
「……」

 どうやら布団を握りしめる力を少し弱めるくらいには心をほぐすことに成功したようだ。
 要するに、まだ全然警戒されている。

 しかしなにやら、そこまで悪い子ではなさそうだ。
 とりあえず名前でも聞こうかと、私が口を開きかけた時のことだ。
 少女は突如、はっとしたような顔になったかと思えば、一瞬緩んだ警戒心を引き締めるように険しい表情に逆戻りした。

「…………わたし、を……」
「うん?」
「どうする、つもり……?」

 どうするもなにも……。

 キッ、と。まるで威嚇のように一生懸命に睨みつけられて、どう返したものかと困惑する。
 そもそもとして私は、屋敷の防犯魔法にやられて外で倒れていた彼女を拾って看病をしていたに過ぎない。
 いきなりどうするつもりだのなんだのと聞かれても、答えに窮してしまうのは当然だ。

 ……いや、もしかして、防犯魔法を受けて気絶したショックで、直前の記憶が欠落しているのだろうか?
 私が悪い魔法使いで、無理矢理この屋敷に連れ込まれたとか思われてる?

 だとしたらこの異様なほどの警戒心の高さも納得がいくが……。
 なんにしても彼女がなんらかの誤解をしているだろうことは確かである。
 ひとまずは話を続けてその勘違いを解き、正していく必要がありそうだ。

「私は君になにもするつもりはないよ」
「……」

 信用していない目だ。

「私は外で倒れていた君を拾って、ここで看病していただけだ。それ以上のことはなにもしていないし、するつもりもない」
「……倒れて、た……?」
「ああ。この屋敷は私の家でね。無理矢理入ろうとすると防犯の魔法が発動する仕組みになっているんだ。どうにも君はそれに引っかかって倒れてたようだけど……覚えてないかな」
「…………あっ」

 反応から察するに、やはり直前の記憶が抜け落ちていたようだ。
 初めこそ訝しげな顔をしていた少女だったが、私の話を聞いていくうちにその記憶を取り戻してきたようで、声を上げるとともに目を見開いた。

 これで少しは警戒をほぐしてくれるだろうか?

 なんて思ったのもつかの間。
 むしろ少女はより一層不信感を募らせたように、一挙一動の見逃さないと言った強い眼差しを向けてきた。

 その瞳には、わずかながら怯えの色が見て取れる。

「……」
「……」

 う、うーん……。
 記憶が戻ったのなら、なんで防犯魔法に引っかかったのかを聞きたいところだったのだが、この様子では素直に答えてくれるか怪しそうだな……。
 少なくともただ単純に、暴風に吹き飛ばされて偶然巻き込まれた……というわけではなさそうな雰囲気がある。
 つまり、彼女が防犯魔法に引っかかったのは偶然ではない?
 自分からこの屋敷に侵入を図ったのだとして……だとすれば、なんの目的で私の屋敷に忍び込もうとしたのだろうか。

 単に事情を知りたいだけだから、別に故意でもいいんだけどね……。
 金目の物が欲しかったとかだったら、さすがにタダで上げたりはできないけど、適当に掃除でもしてもらって報酬って形で渡すとかなら全然いい。
 三人暮らしなのに対して広すぎるからね、この家。よく使う部屋や廊下はたまに掃除するけど、使わない場所は埃が溜まったまま放置されてたりする。

 とは言え、故意に侵入したとしても怒ったりしない……なんて初対面の人物に言われて、本当に信じるバカはそうそういない。

 この世界には、犯罪者を衛兵に突き出すと報奨金がもらえるルールがある。
 その報奨金自体は微々たるものだ。が、この世界では人材は貴重な資源であるため、よほどの極悪人でない限り犯罪者は犯罪奴隷として奴隷商人に売られるようになっている。
 そして、その売られた値段の何割かを報奨金とは別にもらうことができる。

 仮にこの少女が奴隷として売られたなら、相応の値段になるだろうことは想像にかたくない。
 身なりがかなりみすぼらしく汚いためわかりにくいが、容姿自体は悪くないように見える。

 私は別に衛兵に突き出すつもりなんてないけど。
 ないけれども、住居侵入の罪があると自覚しているはずの彼女にとって、それは真っ先に思い浮かぶ最悪の展開のはずだ。

 うぅむ、どうしたものか……。

「ぁ……」

 そんな気まずい沈黙を破ったのは、ぐぅーっ、なんて可愛らしい音だった。
 目をぱちぱちとさせて少女の方を見ると、彼女は途端に顔を真っ赤にして俯いた。

「……ふふ。ずっと気を失ってたから、お腹が空いてるみたいだね」
「べ、べつに……そんなことない」
「私がここにいても緊張させてしまうみたいだし……なにか食べられるものを持ってくるよ」
「っ、い、いらな……」

 一瞬断りかけて、しかしそれは途中で切れる。
 反射的に断ろうとしてしまったが、この人が一旦ここからいなくなるのなら受け入れるべき、なんて。そんな感じの思考でもしたのだろうか?
 なにかしらの言い訳を考えるつもりなら別にそれでもいい。今のように沈黙だけが続くよりはずっとマシだ。
 ただ、勝手にいなくなられるのはちょっと困るので、そこだけは一応釘を刺しておこう。

「自由にしてくれていていいけど、この部屋からは出ないようにね。外は知っての通り雷雨だし……屋敷の中も、無駄に広くて探すのが大変だから」
「……」

 ほんの少しの間を置いて、確かに少女は首を縦に振った。

 それを確認した私は、宣言通り食べられるものを持ってくるために部屋を出る。
 本当に逃げ出さないか、その場に留まって耳を立てて確かめてみる――なんていう邪推も一瞬浮かんだが、そんな面倒なことはしないで素直に台所へ足を向けた。
 そしてそこで残っている食材を確認する。この材料で、手早く済ませられる料理となると……。

「お師匠さま?」

 思案に暮れていると、同じように台所に入ってきたフィリアが、私を見て声を上げた。

「どうかいたしましたか? 少々難しい顔をなさってるみたいですが……」
「ああ。看病してたあの子が起きたから、なにか食べられるものを、って思ってね。ずいぶん体力を消耗してるみたいだから」
「あ、目を覚ましたんですね。よかったです」

 フィリアは優しく微笑むと、私の横に立って冷蔵庫を覗き込んだ。

「一応、手早く済ませられそうなのはサンドイッチとかなんだけど……」
「そうですね……でも、できれば温かいものを持っていってあげたいですね」
「うん。ずっと外で雨に当たって冷え切ってただろうし……」

 しかし、スープを作るならそれなりに時間がかかってしまう。
 今はまだ、そんなに長い間あの子を一人にしておくのは得策ではない。
 逃げられるかもとかそういう心配ではなくて……いや、そういう心配をしていることにもなるのだろうか?

 屋敷の中ならまだいいが、外に出られたらこの雷雨では探し出すのは非常に困難だ。
 あの体調でこの嵐の中に飛び出していくのは危険すぎる。一度招き入れた以上は、そんな命に関わる愚行をさせるわけにはいかない。
 他にも、長時間席を外すと「なにか企んでいるのでは」というような疑心を植えつけてしまう可能性がある。
 今は安静にしていなければいけない時だし、すでに警戒で気を張り詰めさせている彼女に、余計な心労を抱えさせたくはない。

 そんな私の気持ちをわずかにでも読み取ったのだろうか。
 フィリアはほんの数秒、無言で私を見つめていたかと思うと「なら」と得意げに胸を張った。

「私が作って持っていきますから大丈夫です。ちょうどお昼時で、皆の昼食を作ろうと思っていたところですから」
「……いいの? フィリア」
「はいっ! お師匠さまの奴隷、じゃなかった……えっと、弟子として、これくらい当然のことですっ! お師匠さまの役に立てるなら願ってもないことですから!」

 それが本心だと一目見ただけでわかるような、眩しい笑顔だった。
 つられるように、私も少し笑ってしまう。

「そっか。フィリアは、本当に一途で頑張り屋さんだね。私にはもったいないくらいだ」
「そんなっ! むしろ私なんかにはお師匠さまがとてもとてももったいないくらいでっ!」
「いやフィリアの方が」
「いえお師匠さまの方がっ」

 なんて妙なことで譲り合った後、二人して声を上げて笑った。

「ふふ、それじゃあ急いで昼食を作りますね。完成したらお師匠さまのお部屋に行けばよろしいですか?」
「うん、それでいい。でも手ぶらで帰るのもなんだから……サンドイッチ一つくらいは持って部屋に帰ろうかな」
「そちらもお手伝いします!」
「ああ。ありがとうフィリア」

 フィリアと分担して簡単なサンドイッチを作って、皿に乗せる。
 この後に昼食も控えているので、小腹を満たす程度のほんの小さなサンドイッチだ。
 フィリアが昼食を作り始める姿を横目に、私は台所を出る。

「そういえば、フィリア一人に台所を任せるのは初めてだけど……」

 心配で一瞬立ち止まりかけたものの、まあ大丈夫か、と歩くことを再開した。
 フィリアとは毎日一緒に台所に立っている。初めこそ牛乳をこぼしてしまったり包丁の持ち方が変だったりと、拙くて危なっかしいところが多かった彼女だが、今はもう調理中の作業を自然と分担しているくらいには、フィリアの料理の腕は上がっている。
 元々、案外フィリアは要領がいい方だ。魔法だってぐんぐん実力をつけてきているし、奴隷になる前も、一人で勉強を続けて文字を読んだり書けるようになったと言う。

 私からいろんなことを学び尽くして、もしかしたらいつか、私の上位互換みたいになる日も来るかもしれない。
 魔法が得意で料理もできて、勤勉で世話好きで他人思いで……あと、発育がとても豊かだとでも言うか。

 うむ、発育的な面で見ればとっくに私を上回っているな……。
 私、身長も胸もほとんどないからな。
 とは言え小さいものにも小さいなりの価値があるので、これに関しては上位互換という言葉は正しく当てはまらない。
 まあ私はどちらかというと、大きい方が断然好きなんだけどね。

「さて。ちゃんと中にいるかな」

 考えごとをしているうちに、自室の前までやってきた。
 皿を持っている方とは逆の手で、コンコンコン、とノックをする。

「入るよ」

 返事はない。だけど、わずかに物音がする。
 逃げ出していないことに少しほっとしつつ、ドアノブをひねった。

 中に入ると、件の少女は私が部屋を出ていく前とほとんど同じ格好、場所でこちらを見つめてきた。
 あいかわらず布団を盾にして、警戒心全開の目つきだ。

「これ、サンドイッチだ。今、私の家族が温かい食事を用意してくれてるから、それまではこれで我慢してほしい」
「……さん、ど、いっち?」
「二枚のパンの間にお肉とか野菜とかを挟むだけの簡単な食べ物だよ。もちろん毒とかそういうのは入ってない。ほら」

 端の方をちょっとだけちぎって、口に含んでみせる。少女にじーっと観察されながら食べるのは少し恥ずかしかった。
 ベッドに近づくと少し警戒が強まったように感じたので、少しゆっくりとした動作で、皿をベッドの上に置いた。
 それから私が離れると、少女は私から視線を外して、興味深そうに皿の上のサンドイッチを凝視し始める。

「食べていいんだよ」
「…………う、うん」

 なんだかんだお腹が空いているのは確かだったようだ。
 少女は素直に頷くと、おそるおそると言った具合にサンドイッチに手を伸ばした。

「……おい、しい」

 一口食べて、驚いたように目を見開いた後、ぱくぱくと夢中で口を動かし始める。

 机の方からイスを持ってきて、ベッドから少し離れたところに置いて座る。
 小さい口で何度もサンドイッチを頬張る少女はわずかに口元が緩んでいて、なんだか、見ているこちらがお腹が空いてきそうだ。
 いろんな店を巡って、パンはふんわりと柔らかいものを厳選してきているので、あんなに夢中で食べてくれると、変な話だがちょっとだけ嬉しいような気持ちになる。

「気に入ってくれたみたいだね」

 完食した後、頃合いを見計らって声をかけると、少女がびくっと体を震わせた。
 食べている間は布団も手放して私になんて目もくれない様子だったが、私の存在を思い出したらしい彼女は再び布団で体を隠し始める。

「口にあったみたいでよかった」
「…………ど、どうし、て」
「うん?」
「どうしてあなたは……わたしを、捕まえたり……しないの?」
「どうしてって言われても困るけど……」

 少し考えかけて、でも、いちいち考えなきゃ思い浮かばない程度の理由ならあまり話す意味もない気がした。
 だから本心をそのまま口にしてみる。

「小さいから、かな」

 もっと壮大な、ちゃんとした理由を言ってくれると思っていたのだろうか。
 少女は目をぱちぱちと瞬かせて、ずいぶんと戸惑った様子だ。

「ち、小さいから……?」
「まあ、うん。君がまだ年端もいかない可愛い女の子だったから。それだけだと思う。それ以外は、特に……」

 たぶん大人の男とかだったら適当に拘束して後日衛兵に突き出したりとかしてただろうし。
 小さい子が相手だと、そんな酷い目に合わせるのはどうにも夢見が悪くて、気が引ける。

 まあ、ストライクゾーンからはだいぶ外れてるんですけどね。
 だってこの子、見た感じ一〇歳前後だよ?
 さすがに幼すぎる。こんないたいけな子に劣情を抱くほど落ちぶれてはいないのだ。

「……可愛い……わたしが?」

 あまり綺麗な格好をしていないからわかりにくいが、よく見れば見るほどにその美しさがわかる。
 傷もしみもない褐色の肌と、汚れながらも繊細さを失わない桃色の髪。愛らしく整った顔立ちに浮かんでいる揺らめく瞳は、どこか妖艶な深みさえ感じさせる。
 ぷっくりとした唇は幼いながらもとても魅力的に映って、その口が動くたびに、目線がそこに囚われそうになる。

「うん。可愛い。とっても。きっと将来はすごい美人さんになれるよ」

 とは言っても、今はまだ可愛いだけの子どもだけど。
 妖艶だと評した瞳だって、現時点ではしょせん、大人ぶった子どもレベルにしか見えない程度のものだ。
 フィリアやシィナのように、手を出そうとまでは思わない。

 というか、思ってしまったらそれはもう言いわけのしようがない変態だ。ロリコンだ。有罪判決である。
 この「可愛い」だって子どもや小動物に対して言うような「可愛い」であって、他意は一切ない。本当に本当だ。

「……あなたは……」

 少女は頭の後ろに手を回すと、そこにあったフードを深くかぶった。
 震える両手でぎゅっと布団ごと自分の体を抱きしめて、自分の心に閉じこもろうとするように下を向く。

「……あなたはきっと……いい人、なんだね……」
「魔物にとっては悪い人だろうけどね。私、冒険者で稼いでるから」
「……そっか。やっぱり……そうだよね。冒険者……うん。そうなんじゃないかって、思ってた……魔物の図鑑とか、本棚に置いてあるから」
「あれ? 文字、読めるんだ」
「……やっぱり、気づいてない。もし気づいてて、ああ言ってくれてたなら、わたしは…………ううん。そんなのありえない。ありえないから……だから……」
「……どうかしたの?」

 なんだか様子がおかしい。
 やはり熱がまだあるのだろうか、と。心配になって、少女の様子を窺いながら、そうっとベッドに近づいてみる。
 少女は私の行動に気がついているだろうに、大した反応を示さない。
 それを不思議に思いながらも、私は少女の方に手を伸ばして、

「ごめんね、ちょっとだけ熱を――」

 と、そこまで言った瞬間、伸ばした手を少女に掴まれた。
 そして一気に引き寄せられたかと思えば、至近距離で見つめられる。
 額と額がくっついて、目と目が正面から合って、その深淵を覗き込むような妖しげな瞳に、目を奪われて。
 そして彼女は、言う。

「『あなたは、わたしの虜になる』」
「え――」
「『あなたの体はわたしのもの。あなたの心はわたしのもの。あなたの魂はわたしのもの。あなたはもうわたしに逆らえない』」

 少女の瞳が鈍く輝き、その突如、不可解な異物が私の中に溶け込んでいくようだった。
 罪悪感を押し殺すような、少女の顔。戸惑いをかき消すように強く握られた拳。行き場のない悔しさを噛みしめているような唇。
 それらを視界に収めながら、だけど私は少女から必死に目線をそらすように、もっと別の場所へ視線を向けた。

 それは、少女のローブの隙間。
 至近距離だから、上から見下ろせば首元から胸の辺りが少しだけ見える。

 いや別に胸を覗こうとしてるとかそういうわけじゃなくて、むしろ今それどころじゃないっていうか、とにかく別の確認のためだ。
 少女の服の中にわずかながら見えたもの。それは、紋様だった。
 少女の魔力の動きに反応して、わずかに発光している紋様。
 それを見て、私はようやく彼女の正体を理解した。

「そう、か……き、みは……」
「そう。わたしがあなたたち冒険者が必死になって探している、淫魔の生き残り。あなたはもう、わたしから逃れることはできない」

 少し前とは打って変わって冷徹な声で、少女は言った。

 淫魔。姿かたちは人間とほとんど変わらず、それゆえに人間と同等の知能をも持つ、Aランククラスの魔物。
 人間と変わらないなら見分けるのは難しいのでは? というのは正解で、もし事前に警戒していなければ、人間の生活に溶け込んで悪さをされていても短期間ではまず気づけない。
 淫魔は単に強さというよりも、そういう厄介さの面でAランクという位置づけをされている特別な魔物だ。
 しかし一応、淫魔とそれ以外の、誰でもできる確実な見分け方は存在している。
 それは、淫魔に生まれつき備わっているという紋様だ。胴体に描かれたそれは淫魔の瞳と同じ色をしており、魔力の動きが活発になると薄く発光する。
 もっとも、このように服で簡単に隠せてしまうので、調べようとしなければわからないのだが……。

 そして淫魔は皆が先天的に『魅了の魔眼』を有していることで有名だ。
 『魅了の魔眼』。見つめ合った瞳を介して自らの魔力を相手の体内に潜り込ませ、内側から支配する力。
 今まさに私がかけられたのがそれだな、うん……。

 ……この魔眼の厄介なところは、術式を用いていながらも、厳密には魔法ではないという部分にある。
 私はこれを特性と呼んでいて、たとえば、かつて私が討伐したSランクの魔物『鉄塵竜』は半径一キロメートルの金属すべてを操る力を持っていた。
 あれも特性の類だ。魔法では完全な再現ができない、その個体の魂だけが持つ特異な力。
 『魅了の魔眼』も同じだ。相手と見つめ合うことで効果を発揮し、その相手を意のままに操る。

 そして魔法ではない以上……解除がちょっと難しいというか、なんというか……。
 いや、できないこともないんだけど、そのためにはまず自分の状態を魔法で解析しなくちゃいけなくて、それには時間が数十秒必要で……。
 そうなると、解析しようとすれば当然、

「っ、『魔法を使わないで』」

 まあ、こうなるわけなんですね……。

 『魅了の魔眼』は魔力を目に集中させないといけないから感知が簡単だったり、そもそもそういう精神干渉系の魔法は事前に対策するとよほど強力でないと効かなかったり、発動されても長時間、もしくは至近距離で見つめ合わないと効果が発揮されないので、相当油断していない限りは効かなかったり。
 弱点は無数にあるのだが……このように相当油断して一度かけられてしまったらどうにもならないので、よく覚えておくように。

 基本的に淫魔は、油断した相手をこうして『魅了の魔眼』で虜にした後、接吻などで体液を飲ませることで発情させ冷静さを奪い、『魅了の魔眼』と洗脳の魔法で完全な支配を行うという。
 そして見ての通り、魔法が使えない今の私に抵抗する術はまったくない。

 …………うん。
 ……あれ、割と本気でやばいな。
 どうしようこれ……。
 私がこの少女が淫魔だと気づけなかった原因はいくつかあるが、要因はやはり、この少女の見た目が非常に幼かったことだろう。
 淫魔は他者を魅了して支配下に置く特性上、その他者――特に、異性にとって魅力的な肢体を持っている場合が非常に多い。
 出るところは出ていて、引っ込むところは引っ込んでいる。魔性のごとき極まった美貌は、異性を惑わす色気を常に放っている。

 さながら、甘い香りで虫を誘う食虫植物のようなものだ。
 人を惑わし、同情を誘い、そして食い物にするために、淫魔はそんな姿をしている。

 しかし、この少女はそんな淫魔としてあるべき特徴とはまるで真逆だ。
 体はまるで発育していない子どものもの。色気にしたって、ちょっとだけ大人っぽく見える程度しかない。
 素質はあれど、淫魔の本来あるべき姿とはほど遠い。

 淫魔は、見た目は人と同じ形をしているとは言っても、本質的には魔物だ。
 その成長速度は、人間とはまるで違う。
 ほんの数年で著しく成長し、一桁の年齢のうちに大人となんら変わらない体つきになる。

 そしてそうして成熟するまで、淫魔は決して人前に姿を現さない。
 体が成長していない間は『魅了の魔眼』も同様に未完成であるからだ。
 もしもうまく魅了にかけられなければ、簡単に淫魔だと見破られてしまう。
 淫魔は精神に干渉する魔法はずば抜けて得意だが、直接戦闘能力はそこまで高くない。もし魅了にかけようとして失敗した相手に戦いの心得があったなら、その未熟さも相まってあっさりとやられてしまいかねない。

 そう、そうなのだ。
 こんな小さな淫魔が用いる『魅了の魔眼』は、未完成であるはずなのだ。
 厳密には魔法ではない特性とは言え、未完成ならば、たとえ術式で縛られていても体内で少し魔法を使うくらいならできる。
 術式を逆算して解析し、自分にかかっている魅了の効果をかき消すことができる……はずなのだが。

「む、ぅ」

 ……それができない。言葉一つで、完全に魔法を封じられてしまった。
 つまり、この少女が持つ魔眼はすでに完成されているということ。

「……本当は、あなたに魅了をかけることなんてできないはずだったの」

 近づけていた顔を少しだけ離すと、少女は俯きながら、呟くように言う。

「外は大雨……本当なら、わたしは外でそのまま野垂れ死んでたはず。でも、そんなわたしをあなたは見つけて、助けてくれた……それが、一つ目の間違い」
「間、違い」
「そう。もしもわたしが淫魔じゃなくたって、間違いなく犯罪者だったんだから、そのまま見捨てちゃえばよかったのに」
「そんなこと……」
「『優しさは甘さ。もっともつけ入る隙がある、愚かな感情。優しい人ほど操りやすい』……それが、わたしたち淫魔の共通の認識」

 私の腕を掴んでいた少女の手の力が緩んで、手首の方へと移動していく。

「そして二つ目の間違いは……あなたが魔法使いだったこと」
「それは、どういう……?」

 私の手の甲をくすぐるように、少女の指が動く。 

「外で倒れてたわたしはずぶ濡れだったはず。だから普通なら、脱がせて着替えさせる。そうしたらわたしはすぐに淫魔だってバレてた……でもあなたはたぶん、わたしを魔法で乾かしたから。だから、わたしの正体に気づけなかった」

 おおふ……確かに、もし着替えさせていたら淫魔の紋様ですぐに気づけていた……。
 一応魔法だけで済まさずにちゃんと着替えさせた方がいいかなとも考えたんだけど、勝手に肌見ちゃ悪いかなって思ったんだよね。あと、替えの服もないし。

 でもやっぱり、見た目が幼すぎるせいで淫魔だとまったく疑ってかかっていなかったのが一番の原因のように思える。
 だってほら。もしもこれがフィリアのようにご立派に実った果実をお持ちだったなら、私もね、この子淫魔なんじゃないかなって疑って脱がせていたと思うんですよ。

 いや、別に衣服の裏に隠された豊満なお体の柔肌を拝みたいとかじゃなくてね?
 あわよくば着替えさせる過程で触りたいとかでもなくてね。もし仮に触っちゃってもそれはあくまで不可抗力だからやましい気持ちなんて全然なくて。ただ純粋に気遣ってるだけでね?
 ほんとだよ?

「…………」

 私の手の甲をなぞっていた少女の指が止まり、その指が私の手を取ると、また彼女の顔が近づいてくる。
 完全支配のため、口づけで体液を送り込むつもりだろう。
 しかし魔眼で縛られている私は、せいぜいがぷるぷると体を動かすくらいが限度で、まったく抵抗することができなかった。

 情けなくも、思わずぎゅっと目を瞑ってしまったが、予想に反していつまで経っても唇に刺激は訪れなかった。

「安心して」

 耳元で、ささやくような声。
 瞼を開けると、少女の顔は私の顔の正面ではなく、すぐ横にあった。

「あなたを完全な支配下に置くつもりはない。少し、わたしのやることを手伝ってもらうけど……」
「君の、やること……?」
「街を出たいの。わたし一人の力じゃ、逃げ回るだけが精一杯で、門の見張りを突破できないから……魔法使いであるあなたの力を借りたいの」
「魔法使いの、力……もしかして……最初、から、そのためにここに……」
「……残念だけど、違う。わたしはただ、雨宿りできる場所を探してただけ。ここ、大きくて隠れやすそうだったから」

 《至全の魔術師》とまで呼ばれる魔法使いの家に侵入を図るだなんてどういうつもりなのかと思っていたが、どうやら、来たばかりのせいで街の知識がなかっただけのようだ。
 確かに、知っていたなら知っていたで、どうしてそんな明らかに危ないところに不注意に忍び込もうとしたのかという話になってしまうのだから当然だ。

 うぅむ……故意に侵入しようとした可能性もある相手だったというのに、ちょっと気を抜きすぎていたのかもしれない。
 この屋敷、対侵入者用の防犯魔法が完備してあるとは言え、あくまで外部からの侵入をシャットアウトしてるだけで、こうやって一度中に入れちゃったらなんの意味もないからな……。
 この子の見た目が幼かったからっていうのはもちろんだが、家だからって油断しきっていた部分もあったのだろう。
 今度からは、玄関にでも人か魔物かを見分ける探知魔法でも新しく置いておいた方がいいかもしれな――。

「――――ひぁあっ!?」

 突如走った刺激に、魔眼による制約さえも無視して、びくんっと全身が飛び跳ねた。

「あ……な、え? あ、あれ……? な、なにが……?」

 頭の中が一瞬真っ白になって、一泊置いてから、今の甲高い声が私の発したものであると理解する。
 理解、したけれど。
 ま、待って。なんで? なんで……え? ま、待って、待って。
 い、今のなに? なにが起きたの?

 思考が乱れてまとまらない。急に思考が途切れたせいか、なにがどうなってあんな声を出してしまったのか、これっぽっちもわからない。
 混乱しながらも、とにかく状況を把握しようと目を動かすと、すぐそばで目をぱちぱちと瞬かせている淫魔の少女に気がついた。

「……驚いた。いたずらで、ちょっと唇で挟んでみただけなのに……耳、敏感なんだね」
「み、耳……?」

 耳、って。あの耳? 耳をちょっと触られただけでああなったの? なんで?
 ……まさかエルフだから?
 だってエルフ、他の種族より耳長いし。

 え? 待って、エルフの弊害って、肉類が苦手で、一〇〇メートルくらい走るとぶっ倒れるミジンコみたいな体力だけじゃなかったの?
 耳も弱点なの? 吸血鬼みたいにいっぱい弱点あるの? もしかして雑魚なの?

 で、でも、自分で触ってもあそこまで感じることなんて今までなかったのに……。
 ……他の人に、触られたから?
 そんな程度のことで、あんなに?

「自分の体のことなのに、知らないの?」

 心底不思議そうな顔で、少女が小首を傾げている。
 ぶっちゃけ魔眼にかけられた時よりも激しい混乱と危機感の真っ只中にいる私に、淫魔の少女はしばらく考え込んだ後に、微笑んだ。

「……なら、うん。あなたにはいろいろ手伝ってもらうんだし……お礼にわたしが、あなたの体のことをあなたに教えてあげる」
「か、体のことを、教える……?」
「大丈夫。経験はないけど、やり方は知ってるから。あなたの体は、どんなことに弱いのか、どんなことをされるのが好きなのか……わたしが隅々まで調べてあげる」

 恥ずかしそうに頬を赤めるでもなく、興奮に声をうわずらせるわけでもなく、妖艶に誘惑するでもなく。
 淡々と、邪気のない声で。それがさも本当に良いことであるかのごとく、流れるように淫魔の少女は言った。

 混じりけのない純粋な善意しか感じなかったものだから、言葉に詰まって、一瞬だけ返事が遅れてしまう。
 そしてその一瞬の間に、すでに淫魔の少女の手が私の服の裾にまで伸びてきていて。

「っ、ま、待ってくれっ! そ、そんなことはしなくていい……!」

 必死に、本当に必死に魔眼の効果に全力で抵抗して、ギギギ、となんとか腕だけでも動かして、少女の手を掴む。
 こんな状態なのでまったく力はこもっていなかったが、とりあえず私の制止の意思は伝わってくれたようだ。

 すでにへそ辺りまで服をめくっていた少女の手が、止まる。
 ただしあくまで止まっただけで、まだ手を引いてくれたわけではない。

「どうして止めるの?」

 またしても心底不思議そうに、少女が首を傾げた。

「ど、どうしてっ? えぇと、あの……そ、そう! 私はそういうのが苦手でなっ。だ、だから必要ないんだっ」
「苦手……? でも、さっきとっても良い声出してた。気持ちよかったんだよね?」
「へっ? ち、違う! それは違うっ! さっきのは、えっと、思わず出てしまったというか……その、ただ驚いてしまっただけで……別に気持ちよくなんか――ひぅっ」

 言っている途中で、また、耳を唇で挟まれる。

「ほら。こんなに敏感。息も荒いし……本当は気持ちいいんじゃないの?」

 きっと、少女にその気はまったくないのだろう。
 だがそれでも、思うように動かない体。自分では否定しているはずのことを、さらに上から否定される感覚。
 実践を伴って体に直接教え込むかのようなやり方に、一瞬、調教でもされているかのような錯覚に陥る。

 なんで……なんでこんなことに?
 私はただ、フィリアやシィナといちゃいちゃにゃんにゃんな幸せな毎日を送りたいだけだったのに……。
 私まだなんにも悪いことしてないよ? なんにも悪い、こと……。

 ……いや、体目的でフィリアを買ったり、それなのにそのことを未だフィリアに言えてなくて騙したままだったり、私のためを思って頑張ってくれている彼女に薬盛ろうとしたり、その薬を買う時に店の人に幻惑魔法かけてたり、故意に魔法に欠陥をつくってシィナをあられもない姿にしようとしたり……。
 あれ、割と悪いことしてるのでは……?
 ばれてないから別に大事になってないだけで、一個でも真実を知られたら、どれもとんでもないことになるのでは……?

 ……いやいやいや! でもほら! 犯罪じゃないから! ばれなければ!
 そう……ばれなければ犯罪じゃない! だから私はなにも悪くない!

 私の魔法の師匠だって言ってた! 自分を正当化して理性や心を守ろうとするのは人類の数少ない良いところだって! 本当に愚かで醜くて救いがたくてお似合いで良いと思うって!
 ……良いってどういう意味だっけ? ……ま、まあいいや。
 とにかく、私はなんにも悪くないんだ! こんな仕打ちを受けるいわれなんてない!

 だからとにかく、今はすぐにでもこの子にこんなことをやめさせて早く魔眼を――。

「――ふぁああっ!?」
「逆の耳も同じくらい……やっぱり、気持ちいいんだよね?」

 私が否定したり、沈黙したりしていたからだろう。
 彼女が再度私の耳を刺激して、無邪気に確認の言葉を投げてくる。

 ……も、もうだめかもしれん……。
 だって無理だもん……こんな状況で魔眼どうにかするとかできないもん……確かに私、魔法はすごい得意だけど、今は魔法封じられてるし。

 魔法がない私の力なんて、人間の子どもレベルだ。体力面ともなると、それにも劣る。
 私の師匠だって言ってた……精神干渉系の魔法には絶対かけられないようにしておけって。どんな状況や場所でも常に反射の術式を維持しておけって。あんなのにかけられる魔法使いは見通しが甘い間抜けだけだって。

 まさに今の私のことだ……家の中だからって油断して、魔眼の隷属術式にかけられた見通しの悪い間抜け……。

「むぅ……どうして答えてくれないの? これじゃまだ、気持ちいいって言うには足りないの?」

 また少女の顔が私の耳の方へ行きかけて、思わず「ひっ」と声が漏れた。

「な、なんで……な、んで、こんなこと……」
「これから手伝ってもらうことへのお礼、ってさっき言ったよ」
「こ、こんなのお礼じゃない……!」
「……? 気持ちいいのは良いことのはず。良いことだから、気持ちがいい(・・)って言うんでしょ?」
「い、いいこと?」
「うん。直接したことはないけど、仲間たちがこういうことしてるの、隠れて見てたから。その時のあなたたち、いつもとっても気持ちよさそうにしてた。幸せそうな……ちょうど今のあなたみたいな、とろけた顔してた」

 淫魔は魔物。人類とは根本的に違う存在。
 わかってはいた。だが、こうもはっきりと常識面が異なることを示されてしまうと、なにを言えばいいのかもわからず、絶句するほかなかった。
 人が人に贈り物をするように、こうすることが相手のためになるのだと、彼女は本気で思っている。

「続き、するね? 苦手って言ってたけど……大丈夫。わたし、ちゃんと気持ちよくできるよう頑張るから。出来損ないのわたしでも、それくらいのことはできるはずだから……」

 頑張って魔眼に抵抗してたのに、度重なる刺激のせいか、段々と体に力が入らなくなってきていた。
 少女の動きを止めようと必死に頑張っていた、ただでさえ弱かった私の手は簡単に優しく振りほどかれて、押し倒される。途中までめくられていた服の裾が、さらに上げられていく。

「あ、ぅ」

 胸の肌着が、露出する。
 フィリアには着替えの関係でいつも見られていて、その時は全然恥ずかしくなんて感じないのに、今はどうしてか、顔が勝手に赤くなっていくのがわかった。
 そんな私の肌着に、彼女はまるで戸惑うことなく手を伸ばす。

 ――あ……これ、もうほんとにだめだ……。

 打つ手がなく、説得もかなわず。
 このままされるがままになるしかないと悟って、これから行われるだろう行為を想像し、無意識に瞼を強く閉じる。

 まさに、その時だった。

 不意に、少女が弾かれたように顔を上げて、あらぬ方向を向いた。
 どうしたのか、と瞼を上げて少女の視線の先を追うと、その先には部屋の出入り口たる、今は閉じられている扉がある。

「……『答えて』。この家にはあなた以外に、何人の人がいる?」

 隷属術式を用いての質問に、勝手に口が動く。

「ふ、たり。一人は、フィリア……形式上は、私の奴隷」
「奴隷……なら、あなたを操って命令すれば、そっちは問題ないはず。もう一人は?」
「……シ、ィナ。彼女は……」

 そこでようやく、彼女が急に扉の方を見て、こんな質問をしてきた意味に気がついた。
 わずかながら音がする。この部屋に近づく、誰かの足音。
 一つの街の中、数多くの冒険者たちの捜索から今日までずっと逃げ回ってきたのが、この淫魔の少女だ。だから私よりも一足早く足音に気がついたのだろう。

「彼女は?」
「私と……同じ、Sランクの冒険者だ」

 その言葉に少女は目を見開き、急いで私に普段通り振る舞うことを術式で命令する。
 服を正し、私をベッドの前のイスに座らせて。淫魔の少女自身は、ベッドの片隅で人見知りのふりでもするように自分の体と目元を隠す。
 そして部屋への来客を迎える準備がちょうど整ったところで、扉のドアノブが動いた。
「……ハロ……ちゃ、ん……おきた、って……(ハロちゃん、いる? フィリアちゃんから、外で倒れてた子が起きたって聞いたけど……大丈夫かな)」

 ひょこっ。
 開いた扉から、そう顔を出したのは、シィナの方だった。
 シィナは部屋の中を見渡し、私と淫魔の少女の姿を認めると「お、じゃま……します」と言って、中に入ってくる。

「シ……! っ……」

 シィナに現状のすべてを打ち明けてしまいたかったが、隷属術式で縛られている今、それはできないようだ。
 さきほど下された、『普段通りに振る舞う』という命令。それにほんの少し抵抗するくらいが限界だ。

 私の様子に少しでも違和感を覚えてくれればいいんだけど……。

「シ、ィナ。うん。ちょうど……さっき持ってきたご飯も、食べてくれて、ね。誰か来るって……なった途端、布団の中に……隠れちゃった、けど。きっと、人見知り……するタイプ、なんだろう」
「……そう……(人見知りかぁ……わたしもそうだから、気持ちがよくわかるなぁ……初めての人と話す時は声がうまく出せなかったり、変にいいところ見せようって張り切って、空回りしちゃったり……)」

 ……これは、どうなんだ?
 そ、そうってなんだ? 気づいてるの? 気づいてないの? 全然わからん……。
 でもシィナのことだ。獣人だからいろいろと鋭いだろうし、スライム大作戦の時だって、私の企みに気づいていたわけではないだろうが、なんらかの危険を事前に察知しているかのごとく、敢えてスライムを浴びないようにしていた。

 その勘のいいシィナが、私のこんな不自然な途切れ途切れの言葉に疑問を持たないはずがない。
 さっきまであんな恥ずかしい目にあっていたのだから、まだ顔だって不自然に赤いはずだ。

 きっと私がなんらかの異常事態に見舞われていることを察して、内心では警戒を強めている。
 短く「そう」としか答えないのも、おそらくその表れだ。
 情報を多く見せないことで、相手に隙を与えないようにしているのだ。

 ふふふ、さすがシィナだ! すっかり油断していた私にはできなかったことを軽々とやってのける!
 いいぞ、そのまま私の催眠をどうにか解いてくれ!

「…………(でも、ハロちゃんはそんなわたしの内心を察して、受け入れてくれたんだよね。えへへ……ハロちゃんの言い方だとハロちゃんの前じゃこの子も隠れてなかったみたいだし……この子もおんなじなのかなぁ。ハロちゃんのあったかい気持ちが、この子にも伝わったんだね)」

 布団で身を隠している淫魔の少女を、シィナはじぃっと凝視している。
 私の異常にこの子が絡んでいるのではないかと、明らかに訝しんでいた。

「……(おんなじ人見知りの子……な、なんだろう。この子となら仲良くなれそうな気がしてきた……!)」
「……シ、ィナ?」
「…………ねぇ(ハロちゃんの時はハロちゃんの方から声をかけてもらって、フィリアちゃんとは、ハロちゃんの紹介で仲良くなって……私の方から話しかけて友達になれたことなんて、まだ一度もなかった。でも……今のわたしなら……!)」

 ふと、シィナが足を踏み出して、無防備に布団に近づく。

 ん……? シ、シィナ? も、もうちょっと探りを入れてから近づくべきじゃ……。
 い、いや、シィナがそれで大丈夫だって思うならいいんだけどね? 私はなにもできないし。
 魔眼……魔眼だけは気をつけてね……。

「…………かお……みせて(まずはお互いの目を合わせて、自己紹介……でいいんだよね? 仲良くなるためには、まずはお互いのことを知り合わなきゃいけないって、この前辞書引きながら頑張って読んだ本に書いてあったし!)」

 え? か、顔見るの……? 淫魔って魔眼あるんだよ?
 あ、あれ?
 ほんとにシィナ、この子が淫魔だってわかってるのかな……。

 い、いや、気づいてるはず……大丈夫なはずだ!

 だってシィナだぞ! あのシィナだ!
 魔物のみならず、数々の冒険者さえも震え上がらせ、パーティも組まずにたった一人、ただその身一つで、世界で十数人しか存在しないSランクにまでのぼり詰めた殺戮の修羅……人呼んで《鮮血狂い(ブラッディガール)》!
 数多の魔物を屠ってきたそのシィナが、この少女が淫魔だと気づいていないはずがない! ……同じSランクの私はまったく気づかなかったけど!

 だってほら! 現に淫魔の少女だって、突然の顔見せて発言に、もぞもぞと布団の中で躊躇している!
 そう、彼女も感じているのだ……シィナが自分を疑っているということを!

 ……だい、大丈夫……だよね?
 必死に希望的観測を重ねてみたけど、これ全部勘違いだったりしないよね……?

 ……というか……そういえば、今思い出したんですけど……。
 なんか獣人って、他の種族と比べて魔法の抵抗力弱いらしいんですよね……。
 あんな至近距離で魔眼を食らったら、おそらく一秒の半分もかからず催眠が完了する。
 シィナって私が専用に改造した足場を作る魔法以外は一切魔法使えないらしいし、対策となる術式もきっと展開してない。

 ……もしかしたら。

 シィナはもしかしたら、自分が催眠になんてかかるはずがないって思ってるのかもしれない。
 すでに狂気の奥底まで染まっている自分の心は、誰にも侵されはしないと。
 なにせこれほど無警戒に淫魔の顔を拝もうとしているんだ。きっと過去にも同じように催眠かなにかをかけられそうになって、それを自分の精神力で跳ね除けたことがあるんだろう。

 確かに、単純な精神系の魔法ならそれで弾けてもおかしくない。
 ……いやホントはおかしいけど……あれほど自然体なシィナを見る限り、それしか思い至らない。

 そしてもしその予想が正しいのだとしたら、この状況は非常に不味い。
 淫魔の持つ魔眼は確かに魔法のような力ではあるが、厳密には魔法ではない。特性だ。

 特性とは、一種の摂理である。
 りんごが木から落ちるように。木の葉が枯れ落ちるように。人が老い、死ぬように。
 その本質は、力ではない。決して揺るがない事実を具現化させたもの。それが特性なんだ。
 だから、気持ちの持ちようなんかでどうにかなるような話ではない。

 昔、特性について少し研究する機会があった私は、それをよく知っている。

「……わかった」

 淫魔の少女の返事。
 未だシィナの行動の意義をはかりかねて訝しんでいるようだったが、このまま膠着状態を維持していても意味はない。
 そちらがそれを望むのなら、望み通りにしてやる。そう言わんばかりに、淫魔の少女は自分の顔と体を隠していた布団に手をかけた。

「シ、っ……!」

 うぐっ! シ、シィナの名前を呼べない……!
 このタイミングでシィナの名前を叫ぶのは、魔眼で指示された普段通りに振る舞うことに反するからか……!

 あぁ、もうダメだぁ……おしまいだぁ……。
 油断しすぎだよシィナ……きっとこのままシィナも魔眼の魅了にかかっちゃって、二人してあんなことやこんなことされちゃうんだ……。
 シィナのそんな姿を見られるのなら役得ではあるけど……うぐぐ。無理矢理はよくないと思います。
 あと、できれば攻めの立場は私でですね……!

「『あなたは、わたしの虜に――』」

 淫魔の少女が顔をさらけ出し、シィナの目をまっすぐに見つめ、言葉とともに魔眼を発動する。
 私はシィナが咄嗟に目をそらすことを期待していたが、もちろんそんなことはなく、二人の目はきっちりと正面から合ってしまっていた。

 そして、やはり一秒とせずに魔眼の効果がシィナに及び、シィナがその術中に、

「――え」

 術中に、かかることはなかった。

「……?(……あれ?)」

 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 魔眼がシィナに対し効果を発揮する、一秒の半分。
 その()瞬とも呼べるわずかな時間よりも、さらに早い()瞬のことだ。

 シィナはその手で剣を持っていた。
 いつも携えている、両腰と背中に二本ずつの計四本の小剣。そのうちの一本が瞬きの間に抜かれていて、振り切った体勢になっていた。
 振り切った体勢……とは言っても、シィナは淫魔の少女を斬ったわけではないようだ。それなりに近くはあったが、二人の間は剣が届く距離ではなかった。

 では、なにを斬ったのか。
 なにもない宙空で振り切られた剣。見つめ合ったはずなのに、なんともないように立ち尽くしているシィナ。

 ここから推理できることは、一つ。
 シィナが斬ったのは、術式だ。魔眼の効果そのものを、その剣で切り払った。

 自らに向かって突如飛来した見えない弾丸を切り払うかのような、人外の所業。
 あまりにも非現実的な想像に、ありえないと頭が否定しかけるが、目の前の光景が嫌でもそれが現実だと突きつける。

 私は呆然としながら、シィナを見た。

「シィ、ナ……」

 え、ええ? シィナ、なんでそんなことできるの……?
 術式が見えてたならまだギリギリわかるけど、シィナ見えないんだよね?
 あれ? もしかしてシィナ、最初からこれを狙って……?

 …………も、もちろん私は最初から信じてたぞ! あのシィナが無策に魔眼を見せることを催促するわけがないって!
 いやぁ、わかってた! 知ってた! うむ、さすが私のシィナ!
 これくらいのことなら軽くやってのけるって私は信じてたぞー!

 まあ普通に考えればそうだよな。当たり前だ。あのシィナがそんな簡単に魅了にかかるわけがないじゃん。
 まったく数十秒前の私はなにを心配していたんだ。
 いや、信じてたけどね? 信じてたんだけど、やっぱりシィナが危ない目に合わないかっていうのが心配でね? はい。

「な、ん……え? な、なん……な、なに、が……?」

 淫魔の少女は激しく混乱しているようだった。
 目の前でなにが起きたのかを理解できないのか。あるいは、目の前で起きた出来事を認めることができないのか。
 ただ右往左往とする今の彼女はあまりにも隙だらけで、シィナであればいつでも手にかけることができたはずだ。
 だけどシィナはそれ以上動くことはせず、ただ冷たい表情と瞳で、言う。

「…………どう、して?(あ、あれ? ど、どうしてわたし、剣なんて持ってるの……? えっ? あれ? な、なんかこう、魔物と戦う時みたいに……反射的に体が動いた、ような……え?)」

 どうして。シィナが発したのは、ただ問いかけるだけの言葉。
 なにを問いかけているのか、いちいち聞くまでもない。

 シィナは初めに淫魔の少女に対し、顔を見せてと言った。
 淫魔にとって魔眼は絶対の武器。そしてそれは、獣人たるシィナにとっての絶対の弱点だ。
 シィナは淫魔の少女の正体に気づいた上で、試していたのだ。
 あなたは敵なのか。その武器を自分に向けるのかどうか。

 そして淫魔の少女は、その武器をシィナに振りかざした。
 だからシィナは、どうして、と。
 なぜ敵対するのか。なぜ危害を加えようとするのか。
 なぜ、いったいどんな大層な理由があって、私のものであるハロちゃんをそんなもので傷つけたのか。
 シィナは今、怒っている――。

「…………なか、よく……なれそ、う……だった、のに(って、そんなのどうだっていいよ! は、早くしまわなきゃっ! せっかく仲良くなれそうだったのに、こんな風にいきなり刃物振り回したりしたら絶対危ない人だって思われちゃう……!)」

 魔眼を使った時点で、きっとシィナはすでに少女を見限っていた。
 無邪気で無機質な冷たい言葉とともに、シィナが剣を持っている手を再度動かす。
 それに淫魔の少女は怯えたように体を震わせながら、必死になって口を開いた。

「あ、あなっ、ぅ、『あなたはっ! わたしの虜にな』」

 二度目の、魔眼の発動。
 だが、不意打ちでさえ失敗したというのに、そんな真正面からの魔眼が通用するはずもない。
 シィナがまた、剣を振るう。それだけで魔眼の効果は打ち消された。
 それでも淫魔の少女はまた魔眼を使おうとするが、そんなものよりもシィナの動きの方が速いのは歴然だ。

 もう片方の手で二本目の剣を抜き放ち、シィナは瞬きの間にベッドに飛び乗った。
 シィナの剣が届く射程内。もはや逃げ場はない。
 淫魔の少女の顔が恐怖で歪み、そしてそんな少女の首元へ、シィナは容赦なく刃を――。

「シィナっ!!」
「っ……(――はっ!? えっ? ちょ、待って待って止まって私の体! なにしようとしてるのなんでこんなあれなんでわたしなんでぇ!?)」

 私は今、魔眼の効果で縛られている。普段通りに振る舞え、と。
 さきほどはそれで縛られてシィナの名前を呼べなかったが、ここでシィナの名前を叫ぶことは、普段の私なら間違いなくやっていたことだ。

 シィナが振るっていた刃は、淫魔の少女の首を切り裂くほんの数ミリ前で止まっていた。
 あと一瞬遅れていれば間に合わなかっただろう。

「ひ、っ……ぁ、ひぁ……ぇぁ……ぁぇ……」

 絶対の自信があっただろう魔眼をたやすく打ち破られ、それを理解する間もない混乱の最中、襲いかかった死の恐怖。
 常日頃から生死を賭けた闘争の日々に身を置いている冒険者ならばまだしも、ただの淫魔がそんなものに耐えられるはずもなかった。

 淫魔の少女は、自らの首に迫った刃を見下ろした後、そのままパタンッと力なく倒れた。
 それと同時に、私を縛っていた魔眼の効果が消え去るのがわかった。
 魔眼はあくまで一時的な支配でしかない。それをかけた当人が気を失えば、魔力による繋がりが消えて効果を失う。

「……はぁ。ひとまず、ありがとうシィナ。おかげで助かったよ」
「…………あぶな、かった……(た、助かった? な、なんのこと……? いやそんなことより、なんでわたし知らない子にいきなり剣なんて向けちゃってるのぉ!? は、ハロちゃんが止めてくれなきゃ、こ、この子を殺して……あ、あぶなかったぁ……!)」
「ああ……そうだね。シィナが来てくれなきゃ、本当に危なかった。私が油断したせいだ。心配かけてごめんね、シィナ」
「……? ……ん(は、ハロちゃん本当になんのこと言ってるんだろ……よくわかんないけど、なんだかハロちゃんちょっと真剣そうだし、とりあえず頷いておこう……)」

 これくらいなんてことない。
 そう言いたげな短い返事と首肯は、なんとも頼もしかった。

 念のため、倒れた淫魔の少女の様子を確認してみる。
 ……やはりと言うべきか、すっかり気絶してしまっているようだ。

 加えて、真っ青な顔で苦悶の表情を浮かべている。
 直前の出来事が原因だろうことは想像に難くない。

「……(わ、わたしのせいでこんな……うぅ、罪悪感が……なんでわたし、あんな勝手に体が動いちゃったんだろ……そういうこと、魔物と戦う時以外は一度もなかったはずなのに……)」

 私の隣まできたシィナは覗き込むようにして、じーっ、と、またしてもこの子のことを凝視していた。
 私もシィナと同じ冒険者だ。シィナの言わんとしていること、シィナが考えていることは、じゅうぶんわかっているつもりだった。

 淫魔は、魔物だ。人類の敵だ。
 たとえ人と同じ姿かたちをしていようとも、中身はまったくの別物である。
 淫魔のような一部の魔物が人の姿をしているのは、人を油断させるためにすぎない。人の心を利用するため、人の優しさにつけ入るためだ。
 人の言葉を用いることも、同じ理由だとされている。
 そういう風に進化してきた生き物なのだ。決して、人と同じ系譜をたどったわけではない。

 だから魔物を相手に、かわいそうなどと思ってはいけない。情けをかけてはいけない。
 その甘さは死へと直結する。そしてその死とは、自分一人だけの命の終わりを指すのではない。
 その魔物を生かしてしまうことによって生じるかもしれない、未来の多くの罪なき人々の命の終わり、そのすべてが含まれている。
 それを常に心に刻んで動け、と。
 その心構えは、冒険者になる一番始めに教えられることである。

 だからシィナはきっと、思っているのだ。
 この子を殺した方がいいと。
 それが冒険者としてやるべきことだと。正しいことなのだと。

 ……けれど。

「……わかってるよ、シィナ。でも……ごめん。それはできない」
「……?(え? な……なにが? わたしなんにも言ってないけど……え? ハロちゃん、なにをわかってるの? わたしなんにもわかってないよ……?)」
「シィナが初めから気がついてたのはわかってる。そう……シィナの想像通り、この子は淫魔だ。雨宿りできる場所を探して、この屋敷に忍び込もうとしていたらしい」
「……!?(えぇ!? い、淫魔なのこの子!? こんな小さい子が!? ぜ、全然気づかなかった……)」

 未だ無言を貫くシィナの方を見ず、気を失っている淫魔の少女をベッドに再度寝かせて、布団をかける。

「シィナの言いたいこと、その意図も、もちろんわかるよ。この子を殺した方がいいってことは……」
「……!?(え? こ、殺しちゃうの!? た、確かに冒険者ならそれが正しいのかもしれないけど……あと、わたしそんなこと言ってない……)」
「だけど、それはできない」

 シィナはなにやら、もの言いたげな様子で私の方を見つめてきていた。
 それも、当然だ。
 この子は私を魔眼の支配下に置き、シィナさえも同じように魅了にかけようとした。それは決して許されざることだ。
 殺すべきだと抗議するのは当然のことだ。
 ……けど。

「……この子、私が持ってきたサンドイッチをおいしそうに食べてくれたんだ。どうも、その時のこの子の顔が頭から離れてくれなくてね。バカなことだってわかってはいるけど……少し様子を見たい」
「……(あ、うん。わたしもそれがいいと思う。なんていうか、普通の魔物から感じる悪い気配みたいなものが全然なくて、そんな悪い子には見えないし……そもそもこの子がこんな風に気絶しちゃったの、私が剣を突きつけたせいだし……起きたら謝らなきゃ……)」
「ごめん。シィナは納得できないだろうけど……どうか許してほしい」
「…………ん(べ、別に反対してないんだけどな……ハロちゃん真剣な顔してるから、なんか言いづらい……結果は変わらないし、ここは水を差さずにもう一回頷いておこう……)」

 シィナはまた、こくりと静かに頷いた。

「ありがとう、シィナ」

 我ながら卑怯な言い方だった。
 シィナが内心反対していたとしても、私が懇願すれば頷いてくれるだろうことはわかっていた。

 シィナには今度、なにか埋め合わせのお礼でもしないといけないな。
 そんな風に思いつつ、私はとりあえず、シィナのおかげでなんとか淫魔の少女に(性的に)襲われずに済んだことに安堵のため息を吐いたのだった。
「……さて、様子を見たいとは言ったものの……どうするか」

 気絶してしまった淫魔の少女を再度ベッドに寝かせて、私は今、その横に置いたイスに座って今後の対応を考えていた。

 あれから少し時間が経っているので、この淫魔の少女の正体についてはすでにフィリアにも伝えてある。
 襲われた、ということで言った当初は「だ、だだ、大丈夫ですかっ!?」とものすごく心配されたものだが、特に外傷もないことを知るとフィリアは安心したように息を吐いていた。
 ……まあ外傷がないだけで、なにもされなかったかと言われたら……うん。されたんだけど……。
 なにをされたかなんて、恥ずかしくてさすがに言えない……。

 今は、淫魔の少女が目覚めた時に二人(主にシィナ)がいたら緊張するだろうということで、フィリアとシィナには席を外してもらっている。
 席を外してほしい、と言った時にフィリアが珍しく強く反抗してきたことが印象的だった。
 魔眼は事前に対策しておけば脅威ではないから大丈夫だと言うと渋々引き下がってくれたけど……やはり、相当に心配させてしまったようだ。

「うーん。悪い子ではない、気はするんだけど……」

 お礼、いや、お礼とは名ばかりだったけども……。
 お礼に体のことを教えてあげる、と言った時に、この子は経験がないと言っていた。淫魔だというのに。
 そしてその後、自分のことを出来損ないだとも。
 魔眼のことも気がかりだ。成熟しなければ完成しないはずの魔眼を、この子は完璧に使いこなしていた。

 なにか事情があるような匂いはぷんぷんとしている。それがどんなものなのかはまだわからないが……。

「なんにしても、話を聞いてみないことには始まらないな」

 手持ち無沙汰だったが、本を読むような気分でもなく、なんとはなしに淫魔の少女の寝顔を眺める。

 どうにも苦しそうな寝顔で、たまに寝返りを打ったり呻いたりしている。
 元々体調が良くなかったことももちろんだが、直前の出来事……シィナに殺されかけたことが原因の一端であることは想像に難くない。

 たまにシィナほんと怖いからね……可愛いことも間違いないんだけど。
 一緒に暮らしていることもあって私はもうだいぶ慣れてきたと思うが、初対面のこの子にとっては恐怖の権化以外のなにものでもなかっただろう。

 ずっと辛そうな寝顔を浮かべている淫魔の少女がなんだか不憫に思えて、頭をそっと撫でてみる。
 そうすると、少しだけ顔色が良くなった……ような気がした。本当に気がしただけのような気もする。

「……ん、ぅ……」

 呻き声とともに、淫魔の少女の瞼がぴくぴくと動く。
 今まさに目覚めようとしていることを悟り、頭を撫でていた手をそっと引っ込めた。

「…………」
「目が覚めたかな?」

 ぼうっと半分だけ瞼を開いた淫魔の少女に、笑顔を意識しながら声をかける。
 できるだけ警戒させないように配慮したつもりだが、まあ、あんなことがあった後である。警戒するななんていうのは無理な話だ。

 淫魔の少女は驚愕に目を見開いた後、思い出したようにキッと私を睨みつけ、魔眼の力を使ってきた。
 魅了の魔眼の強力さは身をもって知っているにせよ、それはあくまで無防備に食らってしまった場合に訪れる事態だ。
 すでに対策の魔法を施してある私に、もう魔眼は通用しない。

「淫魔は魅了の魔眼と精神魔法への適性の高さ、そして特殊な体質を除けば、特筆する力を持たない。正体がばれている今、君に私を害することはもうできないよ」
「…………」

 すでに魔眼が通じないことなんて、淫魔の少女も最初からわかっていたことのはずだ。
 彼女は魔眼の行使をやめると、どこか諦めたように私を見た。

「……わたしを、どうするつもり……?」
「どうする、か」

 どう答えたものか悩む私を見て、淫魔の少女はぶるりと体を震わせた。

「……聞いたこと、ある。淫魔は……高く売れる、って。普通の状態じゃ危険だから、とても手を出せないけど……目を潰して、足の腱を切って、回復阻害と隷属の術式をかけて……それから」
「淫魔は第一級の危険生物に指定されてる。第一級は、どんな魔物調教師でも飼うことは禁止されてるよ」
「……そんなの、いくらでももみ消せる……地位と力があれば…………そうでしょ……?」

 確かに、一部の汚れた貴族の中にはそういうことをやっている輩がいてもなんら不思議ではない。
 魔物以上に悪意に肥えた人間なんて探せばいくらでもいるだろう。

 でもなぁ。いくら魔物でも、さすがにそれはかわいそうというか……。
 いや、私もその気持ち自体はわかる。この少女は例外として、淫魔は基本的にナイスバディな美女らしいし、そんなメロンなお体を好きにしたいって気持ちは痛いほどわかる。わかるよ。
 ほんとわかる……わかりみが深い。
 結局のところ、私だってフィリアを体目的で買ったわけですし……。

 でもやっぱり、目を潰したりなんてのは明らかにやりすぎだ。
 その淫魔のように人形の生き物ではなくて、犬や猫のような愛玩動物であると仮定しても、その行為は虐待以外のなにものでもない。たとえ魔物が人類の敵で、淫魔がその魔物だとしても。
 人の都合で人に飼われ、その欲求を満たす奴隷となってもらう以上は、それ以外の部分ではできる限り幸せになってもらいたいというのが私の個人的な考えである。
 まあ、奴隷となってもらう以上はっていうか、私、買ったはずのフィリアにまだなんにもできてないんだけど……。
 いつになったらフィリアの体を好きにできる日が来るんだろう……あとシィナも……。

「もみ消せる、か。確かにそうかもね。私もそこそこ有名な自覚がある。君の存在をもみ消すこともできるだろう」

 そう言うと、少女の目が怯えたように変わった。
 そんな彼女に、私はできるだけ優しく見えるよう意識しながら、微笑んでみせる。

「だからきっと、君をここに匿うこともできるよ」
「かくま、う……?」
「信じてほしい。私は君を傷つけない。目を潰したりも、足の腱を切ったりもしない。約束する」

 目をまっすぐに見つめてそう言うと、彼女の表情が困惑で染まった。

「どうし、て……そんな……わ、わたしはあなたに、魔眼、を……き、危害を加え、て」
「前も言ったと思うけど、君が小さいから」
「小さい、から……?」
「子どものうちは間違いなんていくらでもある。年上の仕事はね、その間違いを指摘して、叱って、正して、最後に甘やかすことだ。子どもを見捨てることじゃない」
「なに、それ……わ、わたしは……魔物、だよ?」
「そうかもね。でも、普通の魔物はきっとそんな泣きそうな顔はしないよ。普通の淫魔は、今の私のこの甘い考えを利用しようと考える。でも私が見るにきっと、君は違うと思うから」

 動揺したように淫魔の少女の瞳が揺れる。
 心の中で、なにかに迷っているように見えた。
 そんな彼女に、そっと手を差し出してみる。
 彼女はじっとそれを見下ろして、恐る恐る手を伸ばしては、引っ込める。
 そんなことを何度も繰り返す彼女に手を差し伸べたまま根気強く待っていると、やがて彼女の手が私の手に触れた。
 途端、彼女の手がビクッと跳ねて、また引っ込んだ。でもそれからまた、手を伸ばして触れてきた。
 やがて、お互いの手が重なる。彼女の方から、ぎゅぅっと重ねてきた。

「……あたた、かい……」

 にぎにぎと、手を握る力を強めたり、弱めたり。

「う、うぅ……ひ、っぐ……」

 しばらく好きにさせていると、彼女はこらえきれなくなったように、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 うぅむ……予感通りと言うべきか。やはりこの子は、話に聞いていた淫魔ほど人を害そうとする意志を持っていないようだった。ただ必死に自分の身を守ろうとした結果、ああやって私に魔眼を使っただけで。
 きっとその精神も、見た目と変わらずまだ子どもなのだろう。

 だとすれば、たった一人で何日も、冒険者の鋭い視線を気にしながら街中を逃げ回ることは相当な心の負担だったはずだ。
 それに加え、ついさきほどは実際に殺されそうにもなったのだから、今の今まで怖くて怖くてしかたがなかったに違いない。

 その気持ちは私にも少しだけわかる。
 なにせ私もなんの脈絡もなく、唐突にこの世界に投げ出された身の上だ。

 私もこの世界に来た当初はわからないことだらけで怖かった、ような気がする。
 ……怖かった、はず。たぶん……えっと、不安だった? はずだ。
 ……あんまり自信がない。

 というのも、私はなんだかんだ私の魔法の師匠たる少女にいつも守られていたし、四六時中一緒だったから寂しいと感じることもなかったし……。
 だからぶっちゃけそんなに不安だったような記憶がない。
 全然不安感じないくらい過保護だったからなぁ……。
 あくまであの子自身の個人的な都合で守られていただけで、微塵も好かれていたわけではなかっただろうことが悲しいところだけど……。

 なんにせよ一人ではないという事実は、それだけで心の隙間を埋めてくれるものだ。
 かつて私のそばにあの子がいてくれたように、この淫魔の少女にとってもまた私がその隙間を埋める存在になれたら、なんて思うのは自惚れだろうか。

「……落ちついた?」
「……う、ん」

 ようやく、と言うべきか。
 最初に会ってからずっと警戒されていた様子だったが、ようやく彼女は私を少なからず信用してくれたようで、彼女のこわばった体から力が抜けていくのを感じた。

「……あなたは……」
「ん?」
「あなたは……わたしが、魔物だってわかっても……優しくして、くれるんだね」
「んー、そうだね」
「それも、わたしが小さい……から?」
「それもあるけど……うーん。一番は、サンドイッチをおいしそうに食べてくれたからかな」
「……ふふ。なに、それ」
「あのサンドイッチのふんわり柔らかいパン、探すの大変だったんだ。それをおいしそうに食べてくれたのが嬉しくてね」
「ふふ、ふふふ……おかしな、人」

 警戒がなくなったからか、初めて彼女の表情が笑顔に変わる。
 元々、彼女の容姿は凄まじく良い。それこそ、将来はすれ違った十人が十人全員振り向くような美人になると迷いなく言えるくらいに。
 そんな彼女が不意に見せた、笑顔。
 妖艶さは無邪気さに。一輪の花のような愛らしい綻びと、ぷっくりと色鮮やかに唇が描く美しい弧に、ほんの一瞬、目を奪われる。

「……どうした、の?」
「……えっ? あ、い、いやっ、べ、べつに」

 ……あ、あれ?
 もしかして今、顔赤い?

 ち、違うぞっ? 違う違う。断じて違う。
 ドキッとなんかしてない。

 私のストライクゾーンはフィリアくらいの子だ。シィナもその範疇に収まってる。
 でも、この子は違う。

 だってどう見ても一〇歳前後の子どもだよ? つるつるぺったんだよ?
 こんな幼気(いたいけ)な子にドキドキするなんて、それは完全にアウトだ。もう変態だ。そんな犯罪者予備軍は逮捕していい。
 私は違う。間違いなく絶対に、断じて違う。
 今のなんか心臓が跳ねたような感じは、あれだ。
 あの……あれ。あれだ。あの、あれである。
 そう、あれなのだ。あれ以外のなにものでもない。

 ……とにかく私はロリコンじゃない!

「こほんっ! えっと……一つ、君にお願いがあるんだ」
「おねが、い?」

 ベッドの上に寝転がりながら、こてん、とわずかに小首を傾ける仕草。

「君のことを、もっと教えてほしい。君は普通の淫魔とは明らかに違う。私に使った魔眼だって、本来君のような幼い淫魔が使えるレベルのものじゃなかった。その理由と……それから、今までどんなことがあったのか、これからどうしたいのか……君の気持ちを知りたいんだ」
「……わたしの気持ち……」

 当たり前だが、これは明るい話にはならない。
 今回、私たち冒険者が街中に潜む淫魔の捜索を行っていたのは、別のAランクチームが淫魔を討伐した際に討ち漏らしが発生し、その痕跡が街へと続いていたからだ。
 その討ち漏らしこそが今目の前にいる、この淫魔の少女。

 彼女にも仲間や家族がいたはずだ。そのすべてを私たち冒険者が殺した。
 本来なら、憎まれてもおかしくない。

 そういう暗い話は苦手なのだけども……。

「……わかった。全部、話す……わたしのこと……」
「ありがとう」
「お礼を言わなきゃいけないのは、たぶん……わたしの方だから」

 淫魔の少女は心に整理をつけるかのように、そっと目を閉じる。
 それからしばらくして瞼を開けると、静かに語り出した。
『新しい私の子、あなたの誕生を祝福するわ。その高貴なる魔眼の力……いつかあなたがそれを存分に振るう日を楽しみにしてるから』

 一番古い記憶。最初に思い出せるのは、母のその言葉だ。

 成熟した淫魔は、異性を魅了する肉体と完成された魔眼をもって、他者を容易に支配し食い物にすることができる。
 けれど、生まれたばかりの頃はそううまくもいかないものだ。
 淫魔は人間と違って、産まれてから数年で成熟する。しかしその成熟するまでの、知識も力もないその数年の間はただ生きることも難しい。
 単純に力がないから、他の魔物に当たり前のように負けて食べられる。人間に対しての知識が不足しているから、うまく騙せない。同様に人の生活に溶け込もうとしても簡単に正体がバレて捕まる。一人ではなにもできない。

 だから淫魔は基本的に群れを作って動く。
 成熟した淫魔は群れのために餌を取ってきたり、人を騙し異性を魅了する方法を幼子に教える。
 そして幼子は一歩も外に出ることなく知識と力を蓄えて、やがて成熟した後は自分がそうされたように子どもに力と知識を授ける。

 わたしもそうだった。
 かつて大きな災害で廃墟と化した小さな街。その教会の残骸の地下に住処を作って、わたしは成熟した淫魔の加護を受けながら生活していた。

『あなたは少し成長が遅いようね』

 その言葉を、よく言われたものだ。
 成長が遅い。小さい。大きくならない。
 同じ時期に産まれた他の子どもたちはすでに人間で言う十代前半くらいの年頃になっているのに、わたしだけ一桁程度の体で止まったままなのだ。
 そのくせして魔眼だけは他の子と同じように成長していく。

 こういうことはたまにあることなのだという。
 淫魔は人間やエルフなどの人類から、犬や猫と言った獣、そして魔物に至るまで、様々な種族との繁殖が可能な体を持っている。
 そうして産まれる子どもには淫魔の特徴が反映されることがほとんどだ。それだけ淫魔の遺伝子は強いから。
 でも稀に、もう一方の特徴が現れる場合がある。
 わたしはおそらくわたしの父に当たるドワーフ族の特徴が中途半端に受け継がれてしまったのだろうと、成熟した淫魔たちが話していた。
 ドワーフ族は生涯を通して体が小さいままだ。幼子のような体躯と、その見た目に反した強靭な肉体と精神力が特徴の種族。
 わたしにはそんな力も精神もなく、ただ、体が小さいという要素だけが残ってしまっていて――。

 わたしは、出来損ないの落ちこぼれだった。

 こんな体では異性を魅了することなんてできないし、ろくに人も騙せない。なにも、群れの役に立てない。
 やがて他の子たちが成熟してくると、育ててくれていた淫魔たちから役立たずと罵声を浴びせられるようになった。
 仲がよかった仲間からも、次第に蔑まれるようになった。
 でも勝手に外に逃げられると、捕まったわたしから情報が漏れて住処が割れてしまう危険があるから、まるで監禁するようにわたしを地下深くに押し込めたまま。

 幸いだったのは、同族を殺さない程度には淫魔という魔物に情があったことだろうか。
 何度死んだ方がいいのではと考えたのか、数知れないけれど。

『こうして……女の子は、王子さまと結ばれて……幸せに暮らしましたとさ……』

 そんなわたしの唯一の楽しみは、仲間たちが魔眼で支配し、仲間が住処に連れ帰ってきた一人の人間の女性(食糧)が持っていた、一冊の本を読むことだった。
 皆から嫌われていた女の子が、お忍びで街に降りてきていた王子さまと出会って、苦難の末に結ばれる、そんなおとぎ話。

 目が覚めるようだった。
 人を騙すことばかり教わってきたから。
 優しさは甘さ。もっともつけ入る隙がある、愚かな感情。優しい人ほど操りやすい。そう教わってきたから。
 嫌われて心が荒んでいた女の子が、王子さまの優しさに触れて、誰かに優しくすることの大切さを覚えて、人を愛することを覚えて……。
 すべてが、わたしがこれまで教わったものと真逆のものだった。

 何度も何度も読み直した。
 何度読み直しても、飽きることはなかった。

『……お母さん。お母さんは……誰かを愛したこと、ある……?』

 答えてくれなかった。無視された。
 彼女はもうわたしを、娘とは思っていないようだった。

『ねえ、あなたたちは……誰かを、愛したことある……?』

 昔は仲がよかった仲間たちも、同じだ。頭がおかしいやつを見るような目で見られた。
 いつものように邪魔者扱いされて、殴られて、蹴られて。

『……わたしにも……人を、愛せる日が……来るのかな…………誰かが、わたしを愛してくれるような……そんな……』

 わたしには、名前がない。
 淫魔とは、そういうものだ。成熟し、他者を魔眼で支配し初めて住処に連れ帰ってきた時、やっと一人の淫魔として認められて、名乗ることを許される。その時の自分の名前は、自分自身で考える。
 それは親が子に、そして子が親に愛情を持たないようにするためなのだろう。
 優しさは甘さだ。一番つけ入る隙間のある愚かな感情だ。
 だから、子を愛し、親を慕う。そんな感情を淫魔が覚える必要はない。

 仲間たちと違って、誰かを愛したい……誰かに愛されたいと願う。
 そんなわたしは、やっぱり、本当に出来損ないだったんだと思う。

『――君、大丈夫? ちゃんと意識はある?』

 気がついた時、仲間たちは全員殺されていた。
 冒険者がわたしたちの動きを察知し、住処を突き止めて、襲撃をかけてきた結果だった。
 たくさんの人たちを食い物にしてきたから、きっと自業自得だ。
 正気を失い、命令されたこと以外なにもできない人形のような人たちがたくさんいて。
 同じ人に食糧を与えて使い回すより、新しく支配して連れてきた方が楽だから、飽きて捨てられた無残な屍もどれだけあるかもわからない。

 涙が出た。わたしもこれから仲間たちと同じ末路をたどるのだと思うと、涙が止まらなかった。
 嫌だ。死にたくない。死にたくないよ。
 どうしてこんな風に思うんだろう。死んだ方がいいんじゃって、何度も考えてたはずなのに。

『ねえ! そっちは終わった?』
『ああ! こっちにはもう淫魔はいない!』

 このままわたしも同じように殺されるのだろうと思っていたが、どうにも様子がおかしい。

『あんなにたくさんの人を……しまいにはこんな小さい子まで食い物にしようとするなんて……許せない』

 言っていることがおかしい。
 わたしも淫魔なのに、まるでいないかのように扱われている。

 ……もしかして、わたし……ばれてない? 淫魔だってこと……。
 他の淫魔と違って、小さいから……傷だらけだから。
 ボロボロな格好だけれど、淫魔の特徴である体の紋様はなんとか隠せているから。
 捕まって連れてこられた、人間の子どもだと思われている?

 だとしたら……。

『……こっちを、見て』
『あ、君、意識が』
『あなたは、わたしの虜になる――――』

 逃げた。母と、そして仲間たちの無残な亡骸を置き去りにして、一人で街まで走って逃げた。
 空は青いと聞いていたけれど、なんだか灰色の靄のようなものがかかっていて、全然青くなかった。嘘つき。

 街に忍び込むことは案外簡単だった。これでも淫魔の端くれだ。お人好しの門番を騙して、油断させて、魅了にかけるくらいのことは容易にできる。
 問題は、わたしの正体とわたしが街中に忍び込んだことが発覚して、外に出られなくなったことだけど……。

 わたしを探す冒険者から、逃げて逃げて逃げ回って、もう限界だって思い始めた頃、嵐がやってきた。
 その嵐を何事もなく凌げそうな、大きな家。そこに忍び込もうとして、罠にかかって気絶して……そうしてわたしは、あなたと出会った。
 とっても愚かでとっても甘い、あなたに。





「これが、わたしのすべて……わたしは、あなたが思っているような子どもじゃない。これでも成熟した淫魔なの」

 淫魔の少女は時折辛そうにしながらも、最後には神妙な顔でそう締めくくった。
 明るい話にはならないことは重々承知していたものの、想像以上に重たい話だった。

 傷つけられ監禁されて、死にたいくらいの劣等感と孤独感に苛まれながらも、希望を捨てられない。
 親に愛情を求めても、子だなんて思われてなくて。友と呼べた仲間たちにも見捨てられ、誰からも愛されない。

 思わず抱きしめてあげたくなる。

 ……それにしても、なんで私の周りには重い過去を持った子ばっかり集まるんだ?
 フィリアは親に売られたって言ってたし、シィナは実際に聞いたことはないけどまず間違いなく過酷な経験をしてきている。

 なぜこんな子たちばかりが……あ、いや。そういえばフィリアは私が自分の意思で買ったんだった。
 十代の女の子が奴隷になんてなっている時点で、なにか重い事情があるのは明白だ。
 なのに私は特になにも考えず欲に身を任せた。
 シィナだってやばい噂はいくらでも立ってたのに、焚き火に突っ込む羽虫のように私が自分から近づいて行ったから今の関係がある。

 私の周りに重い過去を持った子が集まってくるのは、もしかしなくても私の安易な行動のせいでは……?
 いや、いいんだけどね? フィリアもシィナも根は良い子で、あととても可愛いし。すごく可愛い。

 まあ、それはそれとして。

「……そうか。わかった……話してくれてありがとう」

 ひとまず、これからやるべきことは固まった。
 万が一この子が悪い魔物だったら、なんてこともほんのわずかに懸念していたが、もうその必要もないようだ。

 この子を街の外にこっそり逃がしたところで、遠くないうちに冒険者か魔物に殺されてしまうのが関の山だろう。
 この家で匿う。やっぱりたぶん、それが一番いい。
 ただそうなると、ギルドの方にどう報告するかが問題になる。

 うーむ……不覚を取られて外に逃がしてしまったってことにでもしておく?
 いや、私は仮にもSランクの冒険者だ。淫魔一匹程度に不覚を取られたと言っても信じてもらえるかどうか……。
 まあ本当に不覚取られたんだけど……シィナがいなかったらどうなっていたかわからない。

 報告しない、という選択肢はなかった。
 黙っていれば確かにしばらくは淫魔の少女が見つかることはないだろうが、それだけうまく潜伏しているとして、調査がどんどん大掛かりになっていくことが目に見えている。
 他の街にも救援要請を出して、念入りな捜索が始まる。そこまで大規模になると、いつまで隠していられるかわからないし、見つかった時にどれほど糾弾されるかもわからない。
 私だけ非難されるならいいが、その被害がフィリアやシィナ、淫魔の少女にまで及ぶことだけは避けなくてはならない。

 さきほどは存在をもみ消して匿うこともできるなんて言い切ったけれど、実際問題、あれはただの見栄に等しい。
 一応それ相応の影響力があるとは自覚している。とは言えしかし、淫魔の存在をもみ消すともなると、そう簡単にはいかないのが現実だ。

 それほどまでに淫魔は危険な存在なのだ。
 たった一匹だとしても、その気になれば、街を崩壊させる規模の無残な殺し合いさえ引き起こすことができてしまうから。

 ……もういっそのこと、街に潜んだ淫魔は退治してしまったことにしてしまう?
 証拠がなくとも、私なら痕跡すら残さずに消滅させたと言っても信じてもらえるだろう。そういう魔法も確かにある。

 かなり良い案だと思うのだが、あまりしっくりこない。
 というのも、この淫魔の少女が今まで棲家で閉じ込められていた境遇であることが、喉に刺さった小骨のように引っかかっている。
 退治したと嘘を言うとなると、見つからないように家の中でしか生活させてあげられない。それではかつての境遇とあまり変わらない気がした。
 欲張りなことを言うが、この子が気兼ねなく外で生活してもなにも言われない、そんな風にすることはできないだろうか。

「……怒ら、ないの?」

 腕を組み、先のことについて思考を巡らせていると、沈黙を遮って、淫魔の少女が不安そうな声を上げた。

「怒るって、なにをかな」
「……あなたは、わたしが子どもだって言った。でも、わたしは子どもじゃない……成熟した淫魔なんだって、言ったはず」
「ああ、うん。みたいだね」
「みたいだね、じゃなくて……わたしが魔眼を使ったこと……危害を加えた、こと。あなたはわたしが子どもだから許すって言った……でも、わたしは」

 子どもじゃないなら、怒る。拒絶される。
 そんな風に思っていたようだ。瞳の奥に、恐怖の色が見える。

 けれどその姿はどう見ても、怯えた子ども以外のなにものでもなかった。
 ここで甘やかすのは簡単だ。
 でもそれじゃあたぶん、この子自身が納得しないだろうと感じた。

「んー……そうだね。ちょっと、こっちにおいで」

 手招きをすると、淫魔の少女は最初わずかに躊躇しながらも、横になったまま体を私の方に近づけてくる。
 そんな彼女の額に、手を伸ばした。

 殴られるとでも思ったのか、ぎゅっと目を瞑る。
 そんな彼女の頬を摘んで、ぐねーっと抓った。

「はい、お仕置き終わり」
「……お、終わ、り?」
「そう。終わり。痛かったよね?」
「ちょ、ちょっとだけ……で、でもっ、こんなの……」

 なんだか納得がいかない、と言った表情をしている。
 でも私はもうこれ以上はやる意味を感じなかった。

 この子は自分が悪いことをやったとわかっている。悪いことをしたから罰を受けなきゃいけないと、そう思っている。
 そうでなきゃ、自分が成熟した淫魔だなんて言わない。
 適当にごまかして、自分はただの子どもだっていう風に過去を捏造すればよかった。

 しっかり反省して、怯えながらも自分は怒られなきゃいけないと思っているような幼気な少女に与える罰としては、これくらいでじゅうぶんなはずだ。
 っていうかこれ以上傷つけるのは、ちょっともう私の方が耐えられそうにない。

「わ、わたしは……あなたになら、なにをされてもいい。あなたはわたしを……受け入れて、くれた。だからもっと、ひどいこと……したって……」

 そんな怯えながら言われても……。

 私はもう特になにもするつもりはないのだが、まだこの子は納得しきれていないようだ。
 今の私の気持ちをどう伝えたものか……。
 そんな風に思いかけた時に、天啓のように私は閃いた。 

 ――この状況……似ている。
 あの本、『オークと女騎士』のワンシーンに……!

 もはや帰る場所も行く宛もなく、かつての仲間たちもいなくなって、死ぬことを望んだオーク。
 一方で、オークがなくしたすべてのものを持っている女騎士。

 別にこの淫魔の少女は死ぬことを望んでいるわけではないけれど、状況的にはかなり近い。

 女騎士が言ったあのセリフなら、きっと私の気持ちも伝わるはずだ!

 ……う、うーん。
 いやでも……これ、もしかして私が本のセリフを引用したいって思ってるだけなんじゃ……?
 真剣に自分の過去を告白してくれたこの子にそんな半端な気持ちで接するのは失礼な気がする……。

 うぐぐ……で、でも、なんというか……一度本のことを思い浮かべちゃったせいか、それ以外に私の気持ちを伝えられる手段が思いつかなくなってしまった。
 このまま沈黙を貫いていたら、間違いなくこの子は不安がる。

 よ、よし……言おう。
 言ってみよう!

「一つ、聞いてもいいかな」

 私が改めて声をかけると、淫魔の少女はびくっと体を震わせて、私を見上げた。

「な、に……?」
「君は、私のことをどう思ってる?」
「……かけがえのない、人。初めてわたしのことを、ちゃんと見てくれた……温かい人」
「……そうか。なら、ごめん。私じゃ君の望みは叶えられない」

 自嘲気味に笑いながら、遠くを見るような目をする。

「私はさ、君が思ってるほど強くはないんだ。優しいわけでもない。人一倍寂しがり屋ってだけでさ」
「寂し、い……?」
「一人が嫌なんだ。だから、誰かに必要とされたい。そばにいてほしい。そう思う」
「一人が……嫌……」
「落胆した?」
「そ、そんなことないっ……!」

 力強く否定してくれる少女に微笑んで、そっと、私の手を彼女の手に重ねた。

「私は弱いから、守るものがないと安心できないんだよ。だって、守ってさえいられれば、いつまでもその人のそばにいられる。一人にならないで済む……その本質は、他人じゃなくて自分を守りたいだけの、とんだ卑怯者だ」
「それは……卑怯、なんかじゃ」
「卑怯だよ。守るだのなんだのうそぶいておいて、依存してるのは私の方なんだから」
「……」

 私を見つめる、どこか悲しげな彼女の目は、そんな風に自分を卑下しないでほしい、と。そう言ってくれているようにも思えた。

「ごめんね。君は、私のことをかけがえのない人だと言ってくれたから。だからそんな君に、私はこれ以上泣いてほしくない。たとえ君自身が自分が傷つくことを望んでいたとしても……それを見て平気で笑っていられるほど、私は強くない」
「それ、は」
「だから、もし君が、私のことを本当に思ってくれているのなら……どうか、お願いだ」

 重ねていた手をきゅっと握って、彼女の瞳を正面から見ながら、微笑んだ。

「私に君を守らせてほしい。弱い私の心を、君に守ってほしい。君の隣に私をいさせてほしい」
「――――」
「ダメ……かな」

 本当に、私は卑怯だ。
 卑怯者だと自嘲してみせて、相手自身にそれは違うのだと言わせておいてから、こんなやり方で自分の思いを伝えるのだから。
 こんな言い方をされたら、断れない。拒絶できない。
 それをわかっていながら、私は。

 ――とか、そんなモノローグが本にあったのだ。
 ここ本当に良いシーンだったなぁ。
 女騎士が一人の女として好意を、そして騎士として守りたい思いを、自分の気持ちをオークにまっすぐに伝えるシーン……!

 ふふふ……まさかこれを言える日が来るとは……不謹慎かもだけど、なんだか少し感慨深い。
 あとはちょっとお茶目を入れる感じで、「なんてね」なんて笑いながら、本のセリフを引用したことをこの子に正直に伝えよう。
 それから、たとえ引用した言葉だとしても、今言ったことがちゃんと私の本心だってことも伝えなくては。

「ダメ……じゃ、ない」

 そんな風に私が続けようとした直前、ぽつりと、零れ落ちるような震える声が部屋に響いた。
 思わず淫魔の少女の顔を見て、私は次の句を口にすることができなくなった。

 彼女は目を開けたまま、泣いていた。
 次々にこぼれ落ちる雫が、布団に染みを作る。
 それを彼女は拭おうとはしない。ただ、今はそれよりも大事なことがあるのだとでも言うように、純粋な眼差しを私の方へまっすぐに注いだまま、一所懸命に震える唇を開いた。

「いたいっ。わたしも、あなたといたい……! わたしを見つけてくれた、あなたと……!」

 私の方から重ねたはずの手が、いつの間にか彼女が入れている力の方が強くなっていて、私を離さない。

「……いたいの……一緒に……これから……もっと、ずっと……」

 何度も何度も、涙声で自分の気持ちを吐露する。
 そればっかりで、いつまで経っても涙を拭おうとはしないものだから、なんとなく私が指で雫を受け止めてみると、その腕をぎゅっと両手で掴まれて、布団の中に引きずり込まれた。

「わっ……!」
「いっ、しょ……だか、ら……」

 やはり、疲れていたのだろう。今日はいろいろなことがあった。

 私の腕を抱きしめたことを境に、泣きわめいていた彼女の声が段々と小さくなっていった。
 次第に瞼も閉じ、数秒とせずに寝息を立て始める。
 その寝顔は、シィナから剣の切っ先を首に突きつけられて気絶した時の苦しそうなものとは打って変わって、心から安心したような可愛らしいものだ。

 なんだか微笑ましくなって、抱きしめられている方とは逆の手で、少女の頭をそっと撫でる。
 最初はこれでもかというほど警戒されていたものだが、どうやら私は彼女の信頼を獲得することに成功したようだ。

 まだいろいろと問題は残っているが……とりあえず目下の問題は……。

「……本のこと言いそびれた……」

 ……話した直後ならばともかく、この安心し切ったような寝顔を見て、またこの子が目を覚ました後に「あれ実は本のセリフでした!」……なんて言うわけにもいかない。
 一応あれは私の本心でもあるから、問題はない……はずだけど。なんか罪悪感が……。

「……なんかこれ、浮気者の思考に近いような気がする……」

 こう、あれだ。
 すでに付き合っている子がいるのに新しい子に告白をされて、その子を悲しませたくないからって自分勝手な理屈で告白をオーケーして、嘘をつきながら二股をかけているみたいな?
 そんな感じの嘘の付き方だ、これ。
 ……私最低だな……そんなモテたことないけどさ……。

 でもやっぱりこのまま嘘が増えていく現状は、なんとなくだがまずい気がするのだ。
 このままだと勘違いに勘違いが重なって、いつか私の意図しない方に話が転んでいきそうな予感が……。
 い、いや、さすがにそんな都合の悪すぎる偶然はないかな。うん、ない。ないはず。ないでほしい。

「とりあえず、いつかは……うん。いつかは、ちゃんと伝えよう。この子が本当に立ち直って、なに言われても大丈夫なくらいに精神が成長したくらいに……うん、その時くらいに言おう」

 ……その時になるまでに新しい嘘や勘違いが増えていないことを、切に願う。
 あれからほんの数十分ほどでフィリアがやってきて、昼食ができたことを知らせてくれた。
 私以外の人物にはまだ警戒しているのだろう。それまでずっと寝ていた淫魔の少女も、フィリアが訪ねてきた際にはノック音でハッとしたように飛び起きて、フィリアが話している間も、終始私の背中に隠れたままだった。

「……フィリアが怖い?」

 私と淫魔の少女を食堂まで先導すると、フィリアはシィナを呼びに行った。
 だから今はこの場には私と淫魔の少女しかいない。
 私の問いかけに、淫魔の少女は少し逡巡した後、小さく首を横に振る。

「あなたが信頼してる人だって、わかるから……大丈夫」
「……そうか」

 隣に座る淫魔の少女の頭を軽く撫でる。
 少女の手はかすかに震えていたが、本人が大丈夫だと言うのなら気づかないふりをしてあげた方がいいだろう。

 それにしても……うーむむ、どーしたもんかなぁ……。
 正直なところ、私はフィリアなら淫魔の少女とも簡単に打ち解けてくれるのではないかと踏んでいた。
 なにせフィリアには、あのシィナともなんだかんだうまくやってくれている実績がある。
 たとえ淫魔の少女がフィリアを警戒していたのだとしても、フィリア自身が持つ優しい心根をもって、案外私なんかよりもすんなり仲良くなってしまうのではないか、と。そんな風に楽観視していた。
 しかしどうにも、現実はそううまくことは運ばないようだ。

 部屋に尋ねてきた時、それから食堂へ向かう最中の様子を見た限り、どうにもフィリア自身が淫魔の少女に対してあまり良い印象を抱いていないように思えた。
 例を上げるなら、いつものフィリアなら調子が悪く寝込んでいた相手には「大丈夫ですか?」と心配する声をかけていたはずだが、淫魔の少女には終始ノータッチを貫いていた。
 私に危害を加えた……という一点が、彼女の心にしこりを残してしまっているのだろう。

 もちろんフィリアのことだから、なにかしかたがない事情があったことも察してくれているだろうけれど……。

「うーむ……」

 普段のフィリアなら普通に仲良くなってくれたはずだし、あとでフィリアと二人で話をしないといけないかもしれないな。ちゃんと話し合えばフィリアならきっとわかってくれる。
 むしろ今一番厄介なのは、フィリアの方ではなく……。

「お師匠さま。シィナちゃん連れてきました」
「……ひっ!?」

 フィリアに連れられてやってきたシィナを見た途端、淫魔の少女は全身をビクッと跳ねさせると、全速力で席を立って私の後ろに隠れた。
 私の服の裾をシワが残りそうなくらい強く掴んで、可哀想なくらい小刻みに体を震わせている。

「む……(むぅ。やっぱり怯えられてる……しょうがないよね。あんなことしちゃった後なんだし……)」
「……み、見ない、で…………お、お願い……お願い、し、します……」
「……(うぐっ。そんな涙目で言わないでー……ここまで怯えられるのは久しぶりだなぁ。ハロちゃんに会う前を思い出すよー……)」

 はい……目下一番の問題はこれなの。
 どうすればいいのこれ。

 淫魔の少女から漏れる、怯え混じりの声。
 それによって紡がれる「お願いします」の言葉は、単なるお願いというよりも、圧倒的上位の存在に対する懇願の意味合いが強かった。

「…………(謝りたかったけど……今は、下手に話しかけない方がいいよね。全部わたしのせいだからしかたないけど……せっかく仲良くなれるかもしれないって思ったのに……うぅ)」

 シィナは初めこそ私の後ろに隠れた淫魔の少女をジーッと見つめていたが、やがて興味をなくしたようにプイッと視線を外す。
 それからなにも気にしていないかのような普段と変わらぬ足取りで自分の席へ足を向けた。

 フィリアと違って、シィナはいつも通りだな……。

 もとよりシィナには、血で血を洗うかのような過酷な世界を生き抜いてきたであろう凄惨な人生経験がある。
 まあ実際にシィナの口から聞いたことはないのだが、あの明らかに正気を失った血走ったヤバい目を見ればわかる。間違いない。
 そんな彼女にしてみれば、命のやり取りの後でその相手と食卓を囲むくらいは、どうってことない日常の一部程度に過ぎないのかもしれない。

 なんとなく、どことなく耳が垂れ下がって、あんまり元気がないようにも見えなくもなかったが……まあ気のせいだろう。シィナだし。

「……はぁ……は、ぁ……」

 ふと見てみれば、淫魔の少女は顔面蒼白で荒い息を吐き、多量の汗を流している。
 シィナのことがホントマジで死ぬほど怖いのだろう。というか実際少し前に死にかけた。
 きっと今、淫魔の少女の頭では剣を首に振るわれかけたあの時の光景と感覚が幾度もフラッシュバックしている。

 尋常ではない怯え具合だったものだから、さすがに見兼ねて、フィリアやシィナには見えないようなジェスチャーで「他の場所で食べる?」と聞いてみる。
 しかし淫魔の少女はふるふると頭を振って、静かに深呼吸を始めた。

 まだ体調が回復し切っているわけではないのだから無理はしてほしくなかったが、せっかくの頑張りを無下にもできない。

 最近はそこそこ慣れてきたにせよ、私だってシィナはまだちょっと、いやそこそこ……まあ、うん。かなり相当怖いしな……。
 たまにあの、まるで死んだ人間が目を見開いたまま笑ってるみたいなおぞましい笑顔でじーっと見られてることに気づくとぞわぞわって怖気が走る。
 ほんとヤバい目で笑い始めるのだ。
 いや、普通に笑ってくれることもたまに……稀に……片手で数えられるくらいならあるし、それは年相応に可愛らしいんだけど……。

 シィナへの恐怖の対処方法なんて私知らない。こればかりは私ではどうしようもなかった。

「……そういえば」

 フィリアはなにやら考え込む顔を伏せて、シィナは黙々と食べ進め、淫魔の少女はシィナの何気ない所作に時折ビクつきながら、ゆっくりと手を進めていた。
 今までにないくらい静かで、居心地も良いとは言いがたい時間の中、このままではいけないと思い直し、口を開く。

「私たちはこれから君をどう呼べばいいのかな」

 淫魔の少女に顔を向けて、そう問いかける。
 ただ、いまいち要領を得ない質問だったようだ。淫魔の少女は目を瞬かせる。

「どう……って?」
「君の話を聞いた限り、君には名前がないようだったから。これから一緒に暮らすんだ。いつまでも、君、だなんて他人行儀な呼び方はどうかなと思って」

 これは元々、呼び方を共通させるためにも全員が集まったら聞こうと思っていたことでもあった。
 淫魔の少女は少し過去を思い返すように虚空を見つめる。

「……仲間たちからは、出来損ないとか、役立たずとか、ゴミとか……呼ばれてた」
「…………」

 空気が一気に重くなったんですが……。
 いや、まあ、うん、そうか……そうなるかぁ……考えてみれば、当然と言えば当然だけど……。

 フィリアも驚いたように目を見開いて、あのシィナでさえ一瞬食事の手を止めている。
 私もどうにもいたたまれなくて、半ば無意識に伸びた手が淫魔の少女の頭を撫でていた。
 淫魔の少女は大人しく私を受け入れて、嬉しそうに頬を緩めている。

 ともかく、今この子が挙げた呼び名で呼ぶことは、さすがにはばかられる。
 そんなもので呼ぶくらいなら名無しの方がまだマシだ。

 どうしたものかと首をひねっていると、おずおずとフィリアが手を上げた。

「あの……お師匠さまがお名前を決めてあげるのはいかがでしょうか」
「ん。そうだね。この際、それがいいか」
「え……で、でも……」

 淫魔の少女はおろおろと、私の服の袖を掴んだ。

「わたし……一人前の淫魔じゃないから。名前、つけてもらうほどの価値なんて……」
「それは君が自分を知らないだけだよ。どんなに蔑まれ、虐げられても、人を思う心を忘れない。君の価値は、君のかつての仲間たちの目には最期まで映らなかったものだ」
「わたしの価値……?」
「それに私の名前も、昔、魔法を教わった師匠の子からもらったものだしね。その時、なんだかんだ思いつつも嬉しかったんだ」
「……」
「だから、いいかな。私に君の名前を決めさせてもらっても……」

 淫魔の少女は、最初こそ逡巡するように視線をさまよわせていたが、やがて私と目を合わせると、こくりと確かに頷いた。

「ありがとう。実はもう、いいんじゃないかって思ってる名前が一つあってね……」

 そこでちょっともったいぶってみると、淫魔の少女は続きを待ちわびるように私を上目で見つめる。
 さきほどまでそんな価値はないと卑下していたのに、いざその時になると期待を隠せないようだ。
 過去を語った時、本人はもう子どもじゃないなんて言っていたくせに、今の彼女の姿は見た目相応の可愛らしい少女だ。
 なんとなく、くすりと笑みがこぼれる。

「アモル、なんてどうかな」
「アモル……」
「愛、っていう意味だよ。ちょっと女の子っぽくないかもしれないけど……別の名前の方がいいかな」
「う、ううんっ! そんなことない! これがいい! アモルが、いい!」

 否定的になりかけた私に、淫魔の少女が席を立って食い気味に詰め寄る。
 控えめな今までとは打って変わった力強い主張に思わず頷くと、淫魔の少女は心の底からほっとしたように息をついて、すとんっと再びイスに腰を下ろした。
 それから胸の前に手を当てて、アモル、アモル、と繰り返し呟き始める。

「わたしは、アモル……わたしの名前……わたしだけの……」
「……気に入ってもらえたみたいでよかった」

 こんなに喜んでもらえると、こちらまで嬉しくなってくるというものだ。

 それからまた食事に戻ったが、淫魔の少女――アモルの機嫌がよくなったおかげで、フィリアへの苦手意識やシィナへの恐怖も相対的に低くなったのだろう。ほんの少しだけ空気が和らいだように感じた。
 とは言え、状況自体はほとんど変わっていないから、できる限り早急に手を打たないといけないことには変わりないが。

 まだ体調が悪いこともあり、アモルが食べる速度は非常に遅く、食べ終わる頃にはお風呂の湯を入れ終わっていた。
 入れ終わるというか、魔法でお湯をダバーッと投入するだけなのだが……。
 最近はこれを修行も兼ねてフィリアにやってもらっている。お湯の魔法は火の魔法と水の魔法を混合させなくてはいけないから、実はこれが案外難しいのだ。しかも人が心地よく温まれる温度への調整となると結構な高難易度である。
 ……まあ、フィリアは一週間もかからずできるようになったが……。
 しかも一日一回の挑戦なので、回数的には七回未満だ。フィリアを買ったのは胸が理由の九割のはずなのに、なんでこんなに魔法の才能が迸ってるんですかね……。

「お風呂……?」
「うん。ずっと雨につかってたわけだから体を温めた方がいいと思ってね。ちょっと早いけどフィリアに頼んで入れてもらった」
「それってあの、お金持ちの家にしかないっていう、あの?」
「うん。それで合ってるよ。着替えは私の服になるになるけど、いいかな。少し大きいと思うけど……」
「お、お師匠さまの服をですか……?」

 食いついたのはアモルではなく、フィリアだった。
 なぜフィリアが? と思いつつも、一応理由は答える。

「ああ。フィリアの服はいろいろとサイズが合わないだろうし、そうなると私かシィナになるけど……」
「……確かにお師匠さまかシィナちゃんなら、お師匠さまの方がいいかもですね」

 シィナは、現状アモルが一番怖がっている相手だ。シィナから借りるという一点だけでアモルに不安を抱かせかねない。
 フィリアも、はたから見ていてそれは気づいただろう。そうなるとやはり必然的に適任は私になる。

 ……なにやらフィリアが羨ましそうな顔をアモルに向けていたが、なにか羨む要素があっただろうか。
 まあフィリアがアモルに抱いてしまっている悪印象は後々どうにかするつもりなので、今は触れないでおこう。

「そういうわけだから、行っておいで。場所はこの食堂に来るまでのところにあったけど、覚えてる?」
「……うん」
「じゃあ安心だ。着替えは用意しておくし、時間は気にせずゆっくり浸かってていいからね」
「うん」
「……」
「……」

 うん、と肯定した割に、一切動こうとしない。
 不思議に思ったものの、とりあえずアモルの食器を片付けようと立ち上がると、アモルも席を立った。
 お風呂場へ向かうと思われた足はしかし、食器を持って台所へ向かう私の後ろをとてとてとついてくる。

「……えーっと……」
「……?」

 流し台に食器を置いて再び正面に向き直ると、アモルは「どうしたの?」と言わんばかりに、こてんと小首を傾げる。
 どうしたの? と聞きたいのはこちらの方なのだが……。

「その……実はお風呂に入りたくない?」
「……」

 ふるふる。首が横に振られる。

「じゃあ、行っておいで。着替えはちゃんと用意しておくから」
「うん」
「…………」
「…………」

 やっぱり動かない。そして私がさきほどいた場所まで戻れば、その後ろをとてとてとついてくる。お風呂場へ向かおうとする様子はない。
 ……なにか伝えたいことがある……? でも、直接言わない理由は……?
 アモルの行動の意図がわからず、悶々としていると、今度はアモルの方から口を開いた。

「お風呂……入らないの?」
「え?」

 私が「え?」と聞き返したこと、それ自体が意味がわからないとでも言う風に、アモルがまた首を傾げた。

「いや、入るのはアモルの方だけど……」
「……? うん。わたしはお風呂、入る」
「うん。だから行っておいでって――」
「一緒に入るんじゃ、ないの?」

 なんとなく、そばで話を聞いていたフィリアや、ちょっと遠くの方で机の上に顎を乗せてごろごろとしていたシィナが、一瞬「!?」みたいな記号を頭の上に浮かべた幻想が見えた気がした。
 いや、というか、それは私もである。

「い、一緒に? どういうことかな?」
「どういうって……お風呂は、誰かと一緒に入るもの……でしょ? 仲間の子は、貴族の人を魅了してお風呂に入ったって、自慢してた。二人で入ったって」
「あ、あー……そういう……」
「あと、すごく気持ちよかったって」

 その気持ちいいは、本当にちゃんとお風呂の気持ちいいなのか……?

「だから楽しみ、だったのに……もしかして本当は、二人で入るものじゃないの? あなたは、わたし一人のつもりで……?」
「そのつもりで言ってたけど……」
「…………一緒に入って……くれないの?」

 眉尻を下げ、上目遣いで私を見つめる。
 その瞳は不安げに揺れていて、もし私が断ったら、そこに少なからず涙がにじむだろうことは想像に難くない。

 こんな表情を見せられてしまったら、もう無条件で私の負けだ。

「……しかたない。わかった。じゃあ、一緒に入ろうか」

 ガタッ!!
 私が了承した瞬間、凄まじい勢いでイスを吹き飛ばして席を立つ音がした。

 びくっとして音の方角を見てみれば、ジーーーーーーーッ、と……。
 なにかを強く訴えるかのごとく、シィナがその血の色の眼で凝視してきていた。

 えっえっ。とと、突然どうしたの?
 怖いんですけど……。

 喜びかけたアモルも一瞬で縮こまり、即座に私の後ろに隠れてガクガクし始めるほどの威圧感だ。
 そして妙な反応をしたのはシィナだけではなく、フィリアもである。

「お、おお、おっ、お師匠さま……? そ、そんな簡単に了承してしまって……よ、よろしいのですか?」
「………………(イ……イッショニオフロ? な、なに言ってるの? お風呂ってあれだよね? あの、生まれたままの姿で入る、あの……? え、ハロちゃんとお風呂……? なん、え? え……? リカイデキナイ……)」
「う、うん。せっかく一緒に入りたいって言ってくれてるんだから、その希望に沿うくらいはしてもいいと思うけど……」

 なぜか私に詰め寄って、唇をぷるぷると震わせながら、ぎこちない笑顔を浮かべるフィリア。
 異様な反応にちょっと引き気味になりながら、なんとか答えるが……えぇ、なんでこんな反応なの?

 そりゃあ私だって、一緒に入る相手がフィリアやシィナだったら緊張したり、あわよくばを期待したりはしただろう。
 でもアモルは本人いわく成熟した淫魔であるらしいけども、その見た目はどこからどう見ても十代前後の子どもである。
 というか実際に話をしてみた限り、中身も見た目相応だ。
 ずっと監禁され、社会経験がなかったために精神性が養われなかったのだろう。

 私はロリコンじゃないし、さすがにそんなどこもかしこも未成熟な幼女に欲情したりはしない。

 フィリアに淫魔の液体薬を盛ろうとしたり、シィナにスライムをかけて服を溶かそうと画策した私だって、そこまで落ちぶれていないのだ。
 というかそこまで落ちぶれたらおしまいだと思っている。

 慕ってくれる無邪気な子どもをお風呂に入れてあげるという、これはただそれだけの話に過ぎない。

「……あ、あのっ! わ、私……私、も……!」

 フィリアがおずおずと手を挙げる。

「私も?」
「…………う、うぅ……いえ……なんでもありません……」

 フィリアは顔を真っ赤に染め上げて、なにかを言いかけたようだったが、最後にはしょんぼりと肩を落として引き下がった。

 私も……あ、もしかして私も一緒に入りたい! とか?

 はっはっは。ないなぁ。ないない。
 だってフィリア、以前私が何気なくを装って誘ってみた時に「お師匠さまのあられもない姿を私ごときが見るなんておこがましいです!」とかよくわからないこと言ってたし。

 あぁ、もしかして、だからなのかもしれない。
 自分は一緒に入らないと決めているのに、アモルのお願いに私が簡単に頷いたから、フィリアは私に物申したくなったのかもしれない。
 だけどそこは本来自分が口を出せる領域ではないから引き下がった、と。
 でもアモルはまだ子どもなのだから、そこはどうかそのまま我慢してほしいところだ。

「とりあえず行こうか。フィリア、悪いけど着替えの方、用意しておいてもらっていいかな」
「……はい……わかりました」

 そろそろアモルがシィナの視線に耐えかねてきていたので、早々に食堂を退散する。
 姿が見えなくなる最後の最後までシィナはこちらを凝視し続けてきていたが……だ、大丈夫だよね? 私、あとでシィナに刺されたりしないよね?

 シィナ絶対あれヤンデレだからな……恋愛的な意味ではないにせよ、慕われていることは確かだし……。
 ……今度それとなくシィナの機嫌を取る方法でも考えておこう……。
 浴室に入ると、アモルは目を輝かせた様子でキョロキョロと辺りを見回した。
 さながら初めて銭湯に来た子どものような反応で、少し微笑ましい。

 風呂場にいるということは当然脱衣所で服を脱いできているので、私はもちろん、アモルの肌もあらわになっている。
 日に焼けたような褐色の肌だが、普段服で隠しているような箇所も同じ色をしているので、生まれつきそういう肌色なのだろう。
 ……一応言っておくけど、これがフィリアやシィナならともかく、私はロリコンではないので今回ばかりは別に興奮したりはしないぞ。

 どちらかというと、そんなことよりも彼女の肌に浮かぶ淫魔の証である紋様の方に目が行ってしまう。
 胸の辺りからお腹の少し下まで描かれた薄紫色のそれは、一種の芸術品のような美しさがある。
 思わず少し見入ってしまっていたが、アモルがこちらを見ているのに気がついて視線を外した。

「ねえ。これ、もう入っていいの……?」
「いや、入る前に先に体を洗って汚れを落とさないとね。こっちにおいで、アモル」

 私が手招きをすると、とてとてとついてくる。
 最初に会った頃の警戒心が嘘のように素直で、なんだかちょっと嬉しい気分だ。

「これはシャワーって言ってね。このレバーを引くとお湯が出るようになってるんだ」
「わっ……すごい。こんなの、仲間たちの話には出てこなかった」
「私の故郷にある道具を私なりに真似たものだから、ね」

 興味津々と言った目をしているアモルに、シャワーの使い方を説明する。
 当然のことながら構造は前世のそれとはまったく異なり、魔法に依存している。
 動力源は主に火と水の魔力石というもので、備えつけたレバーの位置でそれぞれの魔力石をどれだけ使うか――つまるところ温度を調整できるようにしてある。

 魔力石については、魔力で変質しただけの普通の石なので、市場を探せば適当に売っている。それに火と水の性質を自力で付与するだけで完成だ。
 難点は、出力に乏しく、使い捨て品であることだが、そのぶん安価なので王都から辺境の村に至るまで幅広くさまざまな用途で使われている。性質の付与を小遣い稼ぎにしている魔法使いも珍しくない。

 アモルは最初こそおっかなびっくりという感じでノズルに触れていたが、次第に慣れたようで、シャワーを浴びながら気持ちよさそうに目を細めた。

「思い、出した」
「うん?」

 手に持った石鹸をじっと見下ろしたアモルは唐突にそう漏らすと、私の方を向いた。

「お風呂入る時は、お互いの背中を洗うのが礼儀だって、仲間たちが言ってた」
「ああ、うん。仲の良い二人はそういうことしてるイメージがあるね」

 あれ、実際どうなんだろう。
 前世で読んだマンガとかゲームとかだとそういうシーンたまにあったけど、ぶっちゃけ現実でそういう場面があるかというと……うーん。
 親子とかならともかく、それ以外だとなんか普通に自分の体は自分で洗って浴槽に向かうイメージしかない。

「……やってみるかい?」
「……! うん……!」

 どことなく期待するような目でじっと見られては、付き合ってあげる以外の選択肢があるはずもない。
 とりあえず、順番的には先に私がアモルを、次にアモルが私の背中を洗うということになった。

 アモルの様子を確認しながら、痛くならないようにアモルの小さな背中をこすっていく。
 時折くすぐったそうに笑みをこぼすアモルは非常に可愛らしく、しかしそれでいて魅惑的だ。
 この辺りは、さすがは淫魔と言ったところだろうか。
 私が彼女と同年代か、あるいは彼女の体があと一回りほど成長していたなら、心を奪われていたであろうことは想像にかたくない。

 まあ私はロリコンではないので、可愛いなー、くらいしか思わないけど。

「次は、わたしの番」

 ただ背中を洗うだけでハプニングなど起きようはずもなく、無事にアモルの背を洗い流すと、アモルが気合を入れた様子で立ち上がった。
 さきほどとは逆に私が前に、アモルが私の後ろに座り、石鹸を泡立てる。

「……ちょっと待ってて、ね」
「……? うん」

 アモルは後ろでなにかをしているようで、肌をこするような音が聞こえていた。
 ちょっと不思議に思ったが、振り返ることはせず、おとなしく待つ。
 しばらくするとアモルは準備を終えたのか、ふにっ――と、私の背中に柔らかな感触が触れた。

 ……ん? ふに?

「んっ……」

 初めはただ、アモルの手のひらの感触だと思っていた。
 なにせ淫魔でありながらドワーフの血が色濃く出ているというアモルの体はとても幼く、そしてそのぶん柔らかい。
 しかし背中に押し当てられているそれは、手のひらの感触と呼ぶには、あまりにも柔らかすぎる気がした。

「ぁ……んんっ……はぁ……」

 次第に柔らかさの中に、なにやらツンとした小さな固さが混じってくる。
 それが動き、こすれるたびに、耳に届くアモルの声が、なぜか熱を帯びていく。
 ……指……うん。指の固さですよね? そうに違いない。

 待って。いやあの、待って。切実に待って。

 わかってるよ。わかってるんだよ。なにが起こってるかなんて。
 あれでしょ? アモルさん、自分の体に石鹸を使って、なだらかな丘さんをあれであれしてるんでしょ?

 え、なんでっ? なんでそうなったの?
 私、ちゃんとアモルの背中洗ったじゃん? 手本見せたじゃん。なんでそんなことしようって発想に至ったの?
 もしかしてこのやり方も昔の仲間が言ってたことを盗み聞きしたことだったり? いや絶対そうでしょ。

 り、理由はともかく……やばいぞ。
 この絵面は、いろいろとやばい……!
 というかすでに心臓バクバクでやばかった。羞恥で顔も真っ赤になっている自覚がある。

 ロリコンじゃないけど、ロリコンじゃないけども!
 それでも常識的に考えて、なんかいろいろとこれは倫理的にまずいのではないか!?

「……んぅ……!」

 と、とにかく! 今は全力で気づいてないふりをするんだ!

 そう……これはシュレディンガーの猫である!
 簡潔に説明するとシュレディンガーの猫とは、二つ以上の可能性が存在している事象に関して、誰かが観測しない限りどちらが事実かは確定しないという思考実験のことだ。

 そして私は後ろを見ていない……ならば! まだ事象は確定していないと言えるはずである!
 なだらかな丘さんが押しつけられているなんて、しょせんは私の妄想でしかない……だって実際に見たわけではないのだ。
 もしかしたら本当に手のひらの感触かもしれない。指の固さなのかもしれない……!
 私はその真実を絶対に観測しない! そうすることでこれは至って健全な、お互いの背中を手で洗っているという行為の可能性が存在し続けることになるのである!

 背中に当たっている感触はすべて手のものです! それ以外の何物でもありません! これはR18ではありません!
 私はその可能性にチェリーが好きな人の魂を賭ける!

「ふぁ……ん……はふぅ……」
「…………」
「……ね、ぇ……一つ……ん、聞きたいこと、あるの……」
「きき、聞きたいこと?」
「あなたの、こと……なんて呼べば、いい、の……?」

 なんでそれこのタイミングなの???
 いや、言われてみれば確かに「あなた」とか二人称ばかりで名前で呼ばれたことないなーってことは気づいたけど、なぜよりにもよって……。

「……はぁ、ぁ……」

 時折首筋に触れる熱い吐息に、ゾクゾクと言いようのない感覚が背筋から脳へと駆け上がる。

 こ、このまま黙ってたらダメだ! これ以上背中の感触に意識を向けてしまうと頭がおかしくなる!
 会話に、会話に意識を集中させるんだ……!

「な、なんて呼んでくれても大丈夫だよ。一応、フィリアにはお師匠さまって呼ばれてて、シィナにはハロちゃんって呼ばれてるけどね」
「じゃ、ぁ……ふ、ぁっ……かぶらない、呼び方が……いい」
「た、たとえば?」
「……お姉ちゃん、って……ん……呼んで、いい?」

 ドクンッ、と心臓が強く高鳴った気がした。

 お姉ちゃん。
 普段呼ばれるならなんてことのない、むしろ家族のような親しみを感じて嬉しいような、くすぐったい呼び方だ。

 だけどそれは私の中のアモルへの認識を、歳の離れた妹のようなものに置き換えるものでもあった。
 幼く無垢で、無邪気に甘えてくるような、そんなイメージだ。

 だからこそアンマッチだ。その無垢なはずの妹が、艶かしく私を呼んでいる声は。
 お姉ちゃん、お姉ちゃん、と。
 無邪気であるべきなその呼び方に、隠せない熱が孕んでいる。
 親しみは背徳感に、無邪気さは底知れない誘惑へと。それはまるで複数のプログラムが重なって深刻なエラーへと変貌したかのように、無駄な回転を続けた思考回路が高熱でショートする。

 すぐそこにぶら下がっている、禁断の果実。
 手を伸ばせば届く位置にあるそれの匂いに、脳がクラクラと揺れ、徐々に正しい思考が奪われていく。

「だい……じょうぶ、だよ。その……呼び方、で」

 必死に理性を保って、返事をする。小さく呟くくらいが精一杯だった。
 その後はたたひたすら、痛いくらい早鐘を打つ心臓を落ちつかせることに努める。

「…………終わった……よ?」

 無心になるよう必死に自分の内側だけに感覚を向けていると、やがてそんな声が私の耳に届いて、ハッと意識が覚醒した。

「そ……そっか。あ、ありがとう、アモル」

 一向に後ろを見ようとしない私を不思議に思ったのか、私の顔を覗き込んできた彼女の頬は、少し前に見た時よりも色っぽく上気しているように見えたが、きっと気のせいに違いなかった。
 気づいてない。そう、私はなにも気づいてない。気づいてないのだ。気づいてないったら気づいてない。
 私の背中を洗う時にアモルがなにをしてたかなんて、私はなにも知らない!

 アモルは私がなぜ動揺しているかまではわからないらしく、小首を傾げている。
 ……どうやらアモルの価値観では、今の洗い方は複数ある洗い方の一種という程度の認識のようだった。

「じゃ、じゃあ、浴槽の方……入ろうか」
「うん……!」

 私がそう言うと、まるで何事もなかったかのように、彼女は無邪気に輝いた瞳を浴槽に向ける。
 いや何事もなかったかのようにというか、実際なかったけどね?

 ……淫魔だからなのか、アモルの常識は人類のそれと少々異なることが多々ある。
 少しずつ人類の常識を教えていかなきゃなと、湯船につかる前からすでにのぼせたように火照った顔を湯気で隠しながら、私は密かに決意を固めるのだった。