「……ふむ」
窓の外では、激しい雷雨が轟々と鳴り響いている。
いつもは一度眠ったら朝まで起きないものなのだが、あんまりの喧しさにすっかり目が覚めてしまった。
フィリアはまだ起きていないようだ。
そういえば、よくよく考えてみると私はフィリアより早く起きたことがないので、彼女がいつも何時に起きて何時にここに来ているのか知らない。
いつ来るかわからないとなれば、下手なことはできない……。
いや、別になにをするというわけでもないけど……。
そんなこんなで、今は一人で読書に励んでいる最中だ。
ここ最近は冒険者仕事で忙しかったが、空き時間では読書にふける時間が以前より増えたように思う。
それというのも、ある作品にすっかりはまり込んでしまったのが理由だ。
タイトルは、『オークと女騎士』。純愛物だ。
……えっちな本じゃないぞ?
純愛物だ。
ほんとだよ?
まあ、題名的にさすがにそのまま読むのは体裁が悪いので、偽装用に幻惑の魔法をかけてあるが。
フィリアも最近は魔法の腕を上げてきたが、まだまだ私には及びませんよ。ふふふ。
この作品のあらすじを簡単に説明すると、オークの少年がある日住処に捕らえられてきた女騎士に一目惚れして、女騎士を連れて逃亡する話だ。
初めは女騎士に毛嫌いされ、仲間からも裏切り者と追われながら、それでも必死に女騎士をかつての仲間たちから守ろうとする。
最初は少年のことを嫌っていた女騎士も、そんなオークの少年の姿に少しずつ心を許し惹かれていく……と言った感じの、割と真っ当な純愛系。
えっちな本だと期待して買ったはずが全然そんなでもなくて「騙された……!」とか最初憤慨してたわけでも全然ない。
しかたなく読み進めたら普通にめちゃくちゃ面白くて引き込まれたとかそんなわけでもない。
私は最初からこの作品に期待してたんだよ純愛物として。はい。
『ボクはきっと初めから間違った存在だったんだ』
ぱらぱらとページを捲り、本を読み進める。
物語も終盤。女騎士が住んでいた街までもうすぐというところで、オークの少年が女騎士に本音を話す場面だ。
『ニンゲンはいつも言う。「アイ」があるから大丈夫だって。「アイ」がないお前たちには屈しないって。ボクはずっと、その「アイ」っていうものがなんなのか知りたかった。それは本当に、あんな酷い目にあってまで信じられるくらい素晴らしいものなのかって……』
『アイ……』
『……キミはニンゲン。ボクはニンゲンの敵。初めから相容れない存在だ。でもボクは……』
ここに至るまでに様々な苦難があって、すでに二人は打ち解けている。
しかしオークの少年が言うように彼は人類の敵であり、人権などありはしない。たとえ彼自身がなにもしていないとしても、オークであるという時点で人類は少年の存在を決して許さない。
もし仮に女騎士とともに街へ行こうものなら警備の者に即狩られてしまうだろう。
『……キミには、帰るべき場所がある。心配して待ってくれている人がいる。でも……ボクにはもう帰る場所はない。行くあてもない。かつて笑い合った仲間も、もういない。だから……キミに最後のお願いがあるんだ』
『……言ってみろ』
『ボクを、殺してほしい』
と、ここで女騎士が息を呑むような描写が入る。
『ボクにも……ようやくわかったんだ。「アイ」がなんなのか。「アイ」が、どんなに優しくて温かい気持ちなのかって』
『お前は……本当にそれでいいのか?』
『……うん。もう、じゅうぶんだ。じゅうぶんなんだよ。この思いを抱えて死ねるのなら、後悔はない。キミの手にかかって死ぬのならなおさらだ』
『……なぜだ。お前なら、本当は最初からすべてわかっていたはずだ。あの巣から私を連れて逃げ出せば、近い未来に必ず自分が死ぬ運命に直面することになると。すべてを失う羽目になると。なのになぜ……』
『そんなの、簡単だ』
オークの少年は笑う。
『キミを、愛してしまったから。ただそれだけだ』
「ふぅむ……」
なるほど……ここで「アイ」の字が変化……これはつまり、ようやくオークくんが愛という感情を正しく理解したということか。
最序盤からここまでずっと「アイ」の表記だったからなかなか感慨深いな……。
しかしここからどうするんだろう。
女騎士は本当にオークくんの望み通り、彼を殺してしまうのか……それとも……。
うーむ……。
「……あの、お師匠さま」
「……え? あ」
名前を呼ばれて、ふと顔を上げると、申しわけなさそうに私の顔を覗き込むフィリアの姿があった。
どうやら読書に集中しすぎていてフィリアが来ていたことに気づけなかったらしい。
「ごめんなさい。せっかくのお楽しみに水を差してしまって……」
「それくらい気にしなくてもいいさ。フィリアはいつも私のために来てくれてるんだからね」
「……えへへ」
「おはよう、フィリア」
「はい、おはようございますっ!」
声を上げて元気よく挨拶をする。
そんなフィリアに微笑んで、栞を挟んで本を閉じ、立ち上がる。
机の上に本を置いて、いつも通り朝食を作りに行こうとしたところで、フィリアが私を引き止めてきた。
「あの、お師匠さま。お着替えの方は……」
「ん、ああ。今日はちょっと早く目が覚めちゃったからね。見ての通り、もう着替えてある。いつもフィリアの手を煩わせて悪いと思ってたから」
「い、いえっ、私が好きにやっていることですから! でも……そう、ですか。今日はもう……お着替えは手伝わなくていいんですか……」
なぜかしょんぼりと項垂れるフィリア。
もしかして手伝いたかったのだろうか……。
でも何度も言うように正直な話、毎朝あんな無防備に体を密着されるのって精神的に大分きついんだよ。
至近距離だからフィリアの匂いがずっと鼻を刺激してくるし、豊かなお胸さまもすぐ目の前にあるし、時折体のどこかに当たったりもしてくる。
そのくせフィリアは私が邪なことを考えているなんて欠片も考えていない無邪気でご機嫌な顔をしているものだから、背徳感のようなものが常に胸の中に燻っていて。
役得であることは確かなんだけども、あんなのを毎日毎日繰り返され続けると、いい加減に欲求不満が溜まってくる。
解消しようにも、いつも近くに誰かがいたり、誰かが来てもおかしくないような状況だったりして、そんな時間も全然ない。
淫魔の液体薬を盛ろうとした時みたいに暴走しないよう自制するのが、ほんっとにもう大変なんですよ。
あと……これは些細なことなんだけども、フィリアが選ぶ私の服っていつも妙に可愛らしいデザインをしているのだ。
以前フィリアの服をオーダーメイドする際に一緒に作ってもらった衣装なのだが、これがまた無駄にフリフリしたりしていて……ああいう服は、少し苦手だ。
そもそも、私が着飾ってもなぁ。
シィナなら私の服もサイズが合うだろうし、今度フィリアの許可をもらってシィナにプレゼントしたりしてみようか。
きっと似合う。
「……ん?」
「お師匠さま? どうかしましたか?」
フィリアと部屋を出て、シィナを起こして。今は朝食の作り途中。
不意に覚えた慣れない違和感に、調理の手を止める。
初めはその正体がなんなのかわからなかったが……。
「……防犯機能の魔法が発動したのか」
防犯機能の魔法はすべて私の存在と微弱なパスを繋ぐよう設定してある。
どうやら今覚えたのは、その一つが途切れたことによる違和感のようだ。
「暴発ですか?」
「こんな激しい雷雨だしね。暴発してもおかしくない、けど……」
そもそもとして、私は暴発が発生しないよう昨日のうちにすべての防犯魔法を整備しておいた。
一応暴発する可能性がなくなったわけでもないのだが……なにかが引っかかる。
「ごめん、フィリア。私は少し外の様子を見てくるよ」
「だ、大丈夫ですかっ? こんな天気なのに……」
「ああ。水と風を受け流す魔法がある。万が一にも大事にはならないよ。大丈夫」
「……わかりました。朝食は私に任せてください」
「ありがとう、フィリア」
台所を出て、玄関に向かう。
外に出る前に、フィリアにも言った水と風を受け流す魔法を半径一メートルくらいの範囲に展開して、玄関の扉を開ける。
扉の外では、凄まじい豪雨が荒れ狂っていた。
空は暗く、まるで真夜中のよう。子どもくらいなら簡単に吹き飛ばされてしまいそうな暴風、そして不定期に鳴り響く雷の音が、外に出ることの危険さをこれでもかというくらい警告してくる。
そんな雷雨の中に足を踏み出し、パスが途切れた防犯魔法の方へと向かっていく。
門を開け、屋敷の外に。そこから塀をぐるりと回って。
「この辺のはずだけど……」
暗くて視界が確保しづらい。明かりの魔法も一応展開してみるが、大量の雨水が邪魔をして、うまく遠くまで照らすことができない。
「……杞憂だったかな」
もしかしたら暴発したのではなく、正しく動作したのではないかと思っていた。
どういうことなのかと言うと、誰かが屋敷に入ろうとして防犯魔法に引っかかったのではないか、と。
なにせこれだけの暴風が吹き荒れているのだ。
たとえばの話、誰かが不注意に外に出てしまって、吹き飛ばされて運悪く屋敷の中に入り込もうとする形になり、防犯魔法に引っかかるなんて可能性もゼロではない。
だけど誰も見当たらないし……やはり整備不良で、ただ暴発しただけだったのだろう。
一人でそう納得して、敷地の中に戻ろうとする。
そんな時だ。こつん、と、進もうとした足がなにかに当たったのは。
そこでようやく、見えづらい遠くばかり注視していて近くの確認を疎かにしていたことに気づく。
見下ろせば、そこには小さな人型が転がっていた。
ボロボロのローブを纏い、顔もフードで隠しているから、男か女かは定かではない。
ただわかることは、それが年端もいかない子どもであるということ。一〇歳にも満たないような、小さな体格の子ども。
急いで状態を確認する。
その時にフードの中が見えたが、どうやら女の子だったようだ。
しかし控えめに言ってもあまり良い状態とは言えそうにない。
一応脈はまだあった。だが意識はなく、体の末端は死人のように冷え切っている。
息も絶え絶えと言った様子で、このまま放っておけば間違いなく近い未来に死に至るだろう。
そしてなにより、防犯魔法の電気ショックを体に受けた形跡がある。
「見に来てよかった」
回復魔法を行使し、まずは傷を治す。
それからこの子が着ているローブの水気を魔法で払い、これまた魔法でローブに熱を付与して、でき得る限り体を温めるようにする。
あとは持続的に効果を発揮し続ける状態回復系の魔法を行使して……。
まだ、顔色は悪い。だがこれで窮地を脱することはできたはずだ。
「早くベッドに寝かせてあげないと」
倒れているローブの少女を抱え、早足で屋敷の中に戻る。
すると玄関前で待っていたらしいフィリアとシィナが私を出迎えた。
「お師匠さま。ご無事で……って、その子は……?」
「はぁ、はぁ……そ、外で倒れてたんだ。防犯の魔法、に……巻き込まれて、そのまま、はぁ……外、で……倒れてたみたいで……すぐ、ベッドに寝かせ、なきゃ……」
だ、ダメだ……やっぱエルフはダメだ……貧弱すぎる。
子ども一人抱えて玄関まで走るだけでこのざまだ。手がぷるぷる震えて、息は凄まじく荒い……。
この体になってから、どれだけ運動しても体力がつかないのだ。
特に力仕事はNGである。一分も経たず力尽きる……。
「……わたし、が……(わ、わたしが運ぶからハロちゃんは休んでて!)」
近づいてきたシィナが両手を差し出してきて、すぐにその意図を察した。
「あ、ありがとうシィナ……私の、部屋の……ベッドまで、お願い……できるかな」
そう言ってローブの少女を持たせると、シィナはこくりと頷いて、足早に廊下を歩いていった。
こ、これでようやく休める……。
気が抜けて、すとんっ、と床に座り込んだ。
荒い息を繰り返して、少しずつ呼吸を整えていく。
そんな私にフィリアが近づいてきて、そっと肩を支えてくれた。
「お疲れさまです、お師匠さま」
「ああ……ありがとう。私もシィナみたいに魔力の循環で身体能力を上げたりとかできれば、こんな風にはならないんだけどね……」
「お師匠さまでも使えないんですか?」
「適性がないんだ。これっぽっちもね」
肩をすくめる。魔法の才能があるぶん、そちらでバランスを取っているのかもしれない。
そろそろ体力も回復してきたというところで、フィリアに手を貸してもらって立ち上がった。
「さて、それじゃあ少し遅くなっちゃったけど朝食にしようか」
「はい!」
フィリアと一緒に食堂に戻る。
私が外に行こうとした時はまだ作り途中だったが、フィリアが残りを完成させてくれていたようで、すでにテーブルには三人分の料理が並べられていた。
フィリアにお礼を言うと、嬉しそうに笑う。
それからしばらくして戻ってきたシィナも加えると、いつものように三人で朝食を食べ始めた。
窓の外では、激しい雷雨が轟々と鳴り響いている。
いつもは一度眠ったら朝まで起きないものなのだが、あんまりの喧しさにすっかり目が覚めてしまった。
フィリアはまだ起きていないようだ。
そういえば、よくよく考えてみると私はフィリアより早く起きたことがないので、彼女がいつも何時に起きて何時にここに来ているのか知らない。
いつ来るかわからないとなれば、下手なことはできない……。
いや、別になにをするというわけでもないけど……。
そんなこんなで、今は一人で読書に励んでいる最中だ。
ここ最近は冒険者仕事で忙しかったが、空き時間では読書にふける時間が以前より増えたように思う。
それというのも、ある作品にすっかりはまり込んでしまったのが理由だ。
タイトルは、『オークと女騎士』。純愛物だ。
……えっちな本じゃないぞ?
純愛物だ。
ほんとだよ?
まあ、題名的にさすがにそのまま読むのは体裁が悪いので、偽装用に幻惑の魔法をかけてあるが。
フィリアも最近は魔法の腕を上げてきたが、まだまだ私には及びませんよ。ふふふ。
この作品のあらすじを簡単に説明すると、オークの少年がある日住処に捕らえられてきた女騎士に一目惚れして、女騎士を連れて逃亡する話だ。
初めは女騎士に毛嫌いされ、仲間からも裏切り者と追われながら、それでも必死に女騎士をかつての仲間たちから守ろうとする。
最初は少年のことを嫌っていた女騎士も、そんなオークの少年の姿に少しずつ心を許し惹かれていく……と言った感じの、割と真っ当な純愛系。
えっちな本だと期待して買ったはずが全然そんなでもなくて「騙された……!」とか最初憤慨してたわけでも全然ない。
しかたなく読み進めたら普通にめちゃくちゃ面白くて引き込まれたとかそんなわけでもない。
私は最初からこの作品に期待してたんだよ純愛物として。はい。
『ボクはきっと初めから間違った存在だったんだ』
ぱらぱらとページを捲り、本を読み進める。
物語も終盤。女騎士が住んでいた街までもうすぐというところで、オークの少年が女騎士に本音を話す場面だ。
『ニンゲンはいつも言う。「アイ」があるから大丈夫だって。「アイ」がないお前たちには屈しないって。ボクはずっと、その「アイ」っていうものがなんなのか知りたかった。それは本当に、あんな酷い目にあってまで信じられるくらい素晴らしいものなのかって……』
『アイ……』
『……キミはニンゲン。ボクはニンゲンの敵。初めから相容れない存在だ。でもボクは……』
ここに至るまでに様々な苦難があって、すでに二人は打ち解けている。
しかしオークの少年が言うように彼は人類の敵であり、人権などありはしない。たとえ彼自身がなにもしていないとしても、オークであるという時点で人類は少年の存在を決して許さない。
もし仮に女騎士とともに街へ行こうものなら警備の者に即狩られてしまうだろう。
『……キミには、帰るべき場所がある。心配して待ってくれている人がいる。でも……ボクにはもう帰る場所はない。行くあてもない。かつて笑い合った仲間も、もういない。だから……キミに最後のお願いがあるんだ』
『……言ってみろ』
『ボクを、殺してほしい』
と、ここで女騎士が息を呑むような描写が入る。
『ボクにも……ようやくわかったんだ。「アイ」がなんなのか。「アイ」が、どんなに優しくて温かい気持ちなのかって』
『お前は……本当にそれでいいのか?』
『……うん。もう、じゅうぶんだ。じゅうぶんなんだよ。この思いを抱えて死ねるのなら、後悔はない。キミの手にかかって死ぬのならなおさらだ』
『……なぜだ。お前なら、本当は最初からすべてわかっていたはずだ。あの巣から私を連れて逃げ出せば、近い未来に必ず自分が死ぬ運命に直面することになると。すべてを失う羽目になると。なのになぜ……』
『そんなの、簡単だ』
オークの少年は笑う。
『キミを、愛してしまったから。ただそれだけだ』
「ふぅむ……」
なるほど……ここで「アイ」の字が変化……これはつまり、ようやくオークくんが愛という感情を正しく理解したということか。
最序盤からここまでずっと「アイ」の表記だったからなかなか感慨深いな……。
しかしここからどうするんだろう。
女騎士は本当にオークくんの望み通り、彼を殺してしまうのか……それとも……。
うーむ……。
「……あの、お師匠さま」
「……え? あ」
名前を呼ばれて、ふと顔を上げると、申しわけなさそうに私の顔を覗き込むフィリアの姿があった。
どうやら読書に集中しすぎていてフィリアが来ていたことに気づけなかったらしい。
「ごめんなさい。せっかくのお楽しみに水を差してしまって……」
「それくらい気にしなくてもいいさ。フィリアはいつも私のために来てくれてるんだからね」
「……えへへ」
「おはよう、フィリア」
「はい、おはようございますっ!」
声を上げて元気よく挨拶をする。
そんなフィリアに微笑んで、栞を挟んで本を閉じ、立ち上がる。
机の上に本を置いて、いつも通り朝食を作りに行こうとしたところで、フィリアが私を引き止めてきた。
「あの、お師匠さま。お着替えの方は……」
「ん、ああ。今日はちょっと早く目が覚めちゃったからね。見ての通り、もう着替えてある。いつもフィリアの手を煩わせて悪いと思ってたから」
「い、いえっ、私が好きにやっていることですから! でも……そう、ですか。今日はもう……お着替えは手伝わなくていいんですか……」
なぜかしょんぼりと項垂れるフィリア。
もしかして手伝いたかったのだろうか……。
でも何度も言うように正直な話、毎朝あんな無防備に体を密着されるのって精神的に大分きついんだよ。
至近距離だからフィリアの匂いがずっと鼻を刺激してくるし、豊かなお胸さまもすぐ目の前にあるし、時折体のどこかに当たったりもしてくる。
そのくせフィリアは私が邪なことを考えているなんて欠片も考えていない無邪気でご機嫌な顔をしているものだから、背徳感のようなものが常に胸の中に燻っていて。
役得であることは確かなんだけども、あんなのを毎日毎日繰り返され続けると、いい加減に欲求不満が溜まってくる。
解消しようにも、いつも近くに誰かがいたり、誰かが来てもおかしくないような状況だったりして、そんな時間も全然ない。
淫魔の液体薬を盛ろうとした時みたいに暴走しないよう自制するのが、ほんっとにもう大変なんですよ。
あと……これは些細なことなんだけども、フィリアが選ぶ私の服っていつも妙に可愛らしいデザインをしているのだ。
以前フィリアの服をオーダーメイドする際に一緒に作ってもらった衣装なのだが、これがまた無駄にフリフリしたりしていて……ああいう服は、少し苦手だ。
そもそも、私が着飾ってもなぁ。
シィナなら私の服もサイズが合うだろうし、今度フィリアの許可をもらってシィナにプレゼントしたりしてみようか。
きっと似合う。
「……ん?」
「お師匠さま? どうかしましたか?」
フィリアと部屋を出て、シィナを起こして。今は朝食の作り途中。
不意に覚えた慣れない違和感に、調理の手を止める。
初めはその正体がなんなのかわからなかったが……。
「……防犯機能の魔法が発動したのか」
防犯機能の魔法はすべて私の存在と微弱なパスを繋ぐよう設定してある。
どうやら今覚えたのは、その一つが途切れたことによる違和感のようだ。
「暴発ですか?」
「こんな激しい雷雨だしね。暴発してもおかしくない、けど……」
そもそもとして、私は暴発が発生しないよう昨日のうちにすべての防犯魔法を整備しておいた。
一応暴発する可能性がなくなったわけでもないのだが……なにかが引っかかる。
「ごめん、フィリア。私は少し外の様子を見てくるよ」
「だ、大丈夫ですかっ? こんな天気なのに……」
「ああ。水と風を受け流す魔法がある。万が一にも大事にはならないよ。大丈夫」
「……わかりました。朝食は私に任せてください」
「ありがとう、フィリア」
台所を出て、玄関に向かう。
外に出る前に、フィリアにも言った水と風を受け流す魔法を半径一メートルくらいの範囲に展開して、玄関の扉を開ける。
扉の外では、凄まじい豪雨が荒れ狂っていた。
空は暗く、まるで真夜中のよう。子どもくらいなら簡単に吹き飛ばされてしまいそうな暴風、そして不定期に鳴り響く雷の音が、外に出ることの危険さをこれでもかというくらい警告してくる。
そんな雷雨の中に足を踏み出し、パスが途切れた防犯魔法の方へと向かっていく。
門を開け、屋敷の外に。そこから塀をぐるりと回って。
「この辺のはずだけど……」
暗くて視界が確保しづらい。明かりの魔法も一応展開してみるが、大量の雨水が邪魔をして、うまく遠くまで照らすことができない。
「……杞憂だったかな」
もしかしたら暴発したのではなく、正しく動作したのではないかと思っていた。
どういうことなのかと言うと、誰かが屋敷に入ろうとして防犯魔法に引っかかったのではないか、と。
なにせこれだけの暴風が吹き荒れているのだ。
たとえばの話、誰かが不注意に外に出てしまって、吹き飛ばされて運悪く屋敷の中に入り込もうとする形になり、防犯魔法に引っかかるなんて可能性もゼロではない。
だけど誰も見当たらないし……やはり整備不良で、ただ暴発しただけだったのだろう。
一人でそう納得して、敷地の中に戻ろうとする。
そんな時だ。こつん、と、進もうとした足がなにかに当たったのは。
そこでようやく、見えづらい遠くばかり注視していて近くの確認を疎かにしていたことに気づく。
見下ろせば、そこには小さな人型が転がっていた。
ボロボロのローブを纏い、顔もフードで隠しているから、男か女かは定かではない。
ただわかることは、それが年端もいかない子どもであるということ。一〇歳にも満たないような、小さな体格の子ども。
急いで状態を確認する。
その時にフードの中が見えたが、どうやら女の子だったようだ。
しかし控えめに言ってもあまり良い状態とは言えそうにない。
一応脈はまだあった。だが意識はなく、体の末端は死人のように冷え切っている。
息も絶え絶えと言った様子で、このまま放っておけば間違いなく近い未来に死に至るだろう。
そしてなにより、防犯魔法の電気ショックを体に受けた形跡がある。
「見に来てよかった」
回復魔法を行使し、まずは傷を治す。
それからこの子が着ているローブの水気を魔法で払い、これまた魔法でローブに熱を付与して、でき得る限り体を温めるようにする。
あとは持続的に効果を発揮し続ける状態回復系の魔法を行使して……。
まだ、顔色は悪い。だがこれで窮地を脱することはできたはずだ。
「早くベッドに寝かせてあげないと」
倒れているローブの少女を抱え、早足で屋敷の中に戻る。
すると玄関前で待っていたらしいフィリアとシィナが私を出迎えた。
「お師匠さま。ご無事で……って、その子は……?」
「はぁ、はぁ……そ、外で倒れてたんだ。防犯の魔法、に……巻き込まれて、そのまま、はぁ……外、で……倒れてたみたいで……すぐ、ベッドに寝かせ、なきゃ……」
だ、ダメだ……やっぱエルフはダメだ……貧弱すぎる。
子ども一人抱えて玄関まで走るだけでこのざまだ。手がぷるぷる震えて、息は凄まじく荒い……。
この体になってから、どれだけ運動しても体力がつかないのだ。
特に力仕事はNGである。一分も経たず力尽きる……。
「……わたし、が……(わ、わたしが運ぶからハロちゃんは休んでて!)」
近づいてきたシィナが両手を差し出してきて、すぐにその意図を察した。
「あ、ありがとうシィナ……私の、部屋の……ベッドまで、お願い……できるかな」
そう言ってローブの少女を持たせると、シィナはこくりと頷いて、足早に廊下を歩いていった。
こ、これでようやく休める……。
気が抜けて、すとんっ、と床に座り込んだ。
荒い息を繰り返して、少しずつ呼吸を整えていく。
そんな私にフィリアが近づいてきて、そっと肩を支えてくれた。
「お疲れさまです、お師匠さま」
「ああ……ありがとう。私もシィナみたいに魔力の循環で身体能力を上げたりとかできれば、こんな風にはならないんだけどね……」
「お師匠さまでも使えないんですか?」
「適性がないんだ。これっぽっちもね」
肩をすくめる。魔法の才能があるぶん、そちらでバランスを取っているのかもしれない。
そろそろ体力も回復してきたというところで、フィリアに手を貸してもらって立ち上がった。
「さて、それじゃあ少し遅くなっちゃったけど朝食にしようか」
「はい!」
フィリアと一緒に食堂に戻る。
私が外に行こうとした時はまだ作り途中だったが、フィリアが残りを完成させてくれていたようで、すでにテーブルには三人分の料理が並べられていた。
フィリアにお礼を言うと、嬉しそうに笑う。
それからしばらくして戻ってきたシィナも加えると、いつものように三人で朝食を食べ始めた。