やがて前方数十メートル先に陸橋が見えてきた。ここを通り過ぎれば、最寄り駅まであと少しだ。
「わたしたち、明日から会えなくなっちゃうね」
不意に、真夏ちゃんの口からひどく悲しい言葉が漏れた。
ボクはちょっぴり泣きそうになりながら、
「そんな悲しいこと言わないでよ。連絡するし、たまには会ってほしいな」
限りなく本音に近い言葉だった。さすがに毎日会いたいだなんて自分本意なことは言えない。
ボクの言葉の直後、なぜか数秒の間が空いた。疑問に思い、右方を向く。
「あのね、小秋ちゃん」
そして、真夏ちゃんは気まずそうな、あるいは困ったような曖昧な笑みを浮かべ、言った。
「実はわたし、明日から丸々一ヶ月、イギリスに行くんだ」
「え」
「知ってると思うけど、わたしのおじいちゃん、イギリス人なの。でね、もう何年も会ってないから、今年こそは顔を見せにいくぞってパパがうるさくて……本当に困っちゃうよね」
言いつつ、美少女は茶色がかった瞳を三日月形に細めるが、いやいや、笑いごとではない。断じて。
「黙ってたわけじゃないんだよ? でもほら、あえて伝えるようなことでもないかなあと思って」
言葉が出てこなかった。真夏ちゃんに悪気がないということは百も承知している。でもやっぱり悲しいし、何より寂しかった。そんな大事なこと、真っ先に伝えてほしかった。
陸橋を渡りながら、ボクはあれこれと考えを巡らせる。
確かに、真夏ちゃんにとってはたったの一ヶ月なのかもしれない。けれど、ボクにはその一ヶ月が途方もなく長く、まるで今生の別れのように感じられた。
今日中に、彼女に気持ちを伝えなければ後悔する――ボクが衝動的にそんなことを思ったのは、陸橋を渡り切ったときのことだった。
冷静さを欠いている自分自身を、ボクは十二分に自覚していた。でも、その一方で昂り続ける感情は、いよいよ歯止めが効かないところまできていた。
「真夏ちゃん」
「ん?」
「今からちょっとだけボクにつき合ってくれないかな?」
「……うん。明日の準備がまだ残ってるから、あんまり遅くまでは無理だけど」
「大丈夫、本当にちょっとつき合ってくれるだけでいいから」
ただならぬ決意を胸に、ボクは真夏ちゃんだけに黒目を縫いつける。
真夏ちゃんはきょとんとした表情を浮かべながら、小首を傾げている。
七月二十四日、火曜日。蝉のトレモロが脳天に響く、ひどく暑い午後のことだった。
人生初の告白場所は、海と決めていた。
遠い水平線を眺めながらのベタなシチュエーションに、昔からなぜか憧れがあったのだ。そして幸運なことに、ボクの住むA市には海がある。
「海なんて久々に来たなー」
S駅のホームに降り立つや否や、真夏ちゃんが声を弾ませた。
ここは、母校のあるA駅から私鉄でニ十分の距離に佇む無人駅。一日の乗車人数はグーグル調べによると平均で五十人程度らしい。地元でも非常にマイナーな駅であるため、実はボク自身ここに来るのは初めてだったりする。
簡素な屋根と青いベンチが二つだけという、至ってシンプルな造りのホームから眺める景色は、控え目に言って絶景だった。
「小秋ちゃん、誘ってくれてありがとね」
「ううん、こちらこそ」
あのね、真夏ちゃんと一緒に夏の思い出が作りたいの。そう言って彼女をここに誘い出したのが、ほんの数十分前の出来事。
真夏ちゃんは明日、早朝の便でイギリスのレスターという街へと旅立ってしまう。そして、帰国は一ヶ月先。そんな事実を彼女の口から聞かされて間もなく、ボクは告白を決意した。なんとしてでも気持ちを伝えなければならない、と衝動的に思ったのだ。
明日からのことを考えると、とてもつらい。一ヶ月会えないだけでこんなにも寂しく、切ない気持ちになるなんて、ボクは知らなかった。
「わたし、日焼け止め塗ってくるの忘れちゃったよ」
「あ、じゃあボクの貸してあげる」
「わー、ありがとう」
ボクたちはホームのベンチに並んで腰かけている。真夏ちゃんとの距離はわずか二、三十センチ。心の距離はもっと近い――と信じたい。
何気なくスマートフォンを確認すると、時刻はまだ十三時にもなっていなかった。もっとも、悠長に構えている暇はない。二人きりでいられる時間は限られている。
一時間。きっと長くても一時間程度だ。真夏ちゃんの都合を考えると、それくらいが妥当だろう。けれど、つい数十分前までの勢いはどこへやら、ボクは完全に委縮し切っていた。人生初の愛の告白を前に、端的に言うとビビッていたのだ。
ボクたちはもともと、それほどおしゃべりな方ではない。二人きりのとき、自然と沈黙が生まれてしまうことも珍しくはなかった。もちろん、お互いに気を許しているわけで、そこに気まずさのようなものは一切ないのだけれど、
「…………」
会話らしい会話もないまま、気づけば五分、十分、二十分と、時はいたずらに経過してしまった。
さすがに、これはちょっと気まずい。そして何より、真夏ちゃんに申し訳ないと思った。彼女は忙しい中、ボクにわざわざつき合ってくれているのだ。
「あのさ……」
どうして、こんなにも声が震えてしまうのだろう。どうして、こんなにも息が詰まってしまうのだろう。
寄せては返す波の音だけが慎ましく響くこの空間から、ボクはだんだんと逃げ出したくなり始めていた。
「ちょっと飲み物買ってくるけど、何かいる?」
結局、告白の言葉を寸前で飲み込んだボクは、自分自身をいったん落ち着かせることにした。
真夏ちゃんは唇に人差し指を添え、少し考えるような素振りを見せたあと、
「コーラが飲みたいかも」
「コーラね、了解」
「あ、でも全部は飲み切れないと思うから、二人で半分こしよう?」
「いいね、それ」
直後、ボクはホームの端に設置された自販機まで小走りで向かい、缶コーラを一本買った。このとき、ボタンを押した指先は小刻みに震えていた。
受け取り口に右手を伸ばし、痺れるほどに冷えたコーラを手のひら全体で感じながら、一度深呼吸。
「ふう……」
お腹の底から勢いよく二酸化炭素を吐き出したあと、ボクは本日もう何度目かの覚悟を決める。今度こそ、今度こそ本気だ。
「お待たせ」
ベンチに戻るや否や、ボクは真夏ちゃんにコーラを差し出した。
「ありがとう」
と例の目のなくなる笑みを浮かべた彼女は、手のひらに六十円を用意していて、ボクはその律儀さをあらためていじらしく思い、危うく悶えかけた。
すんでのところで持ち堪えたボクは、
「ボクのおごりだから、お金はいらないよ」
だなんて精一杯のクールを気取り、真夏ちゃんの隣に腰かける。
「いいの?」
「もちろん。真夏ちゃんにはいつもお世話になってるから」
「あはは。全然そんなことないけど、でも嬉しいな」
直後、真夏ちゃんがコーラを一口飲み、そして次にボクが一口。なんだかいつもより甘みが強く感じられる。気のせいなんかじゃない。真夏ちゃんのセクシャルなリップにはきっと、甘いものをよりいっそう甘くしてしまう特殊能力が備わっているのだ。
そんなことを至って真剣に考えながら、ボクは真夏ちゃんの横顔を、口元を、じっと食い入るように見つめている。不意に、触れてみたい、と思った。この薄い唇を、彼女の厚く艶やかな唇に目一杯押しつけてみたい。そう思った。
真夏ちゃんの唇は、いったいどんな味がするのだろう――。
「小秋ちゃんはさ」
それは、まさにボクの邪な感情を見透かしたかのようなタイミングだった。
「小秋ちゃんは将来の夢とかあるの?」
「え?」
あまりに突拍子もない質問に、ボクはずいぶんと間の抜けた声を漏らしてしまった。
思えば、ボクは自分自身の将来について、さほど真剣に考えたことがない。つい先日も進路希望調査書を白紙のまま提出し、担任の藤沢多喜二、五十七歳児童買春疑惑ありに放課後、呼び出しを食らってしまったほどだ。
ただ、夢がまったくないのかと問われたら、決してそんなことはなかった。実はボクには、児童文学作家になりたいという、偉く漠然とした夢があった。もうかれこれ十年来の夢になるだろうか。
もっとも、物語の一つだって書き上げたことがないし、児童文学作家にこだわる理由も、小学生の頃に出会った児童文学作品に感銘を受けたからという、ただそれだけのことなのだけれど。
夢と呼ぶのもおこがましい、読書好き女子高生の戯言を素直に打ち明けるのもどうかと思い、でもやっぱり真夏ちゃんを前にして適当にやり過ごすことはできない。
「ボクは、作家……児童文学作家になりたい」
ああ、言ってしまった――。
果たして、真夏ちゃんはどんな反応をするだろう。心に巣食う言いようのない不安が急速に肥大化し、けれど、
「小秋ちゃん、本が大好きだもんね。なんか妙に納得」
杞憂は杞憂に終わった。
「とっても素敵な夢だと思うよ」
「あはは……でも、夢というよりは、なれたらいいなあっていう願望に近いかも」
「なれるよ、小秋ちゃんなら」
「本当にそう思う?」
「もちろん。それに、人間はなれるものを目指すんじゃなくて、なりたいものを目指すんだって、昨日の学園ドラマの中で先生役の人が言ってたもん。わたし、彼のその言葉にグッときちゃったんだよね。だから、うん。本当に、本っ当に応援してる」
「……ありがとう」
このコを好きになってよかった。確信すると同時に、頬の紅潮を自覚する。
なんだか急に照れくさくなったボクは、その気持ちを誤魔化すかのように、とっさに切り返した。
「真夏ちゃんは将来何になりたいの?」
真夏ちゃんの親友を自称するボクは、彼女の夢を勝手にイラストレーターと予想している。真夏ちゃんは美術部の部長さんを務めているだけのことはあり、もうとにかく絵が上手いのだ。特に風景画。思わず息を呑んでしまうほどの繊細なタッチで描かれたその作品の数々に、ボクは幾度となく感服させられていた。
「わたしはねえ……」
と、次の瞬間だった。
不意に、潮風がボクらの前髪を数センチ揺らし、カモメの甲高い鳴き声が大気を震わせ、
「あ!」
真夏ちゃんのびっくりしたような声に、ボクは思わず身体を仰け反らせた。
「ど、どうしたの?」
「イルカ! イルカがいるよ!」
イルカ? イルカって、あのイルカ? 思いつつ、大海原を見渡すも、いやしかしイルカなんてどこにも見当たらない。
「……どこ?」
凪いでいる海にじっと視線を据えたまま、ボクは尋ねる。するとどうだろう。
「空見て! 空!」
真夏ちゃんがさらに声を張った。
本日の最高気温、三十五・六度。もしやこの尋常ではない熱波にやられて、おかしくなってしまったのだろうか。
興奮し切った真夏ちゃんを心の底から心配しつつ、それでいて一応、ボクは促されるままに頭上を見上げる。
「……あ」
そして、
「……イルカだ」
思わずつぶやいていた。
いたのだ。イルカが、いたのだ。
正確に言うと、限りなくイルカに近い形をした乳白色の雲が、茫漠とした青空をゆらりゆらりと揺蕩っていた。輪郭は大げさなくらいにイルカそのもので、まるで誰かの創作物かと思ってしまったほどだ。
目をこすり、目を凝らす。やはり、いる。ボクは真夏ちゃんの気持ちを理解する。これは、興奮しないほうがおかしい。
「いたでしょ?」
「うん……すごいや」
以前、深夜のバラエティ番組か何かで、世界の至る国々でイルカが幸福の象徴とされているという雑学を紹介していたのだけれど、ボクはこのとき、ふとそのことを思い出していた。
「ね! すごい!」
普段味わうことのない昂りからか、お互いに語彙力が崩壊中。
ボクらは一本のコーラを間に挟んで、すごい、すごい、と何度も同じ言葉を繰り返した。
午後二時。イルカ発見以降も、ボクらは時間も忘れておしゃべりに興じた。将来の夢について、明日から始まる夏休みについて、レスターの風土について。気づけば、タイムリミットの一時間は、とうに過ぎ去っていた。
そして――コーラの缶が空になった頃、ボクたち二人はS駅をあとにした。