サマースマイル・アゲイン

 やがてたっぷりと間を置いたところで、白石くんが急にこちらを向いた。切れ長の涼し気な瞳、通った鼻梁、シャープな輪郭。その嫉妬してしまうほどに整った顔は、まさしく真剣そのものだった。去年の冬、真夏ちゃんへの気持ちを打ち明けたときとまったく同じ表情を浮かべていた。



 ほんの少し、ほんの少しだけその表情にドキリとしてしまい、けれど、



「振られてこいよ」



「はあ?」



「題して、当たって砕けろ大作戦!」



「……もういい」



「ちょっと待てって!」



 白石和生、十七歳。なんて無神経な男なのだろう。



 ボクはコンマ数秒のうちに険のある表情を作ると、ほとんど自然にベンチから腰を上げていた。そんなボクを慌てて制止する白石くん。そして次の瞬間、彼はいつになく熱っぽい言葉をボクに向けて吐露した。



「マジな話、本当にこのままでいいのか? 確かに、告白なんてしなければ今の生温い関係を続けられるだろうよ。高校卒業まで、いや卒業後もきっと。でもさ、俺に言わせてみれば、それは逃げだね。ああ、何度でも言う。それは逃げだ。人を好きだっていう気持ちに男も女も関係ないだろ? なあ、小秋。おまえはどう思う?」



 直後、茶化されているような気がして腹立たしくなってしまった数秒前の自分を猛省した。この人は真剣だ。至って真剣だ。



 確かに、白石くんの言うとおりだった。人を好きだという気持ちに男も女も関係ない。でも――ああ、ダメだ。ボクのネガティブは通常営業中らしい。
「白石くん」



「ん?」



「ありがとね」



 告げ、特保コーラを手に取り、今度こそ立ち上がる。



 ちょっと一人になりたい気分だった。一人きりで、自分自身と嘘偽りなく向き合ってみたい。そう思った。



「近々メールするよ。何か進展があったら必ず報告する」



「……了解。知ったような口利いて悪かったな」



「ううん、大丈夫」



 何が大丈夫なのか、自分自身にもよくわからなかったのだけれど。



 白石くんと別れたあと、ボクは真夏ちゃんのころころと変化する表情を頭の中に映し出しながら、自宅までの道のりを伏し目がちに歩いた。一歩一歩と歩を進めるたびにスカイブルーのクロックスが、熱を溜め込んだアスファルトとこすれる音がした。



 風船のように日々膨れ上がる真夏ちゃんへの気持ちは、いよいよ自制が効かなくなってきている。告白という選択肢は存在していなかったけれど、彼女に恋人ができてしまったことにより、そして何より白石くんとやり合ったことにより、ボクは自分自身の意識の変化を徐々に自覚し始めていた。



 道中、何気なくコンビニを振り返ると、もうそこに白石くんの姿はなかった。店内から漏れる安っぽい照明が、ただただ寂しげに田舎の夜を照らしていた。
 七月二十四日、火曜日。



 終業式を終え、今学期最後のホームルームが行われている二年D組普通教室。



「X」を「エッキシ」と発音してしては生徒たちに気色悪がられている名物数学教師、藤沢多喜二、五十七歳児童買春疑惑ありが教壇にて、そのシワだらけの額に汗を浮かべながら、



「セブンティーンの夏は人生で一度きりだあ! 諸君、悔いのないサマーヴァケーションを送るように!」



 などとハイテンションのハイバリトンで告げた直後、



「はーい!」



 という総勢四十名の男女の浮かれた声が、埃っぽい教室の隅々までこだました。



 この夏のクラスメイトたちは皆、妙に張り切っていた。誰もが一様にひと夏のアバンチュールを期待し、胸を躍らせ、両目に凶悪な輝きを宿らせている。そんな中、ただ一人、ボクだけが砂を噛むような表情を浮かべていた。



 夏休みが始まってしまえば、真夏ちゃんと顔を合わせる機会も激減してしまう。ただでさえ人気者の彼女のことである。スケジュールは売れっ子アイドル並に、一ヶ月先までほとんど埋まってしまっているに違いない。



 オール「3」の忌まわしき通知表の影響も相まって、気分はどんどん下降していく。
 クラス委員による号令、そして続く、その他大勢の「さようならー」の声と共に、教室中が弾けたように、どっと騒がしくなった。



 藤沢先生が加齢臭を置き土産に教室を去ったあと、一番後ろの自席から何気なく真夏ちゃんのほうを見た。視線の先の彼女は、教壇の真ん前の席で派手グループの生徒たちに囲まれながら、にこにこと愛嬌を振りまいているところだった。



 真夏ちゃんは、どんなくだらない話にもつき合ってくれる優しいコだ。今だって二年D組四天王の一人、スターリンこと星野凛のどうでもいいような話に、あはは、といちいちかわいらしい声で笑ってあげている。



 似合わない巻き髪に、似合わないギャルメイク。いつも大口を開け、年上バンドマンとの性事情を明け透けに語る、あんな頭空っぽのバカ女の話なんて無視してやればいいのに。



 スターリンらに捕まってしまった真夏ちゃんとは、今日は一緒に帰れそうにもない。終業式だっていうのに、本当にツイてない。落胆しつつ、縫製バッグを右肩にかけ、軋む椅子からゆっくりと立ち上がる。



 今日の夜にでも真夏ちゃんのケータイに連絡してみよう。明日会える? 遊べる? ってダメ元で聞いてみるんだ。可愛いスタンプを添えて、ない女子力を振り絞って、聞いてみるんだ。



「あ、小秋ちゃん!」



 そのときだった。



「ちょっと待って!」



 四天王のもとから突然、真夏ちゃんが小走りでこちらに歩み寄って来たではないか。
 いったいどうしたというのだろう。疑問符を頭上三十センチに浮かべている間にボクの目の前までやって来た真夏ちゃんは、膝上のスカートを翻しながら後ろを振り返り、



「ごめんね。今日、小秋ちゃんと一緒に帰る約束してたんだ」



 始業式にまた皆、元気に集まろうね。微炭酸のような爽やかさと共に、四天王にそう言い放ったのだ。



 気づけば、四天王の面々が、一斉にボクへと視線を集めていた。



 威圧感たっぷりの視線に耐えながら、ボクは畢生の作り笑顔を浮かべる。すると、スターリンはすぐにボクから視線を外し、少し呆れたような感じでもって、



「真夏、ほんと小秋と仲良いよなあ」



「うん。だってわたしたち、二人で一つだし」



「もうヤッたの?」



「バカー! そんなんじゃないもん!」



 直後、ぎゃはは! という下卑た笑いがこだました。



 本当に下品な奴。ドス黒く渦巻く感情を胸の奥底に抱きつつ、けれども決して口に出すことはない。情けないけれど、ボクは真夏ちゃんの隣でただただ引きつった笑みを浮かべることしかできずにいる。



 それから二言三言交わしたあと、四天王は意外にもあっさりと真夏ちゃんを解放してくれた。
「ごめんね」



 真夏ちゃんがいつになく低いトーンでつぶやいたのは、ちょうど校門を抜け出たときだった。



「一緒に帰る約束なんてしてなかったのに、あんな嘘ついて」



「ううん」



「終業式の日は、どうしても小秋ちゃんと一緒に帰りたかったの」



 表情を陰らせる真夏ちゃんを真横に見ながら、ボクは激しく動揺してしまう。



 確かに一緒に帰る約束なんてした覚えはない。そもそも終業式でばたばたしていたということもあり、ボクらはつい先ほどまで会話らしい会話すら交わしていなかったのだ。でもそんなことは、もはやどうだってよかった。真夏ちゃんがついた嘘によって、今この瞬間が存在するのだから。



 真夏ちゃんに感謝しながら、ボクは努めて明るくこう言った。



「実はボクも、終業式の日は真夏ちゃんと一緒に帰れたらいいなあって、密かに思ってたんだよね」



「本当?」



「うん。だから、そんな顔しないで?」



「……ありがとう」



 白と青のコントラストが映える昼下がりの空の下、今日も夏らしく、じりじりと焼けるように暑い。



 どこからともなく漂う塩素の匂いを鼻先で感じながら、時折お互いの肩と肩を触れ合わせながら、ボクたちはきらきらとした光の中を同じ歩調で進んでゆく。
 やがて前方数十メートル先に陸橋が見えてきた。ここを通り過ぎれば、最寄り駅まであと少しだ。



「わたしたち、明日から会えなくなっちゃうね」



 不意に、真夏ちゃんの口からひどく悲しい言葉が漏れた。



 ボクはちょっぴり泣きそうになりながら、



「そんな悲しいこと言わないでよ。連絡するし、たまには会ってほしいな」



 限りなく本音に近い言葉だった。さすがに毎日会いたいだなんて自分本意なことは言えない。



 ボクの言葉の直後、なぜか数秒の間が空いた。疑問に思い、右方を向く。



「あのね、小秋ちゃん」



 そして、真夏ちゃんは気まずそうな、あるいは困ったような曖昧な笑みを浮かべ、言った。



「実はわたし、明日から丸々一ヶ月、イギリスに行くんだ」



「え」



「知ってると思うけど、わたしのおじいちゃん、イギリス人なの。でね、もう何年も会ってないから、今年こそは顔を見せにいくぞってパパがうるさくて……本当に困っちゃうよね」



 言いつつ、美少女は茶色がかった瞳を三日月形に細めるが、いやいや、笑いごとではない。断じて。
「黙ってたわけじゃないんだよ? でもほら、あえて伝えるようなことでもないかなあと思って」



 言葉が出てこなかった。真夏ちゃんに悪気がないということは百も承知している。でもやっぱり悲しいし、何より寂しかった。そんな大事なこと、真っ先に伝えてほしかった。



 陸橋を渡りながら、ボクはあれこれと考えを巡らせる。



 確かに、真夏ちゃんにとってはたったの一ヶ月なのかもしれない。けれど、ボクにはその一ヶ月が途方もなく長く、まるで今生の別れのように感じられた。



 今日中に、彼女に気持ちを伝えなければ後悔する――ボクが衝動的にそんなことを思ったのは、陸橋を渡り切ったときのことだった。



 冷静さを欠いている自分自身を、ボクは十二分に自覚していた。でも、その一方で昂り続ける感情は、いよいよ歯止めが効かないところまできていた。



「真夏ちゃん」



「ん?」



「今からちょっとだけボクにつき合ってくれないかな?」



「……うん。明日の準備がまだ残ってるから、あんまり遅くまでは無理だけど」



「大丈夫、本当にちょっとつき合ってくれるだけでいいから」



 ただならぬ決意を胸に、ボクは真夏ちゃんだけに黒目を縫いつける。



 真夏ちゃんはきょとんとした表情を浮かべながら、小首を傾げている。



 七月二十四日、火曜日。蝉のトレモロが脳天に響く、ひどく暑い午後のことだった。
 人生初の告白場所は、海と決めていた。



 遠い水平線を眺めながらのベタなシチュエーションに、昔からなぜか憧れがあったのだ。そして幸運なことに、ボクの住むA市には海がある。



「海なんて久々に来たなー」



 S駅のホームに降り立つや否や、真夏ちゃんが声を弾ませた。



 ここは、母校のあるA駅から私鉄でニ十分の距離に佇む無人駅。一日の乗車人数はグーグル調べによると平均で五十人程度らしい。地元でも非常にマイナーな駅であるため、実はボク自身ここに来るのは初めてだったりする。



 簡素な屋根と青いベンチが二つだけという、至ってシンプルな造りのホームから眺める景色は、控え目に言って絶景だった。



「小秋ちゃん、誘ってくれてありがとね」



「ううん、こちらこそ」


 あのね、真夏ちゃんと一緒に夏の思い出が作りたいの。そう言って彼女をここに誘い出したのが、ほんの数十分前の出来事。



 真夏ちゃんは明日、早朝の便でイギリスのレスターという街へと旅立ってしまう。そして、帰国は一ヶ月先。そんな事実を彼女の口から聞かされて間もなく、ボクは告白を決意した。なんとしてでも気持ちを伝えなければならない、と衝動的に思ったのだ。



 明日からのことを考えると、とてもつらい。一ヶ月会えないだけでこんなにも寂しく、切ない気持ちになるなんて、ボクは知らなかった。