目次

◎超人たち
◎歌う政治活動
◎ダウンサイジング
◎スカウト!
◎候補者の遵法意識
◎ただ出るだけ?
◎「有効投票」の是非
後記


◎超人たち

 しょむ系候補(諸派・無所属系泡沫候補、ミニ政党所属候補)の中には、人智を超越した極めて強烈な個性を放つ政策提言や宣伝活動を行なう候補も多数存在する。これらの候補にはファンも多い。中でも特に強い印象を残す候補をピックアップ。

○斉藤旾義 (はるよし)

 「全ての政治権力をマッカーサーから貰っており、政治を行なう資格があるのは自分だけ」と主張し、1989年参院選と1993年衆院選に出馬。独特の主張と手書きの選挙公報は強烈なインパクトを残し、北野誠(芸人)や竹内義和(作家)らのラジオ番組「誠のサイキック青年団」では「京都の斉藤さん」として取り上げられ話題となった。

 現在は印刷会社アルバイト。政治活動からは完全に撤退しており、突撃インタヴューをした立命館大学サイキック研究会(「誠のサイキック青年団」のリスナーサークル)に対しては「そっとしておいてほしい」と発言している。

○植木宗昌

 1996年埼玉県知事選に出馬。「石川さゆり(歌手)を首相にする」と主張。自らを「世界で唯一の天才児」と名乗り、手書きで「ウッフッフッフ・・・・。」「イッヒッヒッヒ・・・・。」などと書かれた選挙公報は話題を呼んだ。

 現在は「株式会社イオンド大学」(日本平和神軍系列の「学位」販売業者、現在は破産)から名誉博士号を貰ったと主張し、研究所を運営。アルバイトを募集している。

○蜷川澄村

 主に京都で活動。実業家で、駐車場、バックパッカーや神社仏閣巡礼者向けの安宿、人材派遣会社等を経営。「維新政党・新風」党員。

 2000年京都市長選などに出馬。「京都市の職員をすべて高齢者にする」「宇治にゴミ処理総合大学を作り日本中のゴミを集めて研究させる」「ビルの側面も土地とみなし、売買できるようにする」などの個性的な政策を掲げ、「維新政党・新風」(当時は京都に本部があった)および「いのちとみどりの市民・農民連合」から同時に推薦を受けるも落選。後に自由連合でも活動。

 近年は法螺貝を吹き鳴らすパフォーマンスや、「うかれば(当選すれば)民主党に入る」などの発言で話題となっている。

 特徴的な政見放送や選挙公報、選挙ポスター、街頭演説などが強烈な印象を残し、それをきっかけに政治への興味を強めた人もいるのではないだろうか。超人候補こそ選挙の華であるという意見もある。


◎歌う政治活動

 メディアの発達に伴い、政見放送で歌うなど、政治にエンターテインメント要素を盛り込む候補者が出てきている。本項では、政治活動に歌を取り入れている候補者を紹介する。

○深作清次郎

 黒龍会の内田良平に弟子入りしたと称し、右翼運動に参加。戦後は反ソ決死隊、議会主義政治擁護国民同盟、世界連邦日本国民会議(南俊夫一派)、大日本独立青年党(清水亘一派)、日本国民政治連合(赤石貞治一派)、正義と人権を守り明日の日本を考える救国斬奸党 (救国党、福田拓泉・撫子夫妻一派)などに所属し、各種選挙に出馬。首長選挙では日本青年社(住吉会系)の推薦も受けた。

 政見放送では軍歌「独立守備隊の歌」「橘中佐」「戦友」などを歌った。

○エイズ根絶性病撲滅国民運動太陽新党

 浪曲師の花輪治三(花輪春造とも、芸名:玉川勝若)が、救国党の福田拓泉らの支援を受け、1987年に「太陽振興会」として結党、後に「太陽新党」に改名。1989年参院選に出馬し、自作の「エイズいやいや音頭」を歌い、公娼制度復活や日本人の純潔保持などを訴えた。「いやいや音頭」はカセットテープで販売もされていたという。

 花輪は1986年に、老人福祉党の候補者として選挙に出馬している。

○安西愛子

 童謡歌手。1971年、自民党公認で参院全国区に出馬し当選、以降全国区・比例区候補として3期務める。

 1989年、70歳定年制を理由に公認を外され、引退を勧められるも拒否。「太陽の会」を結成して参院選に出馬した。政見放送では童謡「てるてる坊主」を歌い、「女性は家庭を守り、尽くすべき」と訴えた。

 現在は日本福祉党顧問、日本会議副会長などを務めている。尚、太陽の会の選挙候補者には、板垣英憲(政治評論家)などもいた。

○真理党

 1990年衆院選に関東地方で25人を擁立し、確認団体として出馬。毒ガス・サリン散布による無差別大量殺人などの各種事件を起こしたカルト宗教団体「オウム真理教」(後継団体に「Aleph(アレフ、アーレフ)」、「ひかりの輪」、「ケロヨンクラブ」など)を母体とする。党首は松本智津夫(麻原彰晃)。

 街頭で、信者の作詞作曲した「彰晃マーチ」「魔を祓う尊師の歌」「はばたけ!明日に向かって」などを歌いながら、麻原の等身大マスコットや象の着ぐるみを着用して踊るなどのパフォーマンスを行なった。候補者は大勝を確信していたが、結果は全員供託金没収で落選するという大敗を喫した。麻原は不正選挙を主張し、数々の事件を起こすに至った。

 尚、この衆院選出馬直前に、松本らは坂本堤弁護士一家の殺害を実行している。

○内田裕也

 1991年都知事選に出馬。スポーツ平和党党首で参院議員だったアントニオ猪木(猪木寛至)が、佐川清(佐川急便会長)、福田赳夫、森喜朗、三塚博(いずれも自民党代議士)らに説得され、磯村尚徳(元NHKキャスター、自民党・公明党・民社党・スポーツ平和党推薦)と政策協定を結び都知事選出馬を撤回した事に影響されての出馬だった。

 政見放送はほぼ全て英語、一部フランス語でスピーチし、前半はジョン・レノン「Power to the People(邦題「人々に勇気を」、直訳「人民に力を」)」、エルヴィス・プレスリーらが歌いヒットした「Are You Lonesome Tonight?(邦題「今夜はひとりかい?」)」を、後半は頭脳警察「コミック雑誌なんか要らない」を熱唱した。

 尚、内田の出馬の顛末や、政見放送の一部は映画「魚からダイオキシン!!」(監督:宇崎竜童)で見る事が出来る。

 又、この都知事選には中松義郎(ドクター中松、新自由クラブ・サラリーマン新党・新政クラブ・環境党・ 主権在民党・UFO党・新文明党・新民主党推薦)、東郷健(雑民党)、浜田マキ子(自民党代議士浜田卓二郎の妻)、対馬テツ子(緑の党三橋派)、福田拓泉(大日本誠流社、北方領土返還推進連盟推薦)、橘高明(アジア建国党)、岡田三男(全日本ドライバーズクラブ)、志良以榮(国民党)、南俊夫(世界連邦創設委員会)、三井理峯(「我は平民」著者)、増田眞一(政事公団太平会)らが出馬していた。

○日本福祉党

 1986年、老人福祉党として有田正憲(右翼活動家)や林隆造(元自衛官)らを中心に結党。有田は日本国民政治連合、議会主義政治擁護国民同盟などの結成にも関わっている。1987年には、福田拓泉の救国党と同一住所を事務所とした。1988年には、林隆造が「老人福祉研究会」を結成、後に林は松崎泰夫や東三元らを迎えて別個に老人福祉党を結党し、分裂。更に花輪治三は、福田らの支援を受け太陽新党を結党し独立。その後有田派は1991年で活動を停止し、老人福祉党は林・松崎・東派一本となる。1995年、日本福祉党に改名。安西愛子(元太陽の会、日本会議副会長)を顧問に迎える。

 1995年参院選では、党首の東が政見放送で「故郷」「四季の歌」を手話付きで歌った。手話は地元の手話サークルで習った物だという。1996年開催の10周年記念大会では、安西、日野原重明(医師)、田中真紀子(代議士)らが祝辞を述べた。その後は徳田虎雄らの自由連合の公認として国政選挙に候補者擁立をしていたが、2001年に供託金高騰などを理由に候補擁立断念を発表。以後、活動は停滞している。

○斎藤寿々夢(斎藤進)

 演歌歌手、不動産実業家。1992年に、進歩党(新自由クラブの後継政党)から分裂した進歩自由連合から参院選に出馬。1995年には文化党代表として、1998年には無所属で、それぞれ参院選に出馬した。1998年参院選では、自ら作詞した「こんな日本に誰がした(BUBBLE)」を政見放送で熱唱し、歌詞を選挙公報やビラに掲載した。

 現在は故郷の栃木県で事業と政治活動を行なっている。

○川上俊夫

 1999年都知事選に出馬。ニューヨーク大学大学院修了後、山一證券、メリルリンチ、シティバンク勤務を経て、現在ベンチャー企業(国際電話会社)社長。シェアハウスも経営している。

 政見放送では、他候補を「甘言を弄している」と非難し、「自身のホームページで、メールを通じて支持者と意見交換を行なっている」など、後のネット選挙にも繋がるようなアピールを行なった。後半で童謡「ほたるこい(蛍来い)」を歌い、他候補の政策を「甘い」、自身の政策を「苦い」と表した。

 この都知事選には、津田宣明(ノブアキ・ツダ・インタナショ・ジェネ・マネ)、佐藤文治(政治団体「21世紀の星」公認、「健幸美・整体院」経営)、大網義明(僧侶)、羽柴誠三秀吉(三上誠三)、立岡正一(政治団体「防人」推薦)らが出馬した。

○青島幸男

 2004年参院選に、東京都選挙区から出馬。この選挙では従来の全国区・比例区ではなく、地方区での出馬となった。作家・俳優・映画監督・歌手・画家などマルチな才能を発揮し、1968年、市川房枝に賛同して参院選に出馬、当選。後に第二院クラブ(野坂昭如、コロムビア・トップ、いずみたく、山田俊昭、佐藤道夫、青島美幸らが所属)の代表を務める。1995年には東京都知事に就任するも、1999年に都知事を引退。2001年参院選には落選している。

 政見放送では、青島が作詞し植木等が歌ってヒットした「ドント節」の替え歌を冒頭・中盤・後半の計3回、身振り手振りを付けながら陽気に歌い、合間に参議院の独立の重要性を訴える演説を行なった。

 この参院選には、増元照明(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会事務局長、特定失踪者問題調査会常務理事)、上田哲(元「社会党」委員長、元護憲新党あかつき委員長、元日本社会党教育宣伝局長)、又吉光雄(又吉イエス、世界経済共同体党代表、元世界キリスト教会牧師)らが出馬した。

○外山恒一

 2007年都知事選などに出馬。ストリートミュージシャン。当初は「日本破壊党」などで無政府主義者(アナーキスト)として活動し、現在はファシストに転向。「我々団」を結成し、政治活動を展開中。街頭ではギターを演奏し、歌いながら演説を行なった。

 この都知事選には、黒川紀章(建築家、共生新党党首、右翼団体「日本会議」代表委員)、桜金造(コメディアン、創価学会員)、内川久美子(内川あ也、風水研究家)、山口節生(不動産鑑定士、政治団体「東西冷戦後又左右のイデオロギーの終えん後、イデオロギーを超えてカントの『永遠平和のために』の反改憲論をよく読み、ヒットラー的自由な解散権の恐怖と核爆弾、徴兵制を目指す改憲を政治的強さの立場から絶対阻止する団体」代表。略称「カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会」「カント平和で親ナチ的改憲阻止最高裁訴訟会」)、鞠子公一郎(ディレッタント、好事家)らが出馬した。

○マック赤坂

 実業家、セラピスト。2007年港区議選より政治活動を開始し、各種選挙に出馬。街宣活動では、尾崎豊の「15の夜」、植木等の「スーダラ節」、美空ひばりや加山雄三などの楽曲を歌い、「スマイルダンス」「スマイルビクス」と呼ばれる独特のダンスやエアロビクスを踊りながら演説を行なっている。その激しい活動の様子は、藤岡利充(映画監督)の映画「立候補」及び著書「泡沫候補」(ポプラ新書)に詳しい。

○松下満幸

 2010年長崎県知事選に出馬。元旋盤工、元ドライバー。サテン(繻子織り)地でピンク色のピカピカ光るワイシャツを着て登場し、独特のしゃがれ声と節回しで浪曲(浪花節)「清水次郎長伝」を歌いつつ、左の手の平に目玉の様な不気味なマークを書き、その手で机を激しく叩きながら「ナンバーワンッ!ナンバーワンッ!ワンワンッ!」と繰り返し絶叫する姿や、「松下幸之助の息子」を自称したり、「英語の勉強」と称して英語の簡単な挨拶を披露したり、演説中突然泣き出したりするなどの姿は、見る者に衝撃を与えた。

 この選挙では山田正彦(無所属)ら7人が出馬したが、松下は最下位で落選。選挙公報提出以外一切選挙活動を行なわなかった山田にも負ける結果となった。

○新藤伸夫

 打出党代表、学生向けアパート経営者、高校社会科教師。2013年参院選に、京都府選挙区から出馬。自らを「そのままマイケル・ジャクソン」と主張。政見放送では、「君が代」の歌詞を改変し、独自のメロディを付けたオリジナルソング「国歌・我が君が代」や、党歌「打出の小槌」を熱唱した。

 新藤は京都大学理学部及び文学部卒。マック赤坂とは同い年で、出身大学も同じだが、面識があったかどうかは不明。

 その他、歌手活動の経験がある政治家としては、ミルク082(ミルクおやじ、村川徳浩)、喜納昌吉、青木愛、三原じゅん子(三原順子)、川条志嘉、中山千夏、野坂昭如、山口淑子(李香蘭)、石田一松らがいる。又、田嶋陽子のように、議員退任後に歌手活動を始めた者もいる。落選した候補者としては、三宅洋平、ZAKI(野崎昌利)、梅蘭、千葉マリア、戸川昌子、玉元一夫(フィンガー5)、嵐(横浜銀蠅)、林寛子(扇千景の本名とは別人)、若井ぼん、月亭可朝、庄野真代、伊藤洋介(東京プリン、元シャインズ)、雅(金本真広、GELLONIMO)、TOKMA(椙杜徳馬)、河口純之助(元ザ・ブルーハーツ)、大門一也(元Project DMM)らがいる。

 更に、候補者の演説や歌に伴奏を付けたり、候補者の演説を繋ぎ合わせて新たな音楽にしたりした動画(所謂「政見放送MAD」)が各種投稿サイトに掲載されている。政治活動と音楽の融合を図る試みに、今後も注目である。


◎ダウンサイジング

 政治を志す者の傾向としては、市区町村議会議員や都道府県議会議員を経て国政を目指すという様に、経験を積むに従って活動範囲を広げていく事が多い。しかし、その逆もある。此処では、国会議員から地方議員、都道府県議から市区町村議、首長から議員など、活動範囲をより小さくしていった議員や候補を紹介する。

○鈴木東民

 ジャーナリスト。読売新聞社に入り、後に編集局長となる。労働運動でも活躍。戦後は共産党に入党し、参院選や衆院選に出馬したが落選。参院選では全国区ではなく、当選確率の低い岩手県選挙区に回された事に不満を漏らし、岩田英一(共産党准中央委員、元都議、後に右翼に転向)らと激しく対立していたという。その後共産党を離党し、労働者農民党に移籍。衆院東京5区に出馬したが落選した。

 落選後は大学講師を務め、1955年、反公害・反自民・反労働組合を掲げて釜石市長選に出馬し当選。革新市長と捉えられていたが、一方で在職中は労組の活動抑制に奔走し、椎名悦三郎(元自民党副総裁、無所属の会・椎名素夫の父)に絶賛された。連続3期務めたが、1967年に落選。しかし同年の釜石市議選に出馬し、トップ当選を果たす。

 市長落選直後の市議への転身については、トップ当選という事で人気を見せ付けた一方、冷ややかな目で見る向きもあったという。市議2期目を目指した1971年の市議選では、現職にもかかわらずブービーで落選、そのまま引退した。尚、鈴木の半生については鎌田慧「反骨」(講談社)に詳しい。

○尾形智矩

 2度の衆院選落選を経て、1977年苅田町長選に当選。3期目途中の1986年、衆院選に自民党公認で出馬し当選する。しかし、87年に町長在任中の住民税8千万円が使途不明金となっており、裏金として選挙資金に使われたのではないかという疑惑が持ち上がり、業務上横領で刑事告発される。最終的には不起訴となったものの、尾形の資金管理者が自殺したり、苅田町が尾形らに住民税5千万円流用の損害賠償請求訴訟を起こすなどの事態となった。

 1990年衆院選に落選、1991年苅田町議選に当選。国会議員が町議会議員に転じた事例は珍しく、当時は話題になったという。1期途中の1994年に苅田町長選に出馬し落選。以後、2008年に死去するまで4回町長選で落選を続けた。

○中村力

 郵政官僚を経て、1990年衆院選に旧岩手1区から出馬し落選、1993年衆院選に当選。無所属だったが、父・中村功が組織する政治学習・政治家養成団体「経営者漁火会」や右派政党「青年自由党」の系列候補として注目された。当選後は自民党会派に入る。

1996年衆院選に落選後、1998年参院選に自民党・青年自由党推薦で出馬するが、椎名素夫(後に政党「無所属の会」代表)らに敗れ落選。2000年、2003年衆院選でも落選する。2003年からは自民党に入党するも、2005年以降は公認を外され、暫く政治の表舞台から姿を消していた。

 2010年、みんなの党に入党し、11年には岩手県知事選出馬を表明するも、直前で断念。代わりに県議選に出馬するも落選した。

 父の中村功は東日本ハウス創業者。功は銀河高原ビールや大江戸温泉物語、けんじワールドなどの経営にも関与し、経営者漁火会、青年自由党などを組織、旧日本軍を賛美する映画「プライド・運命の瞬間」「ムルデカ17805」を制作するなど、幅広く経済・政治活動を展開していた。

○倉林明子

 福島県西会津町出身で、父は元町議会議員の三瓶猛。看護師を経て、1994年京都府議補選(中京区選挙区、定数1)に共産党公認で出馬し当選。しかし、任期途中の1995年に京都市議選に出馬し当選、5期務めた。

 市議任期途中である2013年、参院選に京都府選挙区から出馬し当選。この選挙では、対立候補の1人である北神圭朗(民主党元代議士)の陣営が自民党・公明党に票の融通を要請したり、京都府知事・京都市長らがこぞって倉林の落選運動を展開したりするなど、熾烈な選挙戦が展開された。

○知久馬二三子

 中学校卒業後、三朝町職員・図書館長等を経て、1996年衆院選に鳥取1区と比例中国ブロックの重複立候補で社民党から出馬するが落選。1997年に三朝町議選で当選するが、1999年、比例中国ブロックで当選していた秋葉忠利の広島市長選出馬により繰り上げ当選となった。

しかし、2000年衆院選で落選し、2001年三朝町議選に再び当選、2013年まで町議を務めた。その間、社民党鳥取県連合代表なども務めた。

○原陽子

 大学院在学中、社会民主主義政党の国際組織「社会主義インターナショナル」の青年大会などに参加。2000年、大学院科目等履修生のまま社民党公認で衆院選に神奈川14区と比例南関東ブロックの重複立候補で出馬し当選。25歳4ヶ月での当選は国会議員最年少記録であり、現役女子大生の当選という事も話題となった。ショートヘアの風貌から「政界のヒロスエ(広末涼子)」「よっきゅん」などの愛称で呼ばれた。

 2001年、アメリカ同時多発テロ事件に際し、「アメリカ自身の外交政策の拙さからきた物」と批判するが、「『ざまーみろっ』って思っている国だってきっとある」との文言が右派勢力を中心に「テロを肯定している」とバッシングを受け、謝罪に追い込まれた。

 2003年衆院選で落選し、2004年静岡県議補選に出馬したが、次点で落選した。その際、社民党に離党届を提出し、民主党推薦で出馬した事から、社民党から政党鞍替えを批判され、除名処分が下った。

 県議選落選後は裾野市臨時職員を経て専門学校に入学・卒業し、社会福祉士資格を取得。障碍者向けの人材紹介会社に勤務している。

○熊代昭彦

 厚生官僚を経て、1993年衆院選に自民党公認で当選。2001年には小泉政権で内閣府副大臣・首相補佐官を務める。2005年の郵政民営化法案採決では反対票を投じ、公認を外され、「刺客」として萩原誠司(当時は岡山市長、後に新党改革へ移籍)を送り込まれた。2005年衆院選には出馬せず、萩原の抜けた岡山市長選に出馬するが落選。2007年、国民新党から参院選に比例区で出馬するも落選、その後離党。2009年衆院選には無所属で出馬するが、落選した。

 2010年、地域政党「市民の党『自由と責任』」を結党。2011年岡山市議選に出馬し、当選した。副大臣・首相補佐官経験者の市議転進は特異に映り、「議員の肩書きが欲しいだけではないか」との批判もあったが、「地域に密着した仕事に取り組むため」と反論した。2012年には、大阪維新の会の影響で結成された岡山維新の会の幹事長となった。

その後、2013年岡山市長選に出馬し落選。同選挙の投票日直前、投票を要請する無届の文書を市内の町内会長に郵送していたとして、公職選挙法違反で書類送検された。

 他には、旅田卓宗(和歌山県議→和歌山市長→和歌山市議)、平賀高成(代議士→静岡県議選落選)、田中英夫(亀岡市長→代議士→京都府議)、伊藤憲一(代議士→大田区議)らがいる。地方政治を国政への腰掛とせず、むしろ国政を経験する事で地方政治の価値を見出すという事があっても良いかもしれない。