三章
「はぁぁ」
思わず深いため息をついてしまう柚子。
あれからも芹は変わらず屋敷に住み、昼間は玲夜とともに会社へ向かい、一緒に帰ってきて夕食を食べる。
柚子以上に玲夜にべったりな芹に、気分がいいわけがない。
しかも、隙があれば柚子に毒を吐くのだ。
そのたびに龍と子鬼の顔が凶悪になっているのだが、柚子が必死で止めている。
攻撃しようものなら、鬼の首を取ったように、大騒ぎしそうだからだ。
そういうところも玲夜としっかり話し合いたいものの、玲夜の仕事が忙しい上に芹が邪魔をして、なかなかふたりきりでゆっくりと会話する時間も取れない。
なぜ玲夜はこんなはた迷惑な芹をそばに置いておくのか。
柚子が嫌がっていることはちゃんと伝えたというのに、芹が屋敷から出ていく様子はない。
芹と口論になる時は柚子の肩を持ってくれるものの、それ以上動いてくれない玲夜に対する不信感が募る。
モヤモヤとしたものが心の内に溜まり、こんな状態で結婚などできるのだろうかと、日を追うごとに不安が積み重なっていく。
まさか結婚した後も芹が居着いてはいないだろうなと、最悪な予想が頭をよぎり怖くなる。
「マリッジブルー?」
そう問うように口にしたのは蛇塚だ。
つわりでしんどい透子には相談がしづらく、最近の相談相手はもっぱら蛇塚となっていた。
そんな蛇塚に芹のことを話しつつ、玲夜とやっていけるか心配になってきたと告げたところ、先ほどの言葉が返ってきたのだ。
「マリッジブルー……。そうなのかなぁ?」
聞かれても経験のない蛇塚には分からないだろう。
困ったようにこてんと首をかしげる。
「透子に相談したみたら?」
「透子もつわりで辛そうだしなぁ。私のことで煩わせるのも申し訳ないし。なにより、透子がマリッジブルーなんて繊細な気持ちが理解できると思う?」
「……思わない」
透子ならマリッジブルーなんてもの、感じた瞬間に丸めてゴミ箱に捨ててしまうだろう。
頼もしいが、相談相手には向かなそうだ。
「むしろにゃん吉君の方がマリッジブルーになりそう」
蛇塚は苦笑を浮かべ頷いた。
繊細さで言えば確実に東吉に軍配があがるだろう。
まあ、その東吉は透子と籍を入れられて浮かれまくっているので、無駄な心配だろう。
「……私って性格悪いかな? どうしても彼女のこと好きになれなくて、早く出ていってって思っちゃう」
嫉妬などとかわいらしいものではない。
嫌いで嫌いで仕方ない。おそらく向こうも同じ気持ちだろうと思っている。
芹の顔も見たくない。玲夜に早く追い出されることを願う自分の性格の悪さに自己嫌悪してしまう。
『柚子は悪くない。我もあの女は好かぬ』
「あーいあい」
「あいあい!」
龍の言葉に子鬼も激しく頷く。
『それにしても大事な花嫁が困っているというのになぜあの男は放置しておるのだ? 我には理解できぬ。やつができぬと言うならいっそ我らで追い出すか』
不穏な空気を漂わせる龍からは冗談は感じない。
「駄目だって。玲夜がいることを許してるんだから、勝手に追い出す権利なんてないもの。私だって置いてもらってる立場なわけだし」
『柚子は花嫁であろうが! あの女とは立場がまったく違う!』
確かに柚子は女主人として屋敷の使用人たちからも認められているし、玲夜は結婚していなくともそのように扱うよう使用人たちに厳命している。
だが、やはりあの屋敷の絶対君主は玲夜なのだ。
いかに芹が使用人たちからも不満を持たれていようと、龍や子鬼が怒り爆発寸前だとしても、さらにはすでにまろとみるくが芹を追い出すべくいたずらを開始していようとも、玲夜が許している以上追い出せない。
「なにか考えがあるんじゃないかな?」
蛇塚は冷静にそんなことを口にした。
「考えって?」
「それは分からないけど、あやかしにとって花嫁は絶対だ。小さな害悪にだってさらしたくない。真綿で包むように大切にしたいのに、あえてそんな女を見すごしているということは、それなりの理由があるはずだと俺は思う」
花嫁を持ったことのある蛇塚の言葉には説得力があり、柚子はなにも言えなくなる。
「もう少し信じて待ってみたら? あやかしが花嫁を裏切ることは絶対にないから」
蛇塚の言葉はとても静かに柚子の中に落ち着いた。
「……そうだね。蛇塚君の言うようにもう少し様子を見てみる」
「うん。柚子はいい子。頑張れ」
柚子の出した答えに、蛇塚は優しく微笑んで、頭をぽんぽんと撫でる。
と、その時、冷気が柚子を襲った。
「寒っ」
ぶるりと肩を抱いた柚子は辺りを見回して、「あっ」と声を上げる。
柚子の視線の先には、以前にも見た白髪の女の子。
今日もじっとにらみつけている。
四年生になってからたびたび目撃するようになっていた彼女は、柚子が視線や冷気を感じた時に必ず近くで柚子を見ていた。
何度か柚子の方から声をかけようとしたが、近付くとすたこら逃げていってしまう。
そしてまた離れたところから柚子をにらむのだ。
まるで野生の小動物に遭遇してしまったような気持ちになる。
蛇塚と面識があるようなので彼女のことを聞くと、彼女の名前は白雪杏那。
雪女の一族の子で、大学一年生らしい。
どんな関係なのかと問うたら、蛇塚からはなんとも曖昧な回答が返ってきた。
なぜ柚子をにらんでいるのかも不明のまま、特に害はないからという蛇塚の言う通り、一定距離以上近付いてくることはないので放置することにしている。
それからしばらく経ったある日。
カフェで東吉と蛇塚を待っていると、蛇塚が白雪を連れて姿を見せた。
ようやく近寄ってくる気になったのかという思いより、そのふたりの手がつながれていることに目がいった。
それは東吉も同じようで、ふたりの手に目が釘付けとなっている。
「杏那も一緒にいい?」
「う、うん」
「どうぞ……」
唖然としたまま頷いた柚子と東吉はひそひそと話し始める。
「えっ、にゃん吉君、このふたりどういう関係?」
「俺が知るか」
「これってそういうこと? だよね、だよねっ?」
ちょっと興奮してきた柚子と驚きを隠せない東吉に、蛇塚が「あのさ」と、話し始めたことでふたりも姿勢を正す。
「彼女、白雪杏那。前にも話したと思うけど」
「はじめまして、白雪杏那です!」
少しおどおどしながら必死に挨拶をする白雪は小動物を連想させ、なんともかわいらしい。
「それで、ふたりが柚子と東吉」
「はじめまして」
「おう。よろしく」
蛇塚に紹介され、柚子と東吉も頭を下げて挨拶する。
「それで、まずは杏那が柚子に謝りたいって」
「えっ、私?」
名指しされた柚子は首をかしげる。
そんな柚子に白雪は深々と頭を下げた。
「これまで大変失礼をいたしました。最近柊斗さんが柚子さんとばかりいるのが嫉ましかったんです。しかも貴重な笑顔まで向けられているのを見てしまったら我慢ができなくて、思わず柚子さんを凍らせそうに……。くっ、柊斗さんの笑顔っ。私だって滅多に見せてくれないのに、なんて羨ましい!」
思い出して再び怒りがぶり返したのか、杏那から冷蔵庫に閉じ込められたかのような冷気が溢れる。
東吉が寒さのあまりくしゃみをした。
周りのテーブルの人たちも、寒さに震えている。
「杏那、漏れてる」
蛇塚に肩を叩かれてはっと我に返った杏那が「ああ! すみません!」と言って冷気を収める。
さすが雪女。
鬼である玲夜は青い炎を使うが、雪女は冷気を扱うらしい。
どうやら知らぬうちに柚子は凍らされそうになっていたようだ。
そう考えると背筋がひやりとする。
「杏那は柚子にやきもち焼いてたんだ」
「なるほど」
柚子も合点がいった。
やはり他の誰でもなく自分がにらまれていたようである。
だが、今はそれよりなにより気になったのは別のこと。
「えっと、やきもちって、それってつまりはその……。ふたりの関係は……」
「うん。付き合い始めた」
蛇塚が決定的な言葉を口にする。
「実は以前から柊斗さんのことが好きだったんです。でも、その時は柊斗さんには花嫁がいて、あきらめようって……。だけど今はフリーだって話を聞いて告白しようと決めて。最初はいい返事はもらえなかったんですけど、あきらめきれなくて何度も何度もアタックしてたら、先日やっとオッケーをいただきました」
恥じらいながらはにかむ白雪はまさに恋する乙女だった。
「ふあぁぁ!」
柚子は驚きと興奮と喜びがごちゃ混ぜになった声をあげる。
梓という花嫁を失ってから数年。
ずっと色恋には無関心だった蛇塚。
そもそも花嫁を得られなかったあやかしが次の相手を見つけるのは難しいとされている。
それだけあやかしにとって花嫁の存在は大きいのだ。
けれど友人である柚子たちはずっと願っていた。
どうか蛇塚にも新しい縁がありますようにと。
そんな蛇塚にとうとう彼女ができたのだ。興奮するなという方が無理がある。
「にゃん吉君! にゃん吉君!」
柚子はバシバシと東吉を叩いた。
興奮が抑えきれない。
「落ち着け、柚子!」
「落ち着いてなんていられないよ。はっ、透子に報告しないと!」
素早くスマホを取り出して透子に電話する。
すぐに出た透子に感情を抑えられぬまま報告すると、電話の向こうでも騒ぎ出した声が漏れて蛇塚に届いた。
ひと通り透子と一緒に騒いだ柚子は落ち着きを取り戻し、電話を切ると、透子からの伝言を伝える。
「蛇塚君。透子が今度彼女連れてこいって。盛大にパーティーしようって言ってた」
「うん」
蛇塚は嬉しそうに小さく微笑んだ。
その表情はとても幸せそうで、柚子まで嬉しくなる。
「透子から根掘り葉掘り聞かれると思うから覚悟しといた方がいいよ」
「透子は容赦ないからな」
東吉が苦笑しながら蛇塚を見るその眼差しも、やはり優しいものだった。
東吉も蛇塚のことはずっと気にしていたのだろう。
「そうだ。言い忘れてたけど、おめでとう、蛇塚君」
「ありがとう」
今度は満面の笑顔で応える蛇塚に、柚子も笑い返すと、ひゅうぅぅと冷気が襲う。
「柊斗さんの笑顔を独り占めするなんてずるい……」
「えっ、えっ」
戸惑う柚子になおも冷気はとどまることをしらない。
「杏那、柚子は友達」
「そ、そうですよね。私ったらつい」
柚子に向かって「ごめんなさい」と謝る白雪は、先ほど嫉妬に怒り狂った怖い顔とは似ても似つかぬしょんぼりとした庇護欲を誘う顔をしている。
「雪女は嫉妬深いあやかしで有名だからな。気をつけろよ、柚子。へたすると凍死するぞ」
ぽそりと東吉が忠告する。
「ははは……。クーラーいらずだね……」
柚子からは乾いた笑いが出てくる。
これからは夏でも毛布が必需品になるかもしれない。
彼女の前で不用意な発言は気をつけようと柚子は心に誓った。
***
その日は待ちに待った日。
柚子は朝からそわそわしながら大学に行き、講義が終わると急いで帰ってきた。
「ただいまかえりました!」
「おかえりなさいませ、柚子様」
玄関に入れば雪乃を始めとした数人の使用人が出迎えてくれる。
「雪乃さん。例のものは」
期待に目を輝かせる柚子に、雪乃はにっこりと微笑む。
「もう届いておりますよ。衣装部屋に飾っております」
「見に行ってもいいですか?」
「ええ、もちろんでございます。ですが、その前に荷物をお預かりいたしますね」
柚子はまだ靴すら脱いでいないことを思い出して、慌てて雪乃に鞄を渡し靴を脱ぐ。
本当は駆けていきたいのをぐっとこらえ、しずしずと歩く雪乃の後についていく。
向かった衣装部屋は、柚子がこれまでに玲夜や玲夜の両親からいただいた着物を置いてある和室の部屋だ。
出かけるために着物の着付けをする時もこの部屋を使っている。
その部屋のふすまを開けると、一番に目に入ってきたのは色鮮やかな赤。
衣桁にかけられた着物は、以前に玲夜とともに行った呉服店で選んだ結婚式のための色打ち掛け。
選んだ時は生地だったが、それが仕立て終わったのだ。
今日届くと聞いて、大学をずる休みしたくなったほどに待ち遠しかった。
「うわぁ」
想像以上の美しい仕上がりに柚子から感嘆のため息が出る。
「あーい」
「あいあい」
子鬼たちにも着物の素晴らしさが伝わったのか、着物の前をぴょんぴょん飛び跳ねる。
柚子も同じように飛び跳ねたいほどに嬉しいが、雪乃がいるので我慢だ。
大学生にもなって子供っぽい姿を見せられない。
「雪乃さん、これ触っても大丈夫ですか?」
「当然でございます。柚子様のお衣装ですもの」
恐る恐る手を伸ばし、壊れ物を扱うようにそっと触れた。
自分のための衣装。
ドレスの方はまだだが、こうして結婚式のための衣装が手元に来ると想像してしまう。
これを着て玲夜の隣に経つ自分の姿を。
「柚子様、上から羽織ってみますか?」
「えっ」
雪乃の提案には心引かれた。けれど……。
「うーん。着たい……けど、今はやめておきます。玲夜にも見てほしいから」
「そうですね。きっとお喜びになりますよ」
雪乃は微笑ましげに表情を和らげた。
これを着てみせた時の感動は、ぜひ玲夜と共有したかった。
「白無垢も後日届けに参るとのことです。楽しみですね」
「はい!」
雪乃が去った後もその場に居続けた柚子は、飽きることなく赤い色打ち掛けを見てはうっとりとしていた。
「はぁ、綺麗……」
『確かに見事な着物だな』
「でしょう?」
『ところで我のは届かなかったのか?』
そう言えば龍も自分の衣装を注文していたのを思い出す。
「雪乃さんはなにも言ってなかったけど?」
『なんと!』
「白無垢もまだだからその時に一緒に届けてくれるんじゃない?」
『そうかそうか』
ころりと表情を変えて嬉しそうににんまりする龍。
「どんな衣装にしたの?」
『それは当日のお楽しみだ』
「変なの着ないでね」
『任せておけ!』
自信満々なのが逆に不安だ。
「そう言えば、結婚式をする時に使う桜はどうするんだろ?」
『む?』
「ほら、鬼の一族の結婚式は本家で行われるでしょう? その時に盃に桜の花びらと血を落として飲み干すの。けど、その桜の木は不思議な力をなくして花を咲かさなくなったからどうするのかなって」
大昔より本家にあった不思議な力を持った桜の木は、枯れることなく年中花を咲かせていた。
その桜の木は、初代花嫁の心残りが解消されたとともに枯れていった。
その後、鬼の一族では枯れない桜が枯れたと大騒ぎになったと聞いた。
まあ、それは玲夜の父親で当主でもある千夜がうまく収拾したらしい。
しかし、式にはその桜の花びらを使っていたので、枯れてしまっては使えない。
毎年本家で行われている春の宴も、今年はその桜が咲かなかったと中止になったほどだ。
結婚式への影響はどれほどのものなのか気になる。
『それなら大丈夫であろう。桜の木は枯れたのではなく、力をなくして普通の木になっただけだ。さすがに今年は咲かなかったが、式をする来年の春にはちょうど満開に桜が咲いている頃合だろう』
「そっか。それなら安心ね」
鬼の一族よりもその辺りのことには詳しい龍がそう言うのなら間違いはないだろう。
心配事がひとつ解消された。
しばらく堪能した後、夜帰ってきた玲夜の手を取り、着物を飾ってある部屋に直行した。
早く見せたくて仕方なかった柚子の喜びを理解したかのように、玲夜も穏やかな笑みを浮かべる。
部屋の入口から、無表情で立っている芹には気付かず、ただひたすらに喜びを玲夜へと伝え続けた。
翌朝、まだまだ見足りない柚子が、着物のある和室へ行くと、なんとそこには無残にも黒い液体で汚された色打ち掛けがあった。
「なに、これ……」
絶望にも似た気持ちで呆然と立ち尽くす柚子の腕に巻き付いていた龍が離れ、色打ち掛けへと鼻を近付ける。
『むっ、これは墨汁だな』
「墨汁……。なんで? 誰がこんなこと……」
その時、くすりと笑う声が聞こえて振り返ると、顔を歪めて嘲笑う芹の姿が。
「まさか、これ芹さんがやったんですか?」
考えたくない。いくら芹だもここまでのことをするとは思いたくはなかった。
「なにそれ。私がやったなんて証拠があるの!?」
激昂する芹に、気圧される柚子。
「ありませんけど。でも、いま笑ってたじゃないですか」
「それが証拠になるわけないじゃない。そんなことで人を疑うのやめてよね。そんな性格だから嫌っている誰かにいたずらされたんじゃないの?」
「っっ」
言い返せない。
確かに証拠はどこにもないのだ。
すると、柚子の足下をまろとみるくが撫でるように歩く。
「アオーン!」
「あい?」
「みゃーん」
「あいあい?」
子鬼がトコトコとまろとみるくに近付き、なにか話し出すとそれに応えるようにまろとみるくも鳴き声をあげている。
すると、龍もその会話に加わる。
『それは本当か!?』
「アオーン」
「あいあいあい」
柚子には分からない会話が終わると、全員の視線が芹に向けられる。
子鬼は目をつり上げ、龍は怒りを爆発させた。
『やはり貴様ではないか! 貴様が柚子の大事な着物を汚したのだな!』
「な、なにを根拠に」
『猫たちが見ておったのだ。夜中に黒い液体の入ったボトルを持ってこの部屋に入っていく貴様をな!』
「猫たちって。猫が証人になるわけないでしょ。馬鹿にしてるの!?」
芹は顔を赤くして反論している。
『こやつらは霊獣だ。ただの猫と一緒にするでないわ!』
「アオーン」
「ニャーン!」
そうだと言うように鳴くまろとみるくは、芹の足に飛びついて思いっきり噛みついた。
「きゃあ! 痛い!」
じたばたと暴れる芹は必死で二匹を振り払おうとするが、二匹はてこでも離れない。
「痛い、痛い!」
へんてこな踊りをするように足を動かし大暴れする芹に、使用人たちも何事かと集まってくる。
そして、部屋の中に飾ってある色打ち掛けに視線を向けて絶句するのだ。
「うそ、ひどい」
「あれは柚子様の花嫁衣装ではないか」
「なんてこと」
『この女がやったのだ!』
龍の怒鳴るような声は十分使用人たちの耳に届き、怒りの含んだ眼差しが芹に向けられる。
そこでようやくまろとみるくも芹から離れた。
使用人頭がすっと前に出てきて芹に問う。
「芹様、霊獣様のおっしゃることは本当ですか?」
「関係ないでしょう!」
「私は事実かを聞いておるのです!」
非難混じりの眼差しがその場にいた使用人全員から向けられ、さしもの芹もじりじり後ずさる。
そこへ現れた玲夜は居並ぶ面々を見て眉根を寄せる。
「なんの騒ぎだ」
「玲夜」
芹は味方を得たりと言わんばかりに表情を明るくした。
「玲夜、ひどいのよ。皆して私を犯人扱いしてきて」
すがりつく芹を引き剥がし、玲夜が見たのは、黒く汚れきった色打ち掛けの前で力なく座り込む柚子の姿だった。
「これは……」
さすがの玲夜も、この惨状には言葉もないようだ。
しかし、すぐに意識は柚子へ向かう。
「柚子」
座り込む柚子の横に膝をつき、頬に手を伸ばしうつむいた顔をあげさせる。
その顔は涙に濡れていた。
たくさんの中から悩みに悩んでやっと決めた色打ち掛け。
昨日やっとできあがったものが届いたばかりだったのだ。
もったいなくて、まだ一度も袖を通してすらいない。
そんな大事な衣装が汚されてしまった。
しかもよりにもよって墨汁だなんて。
墨汁では、きっとクリーニングしたところで綺麗には落ちない。
もうこれを結婚式で着ることは不可能だろう。
もう、悲しいのか怒りなのか分からない感情で埋め尽くされていく。
「玲夜……。芹さんを、彼女をここから追い出して」
これまで思ってはいても決して口には出さなかった願い。
けれど、これ以上は無理だ。
「お願いっ」
玲夜の服をぎゅっと掴んで涙が溢れた目で懇願する。
玲夜は柚子の手をそっと外し立ち上がった。
「本家に行ってくる」
それは柚子が望んだ答えとは違っていた。
「玲夜っ!」
柚子は声を枯らさんばかりに叫んだが、玲夜はそのまま行ってしまった。
どうしてこんな状況で本家に行くのか。他に優先すべきものがあるのではないのか。
もう玲夜を信じていいのか分からなくなった。
「ふっ、うっ……」
ぽろぽろと次々に涙がこぼれ落ち、畳へと染みこんでいく。
そんな柚子に雪乃が駆け寄り肩に手を乗せる。
「柚子様、一度お部屋に戻りましょう」
「アオーン」
「にゃーん」
まろとみるくが元気付けるようにスリスリと柚子に頭を擦りつける。
柚子はゆっくりと立ち上がり、雪乃に支えられるようにして力なく部屋へと戻った。
しばらく部屋で泣き続け、ようやく涙も止まったところで雪乃が温かいミルクを淹れてきてくれた。
それを少しずつ飲むと、ようやくほっとひと息つけた。
「あーい?」
子鬼が心配そうに様子をうかがう。
「もう大丈夫。ありがとう」
「あいあい」
子鬼はにぱっと笑い、手をあげる。
まろとみるくもずっとくっついており、柚子を心配してくれているのが分かり申し訳なくなる。
感謝を伝えるように二匹の頭を優しく撫でた。
龍にもきっとかなり心配させたことだろう。ちゃんと謝罪と感謝を伝えなければ。
そう思ったところで、柚子はようやく龍の姿がないことに気付いた。
「そう言えば龍は?」
「あーい?」
「やー?」
子鬼も今気付いたのか、辺りをきょろきょろ見回し、クッションの下や引き出しの中など、そこにはいないだろうと思うところまで部屋の隅々を探し回るが、見つからずに首をかしげている。
そんな時、バタバタと誰かの走る音が近付いた来たかと思うと、慌てたように雪乃が入ってきた。
「柚子様、大変です!」
「どうしたんですか?」
「たった今桜子様と高道様がいらっしゃいまして、一触即発なんです!」
「えっ、誰と?」
とりあえず来てくれと言う雪乃について行ってみると、ちょうどバシンという大きな音を立てて芹が桜子に頬を引っ叩かれているところだった。
柚子は目を丸くした。
「桜子さん?」
「まあ、柚子様」
桜子は柚子に気付くと、柔らかな聖母のような微笑みを浮かべる。
とてもじゃないが、人を叩いた後にする表情ではない。
「なにするのよ!」
叩かれた芹が文句を言っているが、桜子はそれを黙殺し、柚子の元に来て手を優しく握る。
「お衣装は残念でしたね。ですが、私が来たからにはもう大丈夫ですよ。柚子様に無体なまねはさせません」
「どうしてそれを?」
『我が教えたのだ』
桜子の肩から顔を覗かした龍。
「いつの間に……。姿が見えないと思ったら、桜子さんのところに行ってたの?」
『こういう時はおなごの方が頼りになるからな』
得意げにふんぞり返る龍に、柚子は申し訳なくなってしまう。
まさか自分事で桜子にまで迷惑をかけてしまったと。
「すみません。桜子さんにまでご迷惑を……」
「そんなこと構いませんわ。私と柚子様の仲ではございませんの」
「ちょっと、私を無視しないで!」
横から芹が入ってきて、すっと桜子の目つきが冷たくなる。
それは柚子でもひやりとするような冷ややかさだったが、その眼差しが向けられたのは芹に対してだ。
「あら、まだいたんですか、負け犬さん。とっくに出ていったと思っていましたわ。恥知らずとはまさにあなたのためにあるかのような言葉ですわね」
「なんですって!?」
「事実でしょう? 親の力を使って候補にねじ込んだはいいものの、一族にはあっさりと首を振られてしまって。にもかかわらず、未練がましく玲夜様のお屋敷でご厄介になるなんて恥ずかしくはないのでしょうか?」
芹は今にも歯ぎしりが聞こえてきそうなほど悔しげに顔を歪める。
「っ、確かにあなたには負けたわ。悔しいけどそれは認めるしかない。でも、あなただから私は引いたのよ。間違ってもこんな女に玲夜を渡すためじゃないわ」
「引いた? 逃げ出したの間違いでは? そもそも、魅力もなければ価値もない。そんな方が選ばれるはずがないでしょう?」
「そんなことないわ。こんな子さえいなかったら私が選ばれてるわ! 玲夜だってそれを望んでるはず。現に私を追い出さないのが証拠じゃない」
確かに玲夜が芹を追い出さないのは事実であり、柚子は表情を暗くする。
しかし、桜子は鼻で笑った。
「万が一にもありえませんが、億が一柚子様が玲夜様から離れたとしてもあなたが選ばれることなどありません。なにせ、柚子様の次には高道様が控えていらっしゃるのですから、あなたの入る隙などございませんよ」
「いや、ちょっと待ちなさい」
これまで黙っていた高道がぎょっとして止めに入ろうとする。
「玲夜様に高道様という存在がいらっしゃるかぎり、伴侶になどなれはしません!」
芹は混乱と衝撃を受けたような顔で高道を見てから桜子に視線を戻す。
その桜子は一点の迷いもない堂々としたものだった。それが、芹に激しい勘違いを与える。
「えっ……。まさか二人はそういう仲だったの……?」
「その通りです」
「断じて違います!」
得意げに胸を張る桜子の横で、高道は悲鳴のような声をあげて否定する。
「桜子! あなたはまだそんなことを言っているのですか!?」
「玲夜様に高道様が必要不可欠な存在なのは事実です。この世の真理です」
「意味が違います!」
段々と話がズレ始めてきた。
「私はあなたの夫でしょう!?」
「そんな……。おふたりのためならこの桜子、いつでも身を引く覚悟はできております」
「そんな覚悟ゴミ箱に捨ててしまいなさい!」
桜子と芹の口論が、いつの間にか桜子と高道の夫婦喧嘩になっている。
いや、これは喧嘩と言うより漫才か。
そんな二人が夫婦漫才を繰り広げる中、放置された芹は柚子をギッとにらみつける。
「花嫁なんて、所詮は強い子を産むだけの道具じゃない。子供を産むまでは許してあげるから、それが終わったら玲夜を返してちょうだい!」
柚子は爪が食い込むほどぐっと拳を握る。
あまりの怒りに体が震えた。
「私は子を産む道具ではないし、子供だって家の繁栄のための道具なんかじゃない。それは玲夜もよ。返すとか返さないとか物みたいに言わないで。私と玲夜は愛し合ってそばにいるの」
「あなたが玲夜のなにを知ってると言うのよ!」
「あなたよりはずっと知ってるわ!」
癇癪を起こす芹のさらに上から言葉を投げつける。
芹は玲夜の幼馴染なのかもしれないが、芹に負けないぐらい玲夜のことは知っている。
時に子供っぽいほど嫉妬深く、独占欲が強く、けれど優しく、甘くて、なんだかんだで最後は柚子の意思を尊重してくれる。
そんな玲夜を知っているのは自分だけだと柚子は胸を張って言えるだろう。
それは決して芹の知ることのない玲夜の姿だ。
「この! 生意気な」
顔を真っ赤にして振り上げられた手。
殴られると理解したが、逃げたくない柚子は次に襲ってくる痛みを覚悟した。
けれど、いつまで経ってもその手が柚子に届くことはなかった。
それは、芹の腕を玲夜が掴んだからだった。
「玲夜……」
本家に行ったのではなかったのか。
言いたいこと。聞きたいことはたくさんあったが、玲夜が柚子に向けた痛みをこらえるような表情を見たらどうでもよくなった。
玲夜は芹の腕を離すと、芹を一瞥すらすることなく柚子をぎゅっと抱きしめた。
「悪かった柚子。いろいろと我慢させた。けれど、もう大丈夫だから」
柚子を労るような優しい声色に、柚子はなにも言わず玲夜にしがみついた。
本当はもっと責めて、怒りをぶつけたかったはずなのに、その言葉は出てこず、変わりにポロリと涙が一筋頬を伝った。
「玲夜様」
声をかけた桜子を見ると、その顔はひどく怒りに彩られていた。
「柚子様をこんなに悲しませて、言いたいことがたくさんあります。ですが、その前にこの負け犬さんを放置したりしませんわよね?」
にっこりと微笑む桜子の目は氷のように冷たかった。
「ああ、もちろんだ。迷惑をかけたな」
そして、玲夜は芹へと視線を向ける。
「芹、お前は今すぐこの屋敷から出ていけ」
それは柚子がずっと願ったことだった。
今朝にはなにも言わなかったのに、なぜ今になってそれを言うのか。
問いたかったが、見あげた玲夜の目があまりにも殺気立っていたので、柚子は口を挟むことができなかった。
「どうして!? 玲夜までそんなこと言うの? 私はなにもしていないわ」
「御託は必要ない。お前は柚子を悲しませた。それだけで追い出す理由には十分だ」
「玲夜」
差し伸ばされた芹の手を冷めた目見てから、玲夜は使用人頭を呼ぶ。
「道空。芹を本家へ連れて行け」
「ただちに」
その命令を待っていましたとばかりに、道空はどことなく嬉しそうに芹の背を押す。
「さあ、芹様こちらへ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 玲夜、玲夜!」
道空だけでは足りず、わらわらと使用人たちが集まってきて芹を
そしてそのまま車に乗せられ芹は屋敷から追い出された。
まさにあっという間の出来事だった。
こんなにも簡単に追い出せるのに、なぜ今まで芹を放置していたのか。
芹がいなくなったことでようやく問うた柚子に、玲夜は説明する。
「芹をここに置いておくことは父さんの指示だった」
「千夜様の?」
「ああ。実は俺と柚子の結婚式が本格的に決定したことを一族に話した。ほとんどの一族は花嫁であり龍の加護を持つ柚子を歓迎したようだ。だが、そんな中である家が柚子を排除しようとするような不審な動きを始めたのを父さんが察知したんだが、それが鬼沢家だった」
「鬼沢って芹さんの?」
玲夜はこくりと頷く。
「ずっと海外にいながら、あまりにもタイミングよく帰ってきた芹を警戒するのは自然の流れだった。そこで、父さんは芹を泳がせて様子を見ろと監視を俺に命じたんだ」
「だから追い出せなかったの?」
「そういうことだ。だが、今朝の件でさすがにこれ以上芹を置いておくことは柚子のためにならないと感じた。それで追い出す許可をもらうべく本家にいる父さんに会いに行ったんだ」
無事芹を追い出したということは、千夜から許可が出たということなのだろう。
言ってくれたらよかったのにと柚子は思ったが、鬼の一族に関すること。
柚子においそれとは告げられなかったのかもしれない。
「玲夜様。それで、彼女はどうなさいますの? まさか不問にはいたしませんよね?」
今日は始終背筋が冷たくなるような笑顔を浮かべている桜子が問いかける。
玲夜は「当然だ」と、仁王様も裸足で逃げ出すような酷薄な浮かべる。
「柚子を悲しませた代償は取ってもらう。花嫁衣装を台なしにしたこと、父さん以上に母さんがかなり怒っているようだからな」
「それを聞いて安心いたしました」
うふふふっと、上品に笑う桜子はようやく機嫌がよくなったようだ。
だが、笑い合う二人にはあまり逆らいたくない雰囲気が充満していた。
***
玲夜に屋敷を追い出されてそのまま本家へと送られた芹を待っていたのは、玲夜の父であり、鬼の一族の当主である千夜だった。
「おじ様!」
芹は千夜を目にするとすがるように目の前に座った。
当主に対して『おじ様』とはなんとも無礼千万だが、玲夜の幼馴染を公言している芹は、昔から親しげにそう呼んでいた。
千夜がどう思っているかは考えることなく。
千夜はいつものほわんとした、人を穏やかにさせるような人好きのする笑みを浮かべている。
そんな千夜に、芹はいかに自分が不当な扱いを受けたかを切々と訴えた。
「おじ様も玲夜に言ってください。私はなにも悪くないのに、皆して花嫁の肩を持って。花嫁を持って玲夜はどうかしてしまったのよ。前はあんな風に私を邪険にすることはなかったのに。全部あの花嫁のせいだわ」
まだまだ続きそうな不満の言葉をぶった切って、千夜が口を開く。
「別に玲夜君はどうもしてないよ~。ただ、本当に愛する人を見つけただけのこと。それに君にだって態度は変わっていないはずだ。前々からあんなだったのを、君こそ忘れてしまったのかい?」
「おじ様?」
「玲夜君が君をそばに置いていたのは、玲夜君が望んだからじゃなくて、君が一方的に玲夜君につきまとってたからだろう?」
「つきまとってたなんて、そんな言い方……」
芹は同調してくれない千夜に不満そうな顔をする。
「玲夜君は他人には無関心だからねぇ。そして面倒くさがりでもある。君がいることで玲夜君に近付いてくる女の子たちを牽制してくれるから、なにも言わずにそばにいることを許していたにすぎなにのに。それをなにを勘違いしたのか、好意があるなんて思っちゃったんだねぇ」
ニコニコとした笑みで「恥ずかしい~」と毒を吐く千夜に、芹はカッと顔を赤くする。
「おじ様!」
「そうそれ。君は昔から僕のことをおじ様なんて言うけど、やめてくれるかな。僕は一族の当主であって、君のおじさんじゃないんだよ」
穏やかな話し方に穏やかな笑顔。
けれど、そこに含まれる威圧感に、芹はようやく気付いて顔色を変えた。
「こちらの都合で君を泳がしておいたけど、まさか柚子ちゃんにあそこまでしちゃうなんてね。ほんと救いようがない愚かさだ。でもまあ、君は家とは関係なかったようだからもういいよ、用済みだ」
「な、なにをおっしゃっておるんですが?」
芹も千夜からなにかを感じ取ったのか、話し方を丁寧なものへと変える。
「聞こえなかったかい? 君はもう必要ないと言ったんだ」
普段穏やかな千夜が見せる冷酷な一面。
「沙良ちゃんに怒られちゃったよ~。柚子ちゃんを泣かせるなってねぇ」
話す言葉は軽いのに、千夜から感じられる強い覇気に芹は先ほどまでの勢いをなくし、体が震え出すのを抑えるのでいっぱいだった。
こんな千夜を芹は知らない。
だが、これこそが千夜。
頼りなさげにのほほんとしていようとも、一族が頭を垂れる鬼の当主の本当の姿。
「君には再び海外に行ってもらうよ。そして二度と日本へ戻ってくることは許さない。これは当主命令だから異論は認めない。ちょうど、これから開拓したい地域があってねぇ。まあ、ちょっと不便な僻地だけどいいよね? なにせ一族の大事な花嫁を虐めたことへの罰にしたら優しいものなんだから」
にいっと口角を上げた千夜の笑みは、まさしく玲夜の父親だと感じられる冷たく酷薄なものだった。
芹が出ていった後、別のふすまが開き不満顔の沙良が出てくる。
隣の部屋で話を聞いていたのだ。
「もう。私が直々にお仕置きしたかったのに」
「ごめんねぇ、沙良ちゃん」
この時にはいつもの通りのへらりとした笑みへと戻っていた千夜が、笑いながら謝る。
沙良は千夜の隣に座り、もたれかかった。
千夜は自然な様子で沙良の肩に手を回す。
「沙良ちゃんの気持ちも分かるけどさぁ。一応僕が当主だしぃ。後始末は僕がつけないと」
「分かっているけど腹立たしいわ。あんな女に柚子ちゃんが泣かされたかと思うと。しかも花嫁衣装を台なしにされたのよ! 同じ女としてどんなに辛いか理解していてやったのよ、あの子。海外に飛ばすぐらいじゃ割に合わない!」
沙良の収まらない怒りに、千夜は困り顔。
「まあまあ、落ち着いて。彼女に命じた赴任先は結構過酷な場所を選んだから、これからじっくりと自分の馬鹿さ加減を見つめ直すことになるよ~。それに、これをきっかけに鬼沢家に管理不行き届きってことで処罰することもできる」
「今後は柚子ちゃんを悲しませることはしないでね」
「うーん。鋭意努力はするよ~」
はっきりと頷かなかった千夜に、沙良はじとっとした眼差しを向ける。
「まさかまだなにかあるの?」
「えーっと。あるようなないような……」
千夜は視線をさまよわせてしどろもどろ。
沙良の目つきが変わった。
千夜の胸ぐらを掴んで揺する。
「千夜君! いくら千夜君でもこれ以上柚子ちゃんを巻き込んだら許さないんだからね。離婚よ、離婚!」
「えぇ! ちょっと待ってよ、沙良ちゃぁん」
その日からしばらく沙良の機嫌は悪かったとか。
四章
芹によって使い物にならなくなった着物は、一応呉服店に持ち込んだが、やはり墨汁となると綺麗に取るのは難しいという。
がっくりと落ち込む柚子に、店の女性は「実は」と切り出した。
「花嫁様のお衣装を仕立て終わった後、新作の生地が入ってきましたのよ。花嫁様がお選びになったものと同じ赤色で金糸と小花の模様があしらわれた生地なのですが、お選びなられたものよりずっと質も柄も一層華やかですのよ。もっと早くに入荷していたらお見せできたのにと惜しく思っておりましたが、これもなにかの巡り合わせではないかと思います」
一度見てくれと持ってきてくれた生地は、店員の言う通り、汚されてしまった色打ち掛けよりも質のよいもので、それひとつあるだけでその場がぱっと華やぐような美しさがあった。
「いいんじゃないか?」
珍しく玲夜から賛辞の籠もった言葉が出る。
本心ではやはり最初のがよかった。
この品も素晴らしいが、最初に選んだ時のようなウキウキとした気持ちには至らない。
けれど、着られなくなってしまったものは仕方がないのだ。気持ちを切り替えるしかない。
「そうだね。なら、これでもう一度お願いします」
無理やり自分を納得させたもののどこか元気のない柚子になにかを感じたのかもしれない。
「花嫁様。よろしければ、汚れていない部分の生地を使って人形をお作りしてはどうですか?」
「人形?」
「はい。結婚式や披露宴などでは、ウェルカムドールというものを置いたりもするのですよ。人形サイズならば汚れていない部分を使って十分着物を作れるでしょうから、花嫁様の代わりに人形に着てもらいませんか? 人形は後々にも記念に残りますから」
店員の提案を聞いた柚子の表情がぱあっと明るくなった。
「それ素敵です!」
「ご迷惑でなければお衣装をお預かりして、人形サイズにお作りいたしますよ」
「いいんですか?」
「他の方には内緒ですよ?」
人差し指を口に当てて、にこりと微笑む店員に、柚子は顔をほころばせる。
隣にいた玲夜の見るとどこかほっとしたような顔で笑っていた。
玲夜も、花嫁衣装が汚されてから元気のない柚子のことを気にしていたのだろう。
店員の機転で、心に刺さっていた棘が抜けたような晴れやかな気持ちで、続いて向かったのはオーダードレスの店。
ここでも、芹によってデザインをめちゃくちゃにされた嫌な記憶がよみがえり、眉間にしわが寄る。
「あいあい」
それに気付いた子鬼が、よしよしと頭を撫でてなだめる。
『嫌な記憶は塗り替えるのが一番だ』
そう言う龍に、確かにその通りだと柚子は意気込んで店へと足を踏み入れた。
以前芹にめちゃくちゃに書き込まれたデザインは担当の相田によって綺麗に直され、さらには前回柚子が口にしていた希望も取り入れた新しいデザイン画になっていた。
それに喜んだ柚子は、デザイン画によく似た店内のドレスを試着しながら、相田と話し合いながら細かい部分を修正していく。
そんな柚子の様子を微笑ましげに見つめながらコーヒーを飲んでいる玲夜がいた。
そして何度か通いようやく完成したデザイン画を元にドレスの制作に取りかかることになった。
柚子ができるのは待つことだけだ。
柚子はデザイン画のコピーをもらい、それを持って透子の元を訪れていた。
「へぇ、いいじゃない。柚子に似合いそう」
そう賛辞の言葉をかけてくれる透子に、柚子は嬉しそうにはにかむ。
「駄目になった衣装もこの間お人形になって戻ってきたの。もう着られないって落ち込んだから嬉しくて」
汚されてしまった衣装を自分の変わりに着ている人形を手にした時、不覚にも泣いてしまった。
それだけ思い入れののあったものだったのだ。
だからこそ芹のしたことは許せない。
「にしても災難だったわね。若様に近付いてくる女ってそういう気の強い女ばかりよね。まあ、自分に自信がなきゃ若様に近付こうとは思わないからそういうことになっちゃうんだろうけど。それよりその女にはちゃんと制裁したんでしょう?」
「うーん。多分? 私も詳しくは知らないの」
その後の芹のことを聞いても、海外に行ったというだけで、玲夜は詳しく教えてはくれなかった。
ただ、二度と柚子の前に現れることはないだろうと。
それならば桜子のように一発頬にぶちかましてもよかったなと後になって後悔した。
「まあ、若様のことだから泣かすまで徹底的に追い詰めるでしょうし、その点では安心ね」
「それ、安心していいことなのかな……?」
柚子のことになるとやりすぎる玲夜のことを思い、苦笑する。
「そう言えば、透子もウエディングドレス着たんでしょう?」
「そうよ。ちょっと待って」
透子は部屋の奥から大きな本のようなものを持ってきた。
開くと、ウエディングドレスを着た透子と、タキシード姿の東吉が写っている。
「うわぁ、透子綺麗」
「ふふん、そうでしょうとも」
得意げに胸を張る透子は、「こっちのも見てよ」と、カラードレスバージョンの写真も見せてくれる。
「この時はまだお腹が目立ってなかったのね」
「そうなのよ。最近段々とお腹が目立ってきてね。早いうちににゃん吉にお願いして写真だけでも撮れてよかったわ」
現在の透子は服の上から見ても分かるほどにお腹が膨らんできていた。
その中にある小さな命のことを感じさせられる。
「私の結婚式の頃には産まれてるよね?」
「確か、挙式は鬼の本家でして、披露宴はホテルの広間を使うんだっけ?」
「うん。」
鬼龍院の次期当主の結婚披露宴だ。あやかし、人間、ともに関係深い人たちはたくさんおり、盛大なものになるだろうと言われている。
玲夜からもあらかじめ話を聞いていたが、その規模を聞いてめまいを起こしそうだった。
「披露宴には来てくれる?」
「もっちろんよ。私が行かなくて誰が行くのよ」
「玲夜が他にも浩介君とか高校の友達とかも呼んでもいいって」
特に、元手芸部部長はぜひとも呼んでくれと強く懇願されている。
見に来るのは柚子ではなく、自分の作った衣装を着た子鬼たちというのがなんとも複雑な気分だが、子鬼の衣装でたくさんお世話になったので彼女には必ず招待状を送るつもりだ。
「……柚子はさ、親を呼んだりはしないの?」
透子はどこか言いづらそうに、それを口にした。
「やっぱり結婚式となると呼ぶのか気になって」
「親、か……」
祖父母は当然呼ぶつもりでいる。
そして普通結婚式となったら親を呼ぶのは当然のことなのだろう。
けれど、両親が今どこでなにをしているのか柚子は知らない。
玲夜ならばきっと居場所も知っているのだろう。
だから連絡を取ろうと思えばできるはずだ。
「いや、ちょっと気になっただけだから、深く考えないで。ごめん、柚子。余計なこと言った」
「ううん。言ってくれてよかったかも。私浮かれててすっかり忘れてた。そうだよね。普通両親が存命なら出席するものだよね」
祖父母のことはすぐに頭に浮かんだのに、両親のことは思い出しもしなかった。
それだけ柚子にとって両親とは名ばかりの他人になってしまったのだと実感させられた。
「まあ、普通はそうなんだけど、人に寄りけりじゃないの? うちは両親とも円満だから、写真撮る時も我先にとついてきたけど、世の中のすべての人がそういうわけじゃないし。親だからって絶対呼ばなきゃならない決まりがあるわけでもないし」
「うん」
「たださ、後悔のないようにはしてほしいかなって。これは柚子の友人としての願い。ほら、もしかしたらさ、柚子の両親も今頃後悔して反省してるかもしれないじゃない?」
反省……。あの両親がするだろうか。少し疑問だった。
それにしても……。
「透子がそんなこと言い出すとは思わなかった。両親のこと、私以上に怒ってくれてたのは透子だったから」
まさか両親の肩を持つようなことを口にするのは予想外だった。
すると、透子はすかしばつが悪そうな顔をする。
「いや、まあ、そうなんだけどさ。今でも正直むかついて仕方ないんだけど……。妊娠して今までと考えが変わるというか変化してきたというかね。まだ産まれてないのにこの子がかわいくて仕方ないのよ」
透子は慈愛に溢れた表情でお腹を撫でた。
「それなのに、こんな子供をかわいがらない親がいるってことが信じられなくてさ。だからもしもまだ取り返しがつくならその方がいいんじゃないかって。私の勝手なお節介なんだけどね」
「透子……」
「いや、無理にって言ってるわけじゃないのよ! 壊れたら元に戻らないものってたくさんあると思うし。柚子の心をすべて理解してあげることは私にはできない。柚子の心は柚子にしか分からないわけだし」
ひと息置いてから透子は柚子をうかがうように口を開いた。
「ただ、柚子はそれでいいのか少し心配なったのよ」
「私は……」
柚子が次の言葉を紡げずにいると……。
「あーい」
かわいらしい子鬼の声が部屋に響き、柚子と透子の視線がそちらへ向く。
子鬼は柚子の鞄をペチペチと叩いていた。
「子鬼ちゃんどうしたの?」
「柚子の鞄になにかあるんじゃないの?」
「別に変な物は入れてないけどなぁ」
なおも「あいあい」言いながら鞄をさわっている子鬼を不審に思いながらチャックを開けると、子鬼がすかさず上半身を突っ込みゴソゴソとあさりだした。
そして取り出したのは柚子のスマホ。
それがどうしたのかと思っていると、スマホは通知を伝えるバイブで震えていた。
止まったかと思えば再び震えるスマホ。
誰からだろうと子鬼からスマホを受け取り、画面を開くと、SNSの通知だった。
そう確認している間にも、新しい通知が来ている。
何事かとアプリを起動させると、柚子は目を丸くした。
「どうしたの、柚子?」
「透子……なんかすごいバズってる」
「えっ、なにが?」
「これこれ」
柚子は透子に画面を見せると、万を超える反応と、見きれないほどのコメントが書き込まれていた。
「なに投稿したの?」
「今朝玲夜のために作ったキャラ弁」
「いや、若様にキャラ弁って! しかもめちゃくちゃかわいいやつじゃない。隣の子鬼ちゃんダンスしてるし、これキャラ弁じゃなくて子鬼ちゃんがバズってるんじゃないの?」
投稿したのはただの画像ではなく、キャラ弁の横でダンスをしている子鬼も一緒に写っている動画だ。
透子の言うように、コメントのほとんどが子鬼のかわいさに対するものだったが、それ以外に柚子が作ったお弁当への好意的な言葉が含まれている。
しかも、過去に投稿した柚子の料理画像にもコメントがついていて、『美味しそう』だったり『食べてみたい』だったりと嬉しい言葉が目に入ってきた。
「へぇ、すごいじゃない」
感心したような透子に、柚子も驚きつつ頷いた。
「不特定多数の人にこんな反応返ってきたことないから嬉しいかも」
「だったらこのまま料理人でも目指してみたら?」
冗談交じりに笑う透子だったが、柚子は悪くないなと思ってしまった。
「料理人……」
「えっ、柚子? 冗談よ?」
透子がなにやら言っているが、柚子は聞いていない。
これまでは玲夜だけのために料理を作り、玲夜の反応だけを望んできた。
それだけで満足していた。
だが、こんなにも他人の評価が嬉しいと思ったことはなかったかもしれない。
それは、玲夜のためにと料理を学び、盛りつけなども工夫してたくさん頑張った結果を認めてもらえたと感じられたからでもある。
屋敷に帰ってから、柚子はコメントのひとつひとつをじっくりと読んでは、顔がニヤついてしまう。
まあ、ほとんど子鬼の力が大きいのだが、頑張ったなにかを見ず知らずの他人がお世辞ではなく評価してくれたことに喜びを感じた。
大学四年生の柚子は就職先を決めていない。
当初就職する気満々だった柚子を玲夜が止めたからだ。
義務で仕事をするのではなく、柚子のやりたいことをやりたいようにしたらいいのだと。
これまではそのやりたいことというのが見つからなかった。
とりあえず役に立つかと資格試験を片っ端から取ろうと勉強して、秘書検定などを取得したりもしたが、別にそれをしたいわけではなかった。
だが、料理教室へ通うことを玲夜に願ったのはこれまでとは少し意味が違った。
より美味しいものを作りたい。
喜んでほしい。反応を見たい。
理由は様々だったが、これがしたいと強く思って動いた初めてのことだったかもしれない。
料理の画像をSNSへ投稿していたのも、少しでもなにか反応が来ないかなと淡い期待を抱いていたことは否定できない。
『柚子、そなた料理を作る者になりたいのか!』
「分からない……けど、作ってるのは楽しい。玲夜や屋敷の人たちが美味しいって食べてくれるのがすごく嬉しいの」
喜んでもらえると、また作りたいとやる気が出てくる。
『我は悪くないと思うぞ』
「でも、そんな簡単に決めていいことなのかな?」
『柚子は気付いておるか分からぬが、料理教室で料理を習っている柚子は生き生きしておる。のう、童子たちよ?』
龍が子鬼たちに問うと、ふたりはニコッとしながらこくりと頷いた。
「でも、料理を職業にするってどうしたらいいんだろ?」
「あいあい」
「あーい」
子鬼はテーブルによじ登り、閉じていたノートパソコンを開いて呼びかけた。
これで調べたらいいということだろう。
よく知っている。
パソコンで料理について調べると、様々な学校があることが分かった。
「へえ、専門学校だと早くて一年で調理師免許取れるんだ」
調べていくうちに段々とおぼろげだったものが、柚子の中で明確な形になっていくのが分かった。
けれど、すぐにやろう!というわけにもいかない懸念事項がある。
「でも、調理師になったところで就職を玲夜が許してくれると思わないしなぁ。玲夜はあまり不特定多数の人と関わってほしくなさそうだし」
だが、それは柚子のためでもある。
鬼龍院というバックがついている柚子には、いろんな思惑を持って近付いてくるものがいるからだ。
いい意味でも悪い意味でも。
かくりよ学園では、他の鬼の一族の目もあるので安心しているが、外の世界に出てしまったら玲夜の保護下から離れてしまうことになる。
もちろん龍と子鬼は常に一緒にいるだろうが、自分の目の届かないところでなにかあったらと玲夜は心配しているのだ。
『それならば自分の店を出せばよいのではないか?』
「自分のお店?」
その選択は頭になかった柚子は目から鱗が落ちる。
『自分の店ならばあやつの目の届くところに店をかまえればよいし、接客を他人に任せて柚子は裏方に鉄しておけば人との接触も最小限に抑えられるではないか』
「なるほど。……でも、私にお店の経営なんてできるかな?」
お店を出すこと自体はそう難しいことではない。
龍の加護のおかげで当たった宝くじの残りが十分に残っているので、資金面での不安は皆無だ。
玲夜と出会う前は飲食店で接客業をしていたので多少の知識があるが、経営は専門外だ。
『そういう面倒なことはあの男に任せておけばよいように取り計らってくれるだろう』
それでいいのか?と、柚子は悩む。
結局玲夜の力を借りなければならないと思うと、一歩踏み出せない。
『柚子はやってみたくないのか?』
「……やってみたい」
ちょっと見ず知らずの人たちに褒められただけで調子に乗るなと言われるかもしれない。
世の中そんなに甘くないのだと、本業の人たちには叱られるかも。
けれど自分にどれだけのことができるか挑戦してみたい。
それは玲夜のためだと必死に就職先を探していた時とは違う、自分の内から溢れ出てくる想いだった。
「とりあえず、ここから通える学校で気になったとこの資料請求してみようかな」
『待つのだ、柚子! 届け先は猫屋敷にしておくのだ』
「どうして?」
『忘れたのか? インターンの時ことごとくあの男に邪魔をされたのを』
柚子は「そう言えば……」と、就活を邪魔してきた玲夜のことを思い出した。
『柚子が学校の資料を請求したなどとあの男の耳に入ったら、また邪魔されるかもしれぬぞ。今はまだ内緒にしておくべきだ』
「でも、玲夜は私にやりたいことを見つけろって言ってたのよ? ようやくやりたいことが見つかったんだから玲夜も応援してくれるんじゃ……」
『甘い。砂糖を入れすぎたあんこのように甘いぞ、柚子! いいから今は我の言うようにしておくのだ』
「なぜにあんこ? ……まあ、そこまで言うなら透子に頼んでみるけど」
柚子はすぐに透子へ電話をして、資料を猫田家へ送っていいかと許可を取った。
透子は多くを聞かず快く了承してくれたので、柚子はせっせと学校を調べ、猫田家へ資料が届くようにした。
後日、資料が届いたと聞き受け取りに行くと、屋敷に戻ってこっそり内容を確認した。
「うーん。やっぱり一年で手早く免許が取れるのがいいなぁ」
一緒になって資料を覗き込む龍は、尻尾である箇所をぺしぺしと叩く。
『オープンキャンパスというのもあるぞ』
「一度行ってみるのもいいかもね。資料だけじゃ分からないこともあるし。けど……」
『問題はやつか』
「だね。さすがに玲夜に知られず行くのは不可能だから、先に許可もらわないと」
黙って行くことは可能だが、どこに行ったかは常に玲夜に報告されてしまうので、いずれバレる。
事後報告は玲夜を不機嫌にさせるだけなので先に許可を得なければならない。
「よし! 玲夜が帰ってきたらお願いしてみよう」
『むう。素直に許可を出すと思えんのだが……』
「玲夜が言ったんだもん。やりたいことをしたらいいって。大丈夫大丈夫」
そう楽観的でいた柚子だったが……。
「駄目だ」
まるで取りつく島もない。
てっきり応援してくれると意気揚々と話し始めた柚子は、考える暇もなく却下されてがーんとショックを受ける。
「どうして!?」
「当たり前だ。ようやく大学を卒業するのに新しく学校に行きたいなんて。しかも一般の学校なんて許可するわけがないだろう。警備に問題がある」
そんなひと言で引き下がるわけにはいかない。
「でも、それは子鬼ちゃんも龍も一緒にいてくれるし」
「万が一があるだろう」
「今だって大学には行ってるじゃない」
「かくりよ学園は鬼龍院の息がかかっている。そもそも富裕層の子供が多いから警備の面はかなり手厚い」
柚子は反論の言葉をなくす。
確かにかくりよ学園では、至る所に警備員の姿を目にする。
しかも、鬼の一族の生徒がなにかと柚子を気にかけてくれているので、柚子は安心して大学に通えるのだ。
それは分かっているが、やっと見つけたのだ。
「でも、やってみたいの。料理を習って、いろんな料理を覚えたいって思ったの」
「なら、今まで通り料理教室に通えばいい」
「そうじゃなくて、本格的に習いたいの。調理師免許を取って、それをいろんな人に食べて欲しい」
柚子は必至で熱意を伝えた。
だが、玲夜から返ってきたのは、色よい返事ではなかった。
「他人に柚子の料理を食べさせてやる必要などない。そもそも花嫁を外で働かせるわけにはいかないと以前にも言っているだろう?」
「だから、自分の店を持ちたい。前に当たった当選金もあるから玲夜には迷惑かけないし」
「俺はお金のことを言ってるわけじゃない」
それはそうだろう。
玲夜に取ったら柚子の当てた当選金など端金同然の財力があるのだから。
「そもそも、柚子は経営の仕方など知らないだろう。それでどうやって自分の店を経営していくんだ」
痛いところを突かれる。
だが、それも少しは考えていた。
「それは、私も勉強するし、会計士とか雇えば……」
「店の経営はそんな甘いものじゃない」
玲夜の言っていることは正しい。けれど、そんな頭ごなしに否定されては柚子とて頭にくる。
「玲夜は私のしたいことしたらいいって言ってたじゃない! やっと見つけたのにどうして反対するの!?」
「花嫁は気軽に外に出せるものじゃないんだ。どこに危険があるか分からないからな。それをいい加減柚子も理解してくれ」
まるで我が儘を言う子供をなだめるような玲夜の言い方にカチンときた。
「玲夜の嘘つき! 好きなように生きればいいって言ったのに、全然言ってることと違うじゃない!」
柚子は玲夜にクッションを投げつけた。
「柚子」
静かに叱りつけるような声色の玲夜を柚子はひと睨みする。
「玲夜がなんと言おうと料理学校に行くから!」
そう言い捨てて柚子は部屋を出た。
その日ばかりは一緒には寝られないと、自分の部屋に掛け布団だけ持ってきて、ソファーで丸まって寝た。
けれど、あんまり寝た気はしなかった。
柚子が玲夜に対してこんなにも怒りを爆発させたのは初めてのことかもしれない。
確かにこれまで喧嘩はあったが、ここまで険悪な空気ではなかった。
いや、柚子が一方的に険悪にしているだけなのかもしれないが。
けれど、仕方ないではないか。
きっと玲夜は喜んでくれると柚子は思っていたのだ。
義務からではなく、柚子自身が選んだ柚子が心から溢れたしたいなにかを見つけたことを。
以前に義務から就職先を探していた時、玲夜は『柚子は柚子のしたいことをすればいい』と言った。
なにもないという柚子に『これから見つけていけばいい』とも言ってくれた。
嬉しかった。
玲夜はなによりも自分の幸せを願ってくれていることに。
だから、今回玲夜に反対されたことがショックでならなかった。
詳しく話を聞くことすらせずに、不可の判断をしてした。
まさかそんな反応が返ってくると思っていなかったので、柚子も思わずカッとなってしまった。
もっと冷静に話し合うべきだったのに。
明日玲夜にどんな顔をして会えばいいのか……。
柚子は自己嫌悪に陥り、なかなか寝つけなかった。
そして、翌朝。
食事の場に向かうと、すでに玲夜は席に着いていた。
「お、おはよう、玲夜……」
「ああ。おはよう」
どうにも気まずく、玲夜の顔を直視できずにいる柚子に、玲夜が声をかける。
「柚子」
「なに?」
「言いたいことがあるなら口にしたらいい。だが、ちゃんとベッドで寝るんだ。風邪でもひいたらどうする」
こんな時でも柚子の身を案じる玲夜に、罪悪感が柚子を襲う。
「ごめんなさい……」
「いや、俺も昨日は言いすぎた」
「じゃあ、許可してくれるの!?」
ぱっと表情を明るくした柚子だったが……。
「それとこれとは話が別だ」
柚子は途端に不機嫌な顔に変わる。
「どうして? 私自身の気持ちで働きたいと思ったなら許してくれるんでしょう? そう言ってたのに」
「あの時とは状況が変わった」
「状況? なにかあったの?」
玲夜は一瞬言葉をなくしたような顔をしたが、すぐになにごともなかったような表情に変わる。
「柚子は知る必要のないことだ」
「……なに、それ」
それはまるで柚子を拒絶するかのように聞こえた。
そこはぐっとこらえた柚子だったが、玲夜の言葉はその日一日頭を何度も巡った。
本当に柚子には関係のないことなのかもしれないが、あんな冷たい言い方をしなくてもいいではないか。
間の悪いことに、料理学校へ行くことを大反対された後である。
余計に柚子の中に不満が溜まっていく。
「うぅ~。玲夜の馬鹿……」
大学のカフェで、ぐちぐちと東吉にままならない歯がゆさを訴えていた。
「俺からしたら鬼龍院様が不憫でならねぇよ」
「にゃん吉君の裏切り者。私より玲夜の味方なの?」
唇を突き出して、不満であることを主張する。
「何度も言ってるが、花嫁ってのは家で大事に囲われてるもんなの。柚子みたいに無駄に活動的な花嫁持った鬼龍院様の苦労が忍ばれるよ。あの透子でさえ、大人しく家でじっとしてるんだぞ?」
「それを言われると反論の言葉が出てこないけど、せっかくしたいことを見つけたのに、あんなに頭ごなしに否定しなくてもいいじゃない。反対する理由も危険だから駄目だとかしか言ってくれないし」
「事実だろう?」
東吉はこの議論にはもう飽きたのか、早く終わらしたそう。
「子鬼ちゃんも龍もいるのに?」
「それでも心配で仕方ないのが花嫁を持ったあやかしの習性だ」
「でも、玲夜はしたいことを見つけたなら働いていいって言ったもん」
柚子も頑固な性分だ。
こうなれば柚子と玲夜の我慢比べである。
「それなのに、急に状況が変わったとか言うし、玲夜がなに考えてるのか分からない」
『なにかあったのやもしれんな』
難しい顔でそうつぶやく龍に視線が集まる。
「なにかってなに?」
『さあな。それは分からぬよ。ただ、最近のあやつはずいぶん苛立っておるようだ』
玲夜が苛立っている?
「全然気付かなかったけど?」
『柚子の前では平静を装っておるようだからな。だが、我の目を騙すことなどできぬぞ。伊達に長く生きておらぬからな』
龍の言うことが本当なら、それはそれで不満を覚える。
問題があるならどうして柚子に相談してくれないのか。
いや、柚子に相談してどうにかなる問題ではないのかもしれないが、悩みがあるなら口にしてほしい。
なんでも話そうと桜の木の下で誓ったではないか。
あの誓いを、玲夜はもう忘れてしまったのだろうか。
***
玲夜とは微妙にギクシャクした状態が続いたある日、柚子に手紙が届いた。
差出人の名は書いておらず、不審に思いながら中を見た柚子は驚いた。
「お父さん?」
柚子に動揺が走る。
「えっ、本物?」
信じられない思いで内容を確認していくと、会いたいこと。これまでのことを反省しており、会って謝りたいというようなことがつらつらと書かれていた。
今さらこんなものをっ!
そう言って破り捨てることができたらどんなにいいだだろう。
けれど、その前に柚子の頭をよぎったのは透子の言葉。
両親を結婚式には呼ばないのかと言った言葉が、手紙を破り捨てることを躊躇わせた。
もしも本当に後悔していたとしたら……。柚子への扱いを反省していて心から謝りたいと考えているとしたら、どうしたらいいだろうか。
自分はどうすべきなのか、柚子は手紙を手に持ったまま動けずにいた。
そもそもこれが本物なのか分からない。
少し様子を見よう。
そう判断を下して、手紙を誰も触れない引き出しの中へ入れた。
それから数日後。
「柚子様、お手紙が届いております」
「ありがとうございます」
雪乃から手渡された手紙には差出人がなく、柚子はドキリとする。
「以前にも差出人の分からぬ手紙がありましたが、お知り合いからでしたか?」
「ええ、そうです。高校の時の友人からで」
なぜか雪乃には知られたくなく、その場を笑ってごまかすと、自分の部屋へ急いだ。
部屋をちゃんと閉めてから手紙を開けると、以前と同じように謝罪の言葉から入り、後悔と自責の念に苛まれていること。そして、会って謝罪したいということが懇々と綴られていた。
以前と違ったのは、住所が書かれていたことだ。
妹の花梨を花嫁としていた狐月からの援助がなくなり、遠くの地へ追いやられたと聞いていたが、住所が示す場所はずいぶんと近くだった。
会いに来ようと思えばすぐに来られる距離だ。
まあ、柚子は厳重な警備の中いるので、会いに来たところで近付くことすらできぬだろうが。
この手紙は本当に両親からなのだろうか。
柚子はひどく混乱していた。
いたずらにしては住所まで書くなど無用心すぎる。
柚子から玲夜へ話がいけば、すぐに排除の対象となりかねないのだから。
そんな危険を冒してまでも手紙を送ってきたことで、本物なのではないか思わせた。
そして、これが真実本物なら、自分はどうしたらいいのだろうか。
会ってみるべきか……。
だが、その一歩は踏み出せない。
両親と縁を切った時は晴れ晴れとした気持ちで家を出たというのに、この胸の中に渦巻く罪悪感のようなものは一体なんなのか。
手紙には謝罪と懇願だけが綴られており、まるで許さぬ柚子を責めているかのように感じられた。
今さらなのだ。
あれから何年経ったと思っているのか。
それまでの間になんら接触はなかったというのに、なぜ今になって柚子に会おうとするのか。
本当に反省した? 後悔している?
それが事実だとしてなにか変わるのか。
「なんなのよ、もう……」
柚子は両手で顔を覆った。
それからも定期的に差出人の記載のない手紙は届き、さすがに雪乃も不審に思い始めているようだ。
口には出さないが、恐らく玲夜へ報告はされているかもしれない。
手紙の内容は相変わらず柚子に対する謝罪。そして、執拗なほどに会いたいと書かれている。
さすがにこれだけ何度も何度も届くたびに、真摯な文面が綴られていると、柚子の心にも変化が起こってきていた。
縁を切ったとは言っても、すべての感情を切り離すことなどできていないことを思い知らされる。
やはり親なのだ。
ひと雫も情が残っていないのかと問われたら否と言わざるを得ないだろう。
それまで視界にも入らなかったひと雫が、ここにきて少しずつ集まり、小さな水溜まりを作っている。
「会って、みようかな……」
本当に後悔しているのか、手紙だけでは判断がつかない。
実際に会って話をしてみたらそれが分かるかもしれない。
どうするかは、会ってからでも遅くはないのかもそれないと、柚子の心が動き始めた。
けれど、相手は散々玲夜に迷惑をかけた両親である。
玲夜にひと言話しておく方がいいだろう。
そう思って、玲夜の帰りを待った。
夕食を食べ終え、ひと息ついたところで切り出す。
「玲夜、ちょっと相談……というか、報告なんだけど」
「なんだ?」
最近は料理教室の一件で会話が少し減り、なんとなく距離ができた気がする。
だが、それは柚子がそう思うだけで、柚子が見たところ玲夜はいつも通りだ。
出かける際の挨拶のキスも、玲夜が柚子へ向ける甘い眼差しも変わってはいない。
けれど、以前に龍が言ったように、苛立ちというか心ここにあらずな時を感じる。
「あのね、最近手紙が届いてるんだけど……」
「報告は受けている」
やはり雪乃が報告していた。
けれど、それが誰かまでは気付いていないようだ。
「お父さんからなの」
手紙の主を教えるれば、ぴくりと玲夜の眉が動く。
「会いに行こうと思ってる」
「駄目だ」
学校の話を切り出した時と同じ、ばっさりと切り捨てるような言葉。
「どうして? 私の両親よ?」
「両親とは名ばかりの者たちだ。もう柚子とは縁を切った他人だろう?」
「それでも手紙をもらったの。後悔してる、反省してるって」
「そんなものいくらでも取り繕える」
会話を進めるに従って玲夜の顔は険しくなっていく。
けれど、止める気はなかった。
「でも、私を産んだ親であることに変わりはないわ。それに結婚式だって近いし……」
「まさかそいつらを呼ぶつもりか?」
「それは分からない。実際に話をしてみないことには判断できないもの。だから会いたいの」
「必要ない」
話は終わりだというように玲夜は席を立つ。
「玲夜! 聞いて!」
「柚子がなんと言おうと、両親と会うことは許さない」
『そなたなにを隠しておるのだ?』
それまで黙っていた龍が発した言葉に、一瞬玲夜の紅い瞳が揺れる。
『隠し守るだけが愛ではないぞ。それは自己陶酔だ』
「お前にはどうでもいいことだ。お前は柚子を守っていればそれでいい」
バシンと強い音を立てて閉められたふすまが、まるで玲夜の心を閉ざす扉のように感じた。
しばらくして、子鬼も猫も龍もいない寝室へ入る。
玲夜は仕事の残りだろうか。なにか書類に目を通していた。
柚子からは背を向けてベッドに腰掛けている玲夜に、背後から腕を回すと、その温かな背に頬を寄せた。
「玲夜……」
存在を確かめるように、玲夜の名を紡ぐ。
「ねえ、玲夜、覚えてる?」
「なにがだ?」
先ほどのどこか突き放したような声色と違い、その声はとても穏やかだ。
「前に桜の木の下で誓ったこと。一緒にいようって言ったよね。これから先もずっと」
「ああ」
「私は言いたいことをちゃんと口にするから、玲夜もなんでも話してほしいってことを言った」
「…………」
玲夜は無言だった。
「ねえ、料理学校のことも手紙のことも私はちゃんと言ったでしょう? でも玲夜は? 玲夜はちゃんと私になんでも話してくれてる? ……それとも、やっぱり私は頼りない? 言えないのは私が玲夜の重荷にしかならないから?」
「……そんなんじゃない」
玲夜はくるりと向きを変えると、正面から柚子を抱きしめた。
強く、強く、逃がさないというように。
「俺は自分が強いと思っていた。鬼であり鬼龍院である俺が恐れるものなどないと……。けれど、柚子に出会って弱さを知った」
玲夜の顔は見えなかったが、柚子には玲夜が小さく見えた。それほどに声色は弱々しい。
「玲夜……」
トントンと玲夜の背を優しく叩く。
「俺は恐れているんだ。柚子が悲しむこと、苦しむこと、涙を流すことを。柚子のためならなんだってしよう。命だって喜んで差し出す。柚子にはなんの憂いもなく笑っていて欲しいんだ。龍の言う通りこれは自己陶酔なのだろう。けれど、どうか受け入れてくれ。俺には柚子以上に大事なものなどないんだ」
柚子を離した玲夜は、柚子の左手を取り、薬指にしている指輪に唇を寄せる。
「愛している、柚子。俺の唯一。お前の笑顔が俺の世界に色を与えてくれるんだ」
そう言って微笑むと、触れるだけの優しいキスをした。
そんなことがあってから、両親からの手紙がぱったりと来なくなった。
不審に思っていた柚子に龍が教えてくれる。
『どうやらあの男が柚子への手紙を握りつぶしておるようだぞ』
「やっぱり」
急に届かなくなるなど、おかしいと思っていたのだ。
どうやら玲夜は、意地でも柚子を両親と会わせたくないらしい。
柚子の瞳に強い意思が宿る。
数日後のとある朝、玲夜が仕事へ行ったのを見送ってから、龍とまろとみるくを連れて部屋へ行く。
子鬼も部屋へ入ろうとしたが、「ちょっと外で待っててね」と言って、部屋の扉を閉める。
柚子は覚悟を決めた強い眼差しをしていた。
先日の玲夜からは痛いほどの気持ちが伝わってきた。
きっとなにかあったのだ。それも、柚子に係わるなにかが。
それがなにかは分からないが、このタイミングで送られてきた親からの手紙。
そこになにか答えがあるような気がしていた。
なぜなら、玲夜ならばこんな時、柚子の意思を尊重して『行くな』ではなく『一緒に行く』と言ってくれているはずだから。
そうしないということは、会わせたくない理由があるにちがいない。
玲夜が悲しいほどに柚子を大事に思ってくれていることは伝わったが、それは柚子だって同じ。
玲夜を愛している。誰よりも。玲夜が柚子を唯一と言うように、柚子にとっても玲夜は唯一なのだ。
だから知らないままではいたくない。玲夜だけに背負わせたくない。
けれど玲夜になにを言っても玲夜はなにも話さないだろう。なによりも柚子のことを考えてくれているからこそ。
玲夜がかかわらないように柚子を遠くに追いやるならば、柚子の方から向かっていくしかない。
だってもうすぐ自分たちは夫婦になるのだから。
喜びだけでなく、苦しみも悲しみとともにありたい。
もはや両親に会いに行く理由は数日前とは違っていた。
今はただ玲夜のために、そして自分と玲夜ふたりのために。
「両親に会いに行きたいの。けどきっと私ひとりで行くのは不可能だと思う」
『そうであろうな』
玲夜は柚子に常に護衛をつけている。
この屋敷を出ることができても、すぐに護衛に見つかり、玲夜へと報告がいくだろう。
そして目的地にたどり着く前に連れ戻されるに違いない。
「ねえ、玲夜や護衛の目を盗んで両親のところまで行くことはできる?」
これは賭けだった。
霊獣である龍と猫たちの力を借りれればあるいは可能なのではないか。
そう思って問いかけると、龍は急に笑い出した。
『ふはははは~。あの男を出し抜こうと言うのだな。よかろうとも。我の力を持ってすれば容易いことだ。柚子が願うなら力になる。それこそが我らがここにいる意味であるからな』
「本当にできるの!?」
『もちろんだとも。ただし、条件がある』
「なに?」
柚子でできることならなんでもするつもりだ。
『童子たちも一緒に連れていく』
「子鬼ちゃんを? でも、子鬼ちゃんは玲夜の使役獣だから……」
柚子のために玲夜が自分の霊力を使って産み出した子鬼たちは、霊力により玲夜と繋がっていて、玲夜は子鬼のいるところを感じることができる。
子鬼を連れていけば、自然と居場所を知らせることになる。
そして子鬼は柚子のことを逐一報告しているに違いない。
聞いたことはないが、子鬼しかいない間のことを玲夜が知っていたりするので、その予想は間違ってはいないはずだ。
『ならば誓わせればいい。童子たちよ、入ってこい!』
龍が外に向かって呼びかけると、子鬼たちが扉を開けてひっこりと顔を出した。
「あーい?」
「あい」
『中に入ってしっかり扉を閉めるのだ』
言われるように扉を閉めて、トコトコとやってくる子鬼に龍が告げる。
『我らはこれからあの男に反旗をひるがえーす!』
「いや、反旗はひるがえさないよ。玲夜のためになにかできないかと思っただけで」
すかさず柚子がツッコむが、龍は右から左へ受け流す。
『そこでそなたちに問う。あの男ではなく柚子につくか?』
子鬼たちは互いに目を合わせる少し考えてから、元気よく手をあげた。
「あーい」
「あーい、あーい!」
「では誓え。言葉に出して、柚子に忠誠を誓うことを」
すると、子鬼たちは……。
「あい、誓う~」
「僕も誓う!」
柚子はぎょっとした。
「子鬼ちゃんがしゃべったぁ!?」
これまで子鬼が発した言葉と言えば「あい」とか「やー」ぐらい。言葉とも言えぬかけ声のようなものだ。
けれど、今は確かにそれ以外の言葉を口にした。
『柚子が知らぬだけで、こやつらはずいぶん前から話せていたぞ』
「そうなの!?」
『我と猫たちの力を子鬼に注いだことで話せるようになったのだ』
以前、まろとみるくが子鬼を救うために力を与えたことは知っていたが、そんな付与までされていたとは初耳である。
「でも、私の前で話してるの聞いたことないけど?」
「玲夜が駄目って言った」
「柚子の前じゃ話しちゃ駄目なの」
少し子供っぽさがあるが流暢に話している。
まだ驚きが消えない柚子は、その子鬼の言葉に疑問が浮かぶ。
「どうして、私の前で話したら駄目なの?」
「玲夜すごくやきもち」
「玲夜、柚子大好き!」
まったく意味が分からん。だが、言葉を話す子鬼はなんともかわいい。
驚きを越えて癒やされ始める柚子。
「しゃべるとなおかわいい……」
『だからだろう。あの男め、童子たちがしゃべられることを柚子が知ったらずっと子鬼と話をしそうだからと話すことを禁止しておったのだ』
「玲夜、嫉妬深い」
「柚子を他に取られたくない」
そんな理由で命じたのかと、柚子はあきれ顔だが、玲夜は柚子のことになると心が途端に狭くなるのでさして驚くことでもない。
『さて、童子たちにも誓わせたことだし、早速抜け出す算段をつけようではないか』
「どうやって?」
霊獣の力なら人知れず抜け出すことができるのではないかと相談しながらも、どうやるのかまでは分からない。
『まずは、屋敷の者に部屋に近付かぬように言ってから、出かける準備をするのだ、柚子』
「う、うん」
『あっ、服はズボンにするのだぞ』
首をひねりながら言われるままに雪乃に勉強するのでしばらく部屋に来ないで欲しいと伝える。
今日が大学の休みの日でよかった。そうじゃなければ、出かけない柚子を呼びにくるだろうし、休むためへたに体調が悪いなどと言えば屋敷中大騒ぎになって柚子を構い倒し、いなくなったことがすぐに分かってしまう。
雪乃に念を押してこらから部屋に戻り準備をし終えると、靴も履くようにと言われて困惑する。
玄関まで取りに行けば不審がられるだろう。
幸いなことに、まだおろしていない新品の靴がクローゼットに入っていたので、それを履いた。使っていないので部屋の中で履いても問題ない。
『よし、では猫たちはここで時間稼ぎだ』
「アオーン」
「にゃん」
まろとみるくは返事をするように鳴き声をあげると、部屋の扉をカリカリと、まるで爪とぎでもするかのように掻く。
しかしそれも数秒のこと。
すぐに移動すると、窓の前でまたもやカリカリ爪とぎのような動作をする。
「まろとみるくはなにしてるの?」
『結界を張っておるのだ。ここはあの男の結界の中だからな。それでは柚子がいないことがすぐにバレるから、この部屋に別の結界を張ることで柚子がここにいるかのように攪乱するのだ』
「そんなことできるんだ」
猫の姿をしていても、やはりただの猫ではないのだと、柚子は感心する。
『さて、では童子たちは柚子に張りつくのだ。しっかりとな』
「あーい」
「はーい」
べたんと子鬼がコアラのように柚子の腕にしがみついた。
『窓を開けてくれ』
「うん」
本当に、なにをしたいのかさっぱり分からない。
そんな柚子の立っている足の間に、龍がするりと入ると、どんどんその姿を大きくする。
「えっ、わわわっ」
まるで馬のように龍を跨ぐ格好となった。
『柚子、しっかり我に捕まっておるのだぞ』
そう言うやいなや、龍の体がふわりと浮き上がり、当然龍に乗っている柚子の体も浮き、足が床から離れた。
「えっ、ちょっと待って、どうする気?」
『このまま飛んでいくに決まっておろう』
「えぇぇぇ!! ちょっ、ちょっ」
龍に待ったをかける前に龍は動き出し、ものすごい速さで窓を飛び出し、あっという間に空高くまで駆け登った。
「ひゃあぁぁぁ!」
柚子は龍の鬣に必死にしがみつきながら悲鳴をあげる。
「わーい。楽し~」
「もっと~」
子鬼は無邪気なものだが、柚子は紐なしバンジーをしている気分だ。
「これ周りから見られてないのー!?」
柚子から地上を歩く人が見えているということは、地上からも柚子たちが見えているのではないかと心配する。
なにせ今の龍は巨大化しているのでなおさらだろう。
『ちゃんと見えぬようにしているから大丈夫だ』
「そんなら安心」
「だねー」
子鬼のように安心などと呑気にしている余裕は柚子にはない。
「絶対に落とさないでね!」
そこは念を押しておかねばならない。
しかし、子鬼がきゃっきゃはしゃくので、龍も調子に乗って無駄な動きが多い。
「早く下ろしてぇぇ!」
遊園地のジェットコースターなら喜んで乗るが、こんな不安定な乗り物をいつまでも乗っていたくない。
柚子の絶叫を聞いたからなのか、ようやく龍は高度を下げていき、ゆっくりと人気のない公園へ降り立った。
そのままいつものサイズに小さくなった龍は、得意げに『ほれ、ちゃんと抜け出せたであろう』と胸を張っているが、柚子はそれどころではない。
ふらふらとしてそのまま地面に座り込んでしまった。
これほどに地面を愛おしく思ったことはなかっただろう。
「柚子、大丈夫?」
「柚子グロッキー。大丈夫じゃない」
「死ぬかと思った……」
『我が柚子を落とすわけがなかろう』
心外だと言わんばかりの龍だが、事前の説明も命綱もなく空中散歩に強制連行された気持ちを理解してほしい。
未だにバクバクする心臓を落ち着けるために深く深呼吸して、呼吸が整ったところでゆっくりと立ち上がる。
今いるのは屋敷から少し離れたところにある公園だ。
『それでは行くか、柚子?』
「うん。行こう。両親のところへ」
柚子は強い決意を目に宿して歩き出した。
五章
無事に屋敷から抜け出せた柚子は、父親からの手紙に書いてあった住所の場所へやって来た。
『柚子、本当にここなのか?』
龍に確認するように問われ、柚子は再度手紙に書かれていた住所と、スマホの位置情報を照らし合わせて確認する。
「合ってる。けど……」
柚子は目の前にそびえ立つ立派な建物を見あげて困惑した顔をする。
立派な門の先にはきちんと手入れのされた広い庭があり、それなりに成功した人が住んでいると思われる大きな洋館だった。
「もしかして住所間違えたとか?」
そうとしか考えられなかった。
なにせ両親は決して裕福でもないのに妹の花梨にお金を使っていて資産と言えるものはほぼなかった。
かろうじて花梨を花嫁に選んだ狐月家の援助でやりくりしていたのだ。
そんな狐月家からも見放されて遠くに追いやられた両親に、これほどの豪邸に住める資金などなかったはず。
親戚とも断絶状態だと、手紙を受け取ってから祖父母にそれとなく聞いていた。
なので、なおさら両親では不可能だ。
いや、考えられるとすれば、密かに狐月家からの助けがあったということだ。
花嫁への執着は柚子がなにより知っている。
瑶太がまだ花梨をあきらめられずにいて資金援助していたとしたら……。
だが、鬼龍院を敵に回すようなことを今さらするだろうか。
瑶太の一族である妖狐の当主がそれを許しはしないはずだ。
「うーん……」
「柚子どうする?」
「ピンポン鳴らす?」
子鬼がかわいらしく首をかしげる。
「そうだね。とりあえず家主の人に聞いてみて、違ったら謝ろう」
『いや、ここで間違いないようだ』
柚子は腕に巻きつく龍に視線を向ける。
「どうして分かるの?」
『柚子の父方の祖母は一龍斎の血を引いておるであろう? あの家の中からも一龍斎の気配をわずかながらに感じる。あの気配はよくも悪くも身に染みておるから間違えようがない』
龍が遙か昔に加護を与えていた大事なサクの生家であり、そのサクを殺した一族。
柚子の元に来るまではずっと一龍斎のところにいたので、あの一族の血を引く者には敏感なのだろう。
「でも、お父さんとは限らないんじゃないの?」
『かもしれんな。だが、可能性は高くなった』
「そっか。じゃあ、ピンポン押してみるよ。いい?」
柚子は気合いを入れてインターホンのボタンに手を伸ばした。その時……。
「柚子!」
ぱっと声のした方を見ると、柵の向こうから柚子を見つめる母親の姿が。
「お母さん……」
久方ぶりに会う母親は柚子の記憶にある姿よりも少し老けており、時間の流れを感じさせた。
けれどどうしてだろうか……。
数年ぶりの再会だというのに、会えたことへの喜びは湧いてこなかった。
そんな冷めた感情に困惑している柚子の心など知らず、母親は笑みを浮かべて歩み寄ってくると、門を開けた。
そして、嬉しそうに柚子を抱きしめた。
「柚子、久しぶりね。きっと来てくれると思ってたわ」
手放しで喜ぶ母親に柚子は複雑な表情をしながら距離を取る。
あれからどんな暮らしをしてきたのだろうか。
狐月家からの援助がなくなったはずなのに、母親はずいぶんと派手な装いだった。
「本当にこの家にいたんだね」
「ええ、住所を書いた手紙を送ったでしょう?」
「うん。お父さんもここにいるの?」
「ええ、そうよ。着いてきて。お父さんも喜ぶわ」
母親は機嫌がよさそうにニコニコとした笑みを浮かべながら柚子を家の中へと案内する。
柚子は警戒しながら母親の後についていった。
洋館は外側だけでなく内装も豪華で、玲夜の屋敷で暮らすようになってそれなりに目利きができるようになった柚子から見ても、置いてあるものや飾ってあるものは価値の高そうなものだった。
「お母さんもたちはここに住んでるの?」
「ええ、そうよ」
なんてことないように答える母親だが、それができる財力がないことは分かっているので、不審さしかない。
ある部屋の前で止まり、ノックをしてから中へ入る。
「あなた、柚子が来てくれましたよ」
「本当か!?」
落ち着かせるようにひと呼吸置き、龍と子鬼と視線を交わしてから中へと足を踏み入れる。
そこには確かに柚子の父親がいた。
父親もまた老けたように感じたが、身だしなみは綺麗に整っている。
そしてやはり、再会の感動は柚子にはなかった。
手紙が来た最初こそ動揺し、結婚式に出席してもらうこともあるのではないかと考えたが、自分の中にあるひどく冷めた感情に気付いてしまった。
情がまったくなくなったわけではない。
縁を切ったといえども両親であることに変わりはない。
けれど、それだけだ。以上でも以下でもない。
もう、住む世界が違う。自分と両親の人生が重なることはないのだと実感してしまった。
柚子は両親とはなんら関わりのない世界で歩き始めている。
だが、両親は過去のもめ事などなかったかのように柚子の来訪を素直に喜んでいた。
「柚子、よく来たな!」
母親と同じようにハグをしてこようとする父親をさっと避けた。
一瞬気まずい空気が流れたが、母親が「もう、あなた。柚子は子供じゃないんだから、年頃の子が父親からの抱きしめられるなんて嫌がるわよ」と言って、父親は苦笑を浮かべた。
「ははは、確かにそうだよな」
本当はそれだけが理由ではなかったが、柚子は口をつぐむ。
すると、そこで父親はなにかを思い出したかのように母親の方を向いた。
「そうだ、柚子が来たなら神谷様にご報告しておかないと」
「あっ、そうね、その通りだわ。私が連絡するわね」
「ああ、急いでくれ」
父親と母親はなにやら慌てたように動き出し、母親は部屋のテラスへ向かい誰かに電話をし始めた。
それをいぶかしがる柚子。
「お父さん、神谷様って?」
「神谷様は今私たちを援助してくださってる方だ」
「援助?」
柚子の表情がにわかに険しくなる。
「そうだ。狐月家からの援助が絶たれた後、地方に追いやられてしまってな。それはもう大変な生活だったんだ。そんな時に私たちの境遇を憐れに思ってくださった神谷様が、家に招き入れて、他にもいろいろと用立ててくれているんだよ」
「誰? 親戚の人じゃないよね?」
「当たり前だ。神谷様はあんな薄情な親戚連中とはわけが違う。とても親切な方だよ」
見ず知らずの他人がこんな立派な住処を用意してくれ、身の回りのものまで用意してくれるはずがない。
なにかしらの対価が必要なはずだ。
「お父さん、今仕事はしてるの?」
「今はしていないさ。神谷様が、これまでずっと大変な思いをしたのだから、いつまでもゆっくりしてくれていいとおっしゃってくれているんだ」
本当に親切な方だとつぶやく父親への不信感と、神谷という人物への警戒心が膨らむ。
そんなうまい話が簡単に転がっているはずがない。
そんなこと柚子でも分かるというのに、父親はよほどその神谷という人を信頼しているのか、疑う様子はない。
しかも、なぜ柚子が来たことをその神谷とやらに報告しなければならないのか。
『柚子、あまり長居はせぬ方がよいと思うぞ』
耳元で龍が柚子にしか聞こえない大きさでつぶやく。
確かにあまりいい空気を感じない。
電話を終えたらしい母親も加わり、これまで柚子には向けられることのなかった満面の笑顔を向けてくる。
それが非常に気持ちが悪くて仕方なかった。
昔は心の底から願うほどに欲したというのに、おかしなものだ。
それはきっと柚子は現状で十分に満足しているからなのかもしれない。
もう両親の愛を乞わねばならないほど飢えてはいないのだ。
もうすでに柚子の中は玲夜から有り余るほどの与え続けてくれた愛情でいっぱいだから。
なので、どことなく柚子に媚びるような両親への嫌悪感が募る。
龍の言うように早く帰りたくなってきたが、柚子にはひとつ気になることがあった。
「花梨はどうしたの? 一緒にはいないの?」
そう、花梨の姿がどこにも見当たらないのだ。そして、両親もこれまで一切花梨の名前を出すことがなかったことが気にかかった。
花梨の名前を出した途端、両親の顔に怒りが宿る。
「あの子ならどこかに行った」
素っ気なく答える父親を、柚子は問い詰める。
「どこかってどこに?」
「知るわけないだろう! あの子さえしっかりしていれば狐月家からの援助は今も続いていたはずなのに。役に立たないどころか私たちを置いて姿を消してしまった!」
「まったくですよ。あれだけお金も時間もかけて育ててあげたというのに、親不孝な子だわ」
吐き捨てるように口から出た言葉は、花梨に対する怨嗟の念にあふれていた。
柚子を虐げていたことを気にしないほどに花梨をかわいがっていた両親から出てきた言葉とは思えなかった。
いったい柚子が消えた後のこの家族になにがあったのか……。
玲夜ならばきっと知っているのだろう。
あの玲夜が柚子に害となる存在を放置しているはずがない。
花梨のことは気になるけれど、今は目の前にいる両親のことが優先だ。
「けど、柚子はあんな薄情な子とは違うわ。やっぱり私たちの本当の娘は柚子だけよ」
「その通りだ。柚子は昔から優しい子だった。きっとお父さんたちのことも助けてくれるだろう?」
気持ちの悪い欲望に満ちた眼差し。
あんなにも花梨を優先していた人たちからこんな言葉が出てくるとは、優先されぬことを仕方ないとあきらめていたあの頃では到底信じられなかっただろう。
「助けるってどういうこと? お父さんたちはもう十分に神谷様って人に助けられてるじゃない」
これ以上なにを望むのか。
「あなたが必要なのよ、柚子」
「そうだ。お前だけが頼りなんだ」
必死な様子で、必要だと言う両親。
その言葉を玲夜と出会う前に言ってくれていたら、柚子はどんな頼みでも聞いていたかもしれないのに。
柚子は静かに瞼を閉じ、深呼吸してからゆっくりと目を開けた。
そして、口を開こうとしたその時、部屋の扉が開かれ、ひとりの男性が入ってきた。
ノックのひとつもなく我が物顔で入ってきたその男性に、柚子はいぶかしげに視線を送る。
年齢は父親よりもずいぶんと年上に見え、でっぷりとしたお腹を蓄えた大柄な男性。
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら近付いてきて、柚子は思わず後ずさりした。
「神谷様!」
両親が歓喜に満ちた声で名を呼んだことで、目の前の男性が両親の言っていた援助をしてくれている神谷という人物だと知る。
「連絡をありがとうございます。こちらがあなた方の娘さんですかな?」
「ええ、そうです。娘の柚子です」
父親が媚びるように勝手に柚子を紹介する。
人を見た目で判断するのはよくないが、とてもそんな親切な人のようには見えなかった。
柚子をなめ回すように見るその眼差しには嫌悪感しか湧いてこない。
「なるほどなるほど」
なにが『なるほど』なのか柚子には理解できない。
「いかがです?」
「ええ、まあ、少し肉付きに欠けるところがありますが結構でしょう。どうにかしてほしいとある方からも言われておりますし、彼女で手を打つとしましょうか」
「ありがとうございます!」
「よかったわね、柚子」
喜びにあふれた表情で神谷に頭を下げる父親と、柚子の肩を叩く母親。
柚子にはなにがなんだか頭が追いつかない。
「ちょっと待って。お父さんもお母さんもどういうこと!?」
なにやら柚子を置いて話を進める三人に不安を感じ声を荒げる。
「おや、娘さんには説明をしていなかったのですかな?」
「ええ。ちょうどこれから話をしようと思っていたところでして」
「では早くしてあげるとよろしいでしょう」
「はい」
神谷と話し終えた父親は柚子に向かい合う。
機嫌がよさそうにニコニコとした笑みを浮かべながら。
そして話されたのは驚愕の内容だった。
「こちらの神谷様が私たちに援助してくださっていることは話しただろう? 神谷様は今後も援助を続けてもいいとおっしゃってくれてるんだ」
柚子は一度だけ神谷へ視線を向けてから父親へ戻す。
「その代わり、柚子、お前が神谷様と一緒になったらという条件なんだ」
「は?」
柚子は一瞬言われている意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「つまりだな、お前が神谷様と結婚し妻となれば、私たちは神谷様の親戚ということになって皆一緒に幸せになれるということだ。素晴らしいお申し出だろう?」
まさに絶句。すぐに言葉が出てこない。
けれど、ドンドン話を進めていきそうな父親に、柚子は声を絞り出す。
「私には玲夜がいるのよ!? もうすぐ結婚するの。玲夜以外の人となんて結婚なんかしないわ!」
すると、まるで駄々っ子をあやすような声色で説得が始まる。
「柚子、これはとても光栄なことなんだよ。神谷様は大富豪でいらっしゃって、両親である私たちのこともまとめて面倒を見てくださるというんだ」
「そうよ。あのあやかしなんてやめなさい。顔はいいかもしれないけれど、花嫁である親を蔑ろにするような人となんて幸せにはなれないわ。柚子もそう思うでしょう?」
ああ、駄目だ……。やはりこの人たちに反省を期待したのが馬鹿だったのだ。
玲夜があんなにも柚子を両親と会わせようとしたくなかった理由をようやく察する。
この状況を予想していたのではないだろうか。
柚子の心が両親への失望に染まり、気持ちが沈んでいく。
なにが幸せになれない、だ。それは柚子ではなく自分たちのことではないか。
この人たちは柚子の幸せなどなにひとつ考えてはいない。考えているのは自分たちのことだけ。
柚子の幸せを願っていたら父親よりも年上の初めて会う男性と結婚させようとはしない。ごく普通の、娘の幸せを願う親ならば……。
これではまるで人身売買のようではないか。
娘を売ってでも自分たちだけは幸せになりたいと、そういうことなのだろうか。
なんて醜悪なのだろう。なんて憐れなのだろう。なんて、なんて……。
柚子の中に言葉にならない悲しみが渦巻く。
それと同時に、両親へ最後に残っていた情も消え去った。
柚子は必死な形相で柚子にすがりつく母親の手を払い落とす。
そして、三人から距離を取った。
「柚子?」
どうしてここに来てしまったのかと後悔が襲う。
いや、来なければ真実をいつまでも知ることができなかったのだから、これはこれでよかったのかもしれない。
以前の柚子は玲夜の言われる通りに行動して、両親と縁を切った。
それは玲夜主導で行われたことで、柚子はその波に流されていったにすぎなかった。
これが正しいのだと自分を言い聞かせて、すべてを玲夜に委ね、責任すらも玲夜に押しつけた。
けれど、今度は自分の意思で。
誰かに流されたからでもなく、自分がそう強く願ったから、今度こそ両親との縁を切ろうと決心した。
もう二度と心が揺れぬように、惑わされぬように、心から両親を閉め出す。
両親が自分たちのことしか考えないのなら。そのために子供の犠牲も厭わないというのであれば。柚子だって幸せになるための行動を起こす。
こんな簡単に親を捨てる柚子を、薄情だとそしる者もいるかもしれない。
けれど、それでも構わない。玲夜との未来を自分の足でつかみに行きたいのだ。