四章
芹によって使い物にならなくなった着物は、一応呉服店に持ち込んだが、やはり墨汁となると綺麗に取るのは難しいという。
がっくりと落ち込む柚子に、店の女性は「実は」と切り出した。
「花嫁様のお衣装を仕立て終わった後、新作の生地が入ってきましたのよ。花嫁様がお選びになったものと同じ赤色で金糸と小花の模様があしらわれた生地なのですが、お選びなられたものよりずっと質も柄も一層華やかですのよ。もっと早くに入荷していたらお見せできたのにと惜しく思っておりましたが、これもなにかの巡り合わせではないかと思います」
一度見てくれと持ってきてくれた生地は、店員の言う通り、汚されてしまった色打ち掛けよりも質のよいもので、それひとつあるだけでその場がぱっと華やぐような美しさがあった。
「いいんじゃないか?」
珍しく玲夜から賛辞の籠もった言葉が出る。
本心ではやはり最初のがよかった。
この品も素晴らしいが、最初に選んだ時のようなウキウキとした気持ちには至らない。
けれど、着られなくなってしまったものは仕方がないのだ。気持ちを切り替えるしかない。
「そうだね。なら、これでもう一度お願いします」
無理やり自分を納得させたもののどこか元気のない柚子になにかを感じたのかもしれない。
「花嫁様。よろしければ、汚れていない部分の生地を使って人形をお作りしてはどうですか?」
「人形?」
「はい。結婚式や披露宴などでは、ウェルカムドールというものを置いたりもするのですよ。人形サイズならば汚れていない部分を使って十分着物を作れるでしょうから、花嫁様の代わりに人形に着てもらいませんか? 人形は後々にも記念に残りますから」
店員の提案を聞いた柚子の表情がぱあっと明るくなった。
「それ素敵です!」
「ご迷惑でなければお衣装をお預かりして、人形サイズにお作りいたしますよ」
「いいんですか?」
「他の方には内緒ですよ?」
人差し指を口に当てて、にこりと微笑む店員に、柚子は顔をほころばせる。
隣にいた玲夜の見るとどこかほっとしたような顔で笑っていた。
玲夜も、花嫁衣装が汚されてから元気のない柚子のことを気にしていたのだろう。
店員の機転で、心に刺さっていた棘が抜けたような晴れやかな気持ちで、続いて向かったのはオーダードレスの店。
ここでも、芹によってデザインをめちゃくちゃにされた嫌な記憶がよみがえり、眉間にしわが寄る。
「あいあい」
それに気付いた子鬼が、よしよしと頭を撫でてなだめる。
『嫌な記憶は塗り替えるのが一番だ』
そう言う龍に、確かにその通りだと柚子は意気込んで店へと足を踏み入れた。
以前芹にめちゃくちゃに書き込まれたデザインは担当の相田によって綺麗に直され、さらには前回柚子が口にしていた希望も取り入れた新しいデザイン画になっていた。
それに喜んだ柚子は、デザイン画によく似た店内のドレスを試着しながら、相田と話し合いながら細かい部分を修正していく。
そんな柚子の様子を微笑ましげに見つめながらコーヒーを飲んでいる玲夜がいた。
そして何度か通いようやく完成したデザイン画を元にドレスの制作に取りかかることになった。
柚子ができるのは待つことだけだ。
柚子はデザイン画のコピーをもらい、それを持って透子の元を訪れていた。
「へぇ、いいじゃない。柚子に似合いそう」
そう賛辞の言葉をかけてくれる透子に、柚子は嬉しそうにはにかむ。
「駄目になった衣装もこの間お人形になって戻ってきたの。もう着られないって落ち込んだから嬉しくて」
汚されてしまった衣装を自分の変わりに着ている人形を手にした時、不覚にも泣いてしまった。
それだけ思い入れののあったものだったのだ。
だからこそ芹のしたことは許せない。
「にしても災難だったわね。若様に近付いてくる女ってそういう気の強い女ばかりよね。まあ、自分に自信がなきゃ若様に近付こうとは思わないからそういうことになっちゃうんだろうけど。それよりその女にはちゃんと制裁したんでしょう?」
「うーん。多分? 私も詳しくは知らないの」
その後の芹のことを聞いても、海外に行ったというだけで、玲夜は詳しく教えてはくれなかった。
ただ、二度と柚子の前に現れることはないだろうと。
それならば桜子のように一発頬にぶちかましてもよかったなと後になって後悔した。
「まあ、若様のことだから泣かすまで徹底的に追い詰めるでしょうし、その点では安心ね」
「それ、安心していいことなのかな……?」
柚子のことになるとやりすぎる玲夜のことを思い、苦笑する。
「そう言えば、透子もウエディングドレス着たんでしょう?」
「そうよ。ちょっと待って」
透子は部屋の奥から大きな本のようなものを持ってきた。
開くと、ウエディングドレスを着た透子と、タキシード姿の東吉が写っている。
「うわぁ、透子綺麗」
「ふふん、そうでしょうとも」
得意げに胸を張る透子は、「こっちのも見てよ」と、カラードレスバージョンの写真も見せてくれる。
「この時はまだお腹が目立ってなかったのね」
「そうなのよ。最近段々とお腹が目立ってきてね。早いうちににゃん吉にお願いして写真だけでも撮れてよかったわ」
現在の透子は服の上から見ても分かるほどにお腹が膨らんできていた。
その中にある小さな命のことを感じさせられる。
「私の結婚式の頃には産まれてるよね?」
「確か、挙式は鬼の本家でして、披露宴はホテルの広間を使うんだっけ?」
「うん。」
鬼龍院の次期当主の結婚披露宴だ。あやかし、人間、ともに関係深い人たちはたくさんおり、盛大なものになるだろうと言われている。
玲夜からもあらかじめ話を聞いていたが、その規模を聞いてめまいを起こしそうだった。
「披露宴には来てくれる?」
「もっちろんよ。私が行かなくて誰が行くのよ」
「玲夜が他にも浩介君とか高校の友達とかも呼んでもいいって」
特に、元手芸部部長はぜひとも呼んでくれと強く懇願されている。
見に来るのは柚子ではなく、自分の作った衣装を着た子鬼たちというのがなんとも複雑な気分だが、子鬼の衣装でたくさんお世話になったので彼女には必ず招待状を送るつもりだ。
「……柚子はさ、親を呼んだりはしないの?」
透子はどこか言いづらそうに、それを口にした。
「やっぱり結婚式となると呼ぶのか気になって」
「親、か……」
祖父母は当然呼ぶつもりでいる。
そして普通結婚式となったら親を呼ぶのは当然のことなのだろう。
けれど、両親が今どこでなにをしているのか柚子は知らない。
玲夜ならばきっと居場所も知っているのだろう。
だから連絡を取ろうと思えばできるはずだ。
「いや、ちょっと気になっただけだから、深く考えないで。ごめん、柚子。余計なこと言った」
「ううん。言ってくれてよかったかも。私浮かれててすっかり忘れてた。そうだよね。普通両親が存命なら出席するものだよね」
祖父母のことはすぐに頭に浮かんだのに、両親のことは思い出しもしなかった。
それだけ柚子にとって両親とは名ばかりの他人になってしまったのだと実感させられた。
「まあ、普通はそうなんだけど、人に寄りけりじゃないの? うちは両親とも円満だから、写真撮る時も我先にとついてきたけど、世の中のすべての人がそういうわけじゃないし。親だからって絶対呼ばなきゃならない決まりがあるわけでもないし」
「うん」
「たださ、後悔のないようにはしてほしいかなって。これは柚子の友人としての願い。ほら、もしかしたらさ、柚子の両親も今頃後悔して反省してるかもしれないじゃない?」
反省……。あの両親がするだろうか。少し疑問だった。
それにしても……。
「透子がそんなこと言い出すとは思わなかった。両親のこと、私以上に怒ってくれてたのは透子だったから」
まさか両親の肩を持つようなことを口にするのは予想外だった。
すると、透子はすかしばつが悪そうな顔をする。
「いや、まあ、そうなんだけどさ。今でも正直むかついて仕方ないんだけど……。妊娠して今までと考えが変わるというか変化してきたというかね。まだ産まれてないのにこの子がかわいくて仕方ないのよ」
透子は慈愛に溢れた表情でお腹を撫でた。
「それなのに、こんな子供をかわいがらない親がいるってことが信じられなくてさ。だからもしもまだ取り返しがつくならその方がいいんじゃないかって。私の勝手なお節介なんだけどね」
「透子……」
「いや、無理にって言ってるわけじゃないのよ! 壊れたら元に戻らないものってたくさんあると思うし。柚子の心をすべて理解してあげることは私にはできない。柚子の心は柚子にしか分からないわけだし」
ひと息置いてから透子は柚子をうかがうように口を開いた。
「ただ、柚子はそれでいいのか少し心配なったのよ」
「私は……」
柚子が次の言葉を紡げずにいると……。
「あーい」
かわいらしい子鬼の声が部屋に響き、柚子と透子の視線がそちらへ向く。
子鬼は柚子の鞄をペチペチと叩いていた。
「子鬼ちゃんどうしたの?」
「柚子の鞄になにかあるんじゃないの?」
「別に変な物は入れてないけどなぁ」
なおも「あいあい」言いながら鞄をさわっている子鬼を不審に思いながらチャックを開けると、子鬼がすかさず上半身を突っ込みゴソゴソとあさりだした。
そして取り出したのは柚子のスマホ。
それがどうしたのかと思っていると、スマホは通知を伝えるバイブで震えていた。
止まったかと思えば再び震えるスマホ。
誰からだろうと子鬼からスマホを受け取り、画面を開くと、SNSの通知だった。
そう確認している間にも、新しい通知が来ている。
何事かとアプリを起動させると、柚子は目を丸くした。
「どうしたの、柚子?」
「透子……なんかすごいバズってる」
「えっ、なにが?」
「これこれ」
柚子は透子に画面を見せると、万を超える反応と、見きれないほどのコメントが書き込まれていた。
「なに投稿したの?」
「今朝玲夜のために作ったキャラ弁」
「いや、若様にキャラ弁って! しかもめちゃくちゃかわいいやつじゃない。隣の子鬼ちゃんダンスしてるし、これキャラ弁じゃなくて子鬼ちゃんがバズってるんじゃないの?」
投稿したのはただの画像ではなく、キャラ弁の横でダンスをしている子鬼も一緒に写っている動画だ。
透子の言うように、コメントのほとんどが子鬼のかわいさに対するものだったが、それ以外に柚子が作ったお弁当への好意的な言葉が含まれている。
しかも、過去に投稿した柚子の料理画像にもコメントがついていて、『美味しそう』だったり『食べてみたい』だったりと嬉しい言葉が目に入ってきた。
「へぇ、すごいじゃない」
感心したような透子に、柚子も驚きつつ頷いた。
「不特定多数の人にこんな反応返ってきたことないから嬉しいかも」
「だったらこのまま料理人でも目指してみたら?」
冗談交じりに笑う透子だったが、柚子は悪くないなと思ってしまった。
「料理人……」
「えっ、柚子? 冗談よ?」
透子がなにやら言っているが、柚子は聞いていない。
これまでは玲夜だけのために料理を作り、玲夜の反応だけを望んできた。
それだけで満足していた。
だが、こんなにも他人の評価が嬉しいと思ったことはなかったかもしれない。
それは、玲夜のためにと料理を学び、盛りつけなども工夫してたくさん頑張った結果を認めてもらえたと感じられたからでもある。
屋敷に帰ってから、柚子はコメントのひとつひとつをじっくりと読んでは、顔がニヤついてしまう。
まあ、ほとんど子鬼の力が大きいのだが、頑張ったなにかを見ず知らずの他人がお世辞ではなく評価してくれたことに喜びを感じた。
大学四年生の柚子は就職先を決めていない。
当初就職する気満々だった柚子を玲夜が止めたからだ。
義務で仕事をするのではなく、柚子のやりたいことをやりたいようにしたらいいのだと。
これまではそのやりたいことというのが見つからなかった。
とりあえず役に立つかと資格試験を片っ端から取ろうと勉強して、秘書検定などを取得したりもしたが、別にそれをしたいわけではなかった。
だが、料理教室へ通うことを玲夜に願ったのはこれまでとは少し意味が違った。
より美味しいものを作りたい。
喜んでほしい。反応を見たい。
理由は様々だったが、これがしたいと強く思って動いた初めてのことだったかもしれない。
料理の画像をSNSへ投稿していたのも、少しでもなにか反応が来ないかなと淡い期待を抱いていたことは否定できない。
『柚子、そなた料理を作る者になりたいのか!』
「分からない……けど、作ってるのは楽しい。玲夜や屋敷の人たちが美味しいって食べてくれるのがすごく嬉しいの」
喜んでもらえると、また作りたいとやる気が出てくる。
『我は悪くないと思うぞ』
「でも、そんな簡単に決めていいことなのかな?」
『柚子は気付いておるか分からぬが、料理教室で料理を習っている柚子は生き生きしておる。のう、童子たちよ?』
龍が子鬼たちに問うと、ふたりはニコッとしながらこくりと頷いた。
「でも、料理を職業にするってどうしたらいいんだろ?」
「あいあい」
「あーい」
子鬼はテーブルによじ登り、閉じていたノートパソコンを開いて呼びかけた。
これで調べたらいいということだろう。
よく知っている。
パソコンで料理について調べると、様々な学校があることが分かった。
「へえ、専門学校だと早くて一年で調理師免許取れるんだ」
調べていくうちに段々とおぼろげだったものが、柚子の中で明確な形になっていくのが分かった。
けれど、すぐにやろう!というわけにもいかない懸念事項がある。
「でも、調理師になったところで就職を玲夜が許してくれると思わないしなぁ。玲夜はあまり不特定多数の人と関わってほしくなさそうだし」
だが、それは柚子のためでもある。
鬼龍院というバックがついている柚子には、いろんな思惑を持って近付いてくるものがいるからだ。
いい意味でも悪い意味でも。
かくりよ学園では、他の鬼の一族の目もあるので安心しているが、外の世界に出てしまったら玲夜の保護下から離れてしまうことになる。
もちろん龍と子鬼は常に一緒にいるだろうが、自分の目の届かないところでなにかあったらと玲夜は心配しているのだ。
『それならば自分の店を出せばよいのではないか?』
「自分のお店?」
その選択は頭になかった柚子は目から鱗が落ちる。
『自分の店ならばあやつの目の届くところに店をかまえればよいし、接客を他人に任せて柚子は裏方に鉄しておけば人との接触も最小限に抑えられるではないか』
「なるほど。……でも、私にお店の経営なんてできるかな?」
お店を出すこと自体はそう難しいことではない。
龍の加護のおかげで当たった宝くじの残りが十分に残っているので、資金面での不安は皆無だ。
玲夜と出会う前は飲食店で接客業をしていたので多少の知識があるが、経営は専門外だ。
『そういう面倒なことはあの男に任せておけばよいように取り計らってくれるだろう』
それでいいのか?と、柚子は悩む。
結局玲夜の力を借りなければならないと思うと、一歩踏み出せない。
『柚子はやってみたくないのか?』
「……やってみたい」
ちょっと見ず知らずの人たちに褒められただけで調子に乗るなと言われるかもしれない。
世の中そんなに甘くないのだと、本業の人たちには叱られるかも。
けれど自分にどれだけのことができるか挑戦してみたい。
それは玲夜のためだと必死に就職先を探していた時とは違う、自分の内から溢れ出てくる想いだった。
「とりあえず、ここから通える学校で気になったとこの資料請求してみようかな」
『待つのだ、柚子! 届け先は猫屋敷にしておくのだ』
「どうして?」
『忘れたのか? インターンの時ことごとくあの男に邪魔をされたのを』
柚子は「そう言えば……」と、就活を邪魔してきた玲夜のことを思い出した。
『柚子が学校の資料を請求したなどとあの男の耳に入ったら、また邪魔されるかもしれぬぞ。今はまだ内緒にしておくべきだ』
「でも、玲夜は私にやりたいことを見つけろって言ってたのよ? ようやくやりたいことが見つかったんだから玲夜も応援してくれるんじゃ……」
『甘い。砂糖を入れすぎたあんこのように甘いぞ、柚子! いいから今は我の言うようにしておくのだ』
「なぜにあんこ? ……まあ、そこまで言うなら透子に頼んでみるけど」
柚子はすぐに透子へ電話をして、資料を猫田家へ送っていいかと許可を取った。
透子は多くを聞かず快く了承してくれたので、柚子はせっせと学校を調べ、猫田家へ資料が届くようにした。
後日、資料が届いたと聞き受け取りに行くと、屋敷に戻ってこっそり内容を確認した。
「うーん。やっぱり一年で手早く免許が取れるのがいいなぁ」
一緒になって資料を覗き込む龍は、尻尾である箇所をぺしぺしと叩く。
『オープンキャンパスというのもあるぞ』
「一度行ってみるのもいいかもね。資料だけじゃ分からないこともあるし。けど……」
『問題はやつか』
「だね。さすがに玲夜に知られず行くのは不可能だから、先に許可もらわないと」
黙って行くことは可能だが、どこに行ったかは常に玲夜に報告されてしまうので、いずれバレる。
事後報告は玲夜を不機嫌にさせるだけなので先に許可を得なければならない。
「よし! 玲夜が帰ってきたらお願いしてみよう」
『むう。素直に許可を出すと思えんのだが……』
「玲夜が言ったんだもん。やりたいことをしたらいいって。大丈夫大丈夫」
そう楽観的でいた柚子だったが……。