バイトを辞めるとき、同僚が僕に言ったことを思い出す。
「本当に悪いと思っている。今から、お前の気が悪くなることをいうけど、決して怒らないでくれ」って。
 僕は同僚が言おうとしていることを何となく察しながらも、「なんですか?」と聞いた。
 同僚は下唇をぐっと噛み締め、斜め下を見下ろした。それから、意を決したように僕の目を見ると、震える声を絞り出した。
「お前は、あまり人と関わらない方がいい」
 その時は「はあ…」と頷いた。
 同僚は、「すまない」と、また謝った。
「お前は本当に良いやつだよ。仕事できるし…、頭がいいから、接客もできるし…。美味しい店も沢山知ってるもんな。お前とバーベキューに行った時も、マジで楽しかった。楽しかったんだ。お前はいいやつなんだ。だけど、もう、人と関わらない方がいい」
 同僚も、僕にとっては「良いやつ」だった。仕事をさぼる癖があるのはいただけなかったが、普通に接客できるし、料理も美味しいし、女の子の連絡先を沢山知っているし。彼と一緒にいて、楽しい思いは何度もしてきた。
 だから、彼にそんなことを言われた時、ショック、と言うよりも、申し訳なささが勝った。彼だって、本当はそんなことを言いたくないはずだ。それを言わせてしまった僕がふがいなく思った。

 人と関わらない方がいい。か。人を寄せ付けたらダメなのか。
「あっはっは! 来るな来るなあ…」
 僕は、傍から見れば、狂った人間のように呟くと、酒に酔った足を前に踏み出した。
 つい最近まで、うだるような暑さが続いていたはずなのに、通りを吹き抜ける風は冬の気配を孕んでいた。背筋がぞっとして、腕に鳥肌が立つ。
 アパートに着くと、錆が浮いて今に落ちてしまいそうな階段を登って自分の部屋の扉の前に立った。
 ドアノブには、回覧板が下げられていた。それを手に取り、脇に挟む。それから、鍵を使って中に入ろうとした…、その時だった。
 ガタンッ! と扉が勢いよく開いて、隣の部屋から女の人が出てきた。
 今さっきまで寝ていたのか、三十代前半くらいの女性はパジャマ姿で、髪もまとまって折らずぼさぼさだった。胸元のボタンが外れていて、少し間違えれば、白い胸が露わになりそうな状況で、彼女は裸足のまま僕に詰め寄ってきた。
 声を押し殺して、僕を怒鳴る。
「ちょっと! さっきからなんなのよ! うるさいわね!」
「え……」
 僕の手から、部屋の鍵が零れ落ちた。
 カシャンッ! という音に、お隣のお姉さんは肩を震わせながら続ける。
「さっきから、ガタガタガタ…、うるさいのよ! 近所迷惑ってことを知らないの?」
「え、いや、その…」
 僕が言い淀んでいると、お隣のお姉さんの顔がピタッと固まった。
 居酒屋のTシャツを着て、手には買い物した後のナイロン袋。足元には、部屋の鍵。
 それを見たお隣のお姉さんは、「へ?」と間抜けな声を発した。
「もしかして…、今、帰ってきたの?」
「え、まあ、はい」
 頷くと、お隣のお姉さんは「なーんだ…、良かった。そうだよね」と、ほっと息を吐いた。しかし、すぐに顔を青ざめさせ、扉の方を見た。
「え、ええと…、警察呼んだ方が良いかな?」
「いや、いいです」
 僕は鍵を拾い上げると、さっと鍵穴に差し込み、右に回した。ガチャンと、開錠される。
 お隣のお姉さんの制止も聞かず、僕はドアノブを捻って手前に引いた。
 扉を開けると、蛍光灯の白い光が、アパートの通路に差し込み、僕たちの頬の輪郭を照らした。
 今更、己のあられもない姿に気づいたお隣のお姉さんが、パジャマのボタンを留めながら部屋を覗き込む。僕は「大丈夫ですよ」と言いながら、靴を脱いで部屋の中に上がった。
 いつもの僕の部屋だった。
 台所には、朝食の皿が洗われず放置され、奥のフローリングも、家を出る前と変わらない。布団がぐちゃっと捲れ上がり、テーブルの上には読みかけの小説が積み上がっている。唯一、家を出る前と違うのは、蛍光灯の灯りが点いているということだった。
「ほら、何もいないでしょ?」
「そ、そうだね…」
 女性は頬にじっとりとした汗をかきながら頷いた。
「その…、お祓いに行った方がいいんじゃない? 近くの神社の神主さんと知り合いだから、声をかけてみようか?」
「いや、いいです。自分でやるんで」
 僕は彼女の厚意に感謝しながらも、やんわりと断った。今までに、何人もの神主やら坊さんやらに相談したが、いずれも「私の手には負えない」だった。ちなみに、怪しい女性から「幸運になれる壺」を買ってみたが、効果は無かった。
 僕は女性に謝った。
「本当に、すみませんでした」
「い、いや…、リッカくんのせいじゃないってわかって、うん、安心したよ。そりゃそうか、リッカ君って優しいし、いい子だもんね」
 女性はパジャマの袖をパタパタと振った。
「じゃ、じゃあ、明日も仕事があるんだ。お休み」
「はい、おやすみなさい」
 女性が隣の部屋に戻るのを確認してから、僕も部屋に引っ込み、鍵をかけた。
 冷蔵庫に酒とおつまみを入れて、シャワーを浴びてさっぱりとしてから、ベッドの上に横になる。天井を見上げると、見知らぬ黒いシミができていた。変色した血の色みたいだな。
「………」
 酒のせいか、瞼がとろんと重くなった。
 頭の中で反響するのは、同僚に言われた言葉だった。

 人と関わらない方がいい。
 うーん、確かに、前々からそう思っていたけど、面と向かって言われるとなかなか衝撃だな。まあ、彼は悪くない。
 悪いのは、出会った人を次々に不幸にしていく僕の方だ。
 部屋の隅を見ると、今朝はたんまりと盛っていたはずの塩が真っ黒になっていた。僕は「ああ、くそ」と声を洩らすと、ベットから降りて、塩が盛られた皿に近づく。新しいものに取り換えようと、皿ごと持った瞬間、その小さな震動で、黒く染まっていた塩がドロリと溶けた。黒い液体が、床の上に零れ落ちる。
「………」
 僕は空気に向かって話しかけた。
「おい、いるんだろ?」
 僕の声は、狭い部屋の中に無機質に反響した。
 僕はもう一度言った。
「おい、返事しろよ。いるんだろ? 出て来いよ、姿を見せろよ」
 だが、誰も何も返してこない。
 これ以上大きな声を出したら、本当にお隣の女性を怒らせてしまいかねないので、僕は唇をきゅっと結んだ。傍にあった雑巾で黒い液体を拭い、黒くなった塩を台所の流しに捨てた。前までは、ちゃんと手順を踏んで捨てていたのだが、全く効果が無かったので、扱いが雑になっていた。
 塩の取り換え完了。
 僕は満足げに頷くと、またベットの上に寝転んで目を閉じた。
 目を閉じるとまた、同僚の言葉が頭の中を横切る。
 
 人と関わらない方がいい。

 人と関わらない方がいいって言ったって…、そう言うわけにもいかないんだよな。今は金に困っていなくても、いずれは生きるために金を稼がなくてはならない。大学に通っているから、単位を落とすわけにもいかない。ずっとこのアパートで暮らすことだってできない。
 息を吸っていれば、道を歩いていれば、必ず、『誰か』と関わることになるんだ。
「ああ、畜生め」
 目を閉じたままそう言う。
 夜風に当たって冷えた腕をポリポリと掻く。
 まあ、いいか。明日のことは明日考えよう。これまで、そうやって来たんだ、きっと、何とかなるはずだ。まあ、何とかなった覚えは無いんだけど…。
 そう、目の前に立ち塞がっている大きな問題を、無理やり楽観視して、僕は目を閉じた。
 その時だった。
 テーブルの上に置いてあった僕のスマホが震えた。
 せっかく夢の中に片足を突っ込んでいたと言うのに僕ははっと目を開け、上体を起こしてスマホを見た。メッセージを受信していた。
 こんな夜中にメール?
 安っぽい怪談でよくある展開を思い出しながら、僕は手汗でべたっとした右手をスマホに伸ばした。掴み、そして、起動する。
 受信したメッセージ。それは、大学の友人からだった。

『タケルが事故った。ちょっと手伝ってくれ』

「………」
 酒で火照っていた身体が、一瞬で冷えた。

 中学の時に、体育を担当していた先生がこんなことを言っていた。「どんなにすごい指導者でも、どうすることもできないものがある。それは何かわかるか? 『身体的特徴』だよ」と。
 もしあの言葉が、親御さんの耳に届いていたなら、多分、問答無用で教育委員会が出動することになっていただろう。実際、「そんなことは無いよ。努力をすれば、身体的特徴だって乗り越えて強くなれるんだよ」と、、陰で反論するやつもいた。
 僕は先生のその話を聞いて、「ごもっともだ」と思った。
 子供が生まれるには、まず、親が性交渉をして子供を作る必要がある。その時、減数分裂によって、父親の精子、母親の卵子に遺伝情報が伝えられ、それが受精することで、妊娠する。
 受精卵は、父親と母親の遺伝情報を半分ずつ受け継いだということになる。マレにある突然変異は放っておいて。生まれてくる子供は必ず、親の特徴を引き継いで生まれてくるものなのだ。
 だから、背の低い親から生まれた子供が、高身長になる望みはない。ブサイクな顔の親から生まれてきた子供が、美形になる望みはない。
 背が低いやつがバスケットボールをしてみろ。ブサイクな女が、「アイドルになりたい」と言ってみろ。そこには、圧倒的な「不利」と言うものが存在する。
 身体的特徴…、体質とは、基本的にどうすることもできず、生まれてから死ぬまで、一緒に付き合ってやらなくてはならない存在なのだ。
 
 自分が「周りを不幸にする体質」と気づき始めたのは、小学校五年生の頃だった。

 小学五年生の秋の日。
 学校に登校すると、教室がやけに騒がしかった。
 入って見れば、教室の一番後ろの壁に、先日行った林間学校の写真がびっしりと掲載されていた。僕は「お、やっと届いたんだ!」と思い、鞄を自分の机の上に放り出して張り出された写真に駆け寄った。
 すると、林間学校で一緒の班だった女子が、他の女子に囲まれてしくしくと泣いていることに気づいた。
 なんで泣いているんだろう? と思いながらも、話しかけられるような雰囲気ではなかったので、そのまま壁の写真を見上げる。
 ええと、僕の写真は…。と、目を泳がせ、それを発見したとき、僕は愕然とした。
 それは、僕とあの女の子が、炊けた米の飯盒を持って肩を並べている写真だった。
 満面の笑みを浮かべる僕の肩に、墨汁を垂らしたような影が染み付いていて、それはまるで手を伸ばすようにして、隣の女の子の方に伸びていた。
 それだけじゃない。
 僕がウォークラリーで、楽し気に山を散策している写真。僕が、カヌー体験でひっくり返りそうになっている写真。僕が、キャンプファイヤーの前で一興している写真。僕が映り込んでいる写真全てに、墨汁のような影が映り込み、まるで生きているかのような、生々しい形となっていた。
「よお、リッカ、お前の写真、やべえな!」
 男子の友達が、にやにやと笑いながら僕の肩を掴んだ。
 その時、僕の魂は何処かに抜けていて、「ああ、そうだな」と、ぼんやりとした返事をすることしかできなかった。
 心霊写真。
 今までに何度も、そう言った類のものが撮れたことがあったが、こんなふうにくっきりと写るのは初めてだった。
 僕たちが騒いでいるところに、担任の先生が入ってきて、「授業始めるから、席につけ!」と言った。だが、みんなが「やばいやばい!」と言い合い、黒い影に肩を掴まれそうになっている女子がシクシクと泣いていたり、僕がぼーっとしていたりするのを見て、怪訝な顔をした。
 先生は「どうしたんだ?」と近づいてくる。
 男子の誰かが、「先生! これ!」と、壁に貼り付けられた心霊写真を指す。
 それを見た先生の顔がさっと青ざめた。
「どうして? 誰がやったんだ!」
 先生は最初、僕の写真に映り込んでいる黒い影が、悪意のある誰かが、黒い墨汁で塗ったものだと思ったらしい。すぐに写真を壁から剥がし、爪で引っ掻いて剥がそうとした。しかし、それが本当に「映り込んでいるもの」に気づく。そして、また青ざめた。
「どうして…? 業者に頼んだ時は、こんなもの写っていなかったのに…!」
 心霊話あるある。最初は映り込んでいないが、現像してしばらく時間を置くと現れる。
 その日は、学校中大騒ぎだった。
 黒い影は僕の写真に写り込んでいるというのに、女子の何人かは「呪われる!」と喚き、泣いた。男子は面白がって、僕に「呪われたな!」「ドンマイ!」と、心無い言葉をかけた。まあ、変に心配されるよりも、馬鹿にされ、笑いの種にした方がマシだと思った。
 先生は黒い影が写っている写真を全て回収し、業者に連絡を入れていた。業者からは「そんなものしらない」という返答があったらしい。
 写真に写り込んだ黒い影は、時間が経っても消えることはなかった。これは卒業するときに聞いた話だが、何度も業者が現像のやり直しを試みたが、新しく刷った写真にも必ず、黒い影が染みだしてきたらしい。
 林間学校心霊写真事件は、二週間ほど小学校を大いに騒がせたが、その間、特に何か変なことが起こることも無く、季節が夏から秋に変わるに連れて忘れ去られていった。結局、僕はあの楽しかった林間学校の写真を一枚も持つことができなかった。流石に、黒い影が写った写真を買うことができなかったのだ。
 何も無かったので、僕もそのことは忘れていた。
 季節は秋から冬に代わり、そして、年が明け、春が近づいた。
 
 その時に、事件が起こった。

 あの時、僕と一緒に写り込んでいた女の子が、交通事故に遭ったのだ。
        ※

「…………」
 昔のことを思い出しながら、僕はジャケットを羽織ると、家の鍵と財布、そしてスマホを持って外に出た。
 東の空が青白いんでいるのを横目に階段を駆け下り、駐輪場に停めてあった原付に跨る。エンジンをかけると、地面を足で蹴って、路地に飛び出した。
 人気が無く、肌寒い路地を一気に加速して、友人が事故に遭った場所を目指した。
「………」
 事故に遭ったのは、同じ大学の、「嬉々島タケル」という男だった。名は体を表すというか、筋肉質な身体に、吊り上がった目と、かなり荒々しい見た目をしていて、周りからは半歩ほど距離を置かれている存在だ。
 見た目の割に、タケルは面倒見が良くて…、大学で一人でぽつんとしている僕に積極的に話しかけてくれた。親友って程じゃないけど、趣味について語り合ったり、一緒に何処かに出かけている仲だった。ついこの間も、一緒にあるキャンプ場に遊びに行ったことがあった。
 そんな彼が事故に遭ったのだ。多分、僕のせいだとは思うけど、放っておくわけにはいかなかった。
 十分ほどバイクを走らせて、タケルが住んでいるアパートに着いた。
 アパートの前には、事故の連絡をくれた、同じサークルの「佐藤リュウセイ」が立っていた。
「よお、リュウセイ」
「あ、リッカ、ありがとう、来てくれたんだな」
 リュウセイは僕を見るなり、ほっとした顔をした。
「い、いやあ、マジで焦ったよ。ありがとうな、近くに頼れるのがお前しかいなかったんだ」
「うん」
 事故の詳細はこうだった。
 タケルと、その友人の「ミチル」って男が、キャンプに行くために車に乗り込んで、日が昇る前に出発。しかし、一キロも進まないうちに、電柱に衝突する事故を起こした。車に乗っていたタケルは負傷。ミチルは無傷。すぐに救急車を呼んで病院に搬送された。事故現場の近くに、リュウセイが住んでいるアパートがあったので、彼はタケルの部屋に行って、着替えやらを取りに行くのを任されたのだ。
 アパートの前は、涼しい風が吹き抜けていると言うのに、彼の身体は冷や汗でぐっちょりと濡れていた。よほど焦っているのだろう。
 僕は単車を路肩に停めた。
「タケルはどうなの?」
「とりあえず、事故現場に救急車を呼んで、一緒に連れていってもらった。頭も打ってないし…、ガラスで腕を切ったくらいだから大丈夫だと思う。意識は朦朧としてたけど、多分、今日中には戻るんじゃないかな? 付き添いには、ミチルが行ってる。オレは、とりあえず、タケルの着替えとかを持っていこうと思って」
「ああ、そう言うことか」
 正直、着替えを取りに帰ったり、親御さんに連絡するくらいなら一人でできるだろって思ったが、事故に遭った後で、動揺しているんだ。心細いのはわかる。
 僕は文句を飲み込んで、タケルの部屋を指した。
「とりあえず、動こうか」
「ああ、そうだな」
 僕のアパートよりも少し豪華な外観のアパートの階段を上り、タケルの住んでいる部屋の前に立った。
 リュウセイが鍵を使って部屋に入る。僕も、彼の汗で濡れた背中に続いた。
 タケルの部屋には、今までに二度来たことがあった。一度目は、大学に入学した直後、飲み会で。二度目は、一か月前に、キャンプ帰りの余韻で停まった。
 内装は当時と変わらず、部屋には高そうなベッドに、天井に届く本棚。木目の美しいテーブル。勉強机の棚には、ドラゴンボールのフィギュアが飾られていた。
 リュウセイは「ええと…、着替え、着替え…、食べ物もいるかな?」と言いながら、部屋の中を物色する。
 これ、傍から見たら、空き巣紛いじゃないか? と思いながら、僕もクローゼットを開けて、彼が好んで大学に来てくるTシャツとか、パンツ、タオルを引き出した。
 こうやって、病院に運ばれた友人の身の回りのものを持っていく。という経験は初めてで、僕とリュウセイも、何を持っていくのか、どのくらい持っていけばいいのか、計りかねた。まあ、大は小を兼ねるっていうし、沢山持っていけばいい。
 着替え、タオル、ティッシュ、冷蔵庫に入っていた固形食糧を、足元に落ちていたエコバックに詰めていく。あと、買ったばかりで封が切られていない漫画本。エッチな雑誌も、ネタ枠で入れた。
「こんなものか…」
「そ、そうだね」
 リュウセイはまだ落ち着いていない様子だった。
 僕はため息をついて彼に言った。
「おいおい、もう少しさ、落ち着こうぜ。タケルは大丈夫なんだろう? そんなに焦る必要はないよ」
「そ、そうだな」
 リュウセイは落ち着きのない返事をした。
 その瞬間、急に肩をびくっと震わせる。
「な、なあ、リッカ」
「なんだよ」
 僕は震えるリュウセイに鬱陶しいものを感じながら言った。
 リュウセイは辺りを見渡しながら、小声で言った。
「この部屋…、暑くないか?」
「はあ?」
 僕は夜中だというのに、間抜けね返事をしていた。
 リュウセイは「暑い」と言いながら、ガタガタ震えて続けた。
「暑いんだよ…、その…、真夏のクーラーが切れた部屋みたいに暑い…」
 見れば、彼の頬からボタボタと汗が流れ、床に斑点を作っていた。
 僕はジャケットの袖からでた自分の手の甲を撫でる。
「いや、別に、暑くないけど…」
 心の中で、「ああ、またか」って思った。
 一応、部屋の隅に着いたエアコンに目を向けたが、エアコンのスイッチは切れていた。窓は締め切っていて、冬を目前にした、秋のしんとした空気が充満している。これが暑いわけあるか。むしろ、「寒い」だよ。
 まあ、原因は何となくわかった。
 原因に気づいていながら、気づかないふりをした僕は、リュウセイに言った。
「なんだよ、お前、事故っても無いのに、頭がおかしくなったのか? ほら、さっさと病院に行こうぜ? タケルにこれを届けないといけない」
「あ、ああ、そうだな」
 リュウセイは変わらず歯切れの悪い返事をした。
 荷物を詰め込んだナップサックを持ったリュウセイが部屋から出ていく。扉がガチャンと閉まるのを確認した僕は、ジーパンのポケットに手を入れて、中に仕込んでいた小さな紙袋を指で押し破った。
 ポケットから手を抜き、振り向きざまに手の中に握ったものを投げる。
 僕が投げたもの。それは塩だった。
 塩はパラパラと床に落ちる。その瞬間、ジュワッ! と、肉が焼けるような音が部屋に響き渡った。心なしか、腐った水のような臭いが鼻を突く。目を凝らしてみれば、塩粒が黒く変色していた。
 僕は「ああ、やっぱりね」と独りごとを言う。
「あのさあ、もう、僕の周りの人間に手を出すの、辞めてくれない?」
 そう部屋の中にいる「何者」かに向かって言った。
 だが、誰かが返事をしてくれるようなことは無かった。
 僕は「くそが」と吐き捨てると、勢いよく部屋を出た。
 ドアノブに差さったままの鍵を捻って施錠し、抜く。塩の袋が入っていたポケットに鍵を突っ込むと、ひんやりとした空気を吸い込んで歩き出した。
 階段を降りようとして、足が止まる。
 階段の真下に、人が倒れていた。
 僕は背中に冷たいものを感じて、階段を勢いよく駆け下りた。そして、地面に倒れている人を抱え起こす。
「おい、大丈夫か?」
「……うう…」
 人は力のない返事をした。
 僕は舌打ちとともに、スマホを取り出した。手慣れた指さばきで「一一九」を入力し、電話尾かける。
「すみません、救急車お願いします…、はい、友達が、階段から落ちちゃって…」
 階段から転げ落ちたであろうリュウセイが、血まみれの姿でそこに倒れていたのだ。
        ※

 小学校の林間学校心霊写真事件が起こってから、半年ほどが経った時、写真で僕の隣に写っていた女の子が事故に遭った。後方から走ってきたトラックが運転を誤り、通学途中だった彼女を撥ね飛ばしたのだ。
 賢明な治療により、彼女は一命を取り留めた。しかし、右肩から下の腕を失った。さらには、神経の損傷で、下半身に麻痺が残った。
 後のことは想像通りだ。
「おい! リッカ! お前のせいなんじゃねえの?」
 みんなで、女の子に千羽鶴を折っている時、一人の男子が僕にそう言った。斬りつけるような声だった。
「あの写真の霊が、カホちゃんを怪我させたんじゃねえのか?」
「……知らないよ…」
 彼が、事故に遭ったカホちゃんに恋をしているということは、クラスの誰もが知ることだった。彼は泣いていた。そりゃそうか、自分の好きな女の子が右腕を失い、一生歩けない身体になったのだ。小学生の心には受け止めきれない衝撃だ。
 男子は目にいっぱいの涙を浮かべ、僕に掴みかかった。
「てめえのせいだろ! カホちゃんがああなったのは!」
 強い力に引っ張られ、僕は床に叩きつけられた。
 周りで見ていた女子が、甲高い悲鳴をあげた。
 少し遅れて、教卓の前で鶴を折っていた先生が駆け寄ってくる。
「こら、何をしているんだ!」
「先生! コイツのせいですよ! コイツが、林間学校で変な幽霊を拾ってきたから! その幽霊が、カホちゃんを呪ったんだ!」
 男子は床の上で唸っている僕を指して言った。
 普段は温厚な先生だったが、その日は言葉を詰まらせながら怒鳴った。
「こら! 何を言っているんだッ! そんなわけないだろう!」
 そんなわけない。
 先生の言葉が教室に響き渡る。
 先生は男子の首根っこを掴むと、教室の外に引っ張っていって、こっぴどく叱っていた。風船が張り裂けるような怒鳴り声が、教室の中にまで響いてきた。
 何人かの生徒が僕に駆け寄り、「大丈夫か?」って言って、立たせてくれた。
「リッカ、気にすんなよ? あいつ、カホちゃんのことが好きすぎて、いっつも詰め寄っているようなやつだから、お前とカホちゃんが、同じ班で一緒になったことを妬んでたんだよ。だから、さっきのもそんなもんだよ」
「……うん」
 僕の写る全ての写真に黒い影が写った。
 僕の隣に写っていたカホちゃんが事故に遭った。
 それだけ、「心霊的証拠」的なものが揃って置きながら、クラスのみんなは優しかった。「気にするなよ?」「関係ないよなあ」「大丈夫だって!」って励ましてくれた。今までの行いがよかったからだと思う。
 自分で言うのもなんだが、僕はクラスのみんなに好かれていた。
 隣に立っていた男子が、僕の背中をバシバシと叩いた。
「ほら、千羽鶴作ろうぜ? カホちゃんのために」
「うん、そうだね」
 僕は泣きそうになるのを堪えながら頷いた。
 冷静に考えてみて、あの影は僕の写真に写り込んでいる。それが悪霊か呪いの類ならば、僕が被害に遭わなければおかしかった。だから、カホちゃんの事故は偶然。宝くじに当たるような、天文学的な確立に当たったに過ぎなかった。
 あれから、一部の男子や女子には気味悪がられ、陰口も叩かれたが、ほとんどの友達が味方になってくれた。「お前はおかしくない」って言ってくれた。本当に嬉しかったのを覚えている。
 僕は小学六年生に上がり、事故にあったカホちゃんとは別のクラスになった。
 新しいクラスでも、僕は仲間に恵まれ、みんな、あの時の変な噂なんて気にせず、と言うか忘れて、楽しい時を過ごした。休み時間は馬鹿やって、放課後になると一緒に遊んで、小学生ながら、「この時がずっと続けばいい」って、かけがえのない日々を噛み締めていた。
 そして、秋に修学旅行があった。そこで、またあの心霊写真が撮れてしまったことは言うまでもない。
        ※

「…日暮さん、日暮さん」
 名前を呼ばれて、僕は過去の回想から現実世界に引き戻された。
 僕が座っていたのは、救急病院の待合室だった。ここに、車で事故を起こしたタケルと、階段から転げ落ちたリュウセイが搬送されたのだ。
 朝方から二名もの怪我人が運び込まれたということもあり、病院の中は心なしか騒がしかった。白衣の看護師さんたちが、パタパタと廊下を行ったり来たりしている。
 「あ、ああ…」と、顔をあげて、横に立っていたお医者さんの方を見る。
 治療室から出てきたお医者さんは、目元に隈を浮かべ、頬にねっとりとした汗をかきながら僕に言った。
「え、ええと、嬉々島さんと、佐藤さんのご友人でよろしいですよね?」
「はい…」
 僕は瞼が少し重いのを感じながら、目の前の中年の医者に、テンプレを言った。
「その、二人の容体は?」
「はい、そのことなんですが」
 お医者さんはこくっと頷いて、手短に話した。
「タケルさんの方ですが、腕を骨折しています。頭を打って脳震盪を越したようですが、命に別状はありません。順調に行けば、一週間ほどで退院できるでしょう。佐藤さんですが。階段かあ転げ落ちた拍子に、脚の骨を折っています。ええ、両足ですね。これも命に別状はありませんが…、彼の場合は、リハビリに時間がかかりそうですね」
 それから、僕に聞いた。
「それで、お二人の親御さんの連絡先を知っていますか?」
「え、あ、そうか…」
 しまった。と内心指を鳴らした。
 バタバタとしていたせいで、二人の両親に連絡していない。こういうのは、早くしなければならない。
「さあ…、二人の親とは交流がありませんし…」
「治療費や、保険のことでお話があるのですが…、何とかなりませんかね?」
「そうですね…」
 僕は傍に置いてあった、リュウセイのナップサックを引き寄せた。悪いとは思いながら、中を物色する。すると、アニメの女の子のイラストがプリントされたカバーに装着されたスマホが出てきた。
 へえ、リュウセイってこんな趣味があったんだ。と感心しながら、スマホを機動させる。ロックはかかっておらず、すぐに開くことができた。電話帳のアイコンをタップして弄っていると、「母ちゃん」という名前が目に入った。
 僕はお医者さんに目配せをしてから、病院の外にでた。リュウセイのスマホを使って、「母ちゃん」って人に電話をかける。
 ワンコールで出た。
『もしもし? どしたの?』
 酒焼けしたガラガラ声が聞こえた。
『こんな朝早くに』
「あ、どうも、おはようございます」
 僕が少し気圧されながら言うと、電話の向こうの「母ちゃん」は、声が息子のものではないと気づいた。
『うん? あんた誰?』
「あ、朝早くにすみません。僕は、リュウセイ君の友達の…」
『え? リュウセイの友達?』
「あ、はい、リュウセイ君の友達の、日暮立夏と言います…」
『え? なんて?』
「だから…、リュウセイの友達の…」
『ごめん、聞こえない! なんて言ってるの? ノイズがすごくてさあ!』
「え…」
 そう言われて、僕は反射的にスマホの液晶を見ていた。だからなんだって話だが。
 リュウセイの母ちゃんの声ははっきりと聞こえる。
 僕の近くだけ、電波が干渉されているのか? 
 僕は「ちょっと待ってください」と言って、病院から走って離れた。
 百メートルくらい離れてスマホを耳に当てる。
「どうですか? これで聞こえますか?」
『え? なんて? ごめん! マジで聞こえないのよ!』
 なんで聞こえないんだ?
 そう思った次の瞬間、マイクの奥でプツンという音がして、通話が切れた。
 プー、プー、プーと無機質な電子音が耳に残る。
「………」
 僕は諦めてスマホをポケットに入れた。病院に戻ると、お医者さんには「まだ朝方だから出なかった」と伝えた。先生はそれで納得してくれた。
 待合室で書類を書いたり、少し休んだりして時間を潰し、六時を回る頃になると、、僕は看護師さんに案内してもらってリュウセイの病室に入った。タケルの部屋には、別の友達のミチルが行ってくれている。
 リュウセイはもう意識を取り戻していて、僕が入ってくるなり、「よお」と、いつも通り、気さくに手を振ってきた、僕も、いつものように「よお」と返した。
 傍にあった丸椅子を引き寄せ、ベッドの横に座る。
 部屋の消毒液の臭いを吸い込んで言った。
「災難だったな」
「ほんとだよ」
 リュウセイの細足には、太いギプスがはめられ、天井から下がった布みたいなやつの上に乗せられていた。足を見ていると、痛みを想像して背筋がぞわぞわするので、リュウセイの涙で赤くなった顔を見る。
「ってか、お前も本当にドジだな。慌て過ぎだって。怪我人増やしてどうするんだよ」
「いやあ、それがね…」
 リュウセイは力なく笑うと、ぼさぼさになった頭を掻いた。
 そして、僕の顔を見る。
「なんだよ」
「いや、その…」
 リュウセイはさっと目を逸らして口籠った。
「なんでも、ないよ」
「あのなあ、何か言いたいことがあるんだと? さっさと言えよ」
 僕はもどかしくなって聞いた。多分、内心、何がリュウセイを転落事故に巻き込んだのかわかっていたからだ。
 それでも、リュウセイは何かを言いあぐねて、口を開いたり、閉じたり、また開いたと思ったら閉じたり、開いたりを繰り返した。
 僕ももどかしくなって、核心に迫ることを聞いた。
「お前…、本当に足を滑らせて落ちたのか?」
「え…」 
 リュウセイの丸くなった目が僕に向けられる。
 それからリュウセイは、「いや、違う」と、首を横に振った。
「なあ…、リッカ。お前…、オレが部屋の外に出ていった時、まだタケルの部屋にいたよな?」
「うん、そうだな。軽く探し物をしていたんだ」
「そうだよな、うん、そうに決まっている。オレの勘違いだ。そうだな」
 リュウセイはほっとしたような息を吐き、何度も自分に言い聞かせていた。
「いやね、オレが階段を降りようとしたとき…、誰かがオレの背中を突き飛ばしたんだよ」
「………」
 僕は、「ああ、やっぱりか」と思って、口の中の唾を飲み込んだ。
 その時のことを思い出したのか、リュウセイはまたガタガタと震え始めた。
「うん、オレの気のせいだよ。あのアパート、朝方でオレとリッカしかいなかったから…。多分、動揺していたから、変な錯覚をしただけだと思う…」
「ったく、しっかりしてくれよ」
 僕はははっと笑うと、持っていたナップサックをリュウセイに渡した。
「これ、お前の荷物」
「ああ、ありがとう」
「それから、お前のスマホな」
 ポケットからスマホを取り出し、リュウセイの手に握らせた。
「ごめん、親御さんに電話しようとして、勝手に開いちゃった」
「え、そうなの? 母ちゃん、出てくれた?」
「いや、電話に出るには出てくれたんだけど…、電波の干渉があったのか知らんが、声が届かなかった。怪我しているとこ悪いけど、お前が連絡してくれ」
「うん、オレの問題だからな、オレがやっとくよ」
 リュウセイは笑うと、傍にいた看護師さんに一声かけてから、母親に電話をしていた。
 電話に出たのか、リュウセイが「あ、母ちゃん? オレだけど!」と言う。
 その瞬間、マイクの向こうから、一メートル程離れた僕にも聞こえるくらいの怒声が飛んできた。
『ちょっとッ! リュウセイッ! あんたどういうことだい!』
「あ、ご、ごめん、オレ、ぼーっとしちゃってて…」
『ああ? 何がぼーっとしてたって? 惚けんじゃ無いよ! さっきからずっと、変な電話ばっかり繰り返して!』
「え…?」
 リュウセイの顔が、苦笑したまま固まった。
 泣きそうな目が僕を見る。
 僕は何が何だかわからなくて、椅子に座ったまま、電話の向こうの怒鳴り声を聞いていた。
『何が、シネ! よ! ほんと気分が悪いわッ! そんな卑怯な人間に育てた覚えは無いんだけど?』
「ちょっと、母ちゃん! どういうことだよ! 意味がわかんねえよ!」
 彼の母親は怒り心頭で、話をまともに聞いてくれる状態ではなかった。
 リュウセイは火に油を注ぐのを覚悟で、通話を一度切ると、電話帳を開いて、通話履歴を確認した。それを見た途端、リュウセイの顔が引きつる。僕の心臓も爆発しそうなくらいに跳ね上がった。
 僕が最初に、彼の母親に電話をかけたのが、朝の五時半ごろ。リュウセイの病室に入ったのが、六時十分ごろ。その、約四十分の間に、彼のスマホから母親に宛てて、約五十件もの着信がされたいたのだ。
 そのうち、最新の三件には、音声が記録されていた。彼の母親が『さっきからなんなの! 親を馬鹿にするのもいい加減にしなさい』という声と共に、地の底を這うような『シネシネシネ
シネシネ』という声が聞こえた。
「な、なんだよ…」
 僕はそれを聞いて、流石に平静を装うことができなくなっていた。
 疑われる前に、リュウセイに弁明を試みる。
「僕はやってないぞ…」
 そう言って彼の顔を見た時だった。
 リュウセイの涙で濡れた眼球が、グルンと回転し、充血した白目がこちらを向いた。犬のようにだらしなく開き切った口から、どろっとした唾液が落ちて、白い布団を濡らす。
 その異様な姿を見た看護師さんが「きゃあっ!」と悲鳴をあげて後ずさった。
 僕は「おい、リュウセイ!」と、彼の名前を呼んだ瞬間、リュウセイは無事だった両腕を上げると、自分の首を掴んだ。
 あっ! と思う。
 リュウセイは少し伸びた爪を、汗ばんだ首筋に突き立て、ギリギリという音が聞こえそうなくらいの力で圧迫した。爪が皮膚を押し破り、血が流れる。気道が詰まったのか、彼の喉の奥から、湿っぽい悲鳴が洩れた。
「お、おい! リュウセイ!」
 我に返り、リュウセイがしようとしていることに気づいた僕は、椅子を蹴飛ばして立ち上がると、彼の腕を掴み、手前に引いた。
 手が首から離れる拍子に、爪が彼の首の皮膚を切り裂く。影のように黒い血が飛び散り、僕の頬にぱたぱたっとかかった。
 リュウセイの眼球が、ぐるんと回転し、透き通るような黒目が僕を見た。彼は海から上がった時のように、「ぷはあ!」と息を吐き、ベッドに背中を鎮める。肩を上下させ、病室の消毒液の臭いを肺いっぱいに吸い込んだ。
 正気を取り戻したのか、彼の口から、「あ、あれ…?」と間抜けな声が洩れる。
「おい、リュウセイ…、大丈夫か…!」
 僕は彼の肩を掴み、上下に揺さぶった。
 その瞬間、リュウセイの顔がまた引きつった。
「うあああああああっ!」
 と、悲鳴をあげて、僕の肩を突き飛ばす。
 僕はよろめいて、ニ、三歩後ずさった。その拍子に、背後にあった丸椅子に躓き、盛大にすっ転んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
 看護師さんが駆け寄ってきて、僕の腕を掴んだ。そして、立たせようと引っ張る。だが、彼女もまた「ひっ!」と悲鳴をあげて、すぐにその手を離してしまった。おかげで僕はまた床に腰を打ち付けた。
「いてててて…」
 腰の痛みに耐えながら、自力で立ち上がる。看護師さんのことはどうでもいい。真っ青な顔で僕を見ているリュウセイを見た。
「おい、リュウセイ、どうした?」
「あ、いや…、その…」
 リュウセイ酸欠の金魚のように、口をパクパクとさせていた。
 その顔を見た時、僕の腹の中で、何かがパンッ! と弾けた。熱いものが喉の奥まで込み上げてきて、それは怒声となってリュウセイに浴びせられた。
「おい! はっきり言えよ!」
「………」
 リュウセイの震えがぴたっと止まった。
 僕はリュウセイを睨みつける。
「何を見た? そういうのには慣れている…」
「…ごめん」
 リュウセイは僕から視線を外し、そして、絞り出した。
「お前の背後に、真っ黒な人影がいた」
        ※

 小学校の卒業式の日のことだった。
 式は何事も無く終わり、教室で担任の最期の挨拶があった。「これから中学生になるから、自覚を持った行動を…」と、感動して泣くには物足りない内容だったと思う。それも終わり、解散となると、僕は卒業証書が入った黒筒を片手に、廊下を闊歩していた。
 鼻歌交じりに、スキップでもしそうな勢いで。
 見渡すと、卒業生たちは各々、仲のいい者のところに行って、親から借りたデジカメやスマホを使って写真撮影に興じていた。僕も、在学中に馬鹿騒ぎした友人に、皮肉の一言でも言ってやろうと、彼の教室を目指した。
 その友人がいる教室に入ろうとしたとき、扉に取り付けられた小窓から中の様子が見えた。
 教室に、懐かしい姿があった。
 それは、カホちゃんだった。そう、小学校五年生の時に、事故に遭って下半身不随。右腕切断となった悲劇の少女だ。
 カホちゃんは車椅子に座っていて、周りをたくさんの友人に囲まれていた。教室の外にまで「大丈夫?」「元気で嬉しい!」「車いすって大変でしょ?」という声が聞こえた。
 カホちゃんの姿を見た時、扉にかけた手が、ぎしっと固まる。
 僕の脳裏を、あの心霊写真が過る。
 何度も、「僕のせいじゃない」って言い聞かせてきたのに、彼女と顔を合わせることがためらわれた。美味しい料理を食べていたのに、小骨が喉に引っかかったような感覚だった。
「………」
 僕は扉から手を離した。
 そして、踵を返して、教室から離れようとする。
 その瞬間、誰かが僕の名前を呼んだ。
「あっ! リッカくんだ!」
 しまった。と思った。
 聞こえなかったふりをして立ち去るような器用な芸当、当時の僕にできるはずもなく、僕は教室から出てきた女の子に腕を掴まれた。
「ちょうどよかった! リッカ君! カホちゃんだよ!」
「あ、ああ、うん…」
 僕は顔に冷や汗をかきながら振り返る。
 僕の手を掴んだのは、五年生の時に一緒のクラスだった女の子だった。あまり喋った記憶はないのに、彼女は数年来の友人のような顔をして、僕の腕を引っ張る。
 教室に引き込んだ瞬間、声高々に言った。
「カホ! リッカ君だよ!」
 教室にいた連中の視線が、一斉に僕の方を見た。
 こうなると、もう引き下がれなかったので僕は顔に力を込めて、いつも通り、一年前の通りに振舞うことを決めた。
 僕をカホちゃんの方に引っ張っていきながら、女の子が耳打ちをする。
「実はね、カホって、リッカ君のことが好きだったんだよ」
「え……」
 どうして? それ、本当? って聞く前に、女の子が僕をカホちゃんの前に押しやった。そして、「上手くやれよ!」とでも言いたげに、僕の背中をバシッ! と叩く。
 こういう、人の気持ちも汲み取らずに余計な行動をとる、恋愛で脳を犯された仕切りたがり女子は嫌いだった。
 と言っても、僕の周りには、ざっと数えても二十人もの生徒がいる。挙動不審なことをすれば、この幸せな雰囲気に水を差しかねないと思った。
「よお、カホちゃん」
 僕は片手をあげて、車椅子に座っている彼女に挨拶をした。カホちゃんも、片手を挙げて、「久しぶりね」と言ってくれる…、と思っていた。挨拶を交わした僕たちは、他愛の無い話をして、「中学でも頑張ろうぜ」なんて言い合って別れる。そうなると思っていた。いや、そうなってほしかった。
 しかし、案の定と言うべきか、やっぱりねと言うべきか…、僕の予想通り、「嫌な展開」へと転んだ。
 生徒に囲まれて、にこやかに笑っていたカホちゃんの目が、カッ! と見開かれた。眼球が小刻みに震え、半開きになった彼女の口から言葉にならない悲鳴が洩れる。
 みるみる、彼女の顔から血の気が引いていき、桜色の肌は白色に。白色の肌は青色に変わった。そして、段ボールのような色になったと思った瞬間、彼女は「来ないで!」と叫んで、傍の机の上に置いてあった花束を僕に投げつけた。
 あ…。
 バシンッ! と、僕の顔面に花束がぶつかる。衝撃で、花びらが散り、空中を乱舞した。
 僕は微動だにせず、肩で息をするカホちゃんを見つめた。
「…カホちゃん?」
「来ないで…、お願い、あっちいって!」
 彼女がパニックを起こしているということは、誰が見ても一目瞭然だった。
 カホちゃんは「来ないで」と壊れたレコードのように叫ぶと、手あたり次第、傍にあったものを僕に投げつけた。ペンケース、卒業証書、読書の本、過呼吸のものと思われる薬…、全部、僕の顔や胸の辺りにぶつかり、ワックスでつやつやになった床に落ちた。
「………カホちゃん…」
「ああ、もう! どうしてよ! なんで来るのよ!」
 叫ぶ彼女の目から、ボロボロと涙が零れていた。
 意気揚々とカホちゃんとの会話に興じていた他の生徒たちは押し黙り、叫ぶ彼女と、茫然とする僕を交互に見ていた。
 僕を教室に引き入れた女子が言った。
「ちょっと、カホ? 何やってんの? リッカくんだよ? 前に言ってたじゃん! リッカ君のこと好きだって!」
「うるさい!」
 カホちゃんは車いすの手すりに、自分の拳を叩きつけた。
「こんな男! 好きになるんじゃなかった! コイツは人間じゃない! 死神だ!」
 こいつは人間じゃない! 死神だ!
 初めて、自分の存在を否定されるようなことを言われた。しかも、僕のことを一時は好きでいてくれた女の子に。僕は怒りもせず、泣きもせず、ただその場に立ち竦んでいた。カホちゃんが怒鳴る声と、女の子の「それは流石に失礼だって!」という声が、まるで洞窟の中にいるみたいに、頭のなかでくわんくわんと反響する。
 カホちゃんの怒鳴り声を聞いて、彼女の母親らしき女性が教室に飛び込んできた。
 カホちゃんは下半身を麻痺させていながら、上体を乗り出して母親の胸に抱きつく。そして、わんわんと泣き始めた。譫言のように、「死神があ! リッカくんがあ!」と叫んでいた。
 リッカ。
 僕の名前を聞いた母親は、首が捩じ切れそうな勢いで、僕の方を振り返った。
 わなわなと震える声でいう。
「あなた…、リッカ君…?」
「…はい、そうですけど…」
 そう頷いたのが間違いだった。
 次の瞬間、獣のような呻き声を挙げた母親が迫ってきて、僕の胸の辺りをドンッ! と突いた。僕はそのまま、硬い床に背中を打ち付ける。周りの女子生徒が悲鳴を挙げた。
 母親はタイトスカートの中の黒いパンツが見えるのもお構いなしで僕の上に馬乗りになると、憎しみに歪んだ目で僕を睨みつけ、そして、顔を引っぱたいた。
 パンッ! と、快音。
「お前のせいで!」
 そう言うと、さらにもう一発。
 パンッ! と、快音。
 子供ながらに何かまずいことが起こっていると思ったのだろう。周りにいた生徒たちが駆け寄って、母親の腕を掴んだ。その小さな力に、顔を真っ赤にしていた母親の顔が固まる。
「あ……」
 母親は我に返り、振り上げた手を下ろした。そして、ゆっくりと立ち上がると、捲れ上がったタイトスカートを直す。僕に「ごめんなさい」と、弱弱しい声で言った。
 踵を返すと、まだ泣きじゃくっているカホちゃんのところに歩み寄る。
「カホちゃん、帰りましょう?」
「うん…」
 母親はカホちゃんの車椅子を押して、教室を出ていった。
 緊張の糸が切れた瞬間、今まで黙っていた生徒らが一斉に口を開く。「なんだったんだ?」「怖かったね」「何があったんだろう?」と、カホちゃんと、その母親の豹変っぷりを気にかける声が飛び交った。
 まさかこうなると思っていなかった女の子は、膝から崩れ落ち、わんわんと泣いていた。
 僕はゆっくりと身体を起こし、カホちゃんの母親に殴られた頬に触れた。ひりひりとしている。
「大丈夫か? リッカ」
 友人が僕の腕を掴み、立たせてくれた。
 カホちゃんに「死神」と呼ばれたことのショックからか、足元がおぼつかない。酔っぱらった父親のように、その場で千鳥足を踏む。
「気にすんなよ?」
 気が気でない顔をした友人が言った。
「カホちゃんの事故は、お前のせいじゃないから」
「………」
 うん。と頷くことができなかった。
 カホちゃんの号泣と、母親の暴力については、僕が周りに「先生や他の生徒には言わないでくれ」と釘を刺しておいた。まあ、意味は無いだろうな。みんな、一応その場では「わかった」と頷いてくれて、その一件はうやむやになった。
 気を取り直すために、僕は友人のところに行き、いつものように、不毛な会話をした。「中学校に入ったら何の部活に入る?」「オレ、サッカー部」「僕はバレーがいいな」「お前にバレーができんのか?」「失礼だな、僕の運動神経を舐めるなよ? そんなもん、ちょちょいのちょいだよ」って。
 そうして、話していると、さっきあったことは頭の隅に追いやることができた。喉の奥に小骨のようなものが残っていたが、苦痛を伴うことはなく、少し鬱陶しく感じる程度だった。
 そうして、「じゃあ、そろそろ帰るか」ってなった時、小学校の校舎の前に救急車が停まっていることに気が付いた。

 そこで、僕たちは知らされた。

 カホちゃんとその母親が交通事故にあって死んだことを。
        ※

「………」
 病院を出た帰り道、僕はあの日のことを思い出しながら、道端の小石を蹴り飛ばした。
 今でも頭から離れない。カホちゃんの泣き喚く顔と、「死神!」と叫ぶ声。母親の鬼のような顔と…、そして、二人の死体。
 カホちゃんと母親は、正門の前を横切る道路で、大型トラックに撥ね飛ばされて死んだ。駆け付けた救急隊は、頭部が無くなった二人の死体を回収した。そう、あまりにもの勢いに、二人の頭部は、胴体からすっぽ抜けて何処か遠くに飛んでいってしまったのだ。
 ちなみに、頭部を見つけたのは僕だった。何となく、事故現場から百メートルほど離れた場所にある茂みを探してみたら、そこに落ちていた。二人とも目を見開き、じっとこっちを睨んでいた。
 その時の僕は動揺していたのだろう。どうすればいいのかわからなくなり、でも、救急隊員には届けなければ、と思い、二人の髪の毛をむんずと掴んだ。抱えようと思ったのだが、頭蓋骨の感触がどうにも生々しく、まるでスーパーのレジ袋をもつみたいな格好になったと思う。そして、それを救急車が停まっている正門前まで運んだ。

「あーあ、畜生め!」
 そう白い空に向かって言うと、石ころを強く蹴り飛ばす。
 石ころは勢いよく飛んでいき、ゴミ置き場で残飯を漁っていた野良犬のお尻に直撃した。野良犬は「キャンッ!」と鳴いたあと、こちらの方を振り返り、姿勢を低くして威嚇する。
 お! やんのか? 一人でぬいぐるみ相手に練習したアルゼンチンバックブリーカーで受けて立つぜ? 
 と思って身構えたが、野良犬は、僕の背後に立っている「何か」に気づくと、一目散に走って逃げた。
「…………」
 僕はまた歩き出す。
 病院を出るとき、リュウセイはしくしくと泣きながら、僕に言った。

「ごめん…、本当にごめん、お前はいいやつなんだ…、だけど…、お前と一緒にいると…、うん、やっぱり、変なことが起きるんだよ…、今までは気のせいだと思い込むようにしてたし…、今日だって、タケルが事故って…、お前の力を借りずにはいられなかった…、うん、助かったよ…、タケルの荷物、オレ一人じゃ運べなかったし…、オレが階段から転げ落ちた時、オッ前がいないと救急車呼んでくれなかったもんな…」

 だけど、ごめん。
 リュウセイは絞り出していった。顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。

「お前は多分、これ以上、人と関わったらダメだと思う…。本当に、ごめん、こんなことを言って、ごめんと思うよ…」

 ざっと数えただけで、リュウセイは「ごめん」という言葉を五回言った。はっきりと言わないあたり、あいつの優しさが染みだして嬉しかった。
「………」
 まあ、中学と高校の奴らと比べたらマシな方か。あいつらは、最初っから僕を悪霊呼ばわりして、近づきもしなかったから。
「さて…」
 リュウセイは良いやつだ。タケルも良いやつだ。あいつらがいたおかげで、大学生の二年間、孤独にならなくて済んだ。だけど、もう潮時かな…。どれだけ、「気のせいだ」と思い込むようにしても、僕の背後に付きまとう「何か」は、問答無用で周りに迷惑をかける。
 今回の件で、改めて実感した。僕は、人と関わっちゃだめなんだと。
「………」
 ふと立ち止まり、振り返る。
 そこには誰もいない。
「………」
 カホちゃんと、彼女の母親が交通事故に遭って死んでから、周りの僕を見る目は変わった。
 今まで、「気にすんなよ」「お前の味方だからな!」って言ってきた仲間は、僕を避けるようになり、僕が話しかけても、「ああ、うん」とか「○○に聞けよ」とか、曖昧な返事をするようになった。
 事故以前から僕の陰口を叩いていた奴らは、「ほら! やっぱりあいつは死神だったんだ!」って確証を得て、中学に進学すると、僕の迫害運動に徹した。「あいつには関わらない方がいい」「あいつと一緒にいると、誰かが死ぬ」「あいつは死神だ!」って。
 まるで、夜が昼を浸食するように、僕の周りには、僕を目の敵にする者が増えた。
 授業中、ただ座っているだけなのに、周りは僕から机を遠ざける。
 ただ廊下を歩いているだけなのに、周りは悲鳴をあげて僕から遠ざかる。
 話しかけただけで、一部の女子は「来ないで!」と悲鳴を上げた。ムカついたので、しつこく付きまとったら、わんわんと泣き出し、「殺される!」と吹聴した。おかげで二週間停学になった。
 高校に入学してもこんな感じで、僕は周りから避けられた。
 大学は、誰も僕のことを知らない場所を選択して、やっと心機一転まき直しだと思っていたのに…、上手くいかないものだな。
「あくりょーう、たいさーん」
 僕はそう間抜けな声を上げると、背後に向かって塩を投げつけた。
 塩は「何か」に触れた瞬間、黒く染まり、ジュワッ! と溶けた。生臭い水の香りが僕の鼻を掠める。
「やっぱり、取り憑かれてるよな…」
 僕は腕を汲んでそう呟いた。
 道端で考えていても仕方が無いので、さっさと歩き始める。
「………」

 僕には、何かが取り憑いている。守護霊ではないことは確か。これは「悪霊」だ。悪霊なんて生ぬるい。「悪悪悪悪悪悪霊」だ。

 それなのに、僕が実害を被ったことはなかった。カホちゃんみたいに、交通事故に遭ったり、さっきのリュウセイみたいに、階段から転げ落ちたことも無い。少し酷い肩こりを持っているが、それが悪霊の仕業と断定する手立ても無い。
 今までに、リュウセイが見てしまったような「黒い影」を見たことも無い。
「ほんと、よくわからん…」
 僕は欠伸を噛み殺し、朝の空を見上げる。風は心地よくて、さっきあったことを心の隅に流してくれた。
 ま、明日のことは、明日考えますか…。
 僕は背伸びして、二度寝しようとアパートに戻った。