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「…………」
 昔のことを思い出しながら、僕はジャケットを羽織ると、家の鍵と財布、そしてスマホを持って外に出た。
 東の空が青白いんでいるのを横目に階段を駆け下り、駐輪場に停めてあった原付に跨る。エンジンをかけると、地面を足で蹴って、路地に飛び出した。
 人気が無く、肌寒い路地を一気に加速して、友人が事故に遭った場所を目指した。
「………」
 事故に遭ったのは、同じ大学の、「嬉々島タケル」という男だった。名は体を表すというか、筋肉質な身体に、吊り上がった目と、かなり荒々しい見た目をしていて、周りからは半歩ほど距離を置かれている存在だ。
 見た目の割に、タケルは面倒見が良くて…、大学で一人でぽつんとしている僕に積極的に話しかけてくれた。親友って程じゃないけど、趣味について語り合ったり、一緒に何処かに出かけている仲だった。ついこの間も、一緒にあるキャンプ場に遊びに行ったことがあった。
 そんな彼が事故に遭ったのだ。多分、僕のせいだとは思うけど、放っておくわけにはいかなかった。
 十分ほどバイクを走らせて、タケルが住んでいるアパートに着いた。
 アパートの前には、事故の連絡をくれた、同じサークルの「佐藤リュウセイ」が立っていた。
「よお、リュウセイ」
「あ、リッカ、ありがとう、来てくれたんだな」
 リュウセイは僕を見るなり、ほっとした顔をした。
「い、いやあ、マジで焦ったよ。ありがとうな、近くに頼れるのがお前しかいなかったんだ」
「うん」
 事故の詳細はこうだった。
 タケルと、その友人の「ミチル」って男が、キャンプに行くために車に乗り込んで、日が昇る前に出発。しかし、一キロも進まないうちに、電柱に衝突する事故を起こした。車に乗っていたタケルは負傷。ミチルは無傷。すぐに救急車を呼んで病院に搬送された。事故現場の近くに、リュウセイが住んでいるアパートがあったので、彼はタケルの部屋に行って、着替えやらを取りに行くのを任されたのだ。
 アパートの前は、涼しい風が吹き抜けていると言うのに、彼の身体は冷や汗でぐっちょりと濡れていた。よほど焦っているのだろう。
 僕は単車を路肩に停めた。
「タケルはどうなの?」
「とりあえず、事故現場に救急車を呼んで、一緒に連れていってもらった。頭も打ってないし…、ガラスで腕を切ったくらいだから大丈夫だと思う。意識は朦朧としてたけど、多分、今日中には戻るんじゃないかな? 付き添いには、ミチルが行ってる。オレは、とりあえず、タケルの着替えとかを持っていこうと思って」
「ああ、そう言うことか」
 正直、着替えを取りに帰ったり、親御さんに連絡するくらいなら一人でできるだろって思ったが、事故に遭った後で、動揺しているんだ。心細いのはわかる。
 僕は文句を飲み込んで、タケルの部屋を指した。
「とりあえず、動こうか」
「ああ、そうだな」
 僕のアパートよりも少し豪華な外観のアパートの階段を上り、タケルの住んでいる部屋の前に立った。
 リュウセイが鍵を使って部屋に入る。僕も、彼の汗で濡れた背中に続いた。
 タケルの部屋には、今までに二度来たことがあった。一度目は、大学に入学した直後、飲み会で。二度目は、一か月前に、キャンプ帰りの余韻で停まった。
 内装は当時と変わらず、部屋には高そうなベッドに、天井に届く本棚。木目の美しいテーブル。勉強机の棚には、ドラゴンボールのフィギュアが飾られていた。
 リュウセイは「ええと…、着替え、着替え…、食べ物もいるかな?」と言いながら、部屋の中を物色する。
 これ、傍から見たら、空き巣紛いじゃないか? と思いながら、僕もクローゼットを開けて、彼が好んで大学に来てくるTシャツとか、パンツ、タオルを引き出した。
 こうやって、病院に運ばれた友人の身の回りのものを持っていく。という経験は初めてで、僕とリュウセイも、何を持っていくのか、どのくらい持っていけばいいのか、計りかねた。まあ、大は小を兼ねるっていうし、沢山持っていけばいい。
 着替え、タオル、ティッシュ、冷蔵庫に入っていた固形食糧を、足元に落ちていたエコバックに詰めていく。あと、買ったばかりで封が切られていない漫画本。エッチな雑誌も、ネタ枠で入れた。
「こんなものか…」
「そ、そうだね」
 リュウセイはまだ落ち着いていない様子だった。
 僕はため息をついて彼に言った。
「おいおい、もう少しさ、落ち着こうぜ。タケルは大丈夫なんだろう? そんなに焦る必要はないよ」
「そ、そうだな」
 リュウセイは落ち着きのない返事をした。
 その瞬間、急に肩をびくっと震わせる。
「な、なあ、リッカ」
「なんだよ」
 僕は震えるリュウセイに鬱陶しいものを感じながら言った。
 リュウセイは辺りを見渡しながら、小声で言った。
「この部屋…、暑くないか?」
「はあ?」
 僕は夜中だというのに、間抜けね返事をしていた。
 リュウセイは「暑い」と言いながら、ガタガタ震えて続けた。
「暑いんだよ…、その…、真夏のクーラーが切れた部屋みたいに暑い…」
 見れば、彼の頬からボタボタと汗が流れ、床に斑点を作っていた。
 僕はジャケットの袖からでた自分の手の甲を撫でる。
「いや、別に、暑くないけど…」
 心の中で、「ああ、またか」って思った。
 一応、部屋の隅に着いたエアコンに目を向けたが、エアコンのスイッチは切れていた。窓は締め切っていて、冬を目前にした、秋のしんとした空気が充満している。これが暑いわけあるか。むしろ、「寒い」だよ。
 まあ、原因は何となくわかった。
 原因に気づいていながら、気づかないふりをした僕は、リュウセイに言った。
「なんだよ、お前、事故っても無いのに、頭がおかしくなったのか? ほら、さっさと病院に行こうぜ? タケルにこれを届けないといけない」
「あ、ああ、そうだな」
 リュウセイは変わらず歯切れの悪い返事をした。
 荷物を詰め込んだナップサックを持ったリュウセイが部屋から出ていく。扉がガチャンと閉まるのを確認した僕は、ジーパンのポケットに手を入れて、中に仕込んでいた小さな紙袋を指で押し破った。
 ポケットから手を抜き、振り向きざまに手の中に握ったものを投げる。
 僕が投げたもの。それは塩だった。
 塩はパラパラと床に落ちる。その瞬間、ジュワッ! と、肉が焼けるような音が部屋に響き渡った。心なしか、腐った水のような臭いが鼻を突く。目を凝らしてみれば、塩粒が黒く変色していた。
 僕は「ああ、やっぱりね」と独りごとを言う。
「あのさあ、もう、僕の周りの人間に手を出すの、辞めてくれない?」
 そう部屋の中にいる「何者」かに向かって言った。
 だが、誰かが返事をしてくれるようなことは無かった。
 僕は「くそが」と吐き捨てると、勢いよく部屋を出た。
 ドアノブに差さったままの鍵を捻って施錠し、抜く。塩の袋が入っていたポケットに鍵を突っ込むと、ひんやりとした空気を吸い込んで歩き出した。
 階段を降りようとして、足が止まる。
 階段の真下に、人が倒れていた。
 僕は背中に冷たいものを感じて、階段を勢いよく駆け下りた。そして、地面に倒れている人を抱え起こす。
「おい、大丈夫か?」
「……うう…」
 人は力のない返事をした。
 僕は舌打ちとともに、スマホを取り出した。手慣れた指さばきで「一一九」を入力し、電話尾かける。
「すみません、救急車お願いします…、はい、友達が、階段から落ちちゃって…」
 階段から転げ落ちたであろうリュウセイが、血まみれの姿でそこに倒れていたのだ。