一週間後。
僕が部屋でウイダーゼリーをちびちびと吸っていると、部屋のインターフォンが鳴った。
「開いてるぞ」
そう大声で呼びかけると、扉が無遠慮に開き、如月千草が入ってきた。
「お邪魔しまーす」
「よお…、って、あれ?」
いつもと違う彼女の姿に、思わず目を擦る。
如月千草は、白いVネックシャツの上に、デニムシャツを羽織り、下はニットスカートを履いていた。鎖骨が浮き出た首元に、銀色のネックレスが光っている。リラックスした感じを漂わせているが、一目で「他所行き」の格好であるとわかった。
唇にピンクのリップを塗っていることに気づき、思わず頬が熱くなる。
「お…、お前…、誰?」
「失礼な、お友達の如月千草ちゃんですよーだ」
恥ずかしさを隠すためのボケに、如月千草はしっかりと乗っかって、僕の頭を殴った。
「どう? 似合う? せっかく出かけるんだから、ちょっと本気だしてみた」
彼女はニヤッと笑うと、僕の前で一回転した。遠心力でショルダーバッグは外に投げだされ、僕の右頬を打つ。
彼女の唇には、薄い口紅が施されていた。
「…うん」
僕は素直に、彼女の服装を褒めた。
「似合うよ」
「そう、良かった」
「普段、手抜きの服を着ているから、錯覚を起こしているだけかもしれないけど」
「うん、一言余計だね」
如月千草は表情を変えずに僕の頭を殴る。もし、殴ったのが一般人だったら、そいつは今に事故か病気で死んでいただろう。彼女は、僕…じゃなくて『コイツ』に無礼を働いて許される唯一の人間だと思った。
「で、言った通り、支度はしたの?」
「ああ、ちゃんとやった」
僕はベッドの上に置いたナップサックを鼻で指した。
「ハンカチ、ティッシュ…、財布には二万円くらい入っている。一応、水とガム、あとキャンディーは買っておいたけど」
「ええ~、『着替え』も用意しとけって言ったじゃん」
「いや、たかが一日出かけるだけだろ? そんな大げさな」
彼女に「着替えも用意しておいて」と連絡を受けた時、いくら何でも馬鹿にし過ぎだと思った。一日ぐらい、着替えが無くてもいける。って。
すると、如月千草は、「あ、しまった」と言って、指をパチンと鳴らした。
「ごめん、言い忘れてた」
「なんだよ」
「今日のお出かけ、一泊二日なんだわ」
「え…」
頬から冷たい汗が滑り落ちた。
如月千草は、「ごめーん」と謝ったが、目は笑っている。こいつ、絶対にわざと言わなかったんだ。
「いや! なんで一泊二日なんだよ!」
と反論する間もなく、如月千草は押し入れの扉を開け、中からゴミ袋に包まれたリュックサックを取り出すと、そこに、僕のTシャツやハーフパンツ、ジャージ、パンツ、タオルを詰め込んでいった。その上から、ナップサックに入っていたものを入れる。
程よいふくらみになったそれを、僕の胸に突きつけた。
「はい、持って」
「はい、持ちました」
「じゃあ、行くよ」
「何処に?」
「決まってんでしょうが、駅よ、駅」
如月千草は僕の手を強引に引っ張り、外へと連れ出した。
「ちょっと、時間が危ない、急ごうね」
「いやいやいやいや! 駅って! 僕を何処に連れ出すつもりだよ! 場所によっちゃ、テロを起こしに行くようなものだろ! やだよ! 大量殺人犯になりたくないよ!」
「もー、うるさいなあ」
如月千草は鬱陶しそうな顔をした。
くるっと、黒い髪の毛を翻して振り返ると、僕の頬を優しい力で、ぺちっと叩いた。
「大丈夫よお、私が一緒にいる限り、他の人間に手出しはさせないから」
「い、いや、心配だね!」
他の人間が大丈夫だったしても、如月千草が大丈夫かどうかわからなかった。
僕の言いたいことを悟ったのか、彼女はいたずらっぽく笑った。
「私のこと、心配してくれてるの?」
「そ、そんなわけないだろ!」
「大丈夫! 前にも言ったでしょ? 私の霊力を舐めないでくれる?」
自信満々に頷く如月千草に、それ以上反論はできなかった。僕はため息をつき、彼女の言葉を信じることにした。
僕が渋々頷いたのを見て、如月千草はにこっと笑った。
「それに、もう少し明るくいなさいよ。暗い顔してたら、幽霊が寄ってくるから」
「……わかったよ」
「さ! 行こう!」
ということで、僕と如月千草の二人旅が始まった。
「お前も変わってるよなあ…」
新幹線に乗り換える時に買ったお弁当を頬張りながら、僕は言った。丁度そのタイミングで、新幹線の天井に取り付けられたスピーカーから、「次は○○に泊まります」と無機質な女性の声が流れた。窓の外では、灰色の町が左から右へと飛ぶように流れていく。
不意に後ろの方の席で、赤ちゃんが泣く声がした。それから少し遅れて、母親らしき女性の「おー、よしよし」という声が聞こえる。
その声を右耳から左耳に流しながら、如月千草が言った。
「私の何処が変わってるって?」
「人を強引に旅行に連れ出すところ」
「いいじゃない、どうせ、家に引きこもるだけでしょ?」
「あのねえ、僕の引きこもりは、社会不適合者のそれとは違うんだよ。人に迷惑を掛けないために、引きこもっているんだよ」
「あ、見てよ、あのビル、めっちゃ高い!」
「いや、聞けよ」
如月千草は、遊園地にやってきた子供のような顔をして、窓にべったりと近づき、外の景色を眺めていた。
「あ、ほら、あれ、観覧車が見えるよ? 今度行きたいなあ…」
はしゃぐ彼女を横目に、僕はスマホの時間を確認した。
アパートを出て最寄りの駅から鈍行に乗りこみ、隣町まで行ったのち、そこから特急電車に乗って県外に出る。ここで二時間。新幹線に乗り換え、さらに一時間が経過した。
結構な遠出に、僕は既に帰りたい気持ちに駆られていた。だが、もう後戻りはできない。
ああ、もう、やけくそだ。行った先で、悪霊テロを起こそうが何が起ころうが、楽しんでやるよ。記念写真撮って、お土産買ってやるよ。
僕は駅弁に食らいついた。
それから三十分新幹線に乗り、中国地方のある駅に到着した。
新幹線が停まると、如月千草は、慣れた足取りでホームに降りた。
平日の昼間だと言うのに、ホームにはスーツを着たサラリーマンや、おめかしをした旅行客で溢れかえっていた。如月千草はその混雑した人混みを抜け、迷うことなく改札を抜けて外に出た。
「如月、お前…、すごいな…」
「ここには何回か来たことがあるの。だから、駅の中は大体把握してるんだ」
「ああ、そう…」
如月千草は、入り口に置いてあった観光パンフレットを手に取ったが、見ることは無く、スカートのポケットに入れた。そして、駅の前に駐車していたタクシーに声を掛け、乗り込んだ。
「水奈森神社までお願いします」
「はいよ」
中年の運転手は、そんな返事をすると、ゆったりとタクシーを発進させた。
僕は隣に座っている如月千草の頭を小突いた。
「おいこら」
「何よぉ」
「お前…、神社には行かないって言ってただろうが」
「お祓いには行かないって言っただけで、別に神社には行かないとは言ってないよ」
如月千草はべえっと舌を出す。
さっき駅の入り口でもらった観光パンフレットを取り出すと、パラパラとめくり、あるページを僕に見せた。
「これ、今から行く水奈森神社ね」
「あ、うん…」
「ここの神社、パワースポットで有名なんだよ。山の中にあるんだけど、参道を進んだ先にある湧き水を浴びると、良いことがあるってさ」
「ふーむ…」
お祓いで効かないなら、パワースポットに行くってか。
腑に落ちない感じはしたが、せっかくなので行ってみるか…。
「あと、こことここと、ここを回ってみよう」
如月千草はそう楽しそうに言うと、観光パンフレットの地図を指でなぞった。彼女が示したのはどれも、神社か、パワースポットとされている場所だった。
「パワースポットが多いんだね」
「でしょ?」
如月千草は興奮したように頷いた。
タクシーの窓から、そこそこ高いビルが建ち並んだ町を指す。
「この町、こう見えて、地面から神聖な霊気が湧き上がっているんだ」
「僕は見えないけどね」
ふと、背中にいる「何か」が気になって、彼女に聞いた。
「で、その神聖な霊気があふれるこの町にやってきて、『こいつ』はどうなったんだ?」
「うーん」
如月千草は眉間に皺を寄せて僕の背後を睨んだ。
「ダメねぇ、屁でもないって感じ」
「ま、そうか」
場所を変えたからって、長年僕を苦しめてきた「コイツ」が、そう簡単に浄化されてたまるかって話だった。
「大丈夫、これから行く神社は、もっと濃い霊力が充満しているから、もしかしたら効果があるかもしれないでしょ?」
「うーん、あんまり期待はしないでおくよ」
謎の会話をしている僕たちを見て、運転手は、「お二人さん、なんの話ですかな?」と首を傾げていた。話をややこしくするのもあれなので「いやあ、なんでも」と、適当にごまかしておいた。
曖昧な返事を聞いて、運転手さんは何かを察してくれて、そこからは何も言わなくなった。
十分ほど走った後、僕たちは目的地の神社に辿り着いた。
運転手さんに料金を払い、タクシーから降りる。
如月千草は「よし! 行こう!」と、長時間の移動による疲れを感じさせない勢いで言うと、厚底のサンダルで、神社への階段を駆け上っていった。
「おいおい…」
僕はリュックサックを背負いなおすと、馬の尻尾のように揺れる彼女の髪の毛を追いかけた。
二人で汗だくになりながら、百五十段ある階段を上りきると、そこには、この前に行った神社とは比べものにならない、広い石畳の参道が広がっていた。端には、たこ焼きや、焼きそばやら、射的やらと、出店が立ち並び、多くも少なくもない観光客が闊歩していた。これぞ「観光地」って感じ。
「おお…」
その楽し気な雰囲気に思わず目が輝く。それを見逃さなかった如月千草は「いこうか」と言って、僕の手を引っ張った。
「先にお参りを済ませちゃおう」
「そうだね」
歩いていると、右側にあった謎のTシャツを販売している出店から恰幅のいい男が、張りのある声で「そこのアベック! 寄ってかないかい? アベックTシャツ揃えてるよ!」と呼びかけてきた。
アベック? アベックってなんだ?
アベックの意味がわからずに首を傾げていると、如月千草だけは「やだあ、そんなんじゃないから!」と、冗談ぽい声で返していた。そして、男の声を振り切って、一気に本殿の方へと向かった。
途中、何人かの観光客とすれ違った。ちょっと汗ばんだ顔をしていたが、みんな楽しそうだった。
賽銭箱の前に立つと、二人で息を合わせて五円玉を投げ込む。
投げ込んだ後、如月千草が、「わかる?」と聞いてきた。
「わからない」
「じゃあ、真似してね」
如月千草はあやすように言うと、二回、腰を深々と折った。
僕もそれを真似して、二回、本殿に向かって礼をする。
それから、如月千草は二回手を叩いた。
僕もそれを真似して、二回手を叩く。
そして目を閉じ、とりあえず、「何とかなりますように」と祈っておいた。
顔を上げると、後ろに人が並んでいたので直ぐにその場から離れた。
「で、どうするの?」
「ああ、パワースポットの湧き水は、神社の裏にあるの」
そう言って、彼女はある看板を指した。確かに、ご丁寧に、「この先、湧き水」と示されていた。
「あっちか…」
「うん、もちろん行くよね? ってか、これが目的だし」
如月千草は僕の手を引っ張り、石畳の参道から離れ、砂利の道を進み始めた。
途中、湧き水のところに行っていたと思われる観光客三人とすれ違いながら、神社の本殿の裏に回り込む。そこには、「ここから二百メートル先 湧き水」と書かれた看板が立っていて、ひと一人がギリギリ通れるくらいの細道が続いていた。
「ここを行くの?」
奥を見渡してみたが、結構危険な道だ。舗装されていないし、落ち葉が降り積もって滑りそう。所々、木々の根が剥き出しになっていた。
「大丈夫、踏み外したって、死にはしないから」
「嫌な気持ちになるだろ」
「修行が足りないね」
僕の心の準備ができない間に、如月千草は歩きにくそうな厚底のサンダルで、土と落ち葉の道に踏み出した。一瞬、「愚か者め」と思ったが、彼女は猿のように、ひょいひょいと道を進んでいく。
「おいおい…」
僕は置いていかれそうになり、すぐに道に足を踏み入れた。
ああそうか…、如月千草は何回がこの神社に来たことがあると言っていたな…、その度にこの道を通るから、慣れたんだろう…。
「おーい、遅いよー」
十メートル先の如月千草は、これ見よがしに振り返り、挑発するように言った。
僕は頬の汗を拭うと、彼女の背中を追った。
途中、何度も落ち葉に足を滑らせ、木の幹で躓いた。痛くなかったが、煩わしくてたまらなかった。
十分ほど歩き、やっと如月千草に追いつく。
「遅かったね」
「如月が速すぎるんだよ」
身体を土埃まみれにした僕とは違い、彼女の服は全く汚れていなかった。サンダルに土がこびり付いているくらいだ。あと、全く息を切らしていない。
「なんだよ…、お前…、なんでそんなに平気なんだ?」
「そりゃあ、何回も来たからね」
如月が手を伸ばしてきて、僕の頬に着いた土を拭った。
そして、鋭い目を僕の背後に向ける。
「お…、霊気の濃い場所に来たから、リッカ君の背後の『やつ』、ちょっとおとなしくなってるね」
「ま、マジで?」
「うん、マジ、動きが鈍くなってる。寒いところに放り出された蛙くらいに」
「なんか微妙…」
「まあ、こんなもんでしょ。ってか、効果があっただけ儲けものよ」
彼女は快活に笑うと、背後にあった岩を指した。
「ほら、これが件の湧き水」
「おお…」
思わず、歓声が洩れる。
そこには腰くらいの高さの岩があり、そこの中央から、透明の水が湧き出ていた。水は苔むした岩の表面を滑り、足元で小さな川となって道の外れまで流れ出ている。
マイナスイオンってやつだろうか? 辺りには、ひんやりとした空気が漂っていた。
如月千草はショルダーバッグから空のペットボトルを取り出すと、湧き水をそれに汲んだ。
「大昔は、この霊水を求めて、たくさんの人がこの神社を訪れたんだって」
「へえ…」
僕もリュックサックから、さっき飲んだミネラルウォーターのボトルを取り出すと、湧き水を汲んだ。
「ちなみに、その水、飲めるから」
「そうなの? なんかお腹壊しそう」
「大丈夫だって、ほら」
そう言うと、如月千草は両手で受け皿を作ると、湧き出る水を汲んだ。そして、喉を鳴らしてそれを飲み干す。濡れた唇を拭い、「ぷはあああ!」と、女子にはあるまじき下品な声を上げた。
「美味い!」
「うん、わかったよ。あとでお腹壊しても知らないからな」
「ってか、リッカ君が飲んだ方がいいんだよね。キミ、よく身体の中に悪霊が入り込むから」
「湧き水で胃の中を殺菌ってか?」
そう言われたら、やらないともったいない気がしたので、僕も彼女を真似て、手で水を掬い、喉を鳴らして飲んでみた。
霊気が宿ったその湧き水は、地下でひんやりと冷やされていて、疲れて熱を持った喉をするんと滑り落ちた。胃の底に触れた瞬間、だるくなっていた全身がふっと軽くなる。曇りガラスを拭ったときのように、視界が明るくなった。
「あ…」
「どう?」
「よくわからないけど…、すごいよ」
「そりゃあ、良かった」
彼女は自分のことのように喜び、僕の背中をバシバシと叩いた。また、身体が軽くなった気がした。
「霊水の効果だね」
「いや、単に水分補給したからだと思うんだけど」
「信じる者は救われるんだよ」
「ああ、そう」
周りに人がいなかったので、如月千草は霊水で指を湿らせると、印を結び、何やら呪文のようなことを唱えた。僕は彼女の前に棒立ちになり、事の顛末をじっと眺めた。如月千草は何度も難しい顔になり、霊水で指を濡らしては、印を結び、唱え言葉を発し、僕の背後の『何か』を睨むのを続けた。そして「だめだ」と言った。
「ダメねぇ、ここの霊水の力を借りても、こいつ、微動だにしない」
「祓えなかったの?」
「そんな問題じゃないよ。HPが『九九九九』ある敵に、ダメージが『一』しか入っていない感じ」
時々、変な例えをするよな。
「九九九九回攻撃を叩き込めばいい話だけど…、現実的ではないね」
如月千草はつまらなそうに言うと、濡れた指をスカートの裾で拭いた。
「とりあえず、戻ろうか。お守りを買って、出店でも回ろう」
「そうだね」
僕は、如月千草に支えてもらいながら元来た道を戻った。
看板の案内に従って、細い砂利道を歩き、本殿から少し離れたところにある、お守りを売っている倉庫のような建物に入った。
そこには、漫画で見るような赤と白の装束を着た巫女さんがいて、眠そうな顔をしてパイプ椅子に腰を掛けていた。
「こんにちは」
そう声を掛けると、巫女さんははっとし、黒い髪を揺らして頭を下げた。
長机の上に、赤や青、黒色など、色とりどりのお守りが並んでいた。効果も、安産や必勝、学業など様々。
「どうする?」
僕と如月千草は、沢山の色や形をしているお守りを覗き込み、何を買おうかと思案した。
「普通に、リッカ君は、無病息災かな?」
「だろうね」
「私は…、大学に通ってるし、学業のやつにしようかな?」
「でもなあ、このデザイン、あんまり好きじゃないんだよな」
僕は無病息災のお守りを指で摘まんで、まじまじと眺めた。白基調で、この神社の家紋が入っている。その上に、赤い文字で「無病息災」と刺繍された、何処にでもありそうなデザインだ。だけど、なんか色の配色が気に入らない。どちらかというと、如月千草が持っている、若葉色の学業成就のお守りの方に惹かれてしまった。
「仕方ないでしょうが。襟好みしてたらダメでしょ」
「でもなあ…、せっかく買うんだし…」
「変なところにこだわるよね」
如月千草が呆れていると、勘定を待っていた巫女さんが、おどおどとしながら僕に言った。
「あの…、神主を呼んで来ましょうか?」
「うん?」
思わず首を傾げる。
二十代くらいの可愛らしい巫女さんは、酸欠の金魚のように口をパクパクとさせて、僕の背後を指した。
「その…、今日は、それの件で来たんですよね?」
「ん、あ、ああ…」
僕は背後の『何か』を見た後、如月千草の方を見た。彼女はこくっと頷き、わざとらしく笑い、僕の頭をポンポンと撫でた。
巫女さんに言う。
「ああ、大丈夫ですよ。今日はただの観光なので!」
「え、でも…」
巫女さんは気が気でない顔をしていた。額に汗を浮かべ、目は少し潤んでいる。心の中で、「逃げたい」という気持ちと、「神職者の身として放っては置けない」という気持ちがせめぎ合っているように見えた。
「その…、あの…、でも…」
「大丈夫ですから、私がついているので」
如月千草がそう言って、巫女さんよりも控えめな胸をどんっと叩いた。
丁度その時、背後から男の声がした。
「おや、如月の娘さんじゃないですか」
振り返ると、そこには、袴を着た男が立っていた。四十代くらいで、だんごっ鼻。目は眠っているかのように細く、口元に大きなほくろがある。
巫女さんが「あ…、神主様…」と言った。
如月千草は、「ああ…」と声を洩らすと、現れた神主さんに向かって片手を挙げた。
「どうも、お久しぶりです」
「お久しぶりです、如月の娘さん」
神主さんは、如月千草に向かって恭しく礼をした。
知り合いなのか?
見れば、巫女さんもきょとんとした目をしていた。
「おい、如月、知り合いなのか?」
「あ、うん。そんなものだね」
如月千草は、神主さんの方を見たまま、曖昧な返事をした。
神主さんは「いやあ、お久しぶりですなあ」と、間延びした声で言い、脂っぽい頬を撫でた。
「前に来たのが、いつでしたっけ?」
「ええと、二年前だね」
「もうそんなに経つんですか? ってことは、もう成人したんですか?」
「そうだね、だから、今は大学に…」
「大学ですか、綺麗になられて」
神主さんは大人らしく、余裕を持った声をしていた。
「御父様の仕事は継ぐんですか?」
「いや…、どうだろう? まだちょっとわからないや」
「そうですか。継いでくださったら、御父様もきっと喜ぶでしょうね」
「さあね? 喜ぶのやらどうやら?」
如月千草と、この神社の神主さんは、そうやって、身の上話を続けた。
忘れ物にされた僕と巫女さんがぼーっとしていると、神主さんが「あ、そうだ」と手を叩いて僕の方を見る。そして、険しい顔をした。
「とんでもないものに取り憑かれてますね」
「あ、はい」
この人も見える人か。
こう言う顔をされるのはもう慣れっこだった。神社や寺に行くと、大抵の人が、眉間に皺をよせて、唇を一文字に結びながら僕のことを見に来る。そして、僕の背後の存在に気付く。
これを祓おうとするか、放っておくかで、その人の賢さがわかった。当然、賢いのは後者だった。
「うーん…」
神主さんは数十秒唸り、僕の背後の「何か」を睨み続けた。
巫女さんが、「どうですか?」と聞いたが、答えなかった。
さらに十秒考えた後、神主さんは絞り出した。
「これは…、我々の手には負えませんね…」
「そうでしょう?」
如月千草がため息混じりに言った。
「私も何度か試したんだけど、びくともしないのよ、コイツ」
「千草さんでも通用しなかったんですか? それは…、流石に…」
「彼、他の神主や法師のところにも行ったらしいけど…、みんな無理だったらしいの。だから、試しに、『神様』の力を利用してみようと思ったんだけど…、あんまり効果は無かったね。ちょっとおとなしくなる感じ」
如月千草がははっと笑うと、ショルダーバッグに入れていたペットボトルを取り出し、中の霊水をシャカシャカと振った。
神主さんは、それを見て少し嬉しそうな顔をした。
「ああ、うちの霊水ですか。御神体の山から湧き出ているので、私よりも効果はありそうですね」
如月千草は、さらにショルダーバッグから観光パンフレットを取り出し、地図を広げて神主さんに見せた。
「ほら、これ…、他にもパワースポットを回ろうと思っているんだけど…、何処が良いと思う? 流石に、一日じゃ回れないから」
「そうですね…、こことかいいんじゃないですか? 坂を下ったところにバス停があるので、それに乗って行けば、十分くらいで着くことができますよ? ああでも、道がちょっと険しいので、その格好じゃ、怪我をするかも…」
「まあ、険しい道には慣れてるからね。父さんとの修行でよく歩いたから」
「ああ、そうですか。それなら安心ですね」
「うん」
神主さんは、僕と如月千草に「ちょっと待っててくださいね」と言うと、本殿の方へと走っていった。その間に、僕は無病息災のお守りを、彼女は学業のお守りを巫女さんから買った。お守りを受け渡すとき、巫女さんの手は震えていた。よっぽど僕の背中の『何か』が怖いのだろう。
本殿の方へと行っていた神主さんが、砂利を踏み鳴らしながら戻ってきた。
「千草さん、気休めになればいいですが…、これをどうぞ」
そう言って、五枚の護符を渡される。
如月千草は苦笑しながらそれを受け取った。
「悪いね」
「いえ…、人を助けるのが、我々の仕事ですから」
「うん、ありがたく受け取っておくよ。一応、私も札の囃し方は知ってるから」
札を観光パンフレットに挟み込むと、彼女は優しくショルダーバッグに仕舞いこんだ。
僕の方を振り返り、優しく微笑む。
「じゃあ、次に行こうか」
「あ、うん」
帰りに、参道の端に立ち並んだ出店を冷やかしで見て回ったが、特にこれと言ったものは無かった。
何も買わず、神社を後にする。
アスファルトで舗装された山道を歩きながら、僕は如月千草に先ほどのことを聞いた。
「前の神社もそうだけど…、如月って、なんかこう…、顔が広いな」
「そこまでも無いけどね」
彼女はそっけなく返事をし、ショルダーバッグからコンビニで買った霙飴を取り出し、コロンと舐めた。僕の方にも、一つイチゴ味を寄越してくる。
僕は飴を口に放り込み、もごもごとしながら続けた。
「如月の家って、なんなの?」
「会話で察してよ」
如月千草の声は、何処か突き放す感じだった。
落石だろうか? 彼女は、道端に落ちていたごろっとした石ころを厚底のサンダルで蹴飛ばした。石は地面を転がり、ガードレールの向こうの茂みに消えた。遅れて、バサバサッ! と雀のような小さな鳥が飛び立つ。
「あーあ、やっぱり気づかれたか…」
「気づかれたかって…、あの神主さんにばれたくなかったの?」
「まあ、そんな感じ」
如月千草は気まずそうな顔をして、後頭部をポリポリと掻いた。
「この神社…、効果はあるんだけどねえ…、神主さんが礼節を大切にする人だから…、出くわすと絶対に話し込んじゃうのよ。あー、めんどくさいめんどくさい、私が人見知りだって知らないのかな? まあ、知らないか…」
話し込むってほどの長さでも無かったけどな。
如月千草は「まあいいか…」と言うと、ショルダーバッグを上からぽんぽんと叩いた。
「護符をもらえたからね。嫌な思いをして出くわした甲斐があったもんだ」
「その護符って、使えるの?」
「リッカ君の部屋に貼ってあるやつよりはよっぽど効果があるよ? 何せ、神聖な霊水を使って擦った墨汁を使ってるからね」
「そうなんだ…」
僕がそう相槌を打つと、如月千草は我に返ったように、はっとした顔になった。
さっきの出来事を忘れるかのように、髪の毛を振り乱して首を横に振る。そして、いつもの快活な顔になると僕に微笑んだ。
「ま、そういうわけよ」
どういうわけだ?
疑問を残したまま、僕たちはバス停に着いた。神主さんは「徒歩十分」と言っていたが、実際はニ十分くらい歩いた気がする。まあ、十分程度の誤差は切り捨ててやるか。
近くにあった自販機で水を買い、ベンチに座ってちびちびと飲んでいると、坂道の向こうから市内バスが走ってきて僕たちの前に停車した。
「よし、行こうか」
「うん」
観光客らしき人たちが降りるのを待ってから、僕たちはバスに乗り込んだ。一応運転手に、「このバスは石野宮神社に行きますか?」と尋ねた、いかつい顔の運転手だったが、「はい、行きますよ」と穏やかに言われた。
バスの一番後ろに隣り合った座る。
僕は座席シートに背をもたれ、人がいないことをいいことに、脚をだらんと投げだした。
「歩き疲れた…。もう無理」
「まだ一件目でしょうが。この時間帯なら、あと三件は回れるけど? どこも山の中にあるから、結構歩かないとダメだよ?」
「それをさ、先に言ってくれよ。アパートを出る前にさ」
僕はパンパンに腫れたふくらはぎを親指で揉んで、気休め程度にほぐした。
如月千草は呆れたようにため息をついた。
「もう少し頑張れるものだと思ってた」
「逆に、如月が強すぎなんだよ」
僕は如月千草の顔を覗き込んだ。彼女の顔は、白くふっくらとしていて、まだまだ余裕って感じが滲み出ている。
「何か運動でもしてたの?」
「いや、運動は特に」
彼女は頬をぴくっと動かしてから、首を横に振った。
「霊力がある身…、神社に行く機会が多かったから…、自然と入り組んだ地形には強くなったの」
「へえ、羨ましいや」
僕はなぞるように言った。
アスファルトで舗装されているとは言え、山道には細かな落石や枝葉が落ちていて、それを踏むたびに、バスの大きな車体が揺れた。
その拍子に、僕と如月千草の肩が触れ合う。彼女ははなんてことないように、「あ、ごめん」と言ったが、僕はあの時の「除霊」が思い起こされ、一人で勝手に赤面した。
それがばれないように、右手で顔を抑え、下を向く。
僕がよっぽど疲れているように見えたのか、彼女は本気で心配した声をあげた。
「あの…、本当にきついの? なんかごめん…、もう旅館行く?」
「いや…、いい…」
僕は彼女の方を見なかった。
「せっかくなんだ、行けるところまで行こう」
「そう…」
それに、旅館に行くにはまだ早い時間…。
「って、え?」
僕はゆでだこのようになった顔を、如月千草の方に向けた。
彼女は面食らったような顔になり、「なに顔赤くしてんの?」と言った。そんなことはどうでもよくて…。
「え、旅館に行くの?」
あの後、僕と如月千草は、二つの神社を回った。
一つ目の神社は、「石野宮神社」と言って、如月千草が言うには、石の神が祀られているところだった。急な坂を登ったところに艶やかに研磨された鳥居を潜り、空が透けるくらいに磨かれた石畳を進んだ場所に本殿がある。本殿の前に置かれた賽銭箱も石でできていて、空の光を反射して重厚に光っていた。
お参りを済ませると、そのまま神社を外れたところにある山道を通って、パワースポットに向かおうとしたのだが、邪気を察知した神主さんに見つかってしまった。
案の定、そこの神主と如月千草は知り合いだった。
二人は、「千草さんじゃありませんか! どうしたんですか?」「いやあ、この男の子の背後にいる奴をなんとかしようと思って」「ほう、それは素晴らしい心がけですね。御父様を喜びますよ」と、テンプレのような会話をしていた。会話がひと段落すると、僕たちは神主さんに案内されて、パワースポットに向かった。
そこには、大きな岩があった。伝承によると、この山に住み着く神様が、崖を削ってここに運んできたものらしい。岩には、神様の霊力が宿っているので、これを削って、お守り代わりに持っておく人が多いという。
僕は神主さんからノミを借りて岩を叩くと、岩はゴルフボールくらいの大きさにころっと割れた。神主さんは、「これを肌身離さず持っておきなさい」と言って、首に掛けれる麻布の袋をくれた。それに削れた岩を入れて、首に掛けた。
次に向かったのは、「宵之神社」。色々すごい神様が祀られているらしい。とにかく急な階段を登って…、お参りをして…、で、僕の邪気を察知した神主さんに見つかって…、如月千草と知り合いで…、後のことはもうデジャブのようだった。
三つの神社で、お守り、護符、霊水、霊石を手に入れた僕たちは、そのままの足で、彼女が予約した旅館へと向かった。
そして、今に至る。
「リッカくーん、どう? お湯の具合は?」
「いや、まあ…、うん、悪くないよ」
露天風呂の、頼りない竹組みの壁の向こうから、如月千草の面白がった声が聞こえた。
僕は白く濁った湯船に首まで漬かったまま返事をする。だが、壁の向こうに、裸の如月千草がいると思うと、気恥ずかしさが勝って声が出なかった。
壁の向こうで、如月千草が大声を出す。
「ちょっと! 何言ってんの? 聞こえないんだけど! のぼせちゃった?」
「いや…、のぼせてないけどさ…」
「ここのお湯、いいでしょ? 私も、この町に来たときは、必ず入るようにしてるの!」
バシャッ! と、湯を掻く音がした。
僕も彼女の真似をして、指で湯を払ってみる。白い湯が、空中に華を咲かせるようにして飛び散った。
「………」
この旅館に入る前、僕は如月千草にごねた。「旅館じゃなくていいよ、安いビジネスホテルにでも泊まろう」と。某旅行サイトによると、一番安い部屋でも宿泊料は、僕が居酒屋で三日バイトしないと払えない額だったのだ。
そんな高い部屋には泊まれない。
だが、如月千草は「平気平気」と楽観的に言って、旅館の暖簾を潜った。
「あいつ、すげえな…」
ごつごつとした岩にもたれかかり、僕は壁の向こうの彼女に感心した。
ほんと、あいつ何者なんだ?
思い出すのは、旅館に入った時。女将さんがパタパタとやってきて、「ああ、如月のお嬢さん、今日はよおお越しくださいました」と言ったのだ。そして、、格安…、いや、ほとんどタダ同然の額で、一番高い部屋に泊めてくれることになった。
「…、いや、すごいわ」
僕は一人呟くと、湯の中で腕と足を伸ばした。
湯の温度は丁度いい温さで、長く入っていてものぼせそうに無い。程よく温められている感覚が、疲れ切った筋肉にはよく効いた。
岩の露天風呂の周りには、松や枯山水など、普段ではお目にかかれない、古き良き日本の荘厳な光景が広がっていた。これで入ってきた客の目を癒すらしいが、庶民の僕には眩しすぎた。「金」ってやつに睨まれているようで落ち着かない。
綺麗な光景、そして、壁の向こうにいる如月千草を意識して、もじもじしながら、湯の中でふくらはぎを揉んでいると、如月千草の声がした。
「どう? 疲れ、取れた?」
「まあ、マシになったよ」
僕は少し声を張って答えた。如月千草は「ね? いいでしょ?」と得意げに言った。
「霊泉なんだ。だから、大抵の悪霊は湯に浸かるだけで浄化される」
「で、僕の背後にいる『コイツ』はどうなんだ?」
「うーん、ダメだね。壁から身を乗り出して、私の方を睨んでる。こいつ、見かけに寄らずにえっちいね」
なに? 『何か』が、如月千草の裸を見ているだと? そんなの羨ましい…、じゃなくて、許せん。
「おいこら」
僕は露天風呂の「霊泉」とやらを両手で掬うと、背後の虚空に向かった引っ掻けた。
バチンッ! と、電撃が走るような音がして、湯が空気中で水蒸気に変わった。
「………」
「あんまり刺激しない方がいいよ~、確かに、今の奴でおとなしくなったけど、除霊できるほどの力じゃないし…」
壁の向こうで、如月千草が言った。ため息に混じって、「あーあ、この温泉もダメか…、そりゃそうか」と聞こえた。
こいつ、本気で僕の背後の『何か』を祓おうとしているのか?
僕は湯船から立ち上ると、竹の壁を見つめた。
丁度そのタイミングで、脱衣所に通じる扉がガラガラッ! と開き、白髪交じりのおじいさんが入ってきた。明らかに六十は超えているだろうに、背筋は柱のように伸び、湿った砂利の地面に踏み出す足も力強かった。こんな高級旅館に泊っているんだ。きっと、ただのジジイじゃないんだろうな。
おじいさんは、桶でかけ湯を済ませ、「御免なさいね」と一声掛けてから、白く濁った湯船にどぶらんと漬かった。
「……」
このおじいさんに、『何か』の影響を与えるわけにも行かないので、僕は壁の向こうの如月千草に一声かけた。
「如月! 僕はもう出るからな!」
「あ! 出るの? じゃあ、私も!」
壁の向こうで、ザバンッ! と湯が跳ねる音がする。
振り返ると、おじいさんが微笑んでいた。
「いいですね、彼女さんですか?」
「いや…、彼女というか…、恩人ですね」
「そうですか」
おじいさんが柔らかな笑みを浮かべる。
「恩人と呼べる方がいて羨ましいですよ。人との関りは、大切にしないといけませんね」
「…そうですね」
僕はおじいさんに頭を下げてから風呂を出た。
浴衣を着て、まだ湿っている髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、畳の上に布団が敷いてあった。机が端に避けられ、新しい茶菓子が用意してある。女中さんがやってくれたのだろう。
まだ眠る気分じゃないし…、それに、布団くらい自分で敷くのになあ。と思いながら、下駄を脱いで部屋に上がる。つい最近新しくしたのか、爽やかなイ草の香りが鼻を掠めた。
奥の障子が少し開いていて、その奥にある小さなスペース…、広縁って言うんだっけ? そこに置かれた竹の椅子に、浴衣を着た如月千草が腰を掛けていた。
「何やってんの?」
布団を跨いで、彼女のもとに歩み寄る。
如月千草は、頬を桜色に染めて振り返った。
「ほら、景色、綺麗だよ」
「あ…、ほんとだ」
窓から見える町は、藍色の闇が舞い降り、そこに光の粒をまぶしているようだった。ここに来たときは実感が無かったが、案外標高の高い場所に泊っているんだなと思う。
如月千草は、「写真撮らなきゃ…」と言って、足元に置いていたスマホを手に取り、窓に翳した。だが、光の調整がうまくいかず、撮れた写真の街並みはぼやけていた。
「ありゃ、ダメだ」
「夜景モードとか無いの?」
「最新機種じゃなからね」
彼女は残念そうに言うと、僕にスマホのレンズを向けた。
「はい、チーズ」
そう言われ、反射的に口角をにやっと上げた。
それを見た如月千草は、盛大に吹き出した。
「ちょっと、なに? その顔!」
「いや、ごめん…」
写真には慣れていないんだ。小学校五年の、あの事件があってからは。あれから何度も、クラスで色々な場所に出かけたが、なるべく写真に写らないようにした。
だから、笑顔のやりかたなんてわからなかった。
「で、どんなのが撮れたの?」
僕は如月千草のスマホを覗き込もうとした。
如月千草ははっとして、身を引く。
「ごめん…、うまく撮れなかった。その、『アレ』がね」
「あ、そう」
撮れた心霊写真を見せないのは、彼女なりの配慮だと思った。
如月千草は、スマホを操作して、さっき撮れた写真を消去すると、スマホに向かって何かを唱え、指で印を作って除霊をしていた。
「…スマホに、乗り移ったのか?」
「そんなものかな? 『そいつ』そのものは移ってはいないんだけど…、そいつの念が入った邪気がね。心霊写真を持っていたら危ないのって、そういうことなの」
「……」
不意に、五年生のことが頭を過った。
それを振り払うように、如月千草の声が耳に届く。
「そうだ、ちょっとそこに正座してみて」
「正座?」
「あ、柔らかいところがいいね、布団の方に行こうか」
「う、うん」
「エッチなこと考えちゃダメだからね?」
「考えてないから」
畳の部屋に戻ると、僕は柔らかい布団の上に正座をした。
如月千草の言ったとおりに、肩の力を抜き、彼女のお腹の方をぼーっと見つめる。
如月千草は、浴衣の内側に隠し持っていたペットボトルを取り出し、シャカシャカと振った。白く濁った液体…、それは、さっきの露天風呂の霊泉だった。
如月千草が浸かった、露天風呂の湯。
彼女はそれで指を湿らせると、いつものように、唱え言葉を発し、指で印を作った。そして、「はっ!」という掛け声と共に、僕の額に指を押し当てる。
バチンッ!
と、目の前で火花のようなものが弾けた。
僕は「うわっ!」と悲鳴を上げ、何か強い力に突き飛ばされたように、布団の上に背中を打ち付けた。
「……」
まだ頭がひりひりしてる。
「…どうだった?」
「ダメね、反撃喰らっちゃった」
如月千草は残念そうに言うと、僕の額を突いた右手の指を、左手で抑えた。
「ごめん…、ちょっと、私の鞄から絆創膏とってくれない? さっきので…、爪をやられた」
「え…?」
彼女の手を覗き込んで、背筋に冷たいものが走った。
如月千草の人差し指と、中指が真っ赤に染まっていたのだ。それが鮮血であると理解するのに、一秒とかからなかった。
流れ出した血が、みるみる彼女の左手に溜まっていく。
「お、おい…」
「早くしてよ…、痛いんだから…。あと、布団に落ちたらダメでしょうが」
「あ、わかった」
僕は蹴り飛ばされたように、部屋の隅に置いていた彼女のショルダーバッグに駆け寄り、開けた。中には、神社でもらったお守りやら護符やらが入っている。
「え、ええと…、どれ?」
「内側のポケットに、ポーチが入ってると思う…」
「これ?」
「あ、違う…、それはナプキン…、逆側に無い? ピンク色のやつ」
「あ、あった…」
僕は、バックの内ポケットから、ピンク色のポーチを抜いた。開けて確かめると、絆創膏や包帯、ガーゼが入っている。
それと、僕の鞄からタオルを取り出し、脂汗をかいている如月千草のもとに戻った。
流れ出た血はタオルで吸い取り、傷口にガーゼを押し当てて止血した後、剥がれた爪と一緒に絆創膏を巻き付けた。
如月千草は「ありがとね」と言うと、布団の上に腰を落ち着かせた。
「いやあ、ちょっと焦った」
そう明らかに動揺した顔で言って、指を閉じたり開いたりする。
「おい、大丈夫なの?」
「大丈夫よお。油断した私が悪い!」
如月千草は明るい表情を作った。
「私の霊力と、ここの温泉の霊力を合わせれば、何とかなるんじゃいかって思ったけど…、うーん、ダメね。ちょっと深入りし過ぎた」
「深入りって…」
「リッカ君の後ろの『何か』が、怒ったのよ。まさか、霊力を封じて、呪力を返してくるとは思わなかった…」
呪力を返してきたって…、つまりは、「呪われそうになった」ってことだろう?
僕はたちまち嫌な汗をかいて、如月千草に詰め寄った。
「おい! 大丈夫なんだろうな? 如月…、死んだりしないだろうな?」
「しないよ…。身体に流れ込みそうになった呪力は、咄嗟に浄化したし」
「でも…」
心配だった。
僕の心を読んだように、如月千草はふふっと微笑んだ。
「私のこと、心配してくれたの?」
「当たり前だろう!」
僕は思わず声を荒げた。
「今まで、色々な人が…、僕のために動いてくれたんだ! 僕のこの『何か』を祓おうと、賢明に努力してくれた…! だけど、みんな返り討ちにあったんだ!」
感情の爆発が、富士山の噴火みたいに唐突に訪れる。
潤んだ視界に、今まで僕のために動いて、不幸な目に遭っていった者たちの顔が浮かぶ。事故に遭った者、病気になった者、家族の誰かを亡くした者、突然、首を吊った者。
「そう言うのは、もう見たくないんだよ!」
思わず、如月千草の華奢な肩を掴み、上下に揺さぶった。
「僕はお前のことを信用しているんだ! だって、お前が『大丈夫』って言うから! 大丈夫なのか? 大丈夫なんだろうな! もし、お前が死にそうになったら、僕はすぐにお前の元から離れるぞ!」
「馬鹿ねぇ、取り乱し過ぎ」
荒ぶる僕とは対照的に、如月千草は平和っぽい笑みを浮かべ、僕の額を小突いた。
「大丈夫って言ったでしょ? 私、天才なんだから」
「天才って…」
何言ってんだ?
彼女の間延びした声に、高ぶった感情が、一瞬にして鎮まる。
「あ…」
如月千草の肩に指が食い込んでいたことに気づき、さっと手を引いた。そして、気恥ずかしさから、何事も無かったかのように、そそくさとその場の救急セットを片づける。
如月千草は乱れた浴衣を、怪我をしていない左手で直しながら言った。
「ごめん、私の方も、ちょっとやり過ぎた。こういうのって、慎重にやらないとダメなの。だから、反撃喰らううのは自明の理だね。次はうまくやるね」
「そうだな…」
いまいちぴんと来なかったが、僕は頷いた。
如月千草は布団の上に仰向けになると、両手足を投げだした。
「ふへえ、疲れた! 今日はここまでだね! 続きは明日! 明日やろうは馬鹿野郎!」
「うん…」
曖昧に返事した後、絆創膏が入っていたポーチをもどすべく、彼女の鞄に近づいた。
しゃがみ込み、ファスナーを開ける。内側のポケットにポーチを押し込んだ時…、僕の指先に静電気のようなものが走った。
「え…」
如月千草には聞こえない声が出る。
そこで何もせずに、そのままファスナーを閉めていればよかったものを、僕はポケットの中で指を這わせ、奥に入っていた何かを掴んだ。すると、また指先に痺れるような痛みが走る。
まるで、湯の中から何かを取り出すように、それを引っ張り出す。
「……」
なんてことない。それはただの護符だった。だが、今日行った三つの神社でもらったものとは違う。蚯蚓が這ったような文字の上に、何か、家紋のような朱印がされていた。
何だろう…?
気にはなったものの、女の子の鞄の中をこれ以上漁るわけには行かず、僕は護符をそっとポケットの奥に押し込んだ。
ファスナーを閉め、振り返る。
如月千草は「ふかふか~」と言いながら、二つ並んだ布団の上を転がっていた。おかげで、僕の陣地までもがぐちゃぐちゃになっている。
僕はため息をつくと、端にあったテーブルに行き、備え付けてあった急須で茶を淹れた。
如月千草がばっと身体を起こす。
「あ! 私のも淹れて!」
「はいはい」
僕は如月千草の分の茶も淹れた。
せっかくなので広縁に行き、置いてあった椅子に二人で向かい合って座った。
湯気の立つお茶と、この旅館の名物の饅頭で、寝る前のティータイムとする。
「カンパーイ」
「この状況に『乾杯』が似合うのかは甚だ疑問だな」
と言いながら、僕は如月千草と湯飲みを突き合せた。
ずずっ…と飲むと、舌先から喉の奥に掛けて、甘みが広がる。
「あ…、美味しい…」
「でしょ? この近くに、いいお茶っ葉畑があるんだよ。パワースポットめぐりとは関係無いけど…、明日、一緒に行ってみる?」
「ほんと、よく知っているよな」
彼女の提案を無視して、僕は饅頭を齧った。甘い。
「如月って、何者?」
単刀直入の質問。
如月千草は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「やだなあ、しがない大学生ですよ」
「って言う割には、霊力高いし、神社の人と知り合いだったりするんだよな」
「あはははは…」
如月千草はテーブルの上に湯飲みを置き、気まずそうに頭を掻いた。
何となく彼女の正体はわかっていたが、追及して欲しくないような雰囲気を漂わせているので、あえてそれ以上聞かなかった。
代わりに、僕は夜景を横目に、自分の半生を語った。
「こういうのって…、久しぶりだな」
「どういうこと?」
「いや…、こうやって、誰かと一緒に、遠くを訪れて、色々楽しむこと」
「よかった、嬉しい」
「うん、楽しかったよ」
湯飲みの中の、若葉色の液体がとぷんと揺れた。
「最期の思い出は、小学校の林間学校だったな。あれは楽しかった…。みんなでカレーライス作ったり…、カヌーを漕いだり…、ウォークラリーしたり…。だけど…、帰ったら僕の写真全部にあの黒い影が写っているんだよ。最初は、怖いけど面白かった。自虐ネタにもできたからね。だけど…、人が死んでからは、何もかも変わった。不思議だよな…、あれだけ仲良かったはずなのに、少しずつ、少しずつ、みんなが僕を見る目に『恐怖』が宿っていくんだよ。稚魚から育てた金魚みたいにさ…、一気にじゃない。少しずつ…、毎日見ていないと気づかない小さな変化だった。放課後一緒に遊んでくれた友達は、休み時間しか遊んでくれなくなった。しばらくすると、休み時間も遊んでくれなくなって…、授業中に話かけても、返してくれなくなったね。僕はムキになって、何回も話しかけるんだ、そうしたら、泣きそうな顔で振り返る。その顔がね、訴えているんだよ、『関わらないでくれ』って。そんな顔されたら、僕も身を引かずにはいられないだろう?」
甘い茶を飲み、口を湿らせる。
「歳を重ねるごとに…、僕は孤立していった…。時々、変な輩に絡まれることはあったけど、ほとんど虐められなかった。もう、みんなが僕を怖がっているんだ…。僕が歩けば誰かが泣きだすってくらいに…」
僕は湯飲みを置くと、指を折った。
「ざっと数えて、五十人だ。僕に関わったばかりに、五十人が不幸になった。そのうち、八人は死んだ。そのうち五人は、僕が死体を発見した…」
思わず笑みが零れた。
「まるでさ…、ちょっと触ったら崩れる砂のお城を弄っているみたいなんだよ。『僕が何かをすれば、誰かが不幸になるかもしれない』って感情が常に、心臓のこびり付いているみたいなんだ。だから、何をするにしても、心の底から楽しめなかった。修学旅行に行っても…、なるべく班の人間とは離れて行動した。写真を撮るときも、うまく対処したよ…。みんな僕の噂は知っているから、すごくホッとした顔をしてたね…。ほんと…、人に気遣う毎日だった」
饅頭を齧る。
そして、僕の話をじっと聞いてくれる如月千草の顔を見た。
「なあ、如月…。お前はまだ、僕のことを詳しく知らないだろう? 何が好きか…、とか、どんなものを食べるとか…、どんな人間かとか」
「そうだね」
「僕はね…、『いいやつ』なんだ」
自分で言うと、滑稽だった。
「これは自己評価じゃないよ。他者の評価だ。みんな僕から離れるときに、口々に言うんだ。『お前はいいやつだ。いいやつなのはわかる。だけど…、お前はこれ以上人と関わらない方がいい』って」
つい最近は、バイト先の同僚と、アパートの隣のお姉さんに言われたな。
「まあ、僕の恨みを買わないための口実かもしれないけどね…」
「いや、リッカ君は優しいね」
如月千草はそう言った。
「別に…、気を使わなくてもいいぞ」
「いいや、優しい!」
彼女は謎の自信を持ってそう宣言した。
あまりにもはっきり言われたために、僕は浴衣を着た胸の辺りがむず痒くなる。
「…なんでだよ」
「だって、人に気を使って生きてきたんでしょ?」
「いや…」
思わず目を背ける。
「嫌いだよ…、そう言う考え。『人に気を使う』イコール『優しい』だなんて…。単に、『人を傷つけるのが怖い』だけだよ。それに…、人に気を使った覚えなんて無いよ。その証拠に、僕は他県の大学を選んで進学して…、この悪霊の呪いを広めたんだ…。これの何処が優しいんだよ。自分のことしか考えていない馬鹿だろうが」
「人として生きようとするのは良いことだよ」
如月千草はそう言った。
「時には、自分の意思を貫くことも大事ってことだよね」
「なんだ…、都合のいい頭だな」
「ううん、大事なことなんだ…」
彼女は念を押すように言った。その目は、僕を見ず、膝の辺りを見ていた。
僕は思わず、意地悪な質問をした。
「如月は…、将来、何になりたいの?」
「え…」
如月が僕を見る。くりっとした目に、桜色の頬。ぽかんと開いた口が、可愛らしいと思った。
「如月には、夢があるのか?」
「いや…、その…」
途端に歯切れが悪くなる。
「まあ、無いことはないよ?」
「教えてくれよ。如月が良いのなら」
「いや…、くだらない夢だよ」
「くだらないかどうかは、僕が決める」
「あのねえ…」
如月は逃げ場を失くしたようにうなだれた。
少し間を置いて、彼女は言った。
「その…、『普通に生きたい』の…」
「普通?」
「リッカ君の考えと似ているのかもね…、悪霊にも何にも縛られずに、悠々と生きていきたいの」
「そう…」
何と返せばいいのか、わからなかった。
変な沈黙が部屋を包み込む。
如月千草は、「ああ、もう、変な空気になっちゃった」とわざとらしく言うと、まだ熱い茶をぐいっと飲みほした。
椅子から立ち上がり、伸びをする。
「そろそろ寝ようよ。明日も歩かないとダメだし」
「……うん、そうだな」
歯を磨いてから、僕たちは布団に入った。
部屋の灯りを落としてもすぐには眠れなかったので、備え付けのテレビを付けて、クイズ番組を眠る前のBGM代わりにした。
淡く光るテレビの液晶を眺めながら、如月千草が言った。
「あの人…、憑かれてるね」
「え…」
「ほら、司会者…。女の霊が憑いてる。すごく恨んでるね…。早めに対処しないと…大変なことになる…」
「そう…。僕のやつと比べたら?」
「…月と鼈」
僕の背後にいる『何か』が、RPGの裏ラスボスだとしたら、その司会者に憑いている霊は中ボスらしい。
瞼が重くなった。
隣を見れば、如月千草も目をとろんとさせている。
僕はおぼつかない声で聞いた。
「指…、大丈夫?」
「大丈夫」
布団の中から、彼女の手が伸びてきて、僕の目の前にぽんっと置かれた。
どういう意図でそうしたのかはわからない。どうすればいいのかわからなかった僕は、とりあえず、自分の手を、彼女の手の上に重ねていた。指を這わせ、絆創膏が貼られた爪の辺りに触れる。
彼女はびくっと肩を震わせた。
「痛いの?」
「まあね」
「ごめん」
テレビから発せられる音がはっきりとしなくなった。
瞼がずっしりと重くなり、僕は抗わずに目を閉じた。思考が鈍る。泥に沈むみたいに、感覚が消え失せる。
重ね合わせた手を離さないまま、僕と彼女は夢の中に吸い込まれていった。